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男の伝言板 アーカイブ

2011年9月22日

男の伝言板

最近、「大人の流儀」(伊集院静)「男の作法」(池波正太郎)「男の心得」(佐藤隆介)というタイトル本の話を書いたが、これを合わせたような「大人の作法」(山本益博)「男の流儀」(諸井薫)もあるんですね。ただ「大人の心得」という名の本はなかった。

だから、このタイトルでシリーズ記事を書こうと思ったが、何となく上から目線のようでもあり、説教っぽくなることもあるし、これまで生きてきたなかで、ずいぶんと“心得違い“なことを多く重ねた身にとっては恥ずかしいということもある。というわけでそのタイトルはやめて「男の伝言板」ということで書いていこうと思う。

昔は駅に行くと必ず伝言板というものがあって、待ち合わせなどで利用したものである。今は、携帯電話というものを誰でも持つようになって消えてしまった。だから今の子どもたちは知らないと思うが、伝言板は「○○ちゃん、待ったけど来なかったので先にいった」とか「急用ができて行かれなくなった。○○より」とかいった文言が書かれていた。

伝言が必ず読まれるという保証はないので、誰にも見られることなく消されることもあるのだが、でも書いておきたいという気持ちが伝わって、全然知らない人のほのぼのとした伝言に思わず微笑んでみたりといった風情を感じたものであった。今の人には理解できないプリミティブなコミュニケーション手段である。

で、これから書いていこうというのはぼくが今まで生きてきた中で出会ったことややってきたことなどを、それこそ読みたい人だけ読んでくれという感じで書き流しておこうというものである。だから「伝言板」なのである。以前からこのブログはある種の遺言であると宣言しているが、改まって書くのではなく、それこそ伝言板に書くように書いておきたいということだ。ただし、駅の伝言板と違うのは、消さないということである。(ついちょっと前のトラブルのように、消すつもりがなくても消えてしまうこともあるのだが)

非常にプライベートなことなので、他人にとってはどうでもいいことであり、つまらないことでしょうが、自分の時は、自分の場合は、自分のところではといった見方で比較しみるのも一興かと思います。さて、どうなるでしょうか。

2011年9月28日

男の伝言板 - 先生(1)

さて、「男の伝言板」シリーズの最初の伝言は「先生」についてである。誰もが先生に教わったことがあるだろうし、中には自分が先生になった人もいるだろう。ここでは。ぼくが出会った先生について書く。先生と言っても、代議士先生やお医者さんといった人たち(ぼくでも中国に行った時は先生である)ではなく、学校の先生のことである。

ぼくには幼稚園から大学までそれぞれの段階でひとりずつ大変に影響を受けた先生がいた。順番に追いながら話していこうと思う。まずは、幼稚園であるが、そんな小さい時のことを覚えているのかと言われるが、かなり記憶に残っている。ぼくは3年保育だったので、3歳で初めて登園するとき姉にしがみついて嫌がったのも覚えている。

その時に面倒を見てくれた栄子先生が忘れられない。いまだにご健在でこの間かかりつけの医者でばったり会った。ぼくが教えられたのは連帯責任ということだ。友だち数人と遊んでいて、その中誰かがいたずらをして(何をしたかは覚えていない)ひどく怒られたのだが、その時、一緒に遊んでいたぼくらも同時に倉庫に閉じ込められたのである。

ぼくは何もしていないのになぜだという思いでくやしかったのだが、あとで考えたらあのときなぜ止めなかったのかという責めを無言のなかで教えてくれたのだ。5歳の子でもその意味はわかった。いまだに閉じ込められた倉庫の暗さと塀の高さが残像としてあるが、だいぶ大きくなって幼稚園にいてみたらなんだこんな小さいところだったのだと驚いた。

小学校は何といっても、2年から4年までの担任であったK先生である。まだ20代の若さで理科の先生であったので、野外活動とかでしょっちゅう植物採集やら化石発掘、日食観察といったことをやった。そのおかげでぼくはすっかり理科少年になったというわけである。いまだに姉に言われるのだが、お前はいつもじゃばら折りになった牧野富太郎の植物図鑑を片手に道端の草を観察していたねと言われる。

4年生になったあるとき先生が「おまえたちテレビにでるぞ」と言われてみんな唖然とした。だって、ぼくの家にテレビがきたのが4年生のときだから、まだまだ自分の家にテレビがない子もいたから、テレビに出ることがどういうことかよく分からなのである。

K先生の学生時代の友だちがNHKにいて、その人からの出演依頼なのだという。「はてな劇場」という始まったばかりの教育チャネルの番組である。一クラス分の子どもたちを並べて、理科の問題を出して、それに答えるというもので、司会がなんと黒柳徹子であった。そこで出された問題はいまだに覚えている。

最初は蛙の絵を見せてこれは何という蛙かを答えるもので、さっとみんなが手をあげた。田舎者にとっては簡単な問題だ。清水君が「トノサマガエル」と答えて、黒柳徹子が「正解」と言った。ところが次の問題が難しい。今でいうジェットコースターのような仕組みが出てきてそこにビー玉を転がして、坂を転がるとだんだん早くなるのを何というのかみたいな問題である。こりゃあ、田舎者にはわからない、全員下を向いてだんまりを決め込む。この時は、付き添ってきた先生もはらはらだったようで、答えは加速度である。

そんな先生が大好きだったが、さらにぼくに教えてくれたのは弱者に対するやさしさだった。あるとき同じクラスにM君という転校生がやってきた。学校からだいぶ離れた山の中の一軒家だがそこに父親と二人で住むようになったためにぼくらの学校に来たのだ。ところが、その子が今で言うところの登校拒否児童であった。

どうも複雑な家庭事情であるらしく、家に閉じこもってしまう。そこで先生はクラスのみんなに順番にその子の家に給食のパンを届けに行かせたのである。誰もいなくて玄関に置いて行くだけの時もあったり、いても一言も話さなかったりということを繰り返すうちに徐々にうち解けていき、そのうち登校してくるようになったのである。

このことはぼくには印象深いこととして残っているのだが、実はその反対に近いようなことも味わったのである。あるときアンケートみたいなことをやった。いくつかの質問に答えるのだが、その中に「あなたがきらいな子はだれ」というのがあった。いま考えると恐ろしい質問だが、名前を書くべきか、書かざるべきかすごく悩んだ結果、ある子の名前を書いてしまったのである。

その子は、ガキ大将だとかいじめっ子ではない。逆で、ぼくが何か言ってもだまってたり、グズグズ、ウジウジしていてしっかりしろよと言いたくなるような子だった。だから、もっとビシッっとしろよという気持ちを込めて“きらい“と言ってしまったのだ。そのことをずっと引きづっている。お前の弱者に対するやさしさって何だったのかというのと、かわいそうだという強者の論理もいやだなあという葛藤である。結局、目線を下げたやさしさを持とうと思ったのである。

K先生のところには、卒業してからも時々先生の自宅にお邪魔をした。ぼくらが卒業してすぐにわれらのあこがれだった保健室のS先生と結婚していて、家が海の近くだったので浜で遊んでから風呂に入れてもらい、そのあといつもカレーライスをごちそうになった。当時はなにかあるとカレーライスである。その味がいまだに忘れられない。
  

2011年10月 5日

男の伝言板 - 先生(2)

中学校の時に大きな影響を受けたのは、2、3年の担任だったM先生だ。女の国語の先生で、バスケット部の顧問だった。何というか、凛とした感じで男っぽくもあった先生らしい先生であった。だからぼくはいつも先生の前ではシャキっとしたものだ。

ただ、ぼくは通うのに時間がかかったので(これは言い訳)、遅刻の常習犯であった。ホームルームがあるときはいつもM先生がこそっと教室に入るぼくをにらみつける。そして怒られるのだがこれがなかなか改まらない。その時だけシャキッとするのだが、またもどるので先生も呆れたと思う。

先生に教えられたことで、印象に残っているのは、自主性ということだ。自分の頭で考え、自分の思うように行動しなさいというようなことを、別段はっきりと言われたわけではないが、そう仕向けてくれた。例えば、体育祭などの行事にしても、みな生徒が全部自主的にやった。自ずと役割が決まり、それぞれがその役割をはたすべく動き、それを周りがサポートするということを知らず知らずにやらされていた。

M先生もぼくが卒業するとすぐに同じ中学のサッカー部の顧問でぼくを教えてくれたH先生と結婚してしまった。これにも驚いたが、ぼくらがキューピットみたいなところもあって、一度新婚のお宅へお邪魔した。たぶん、その時はカレーは出なかったと思う。

ぼくはサッカーを中学3年から始めた。家が遠いこともあって、部活は難しかったが、同級のS君が2軍の試合でメンバーが足りないから来てくれと言われて参加したら、それから部員になってしまった。それで、高校進学したら、サッカー部から誘いがきたのである。今の高校ではみな中学でサッカー経験がある子ばかりだろうが、当時はあまりいなくて、同期でも中途半端なぼくを入れてたったの3人であった。

で次に高校時代の先生はサッカー部の顧問だったS先生である。ぼくらの高校は文武両道が伝統ではあったが、サッカー部はけっこう強かったので、練習もきつく武の方に偏った生活であった。だから、S先生とはいつも指導を受けるという濃い毎日を送ったのである。

先生は、ぼくらが入学したとき30歳になったくらいだったので、ぼくらと一緒にグランドを走り回り、それは元気でした。教育大(今の筑波大)の名選手だったキャリアだから、いろいろなことを教わった。サッカーに関しては、素人のような生徒で、経験者ばかりの他のサッカーの強い学校に勝つにはどうしたらいいのかをよく研究されていた。

そこは、文武両道だから頭を使えということにつきる。力と力の勝負では勝てないから、個よりも組織、技術よりもひたむきさ、足の速さよりも判断の速さといったような自分たちの実情にあった戦い方を模索したのである。その最も効果を発揮したのが、4-2-4フォーメーションの採択である。

当時はWMというフォーメーションが主流、というかこれしかなかったのだが、それを変えてしまったのだ。先生はヨーロッパサッカーの情報もちゃんと収集していたので、そこから得たのである。このフォーメーション変更が、ものの見事に決まったのが1966年の関東大会であった。何と予想もしていなかった優勝を成し遂げてしまった。

4-2-4とWMがぶつかるとどうなるのか、簡単に言うと相手のバックスはツートップをセンターハーフ一人で抑えなくてはいけなくなり、また相手センターフォワードはストッパーにマンツーマンで付かれ、それを振り切ったと思ったらスイーパーがいたということになるわけで、もう混乱するのである。当時は、センターハーフとセンターフォワードくらいしかすごい選手がいなかったからなおさらだ。

いまや、4-2-4というか4-2-3-1といった変形の方が多いかもしれないが、主流となったフォーメーションを45年も前にやっていたことに驚く。そんなわけで、S先生からは、頭を使い、知恵を出し、やるべきことができたらそれに真剣に立ち向かい全力を尽くすことを教わったのである。今も会うと昔と同じように指導してもらっている。

さて、最後は大学なのだが、正直言ってまじめな大学生ではなかったので師と仰ぐ先生はと問われると首をかしげてしまうのであるが、卒業論文を指導して下さったO先生である。もう亡くなられたのですが、当時ももうけっこうなお歳でべらんめー調のしゃべり方で恐いというイメージでした。

ぼくがなぜその先生の研究室に入ったかというと、3年生の時のO先生の授業でひどく怒られたことがきっかけである。ぼくはさっき言ったようになまくら学生だったから、その授業のときも雀荘にいるパターンが多かったが、あるとき友だちが雀荘に来てお前何やってんだよ、いまテストがあったんだぞと言ってきた。ありゃー、こりゃあまいったである。

そして、次の授業のとき先生は、成績の悪い奴を名指しし立たせたのである。もちろんぼくの名前も呼ばれ、もうこいつらは落第だと脅された。ところが、あとで成績表をみるとぎりぎりセーフではないか。というわけでとても簡単な理由で先生の部屋にいったのである。それから、ぼくが改心してまじめな学生になったかというと相変わらずひどい生活は変わることはなかった。しかし、そんなぼくをきつい言葉で叱り飛ばされながらもいつも目の奥で微笑んでくれたのである。この包むような暖かさを教えてもらったような気がする。
  

2011年10月15日

男の伝言板 - 師匠

学校を卒業して社会人になると、師は師でも教師とは言わず師匠となる。そして学校のように、先生がしょっちゅう変わるわけではないので、師と仰ぐような人はそう多くは現れないのである。そのかわり、会ったことも話をしたこともないような人とか、本や映像の中の人とかが対象になったりする。

ぼくが社会人になって現在まで、身近なところで師匠と呼ぶような人は3人いる。会社に入ってすぐの若い時に鍛えられた人、中堅になって一緒に仕事をしていろいろなことを教えられた人、ある程度の地位になってから親身になって助言をもらい助けられた人たちである。

実は、この三人のうち初めの2人は若くして病魔に侵され既に他界している。ぼくには、疾走して燃え尽きたようにも感じられ、ときどきあの頃全力で走る背中に必死でついていったなあという思いに駆られる。そういえば時代も高度経済成長期でもあって、とにかく前へ前へ進んでいたのだった。

ぼくは会社に入ってすぐに工場勤務となった。しかも、交替職場で文字通り油まみれになって働いた。だから周りはほとんど地元の工業高校を出た人たちだった。当時は今と違って、工業高校、商業高校をでて地元の有力企業に入るのが普通だったので、優秀な人たちが多かった。今の大学生なんかよりもよっぽど頭もよかったし、何よりも使命感に燃えていた。そういう人たちが、経済成長を支えたのである。

最初の師匠は、地元の学校ではないのだがやはり地方の工業高校を出て、出向で来ていた。ものすごいバイタリティであるが、激しさも持っていたので、それが故に敬遠された面もあったが、仕事ができるから結局は誰も文句は言えない。その頃は、ほとんど直接教えてくれなかったから、ぼくはそういう姿を見ながら自分で勉強するしかなかった。まともな、教育とか研修なんかなかったのだ。みなそうだった。

2番目の人は、現場から離れて管理部門にいったときのすぐ上の上司であった。この人は、ロジカルな思考と主張を教えてもらった。前述したように、工場は理屈どおりにはいかないことも多く、経験や勘にたよるようなところがあったが、理論的なアプローチを常に求められた。まあまあ適当には通じないのである。

だが、こうした態度は時として、因習的なこととか既成概念とかを守る人たちにとっては厄介なことになる。実際にも、その人は冷めしを食わされたのである。しかし、それだからといって信念を曲げたわけではなく、飛ばされたところで立派に実績をあげて再評価されたのである。がんばったこととそれを見ていた経営者は立派だと思ったのである。

最後の師匠は、会社の経営の人である。頭の切れる剣客商売の秋山小兵衛のような人とぼくは勝手に思っている。主にぼくが情報システム部門に移ってからの関係なのだが、その人はITに強いわけではないが、情報システム担当になったのでCIOだと自認していた。

包容力のある人で、いつもちゃんと話を聞いてくれるので、ぼくも包み隠さず何でも報告し、相談するような関係であった。ある大きなプロジェクトのサブリーダーにも指名してくれたし、重要な役割も与えてくれたのだが、うまく行かずに会社を辞める時ももちろんまずはその人に申し出た。そして、「わかった」という一言で退社することとなった。会社を辞めてからも何度かお会いして食事したりしている。

こうしてみてみると3人の共通点が浮かんでくる。それはわかりやすく言うと、「お前の自由にやっていいぞ、もし何かあったら責任はおれがとる」だと思う。ただ、自由にやっていいというのは、好き勝手にやっていいと言うことではなく、まあまあだいじょうぶそうだということを見極めているのである。その目利きができているひとを「師匠」と呼ぶのだろう。

そして、師匠に対する弟子の態度について、内田樹はこんなことを言っている。ぼくがずっと気を付けていたことでもある。

「学ぶ(ことができる)力」に必要なのは、この三つです。 第一に、「自分は学ばなければならない」という己の無知についての痛切な自覚があること。 第二に、「あ、この人が私の師だ」と直感できること。 第三に、その「師」を教える気にさせるひろびろとした開放性。 この三つの条件をひとことで言い表すと、「わたしは学びたいのです。先生、どうか教えてください」というセンテンスになります。
   うーん、ぼく自身は弟子に慣れても師匠にはなれないなあ。   


2011年10月22日

男の伝言板 - 感動したセミナー

それぞれ印象的で影響が強かった先生、師匠を3人ずつあげたので、次はこれまでに聞いたセミナーで感動した人を3人選んでみる。ぼくは、セミナーとかシンポジウムとかは出席しない方である。本当は世の中がどんな風に動いているのかをウオッチする意味でも定期的に聞きに行った方がいいのかもしれない。

ただ、わずかな時間で聞いただけで分かったような気になるのも浅薄に思え、また自分の聞きたい要件にぴったりしたものもないことからめったに行かないのである。それでも、長い間には、これはおもしろい、すごく感動した、とてもためになったというセミナーももちろんある。IT関連のセミナーがほとんどなので、そんな中から3つあげてみるが、結局、ぼくのITに関する考え方の変遷みたいな結果になる。

ぼくが、ITの領域に本格的に踏み入れたのは1994年である。その前にもユーザとして生産管理系のシステムには関わったことがあるが、ITを供給する側に立ったという意味でそこからがスタートである。この年の雰囲気はもうだいぶ忘れてしまったが、インターネットというものが企業の中にも現れたころでもあり、翌年に発売になったWindows95の爆発の直前でもあった。

従って、企業情報システムも従来のホストー端末から大きくパラダイムが変わろうとしていた。オープン化、マルチベンダー化、クライアントサーバー化といった流れが押し寄せてきたのである。環境としての変化と共に新たなプラットフォームでどういうシステムを構築していくのか、どうやって開発するのかいった命題が浮かびあがり議論が盛り上がった。そんな時に出会ったのが、佐藤正美さんのT字型ER手法である。

ある人から紹介されて、彼のセミナーに行った時の衝撃は忘れられない。ぼくは、自分で開発したこともなく、まだシステム部門にきてから日も浅く、十分理解できるわけでもなかったのだが、歯切れのいい言葉で理論的に語る姿にまいってしまった。そして、実際に彼の指導のもとにシステム開発を行ったのである。ただ、それはそれで勉強になったが、難しいこともあり消化不良で終わった。

しばらくすると、ERPというパッケージが注目されるようになる。当時はERPというのはSAPのことである。ぼくは化学会社の情報システム部門にいたのだが、そのころから、化学会社はこぞってSAPの導入に走っていった。そして2000年も過ぎてくると、いつのまにか主要な会社のほとんどにSAPが入るという状況になった。

ぼくは、いつも同業他社の情報システム部長からなぜSAPを入れないのかと尋ねられた。もうSAPを入れないことが珍しいことに映っていたのである。その時の答えは、「SAPに積極的なメリットを見いだせない。データベースやシステムの統合という意味が強いわけで、それだけなら既成のメインフレームで構築済みだからリプレースする必要はない。リアルタイム性と言うけれどそんなものが必要ですか、日次バッチでじゅうぶんじゃないですか」というものだった。

ところがである。2003年の春に日本で行われた「 SAP SAPPHIRE2003」というイベントで聞いたSAPの若き技術トップであるシャイ・アガシの講演は衝撃的であった。このとき、SAPはESA(Enterprise Service Architecture)という概念を打ち出し、Netweaverというプラットフォームを提示したのである。今でいうSOAである。

従来の、SAP/R3からmySAP ERP(その後、SAP ERPとなる)への明確なシフトである。ぼくは、そのころSOA的な構造やプロセス志向に傾いていたのでわが意を得たりと思ったものだ。しかし、新しいSAP ERPも日本のベンダーはなかなか咀嚼できずにしばらくはR/3を推奨し続けていた。今や、ERPに興味がないのでどこまでいっているのかよくわからない。

聞くところによるとシャイ・アガシはSAPを辞めて、電気自動車用のバッテリー充電ステーションの会社を立ち上げたそうだ。だから継続性がなくなるので欧米の会社は困るという人もいるかもしれないが、コンセプトメーカーは、煽ることが使命なのだろう。

そして、最後の一人は、オランダのデルフト工科大学のJan Dietz名誉教授である。2010年1月に開かれたセミナーで彼が確立したDEMO(Design&Engineering Methodology for Organization)という理論を聞いたときにはしびれた。Ontologyという概念に基づいて開発されたもので、オントロジーというのは、企業活動を捉えるとき、従来のような仕事のつながりを重視することから 人間的な側面を見ていこうというもので、観測可能な表層の下に隠れた深層構造があり、もっとそこに焦点をあてる考え方である。

この理論の元になっているのが、Terry Winograd スタンフォード大学教授のLAP(Language/Action Perspective)という理論で、いずれも人間主体のシステムを考えようということである。単なる自動化ツールとしてのITではなく、人間が使いこなす道具としてのITを標榜しているのは今のぼくの立ち位置に符合しているのである。
  


2011年10月29日

男の伝言板 - 遊び三昧

三題話が続いたので、堅い話からやわらかい話を少し。若いころの遊び方も昔とずいぶんと変わってきているように思う。今は多様な遊び方になっていて、決まりきったものというのはないかもしれない。呑み歩きもあまりしないようだし、車にも興味がないという。うちに籠ってゲームやカラオケを楽しんでいるのだろうか。

その点、ぼくらの世代はだいたいパターンが決まっていた。よく言われたのが、「立てばパチンコ、座れば麻雀、歩く姿がボウリング」だ。だいたいが、大学に入るとみな一様にこれをやる。だから、学校の近辺には、パチンコ屋、雀荘、ボウリング場がある。それと、コンパと称する呑み会があった。このくらいならたいしてお金を持っていなくても遊べたのである。

もちろんぼくも例外ではなく、勉強そっちのけで遊んだ。授業をさぼって雀荘にいてひどいことになった話は書いた。高校生の時と浪人時代の受験勉強生活から解放されて、しかもキラキラの都会に放りだされたわけだからのめってしまう。当時は、まだ学生運動が盛んだったから、しばしば休講になるから時間があるのだ。外で火炎瓶が飛んでいるわ、教室にゲバ棒を持ってなだれ込むわでは授業もろくにできない。

しかし、2年も半ばくらいになるとそういった生活に嫌気がさしてくる。さすがに非生産的な生活に見切りをつけなくては思いだす。ちょうどそんな折、大学がロックアウトされたのである。「大学臨時措置法」の紛争である。この法律をめぐって各大学は騒然として、授業どころの話ではなかった。

学校に来てはいけないのだから、ノンポリの身ではではすることがない。でどうしたかと言うと、家にほとんど帰らず、荻窪に住んでいた友だちの家に居座って、2ヶ月近くの間毎日「立てばパチンコ、座れば麻雀、歩く姿がボウリング」の生活をしたのだ。いまから考えるとひどいことをしたなと思う。

要するに、朝早く起きて数人で早朝ボウリングに行く、終わったあと喫茶店でモーニングセットで朝食である。腹ごしらえをした後は、パチンコ屋に並ぶ。お目当ての台で誰かが打ち止めを獲得。それを軍資金として、近くのそば屋とか中華料理屋、寿司屋で呑む。ほろ酔いになったところで、友だちの家で徹マンをする。このパターンである。

ボウリングは、アベレージも170~180で200アップも数回できるようになる。パチンコ、麻雀もプロまでは行かないがそこそこの腕前になる。だがさすがに、毎日続けると飽きてくる。でも、徹底的にやってやめようと思ったのである。もううんざりするくらいやってスパッとやめた。その後は、たまにつきあいの麻雀をするくらいになったのである。社会人になってからも、「立てばパチンコ、座れば麻雀、歩く姿がボウリング」は影を潜めてしまった。まあ、こんなものはだらだらやるよりとことんやってやめるというのがいいのかもしれないと今でも思っている。
  

2011年11月 5日

男の伝言板 - 「シネマと書店とスタジアム」

またまた三題話になるかもしれませんが、このブログのタイトルの下に書いてある「シネマと書店とスタジアム」のことです。皆さんご存じだと思いますが、沢木耕太郎の本の題名から採っています。その名のとおり、映画と本とスポーツ観戦についてのエッセイがまとめられたものです。

沢木耕太郎というとぼくらと同年代で、「深夜特急」は有名であるが、ぼくには「敗れざる者たち」が印象に残る。特にその中の「クレイになれなかった男」でプロボクサーであるカシアス内藤を描いた文章には感動した。そういえば、最近新聞にそのカシアス内藤の記事が出ていて、がんに冒されながらもボクシングジムを開設して、息子もボクサーに育てると書いてあった。

本のあとがきにあるように「誰にでも『それさえあれば』というもののひとつやふたつはあるような気がする」ということでたまたまぼくの「それさえあれば」と同じだったというわけである。まあ、沢木耕太郎には遠く及ばないが、 映画評、書評、スポーツ観戦記をブログに書いているのである。

3つのジャンルの中でもさらに細かな好みのようなものがある。映画は最近では邦画を観る機会が多い。理由は、東スポ映画大賞のノミネート作品を選ばなくてはいけないことと、ハリウッド映画の大がかりな派手さや破壊力に嫌気がさしたことである。

邦画もひところよりも活況というより粗製乱造とも言えないこともないが、中にはいい作品が出てきている。ということで、現在の映画生活は、劇場では邦画を主体に鑑賞し、DVDでちょいと古いヨーロッパの質のいい作品を観るといったパターンになっている。

本はほとんどが新書になっている。なぜかというと、1週間くらいで読み終えることと軽いからである。(なかにはすごい学術本もある)そして、話題のテーマについて知りたくなると手っ取り早いこともある。この歳になると新書が合っているのかもしれない。若い時は難解で思想的なもの、働き盛りは時代小説や推理小説といったところだった。司馬遼太郎、池波正太郎、藤沢周平、山崎豊子、塩野七生などの長編をずいぶんと読んだ。

最後のスポーツ観戦は、ほとんどサッカーに集約される。自分がやっていたこともあって、サッカーの試合を見るのは好きだ。代表の試合はかかさず見て感想を書くことにしている。他のスポーツは見ないのかと言われると、もちろん世界陸上も見るし、駅伝もラグビーも好きだ。

ただ、プロ野球は見なくなりましたね。テレビ放送もほんと少なくなった。CSだって放送されない。ぼくは横浜ベイスターズのファンなのだが、その弱さに情けなくなって球場に足を運ばなくなってしまった。来季は、DeNAがどうしてくれるのか見ものである。

これからも「シネマと書店とスタジアム」はやめられない。またひまな時間が増えてきたら、プラスアルファのものも加えたいと思う。シネマは映画だけでなく落語とか、書店は読むだけではなく俳句を詠むとか、スタジアムは見るだけではなく体を動かすことなど何やら楽しそうではありませんか。
 

2011年11月11日

男の伝言板 - 仕事のこと(1)

これまで、出会った人々のことだとか、趣味や遊びのことが中心であったので、少しは仕事の話もしてみようと思う。1ヶ月くらい前に大学で同じ研究室にいて、その後同じ会社で仕事することになったH君が亡くなった。とてもびっくりして言葉もでなかったが、何となくぼくの人生の大きな時間を占めていたサラリーマン生活がフェードアウトしたような気分になった。

ぼくが早く会社を辞めたので、様子がわからないでいたが、学生時代の同期会に誘っても出てこなかったり、常務まで登り詰めたが、今年になって身体をこわしたので顧問になったとか聞いていたので心配はしていた。先月会社の元同僚二人が鎌倉に遊びに行きたいというので八幡宮や大仏を案内して、江の島で地魚を食べながら呑んだのだが、その時もH君はどうしているのかと尋ねたのだが、何とその日に逝ったのである。これから一緒に好きな酒を呑めたのにと思ったのに残念無念である。

ぼくが会社に入ったのが昭和47年である。大学で化学を学んだので石油化学の会社に入社する。これから石油化学が主流になるという頃で、全国でコンビナートが形成された。ところが、ご存知のように昭和48年に第一次オイルショックがやってくる。中東の産油国が原油の公示価格を一気に引き上げたことから始まった。トイレットペーパー騒動である。

石油化学の大元は原油であるから、コストに占める割合が一番大きいというか、ほとんどを占める原料費が高騰したからさあ大変である。会社に入ってさあがんばるぞと思ったのも束の間、減産は余儀なくされるし赤字になるわで困ったのであるが、日本全体がそうであったからし方ないと思うだけである。

そんな時期でのサラリーマン生活であったが、最初は現場に放り込まれた。現場というのは交替職場で当初は3班2交替という過酷なもので、昼間12時間を2日働いて、そのあと夜間12時間を二日勤め夜勤明けの日と次の日が休みというサイクルを繰り返すのである。もちろん、盆も正月も休まない。しかし、今から思うと相当つらかったかと思うがいい経験となったことは確かだ。

仕事の内容は、化学プラントのオペレーションである。石油化学プラントというのは、ナフサという原料を熱分解して生成した生成物を精製・分離して各留分ごと例えばエチレンとかプロピレンなどをタンクに貯蔵する。これらはまたプラスチックの原料にもなる。精製・分離するために、加熱・冷却・圧縮などの単位操作を行うのである。

ただ、扱っているのが可燃性で爆発性のあるものなので操作を誤ったりして漏洩しそれに着火すると大変なことになるのでものすごく気を使った。今なら言ってもいい思うが、入社した年にちょうどシフトに入って現場の記録を採っている時に近くで爆発炎上したのである。この時はもう動くことができずぼーっとしていました。そして目の前の景色が恐ろしさのあまりモノトーンに感じるという映画のシーンのような経験をした。

近頃はあまり工場の事故というのは少なくなったように思えるが、当時はけっこう大きな事故が起きていたように思う。化学プラントというのは基本的には外資からの導入技術であるため習熟度の問題を抱え、それと景気がいい時に事故が起きる傾向があって、オイルショックはあったものの長期的には高度経済成長期であるから、そんな時というのはどうしても無理をしてしまうというところがあるからである。

こうしてぼくのサラリーマン生活はスタートしたのである。丸の内のビルで背広にネクタイという同級生もいたが、ぼくは作業着にヘルメットという格好で工場に通ったし、場合によってはそのまま街に繰り出して呑んだりもした。しかし、この方がぼくの性分に合っていたと思う。


2011年11月24日

男の伝言板 - 仕事のこと(2)

仕事のことをもう少し。ぼくが会社に入って最初のトピックスは何といっても海外派遣で中国に行ったことであろう。3年を過ぎたある日、今中国で実質上初めてとなる石油化学プラントを建設しているが、その試運転から立ちあげまでスーパバイザーとして行ってくれと言われたのである。

まだ、26歳のおれが指導員? プラントのライセンサーが同じだということで請われたのであるが、会社としても初めてのことで、ほんとうはまだ早いと言いたかったのであるが、そうもいかず派遣メンバーに一員になった。他に6人が選ばれたがみなベテランぞろいで経験のない身としては不安がいっぱいである。

1976年(昭和51年)3月に北京空港に降り立つ。いきなりびっくりしたのは着くとすぐに銃を持った兵隊さんが機内に入ってきてにらみを利かすのである。そして、入管では入念なに持つチェックがあり、空港から宿舎(招待所という)までがまた恐ろしいことに。もう夜中になってしまったのだが、車のライトを点けないで走るのである。そして、対向車が来るとパッと点灯する。これって逆じゃないかと思うのであるがこれが中国の常識である。

プラントがあったのは北京の南西60Kmの燕山というところで、あの盧溝橋を渡っていき北京原人で有名な周口天の近くである。恐ろしい思いで招待所に着くとまずはパスポートを取り上げられる。おおー、これでおれの命は中国の手の中にという思いがよぎる。先遣隊の人たちが、ここで悪いことをしたらゴビ砂漠へ放逐されるぞと脅かす。いやはや、とんだところに来たと嘆いても始まらないので気分を入れ替える。

当時の中国の状況を少しお話しておくと、まさに激動の年であった。この年の2月に周恩来が亡くなり、その追悼デモから第一次天安門事件が4月に起きたのである。招待所にいたら世間の動きが全く分からない。何にしろ周囲1Km四方内しか出られないし、2週間に1度バスで北京市内に連れていってもらうしかないからである。だから、事件のことは日本からの新聞で知った。

そして、7月には唐山大地震があって、ぼくはたまたま運よく一次帰国していたので難を逃れたが残った人たちは当分の間テント生活を強いられた。8月には毛沢東が死んで、10月に江青らの4人組が捕まったのである。つまり、ぼくらが行った頃はまだ文化大革命が進行中だったのである。こうした激動の時代をまさに肌感覚で知ったことは大きな影響を受けた。実は日本でも揺れ動いた年でもあった。ぼくが中国で仕事を終えて帰国した日に田中角栄が逮捕されたのである。あのロッキード事件である。

そうした文化大革命のさなかで仕事をするということは大変なことであった。何にしろ4月の天安門事件で鄧小平が走資派と名指しされ追放されたわけだから、資本主義の手先である日本人は好かれるはずがない。スーパバイザーだから、指導するのが仕事なのにその指導に対して大衆討議にかけられるのである。日本人のあの人がああ言っているけど聞きいれてもいいだろうかとくる。これでは、急ぎの仕事に支障がでるのだが、党員の監視の目があるから緩いことはできないのである。

まあ、そんなことで失敗もしたし、勉強にもなったし、ものすごい経験になった。その後も5年間隔くらいで訪問したがぼくらが働いていた時から急速に変化した姿に本当にびっくりした。あれからたった35年で経済も街並みも人々の生活も劇的に変わっていて、日本の戦後の35年と同じような感じである。

ただ、中国人気質は変わりようがなく昔も今も仕事で悩んでいるのは同じかもしれない。しかし当時も感じたのだが中国人といっても多民族だから様々な人種がいるので接し方に違いがある。それと憶測かもしれないが、日本人に対する嫌悪感が痛めつけられ具合で差がある。概して、北より南のほうが強いように思う。

ぼくは、その中国での仕事のとき満州族の李さんというひとと一緒だった。その人はいいひとでぼくは好きになった。そして彼が15年後にある公司の日本支社長として赴任してきたときに一緒に仕事をした。休止プラントを解体して中国に運んで再稼働するというプロジェクトを企画した。ただ、条件が折り合わず成約できなかったが、すごくフレンドリーに仕事ができた。こういう中国人もいるのだ。

ITの仕事についてからも外注のプログラマーに二人の中国人を使った。一人は青島、もう一人は上海の子だったが、2人ともいい大学を卒業した優秀なエンジニアだったし素直な好青年であった。上海の子は途中で戻って起業することになった。彼の事業計画をチェックしてあげて成功を祈るべく二人でささやかな壮行会をしたら涙を流して帰っていった。

青島の子は日本で中国人の女の子と結婚して子どもできたのだが、何と日本人に帰化してしまい永住することになった。だいぶ前になるが川崎で二人で呑んだときまた一緒に仕事しようよという話になっているがとりあえず安定した仕事についてがんばっている。ぼくの仕事で一緒になった中国人はみないい奴ばかりだ。たまたま運がよかったからかもしれないが。
 

2011年12月10日

男の伝言板 - 仕事のこと(3)

今回は仕事のこととはいえ、直接的ではない研修旅行の話をします。会社に入って15年くらいたったある日、上司から化学工学会がACHEMA(アヘマ)の視察を中心にした研修旅行を企画しているから参加しろと言われる。ACHEMAというのは、毎年ドイツのフランクフルトで開かれる国際化学技術見本市のことで、6月の4日間行われ世界中の化学技術に関連する人たちが集う大きなイベントです。

その見本市が第一の目的ですが、プラスしてシェルやバイエルといったヨーロッパの主要な化学会社や研究機関を巡るプランになっていて、約3週間でイギリス、フランス、ベルギー、ドイツ、スイス、イタリアの6カ国を回るという大変優雅な旅でもありました。もちろん、遊びではなく研修ですから、化学工学誌の載せるためにレポートを書かなくてはいけないという義務は課せられるわけです。

ただ4、5人のグループで一人だけ書けばいいのでぼくは他の人に振ったのだが、そいつが提出日近くになって書けないと言い出したのだ。さて困った。なるべくお鉢が回って来ないようにじっとしていたが誰も引き受け手がいない。しかたなく私が書きますと言ってしまった。さあ大変、もう旅行も終盤だから急がなくてはいけない。というわけでベニスの着くとホテルに閉じこもってレポート書きに追われ、ゴンドラも乗れなくてがっかりであった。

しかし、それ以外は楽しかった。何しろ土日はあちこちの名所旧跡を案内してくれるわけだから、ヨーロッパを本当に堪能した。フランクフルトは4日間もいたから街のほとんどを歩き回った。ジプシーの子どもたちの窃盗グループに出会いながら。フランスではルーブル、オルセー、オランジュリーの3大美術館めぐりも楽しく、モネの睡蓮の前で数時間も過ごしたりした。

ドイツのローレライや古城を見ながらのライン下りも良かった。スイスではグリンデルワルドに宿泊し、アイガーが目の前にあるホテルでとても感動した。そして、鉄道でユングフラウヨッホまで登り、スイス人のどこでも鉄道を通してしまう根性に脱帽する。帰りはアルプスの少女はハイジに出会うべく歩いて下山する。

ぼくはこの旅行中、できるだけ一人で行動した。多少恐いことはあったが(ロンドンのピカデリー・サーカスでドーバーソルを食べようとしてうろうろしていたら裏通りに連れ込まれた)、自分で見たいところ、食べたいものを探して行ってみるというのはすごく楽しい。ちょうどサッカーのヨーロッパ選手権がドイツで開催されていて、ボッヘムのレストランに入ったら客もウエイターも誰もいなかったとか、イギリスのフーリガンにであって逃げたこともあった。

そういえば、食べ物の話ならまだいっぱいある。イギリス料理はやっぱりまずいとかベルギーのビールの種類にはびっくりとか、ドイツの温泉で飲んだビールは格別だとか、スイスのフォンデユーとかイタリアのピザだとか、ああもうやめておこう。

ということで、まだ書きたいことはいっぱいあるのだが、旅行記ではないのでここまでとして、若い時にヨーロッパをこれだけ体験できたことがぼくにとって非常にいい経験となった。アメリカや中国とはまた違った空気に触れたことは逆に日本をあるいは自分の置かれている環境を見直すこともできた。こんな旅行に出してくれたバブル時代に感謝です。
  

2011年12月18日

男の伝言板 - 仕事のこと(4)

仕事をしていく上で大事だと思うのは、上司や同僚、部下といった周りの人の力をうまく活用することがある。自分ひとりで抱えてしまってどうにもならなくなるケースをよく見かけるし、経験した人も多いのではないでしょうか。かくいうぼくも若い時にそうした目にあってあるとき目ざめたことがあった。

若いころというのは、ばりばりと仕事をこなす、自分の力でぐいぐい引っ張っていく姿にあこがれるし、自分もそうなりたいと思う。おれは一人で何でもできるぞとか、何だこんなことができないのかと言われたくないと思うし、多少無理なことでも自力でやってやるぞとか意気込むのである。これは仕方ないことだと思う。最初からこりゃ無理だとか、できそうもないとあきらめるよりかは若者的でいい。

そして、周りのデキル人を見ているともう一人でばんばんと仕事をこなしているかのように映るのでなおさらおれもとなるのである。ところが、そううまくいくとは限らないから、失敗することがある。それでも、自分が悪かった、おれの責任だと抱え込むのである。

今、この歳になって思うのはなぜそんなにツッパッていたのかということである。もっと素直にわからない、知らないから教えてくださいと言えなかったのだろうか。ここが難しいところで、反対に何でもかんでも聞いてくるやつがいる。少しは自分の頭で考えろと思うのだが、これどうしたらいいのかちゃんと説明してくれなければ困りますと平然としている。

この兼ねあいが難しい。抱え込むのか、おんぶにだっこなのか、もちろん答えはその中間にあるのだが、若い時はそのサジ加減がわからないのだ。どうしても両極端に走りやすい。ところでぼくの父親はまじめな国鉄マンで平々凡々と過ごすことをモットーとした人間なのだが、口癖が“程度問題だ”というのがあった。ぼくはこの言葉が嫌いでどっちかはっきりしろよと思ったものだ。

しかしながら、自分が歳をとって親父ぐらいの歳になると、そうなんだ黒か白か、ゼロか百かではなく、グレーのところも60点のところもあるのだ、むしろそんなところで世の中成り立っているのだと思い知らされる。だからといって若いうちからそんな達観したようなことではなく尖った方がいいと思う。

そのうち、経験を積むほどに“程度問題”を知るからである。程度問題は引き算の方がいい。引き算というのは尖った切っ先を削るということである。ぼくがその引き算を初めてしたのは、会社に入って7,8年経ったころだと思う。非常に優秀でぼくが尊敬していた先輩の人がいた。それこそ、自分で何でもやってしまう人なのである。

ある時、トラブルが起きて深刻な事態に陥ったことがあった。いつもはおれの言った通りにやれということだったが、大変難しい問題だったのでそうはいかずに頭を抱えた。そのとき、“誰か助けてくれ”、“知恵を貸してくれ”と叫んだのである。ぼくは一瞬、あれっと思ったが、みな一斉にああじゃないこうじゃないと言い出したのである。ぼくの肩から何かが落ちた瞬間でもあった。

これを見ていて、そうだ自分一人の中だけで閉じるのではなく、吐き出して周りの人の協力を得るということがすごく大事なことであると感じたのである。それから、素直にわからいと言って周りの人をうまく利用することを意識した。ただ、これはくれぐれも言っておくが、最初に尖っていて、そこから削っていくというのが正しい順番であるということである。



2011年12月25日

男の伝言板 - 座右の銘

ぼくは、有名人でも何でもないし、あなたの人生はなんてインタビューも受けたこともない。だから、他人からあなたの座右の銘を教えてくださいなんて言われたことがない。しかし、なんとなく心に響く言葉だとか、こんな風な生き方って一言でいうとどういうのだろうかと考えることはある。

最初の座右の銘は自分で考えた、というか書かされた。小学校の卒業の時に何か言葉を残さなくてはいけないときに書いたことである。ぼくはこう書いた。「後退するな。自信を持って前進しよう」である。何とも勇ましい中国のスローガンみたいだ。今でもはっきり覚えているということは、よほど思いつめていたか、快心の作だったのかどちらかなのだろう。

まあ、いま思い出すとけっこう“自信を持って”というところが強調したいところで、逆にいうとよっぽど自信がなかったということかもしれない。だから12歳のぼくは、どうやったら自分に自信が持てるようになるのかを悩んだのだと思う。

現在のぼくの机の前に貼ってある言葉は次の3つである。

・「高い志、感謝、プラス思考」(村上和雄)
・「悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意思のものである。およそ成り行きにまかせる人間は気分が滅入りがちなるものだ」(アラン)
・「Chance favors the prepared mind(チャンスは備えあるところに訪れる)」(パスツール)

これはそれぞれつながっていて、プラス思考というのは楽観主義なのであり、意思というのは備えるということでもあるのだ。つまり、高い志を持って、楽観的にプラス思考でうまくいくように準備し、できたら感謝することなのである。志もなく、ただ成り行きにまかせ、なるようにしかならないとあきらめることを自らに戒めておきたいと思うからである。

ただ、これはモットーみたいなもので座右の銘とちょっと違うように思えて、何かないのかなあと考えていたのだが、最近では、「和して同ぜず」というのが何とか気にいっている。この言葉は、「論語」のなかに出てくる文言で、「君子は和すれども同ぜず。小人は同ずれども和せず」の前半部分を取ったものです。

こう言うと、少しばかり冷たい人間に見られそうだが、座右の銘というのは、こうありたいと思うものと、自分はこれなのだという二つの意味のどちらかを込めるように思えるのだが、ここで言った座右の銘は後者にあたる。つまり、ぼくは「和して同ぜず」で生きてきたから、これが自分の座右の銘なんだと再確認しているという話です。

そこで、よくよく考えてみると、12歳で自信を持てなかった自分が、プラス思考でチャンスをつかみ、自信をもてたからこそ「和して同ぜず」という生き方ができたのかもしれない。自分の中ではそんなことを考えているのだが、他の人がみたらどう思うのであろうか。と言ってみたところで、それ違うでしょと言われても「和して同ぜず」だから、結局わが道を行くだけなのかもしれない。
  

2012年1月 9日

男の伝言板 - 老人と酒

こんなサブタイトルだと、何やら酒に溺れる老人の姿が思い浮かぶ。ぼくは何を隠そう溺れるほどではないが酒好きである。ここ数十年は一日も欠かさずに呑んでいます。それでよく肝臓を壊さないかと思うのだが、いまのところγGTPもぎりぎりセーフである。

初めてちゃんと酒を呑んだのは高校生のときでコークハイだった。要するにウイスキーをコカコーラで割ったやつで、その当時はけっこうはやっていた。呑みみやすいのでつい呑み過ぎてしまうことがある。大学に入ってからもコンパと称して呑んだり、燃える前の新宿西口のションベン横丁(今は思い出横丁といって一部残っている)に行ったり、友だちの下宿で呑み明かしたりとよく安酒を大量に呑んだものだ。

ついこの間、サッカー部の現役の子を会食に誘って呑んで食ったのだが、飲み会みたいなのをしょっちゅうやっているんだろと言ったら、いやほとんどやりませんという返事。せいぜい合宿の時の打ち上げで呑むくらいだという。普段も飲みませんと言っていた。そのときも食べるばかりで何とかサワーというのを舐めていた。

学生時代、あまり自慢することでもないが、二日酔いでサッカーの試合をしたことが何回もある。もちろん吐いたことは数限りなくある。いちばんひどかったのは、西武新宿線の電車のなかでドア付近に倒れ込み、駅でドアが開くたびに吐いていた。よく首をはさまれなかったかと今でもぞっとする。

社会人になってからは、金もあるし独身寮だし、それはそれはよく呑んだ。先輩連中が頼みもしないのに市中引き回されて、毎日のように呑み歩いた。店を紹介してくれてなじみにもなったりした。もう当時の店はほとんど残ってはいないが、数年前にはなじみの店にいた女の子が開いた飲み屋にときどき行って、もはやおばさんになったママと昔話をしたりした。

そうだ、ここは酒呑みの行状記を書くのが目的ではなく、老人にとって酒は何よりも健康にいいし、精神衛生上よろしいのだということを言いたいのである。会社勤めを辞めて自宅で仕事をすることが多くなると、仕事が終わってから家でゆっくりと呑むのが楽しみである。呑むと頭が緩んでくるのがわかる。それが何とも気分がよいのだ。

緩むというのは解放感ともちょっと違って、柔軟な発想が浮かんでくるといった方が近い。しらふの時って、無意識のうちに構えて思考回路を働かせているのと、年をとるとそれこそ頭が堅くなる。一種の“たが”をはめているわけで、発想が狭いのと同時に硬直的になりやすいと思う。その“たが“を酒が外してくれるというわけである。

だから、酒を呑む時はいつもメモを横においておく。いい気持になってぽっとアイデアがうかんだり、いい言葉が思いついたらすぐに書きとめるのである。ぼくは外でひとりで呑むことも多いのだがそのときは呑みながら、ブログの記事を書きあげてしまうこともある。というわけで、このエントリーは酒を呑みながら書いたわけではないが、「酒呑みの自己満足」というカテゴリーに入れた方がいいかもしれない。

2012年1月19日

男の伝言板 - 行きつけの店

前回に酒呑みの老人の話をしたが、その延長で行状記を書いてもいいのだが、それは屁のツッパリにもならないのでもうちょっと生産的なことを書く。どんなところに呑みにいくのかという話である。「酒呑みの自己弁護」を書いた山口瞳が「行きつけの店」(新潮文庫)という本を著している。その本の帯には、“行きつけの店は、文化である。修行の場である。学校である。”と書いてある。

ぼくはかなり飲み屋で鍛えられた。若いころは先輩に呑み方や酔い方を教わったというか、見せつけられた。もちろん、見習うべき人もいたが反面教師もいた。むしろ、反面教師から学んだことの方が多いような気がする。普段おとなしいのに酔うと暴力的になる人、説教を始める人、愚痴ばかりこぼす人、怒りだす人と酒癖が悪い人は数多く見てきた。

そんな人とはあまり深入りせずに適当にあしらう術を身に付けた。たまにけんかになることもあるがさっと逃げることにしている。さすが行きつけの店ではほとんどそういった人も少ない。いやそういうことがないから行きつけになるのである。でも客筋が悪いところもあって、チンピラとトラブルになって危なかったこともあった。あら、これでは行状記になってしまうので話を変えよう。

ぼくの若いころというのは三重県四日市という街で呑んでいたわけだが、その頃は工場がいっぱいあってしかもみな活気があった。何にしろ先日の高校サッカーの決勝戦で四日市中央工の校歌が流れたと思うが、その中に「工都 我等を生かし 我等 工都を生かす」とあるくらいですから工業が盛んであって、労働者がたくさんいたので当然飲み屋も多い。

当時、日本で人口当たり一番飲み屋が多い市はどこかという話題があって、その答えが徳山市(今は周南市になった)だったが、ここも石油化学コンビナートの街だから、四日市はその次ぐらいかもねと言うくらい多くの店が軒を連ねていた。今は見る影もないほど閑散としている。

そこでの行きつけの店は、小料理屋、居酒屋、スナック風バー、すし屋、中華料理屋といったところで、みな個人経営の店で、今のようなカラオケとか居酒屋チェーンはほとんどなかった。まずは、小料理屋か居酒屋で呑んで、そのあとスナック風バーで女の子をからかって、最後はすし屋、中華料理屋でお腹を満たすというコースである。すし屋ではもう店が閉店するまでいて、そこの見習いの若い子が練習で握るすしを食べるのである。

小料理屋の女主人のおばさんとは家族のようなつきあいで、みないろいろ面倒を見てもらった。お嫁さんを世話してもらった人もいた。その店で知り合った大学の先輩が、他の飲み屋の女とドライブに行って事故で亡くなったという悲惨なできごとにもめぐりあった。そういう意味では、居酒屋チェーンのような飲み屋では味わえない濃密な時間を過ごしたような気がする。

東京に来てからは、やはり地方都市とは違ってべっとりとしたことは無理で時々訪れるだけになる。それでも、なじみの店は何軒かできる。今でも続いているのが、さかな料理屋、中国料理屋、小料理屋、焼き鳥屋、バーといったところである。場所はどうしても通勤経路であった新橋近辺ばかりになる。東京に通っていた時はなかったが、最近は家の近所にも行きつけの店が数軒できた。

ただ、毎日勤めに出ていた時とは違って、たまに外に出るので行く店も限られてくる。今一番よく行くのはこのブログでもたびたび登場する銀座のバー「M」である。ぼくはひとりで呑むことが多いが、この店でもひとりで止まり木に腰かける。それでも、マスタ夫妻や女性バーテンダーのKちゃんとのおしゃべりや、お客さん同士の会話も楽しいのである。この間も、隣に座った人の奥さんとぼくのヨメさんが高校のバレー部の先輩後輩だったことがわかり大いに盛り上がった。

もうずいぶんと通っているので、ぼくが落ち込んでいたときも知っているし、ぼくの家族のことも話題になる。下の息子とは定例としてここで一緒に呑むことにしている。そんなほっとする場所がいくつかあると酒呑み人生も楽しくなる。行きつけの店は修行の場であると同時に“癒しの場”でもあると思う。
  


2012年2月16日

男の伝言板 - 三つのめし

食べ物の話が出たのでついでにもう少し。あるジャンルで好きな食べ物を3つあげよと言われたらどうしますか?例えば、好きな果物とか麺類で好きなのはとか、魚はとか肉料理はとかたくさんありそうですね。ちょっとおもしろそうなので見ていきましょうか。ぼくの好きなものです。

果物 :メロン、桃、なし
麺類 :そば、うどん、ラーメン(これはちょっとラフ過ぎますね)
魚  :アジ、イワシ、サバ(要するに青物ガ好きなんですね。でもこれもラフ過ぎます)
肉料理:すき焼き、ステーキ、とんかつ(またまたラフですねえ)

これじゃあぼやけてますね。結局もっと絞っていかないとダメなようで、果物はいいとしてもそばならどこの店のものが好きなのかというふうにしたいものだ。ぼくは、神保町の「松翁」、祐天寺の「手打ちそば 大むら」、築地のある「さらしな乃里」が好きだけどなあ。魚というより魚介類で調理法もセットでとなると、生のウニ、焼いた白子、蒸したアワビに尽きますね。

ここからはごはん類の話をしようと思う。それも喫茶店とデパートの食堂メニューから見てみたい。というのもぼくらの世代はしゃれた食べ物はどこにあったかというと、レストランや料亭なんか行けないし、今みたいにファーストフーズやチェーン店もなかったので、街の喫茶店かデパートの食堂だったのですね。

そこには定番のものとしては、カレーライス、スパゲッティ(いろんな種類があるわけではなく、ナポリタンとミートソースくらいである)、サンドイッチといったところで、あとはオムライスくらいかなあ。ピラフだとかピザ、グラタンなんてなかったのだ。

ところが、定番とちょっとそれたところに好きなものがあったのですね。何かというと「チキンライス」「ドライカレー」「焼きめし」である。ぼくは、この3つが大好きである。しかし、今の時代は、食べさせてくれるところが意外と少ないのである。ドライカレーは、家の近くでは「珊瑚礁」に行きますが、変わったところでは、銀座にある「鳥繁」というの焼き鳥に行きます。

「鳥繁」というのは6丁目にある大きな店ではなく、泰明小学校のそばにある西店で気まぐれなオヤジガやっているのだが焼き鳥とドライカレーのミスマッチがたまらない逸品ですよ。チキンカレーもありそうでなかなかありませんが、ぼくは日本橋の「泰明軒」に行きますね。ここで、50円のボルシチとコールスローサラダとビールを頼んでチキンライスを食べるのが至福の喜びです。

さて、最後の焼き飯ですが、炒飯と焼き飯はどこがちがうのでしょうか。同じでしょうと思う人もいると思いますが、実はちゃんと違いがあります。炒飯は卵を先に入れてからご飯を入れて炒めるのに対し、焼き飯はご飯を先に炒めてから卵を入れるのだそうです。本当かどうか知りませんが、ぼくの解釈は油が多いかしょうゆが多いかではないかと思っています。

ところで、この焼き飯を出してくれる店がない。なので、これは厨房に入る男子としては自分で作ろうと思い立つ。その時、そう言えば母親がよく作っていたことを思い出した。ということでばあちゃんに作り方を教えてもらう。ばあちゃんはしばし、あの頃は何もなくて自分で工夫してつくったものだと述懐していた。直伝の焼き飯はことのほか美味しかったのは言うまでもない。

2012年3月 4日

男の伝言板 - 資格

最近は何かと資格をとるのが流行っているようだ。その人の能力を判定するのには資格はわかりやすいし、アピールポイントとなるので自己啓発という意味も込めて多くの人が取得をめざしているのだろう。資格でも難しい国家資格から民間資格まで1000以上あるらしい。ジャンルも公務員系、法律系、会計系から工業系、IT、スポーツまであらゆるジャンルに資格があるといっても過言ではない。

じゃあ、おまえはそういった資格を持っているのかと聞かれると、運転免許は持ってますけどと答えてしらっとされますが、実は少しは持っています。もともと化学工場で働いていましたからいわゆる工業系の資格です。正直なところ取らされたというのと費用の補助と奨励金みたいなものがもらえるからという理由です。

工場だと、そこで必要な資格の取得者の配置が義務付けられていたりしますので、職務命令で取らされます。例えば、危険物取扱主任者や高圧ガス取扱主任者とかボイラー技士とかいったものがあります。こうした試験は、筆記試験はもちろんありますが実務経験が必要であったり、甲と乙種があったり、二級から徐々にあがって特級にいくみたいな階層もあったりします。

ぼくはこの試験が大嫌いなんですね。資格試験に関わらず学校のテストも入学試験も大嫌いです。好きな人は少ないと思いますが、ぼくはどうしてもやる気がでないのです。それでも、しかたなしに受験するわけで、やっと危険物取扱主任者、ボイラー技士、熱管理技士くらいは持っています。だから、ビルの管理人にはなれます。あれ免状はどこにいったかなあ。

また、資格によっては昇格の条件になったりします。資格とはちょっと違うかもしれませんが、よくTOEIC何点以上ないと課長になれないなんていうこともあります。ところで化学工場では高圧ガスを扱うのでその資格がないと責任者、すなわち製造課長とか製造部長になれないことがあります。ですので、必ず取る必要がありますのでもちろん受験をしました。

これはけっこう難しいので自習だけだとつらいので認定の講習会というもの出かけるわけです。そこで強制的に詰め込むのと試験に出そうなところを匂わせてくれるというメリットがある。もちろん有料なのであるが会社が出してくれる。で今からそこまでしてくれたのに取れなかった話をする。

当時はまだ若かったから遊びたいのが先にあって、勉強も一夜漬けでいけるだろうとたかをくくっていた。名古屋であった講習会に行ったのはいいが、頭は帰りに女子大小路で飲むことで頭がいっぱいになる。講習が終わるとそそくさとネオンをめざしたのである。

ところが、女子大小路はそんなぎらぎらにいちゃんを手玉にとるくらい簡単なことはないらしかった。いいかげん酔って帰ろうと勘定お願いしますというと5万円だという。3人だからひとり1万7千円くらいだと思ったら、いやいやひとり5万円なのである。ありゃー金がない。そうしたら、ひたすら頼んでまけてもらえばよかったのに、なかのひとりが近くに友だちがいるから金を借りてくると言ってしまった。

こりゃあだめだ。結局ぼくが人質となり、お金が来るまで待つことになる。もうこうなると開き直っているし、相手の恐いおにいいさんもだんだん打ち解けて、あんた運が悪かったなあとか、金もないのにこんなところで遊ぶんじゃないよとか、店の女の子がやたら飲み物をせがんでも無視するんだなとか話がはずんでしまった。

そうはいっても結局ぼったくられたわけで、当時のお金としては大散財をしてしまった。これじゃ、多少とも講習会で覚えてこともどこかへ飛んでいってしまい、予想通り試験は落第の憂き目にあう。それからというもの、ぼくは資格をとる資格がないと自覚して一切の試験を受けなくなった。

IT分野へ変わっても何の資格も持っていない。でも身近で中小企業診断士とかITコーディネータとかの資格を持った人が多くいるが、資格をもっているからどうのとういうより、それとは関係ないスキルで勝負しているように見えるし、そのほうが大事なように思えている。ということで少し脱線気味の自己弁護のエントリーでした。
  

2012年3月22日

男の伝言板 - オンチの話

ぼくは音痴である。だから、カラオケが大嫌いで、昔流行った頃はカラオケスナックみたいなのが氾濫して、そこへ行くのが嫌であった。最近は東京ではカラオケボックスが少し残っているようだが、全体的には下火になっているが、地方ではまだ根強く残っているようだ。

数日前に小学校の同級性5人で地元の鎌倉で呑んだあともお決まりのカラオケスナックに行く。呑んだきっかけは4月に小学校4年生の時のクラス会をするので会場の下見と予約に行った帰りなのである。小学校4年生の時のクラス会って珍しいでしょ。しかも、担任の先生がまだご健在なのです。このシリーズの最初に書いた「先生」というタイトルにも登場するK先生である。

そのクラス会には18人が参加するという。卒業の時すなわち6年生のクラスは卒業アルバムがあるからわかるのだが、4年生ともなると特定するのが難しいが、遠足の時の写真を頼りにほとんどの名前を掘り起こしてしまった。おっと、その話をしているわけではなかったですね。そのクラス会の幹事会のあとのカラオケスナックの話に戻ろう。

その店は鎌倉の小町通りにある。昼間のにぎやかさとはうって変って夜も遅くなるとさすがの小町通りも静かになる。そんな通りに面した2階で歌い出す。ぼく以外の4人はみなうまい。プロ並みのうまさで思わず拍手喝采。ぼくは歌いたくないから黙っているとキタ―。しょうがない定番の歌を何とかごまかして唄う。これで今日は終わり。

こればかりはいくら練習してもどうしようもない。そういう遺伝子を受けついでしまったからには無理だ。でこれは音楽だけではなく○○オンチという言い方もあるように他のジャンルでも言えるのだが、例えば絵がうまく書けない(ここでもぼくはダメだ)と絵痴とは言わないし、運動にしても運痴とは言わないで、運動オンチという。そんなオンチはアメトークで取り上げてくれるだろうが、ここで言いたいのは、芸術やスポーツ系ではなく、仕事とかビジネスといった領域でもオンチというのがあるのではないだろうかということである。

要するにオンチというのは論理的ではなく、「感覚的に表現できない」ことだと思うのだが、つまり、頭の中ではあのように歌いたい、こんな形を描きたい、こんな動作がしたい、こんな仕事のアウトプットを出したいとイメージするが身体的機能がそれを表現してくれないということである。どうしてそうなるかというと、そこに至るまでの感じ方すなわちセンサーの機能が劣っているからではないだろうか。センスアンドレスポンスでいうセンスがきちんとできていないと、トンチンカンなレスポンスになってしまうということである。

このことを仕事にあてはめると仕事オンチとはどんなタイプかがわると思う。KYという言葉で語られることもあるように今言ったセンシングの話なのである。最初にオンチは直らないと言ったので、仕事オンチの人は働いてはいけないのだろうか。ひどく冷たく言うとぼくがカラオケボックスで味わう屈辱感を職場で味わうことがないように、基本的にはそうしたほうがいいと思う。

しかし、救いは何もかもオンチだなんて人間はいないから、盆栽界の美空ひばりだとか、ボランティアの孫正義でもいいのである。世間一般の評価とは別に自分の感覚がフィットする世界を見つけることなのであろう。そういった世界が見つけられれば、経済的な問題は何とかなるのではないでしょうか。
  

2012年6月26日

個の時代がやってくる

おそらくいまの日本の沈滞ムード、閉塞感を打破するには雇用の流動化が避けて通れない道のような気がする。同じ会社にずっとしがみつくような働き方ではなく、自分のやりがいのある職をさがして動くことが当たり前になってくるだろう。これは、雇う方も雇われる方のどちら側の要請というわけではなく、両者が欲するようになるだろう。

会社側だって、ミスマッチの人材ややる気のない社員を抱え続けるわけにはいかない。高度経済成長の時代には規模が拡大したり、新規事業を立ち上げたりするのでこうした人材はある程度吸収されていた。しかしながら、成長が鈍化し規模は縮小していくと、事業の統廃合が起こり、人員の絶対数の余剰が生じるとともに、撤退した事業にいた人材の配置転換が行われるが、異質のスキルが要求されて、そこでミスマッチ人材を生み出すことになる。

一方、社員のほうだって、自分の向いていない仕事をいやいややるのも嫌だろうから、絶えず自分に適した仕事があって、長期の雇用と報酬を約束してくれるならすぐに移りたいと思っている。ところが、これまでの日本の社会では、転職のリスクが高かったことと世間体からなかなか難しかった。ぼくはそれだけではなく、会社人のスキルセットがないことも原因だと思う。

自分のことを思い出しても言えるのだが、就職するとき私のスキルはこれだというものが何もなかった。ただひたすら、まじめですとか粘り強さとか素直さを強調する。つまり、性格の良さだったり人間性のことばかりで、知識だとか技術といった学習してきたこと、経験してきたことをスキルとして身につけていなかったのだ。いや、正確にいうと仕事をするための学習も経験もしなかったのだ。

従って、会社としてもそんなヤツばかりだからどうしたかというと、入ってからしばらくは戦力化すべく一生懸命仕込むのである。これは持ち出しだから、回収しなくてはいけないので転職されては困るので囲い込みを行うのである。これまでは、こうした関係が雇用する側も雇用される側も両方とも合理的であった。

この関係がくずれたこれからの時代は仕事をするためのスキルの習得を早める必要があると思うのだが、いまの学校では得られないのでむずかしいところがある。アルバイトとかインターンなんかも良いかもしれないが、若い時に社会人の人たちと接する機会を多く持つことが大事ではないでしょうか。また、ぼくらの世代のことで言うと、反体制の頭でびっしりだから、既成社会のオトナたちを否定しているわけで、そんなところにコミュニケーションはないから余計に仕事に対するスキルをそこからなんて考えもしなかった。

その点、現代はあらゆる年代、ジャンルのひとたち、そして海外のひとたちと接する機会が格段に増えてきている。ぜひ若い人たちは積極的にそうした機会を活用して、人生の大半を過ごさざるを得ない仕事時間のためのスキル習得に努めてもらいたい。

スキルとは何かを話しておかないといけない。それは、少し抽象的な表現になってしまうが大事なのは、「概念化スキル」、「対人スキル」、「技術スキル」である。ビジネスパーソンとしてこの3つのスキルのレベルでできるかできないかが決まる。こうした能力を正しく評価されるようになれば、自ずとミスマッチもなくなるし、転職もしやすくなる。

会社に対する忠誠心や、愛社精神が失われると言われるが、それと雇用の流動化とは必ずしもつながるわけではない。むしろ、変てこな忠誠心や愛社精神がコンプライアンス問題をひきおこしたり、自分が気に言ってもいない商品を客に売りつけるなんてことが起こる。雇用の流動化は会社に対するというより、自分が考えた、作った、惚れた商品やサービスに対する愛着が結局愛社につながって行くのではないでしょうか。さあ、来るべき「個の時代」へ向けて自分のスキルを磨こうではありませんか。
  

2012年7月11日

簡単にするということは簡単ではない

ぼくの最近のプレゼンタイトルで「“超”簡単BPM」なんてちょっとキャッチーな言い方を使ったものがある。別にウソやハッタリではないのだが、少しは注目してくれるかなという思いである。ただ、恐いのはホントに誰でもが簡単にできると安易に思われることである。

簡単にできるためには前提がある。もしそれがなければ、みながやってしまうので特別に簡単と謳ったところで何もおもしろくもない。では、その前提とはいったい何であろうか。そこには、簡単なものにするという提供側の見方と簡単だと感じる受け手側の見方の両サイドからの考察が必要である。

提供側の問題としていかにして簡単なものにするかが実は大変難しいのである。簡単ということは様々な人たちがそう思わないといけない、つまりそれこそ老若男女、頭のいい人悪い人、保守的な人革新的な人といった万人がなるほどと思ってくれなくてはいけない。実際にはみんながみんなというのは難しいので多くの人が簡単だと認めてくれるかである。

そこには、ちゃんとしたロジックがあることが大事な要件だと思う。そういう意味では難しく考えてできたものが簡単というのがよろしい。思いつきや自己趣味的なものはどこかで破たんをきたすと思う。緻密な論理の組み立てがあって、それがすんなりと理解できるのが望ましい。それと、もうひとつ大事なのはどこのレベル、どんな抽象度で提示するかである。

分かりやすさは複雑性を排除していなくはいけないが、逆に抽象度が高すぎるとこれまた理解しがたいものになってしまうし、受け手がそれぞれの解釈をしてしまう。だから難しいのである。説明書を読み込まなくてはとか、講習を受けなくてはといったことは極力避けたいものである。このいいころ加減の粒度と抽象度がカギになります。

一方、受け手の方はというと単に表層的なところの理解ではなく、それがどうしてできたのかとか、どんな思想から生まれたのかといった背景にあるコンセプトを正しく理解することである。コンセプトが変わっているのに従来の考え方の延長でみて、これは難しいとかやりにくいとかいっても見当違いのことがある。

例えば、アップルの製品なんていい例で、iPhoneを携帯電話の延長でみていくと使いづらいとかいう意見も出てくるが、アップルが提案している新しいスタイルのお伴としてこれを使ってと言われると、これは“簡単”だと合点が行くのではないだろうか。

現代は、生活様式も働き方も遊び方も変化を遂げている。人間は同じところにとどまることはしない生き物なのである。ですから、そうした環境に合った“簡単な“ものが出てくるのだが、自分自身が変化していなければかえって難しいものになってしまう。案外、”難しい“と言っていることは己の既成概念からの乖離が大きいだけなのかもしれない。
  
いやーほんと、簡単にするということは簡単ではない。スポーツなんかでもいとも簡単にやっているが誰も真似できないというのもあるし、仕事なんかも軽くすいすいやってしまうヤツはすごいのである。
  

2013年4月27日

ネットの双方向性

インターネット選挙が解禁になった。そこでぼくが個人的に課題と思うのは、なりすましとかもあるが双方向性をどうやって活用するのかがある。選挙では候補者と有権者という関係ができるのだが、基本的に1対nのような関係になる。候補者一人に対して多くの有権者が関係することになる。こうした関係性は、SNSではよくあるパターンである。

TwitterやFacebookは大はやりではあるが、ぼくは積極的なユーザではない。その理由は、自分が有名人でフォロワーがいっぱいいるのだったら楽しいだろうが、ただ単に有名人のフォローをしたところで、ファンクラブの一員になったようで、人気者以外はあまり面白くないと思ってしまう。まあ、ひねくれものだからかもしれないが、双方向といいながら実際のところは片方向であるような気がする。だから選挙運動にはいいツールであると思うのである。自分の主張を浸透させるのに絶好だ。幟を立てて自転車出回ったってどれだけの人と交われるかといったらしれてるわけで、そう言う意味でうまく利用すれば強力なツールになる。

ただ、表現力の乏しい、発信力の弱い連中はきついだろう。表情やあうんの呼吸なんてものはネットにはないので、言葉の力だけだから大変だ。しかし、これからの時代は、そうした暗黙のそして事前の理解がないところでどれだけ自己表現で相手を説得するスキルが重要になるわけだから、大いにやってもらったらいいと思う。もちろん、いろいろな問題は出てくると思うが、乗り越えて進めるべきだと思う。

一方その逆に、双方向性のなさにより起こる問題もある。これは実際に経験したことなのだが、クレジットカードの利用明細がネットで見てくれとなったことによる問題である。あるクレジット会社が、これまでは毎月利用明細書という形ではがきが届いていた。ところがあるとき、ネット上に置いておくから、自分で見に来て管理してくれとなったのである。

その結果どうなったかというと、いちいちサイトを立ち上げてログインしてというのが面倒くさいのでほったらかすことになる。そして、2ヶ月後に自動的に銀行から引き落とされることになるが、明細を見ていないので正しいのかどうかもわからない。結果、不正使用されていても気がつくのが遅れることになる。

ネットで一方的にデータを置かれて、さあ見てくれだから双方向でもないのである。まだ、はがきで送ってきて、それを定期的に確認するというのは双方向的である。要するに、こうなってますよと知らせてきて、はい分かりました、銀行にお金入れて置きますといった、直接言葉を交わさないにしてもコミュニケーションがあったのである。それがいまや、つながりが非常に希薄になってしまっている。彼らは便利になったでしょうとか言っているかもしれないが、コスト削減になったかもしれないがサービスは低下している。何かはき違えていやしないだろうか。

こうして考えるとどうもネットの世界の双方向性というのは幻想であるような気がする。そりゃあ、コメントを言い合っているじゃないかと言われそうだが、それってメールでしょ。Facebookでいいねボタンを押すのも双方向とはいいがたいし、Twitterにしても一般の人は観戦者ですよね。ということで、かなり個人的なやぶにら発言でした。

2013年5月 8日

思考の順序

ものごとを整理するのに5W1Hで考えることはよくやる。割と単純だから、そんなふうに簡単に整理できないとわざと難しい理屈を持ってくる人もいるが、ぼくは気にしないで使う。ただ、気をつけなくてはいけないのが、その考える順番である。この思考の順序は。きちんとしておかないと議論が噛み合なかったり、混乱、拡散してしまう。いま注目のアベノミクスにしても5W1Hすなわち、目的、政策、ターゲット層、責任者、工程といったことのどこに焦点をあてて、どういう順番でやっていくかは重要なイシューである。

目的と手段の混同とか、原因と結果と倒錯といった混乱が時としておこるのはそこの整理が不十分なことに起因する場合が多い。基本的には、Howは最後に考えましょうというのがぼくのスタイル(ただ、Howの裏付けのない計画も絵に描いた餅なので、ある程度のHowは必要であることは銘記しておく)ですが、では他の5Wはどうなのだろうか。普通だとすぐに目的ありきだからWhyがいちばん先でしょうとなるのだが、意外と考えどころである。

では、一番先なのかという問題に絡んでくるものは何だろう。どうもWhenとWhoはあとでもよさそうだ。そうなるとWhatかWhereになってくる。ただ、Whatつまりどんな物を作るのかとかどんなことをするのかというのは目的に従属的であるような気がする。逆に、Whereすなわち、どんな領域でそれをやるのだとか適用するのだとか言ったことが浮かんでくる。

エリアが違えば、目的も変わってくるかもしれない。問題の所在が異なるから手の打ち方も違うかもしれない。こんなことを考えたのは、VCPCという団体で昨年の6月から始めた「BPMアプローチによるITシステム構築研究」というワークショップが終わって総まとめのような話をしているときに、参加メンバーの女性の方に、この方法論の対象エリアをどこにするかをはっきりしておかないと混乱すると言われた。

要するに、バックヤードのシステムであるERPのところをこれで置き換えるような話なのかどうなのかということである。そうした前提をはっきりしておかないと、そんな緩い作り方では使いものにならないと拒絶されてしまう。つまり、Whereである適用領域によっては向き不向きがあるわけで、不向きなエリアを想定している人と、その反対のエリアことだと思い込んで言っている人とは噛み合ないのである。

ですから、非常に重要なポイントは、Where優先というか、WhereにおけるWhyという観点で見るということではないでしょうか。結局、どこの領域にどういう目的で適用するかがまずあって、それが決まると、何をあるいはどんなんことを持っていくが決まり、いつ誰がそれをやるのかがついてくる。そこには、前述したようにだいたいの方法があって、それでいつ誰にを判断して、その後に詳細なやり方をつめるというのが現実的な対応なのではないでしょうか。これだけ多様化してきた現代において、Whereをきちんと特定することがますます重要性を帯びてきていると思うのである。
  

2013年8月 4日

何も起こらないことの大切さ

こういう時代になると、なぜかいつも何かが起きているように錯覚する。ところが、世の中何も起こらないほうがはるかに多いのである。自分の身の回りにしても事件がおきているわけではない。それなのにいつも事件がおきていているように思うのである。

そして、何かしてないと取り残されるような気にさせられる。だから、焦ってしまう。これは、メディアの影響が大きいと思う。彼らは、何かがおきないと商売にならないので、煽ることもするし、場合によっては捏造にちかいことをする。そんな企みに現代人は乗っかってしまっていないだろうか。

ひとたび問題がおきるとメディアは嬉々として報道している。ぼくだって、お祭りがあったり、何か大きなイベントがあったり、トラブルや事件があるとテンションが上がってやけに張り切ってしまったりする。だから、多少のことはしかたないとしても、人間は元来そういうものであるということを意識して、冷静になる態度が必要であると思う。

だから、もうちょっと静かにしてくいてくれないかと思うのだが、それがビジネスモデルだからある程度はしょうがない。ということは、こちら側で防衛せざるを得ないわけで、見ない、聞かないようにすればいいし、それができなければ話半分でいいのだ。

例えば、いまだと毎日のように犯罪がおきて、非常に危険な世の中になったように感じるが、ちょっと前までは、外国で何がおきているかなんて知らなかったし、国内だって北海道でのことなんて分からないのことが多かったのである。それでも、生活に何の支障もなかったし、それを知らないことで不幸になんかなっていなかったのだ。

繰り返すが、マスコミは"何もないことはありえない"と思っているし、"何かが起こることがメシのたね"であるから、"何かを起こそう"いうバイアスがいつもかかっているので気をつけたほうがいい。針小棒大はいざしらず、下手すると最初に言ったように捏造まがいなことまでする。これは、マスメディアに限らず、ネットメディアでも同様というか、もっと扇動的である。

結局、何もないことのよさを再確認するとともに、何もないときにボーとしているのではなく、自分自身で能動的に人生を楽しむ術を持つことが大事なのだと思うのである。つまり、まわりからの雑音にむやみやたらに反射するのはなく、自らが主体性をもって判断し行動する習慣を忘れないようにしたいものである。
  

2014年4月12日

極私的子育て論(1)

先日ある会合のあとの懇親会でひょんなところから子育ての話になって、ぼくが実践したことを標語風に言ったらそれがウケたので書き留めておこうと思う。このブログでもいくどか書いたことなのだが、断片的になっているので大げさだけど体系的にしてみようと思う。

ここでわざわざ"極私的"とつけてみたが、子育てなんてこれでやりなさい、こうすればうまくいくなんてという法則があるわけではなく、非常にプライベートなものであり個別対応であるからである。なので、いまから言うことが正しいとか、強く薦めるものでもない。ぼくの個人的な思いである。

親と子の関係は子どもの年齢によって当然変わってくる。これを親離れするとか最近では子離れするとか言う。幼児のときと少年、青年となった時とでは接し方は全然違ってくる。それを大人になっても小さい時と同じように接したり、まだ幼児なのに放り出してしまうなんてことになるとおかしなことになってしまうのである。

思いのほかウケたのがつぎの時期別モットーである。
1つ、胸を開いて抱きしめて
2つ、背中を見せてついてこい
3つ、肩を並べて歩こうよ

この"胸背肩"理論を実践した。最初の胸を開いて抱きしめるのは生まれてから10歳位までである。その時期には親は溺愛といわれるくらい愛情を注ぐべきであると思う。この時期はもちろん子どもは初めて経験することばかりで日々勉強、学習の時である。そんな時には失敗することもあるし、恐怖することだって、どうしていいか迷うこともあるから、暖かく見守ってあげることが大切なのだ。

そして、大きくなって困ったり悩んだりしたとき、いつでも帰ってくるところとして親の胸があることを知らせめることなのである。お前にはいつも親が付いているぞ、だから思い切ってやれという暗黙の激励を感じてもらうことである。3つ子の魂100までではないがこの時期は今後の人間形成にとって非常に大事なときで、そこには抱きしめてくれる親がいることは大前提なのだ。

小学校高学年を過ぎてくると自我も芽生え、ある程度世の中の仕組みとかもわかってくるので、そうなると抱きしめることをやめて、背中を見せてついてこさせる関係へと変化させるのである。自立、あるいは自律を促していく。父さんも世の中という厳しい海を一生懸命泳いでいるんだぞという生き様を見せつけるわけである。言い換えれば、そういうことがわかってくる年齢なのだ。

だから、ほんとどああしろこうしろとは言わない。無言で見せるだけだ。必然的に自分で考え、決断して実行するということが当然と思ってくる。それができるには、前述したように小さい時に愛情を注いであることが必要条件なのである。小さいときに会社の仕事が忙しくてろくに面倒もみないでおいて、受験の時にあの学校にいけとか、お父さんみたいな職につけとか言ったって子どもは聞かないだろう。

3つ目の肩を並べて歩こうよは、子どもが社会人になったらもう対等であるということなのだ。これは当たり前だと思うが、世間で認められた大人になったわけだから、大人同士の関係である。うちは親子で友達みたいな関係ですよというのとはちょっと違う。この友達というのは子ども感覚の友達で多くは大人の関係にはなっていないように思う。お互いに認め合った乾いた関係がいい。これもまた、自立、自律させたからこそできる関係なのである。(続く)
 

2014年5月 2日

極私的子育て論(2)

「1つ、胸を開いて抱きしめて」「2つ、背中を見せてついてこい」「3つ、肩を並べて歩こうよ」の実践編である。よいことを言ったって実際にやっていなかったら単なるホラ吹きになってしまう。一つ目の胸を開いて抱きしめては、おむつをしている小さいときから抱いてあげるのだ。これは母親だけの仕事ではなく父親も大いにやるべきなのだ。

ぼくは結婚した時は三重県四日市にある工場に勤務していたから、通勤時間も短いし、夕方には帰ってくることも多かった。だから、家に帰ってからもよく一緒になって遊んだ。夏などはまだ明るいから外でひとしきり遊びまわれたのだ。休日になると近くの公園とか遊園地などに行ったりした。

それと、夏は鈴鹿セブンマウンティンがすぐなので必ずテントを持って山登りをした。キャンプ場でもないところで一泊するのである。だから、水は川か湧き水だし、当然野糞である。子どもたちに設営から食事の支度までやらせる。そしてクライマックスは星が降ってくる夜空をみながら抱きしめるのである。中には悪天候に会い、一晩中水浸しになって抱き合って寝たこともあった。

2つ目の背中を見せてついてこいは、あまりああしろこうしろと言わないことから始めた。自分たちで塾に行くにしても受験する学校にしても決めるようになった。だから、下の子は中学生の時に真剣に競馬の騎手になると言い出した。こんな時もダメだとは言わないで見守っていた。今彼の身長は185cmだから全く無理だったのだが。

ここで象徴的なこととしてあることが彼らにインパクトを与えたことがある。実はぼくは学生の時からずっとたばこを吸っていた。一日30本くらい吸っていたからけっこうなスモーカーである。ところが、ある日ピタリとやめたのである。禁煙するぞと言ったり、だんだん本数を減らしていったというわけではなく、いきなりやめたのだ。いまだにその時のハイライトが机にしまってある。

その時、確か上の子が12歳で下の子が9歳だった。だからちょうど"胸から背中"に変わる時期である。この潔さを見た彼らは驚いたのだろう。いまだに、あの時のお父さんは偉いと言ってくれる。だから、子どもたちに何かよくないことをやめさせようとするとこの話が効くのだ。お父さんだってスパッとやめたのだからお前もできるだろというわけである。どんなエピソードでもいいから印象を植え付けることをしたらよい。背中を見せるとは"報われないことを誠意をもってやること"でこれを暗黙のうちにみせることだ。

最後は、現在進行形のことである。上の子とは彼が大学院を卒業すると同時に二人で起業した。それもぼくが社長ではなくかれが社長でぼくは一介の社員である。肩を並べるというよりぼくが背中についていっているのかもしれない。

ところで、最近のネットの話題で埼玉県の高校教師が自分の勤務する高校の入学式に欠席して別の高校に通うわが子の入学式に参加したことで大騒ぎになった。ここ、無責任だとか、プロ意識がないとか、逆に家庭が大事だからいいじゃないかといった、要するに自分が受け持つ生徒は放っておいてわが子を優先するのはよいのか悪いのかという論争である。

どうも世間は賛否同じくらいらしい。そこで、ここに書いた子育論で見ていくとどうも論点がそこではないように思える。高校の入学式までどうしても親がついていかなくてはいけないのか、あるいは子どもの視点として親がきてほしいと思うのだろうか、とぼくは思ってしまうである。何やら親のエゴだけのような気もする。"胸を開いて抱きしめて"時代ならわが子を優先してもいいが、"背中を見せてついてこい"時代になったらわが子よりも自分の仕事を優先すべきだと思うのである。皆さんはどう思いますか。

2014年5月11日

極私的子育て論(3)

前回は実践編ということでそれぞれ実際にどんなことをやったのかを書いた。ところで、親がやることも大事だが、子ども自身が現実社会の一員として自律した形でサバイバルしていかなくてはいけない。そのためにはどんな要件が必要であるかを考えてみる。これは確か内田樹さんが言っていたと思うのだが次の3つがある。

① 何でも食べられること
② どこでも寝られること
③ 誰とでも友だちになれること

子どもからおとなになって行く上で様々な障害を乗り越えていかないといけない。そのときここであげ3つができるのかできないかで大きな差が出てくるように思う。基本的にうちの子どもに食べ物の好き嫌いはないし何でも食べられる。ただ、上の子はアレルギーがあるので山芋とキウイが食べられない。

何でも食べられるというのは好き嫌いということもさることながら、多少生煮えだとか、地べたに落っことしたとか、ゲテモノ風とかいっても平気だということもいう。そのあたりは前回のエントリーでキャンプの話をしたが、そんな経験も生きていると思う。

キャンプの経験はどこでも寝られるということにもつながっている。ふたりとも少々劣悪な状態でも平気で眠っている。極端な例では学校から夜帰ってくると玄関で寝ていたなんてことが何回かあった。よそのうちに泊まったりしても気にすることもない。

3つ目の誰とでも友だちになれるというのはある意味特技であろう。それができるのは、おそらく楽観主義というか、どんな人でも何か良いところを持っているからそこを見てあげようという意志を持っているかだと思う。これはこんなところで内輪の自慢をしてもしょうがないがヨメさんすなわち彼らの母親の他人の悪口を言ったことがないという資質が受け継がれているように思える。

この、何でも食べられ、どこでも寝られて、誰とでも友だちになれるというのを丸ごと実践したのが下の子で、海外へのひとり旅である。それも欧米とかではなく、東南アジアそれもカンボジア、ラオス、タイ、インドなどのあまり人がいかないところを平気で出かける。そして、現地のものを食べ、現地の人と仲良くなるのだ。

ただ、上の3つだけでなくもうひとつあるように思う。それは「自分の頭で考えて言葉にできること」ではないでしょうか。現代は単に動物的な意味での生き残りではすまなくて文化的な部分の要件もあるように思う。それがこのことだ。すなわち、人に言われたように、あるいは教えられたとおりに考えるのではなく、しっかりと自分の頭の仲で思索し、表現できることが大切なのである。

表現の主なものは言葉である。上の子は本を何冊か書いているし、下の子も以前コピーライターの登竜門である「宣伝会議賞」でもうちょっとでファイナりストになりそうだったし、これもぼくがずっとブログを書き続けているのを見ているからかもしれないとちょっぴり思ってみたりする。ということで、もう親がどうのこうのと言わなくともとりあえずはサバイバルできそうである。
  

2014年8月 9日

ちょっといい話2014.8

ぼくの友達のS君はよく一緒に映画を観に行く仲間なのだが、以前はJICAに勤めていた。主に南米を中心にした活動だったので、今回サッカーのブラジルワールドカップでは高校時代の恩師や先輩・後輩を案内したりした。赴任が長かったのがボリビア、パラグアイ、ブラジルでワールドカップ終了後もパラグアイに行って旧交を温めて帰ってきた。

ブラジルでは、恩師の先生はもうずいぶん前にブラジルに渡ってもう亡くなってしまった弟さんの墓参りと残った奥さんとそのお子さんと面会した。甥っ子とは初対面だったという。S君はその場の近くにいたので感動していた。この話もちょっといい話なのだが、もうひとついい話がある。

実はS君のお父さんもJICAに勤めていた。今は93歳で一人暮らしをしている元気な人なのだが、自身も南米にずっといっていた。S君が高校生の時、家に遊びにいってもお父さんがいないので、最初母子家庭なのかと思ったが、南米(多分ボリビアだったと思う)に仕事に行っていると聞いて、そういう仕事もあるのだと感心したことを覚えている。だからS君はお父さんとそっくりな道を歩んだのだ。

それで、先日S君とお父さんのちょうど中間ぐらいの年齢のやはりJICAのひとが、ボリビア時代にお父さんが作った歌があるのだが、歌詞はわかっているが音符がないのでどこにあるのか知っているのかと聞いてきたのだそうだ。ボリビア時代のつらい日々や遠い日本を思いながら作った歌で時々みんなで唄ったのだという。

S君はその先輩の依頼にこたえるべくお父さんに尋ねる。ところが、音符なんてものは残っていないし、どこにあるかもわからないという。さて、そこでどうしたか。何と、お父さんがその歌を自分で唄うというのだ。さっそくレコーダーを持って行き、マイクを向けると93歳になるお父さんが唄いだしたという。もう50年も前のものなのだが、間違いなく唄った。

その先輩の息子さんが音楽関係の人なので録音した歌をその人に送って、採譜してもらうことにする。そのあとCDにして、その歌をまだ覚えているひとも現地にはいるのでそのひとたちに聞かせてあげるのだという。うーん、泣けてくる話ですね。
  

2014年8月29日

楽観主義と楽天主義

字面は似てても意味がぜんぜん違う。楽観主義の対語は悲観主義だけどそれとも違う。ぼくは常に楽観主義でありたいと思っている。アドラー心理学でも楽観主義を薦めている。何が起こっても何とかしようと思いたいのが楽観主義で、何が起こっても大丈夫、何が起こっても悪いことは起こらない、失敗するはずがないと思い、何とかなると考えて、結局何もしないのが楽天主義です。

また、悲観主義は、何ともならないと考えて、状況に立ち向かおうとしない、何もならないと諦めるのだ。楽観主義は現実をありのままにみて、とりあえずできることをやってみようという態度である。つまり、楽天主義、悲観主義は受動的な響きがする。一方、楽観主義は能動的だ。あるいは他力本願的な感じと自力でやるぞという意味合いもあるだろう。

アランの有名な言葉に「悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意思のものである。およそ成り行きにまかせる人間は気分が滅入るものだ」というのがある。まさにこのことを言っている。ただ、表面的にはそうした違いがわからないところもあって、本人は楽観主義でやっていると思ってもまわりからあいつは楽天家だと言われたりすることもある。

何か問題があった時に深刻に考えることが誠実だと思われがちで、あまり気にせずそういう姿勢を見せないと何だかこいつ真面目にやっているのかと疑われたりする。ぼくは楽観主義者であると言ったが、昔会社勤めをしていた時に、あまりうまく行っていないプロジェクトがあって、かなり追い詰められたことがあったが、そのとき人事部長に呼ばれて食事をしたとき、お前は極楽とんぼだなあと言われたことがある。

極楽とんぼってもちろん楽観主義とも違うし、どちらかというと楽天主義に近いかもしれないが、飛ぶのを諦めているわけでもないのでちょっと違う。周りのことを気にしない、悪く言えばカエルのツラにションベンってことかもしれない。こうなると、意思としての主義と行動パターンとか態度とかは切り離して考えたほうがいいのだろうか。

だから、考えは楽観主義であって、気持ちは「ケセラセラ」とか「人間万事塞翁が馬」だなんていう楽天的な態度でいいんじゃないかというのがぼくの心情である。ぼくの口癖で「ま、いっか」というのがあっていつも子どもたちから詰られるのだが、ぼくにとっての楽観主義の意思の表れでもあるのだ。
  

2014年9月23日

サバティカル宣言

腰痛が思ったよりひどく、ほぼ「脊柱管狭窄症」という診断で当分は遠出もままならないため、いま関わっているプロジェクトや研究会、ワークショップなどの活動を休止することにした。つまり、お仕事をお休みして長期休暇をとるというわけである。勝手に決めたので関係者の方々に迷惑をかけてしまい申し訳ない気持ちです。

ぼくはこれを「サバティカル休暇」と思っている。欧米では広く普及しているが、わが国でも最近では先進的な企業を中心に採用している会社も増えてきた。サバティカル休暇というのは、今までの仕事から離れて趣味でもいいし、自分の好きなことをやってリフレッシュするという意味合いもある。まあ、かっこよく言えば自分を改めて見つめなおす期間なのである。だから、ぼくも現状を一旦リセットして、こんなことしたいなあとかあんなことができたらいいなあと思っていたことをやろうと考えている。ただし、腰の具合が悪いので身体を使うことは残念ながらできないので、家にいて頭を巡らせることになる。

従って、このブログも一旦休止しようかと思ったのですが、毎日書き続けることを見直そうかと思っています。このブログを始めたのが2006年8月29日だから、ちょうど8年経ったことになります。それからほぼ毎日書いていたわけですが正直言って毎日続けるのはしんどいこともありました。ネタがなくて、やっと書いたとか、日記みたいな文章もあったかと思います。ですから日々、これはブログのネタになるかなと気になったり、ネタ作りのために何かしようとかということもあります。けっこう疲れましたね。

ということで、これからは毎日書かねばというプレッシャーから逃れて無理せず書きたいと思ったことだけをエントリーしていこうと思います。シリーズで書いていたものもある程度区切りのいいところで終わっていますのでよろしいかと。8年前の最初のブログにはこんなことが書いてありました。

ついにブログデビューです。 今年の6月に退職しました。まだ定年前なのですが、思い切って30年以上勤めたサラリーマン生活に終止符です。それで今はIT関連の会社を起業しようと考えています。 会社を辞めると暇でしょうがないでしょうと言う人もいますが、なんのなんの、これからやりたいことが一杯あって時間が足りないくらいです。そんなオヤジがこれまで考えてきたことやこれからの夢そして今の楽しい生活などを発信していきたいと思います。

今は2006年6月に退職したときの気分とちょっと似たようなところがあります。走り続けて疲れたら、一旦立ち止まって深呼吸してどっちへ走るのか、ゆっくり歩くのかそんな時間をもらったと思っています。今日はぼくの66歳の誕生日です。人生の残り時間も少なくなっていますが、腰を早く治してまた新たな挑戦をしていきたいと思っています。
  

2015年8月31日

鎌倉のまちづくり(1)

今各地でまちおこしだとか商店街の活性化だとか、あるいは地域の再生といったプロジェクトが盛んに行われている。これは、日本の社会における人口減、少子高齢化、都市への集中と地方の衰退といった人口動態の変化に対応するものだ。そうした背景を理解すれば、新しいまちづくりの方向性が見えてくると思うのだが、どうもまちづくり計画の内容は以前の高度経済成長時代の考え方を踏襲しているように思えてならない。

特に行政が絡んだ土地利用計画において顕著であると感じる。つまり、こうした土地利用計画は長期にわたるものが多いから、当初の計画案は10年、20年、へたをすると30年も前に作られたものであることが往々にしてある。従って、当時の考え方、すなわちハコモノをどんどん作ることが街づくりの基本になっているのだ。ところが、バブル以降多くのところで破綻をきたした。

ならば、現代の情勢にマッチしたコンセプトに切り替えたらよいと思うのにそれができない。もちろん、見直しはするのだが、いつも原案ありきで若干の修正を加えるだけでお茶を濁すのである。おそらくお役人の習性である既往のものをひっくり返すのはやりたくないという根性が染み付いている。新国立競技場の一件もしかりである。

たしかに行政というものは極端ではいけないし、コロコロ変わってもいけないのはわかるが、それによってあとで文句を言われないような八方美人的な案になってしまう。そこには、"らしさ"という特徴も出ないし、魅力のあるまちにはならないのである。もう少し時代の変化に対応したものに変える勇気をもってもらいたいのだが、そのリーダーシップをとる人がいないのだ。上から言われたことを忠実に実行することが彼らの価値と言った振るまいなのである。

また、お役所で欠けているのがソフト的な思考で、どうしてもハード面を先行して考えてしまう。どんな施設を作ったらよいかというアプローチになる。税金を投入するのなら目に見えるものにという発想が強いように思える。何をしたい、あるいはどうなってほしいから、それを実現する入れ物を作るという順番なのだが、まずはハコモノありきという進め方に陥る。

ハードとソフトは一体でむしろソフト面でのコンセプト作りが重要である。つまり、哲学・ビジョンをきちんと決め、そのビジョンを達成するためのコンセプトを仮決めして、そこから多くのアイデアを出し合いながら、コンセプトを固めていくという"創造のプロセス"を実行していないということに尽きる。自分たちのまちを創造していくという意識が希薄なのである。次回は今まで言ってきたことを実際の例(鎌倉市深沢地区のJR東日本工場跡地開発)に当てはめて見ていくことにします。
  

2015年9月 1日

鎌倉のまちづくり(2)

地域開発の事例として、現在ぼくの家の近の土地利用計画についてみていきましょう。このブログでも若干紹介したことがありますが、再度これまでの経緯について簡単に説明しておきます。土地というものは、代々様々な事情があって引き継がれてきたものなのでその辺のところを理解しておく必要があります。

ということで、まずは今対象となっている土地についてです。ここは梶原、寺分、上町屋、常盤といった住所にまたがったところで主にJR東日本の工場があったところです。平成18年にその工場が閉鎖されて、市有地を含めた32Haという広大な土地をどう利用するのかという「深沢地区まちづくりビジョン」(平成21年)、「深沢地区の土地利用計画(案)」(平成22年)、「深沢地区まちづくりガイドライン(案)」(平成25年)が策定されてきました。

その計画に対して、地元の私たちは昨年の3月に「洲崎陣出の杜の会」を立ち上げて、現行計画の見直しを主張したわけです。どういう主張かは後述しますが、具体的な行動としては鎌倉市議会に陳情書を提出しました。その結果昨年12月に出した2度目の陳情が賛成多数で採択されました。それを受けて、会としての土地利用計画(これも後述)を市に提示して、意見交換会を実施したのですが、市は既存の計画に固執して話し合いは平行線をたどっています。

前回指摘したように、一度決めたことは頑なに守ろうとする態度がありありなのです。ですから、現計画の微調整ですませたいようなのですが、基本的な考え方の齟齬があり、また世の中の情勢もずいぶんと変わってきた現在、現計画の陳腐化は明らかで、抜本的な見直しが急務なのです。ですから、私たちは市との意見交換会を打ち切り、広く地元住民の意見を聞くべく署名活動の準備をしています。

おおまかなこれまでの経緯はこんなところですが、そもそもこの土地がどんなところであったのかを知ることも私たちの思いを理解する上で大切なことだと思うので少し紹介しておきます。鎌倉というと七つの切り通しの内側(旧鎌倉という人もいる)が由緒ある歴史があるところと思いがちですがここ深沢にも深く歴史が刻まれています。

この地域は、奈良・平安時代は相模国鎌倉郡と呼ばれ、七郷の1つである梶原郷が現在の深沢地区の一帯にあたります。有名な故事としては、1333年の新田義貞の鎌倉攻めのときに迎え撃つ赤橋守時との攻防の地であり、鎌倉幕府の終焉を告げる洲崎の古戦場なのである。その字名は陣出と称したことから「洲崎陣での杜の会」という名はそこからとっている。

このことは、「太平記」にも一日60回の切り合いがあったと記されています。また、そのときの戦死者を周辺の住民が弔うために建てた「泣き塔」と言われる供養塔が残されています。そこには文和5年(1356年)という年号が刻まれ、重要文化財に認定されています。こうした由緒ある土地はその後農地として住民たちが農業を営んできました。この地がある日突然・・・。続きは次回に。
  
泣き塔.jpg
  

2015年9月 5日

鎌倉のちづくり(3)

前回、深沢という地区が歴史的ロマンあふれる土地であることを紹介しましたが、戦時下の昭和17年に突然海軍工廠により強制接収されてしまいました。横須賀工廠向けの部品供給工場となったわけです。北側の山を削ってまだ稲穂が繁っていた田を埋め立てて作られました。戦後の昭和20年には日本国有鉄道に払い下げられて、大井工場分工となりました。

ですから、その当時は各地から人も集まってきて600人位の人が暮らしていました。ぼくが小学生の時にも多くの国鉄大船工場に勤めている人たちの子弟が学校に通っていましたし、友達も多くいてよく官舎に遊びに行ったものです。いまだに、その当時の同級生たちとは集まっては昔話に花を咲かせています。

その後、ご存知のように昭和61年の国鉄民営化に伴い、その地は国鉄清算事業団の管理下に置かれることとなった。実はその時、自分たちの土地を強制接収されたという経緯から、地元町内会を中心にして鎌倉市に払い下げてくれという陳情を行いました。しかし、一部は市の土地となりましたが、大部分は現在のJR東日本の所有するものとなっています。

そして、平成18年度末をもって工場が閉鎖されて、市有地を含めた32Haという広大な土地が生じたのです。そこで平成19年に「深沢地区事業推進協議会」が発足して利用が本格的に議論されるようになり、その結果「深沢地域の新しいまちづくりビジョン」が提案されました。それまでにも「深沢地域の新しいまちづくりの基本計画(案)(平成8年)や「深沢地域の新しいまちづくり基本計画」(平成16年)といったものが策定されて、まちづくりのビジョンが示されていましたが、より具体的な土地利用計画が示されてきました。

そこから、平成22年に「深沢地土地利用計画(案)、平成25年には「深沢地区まちづくりガイドライン(案)」ができ、そこにある計画について見直しを陳情して採択されたわけです。もちろんこうした計画づくりには市民の代表として地元の人間も参画してはいたのですが、なかなか意見が聞き入れてもらえず、専門家と称する人や行政が主体的に引っ張っていったというのが実態だったようです。

いま見てきたように、現計画の元は平成8年に作られた「深沢地域の新しいまちづくりの基本計画(案)」であるわけで、もう20年近く前のものなのですが、基本的にはそれを引き継いでいます。この20年で環境は大きく変化していることを考えるとどうしても見直しせざるを得ないのではないでしょうか。次回は実際の計画の中身についてみていくことにします。

2015年9月21日

鎌倉のまちづくり(4)

まちづくりに関する計画は過去に何回か出されています。詳しくは鎌倉市のホームページをご覧になってください。

・ 深沢地域の新しいまちづくり基本計画(平成16年9月)
・ 深沢地域の新しいまちづくりビジョン(平成21年6月)
・ 深沢地区の土地利用計画(案)(平成22年9月)
・ 深沢地区まちづくりガイドライン(案)(平成25年5月)

いちおうこれらの計画はつながっているといっているのですが、よく読むと微妙に修正されていっています。例えば、当初は市の課題のようなものはあまり出ていなかったのですが、少子高齢化の波や税収の減少といった環境変化に対応しようという意向が感じられます。ただ、各計画をいちいち追ってもあまり意味がないので直近のガイドラインに焦点をあてて議論していきます。

ガイドラインの最初のほうは、位置づけ、目的、対象区域、構成といったところなのでとばして、まずは「まちの将来像」についてです。

まちの将来像:『健康生活拠点・深沢』 本地区のまちづくりは、「ウェルネス~人・都市・社会にとって非常に好ましい総合的な健康社会~」をテーマに検討を重ねてきました。 深沢地区が持つポテンシャルを十分に活かしながら、本市において鎌倉駅周辺地域、大船駅周辺地域との差別化を図る第三の拠点形成をめざしています。まちづくりにあたっては、市民をはじめ、そこで暮らし、働き、学び、訪れる人たちが、健康で快適な生活をおくるための拠点として、様々な機能の集積と連携の中から優れた環境を創造し、豊かなライフスタイルの提案、新しい鎌倉ブランドの発信につながる、総合的な健康社会を先取りしたまちの実現をめざします。

これはいわばビジョンみたいなものであるべきなのですが、どんなまちになるのかイメージできますか? なんか当たり前のことを抽象的な表現で並べてあるだけで、いったいどんな特徴を持たせて、具体的にどんな形になりそうかがさっぱり見えてきません。だって、ここに書いてあることは要するに大前提の話であるわけです。そんなことは誰だって思っていることでしょ、だからどうなのってことです。

揚げ足とりになるかもしれませんが、"様々な機能の集積と連携の中から優れた環境を創造し"って、とぼけてますよね。本末転倒でこういう環境を作りたいから、こんな機能が必要でそれをどう連携させるかになるのであって、そのビジョンが欠落している。

また、"豊かなライフスタイルの提案、新しい鎌倉ブランドの発信につながる、総合的な健康社会を先取りしたまち"もビジョンではない。豊かなライフスタイルっていう日本語もおかしいし、総合的な健康社会を先取りしたまちから新しい鎌倉ブランドを発信することに意味があるの?

そもそも、ビジョンはウオンツを表現したものである。つまり、誰がどうしたいのか、どうあって欲しいのかといった言葉がなくてはいけない。そこには、作る側とそこに住む人あるいは周辺で暮らしている人も含めて、その思いが詰まったものであるべきなのだ。そうした言葉がどこにあるのでしょうか。

ツッコミどころが満載なので、さらに続いていきます。まちの将来像の次にまちづくりに取り入れるべき7つの要素があげられています。

①多機能:様々な機能の集積・連携による拠点の形成
②賑わい:活気に満ちた賑わいの場の創出
③交流:あらゆる世代が交流できる空間の創出
④歴史:深沢地区及び周辺の歴史資源や土地の記憶の継承
⑤安全・安心:あらゆる世代の人々が安全で安心して暮らせる環境の創出
⑥緑・水:深沢地区及び周辺の固有の自然環境の活用と新たな緑と水環境の創出
⑦環境共生:環境への負荷が少なく、健康で安心して暮らせる環境の創出

これまた、ありきたりの要素を列挙しているに過ぎない。ここのどこに「ウェルネス~人・都市・社会にとって非常に好ましい総合的な健康社会~」を特徴づけるものがあるのでしょうか。活気に満ちたに賑わいの場はそこに住む人の健康に寄与するのでしょうかねえ。成長期につくられたまちのようにただのハコをまだつくろうとしていると思わざるを得ないのである。

まだ続いていきますが、私たち「洲崎陣出の杜の会」では、現計画の見直しに向けて署名活動を行います。外部サイトからも署名できますのでご賛同いただければと思っています。よろしくお願いします。
  

2015年9月29日

鎌倉のまちづくり(5)

今までの流れからちょっとはずれますが、9月27日に行われた「深沢地区(JRの跡地)まちづくり「つどい」」のことを報告しておきます。「洲崎陣出の杜の会では、9月25日に新聞の折込チラシを配布して、署名活動への理解と賛同をお願いしました。そこで通知したフォーラムを翌々日に開催したわけです。

チラシ未来図.jpg

総勢45名(うち3名の市議)の参加を得て活発な議論が行われました。ぼくは司会進行とパネルディスカッションのコーディネーターという役目を与えられましたが、どうにか乗り切りました。終わってからよかったよというお褒めの言葉もいただきほっとしています。

そこでは昨年末の陳情採択後の経過と今後の諸活動についての報告と議論が展開しました。今年初めに行政と私たちの間で4回の意見交換会を行いましたが、行政側はここでも指摘したように一貫して既成計画の維持を主張して、噛み合わず平行線のままでした。陳情採択という事実を無視する暴挙です。そうした経過を説明し、単なる話し合いから署名活動という独自活動に軸足を移したことを理解してもらいました。

パネルディスカッションの後半では出席者からの質問も受けましたが、賛同の意を表した意見ばかりで意を強くした次第です。ということで、このあとは実際の署名活動に入りますが、その間に周知してもらうためのミニ集会を開きます。もし興味のある方がいらっしゃいましたら出席してくだい。詳細はホームページを参照願います。


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