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男の伝言板 アーカイブ

2011年09月22日

男の伝言板

最近、「大人の流儀」(伊集院静)「男の作法」(池波正太郎)「男の心得」(佐藤隆介)というタイトル本の話を書いたが、これを合わせたような「大人の作法」(山本益博)「男の流儀」(諸井薫)もあるんですね。ただ「大人の心得」という名の本はなかった。

だから、このタイトルでシリーズ記事を書こうと思ったが、何となく上から目線のようでもあり、説教っぽくなることもあるし、これまで生きてきたなかで、ずいぶんと“心得違い“なことを多く重ねた身にとっては恥ずかしいということもある。というわけでそのタイトルはやめて「男の伝言板」ということで書いていこうと思う。

昔は駅に行くと必ず伝言板というものがあって、待ち合わせなどで利用したものである。今は、携帯電話というものを誰でも持つようになって消えてしまった。だから今の子どもたちは知らないと思うが、伝言板は「○○ちゃん、待ったけど来なかったので先にいった」とか「急用ができて行かれなくなった。○○より」とかいった文言が書かれていた。

伝言が必ず読まれるという保証はないので、誰にも見られることなく消されることもあるのだが、でも書いておきたいという気持ちが伝わって、全然知らない人のほのぼのとした伝言に思わず微笑んでみたりといった風情を感じたものであった。今の人には理解できないプリミティブなコミュニケーション手段である。

で、これから書いていこうというのはぼくが今まで生きてきた中で出会ったことややってきたことなどを、それこそ読みたい人だけ読んでくれという感じで書き流しておこうというものである。だから「伝言板」なのである。以前からこのブログはある種の遺言であると宣言しているが、改まって書くのではなく、それこそ伝言板に書くように書いておきたいということだ。ただし、駅の伝言板と違うのは、消さないということである。(ついちょっと前のトラブルのように、消すつもりがなくても消えてしまうこともあるのだが)

非常にプライベートなことなので、他人にとってはどうでもいいことであり、つまらないことでしょうが、自分の時は、自分の場合は、自分のところではといった見方で比較しみるのも一興かと思います。さて、どうなるでしょうか。

2011年09月28日

男の伝言板 - 先生(1)

さて、「男の伝言板」シリーズの最初の伝言は「先生」についてである。誰もが先生に教わったことがあるだろうし、中には自分が先生になった人もいるだろう。ここでは。ぼくが出会った先生について書く。先生と言っても、代議士先生やお医者さんといった人たち(ぼくでも中国に行った時は先生である)ではなく、学校の先生のことである。

ぼくには幼稚園から大学までそれぞれの段階でひとりずつ大変に影響を受けた先生がいた。順番に追いながら話していこうと思う。まずは、幼稚園であるが、そんな小さい時のことを覚えているのかと言われるが、かなり記憶に残っている。ぼくは3年保育だったので、3歳で初めて登園するとき姉にしがみついて嫌がったのも覚えている。

その時に面倒を見てくれた栄子先生が忘れられない。いまだにご健在でこの間かかりつけの医者でばったり会った。ぼくが教えられたのは連帯責任ということだ。友だち数人と遊んでいて、その中誰かがいたずらをして(何をしたかは覚えていない)ひどく怒られたのだが、その時、一緒に遊んでいたぼくらも同時に倉庫に閉じ込められたのである。

ぼくは何もしていないのになぜだという思いでくやしかったのだが、あとで考えたらあのときなぜ止めなかったのかという責めを無言のなかで教えてくれたのだ。5歳の子でもその意味はわかった。いまだに閉じ込められた倉庫の暗さと塀の高さが残像としてあるが、だいぶ大きくなって幼稚園にいてみたらなんだこんな小さいところだったのだと驚いた。

小学校は何といっても、2年から4年までの担任であったK先生である。まだ20代の若さで理科の先生であったので、野外活動とかでしょっちゅう植物採集やら化石発掘、日食観察といったことをやった。そのおかげでぼくはすっかり理科少年になったというわけである。いまだに姉に言われるのだが、お前はいつもじゃばら折りになった牧野富太郎の植物図鑑を片手に道端の草を観察していたねと言われる。

4年生になったあるとき先生が「おまえたちテレビにでるぞ」と言われてみんな唖然とした。だって、ぼくの家にテレビがきたのが4年生のときだから、まだまだ自分の家にテレビがない子もいたから、テレビに出ることがどういうことかよく分からなのである。

K先生の学生時代の友だちがNHKにいて、その人からの出演依頼なのだという。「はてな劇場」という始まったばかりの教育チャネルの番組である。一クラス分の子どもたちを並べて、理科の問題を出して、それに答えるというもので、司会がなんと黒柳徹子であった。そこで出された問題はいまだに覚えている。

最初は蛙の絵を見せてこれは何という蛙かを答えるもので、さっとみんなが手をあげた。田舎者にとっては簡単な問題だ。清水君が「トノサマガエル」と答えて、黒柳徹子が「正解」と言った。ところが次の問題が難しい。今でいうジェットコースターのような仕組みが出てきてそこにビー玉を転がして、坂を転がるとだんだん早くなるのを何というのかみたいな問題である。こりゃあ、田舎者にはわからない、全員下を向いてだんまりを決め込む。この時は、付き添ってきた先生もはらはらだったようで、答えは加速度である。

そんな先生が大好きだったが、さらにぼくに教えてくれたのは弱者に対するやさしさだった。あるとき同じクラスにM君という転校生がやってきた。学校からだいぶ離れた山の中の一軒家だがそこに父親と二人で住むようになったためにぼくらの学校に来たのだ。ところが、その子が今で言うところの登校拒否児童であった。

どうも複雑な家庭事情であるらしく、家に閉じこもってしまう。そこで先生はクラスのみんなに順番にその子の家に給食のパンを届けに行かせたのである。誰もいなくて玄関に置いて行くだけの時もあったり、いても一言も話さなかったりということを繰り返すうちに徐々にうち解けていき、そのうち登校してくるようになったのである。

このことはぼくには印象深いこととして残っているのだが、実はその反対に近いようなことも味わったのである。あるときアンケートみたいなことをやった。いくつかの質問に答えるのだが、その中に「あなたがきらいな子はだれ」というのがあった。いま考えると恐ろしい質問だが、名前を書くべきか、書かざるべきかすごく悩んだ結果、ある子の名前を書いてしまったのである。

その子は、ガキ大将だとかいじめっ子ではない。逆で、ぼくが何か言ってもだまってたり、グズグズ、ウジウジしていてしっかりしろよと言いたくなるような子だった。だから、もっとビシッっとしろよという気持ちを込めて“きらい“と言ってしまったのだ。そのことをずっと引きづっている。お前の弱者に対するやさしさって何だったのかというのと、かわいそうだという強者の論理もいやだなあという葛藤である。結局、目線を下げたやさしさを持とうと思ったのである。

K先生のところには、卒業してからも時々先生の自宅にお邪魔をした。ぼくらが卒業してすぐにわれらのあこがれだった保健室のS先生と結婚していて、家が海の近くだったので浜で遊んでから風呂に入れてもらい、そのあといつもカレーライスをごちそうになった。当時はなにかあるとカレーライスである。その味がいまだに忘れられない。
  

2011年10月05日

男の伝言板 - 先生(2)

中学校の時に大きな影響を受けたのは、2、3年の担任だったM先生だ。女の国語の先生で、バスケット部の顧問だった。何というか、凛とした感じで男っぽくもあった先生らしい先生であった。だからぼくはいつも先生の前ではシャキっとしたものだ。

ただ、ぼくは通うのに時間がかかったので(これは言い訳)、遅刻の常習犯であった。ホームルームがあるときはいつもM先生がこそっと教室に入るぼくをにらみつける。そして怒られるのだがこれがなかなか改まらない。その時だけシャキッとするのだが、またもどるので先生も呆れたと思う。

先生に教えられたことで、印象に残っているのは、自主性ということだ。自分の頭で考え、自分の思うように行動しなさいというようなことを、別段はっきりと言われたわけではないが、そう仕向けてくれた。例えば、体育祭などの行事にしても、みな生徒が全部自主的にやった。自ずと役割が決まり、それぞれがその役割をはたすべく動き、それを周りがサポートするということを知らず知らずにやらされていた。

M先生もぼくが卒業するとすぐに同じ中学のサッカー部の顧問でぼくを教えてくれたH先生と結婚してしまった。これにも驚いたが、ぼくらがキューピットみたいなところもあって、一度新婚のお宅へお邪魔した。たぶん、その時はカレーは出なかったと思う。

ぼくはサッカーを中学3年から始めた。家が遠いこともあって、部活は難しかったが、同級のS君が2軍の試合でメンバーが足りないから来てくれと言われて参加したら、それから部員になってしまった。それで、高校進学したら、サッカー部から誘いがきたのである。今の高校ではみな中学でサッカー経験がある子ばかりだろうが、当時はあまりいなくて、同期でも中途半端なぼくを入れてたったの3人であった。

で次に高校時代の先生はサッカー部の顧問だったS先生である。ぼくらの高校は文武両道が伝統ではあったが、サッカー部はけっこう強かったので、練習もきつく武の方に偏った生活であった。だから、S先生とはいつも指導を受けるという濃い毎日を送ったのである。

先生は、ぼくらが入学したとき30歳になったくらいだったので、ぼくらと一緒にグランドを走り回り、それは元気でした。教育大(今の筑波大)の名選手だったキャリアだから、いろいろなことを教わった。サッカーに関しては、素人のような生徒で、経験者ばかりの他のサッカーの強い学校に勝つにはどうしたらいいのかをよく研究されていた。

そこは、文武両道だから頭を使えということにつきる。力と力の勝負では勝てないから、個よりも組織、技術よりもひたむきさ、足の速さよりも判断の速さといったような自分たちの実情にあった戦い方を模索したのである。その最も効果を発揮したのが、4-2-4フォーメーションの採択である。

当時はWMというフォーメーションが主流、というかこれしかなかったのだが、それを変えてしまったのだ。先生はヨーロッパサッカーの情報もちゃんと収集していたので、そこから得たのである。このフォーメーション変更が、ものの見事に決まったのが1966年の関東大会であった。何と予想もしていなかった優勝を成し遂げてしまった。

4-2-4とWMがぶつかるとどうなるのか、簡単に言うと相手のバックスはツートップをセンターハーフ一人で抑えなくてはいけなくなり、また相手センターフォワードはストッパーにマンツーマンで付かれ、それを振り切ったと思ったらスイーパーがいたということになるわけで、もう混乱するのである。当時は、センターハーフとセンターフォワードくらいしかすごい選手がいなかったからなおさらだ。

いまや、4-2-4というか4-2-3-1といった変形の方が多いかもしれないが、主流となったフォーメーションを45年も前にやっていたことに驚く。そんなわけで、S先生からは、頭を使い、知恵を出し、やるべきことができたらそれに真剣に立ち向かい全力を尽くすことを教わったのである。今も会うと昔と同じように指導してもらっている。

さて、最後は大学なのだが、正直言ってまじめな大学生ではなかったので師と仰ぐ先生はと問われると首をかしげてしまうのであるが、卒業論文を指導して下さったO先生である。もう亡くなられたのですが、当時ももうけっこうなお歳でべらんめー調のしゃべり方で恐いというイメージでした。

ぼくがなぜその先生の研究室に入ったかというと、3年生の時のO先生の授業でひどく怒られたことがきっかけである。ぼくはさっき言ったようになまくら学生だったから、その授業のときも雀荘にいるパターンが多かったが、あるとき友だちが雀荘に来てお前何やってんだよ、いまテストがあったんだぞと言ってきた。ありゃー、こりゃあまいったである。

そして、次の授業のとき先生は、成績の悪い奴を名指しし立たせたのである。もちろんぼくの名前も呼ばれ、もうこいつらは落第だと脅された。ところが、あとで成績表をみるとぎりぎりセーフではないか。というわけでとても簡単な理由で先生の部屋にいったのである。それから、ぼくが改心してまじめな学生になったかというと相変わらずひどい生活は変わることはなかった。しかし、そんなぼくをきつい言葉で叱り飛ばされながらもいつも目の奥で微笑んでくれたのである。この包むような暖かさを教えてもらったような気がする。
  

2011年10月15日

男の伝言板 - 師匠

学校を卒業して社会人になると、師は師でも教師とは言わず師匠となる。そして学校のように、先生がしょっちゅう変わるわけではないので、師と仰ぐような人はそう多くは現れないのである。そのかわり、会ったことも話をしたこともないような人とか、本や映像の中の人とかが対象になったりする。

ぼくが社会人になって現在まで、身近なところで師匠と呼ぶような人は3人いる。会社に入ってすぐの若い時に鍛えられた人、中堅になって一緒に仕事をしていろいろなことを教えられた人、ある程度の地位になってから親身になって助言をもらい助けられた人たちである。

実は、この三人のうち初めの2人は若くして病魔に侵され既に他界している。ぼくには、疾走して燃え尽きたようにも感じられ、ときどきあの頃全力で走る背中に必死でついていったなあという思いに駆られる。そういえば時代も高度経済成長期でもあって、とにかく前へ前へ進んでいたのだった。

ぼくは会社に入ってすぐに工場勤務となった。しかも、交替職場で文字通り油まみれになって働いた。だから周りはほとんど地元の工業高校を出た人たちだった。当時は今と違って、工業高校、商業高校をでて地元の有力企業に入るのが普通だったので、優秀な人たちが多かった。今の大学生なんかよりもよっぽど頭もよかったし、何よりも使命感に燃えていた。そういう人たちが、経済成長を支えたのである。

最初の師匠は、地元の学校ではないのだがやはり地方の工業高校を出て、出向で来ていた。ものすごいバイタリティであるが、激しさも持っていたので、それが故に敬遠された面もあったが、仕事ができるから結局は誰も文句は言えない。その頃は、ほとんど直接教えてくれなかったから、ぼくはそういう姿を見ながら自分で勉強するしかなかった。まともな、教育とか研修なんかなかったのだ。みなそうだった。

2番目の人は、現場から離れて管理部門にいったときのすぐ上の上司であった。この人は、ロジカルな思考と主張を教えてもらった。前述したように、工場は理屈どおりにはいかないことも多く、経験や勘にたよるようなところがあったが、理論的なアプローチを常に求められた。まあまあ適当には通じないのである。

だが、こうした態度は時として、因習的なこととか既成概念とかを守る人たちにとっては厄介なことになる。実際にも、その人は冷めしを食わされたのである。しかし、それだからといって信念を曲げたわけではなく、飛ばされたところで立派に実績をあげて再評価されたのである。がんばったこととそれを見ていた経営者は立派だと思ったのである。

最後の師匠は、会社の経営の人である。頭の切れる剣客商売の秋山小兵衛のような人とぼくは勝手に思っている。主にぼくが情報システム部門に移ってからの関係なのだが、その人はITに強いわけではないが、情報システム担当になったのでCIOだと自認していた。

包容力のある人で、いつもちゃんと話を聞いてくれるので、ぼくも包み隠さず何でも報告し、相談するような関係であった。ある大きなプロジェクトのサブリーダーにも指名してくれたし、重要な役割も与えてくれたのだが、うまく行かずに会社を辞める時ももちろんまずはその人に申し出た。そして、「わかった」という一言で退社することとなった。会社を辞めてからも何度かお会いして食事したりしている。

こうしてみてみると3人の共通点が浮かんでくる。それはわかりやすく言うと、「お前の自由にやっていいぞ、もし何かあったら責任はおれがとる」だと思う。ただ、自由にやっていいというのは、好き勝手にやっていいと言うことではなく、まあまあだいじょうぶそうだということを見極めているのである。その目利きができているひとを「師匠」と呼ぶのだろう。

そして、師匠に対する弟子の態度について、内田樹はこんなことを言っている。ぼくがずっと気を付けていたことでもある。

「学ぶ(ことができる)力」に必要なのは、この三つです。 第一に、「自分は学ばなければならない」という己の無知についての痛切な自覚があること。 第二に、「あ、この人が私の師だ」と直感できること。 第三に、その「師」を教える気にさせるひろびろとした開放性。 この三つの条件をひとことで言い表すと、「わたしは学びたいのです。先生、どうか教えてください」というセンテンスになります。
   うーん、ぼく自身は弟子に慣れても師匠にはなれないなあ。   


2011年10月22日

男の伝言板 - 感動したセミナー

それぞれ印象的で影響が強かった先生、師匠を3人ずつあげたので、次はこれまでに聞いたセミナーで感動した人を3人選んでみる。ぼくは、セミナーとかシンポジウムとかは出席しない方である。本当は世の中がどんな風に動いているのかをウオッチする意味でも定期的に聞きに行った方がいいのかもしれない。

ただ、わずかな時間で聞いただけで分かったような気になるのも浅薄に思え、また自分の聞きたい要件にぴったりしたものもないことからめったに行かないのである。それでも、長い間には、これはおもしろい、すごく感動した、とてもためになったというセミナーももちろんある。IT関連のセミナーがほとんどなので、そんな中から3つあげてみるが、結局、ぼくのITに関する考え方の変遷みたいな結果になる。

ぼくが、ITの領域に本格的に踏み入れたのは1994年である。その前にもユーザとして生産管理系のシステムには関わったことがあるが、ITを供給する側に立ったという意味でそこからがスタートである。この年の雰囲気はもうだいぶ忘れてしまったが、インターネットというものが企業の中にも現れたころでもあり、翌年に発売になったWindows95の爆発の直前でもあった。

従って、企業情報システムも従来のホストー端末から大きくパラダイムが変わろうとしていた。オープン化、マルチベンダー化、クライアントサーバー化といった流れが押し寄せてきたのである。環境としての変化と共に新たなプラットフォームでどういうシステムを構築していくのか、どうやって開発するのかいった命題が浮かびあがり議論が盛り上がった。そんな時に出会ったのが、佐藤正美さんのT字型ER手法である。

ある人から紹介されて、彼のセミナーに行った時の衝撃は忘れられない。ぼくは、自分で開発したこともなく、まだシステム部門にきてから日も浅く、十分理解できるわけでもなかったのだが、歯切れのいい言葉で理論的に語る姿にまいってしまった。そして、実際に彼の指導のもとにシステム開発を行ったのである。ただ、それはそれで勉強になったが、難しいこともあり消化不良で終わった。

しばらくすると、ERPというパッケージが注目されるようになる。当時はERPというのはSAPのことである。ぼくは化学会社の情報システム部門にいたのだが、そのころから、化学会社はこぞってSAPの導入に走っていった。そして2000年も過ぎてくると、いつのまにか主要な会社のほとんどにSAPが入るという状況になった。

ぼくは、いつも同業他社の情報システム部長からなぜSAPを入れないのかと尋ねられた。もうSAPを入れないことが珍しいことに映っていたのである。その時の答えは、「SAPに積極的なメリットを見いだせない。データベースやシステムの統合という意味が強いわけで、それだけなら既成のメインフレームで構築済みだからリプレースする必要はない。リアルタイム性と言うけれどそんなものが必要ですか、日次バッチでじゅうぶんじゃないですか」というものだった。

ところがである。2003年の春に日本で行われた「 SAP SAPPHIRE2003」というイベントで聞いたSAPの若き技術トップであるシャイ・アガシの講演は衝撃的であった。このとき、SAPはESA(Enterprise Service Architecture)という概念を打ち出し、Netweaverというプラットフォームを提示したのである。今でいうSOAである。

従来の、SAP/R3からmySAP ERP(その後、SAP ERPとなる)への明確なシフトである。ぼくは、そのころSOA的な構造やプロセス志向に傾いていたのでわが意を得たりと思ったものだ。しかし、新しいSAP ERPも日本のベンダーはなかなか咀嚼できずにしばらくはR/3を推奨し続けていた。今や、ERPに興味がないのでどこまでいっているのかよくわからない。

聞くところによるとシャイ・アガシはSAPを辞めて、電気自動車用のバッテリー充電ステーションの会社を立ち上げたそうだ。だから継続性がなくなるので欧米の会社は困るという人もいるかもしれないが、コンセプトメーカーは、煽ることが使命なのだろう。

そして、最後の一人は、オランダのデルフト工科大学のJan Dietz名誉教授である。2010年1月に開かれたセミナーで彼が確立したDEMO(Design&Engineering Methodology for Organization)という理論を聞いたときにはしびれた。Ontologyという概念に基づいて開発されたもので、オントロジーというのは、企業活動を捉えるとき、従来のような仕事のつながりを重視することから 人間的な側面を見ていこうというもので、観測可能な表層の下に隠れた深層構造があり、もっとそこに焦点をあてる考え方である。

この理論の元になっているのが、Terry Winograd スタンフォード大学教授のLAP(Language/Action Perspective)という理論で、いずれも人間主体のシステムを考えようということである。単なる自動化ツールとしてのITではなく、人間が使いこなす道具としてのITを標榜しているのは今のぼくの立ち位置に符合しているのである。
  


2011年10月29日

男の伝言板 - 遊び三昧

三題話が続いたので、堅い話からやわらかい話を少し。若いころの遊び方も昔とずいぶんと変わってきているように思う。今は多様な遊び方になっていて、決まりきったものというのはないかもしれない。呑み歩きもあまりしないようだし、車にも興味がないという。うちに籠ってゲームやカラオケを楽しんでいるのだろうか。

その点、ぼくらの世代はだいたいパターンが決まっていた。よく言われたのが、「立てばパチンコ、座れば麻雀、歩く姿がボウリング」だ。だいたいが、大学に入るとみな一様にこれをやる。だから、学校の近辺には、パチンコ屋、雀荘、ボウリング場がある。それと、コンパと称する呑み会があった。このくらいならたいしてお金を持っていなくても遊べたのである。

もちろんぼくも例外ではなく、勉強そっちのけで遊んだ。授業をさぼって雀荘にいてひどいことになった話は書いた。高校生の時と浪人時代の受験勉強生活から解放されて、しかもキラキラの都会に放りだされたわけだからのめってしまう。当時は、まだ学生運動が盛んだったから、しばしば休講になるから時間があるのだ。外で火炎瓶が飛んでいるわ、教室にゲバ棒を持ってなだれ込むわでは授業もろくにできない。

しかし、2年も半ばくらいになるとそういった生活に嫌気がさしてくる。さすがに非生産的な生活に見切りをつけなくては思いだす。ちょうどそんな折、大学がロックアウトされたのである。「大学臨時措置法」の紛争である。この法律をめぐって各大学は騒然として、授業どころの話ではなかった。

学校に来てはいけないのだから、ノンポリの身ではではすることがない。でどうしたかと言うと、家にほとんど帰らず、荻窪に住んでいた友だちの家に居座って、2ヶ月近くの間毎日「立てばパチンコ、座れば麻雀、歩く姿がボウリング」の生活をしたのだ。いまから考えるとひどいことをしたなと思う。

要するに、朝早く起きて数人で早朝ボウリングに行く、終わったあと喫茶店でモーニングセットで朝食である。腹ごしらえをした後は、パチンコ屋に並ぶ。お目当ての台で誰かが打ち止めを獲得。それを軍資金として、近くのそば屋とか中華料理屋、寿司屋で呑む。ほろ酔いになったところで、友だちの家で徹マンをする。このパターンである。

ボウリングは、アベレージも170~180で200アップも数回できるようになる。パチンコ、麻雀もプロまでは行かないがそこそこの腕前になる。だがさすがに、毎日続けると飽きてくる。でも、徹底的にやってやめようと思ったのである。もううんざりするくらいやってスパッとやめた。その後は、たまにつきあいの麻雀をするくらいになったのである。社会人になってからも、「立てばパチンコ、座れば麻雀、歩く姿がボウリング」は影を潜めてしまった。まあ、こんなものはだらだらやるよりとことんやってやめるというのがいいのかもしれないと今でも思っている。
  

2011年11月05日

男の伝言板 - 「シネマと書店とスタジアム」

またまた三題話になるかもしれませんが、このブログのタイトルの下に書いてある「シネマと書店とスタジアム」のことです。皆さんご存じだと思いますが、沢木耕太郎の本の題名から採っています。その名のとおり、映画と本とスポーツ観戦についてのエッセイがまとめられたものです。

沢木耕太郎というとぼくらと同年代で、「深夜特急」は有名であるが、ぼくには「敗れざる者たち」が印象に残る。特にその中の「クレイになれなかった男」でプロボクサーであるカシアス内藤を描いた文章には感動した。そういえば、最近新聞にそのカシアス内藤の記事が出ていて、がんに冒されながらもボクシングジムを開設して、息子もボクサーに育てると書いてあった。

本のあとがきにあるように「誰にでも『それさえあれば』というもののひとつやふたつはあるような気がする」ということでたまたまぼくの「それさえあれば」と同じだったというわけである。まあ、沢木耕太郎には遠く及ばないが、 映画評、書評、スポーツ観戦記をブログに書いているのである。

3つのジャンルの中でもさらに細かな好みのようなものがある。映画は最近では邦画を観る機会が多い。理由は、東スポ映画大賞のノミネート作品を選ばなくてはいけないことと、ハリウッド映画の大がかりな派手さや破壊力に嫌気がさしたことである。

邦画もひところよりも活況というより粗製乱造とも言えないこともないが、中にはいい作品が出てきている。ということで、現在の映画生活は、劇場では邦画を主体に鑑賞し、DVDでちょいと古いヨーロッパの質のいい作品を観るといったパターンになっている。

本はほとんどが新書になっている。なぜかというと、1週間くらいで読み終えることと軽いからである。(なかにはすごい学術本もある)そして、話題のテーマについて知りたくなると手っ取り早いこともある。この歳になると新書が合っているのかもしれない。若い時は難解で思想的なもの、働き盛りは時代小説や推理小説といったところだった。司馬遼太郎、池波正太郎、藤沢周平、山崎豊子、塩野七生などの長編をずいぶんと読んだ。

最後のスポーツ観戦は、ほとんどサッカーに集約される。自分がやっていたこともあって、サッカーの試合を見るのは好きだ。代表の試合はかかさず見て感想を書くことにしている。他のスポーツは見ないのかと言われると、もちろん世界陸上も見るし、駅伝もラグビーも好きだ。

ただ、プロ野球は見なくなりましたね。テレビ放送もほんと少なくなった。CSだって放送されない。ぼくは横浜ベイスターズのファンなのだが、その弱さに情けなくなって球場に足を運ばなくなってしまった。来季は、DeNAがどうしてくれるのか見ものである。

これからも「シネマと書店とスタジアム」はやめられない。またひまな時間が増えてきたら、プラスアルファのものも加えたいと思う。シネマは映画だけでなく落語とか、書店は読むだけではなく俳句を詠むとか、スタジアムは見るだけではなく体を動かすことなど何やら楽しそうではありませんか。
 

2011年11月11日

男の伝言板 - 仕事のこと(1)

これまで、出会った人々のことだとか、趣味や遊びのことが中心であったので、少しは仕事の話もしてみようと思う。1ヶ月くらい前に大学で同じ研究室にいて、その後同じ会社で仕事することになったH君が亡くなった。とてもびっくりして言葉もでなかったが、何となくぼくの人生の大きな時間を占めていたサラリーマン生活がフェードアウトしたような気分になった。

ぼくが早く会社を辞めたので、様子がわからないでいたが、学生時代の同期会に誘っても出てこなかったり、常務まで登り詰めたが、今年になって身体をこわしたので顧問になったとか聞いていたので心配はしていた。先月会社の元同僚二人が鎌倉に遊びに行きたいというので八幡宮や大仏を案内して、江の島で地魚を食べながら呑んだのだが、その時もH君はどうしているのかと尋ねたのだが、何とその日に逝ったのである。これから一緒に好きな酒を呑めたのにと思ったのに残念無念である。

ぼくが会社に入ったのが昭和47年である。大学で化学を学んだので石油化学の会社に入社する。これから石油化学が主流になるという頃で、全国でコンビナートが形成された。ところが、ご存知のように昭和48年に第一次オイルショックがやってくる。中東の産油国が原油の公示価格を一気に引き上げたことから始まった。トイレットペーパー騒動である。

石油化学の大元は原油であるから、コストに占める割合が一番大きいというか、ほとんどを占める原料費が高騰したからさあ大変である。会社に入ってさあがんばるぞと思ったのも束の間、減産は余儀なくされるし赤字になるわで困ったのであるが、日本全体がそうであったからし方ないと思うだけである。

そんな時期でのサラリーマン生活であったが、最初は現場に放り込まれた。現場というのは交替職場で当初は3班2交替という過酷なもので、昼間12時間を2日働いて、そのあと夜間12時間を二日勤め夜勤明けの日と次の日が休みというサイクルを繰り返すのである。もちろん、盆も正月も休まない。しかし、今から思うと相当つらかったかと思うがいい経験となったことは確かだ。

仕事の内容は、化学プラントのオペレーションである。石油化学プラントというのは、ナフサという原料を熱分解して生成した生成物を精製・分離して各留分ごと例えばエチレンとかプロピレンなどをタンクに貯蔵する。これらはまたプラスチックの原料にもなる。精製・分離するために、加熱・冷却・圧縮などの単位操作を行うのである。

ただ、扱っているのが可燃性で爆発性のあるものなので操作を誤ったりして漏洩しそれに着火すると大変なことになるのでものすごく気を使った。今なら言ってもいい思うが、入社した年にちょうどシフトに入って現場の記録を採っている時に近くで爆発炎上したのである。この時はもう動くことができずぼーっとしていました。そして目の前の景色が恐ろしさのあまりモノトーンに感じるという映画のシーンのような経験をした。

近頃はあまり工場の事故というのは少なくなったように思えるが、当時はけっこう大きな事故が起きていたように思う。化学プラントというのは基本的には外資からの導入技術であるため習熟度の問題を抱え、それと景気がいい時に事故が起きる傾向があって、オイルショックはあったものの長期的には高度経済成長期であるから、そんな時というのはどうしても無理をしてしまうというところがあるからである。

こうしてぼくのサラリーマン生活はスタートしたのである。丸の内のビルで背広にネクタイという同級生もいたが、ぼくは作業着にヘルメットという格好で工場に通ったし、場合によってはそのまま街に繰り出して呑んだりもした。しかし、この方がぼくの性分に合っていたと思う。


2011年11月24日

男の伝言板 - 仕事のこと(2)

仕事のことをもう少し。ぼくが会社に入って最初のトピックスは何といっても海外派遣で中国に行ったことであろう。3年を過ぎたある日、今中国で実質上初めてとなる石油化学プラントを建設しているが、その試運転から立ちあげまでスーパバイザーとして行ってくれと言われたのである。

まだ、26歳のおれが指導員? プラントのライセンサーが同じだということで請われたのであるが、会社としても初めてのことで、ほんとうはまだ早いと言いたかったのであるが、そうもいかず派遣メンバーに一員になった。他に6人が選ばれたがみなベテランぞろいで経験のない身としては不安がいっぱいである。

1976年(昭和51年)3月に北京空港に降り立つ。いきなりびっくりしたのは着くとすぐに銃を持った兵隊さんが機内に入ってきてにらみを利かすのである。そして、入管では入念なに持つチェックがあり、空港から宿舎(招待所という)までがまた恐ろしいことに。もう夜中になってしまったのだが、車のライトを点けないで走るのである。そして、対向車が来るとパッと点灯する。これって逆じゃないかと思うのであるがこれが中国の常識である。

プラントがあったのは北京の南西60Kmの燕山というところで、あの盧溝橋を渡っていき北京原人で有名な周口天の近くである。恐ろしい思いで招待所に着くとまずはパスポートを取り上げられる。おおー、これでおれの命は中国の手の中にという思いがよぎる。先遣隊の人たちが、ここで悪いことをしたらゴビ砂漠へ放逐されるぞと脅かす。いやはや、とんだところに来たと嘆いても始まらないので気分を入れ替える。

当時の中国の状況を少しお話しておくと、まさに激動の年であった。この年の2月に周恩来が亡くなり、その追悼デモから第一次天安門事件が4月に起きたのである。招待所にいたら世間の動きが全く分からない。何にしろ周囲1Km四方内しか出られないし、2週間に1度バスで北京市内に連れていってもらうしかないからである。だから、事件のことは日本からの新聞で知った。

そして、7月には唐山大地震があって、ぼくはたまたま運よく一次帰国していたので難を逃れたが残った人たちは当分の間テント生活を強いられた。8月には毛沢東が死んで、10月に江青らの4人組が捕まったのである。つまり、ぼくらが行った頃はまだ文化大革命が進行中だったのである。こうした激動の時代をまさに肌感覚で知ったことは大きな影響を受けた。実は日本でも揺れ動いた年でもあった。ぼくが中国で仕事を終えて帰国した日に田中角栄が逮捕されたのである。あのロッキード事件である。

そうした文化大革命のさなかで仕事をするということは大変なことであった。何にしろ4月の天安門事件で鄧小平が走資派と名指しされ追放されたわけだから、資本主義の手先である日本人は好かれるはずがない。スーパバイザーだから、指導するのが仕事なのにその指導に対して大衆討議にかけられるのである。日本人のあの人がああ言っているけど聞きいれてもいいだろうかとくる。これでは、急ぎの仕事に支障がでるのだが、党員の監視の目があるから緩いことはできないのである。

まあ、そんなことで失敗もしたし、勉強にもなったし、ものすごい経験になった。その後も5年間隔くらいで訪問したがぼくらが働いていた時から急速に変化した姿に本当にびっくりした。あれからたった35年で経済も街並みも人々の生活も劇的に変わっていて、日本の戦後の35年と同じような感じである。

ただ、中国人気質は変わりようがなく昔も今も仕事で悩んでいるのは同じかもしれない。しかし当時も感じたのだが中国人といっても多民族だから様々な人種がいるので接し方に違いがある。それと憶測かもしれないが、日本人に対する嫌悪感が痛めつけられ具合で差がある。概して、北より南のほうが強いように思う。

ぼくは、その中国での仕事のとき満州族の李さんというひとと一緒だった。その人はいいひとでぼくは好きになった。そして彼が15年後にある公司の日本支社長として赴任してきたときに一緒に仕事をした。休止プラントを解体して中国に運んで再稼働するというプロジェクトを企画した。ただ、条件が折り合わず成約できなかったが、すごくフレンドリーに仕事ができた。こういう中国人もいるのだ。

ITの仕事についてからも外注のプログラマーに二人の中国人を使った。一人は青島、もう一人は上海の子だったが、2人ともいい大学を卒業した優秀なエンジニアだったし素直な好青年であった。上海の子は途中で戻って起業することになった。彼の事業計画をチェックしてあげて成功を祈るべく二人でささやかな壮行会をしたら涙を流して帰っていった。

青島の子は日本で中国人の女の子と結婚して子どもできたのだが、何と日本人に帰化してしまい永住することになった。だいぶ前になるが川崎で二人で呑んだときまた一緒に仕事しようよという話になっているがとりあえず安定した仕事についてがんばっている。ぼくの仕事で一緒になった中国人はみないい奴ばかりだ。たまたま運がよかったからかもしれないが。
 

2011年12月10日

男の伝言板 - 仕事のこと(3)

今回は仕事のこととはいえ、直接的ではない研修旅行の話をします。会社に入って15年くらいたったある日、上司から化学工学会がACHEMA(アヘマ)の視察を中心にした研修旅行を企画しているから参加しろと言われる。ACHEMAというのは、毎年ドイツのフランクフルトで開かれる国際化学技術見本市のことで、6月の4日間行われ世界中の化学技術に関連する人たちが集う大きなイベントです。

その見本市が第一の目的ですが、プラスしてシェルやバイエルといったヨーロッパの主要な化学会社や研究機関を巡るプランになっていて、約3週間でイギリス、フランス、ベルギー、ドイツ、スイス、イタリアの6カ国を回るという大変優雅な旅でもありました。もちろん、遊びではなく研修ですから、化学工学誌の載せるためにレポートを書かなくてはいけないという義務は課せられるわけです。

ただ4、5人のグループで一人だけ書けばいいのでぼくは他の人に振ったのだが、そいつが提出日近くになって書けないと言い出したのだ。さて困った。なるべくお鉢が回って来ないようにじっとしていたが誰も引き受け手がいない。しかたなく私が書きますと言ってしまった。さあ大変、もう旅行も終盤だから急がなくてはいけない。というわけでベニスの着くとホテルに閉じこもってレポート書きに追われ、ゴンドラも乗れなくてがっかりであった。

しかし、それ以外は楽しかった。何しろ土日はあちこちの名所旧跡を案内してくれるわけだから、ヨーロッパを本当に堪能した。フランクフルトは4日間もいたから街のほとんどを歩き回った。ジプシーの子どもたちの窃盗グループに出会いながら。フランスではルーブル、オルセー、オランジュリーの3大美術館めぐりも楽しく、モネの睡蓮の前で数時間も過ごしたりした。

ドイツのローレライや古城を見ながらのライン下りも良かった。スイスではグリンデルワルドに宿泊し、アイガーが目の前にあるホテルでとても感動した。そして、鉄道でユングフラウヨッホまで登り、スイス人のどこでも鉄道を通してしまう根性に脱帽する。帰りはアルプスの少女はハイジに出会うべく歩いて下山する。

ぼくはこの旅行中、できるだけ一人で行動した。多少恐いことはあったが(ロンドンのピカデリー・サーカスでドーバーソルを食べようとしてうろうろしていたら裏通りに連れ込まれた)、自分で見たいところ、食べたいものを探して行ってみるというのはすごく楽しい。ちょうどサッカーのヨーロッパ選手権がドイツで開催されていて、ボッヘムのレストランに入ったら客もウエイターも誰もいなかったとか、イギリスのフーリガンにであって逃げたこともあった。

そういえば、食べ物の話ならまだいっぱいある。イギリス料理はやっぱりまずいとかベルギーのビールの種類にはびっくりとか、ドイツの温泉で飲んだビールは格別だとか、スイスのフォンデユーとかイタリアのピザだとか、ああもうやめておこう。

ということで、まだ書きたいことはいっぱいあるのだが、旅行記ではないのでここまでとして、若い時にヨーロッパをこれだけ体験できたことがぼくにとって非常にいい経験となった。アメリカや中国とはまた違った空気に触れたことは逆に日本をあるいは自分の置かれている環境を見直すこともできた。こんな旅行に出してくれたバブル時代に感謝です。
  

2011年12月18日

男の伝言板 - 仕事のこと(4)

仕事をしていく上で大事だと思うのは、上司や同僚、部下といった周りの人の力をうまく活用することがある。自分ひとりで抱えてしまってどうにもならなくなるケースをよく見かけるし、経験した人も多いのではないでしょうか。かくいうぼくも若い時にそうした目にあってあるとき目ざめたことがあった。

若いころというのは、ばりばりと仕事をこなす、自分の力でぐいぐい引っ張っていく姿にあこがれるし、自分もそうなりたいと思う。おれは一人で何でもできるぞとか、何だこんなことができないのかと言われたくないと思うし、多少無理なことでも自力でやってやるぞとか意気込むのである。これは仕方ないことだと思う。最初からこりゃ無理だとか、できそうもないとあきらめるよりかは若者的でいい。

そして、周りのデキル人を見ているともう一人でばんばんと仕事をこなしているかのように映るのでなおさらおれもとなるのである。ところが、そううまくいくとは限らないから、失敗することがある。それでも、自分が悪かった、おれの責任だと抱え込むのである。

今、この歳になって思うのはなぜそんなにツッパッていたのかということである。もっと素直にわからない、知らないから教えてくださいと言えなかったのだろうか。ここが難しいところで、反対に何でもかんでも聞いてくるやつがいる。少しは自分の頭で考えろと思うのだが、これどうしたらいいのかちゃんと説明してくれなければ困りますと平然としている。

この兼ねあいが難しい。抱え込むのか、おんぶにだっこなのか、もちろん答えはその中間にあるのだが、若い時はそのサジ加減がわからないのだ。どうしても両極端に走りやすい。ところでぼくの父親はまじめな国鉄マンで平々凡々と過ごすことをモットーとした人間なのだが、口癖が“程度問題だ”というのがあった。ぼくはこの言葉が嫌いでどっちかはっきりしろよと思ったものだ。

しかしながら、自分が歳をとって親父ぐらいの歳になると、そうなんだ黒か白か、ゼロか百かではなく、グレーのところも60点のところもあるのだ、むしろそんなところで世の中成り立っているのだと思い知らされる。だからといって若いうちからそんな達観したようなことではなく尖った方がいいと思う。

そのうち、経験を積むほどに“程度問題”を知るからである。程度問題は引き算の方がいい。引き算というのは尖った切っ先を削るということである。ぼくがその引き算を初めてしたのは、会社に入って7,8年経ったころだと思う。非常に優秀でぼくが尊敬していた先輩の人がいた。それこそ、自分で何でもやってしまう人なのである。

ある時、トラブルが起きて深刻な事態に陥ったことがあった。いつもはおれの言った通りにやれということだったが、大変難しい問題だったのでそうはいかずに頭を抱えた。そのとき、“誰か助けてくれ”、“知恵を貸してくれ”と叫んだのである。ぼくは一瞬、あれっと思ったが、みな一斉にああじゃないこうじゃないと言い出したのである。ぼくの肩から何かが落ちた瞬間でもあった。

これを見ていて、そうだ自分一人の中だけで閉じるのではなく、吐き出して周りの人の協力を得るということがすごく大事なことであると感じたのである。それから、素直にわからいと言って周りの人をうまく利用することを意識した。ただ、これはくれぐれも言っておくが、最初に尖っていて、そこから削っていくというのが正しい順番であるということである。



2011年12月25日

男の伝言板 - 座右の銘

ぼくは、有名人でも何でもないし、あなたの人生はなんてインタビューも受けたこともない。だから、他人からあなたの座右の銘を教えてくださいなんて言われたことがない。しかし、なんとなく心に響く言葉だとか、こんな風な生き方って一言でいうとどういうのだろうかと考えることはある。

最初の座右の銘は自分で考えた、というか書かされた。小学校の卒業の時に何か言葉を残さなくてはいけないときに書いたことである。ぼくはこう書いた。「後退するな。自信を持って前進しよう」である。何とも勇ましい中国のスローガンみたいだ。今でもはっきり覚えているということは、よほど思いつめていたか、快心の作だったのかどちらかなのだろう。

まあ、いま思い出すとけっこう“自信を持って”というところが強調したいところで、逆にいうとよっぽど自信がなかったということかもしれない。だから12歳のぼくは、どうやったら自分に自信が持てるようになるのかを悩んだのだと思う。

現在のぼくの机の前に貼ってある言葉は次の3つである。

・「高い志、感謝、プラス思考」(村上和雄)
・「悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意思のものである。およそ成り行きにまかせる人間は気分が滅入りがちなるものだ」(アラン)
・「Chance favors the prepared mind(チャンスは備えあるところに訪れる)」(パスツール)

これはそれぞれつながっていて、プラス思考というのは楽観主義なのであり、意思というのは備えるということでもあるのだ。つまり、高い志を持って、楽観的にプラス思考でうまくいくように準備し、できたら感謝することなのである。志もなく、ただ成り行きにまかせ、なるようにしかならないとあきらめることを自らに戒めておきたいと思うからである。

ただ、これはモットーみたいなもので座右の銘とちょっと違うように思えて、何かないのかなあと考えていたのだが、最近では、「和して同ぜず」というのが何とか気にいっている。この言葉は、「論語」のなかに出てくる文言で、「君子は和すれども同ぜず。小人は同ずれども和せず」の前半部分を取ったものです。

こう言うと、少しばかり冷たい人間に見られそうだが、座右の銘というのは、こうありたいと思うものと、自分はこれなのだという二つの意味のどちらかを込めるように思えるのだが、ここで言った座右の銘は後者にあたる。つまり、ぼくは「和して同ぜず」で生きてきたから、これが自分の座右の銘なんだと再確認しているという話です。

そこで、よくよく考えてみると、12歳で自信を持てなかった自分が、プラス思考でチャンスをつかみ、自信をもてたからこそ「和して同ぜず」という生き方ができたのかもしれない。自分の中ではそんなことを考えているのだが、他の人がみたらどう思うのであろうか。と言ってみたところで、それ違うでしょと言われても「和して同ぜず」だから、結局わが道を行くだけなのかもしれない。
  

2012年01月09日

男の伝言板 - 老人と酒

こんなサブタイトルだと、何やら酒に溺れる老人の姿が思い浮かぶ。ぼくは何を隠そう溺れるほどではないが酒好きである。ここ数十年は一日も欠かさずに呑んでいます。それでよく肝臓を壊さないかと思うのだが、いまのところγGTPもぎりぎりセーフである。

初めてちゃんと酒を呑んだのは高校生のときでコークハイだった。要するにウイスキーをコカコーラで割ったやつで、その当時はけっこうはやっていた。呑みみやすいのでつい呑み過ぎてしまうことがある。大学に入ってからもコンパと称して呑んだり、燃える前の新宿西口のションベン横丁(今は思い出横丁といって一部残っている)に行ったり、友だちの下宿で呑み明かしたりとよく安酒を大量に呑んだものだ。

ついこの間、サッカー部の現役の子を会食に誘って呑んで食ったのだが、飲み会みたいなのをしょっちゅうやっているんだろと言ったら、いやほとんどやりませんという返事。せいぜい合宿の時の打ち上げで呑むくらいだという。普段も飲みませんと言っていた。そのときも食べるばかりで何とかサワーというのを舐めていた。

学生時代、あまり自慢することでもないが、二日酔いでサッカーの試合をしたことが何回もある。もちろん吐いたことは数限りなくある。いちばんひどかったのは、西武新宿線の電車のなかでドア付近に倒れ込み、駅でドアが開くたびに吐いていた。よく首をはさまれなかったかと今でもぞっとする。

社会人になってからは、金もあるし独身寮だし、それはそれはよく呑んだ。先輩連中が頼みもしないのに市中引き回されて、毎日のように呑み歩いた。店を紹介してくれてなじみにもなったりした。もう当時の店はほとんど残ってはいないが、数年前にはなじみの店にいた女の子が開いた飲み屋にときどき行って、もはやおばさんになったママと昔話をしたりした。

そうだ、ここは酒呑みの行状記を書くのが目的ではなく、老人にとって酒は何よりも健康にいいし、精神衛生上よろしいのだということを言いたいのである。会社勤めを辞めて自宅で仕事をすることが多くなると、仕事が終わってから家でゆっくりと呑むのが楽しみである。呑むと頭が緩んでくるのがわかる。それが何とも気分がよいのだ。

緩むというのは解放感ともちょっと違って、柔軟な発想が浮かんでくるといった方が近い。しらふの時って、無意識のうちに構えて思考回路を働かせているのと、年をとるとそれこそ頭が堅くなる。一種の“たが”をはめているわけで、発想が狭いのと同時に硬直的になりやすいと思う。その“たが“を酒が外してくれるというわけである。

だから、酒を呑む時はいつもメモを横においておく。いい気持になってぽっとアイデアがうかんだり、いい言葉が思いついたらすぐに書きとめるのである。ぼくは外でひとりで呑むことも多いのだがそのときは呑みながら、ブログの記事を書きあげてしまうこともある。というわけで、このエントリーは酒を呑みながら書いたわけではないが、「酒呑みの自己満足」というカテゴリーに入れた方がいいかもしれない。

2012年01月19日

男の伝言板 - 行きつけの店

前回に酒呑みの老人の話をしたが、その延長で行状記を書いてもいいのだが、それは屁のツッパリにもならないのでもうちょっと生産的なことを書く。どんなところに呑みにいくのかという話である。「酒呑みの自己弁護」を書いた山口瞳が「行きつけの店」(新潮文庫)という本を著している。その本の帯には、“行きつけの店は、文化である。修行の場である。学校である。”と書いてある。

ぼくはかなり飲み屋で鍛えられた。若いころは先輩に呑み方や酔い方を教わったというか、見せつけられた。もちろん、見習うべき人もいたが反面教師もいた。むしろ、反面教師から学んだことの方が多いような気がする。普段おとなしいのに酔うと暴力的になる人、説教を始める人、愚痴ばかりこぼす人、怒りだす人と酒癖が悪い人は数多く見てきた。

そんな人とはあまり深入りせずに適当にあしらう術を身に付けた。たまにけんかになることもあるがさっと逃げることにしている。さすが行きつけの店ではほとんどそういった人も少ない。いやそういうことがないから行きつけになるのである。でも客筋が悪いところもあって、チンピラとトラブルになって危なかったこともあった。あら、これでは行状記になってしまうので話を変えよう。

ぼくの若いころというのは三重県四日市という街で呑んでいたわけだが、その頃は工場がいっぱいあってしかもみな活気があった。何にしろ先日の高校サッカーの決勝戦で四日市中央工の校歌が流れたと思うが、その中に「工都 我等を生かし 我等 工都を生かす」とあるくらいですから工業が盛んであって、労働者がたくさんいたので当然飲み屋も多い。

当時、日本で人口当たり一番飲み屋が多い市はどこかという話題があって、その答えが徳山市(今は周南市になった)だったが、ここも石油化学コンビナートの街だから、四日市はその次ぐらいかもねと言うくらい多くの店が軒を連ねていた。今は見る影もないほど閑散としている。

そこでの行きつけの店は、小料理屋、居酒屋、スナック風バー、すし屋、中華料理屋といったところで、みな個人経営の店で、今のようなカラオケとか居酒屋チェーンはほとんどなかった。まずは、小料理屋か居酒屋で呑んで、そのあとスナック風バーで女の子をからかって、最後はすし屋、中華料理屋でお腹を満たすというコースである。すし屋ではもう店が閉店するまでいて、そこの見習いの若い子が練習で握るすしを食べるのである。

小料理屋の女主人のおばさんとは家族のようなつきあいで、みないろいろ面倒を見てもらった。お嫁さんを世話してもらった人もいた。その店で知り合った大学の先輩が、他の飲み屋の女とドライブに行って事故で亡くなったという悲惨なできごとにもめぐりあった。そういう意味では、居酒屋チェーンのような飲み屋では味わえない濃密な時間を過ごしたような気がする。

東京に来てからは、やはり地方都市とは違ってべっとりとしたことは無理で時々訪れるだけになる。それでも、なじみの店は何軒かできる。今でも続いているのが、さかな料理屋、中国料理屋、小料理屋、焼き鳥屋、バーといったところである。場所はどうしても通勤経路であった新橋近辺ばかりになる。東京に通っていた時はなかったが、最近は家の近所にも行きつけの店が数軒できた。

ただ、毎日勤めに出ていた時とは違って、たまに外に出るので行く店も限られてくる。今一番よく行くのはこのブログでもたびたび登場する銀座のバー「M」である。ぼくはひとりで呑むことが多いが、この店でもひとりで止まり木に腰かける。それでも、マスタ夫妻や女性バーテンダーのKちゃんとのおしゃべりや、お客さん同士の会話も楽しいのである。この間も、隣に座った人の奥さんとぼくのヨメさんが高校のバレー部の先輩後輩だったことがわかり大いに盛り上がった。

もうずいぶんと通っているので、ぼくが落ち込んでいたときも知っているし、ぼくの家族のことも話題になる。下の息子とは定例としてここで一緒に呑むことにしている。そんなほっとする場所がいくつかあると酒呑み人生も楽しくなる。行きつけの店は修行の場であると同時に“癒しの場”でもあると思う。
  


2012年01月27日

男の伝言板 - 男子厨房に入る

男子たるもの厨房に入るべからずというのはまだぼくらの頭の中に残っている。最近では弁当男子なんて言葉があるように男でも料理をする。共働きの夫婦でお父さんが子供の幼稚園の弁当を作るなんてこととは当たりまえかもしれない。

かくいうわが家の次男坊はいま駒沢公園の近くで一人ぐらしをしているが、どうも自分で料理をしているし、弁当も作っているらしい。行きつけの銀座の「M」のママからうどんやスパゲッティ、あるいはおかずをもらって喜んでいる。さて、ぼくの方はといえば、ヨメサンは他人が自分の台所を使うのを嫌がるせいもあって、家で料理なんぞやったことがない。

ところが、もう20年近く前になるが4年間の単身赴任をした時はちょっとやったことがある。社宅を借りてくれたのだが、いちおう食事は隣接の独身寮で食べられるようになっている。最初は、そこで食べていたのだが、問題は予約をしておかないといけないことで、きちんと帰ってくればいいのだが、だんだん会社を出ると飲み屋に直行なんてことが増えてくるとキャンセルばかりとなる。

そうなると、一回の食事代が倍もすることになりばからしくなって寮で食べるのをやめてしまった。社宅は普通に家族が住むところだからもちろん炊事ができるようになっている。飲み屋に行かない時は(めったにないが)、とりあえず刺身だとか、コロッケだとか、冬は鍋セットだとかすぐに食べられるものを買ってきて済ませていた。しかし、帰郷しない土日なんかは時間がたっぷりあるから料理でもしようかとなる。

そして、持ったこともない包丁や下げたことがない鍋を手にする。その時の得意は“煮物上手“で作るいか大根だった。でも作り過ぎて飽きる。あるとき何を思ったか、ボルシチを作ろうと思い立つ。タマネギ、ニンジン、キャベツ、牛肉、ソーセージなどを買い込みぐつぐつやったのはいいが、ちょっと油断していたら焦げ臭いにおいがするではないか。ものの見事に真っ黒焦げで、それ以来刺身とコロッケに戻ったのであります。

ところが、最近料理をし始めたのである。以前からぼくの母親の家の応接間を事務所代わりに使っていたが、その母親が昨年秋に老人ホームに入ったのでぼくひとりになってしまった。ぼくの食事は朝と夜はヨメさんが用意してくれるのだが、さすがに三食みなというのも可愛そうなので、昼は外食(社長と一緒にというケースも多い)というのがパターンであった。

ところが、台所が自由に使えるのだ。なら自分で作ろうかなと思っていた矢先に、知り合いの工務店の社長から郷里の鹿児島の米だといって5キロの新米をもらったのだ。よし、これからは自炊だと決心してみた。というわけで、ここのところ家にいるときはほとんど自分で作っている。昨日は、アジを買ってきて、塩焼きとなめろうを作り、これまた作り置きの豚汁と野菜いためを食べた。うまかったー。

ここで役に立つのが「COOKPAD」http://cookpad.com/ です。めちゃくちゃレシピが載っているので、好きなように、あるいは手元の材料に合わせて選んでいける。昔だと、料理本を買ってくるか、テレビの料理番組をメモするくらいだったのにずいぶんと便利になったものである。ぼくは、洗いものをするのが苦にならないから(子どもが小さい時やらされたので)、だんだん、凝りだしそうな気配だ。
 

2012年02月16日

男の伝言板 - 三つのめし

食べ物の話が出たのでついでにもう少し。あるジャンルで好きな食べ物を3つあげよと言われたらどうしますか?例えば、好きな果物とか麺類で好きなのはとか、魚はとか肉料理はとかたくさんありそうですね。ちょっとおもしろそうなので見ていきましょうか。ぼくの好きなものです。

果物 :メロン、桃、なし
麺類 :そば、うどん、ラーメン(これはちょっとラフ過ぎますね)
魚  :アジ、イワシ、サバ(要するに青物ガ好きなんですね。でもこれもラフ過ぎます)
肉料理:すき焼き、ステーキ、とんかつ(またまたラフですねえ)

これじゃあぼやけてますね。結局もっと絞っていかないとダメなようで、果物はいいとしてもそばならどこの店のものが好きなのかというふうにしたいものだ。ぼくは、神保町の「松翁」、祐天寺の「手打ちそば 大むら」、築地のある「さらしな乃里」が好きだけどなあ。魚というより魚介類で調理法もセットでとなると、生のウニ、焼いた白子、蒸したアワビに尽きますね。

ここからはごはん類の話をしようと思う。それも喫茶店とデパートの食堂メニューから見てみたい。というのもぼくらの世代はしゃれた食べ物はどこにあったかというと、レストランや料亭なんか行けないし、今みたいにファーストフーズやチェーン店もなかったので、街の喫茶店かデパートの食堂だったのですね。

そこには定番のものとしては、カレーライス、スパゲッティ(いろんな種類があるわけではなく、ナポリタンとミートソースくらいである)、サンドイッチといったところで、あとはオムライスくらいかなあ。ピラフだとかピザ、グラタンなんてなかったのだ。

ところが、定番とちょっとそれたところに好きなものがあったのですね。何かというと「チキンライス」「ドライカレー」「焼きめし」である。ぼくは、この3つが大好きである。しかし、今の時代は、食べさせてくれるところが意外と少ないのである。ドライカレーは、家の近くでは「珊瑚礁」に行きますが、変わったところでは、銀座にある「鳥繁」というの焼き鳥に行きます。

「鳥繁」というのは6丁目にある大きな店ではなく、泰明小学校のそばにある西店で気まぐれなオヤジガやっているのだが焼き鳥とドライカレーのミスマッチがたまらない逸品ですよ。チキンカレーもありそうでなかなかありませんが、ぼくは日本橋の「泰明軒」に行きますね。ここで、50円のボルシチとコールスローサラダとビールを頼んでチキンライスを食べるのが至福の喜びです。

さて、最後の焼き飯ですが、炒飯と焼き飯はどこがちがうのでしょうか。同じでしょうと思う人もいると思いますが、実はちゃんと違いがあります。炒飯は卵を先に入れてからご飯を入れて炒めるのに対し、焼き飯はご飯を先に炒めてから卵を入れるのだそうです。本当かどうか知りませんが、ぼくの解釈は油が多いかしょうゆが多いかではないかと思っています。

ところで、この焼き飯を出してくれる店がない。なので、これは厨房に入る男子としては自分で作ろうと思い立つ。その時、そう言えば母親がよく作っていたことを思い出した。ということでばあちゃんに作り方を教えてもらう。ばあちゃんはしばし、あの頃は何もなくて自分で工夫してつくったものだと述懐していた。直伝の焼き飯はことのほか美味しかったのは言うまでもない。

2012年03月04日

男の伝言板 - 資格

最近は何かと資格をとるのが流行っているようだ。その人の能力を判定するのには資格はわかりやすいし、アピールポイントとなるので自己啓発という意味も込めて多くの人が取得をめざしているのだろう。資格でも難しい国家資格から民間資格まで1000以上あるらしい。ジャンルも公務員系、法律系、会計系から工業系、IT、スポーツまであらゆるジャンルに資格があるといっても過言ではない。

じゃあ、おまえはそういった資格を持っているのかと聞かれると、運転免許は持ってますけどと答えてしらっとされますが、実は少しは持っています。もともと化学工場で働いていましたからいわゆる工業系の資格です。正直なところ取らされたというのと費用の補助と奨励金みたいなものがもらえるからという理由です。

工場だと、そこで必要な資格の取得者の配置が義務付けられていたりしますので、職務命令で取らされます。例えば、危険物取扱主任者や高圧ガス取扱主任者とかボイラー技士とかいったものがあります。こうした試験は、筆記試験はもちろんありますが実務経験が必要であったり、甲と乙種があったり、二級から徐々にあがって特級にいくみたいな階層もあったりします。

ぼくはこの試験が大嫌いなんですね。資格試験に関わらず学校のテストも入学試験も大嫌いです。好きな人は少ないと思いますが、ぼくはどうしてもやる気がでないのです。それでも、しかたなしに受験するわけで、やっと危険物取扱主任者、ボイラー技士、熱管理技士くらいは持っています。だから、ビルの管理人にはなれます。あれ免状はどこにいったかなあ。

また、資格によっては昇格の条件になったりします。資格とはちょっと違うかもしれませんが、よくTOEIC何点以上ないと課長になれないなんていうこともあります。ところで化学工場では高圧ガスを扱うのでその資格がないと責任者、すなわち製造課長とか製造部長になれないことがあります。ですので、必ず取る必要がありますのでもちろん受験をしました。

これはけっこう難しいので自習だけだとつらいので認定の講習会というもの出かけるわけです。そこで強制的に詰め込むのと試験に出そうなところを匂わせてくれるというメリットがある。もちろん有料なのであるが会社が出してくれる。で今からそこまでしてくれたのに取れなかった話をする。

当時はまだ若かったから遊びたいのが先にあって、勉強も一夜漬けでいけるだろうとたかをくくっていた。名古屋であった講習会に行ったのはいいが、頭は帰りに女子大小路で飲むことで頭がいっぱいになる。講習が終わるとそそくさとネオンをめざしたのである。

ところが、女子大小路はそんなぎらぎらにいちゃんを手玉にとるくらい簡単なことはないらしかった。いいかげん酔って帰ろうと勘定お願いしますというと5万円だという。3人だからひとり1万7千円くらいだと思ったら、いやいやひとり5万円なのである。ありゃー金がない。そうしたら、ひたすら頼んでまけてもらえばよかったのに、なかのひとりが近くに友だちがいるから金を借りてくると言ってしまった。

こりゃあだめだ。結局ぼくが人質となり、お金が来るまで待つことになる。もうこうなると開き直っているし、相手の恐いおにいいさんもだんだん打ち解けて、あんた運が悪かったなあとか、金もないのにこんなところで遊ぶんじゃないよとか、店の女の子がやたら飲み物をせがんでも無視するんだなとか話がはずんでしまった。

そうはいっても結局ぼったくられたわけで、当時のお金としては大散財をしてしまった。これじゃ、多少とも講習会で覚えてこともどこかへ飛んでいってしまい、予想通り試験は落第の憂き目にあう。それからというもの、ぼくは資格をとる資格がないと自覚して一切の試験を受けなくなった。

IT分野へ変わっても何の資格も持っていない。でも身近で中小企業診断士とかITコーディネータとかの資格を持った人が多くいるが、資格をもっているからどうのとういうより、それとは関係ないスキルで勝負しているように見えるし、そのほうが大事なように思えている。ということで少し脱線気味の自己弁護のエントリーでした。
  

2012年03月22日

男の伝言板 - オンチの話

ぼくは音痴である。だから、カラオケが大嫌いで、昔流行った頃はカラオケスナックみたいなのが氾濫して、そこへ行くのが嫌であった。最近は東京ではカラオケボックスが少し残っているようだが、全体的には下火になっているが、地方ではまだ根強く残っているようだ。

数日前に小学校の同級性5人で地元の鎌倉で呑んだあともお決まりのカラオケスナックに行く。呑んだきっかけは4月に小学校4年生の時のクラス会をするので会場の下見と予約に行った帰りなのである。小学校4年生の時のクラス会って珍しいでしょ。しかも、担任の先生がまだご健在なのです。このシリーズの最初に書いた「先生」というタイトルにも登場するK先生である。

そのクラス会には18人が参加するという。卒業の時すなわち6年生のクラスは卒業アルバムがあるからわかるのだが、4年生ともなると特定するのが難しいが、遠足の時の写真を頼りにほとんどの名前を掘り起こしてしまった。おっと、その話をしているわけではなかったですね。そのクラス会の幹事会のあとのカラオケスナックの話に戻ろう。

その店は鎌倉の小町通りにある。昼間のにぎやかさとはうって変って夜も遅くなるとさすがの小町通りも静かになる。そんな通りに面した2階で歌い出す。ぼく以外の4人はみなうまい。プロ並みのうまさで思わず拍手喝采。ぼくは歌いたくないから黙っているとキタ―。しょうがない定番の歌を何とかごまかして唄う。これで今日は終わり。

こればかりはいくら練習してもどうしようもない。そういう遺伝子を受けついでしまったからには無理だ。でこれは音楽だけではなく○○オンチという言い方もあるように他のジャンルでも言えるのだが、例えば絵がうまく書けない(ここでもぼくはダメだ)と絵痴とは言わないし、運動にしても運痴とは言わないで、運動オンチという。そんなオンチはアメトークで取り上げてくれるだろうが、ここで言いたいのは、芸術やスポーツ系ではなく、仕事とかビジネスといった領域でもオンチというのがあるのではないだろうかということである。

要するにオンチというのは論理的ではなく、「感覚的に表現できない」ことだと思うのだが、つまり、頭の中ではあのように歌いたい、こんな形を描きたい、こんな動作がしたい、こんな仕事のアウトプットを出したいとイメージするが身体的機能がそれを表現してくれないということである。どうしてそうなるかというと、そこに至るまでの感じ方すなわちセンサーの機能が劣っているからではないだろうか。センスアンドレスポンスでいうセンスがきちんとできていないと、トンチンカンなレスポンスになってしまうということである。

このことを仕事にあてはめると仕事オンチとはどんなタイプかがわると思う。KYという言葉で語られることもあるように今言ったセンシングの話なのである。最初にオンチは直らないと言ったので、仕事オンチの人は働いてはいけないのだろうか。ひどく冷たく言うとぼくがカラオケボックスで味わう屈辱感を職場で味わうことがないように、基本的にはそうしたほうがいいと思う。

しかし、救いは何もかもオンチだなんて人間はいないから、盆栽界の美空ひばりだとか、ボランティアの孫正義でもいいのである。世間一般の評価とは別に自分の感覚がフィットする世界を見つけることなのであろう。そういった世界が見つけられれば、経済的な問題は何とかなるのではないでしょうか。
  

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