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極私的年代記 アーカイブ

2008年10月 7日

極私的年代記

ちょっと前に60回目の誕生日が来た。これを還暦というらしい。もう2年前からブログを書き出して思ったのことは、この歳でブログを書くということは遺言を書いているようなものではないかと。

で還暦を迎えて、月並みだけど自分の生きてきたことを少しだけ振り返ってみようと思ったのである。しかし全部さらけ出してとはいかない。よく墓場まで持っていくものがあるというが、確かにそういうものはある。それは書かない。だから、言えないこともあるということで、これまでの60年を総括ではなく思い出を書いてみる。かなり私的なことなので読み飛ばしてもらってけっこうです。

ぼくは昭和23年に生まれたので、こてこての団塊世代だ。こればかりは、いくら時間が経っても取れないレッテルで、これからもずっと良くも悪くもついて回ってくるものでしょうがない。そんな団塊のおじいさんが昔のことを書いておこうと思うのである。

いまおじいさんと自分で言ってちょっと驚いてしまう。つい先日も行きつけの「M」で常連のNさんに、♪村の渡しの船頭さんは、今年60のおじいさん。年はとってもお舟を漕ぐときは元気いっぱい櫨がしなる。それギッチラギッチラギッチラコー♪と唄われてしまった。でも、この間の高校の同窓会でもみな昔のイメージのおじいさんではない。だからほんとはおじさんと呼ばれたいと思うのである。

まあ、少なくとも気持ちだけは若い時のままでいたい。そのためにも、一度これまでのことを整理しておくのも意味があるように思える。ただ、だらだらとあったことを並べてもしょうがないので、その時代のトピックを中心にあるタイトルを決めて書こうと思う。
 

2008年10月12日

鎌倉という土地・・・極私的年代記

ぼくが生まれたのは鎌倉市常盤というところで、鎌倉市街からいうとだいぶ西のほうに位置する。本来の鎌倉というのは山に囲まれてその中央に鶴岡八幡宮があり、その周辺をいうが、そこへは7つの切通しを通って入ることができる。だから、その切通しの外は今でも市外といった趣である。

しかし、ぼくが生まれたところは、地名からもうかがえるように歴史の香りがただよっている。常盤は源義朝の愛妾であった常盤御前からきているし、隣は梶原といって梶原景時が居を構えたところである。そのほかにも、打越、笛田、手広といった雰囲気のある地名がそろっている。鎌倉にはそういう地名が多い。これは絶対になくしてほしくない。富士見台だとかすみれが丘はやめてくれと思う。

今住んでいるのはその中にある鎌倉山という山の中である。近くにみのもんたが引っ越してくるというところである。

鎌倉に住んでいるというと必ずといっていいほど「いいところにお住まいですね」と言われる。確かに、響きとかイメージからいうととてもいい所のように思える。それはいいところもあり、住みにくいところもある。このあたりの話はまたするとして、生まれた頃のことを書く。

その当時は田舎で家もまばらにあった。だから、こどものころは野山や海川を飛び回ったという記憶しかない。少し変わったことというと、家の前に有料道路があったということである。日本ではじめてと言われた自動車専用道路である。大船から江ノ島に通じる道路で、これがまた傑作な道路である。自動車専用道路であるからには人や自転車は入ってはいないですよね。ところが、人は歩いているは、自転車は走っているはである。

さらに面白いのは、当然料金徴収所があるのだが抜け道いっぱいなのだ。竹でできた踏み切りがあってそこで止まった車を番小屋と呼んでいた小屋の中からおじさんかおばさんが出てきてお金を取るのだ。ぼくらはこの近くが遊び場だから、番小屋のおじさんと運転手がしょっちゅう喧嘩しているのを楽しんだのである。のんびりとした時代だ。

その道路は、もうだいぶ前に市が買い取って公道になった。ところが問題は、もともと自動車専用だから、人が歩くようには出来ていないのだ。ぼくは出かけるときは冗談抜きに命がけである。数年前に近くのおばあさんが車に轢かれてしばらくして死んでしまった。

さて、こどものときに戻ろう。当時は、鎌倉がそんなに歴史的な都市であるという意識はまったくない。だいいいち、こどものころなんて隣町までがどれだけ遠かったか。正月に八幡様(鶴岡八幡宮)に行くこと、藤沢に映画を見に行くことが最大の遠征なのだ。

だから、一度横須賀までサーカスを見に連れていってもらったときは興奮した。いまでもはっきり覚えている。あまりにはしゃぎすぎたので迷子になってしまった。ふざけながら、目の前に来たバスに飛び乗ったら後だれもついてこなかった。ああ、これが迷子だと思った。

これでぼくはサーカスに売られるかわいそうな子になったと思ったのである。ほんとぼくのお袋はよく悪いことをすると、サーカスに売りとばすからねと言ったものだ。

そして、バス会社の詰め所でストーブにあたりながら親を待つ寂しさは子どもの身にとって相当きつかった。しかし、幸いなことに何とそのときの車掌さん(昔は乗合バスに乗っていたのです)が、うちの近所のひとでぼくの親を知っていて親切に対応してくれたのである。ぼくは、サーカスで宙返りをすることなく大きくなることができた。

話はそれた。いや、いっぱい話したいことがあって、あっちいったりこっちいったりすると思うがご容赦を。

話が戻って、鎌倉という土地で生まれたわけであるが、鎌倉で和田というと、多くの人が和田義盛の末裔ですかと言われる。そうですと言いたいのだが、実は和田義盛は北条義時に一家全滅の憂き目にあっているのである。だから、この和田一族は滅びたのであるが、もともと和田義盛にしても三浦市にある和田という土地の出であって三浦一族なのである。

多分そこから来て生き残ったのか、あるいは苗字帯刀を許すといったときにもらった姓かもしれないが、まあどちらでもいいが、鎌倉だから多少のはったりもいいんじゃないのだろうか。またずれてしまった。これから先はまた次回に。
 

2008年10月23日

遊び場

鎌倉といっても田舎に住んでいたのでそのあたりの話になる。昨日も、モノレールの大船駅で深沢地区鎌倉統合60周年という垂れ幕がかかっいた。そうなんです、ぼくが住んでいたところは、ぼくが生まれたときから、やっと鎌倉と呼んでもらえたところなのです。

ここからの話は、別に鎌倉に限った話ではなく、当時の日本中どこでもあった話のような気がする。遊ぶところはどこにでもあった。ぼくが住んでいた頃の遊び場は、たんぼと畑と山林と川と海である。そこで遊んでいた。

じゃあ、そこでの遊び方ってどうだったのか。まずは、田んぼですね。前から都会に住んでいる若い人は田んぼなんか、小学生のときの体験学習ぐらいかもしれないが、ぼくらは家の周りは田んぼだらけであった。いまは田んぼを探すのに苦労するが。

そこが遊び場であった。田植えをしたら、そこに蛙やザリガニ、どじょうなどが集まってくる。そこで蛙を捕まえて皮を剥いでそれを餌にザリガニを釣るのである。この話は前に書いたかもしれないがもう一度書く。

ぼくらがこうしてザリガニ釣りをしていたら、横で見ていた外人の子(当時は近くに進駐軍の家族が住んでいた)が、家に跳んで帰ったのである。しばらくすると何か大きなかたまりを手にしている。それをどかっと置いたのでよく見ると肉のかたまりなのだ。

こっちはびっくり仰天である。肉なんてめったに食べれないし、こんなに大きなかたまりも肉屋でしか見たこともない。外人の子はその肉をちぎってザリガニを釣りだしたのだ。おいおい、ザリガニに食わすくらいならオレたちにくれと叫んだのであった。

どじょうを取るのは寝込みを襲うのである。カンテラをさげて夜中に寝ているどじょうをもりでさして捕まえるのだ。

夜中に寝ているどじょうをもりでさして捕まえる話も書いたのでここではもう書かない。田んぼは稲刈りのあとの冬にそこで野球をしたり、飛行機をとばしたり、氷が張るとスケートをするのである。転んでも痛くないから縦横に走りまわれる。もちろん泥まみれになるが。

山にもよく行った。山といったって低い丘のようなものだが、こどもにとっては高い山である。そこに隠れ家を藤の蔓を使って木の上に作るのである。そしてターザンごっこである。カブトムシやクワガタもよく取った。どこにいるのか決まっている。

でも山は蛇や蜂に気をつけないといけない。桑の木に登って実を採って食べていたら、蛇に首を巻かれて木から落ちたことがる。棒で草むらを叩いていたら、蜂に襲われた。逃げても逃げて追いかけられて数箇所刺された。すぐにおしっこをひっかけたがだめで、腕がはれ上がりしばらく病院通いをした。

次は川の話である。家の前に小さな川があった。これもこども心には大きな川である。そこでは釣りや手作りのボートに乗っての舟遊びである。この川は、農業用水にもなっていて、春から夏にかけて堰止めをして水を張るのである。そのときに釣りやボートで遊ぶ。

で田んぼへの水張りが終わると、その堰をいっせいに外す。この日は一大イベントである。なぜかというと、水をたたえた川が一気になくなってしまうから、魚どもが手づかみで採れるというわけである。お目当てはうなぎである。この時期になるとよく油の乗り切ったうなぎを食べたものだ。

川は楽しいものだけではない。危険なものでもある。台風で何回かあふれたこともあるし、自転車の練習をしていてそのまま自転車ごと浅くなった川に落ちたこともあるし、弟がおぼれてすんでのところで助けあげたこともある。

さて、最後に海であるが、ぼくのうちは鎌倉でも海にはそれほど近くはない。さすがに歩いては無理なので自転車かバスである。由比ガ浜か江ノ島東浜である。夏になるとしょっちゅう出かけていき真っ黒になる。しかし当時は海水浴客も多く、何よりも海が汚かった。

そういえば、鎌倉カーニバルというのがあって、それを見に行くのも楽しみであった。もちろん、その頃はサーフィンなんてやっていなかったが、波乗り板というのがあって、今でいうボディーボードというやつでそれで遊んでいた。普通はそんなに波が荒いわけではないので、台風がきそうなときをねらっていくのである。ところが、これも楽しいことばかりではなくて、弟の同級生がおぼれて死んでしまった。それから、波が高いときに海に行くことを禁じられたのは言うまでもない。

今だと、危ないことはやってはいけないとすぐになるが、昔はあまり言われなかった。だいいち、少しぐらい危ないことのほうが面白いに決まっているのだ。だから、今の子供たちがかわいそうに思うのである。

ところで、こども遊び場に学校の運動場も付け加えたほうがいいように思う。それだけ、校庭でよく遊んだものだ。ぼくの家は学校からすぐ近くだったので、学校から帰ってランドセルを放り投げるとすぐに学校の運動場に行った。

何をするかというと、もちろん鉄棒などの遊具があるから、それで遊ぶというのもありだし、砂場で空転の練習をすることもある。空転というのは空中転回ということで、手を付かないで前方に一回転することである。これができるかできないかでクラスの中での評価が違う。このころ評価を得たいと思うと、かけっこで一番か、いまの空転ができる、跳び箱を一番高く跳べる、蛇をつかめる、相撲が強いといったことで勉強ができなくてもちゃんと尊敬される手があったのである。

またまた今と比較してしまうが、今は学校の運動場で遊べないのではないのか。それこそ変なやついて危険だからとなっているのではないだろうか。もちろん、ぼくらの時も変な大人がいたけれど、それは犯罪につながるような怖さではなかった。だから、夕方暗くなっても遊んでいて、近くの家のお母さんが「ごはんだからもう帰ってきな」という声とともにみな家に帰るのである。そういえば、塾もなかったなあ。
 

2008年11月 8日

はちまんさま

ぼくら子供のときのお正月の過ごし方は、定番の羽子板と駒回し、凧揚げである。そしてお年玉を抱えて、「はちまんさま」に行く。「はちまんさま」というのは、鶴岡八幡宮のことである。

そこには、いろいろな店が並んでいて、変なお菓子やお面を売っていたり、ヨーヨー、金魚すくいとかいった屋台がぎっしり出ている。時にはひよこを買っていって怒られたりする。

そこで、今でも忘れられないテキヤのおじさんのだましのテクニックの話をする。ルーレットみたいので当たると景品がもらえたり、紐で引っ張ると商品が釣れるようなものもあったが、だまされたのは万年筆のことである。

当時、ぼくのあこがれは万年筆をもつことだった。スポイトでインク瓶からインクを吸い上げ、すらすらと書くのが夢であった。でもまだこどもが買うには高いので中学生になったら買おうと思っていた。中学生になって買おうと思ったのはもう一つあって、それは腕時計である。でも腕時計は中学入学の時、オヤジがお祝いに買ってくれたのである。無茶苦茶うれしかった。

さて、万年筆である。境内から少し外れた空き地で人だかりがしているので行ってみると、テキヤのおじさんが口上を述べながら万年筆を売っていたのだ。思わず買いてーなあとながめていたので、言っていること、やっていることに魅入ってしまった。

何やら液体を皿に入れて置いてある。おそらく塩酸だったのではないかと思うのだが、数本の万年筆を取り出しては、その液体につけるのだ。ほとんどシューと音を出して溶けてしまうが、中の1本だけが溶けない。

おじさんは、これは本物の金だからだと大きな声で言った。その後はお決まりのように、“今日ここにいる人は運のいいひとだ。この正真正銘の金の万年筆を格安でおわけしましょう”となる。それがいくらだったか忘れてしまったが、おそらく数百円だったと思う。おお、ぼくも買えると思ったと同時にそれくださいと言っていた。

ところがである。すぐさまおじさんが言った言葉が、“さて今買ってくれたお客さんはさらに運のいいかたです。実はこちらにいま買っていただいたものより値段が何倍もする高級万年筆があります。それを、たった300円追加するだけで手に入るんですよ”だったのだ。

周りのひとが、おそらくサクラどもだろうが、こぞってお金を出してアップグレードしたのである。言うまでもなく素直なこどもは負けじと取り替えたのである。

いさんで家に返って、件の万年筆をとり出しすらすらっと書こうとしたら書けないのである。どこか引っかかった感じでなめらかではないのだ。そのうちインクの出も悪くなった。

そしてじっとその万年筆を眺めながら思い出していたら、はっと気がついた。まてよ、本物の金のペン先といったのは、最初に手にしたやつであとから買ったやつはそんなことは一切言わなかったなと膝をたたいた。後の祭りである。

もちろん、翌日もまた次の年もまた同じ場所に行ったのは言うまでもない。当然居るはずもなくリベンジは果たせないでいる。
 

2008年11月23日

幼稚園

ぼくには、2つ上の姉と3つ下の弟がいる。当時としては珍しいほうかもしれないが、家の近くに幼稚園があった。3人ともその幼稚園に通った。ぼくは、姉の手を握りしめながら通園したのを今でもはっきり覚えている。

幼稚園生活は楽しかった。みんなで砂場や遊具で遊ぶのも面白かったし、お弁当の時間がまた楽しかった。冬になるとダルマストーブの上にお弁当箱をのせて暖めてから食べる。お昼近くになると、そこから立ちのぼる湯気と匂いでお腹が鳴った。

今では弁当箱はアルマイトではなくプラスヒックだし、ダルマストーブはなくエアコンだから、電子レンジでチンということになる。ずいぶんとスタイルも変わるものだ。

そして、なんと言っても一番の楽しみは、クリスマスである。クリスマスの日にはスプーンとお皿を持参していく。昼時になると、坂の上からサンタクロースが大きな袋を提げてやってくる。何をもらったかは忘れたが、小物のプレゼントをもらう。

そのあと、みんなでカレーライス(いやライスカレーといった)を食べるのだ。なぜクリスマスにカレーなのかはわからないが、これが無茶苦茶おいしい。世の中にこんなうまいものがあったのかと思った。

そして、サンタクロースは実在すると思い続けたわけである。そのサンタクロースは先生が扮装していたということは後年知ることとなる。

この幼稚園というか、ここだけではなく、このころの幼稚園はおしなべてけっこう厳しかった。いたずらをするとビシッと叱られる。あるとき、友達5,6人で女の子をからかっているのが見つかったことがあって、このときぼくらはみっちり怒られて、倉庫に閉じ込められてしまった。

かなり長い時間、真っ暗な部屋に入れられ、もう泣きべそかきそうになりながら、はげましながらじっと我慢していた。もう耐えられないと思ったとき、がらっと戸があいて光が差し込んだときはほんとほっとした。

この時代、こうして子どもを叱るのは当たり前で、それで善悪をからだで覚えさせたのである。今でも記憶にあるということはそういうことだと思う。


2008年11月26日

K先生

小学校の時の先生で一番印象に残っているのは、3~5年の受け持ちだったK先生である。1年と2年は女の先生で、6年は年寄りの男の先生であった。その3人の先生もすごくいい先生で、よく覚えているが、やはり期間も長かったこともあってK先生のことを語ろうと思う。

K先生の専門は理科で、僕はこの3年間で理科系の道を歩むことが決まったのだ。植物や昆虫のこと、いろいろな実験を通して理科の面白さを知ったのだ。

このころのぼくの必携は、植物図鑑に昆虫図鑑である。牧野富太郎監修の折りたたみ式の植物図鑑はお気に入りで、野山を走り回るときも持ち歩いていた。そして、ファーブル昆虫記とシートン動物記がそばにあった。

4年生のとき、K先生に連れられてNHKテレビに出演したことがる。「はてな劇場」という理科の番組で、先生の知り合いが番組のスタッフであったようだ。ぼくたちのクラス全員が出演して、理科の実験や観察をしながら問題が出て、それに答えるという趣向である。

何とそのときの司会が黒柳徹子だったのである。問題が二つ出るのだが、ひとつは蛙の卵を見せられてこれはなんという蛙の卵でしょうという問題であった。これは、クラスのほとんどが手を挙げて、そりゃそうですよねいつも捕まえて遊んでいたんだから、S君という男の子がトノサマガエルと答えた。

もうひとつは、ジェットコースターみたいな仕掛けにビー球をころがせた実験で、答えは加速度だったのだが、誰も答えられなかった。理科少年のぼくとしては、すごくくやしい思いをした。

K先生はこうして、ぼくたち子どもたちにすごい愛情を注いでくれた。そこでは、勉強ができる子もできない子も、体の強い子も弱い子も分け隔てなく接してくれて、クラスはファミリーのような雰囲気が作られていた。

M君という子がいた。山の中の一軒家に父親と暮らしていたので学校を休みがちであった。先生はぼくたちに給食のパンを持ってその子の家に行けという。そここで、ぼくたちは何回かに分け数人ずつで訪ねていった。それからしばらくするとM君もやっと心を開いてくれて学校に来るよううになった、そんなこともあった。

そして、K先生はぼくらの憧れだった保健のS先生と結婚したのだ。その結びつきを作ったのはぼくらだと思っている。

ある夏の日、そんな素敵な先生同士の新婚家庭に招かれたのである。家が鎌倉の材木座だったので海水浴をして、お風呂に入れてもらい、夕食にカレーをごちそうになったのだ。ここでもカレーだ。

今でもあのころの教室や校庭の情景が浮かんでくるが、のびのびとそして自然のすばらしさに驚き、学び、成長したからこそ今があるような気がするのである。

2008年11月30日

運動会

ここのところ学校話が続いているが、運動会は小学校の時のメインイベントである。運動会の前日は興奮でよく眠れない。当日は、家が学校に近かったおかげで、朝早く起きて、場所を取りにいく。ござを持っていいところに置いておく。

それから儀式が始まる。まずはロッキーじゃないけど生卵とマムシの粉を飲む。そして、ふくらはぎに入念に“からすうり”を塗る。さて、いよいよ出陣である。はちまきをしっかり締め、はだし足袋をはき、気合を入れて家を出る。

もちろん運動会の花形は徒競走とリレーである。ぼくはこのころはまだ足が速くクラス代表も務めたくらいだ。徒競走もほとんど一番であった。(実は高校時代に自分の足が遅いのに気がついた、進歩がなかったのだ)

賞品はノートと鉛筆に決まっている。それでもそれをもらえるとすごくうれしかった。

運動会は小学生までで中学、高校は少ししらけていた。そう運動会ではなく体育祭といった。ここのメインは仮装行列でそれだけしか記憶に残っていない。

特に高校の場合は、もう1年前くらいから準備していて、仮装といっても行列するというわけではなく、演技をするのでそのテーマ設定から振り付けなど時間と手間がかかる。

しかし、ぼくはサッカー部の部活が優先だったので、ほとんど参加していなくて、当日はほとんど何もしなくていい“一兵士”みたいな役回りを与えられた。

しかし、大人になっても運動会と聞くとからだがうずうずしてくる。ところが、もう40歳くらいで会社の運動があってそのリレーメンバーになって走ったのだが、もう予想どおり、頭で描いているイメージと足の運びが合わず、ものの見事にこけてから、運動会とは疎遠いなっていった。
 

2008年12月 6日

相撲と野球

ぼくが小学校4年生の時に家にテレビが来た。昭和34年の3月に今の天皇陛下が皇太子の時の結婚式がテレビ中継されて、ぼくの家には近所の人がその番組を見に来て、雨戸を締めて暗くしてみた記憶が残っている。

ぼくも家にテレビが来る前は、よそのうちにテレビをよく見に行った。特にプロレス中継は近くの親戚の家に必ず見に行った。

家にテレビが来たときに最初に見たのが相撲であった。時は、栃若時代で、栃錦、若乃花の両横綱が全盛であった。忘れもしない最初にみたのは栃錦のお尻であった。

当時の相撲は非常に人気があって、個性的な力士もたくさんいて、ぼくのお気に入りは「潜航艇」というあだなの岩風である。筋骨隆々のからだで下からもぐりこむ戦術で幾多の名勝負を展開した。その他にも、水入り相撲の出羽錦、技能派の信夫山、成山、大量の塩を撒く若秩父、ちょこんと仕切る鳴門海とか、今の高見盛のような個性派ぞろいであった。ぼくらはそれを真似て相撲をとった。

今は相撲を見ることはないが、当時はテレビにしがみついて見ていたが、それがちょうどテレビ的であったということは確かだ。

もう一方の野球も燃えた。昭和33年に長島茂雄が巨人に入団し、翌年の天覧試合で村山からさよならホームランを打ったのをテレビで見ている。

このころのプロ野球もまた個性的な選手がいっぱいいてぼくらを楽しませてくれた。金田対長島とか、西鉄の野武士軍団、40勝投手の「神様、仏様、稲生様」や杉浦、権藤。打者では、まだ川上がいた。あげたらきりがないので、ぼくが応援していた大洋ホエールズの話を少し。

当時の大洋ホエールズの本拠地は川崎球場であった。1978年に今の横浜スタジアムに移るまでこの狭い球場で試合が行なわれ、子どものころはここに見に行ったのである。

そのころは、秋山、土井のコンビが活躍していたが、万年最下位であった。そしてあるとき忘れもしないことが起きた。試合が終わって球場をあとにしようとしたとき、ちょうど選手が球場から出てくるところにでくわしたのである。そしてそばに行って握手でもしてもらおうとしたと思ったのだが、いきなり知らない若い選手に抱きかかえられてぼうや大きくなったら野球の選手になれやというようなことを言われ、頭をなでてくれたのである。

もう頭が真っ白でボーっとしていたら、何という選手に抱かれたかわからないままでいた。一緒にいた親父に今の選手は誰と聞いたら、今の選手は「島田源太郎」だと教えてくれた。

おそらく、入団したばかりであったと思うが、それからはもちろん島田源太郎のファンになって応援した。
そして、1960年に奇跡が起こった。三原監督を迎えたわが大洋ホエールズは万年最下位の汚名を返上すべく、あれよあれよで優勝してしまったのだ。日本史シリーズでも大毎オリオンズを破っている。その年、島田源太郎は完全試合を達成し、18勝をあげ優勝に大いに貢献したのである。

ぼくは、小学校時代はもうずっと野球少年であった。実は何を隠そう、南海ホークスの野村克也のファンでもあった。ユニフォームらしきものを作ったときに付けた背番号はもちろん“19”であった。しかし、中学の後半になってサッカーを知ってしまってからは、野球から遠ざかったのである。
 

2008年12月 9日

遊びを工夫した

ぼくたちの子どもころというのは、もちろんテレビゲームもなかったし、家の中でするのはトランプか花札、ダイアモンドゲーム、かるたといった類で、もっぱら外で遊ぶことが多かった。

外といっても遊園地みたいなものがあるわけではなく、遊び道具は自分たちで工夫する。そのときの必需品は、「肥後の守」のナイフである。折りたたみ式の小さなナイフなのだが、これが万能でいつもポケットに収まっていた。本当は、もっと大きなサバイバルナイフのようなものがほしかったのだが、それは、大きなお兄さんしかもてなかった。

それを使って、竹とんぼややつでの実を玉にした鉄砲とか、ゴムパチンコや木刀や弓矢などなどいろいろなものを作って遊んだ。

一番すごくて危険だったのが、「2B」を使った鉄砲だ。2Bというのを知っている人は少ないと思う。ただぼくらの年代ではそれで遊んだ人も多いのではないだろうか。爆竹のような花火で、短い鉛筆のような先っちょい火薬が塗ってあって、それをマッチ箱でこすると発火し、いずれ爆発する。これでいろんなことをする。かえるの腹に入れるなんて残酷なこともした。

その2Bを片方をふさいだ細いパイプ(テレビのアンテナをよく使った)に入れ、筒先にパチンコ玉を入れて爆発させると鉄砲になる。これは危なかった。やけどしてやめた。

めんこ、駒、ビー玉、けんだま、じっくい、缶けり、竹馬などなど道具を使った遊びも数多くある。これらもいろいろな工夫をしながら遊んだ。工夫しなかったのは、フラフープとホッピングくらいかもしれない。

紙飛行機や凧もよく作ったものだ。紙飛行機は簡単に作れる小さなグライダーから、ゴムで動くプロペラ機までいっぱい作った。プロペラ機はあまりにうまく作りすぎたので、作って最初にとばしたとき遠くに行く過ぎて見失ったこともある。

船も作った。これもゴムで動く潜水艦やろうそくで動くぽんぽん船だ。

スポーツ系の遊びもよくやった。野球は人が集まらないと三角ベースである。ボールやバットもないと布を丸めて糸でぐるぐる巻きにしてボールにし、バットはその辺に落ちていた木を削ってつくった。そして、当時はそんなことができる空き地があったのだ。

家の庭でやったのは、ピンポンで卓球台なんかないので母親が洗い張りに使う張り板を2枚並べてやるのである。これはけっこうはまって、中学の最初の部活は卓球部だった。この張り板はいろいろなところに使った。筏にして川を探検したこともあった。

近所にお兄さんがいて、その人と一緒にいろいろなことをやった。リレーのバトンを作るのだ。何色にも色を塗ってきれいに仕上げ、たすきも作ってみんなでリレー大会をする。場所は普通の道路だからおもしろい。もちろん自動車がくると中止だが、めったに通らなかった。そのお兄さんは中学を卒業すると床屋さんの学校にいき、丁寧な仕事をする職人さんとなった。

当時は路上で遊ぶのが普通だったが、徐々に車の通行量が増えてきていた。そんなとき、近所の床屋の息子のかっちゃんが自動車に引かれて死んでしまった。庭でキャッチボールをしていて、ボールが道路に転がったのを注意もせずに飛び出して、ちょうど運悪く車と衝突してしまったのだ。ものすごいショックだったが、それから路上で遊ぶことがだんだん少なくなった。

まだまだいくらでも当時の遊びが出てくる。書きながら、ずいぶんといろいろなことを工夫しながらやったなあという感慨が深い。人間は、何もなくても、親から与えられなくても自然と自由に飛びまわれる遊び場と少しの道具があれば楽しく過ごせると思う。

今はそれがない。ゲームはあるがそれだけのような気がする。これじゃあ、遊ばされているようで主体性がないのではないだろうか。
 

2008年12月13日

行商人

今のようにスーパーマーケットがあって、コンビニがあってという時代ではなかったので、どんな店屋があったのかを言っておく。家のまわりにあったのは、八百屋(酒屋、米屋を兼ねていた)、さかな屋、肉屋、パン屋、豆腐屋、文房具屋、駄菓子屋、クリーニング屋、床屋、牛乳屋ぐらいだったと記憶している。その当時は冷蔵庫というものがなかったので、毎日夕方になるとそれぞれの店に買いにいく。買出しは多くの子どもたちの仕事でもあった。

しかし、そうした店とともに行商する人たちがいた。商品を自分の背中でかつだり、自転車やリヤカーに積んで、家々を回って歩くのである。

パン屋のこまさんは、いつもリヤカーの後ろの大きな箱にパンをいっぱいつめて、鐘をならしながらやってくる。そのころはパンの種類も限られていて、ジャムパン、ピーナッツバターパン、メロンパン、チョコレートパン、そしてぼくのお気に入りの甘食パンといったところである。それでも甘いものはことのほか欲しかったのでよく食べた。

さかな屋のもう名前は忘れたがおじさんが時々くる。金沢八景から自転車を操ってはるばるやってくる。とくにあさり、蛤の類をよく調達した。おじさんが来た日はアサリの味噌汁である。

夏は、アイスキャンデー屋さんである。自転車に幟をつけて、棒についた一本5円のミルクとチョコレートのアイスキャンデーは夏の暑い日になるとあの鐘の音と一緒に思い出す。

まあ、極めつけは越中富山の薬売りだろう。近くに薬屋がないので重宝した。毎年1回やってきては、補充してくれるのである。そのとき必ず、紙風船かゴム風船をくれる。それが楽しみで薬売りの人が来るのが待ちどおしかった。

モノがない時代だからこそ、特に食べ物を買うことは大事なことで、なけなしの金をもって本当に欲しいものを待ちに待って買うのである。だからまた美味しかったように思う。

2008年12月17日

食い物の話

生まれたときが終戦直後であるということもあって、まず最初に浮かぶのは食料難ということだろう。いつも腹が減っていた。そしていつも芋を食べていた。サツマイモである。

サツマイモは実にいろいろな食べ方がある。煮ても焼いても蒸かしてもてんぷらでも、いもけんぴでも乾燥いも、何でもOKだ。じゃいまでも好きかと言われるとそれが今は全く食べないうちの嫁さんから人間一生で食べられる量がきまっているから、お父さんはそれを超えてしまったのねと冷やかされる。

ついでに少し意地汚い話だけど、食べ物の話を続ける。夕飯の風景を言ったほうがいいのかも知れない。まるで三丁目の夕日であるがご容赦の程を。

まだぼくの家にはかまどがあった。べつに特別ではなく、どこのうちもそうだった。当たり前の話、かまどは薪で火をおこす。ということはまず薪作りから始まる。そのころは薪が売っているわけではないから、自分たちで薪割りをする。当然風呂も薪だからその分も割るから重労働である。

こんなことばかりやっているから、その当時の大人はやわいヤツはいなかった。もちろん腹いっぱい食べられないのでふとっているやつはいなかったが、やせていてもたくましかった。

ほんとに何もなかった。でもいろいろな工夫をした。野性のものも食べたりした。せりやよもぎ、つくし、野蒜、ふきなどなどである。

家の食卓とはいかないが、こどもたちは、あけび、栗、椎のみ、桑のみ、キイチゴ、グミ、さくらんぼなどおやつがわりによく食べた。極めつけは、ニッキだろう。みな知らないだろうが、この木の根っこが売っていたのだ。その木の根っこをかじる。買うのがいやだから盗みに行く。この間本家の法事でその盗みにいったうちの子が来ていたので、50年ぶりにあやまっておいた。

ぼくは、こういうのもなんなのだがもともと甘党である。だから楽しみはもうぼたもちとお汁粉なのである。お彼岸や何か特別なことがあると出てくる。昔は、甘いものに飢えていたから、それこそギブミーチョコレートである。

明治の板チョコと森永のミルクキャラメル、ハリスのフーセンガム、くじであたるとまたもらえる5円の紅梅キャラメルである。マーブルチョコはもう少しあとだ。たまに、親父が横浜中華街から買ってきてくれた月餅とあぶら餡の中華まんを目の前にしたときはひっくり返るほど喜んだ。

でも食卓に並ぶものは貧弱でもみんなで一緒にちゃぶ台を囲むときは楽しかったななあ。

このころのこどもたちは、家の手伝いをした。ぼくらは巻き割りもそうだし、いつも夕方にかえってこいと声がかかると。一斉に帰るがそのあとはみんな買い物に行かされる。ぼくがいやだったのは、おやじの酒を買いに行かされることで、だからいまでも自分の酒は自分で会に行く、あまり自慢にはならないが。

鎌倉の長谷にコロッケで人気の肉屋「宮代商店」があるが、その昔はぼくらの家の近くにある唯一の肉屋であった。そういえば、八百屋も魚屋も牛乳屋もクリーニング屋も床屋もみんなひとつしかなかったなあ。競争がない。でも満足する。そんな世界である。

話はそれるが、そうした店屋の子どもたちともよく遊んだ。八百屋のカズちゃん、自動車にひかれて死んでしまった床屋のかっちゃん、クリーニング屋のカズミちゃん、豆腐やのけんちゃん、わーセピア色の世界だ。今の子がじいさんになったら何色になるのだろう。すくなくともデジタルは、色があせないから、セピア色ではない。

食べ物は本当に少なかった。ぜいたくなものはなかった。同じくらいの年代のひとが、スキヤキは豚肉だと思ったという話をしていたが、豚肉ではなかったが、脂身の方が多い牛肉であって、そのおかげでぼくはしばらく牛肉が食べられなかった。

そしておかすがないと工夫したものだ。となりのおばさんがいいものができたから食べさせてあげるよといってくれた。これは「磯辺ライス」というんだといっておもむろに出してくれたのをみたら、何のことはないご飯に海苔を細かくきざんで醤油をかけたっだけであった。そんなたくましさもあった。

食い物の話はきりがない。ここではこんなところにとどめまた給食のことやら別のタイトルで書いていきます。
 


2008年12月27日

直ちゃんの家出

いまは近所付き合いというものが少なくなった。というよりむしろ怖くて避けているところがあると思う。昔は、近所同士でこどもたちは一緒に遊んだし、親同士も助け合いながら生活していたものだ。

ぼくの家の近くに直ちゃんという男の子がいた。男の子といってもぼくの2つ年上で、お姉さんもいて、この姉と弟とはよく遊んだ。

ところが、直ちゃんが小学校高学年になった時に、お父さんの仕事の関係で引っ越してしまった。ただ、引越し先は遠くなく同じ市内で、バスだと15分くらいでいけるところである。

そして、しばらくしたある冬の寒い日のことだった。家の庭に男の子がひとりさびしそうに佇んでいた。直ちゃんである。「どうしたの」とぼくの母親が聞くと、「家を出てきた」という。すぐに家の中に招じ入れ、話を聞くことにした。

当時の家にはどこにでもあった火鉢に手をかざしながら、直ちゃんがぼそぼそ話しだしたところ、どうもお母さんに激しく怒られ、そのまま家をでてきてしまったらしい。どうして怒られたかは覚えていないが、なんとも悲しそうな表情を浮かべていた。

それから、しばらくいろいろな話を聞いてあげていると、徐々にほっとしたような顔になり、ときおり笑顔も見せるようになった。

結局、夕方になりお腹もすいてきたので、夕食のカレーを(ここでもカレーだ)一緒に食べさせて、ぼくの父親が家まで送っていってあげた。

それから、直ちゃんのおかあさんが御礼に来て、いい子にしていると言って帰った。この話はここまでである。

というのは、今だったら、それほど遠くないところなら、家族ぐるみで行き来して、お母さん同士が近くのファミレスでときどきおしゃべりということかもしれない。だから、今昔の感があるのはここのところで、昔は近所のおばさんのところに家出してくる子がいるが、そんなに密にはなっていない、というかできなかったのだ。

なぜなら、そのころのお母さんは、何しろ忙しかった。生活するのに忙しかった。家事だって今のよううに電動化されていないから、全部手でやった。そして、よく働いた。家も少しばかりの畑があったので自分のところで食べる野菜を自家栽培していたので、その仕事も母親が一部手伝っていた。

だから、休む暇なんてないから、いまの主婦のように子どもを幼稚園や学校に送ったら、ロイヤルホストやガストやジョナサンでぺちゃぺちゃするわけではない。せいぜい豆腐屋の店先で立ち話をするくらいなものだ。

直ちゃんは今どうしているかわからないが、きっとあのことを覚えていてくれると思う。
 

2009年1月24日

母さんの骨折

ぼくが3歳のとき、母親が腕を骨折した。一家のなかで母親がけがをしたり病気をすると大変なことになる。今もぼくの妻が病気療養中なので痛切に感じる。ただ、いまは、子どもが大きいので何とかなるのだが、こどもが小さい時は困ったことになる。

ぼくの弟が生まれたばかりでその子を背負って、縁側から降りようとしたとき、踏み石ですべってころんだのだ。だから、三人の子どもはまだ赤ん坊から幼稚園児である。

ある意味、腕のけがは足のけがよりやっかいである。炊事、洗濯の類ができないのである。

昔はそんな時には近所にいる嫁入り前の若い娘が手伝いにくるのだ。このときも、すぐ近くの家からやってきて、家事をやってくれたのである。

母親の実家は辻堂だったが、今なら近いがそのころはえらく遠いところだったし、父親の実家すなわち本家はこちらから手伝いに行くことはしても来てはくれないものであった。そんなわけだから、遠い親戚より近くの他人というわけである。

昔はこうして助けあって生きていた。そうでなくては皆が生きていけなかったのだ。やや乾いた言い方で言うと、社会全体のコンセンサスとしてこうした互助行動が合理的だったのである。

家事を手伝ってくれた娘さんがお嫁にいくとき、ぼくの母親はうれしそうに「あの娘はきっといい奥さんになるよ」とつぶやいた。
 


2009年1月31日

いとこ

ぼくにはいとこがいっぱいいる。われわれの親の世代は兄弟が多いからである。父親は男4人兄弟で、母親は男2人おんな3人の5人兄弟の末っ子である。ちなみに嫁さんの兄弟も同じようで父方が男4人女1人、母方が男1人に女が4人という構成。多いですよね。でも昔はこれが普通だった。

だから、いとこが19人いる。上は母親と同じぐらいの年齢から下は45歳くらいまでで、近所で年齢の近い子とはよく遊んだ。

その中でも、いろいろ世話になったのが逗子に住むいとこで、歳はぼくより10歳くらい上だから今は70歳を越えている。しかし、いまでもバイクを乗り回してツアーに行ったり、近くの神社の代表みたいなことをやっていて、毎朝境内の掃除をしていたり、市民文化教室で包丁研ぎの先生になったりとほんとよくやるよなあと感じる。でも去年片方の腎臓を取ってしまったので、どうかなあと思ったがまだまだ元気なようである。

ぼくが小学生のときそのいとこの家によく遊びにいった。ぼくが小学生だから、いとこは大学生であった。でもすごくよく面倒を見てくれて、夏休みには決まって何日間泊り込みで遊びにいく。その家には横浜市大に通う学生が下宿していて、その人たちとも一緒に逗子の海にいくのである。

子どもたち3人だけで何日もいるのでおばさん(ぼくの母親の姉)は大変だったろうと思うが、にこにこしながら世話をしてくれた。そのおばさんももういない。

ぼくが一番楽しみにしていたのは、釣りである。その当時いとこの趣味が釣りでその懲り方は尋常ではなかった。でたまに連れていってくれるのだ。磯でも堤防でも、そして船にも乗せてもらった。たこ釣りはおもしろかったなあ。かまぼこの板みたいのに鉤がたの針があって、そこに小魚をつけて底を引くのである。何といってもその釣ったたこをゆでて食べたときのおいしかったこと。

ぼくらはこうして近所のひとだけではなく親戚の人たちとの付き合いのなかで、いろいろなことを学び成長していったのである。それを考えると今の世の中がそうした関係性が薄れ、なんとも味気ないことになっているように思えてくる。それこそ空気の濃さから薄さへの移り変わりの一例かもしれない。
 

2014年11月19日

解散、アギーレ、そして高倉健

昨日、安倍首相が衆議院の解散を決めた。21日解散で12月14日が投票だそうだ。何だか降って湧いてきたような話であっという間に解散となる感じである。この解散は大義名分がないとか、争点は何かなどよくわからないところが多い。消費税の増税を先送りするのでそれを問うということのようだがいまいちしっくりとこない。

どうも政局がらみで野党の足並みがそろわないうちに選挙をしてある程度の信任を得ておこうという魂胆らしい。まあ、解散権は首相の専権事項だからとやかく言ってもしょうがないのだが、いったいどういう判断で投票したらよいのか悩んでしまうのはぼくだけではないだろう。

ぼくが理解できないのは消費増税をなぜ延期するのかということである。1年半後には10%にする、しかも景気動向によって判断するという条項を外すという。これっておかしくないですか。そうなら、今と1年半後とどれだけ違うのだろうか。日本人の悪い癖である先送りという選択は国政という大事なところでやってほしくない。朝日新聞の星さんが書いているように"愚直な、政治忘れたのか"ということである。増税するけどこれはどうしても必要なことだからみんながんばって乗り切ろうではないかとなぜ言わないのだろうか。そう思っているぼくは誰に投票したらよいのだろうか。

アギーレは変な愚直さがないのがいい。昨日のサッカー日本代表とオーストラリアの国際親善試合で2−1で勝利したのは、柔軟な対応力だった。ホンジュラスに大勝した4−3−3のシステムでスタートしたが、オーストラリアに完全に研究されていて、アンカーの長谷部のところが狙われ、押されっぱなしの展開になる。そこで、システム変更し、中盤を長谷部、遠藤の二人ボランチにして厚くした。これでプレスが効きだして日本のペースになる。

その結果、後半に今野と岡崎のゴールで2−0とリードをする。ただ、終了間際にあのケイヒルに1点を返されたのはいただけない。試合の終わり方というものを皆で共有して締めてもらいたい。さて年内で代表の試合は終わり、来年オーストラリアで開催されるアジアカップに望むことになる。おそらく、今回の2戦で選ばれたメンバーが主体となるが、ザックのときと同じではないかという指摘があると思うが連覇を達成することのほうが今から若手に経験を積ませるというより大事なことのように思うので、このメンバーでしっかりと戦ってきてほしい。

さて、愚直という言葉がこれほど似合う俳優さんはいないといえる高倉健が亡くなった。享年83歳。あちこちから哀悼の言葉が寄せられているが、あのたたずまいがもう観られなくなると思うと寂しい限りである。ぼくの高倉健は学生時代に出会った「日本侠客伝」「昭和残侠伝」「網走番外地」である。"背中で泣いてる唐獅子牡丹"なのである。

当時の全共闘世代にも受けていて、映画館にはそういった若者がいっぱい来ていて、映画を観終わって出てくるとみな肩で風を切って歩いたものである。その後の健さんは、「幸せの黄色いハンカチ」とか「鉄道員」「南極物語」といった名作に出演し、最近では「あなた」にである。生涯205本の映画に出演したというからまさに日本映画のレジェンドであった。合掌。
 
  

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