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チャイナばなし アーカイブ

2007年8月 7日

激動の年 - チャイナばなしその1

これから、昔の中国のことについて書こうと思う。最近、オリンピックのことや、汚染食物やコピーのことなど何かと関心が高くなっている。そういったニュースに接するたびに、ああ昔と何も変わっていないなあとか、ずいぶんと様変わりしたものだなあとか感ずることが多い。そこで、記憶をたどりながら当時のことと今を比較してみようかと思う。

ぼくは、1976年3月から7月までの約4ヶ月間、中国で働いていたことがある。北京から南西60kmくらいのところで、実質中国史上はじめての石油化学プラントの建設と試運転にスーパバイザーとして派遣されたのである。1976年というのは、あの田中角栄が中国に行って国交を回復したのが1972年だから、それから、たった4年しかたっていなかったので、ほとんど日本人もいなかったし、ほんと中国は貧しかった。

また、この1976年というのは、中国にとって激動の年であった。周恩来の死の追悼から始まった「天安門事件」が4月に起こった。若い人は「天安門事件」というと1989年に起こった民主化運動を指す場合が多いが、ぼくの中では、1976年の第一次「天安門」事件をいう。このとき北京の近くにいたのだが、全く事件は知らなかった。一週間遅れてやってきた日本の新聞を見て始めてわかったのである。

この天安門事件で鄧小平が走資派と言われて失脚してしまった。工場には走資派という字が大きく掲げられ、鄧小平が言った「白い猫も黒い猫も鼠を取るのがよい猫だ」と言ったことが毛沢東の怒りにふれたと、まことしやかに聞こえてきた。ぼくらは、日本という全くの資本主義の国からやってきたわけだから、おれたちも走資派だよなあと言っては首をすくめたものだ。

さて、この年はほんとの激動の年で、まずぼくが7月に帰ったときに東京駅のホームで手に取った新聞で腰を抜かしそうになった。そこには大きく“田中角栄逮捕”とあった。周恩来とマオタイ酒で乾杯したあの田中角栄がロッキード事件で逮捕されたのである。

そして、ぼくが日本に戻ってすぐに唐山地震という大きな地震があって、まだ残っていた人はしばらくはテントで生活をしていた。その後の9月に毛沢東が死んだ。その直後、文革堅持を主張する四人組(江青、張春橋、姚文元、王洪文)と政権を担当する華国鋒が対立し、10月に四人組は逮捕される。

というように、1966年の紅衛兵結成から始まった文化大革命の終焉の年に居合わせたことになる。その年から中国は失なわれた10年をとり戻すべく、ものすごい勢いで突っ走るのである。ぼくはそれから5年ごとくらいに3回北京を訪れている。これから、いろいろなことを思い出しながら書いていくが、初回は1976年という節目の年のことを書いてみた。

2007年8月10日

マナー - チャイナばなしその2

一昨日は、北京五輪のちょうど1年前ということでイベントが盛大に行なわれていた。中国では大掛かりなイベントは何かにつけて天安門広場で行なわれる。日本の皇居前広場では催物は行なわれない。時の為政者が天安門に立って、その広場に群がる無数の民を見たら気持ちいいんだろうな。

それはそれとして、今回はマナーの話をする。五輪を控えて中国人のマナーが問題になるので、国をあげて改善に取り組んでいる。その、マナーの悪さの代表的なものとして四つあって、彼らは疫病と言っているらしいが、それは、「喫煙、唾吐き、列への割り込み、ののしり」だそうだ。

これを聞いたとき、ああ全然変わっていないなあと思ったのである。昔もこの4つのマナーの悪さは辟易ものでした。

人前でぱかぱかたばこは吸うわ、灰はぼろぼろ落とすわ、吸殻はポイ捨てだし困ったものだ。唾吐きはいたるところに痰つぼが置いてあるんだけど、おかまいなしにペーっとやる。気持ち悪いのだ。列の割り込みは、彼らには並んで待つという習慣がない。だから、人のかたまりがあるだけで線にはならないのだ。

ののしりは、ちょっと街中を歩くと必ず誰かがけんかしてわいわいやっているのに出くわす。よくあったのが自転車と歩行者の衝突で、人の群れに平気で自転車が突っ込んでくる、歩いているほうは命がけだ。そこで、ぶつかると、そりゃすごいものです。お互いに力いっぱいののしりあうのです。最初は、中国語もわからないし、早口できいきい言うもんだからびっくりしていたのだが、それがしょっちゅうあるので、そのうちまたやってらあという感じになっていく。

中国人の気質に何があっても自分は悪くないというのがある。だから、もう自分を正当化するためにうそでもなんでもいいから屁理屈を並べ立てて、お前が悪いと主張するのだ。これには、仕事のときも悩まされた。何かミスしたり、忘れたりしてトラブルが起きて、明らかにそいつがやったことなのに、いや私は間違っていないと突っぱねるのだ。

そのときは、いくぶん文化大革命の影響があって、自分の非を認めたとたん反乱分子として糾弾されるような雰囲気を反映しているのかと思ってみたが、いまもあるということはもともとの気質なのだろう。そうなると、直すのは難しいのではないだろうか。

日本人だって昔は4つのマナーもよかったわけではない。でも最近はずいぶんとよくなってきている。なぜだろうか。ひとつには経済的な豊かさによる余裕があるからではないだろうか。人間は気持ちにゆとりというかゆったりとした気分になれると、自然とマナーもよくなるような気がするが。

2007年8月19日

人命 - チャイナばなしその3

いま、五輪のメイン会場となる「鳥の巣」というスタジアムの建設が急ピッチで進められているが、そのため大量の労働者が動員され、危険な作業についているようだ。

まだ、中国は、というか途上国の常として、安全衛生、保安、公害とかいったことに対する配慮はとりあえずおろそかにする。工事で転落して数人が死んだようだ。公表していないので本当かどうかわからないが、おそらく死亡者が出ているのはまちがいないようだ。どうも中国は、あれだけの人間を抱えているからというわけでもないだろうが、人命をおろそかにしているように感じる。

というのは、これも30年前に経験したことが重なっている。プラント建設も終わり試運転に入った頃のことである。石油化学プラントには、除害装置としてフレアスタックというのが設けられている。要するに、爆発性のガスを生で大気に放出することができないため、そこに導いて燃焼させるわけである。よく、テレビで油田の映像が流れて、そこに煙突のようなものから火を噴いているのをみることがあると思いますが、あれのことです。

ですから、フレアスタックというのは、ガスが放出されていないときでもパイロットバーナに火をつけておかなくてはいけないのである。突然ガスが流れてきてから着火したのでは遅いので種火を常時つけておくわけです。

ところが、ある日その種火が消えてしまったのである。こういう場合は、プラントを止めてガスを全部逃がすか、封じ込めてから修理する。それでないといつガスが放出されるかわからないので、もしパイロットバーナのところで着火テストかなんかしていて、ガスがきたら一瞬にして焼き鳥になってしまう。

ぼくらは、当然一旦プラントを停止して作業を行なうものだとばかり思っていたら、何と一人の作業員が松明を持ってフレアスタックを登っていったのである。高さが120mくらいあるから、登るのも大変ですが、何といっても危険きわまりないのである。

幸い何事もなく作業は終わったのだが、これにはびっくりした。翌日の工場の掲示板には、英雄的行動として賛辞が贈られていた。五輪施設の工事現場で働く農民工をみていると、いまでも、多少こうしたことが残っているように見えてしかたがない。

2007年8月25日

軍隊 - チャイナばなしその4

中国には「人民開放軍」という軍隊がある。中国の軍隊のおもしろいところは、軍隊といっても国軍ではないのです。中国共産党中央軍事委員会の下に置かれているんです。党の軍隊なのです。それから、「自力更生」という方針が軍隊にも適用されているということ。ちなみに、この「自力更生」はぼくらが一緒に仕事をするうえで非常に厄介だった。このことについては、またあとで記す。

さて、その軍隊のことだが、ぼくの出合った軍隊経験を3つばかし。まずはなんといっても、最初に北京空港に着いたときのことが忘れられない。当時はもちろんJALもANAも飛んでいなくて、ぼくらは羽田からパキスタン航空の飛行機に乗っていった。数時間後北京空港に降り立ったのだが、真っ暗やみのなかにポツンと止まっている。やがて、ドアがあいた瞬間どっと銃をもった人民解放軍の兵士が入ってくるのである。わけのわからない中国語でわめきちらす(ように聞こえる)のを聞いたとたん、機内で呑んだ酔いがいっぺんに醒めてしまった。こりゃ、恐ろしい国にきてしまったと思ったことを覚えている。

つぎは事故の話。前回プラントの中にあるフレアスタックに松明をもって登った命知らずの英雄の話をしたが、そのフレアスタックの先っちょについているバーナが割れてしまったことがあった。何しろ、120mの高さのところである。当時の中国にはそこまで届くクレーンがなかった。さて、そのバーナの修理をどうするか。

突然中国側から今から北京の市街にいきますからといって車が用意された。みな訝しげ車に乗り込んだが、それはたまの外出だから喜んで行った。帰ってみるとそのバーナの修理が終わったとのこと、どうやってやったか教えてくれないのだが、内緒で聞くと軍隊のヘリコプターで一旦吊り下げて、地上で修理したあと再びヘリコプターで据え付けたとのこと。おおやるなあと感心したのである。ところがところがである。あとでわかったのだが、実は一回失敗したのだというのだ。どうも、最初の一機は何と吊り下げるのに失敗して墜落したのだそうだ。しかも死者がでたというのだ。これにはほんとびっくりした。

最後は、軍隊ならお手の物という話。北京には工人体育場というのがある。来年のオリンピックのサッカー会場となるところだ。30年前に中国にいたとき、そこにサッカーの試合を見にいったことがある。確か、メーデーのころじゃなかったかと思うのですが、北京と上海かの解放軍同士の試合である。

満員の観衆で盛り上がったのだが、ハーフタイムになると突然花火が上がるのである。サッカー場の観客に向けてだから、みな花火大会を楽しむことになる。ハーフタイムが30分以上なのである。ようやく花火大会が終わって後半が始まる。こりゃサッカーも花火も楽しめたからよかったと言いながら、会場をあとにしようとしたら、試合終了後もまた花火を上げてくれる。ところが、なんとその花火を打ち上げているのが人民解放軍の兵隊さんだったのである。それは見事に統率の取れた打ち上げでしたね。

だから、中国の人民解放軍というのは意外とこんな場面にも登場してくるので、ある意味人民のための軍隊ともいえるのだ。きっとオリンピックでも大活躍するんじゃないだろうか。

2007年8月28日

自力更生 - チャイナばなしその5

これは毛沢東が言った「自らの力を基本とすることを自力更生と呼ぶ。我々は孤立してはいない。帝国主義に反対する世界のあらゆる国や人民はすべて我々の友人である。しかし我々には、自らの力をもって、国内外の反動勢力を打ち破る力がある」といったことがベースになっているのだが、工場なんかにこのスローガンがいたるところに張り出されている。こういった頭だから日本から来たエンジニアに単純に教えてもらうという態度はありえないのだ。これには技術指導するうえで大変苦労した。

この自力更生というふるまいには二つの形態があって、ひとつは、おれたちが自力でやっていることに口を出すなということと、もうひとつは自力でできなくて教えてもらったり、見せてもらったものも最後は自分たちが自力で作ったものであるということである。後者はわかりますよね、コピーです。これについて、当時のエピソードを。

当時、中国には石油化学の技術はなかったので、全部国外からの導入技術によって成り立っていた。従って、ぼくらもアメリカのプロセスラーセンサーと日本のコントラクターのもとに技術指導を行なったわけである。ある日、主要な機器である大きな圧縮機が据付られたのだが、いつの間にか撤去されていた。もちろん日本側に内緒でである。数日間帰ってこないから、プレオペレーションのスケジュールが遅れるはめになる。やっと戻ってきたが、いったい何をしていたのか探りを入れたら、何と驚くことなかれ、機械をスケッチしていたのである。実物から図面を起していたのである。

また、日本の有名メーカの分電盤には最初はもちろんそのメーカのネームプレートが付いているのだが、すぐに消えてわけのわからない中国の文字にとって代わられるのである。当時の中国には特許権なんてないのだから、こんなことが平気でまかり通る。

あの例の北京石景山游来園のディズニー・キャラクターの件も同じですよね。いまだに変わらないのにびっくりした。このようにひとのものをまねしても当然という態度は、ぼくの独断と偏見では、毛沢東時代のゆがんだ自力更生、取り繕い自力更生が生んだ産物ではないかと密かに思っている。

確かに、自力更生精神が最近の中国の急速な発展に寄与している一面はあると思う。よそに頼るのでは、自分たちの力だけで何とかやってやるというのは悪くはない。しかし、明らかにまだ力が及ばないことに対してはもっと謙虚になる必要があるだろう。

毛沢東や四人組が失脚して以来、中国も政治的には随分と柔軟にはなってきているが、根っこのところにまだ、中華共産主義的色合いが残っているような気がする。“反動勢力はわれわれを搾取して手に入れた富を世界一の国家であるわれわれに還元しなくてはならない”こんなことは、現在の国際社会では通用しないのは自明なのだが、ときどきまだそんなことを思っているのではと感じてしまう。

2007年8月31日

高級食材 - チャイナばなしその6

ちょっと中国ネタが続いて、食傷気味のかたもおられるかもしれませんが、今度はそれこそ食の話です。ついちょっと前のニュースで日本の“ナマコ”の価格が急騰していて、5年前に比べて5倍になっていると報じていた。食材は中国からは入ってくるが、日本から中国に出て行くものがあるのかと思っていたが、意外やナマコが輸出されているのですね。

ナマコは日本じゃあまり食べないが、中国では高級食材なんです。だから、中国から日本へマツタケが入ってくるように、日本から中国にナマコが入っていくのです。

ナマコは、日本では酢の物みたいにするぐらいでほとんど食べないのですが、中国では宴会などでは必ず出てきて、中国人は喜んで食べます。中国の高級食材というとその他では、フカヒレ、ツバメの巣、干しあわび、上海蟹など多くのものがありますが、みんなおいしいですよね。

30年前の食事情を少し。当時は文化大革命がやっと終焉を迎えたところでしたが、この文化大革命というのがひどいもので、北京あたりの高級料理店の多くは閉鎖されてしまったのです。しかも、そこの料理人は下放といって地方に追いやられてしまっていた。だから、おいしいものを食べようとすると、ホテルのレストラン、といっても市内では北京飯店、新橋飯店、民族文化宮くらいしかないのだが、そこか、あるいはわずかに残った専門店にいく。

中では、北京烤鴨店で食べた北京ダックは最高にうまかった。そのほかには、ジンギスカンもうまかったし、一度、表は普通の民家でそこから裏に行くとレストランになっているという店に行った。おおっぴらに開けないので隠れて営業しているらしく、料理長は有名な人だという。そこで食べたコース料理もすばらしかった。その頃は、店の数は少なくなっていたが本物を出すところがあったのだ。

5年後に行ったときには、大きな北京ダックの店がいっぱいできていた。北京ダックデパートだと通訳が言っていた。もちろん味は5年まえに比べて劣るのは言うまでもない。

中国では、高級食材にはいるのかどうかわからないが、料理のしかたが変わっていたり、ゲテモノに近いものがある。

変わった料理法というか、少し残酷な例で、西湖のほとりで食べた鯉料理のことである。表面は油で揚げてあるのだが、中は刺身というもので、外側がかりかりっとして中はぷりぷりっという食感を楽しむようだが、中味がまだ動いているのだ。なぜか、やけどをしたからだを思い浮かべてしまい、あまりいい気持ちがしなかった。隣に座ったかわいらしい顔をした中国人の女性がにこにこしながらうまいうまいと食べているのを見ると残酷だなあと思ったのであります。

ゲテモノといえば、みなさん熊の手を食べたことがありますか。これが、高級料理なのです。当時は、普通のフルコースだったらひとり2、3千円で食べられたのだが、熊の手料理は、その3倍ぐらいした。といっても1万円もしないのだから驚きだ。熊の手は前の晩からオリーブの葉と一緒に一晩煮込んでから食べる。だから、ずっと前に予約を入れて、期待を胸に席についたのです。

さあ、出てきました。手首のところから切り落とされて、そのままでてくるのです。毛はむしってあるがところどころに残っているし、爪もそのままの状態でお皿にのっているのを見たら、さすがのぼくもひるんだのであります。さて、この高級料理はおいしかったでしょうか。いやー、食えたものではない。ぼくは途中で気持ちが悪くなって、ちょっとかじっただけであった。

ところで、熊の手は左右どちらがうまいか知っていますか。そうです、左手なんですね。なぜかというと、熊は右手でアタックをして、左手は蜜をなめるので甘くておいしいのだそうだ。え、ぼくの食べたのは確か左手だったはずだが。

こんなものを大金はたいて食べるやつがいるのかと思っていたら、帰国して2、3週間して、ひょいと新聞をみたら“中国から高級食材の熊の手を輸入”という記事が目に留まった。よく見ると、そこに日本で出される熊の手料理は、ひとり20万円すると書いてあった。わー、お金を捨てるようなものだからやめなさいと叫んでみたが、おいしさではなく珍しさを食べるんだから余計なお世話かもしれないと思ったのであります。

2007年9月10日

お金持ちの気分 - チャイナばなしその7

前回、高級食材を使った料理でもすごく安く食べられることを書いた。今は物価や中国人の収入などが日本に近づいてきているが、30年前というと、物価にしても労働者の賃金にしても大きく差があった。平均的な労働者の月収はだいたい50元くらいと言っていた。当時のレートは確か、1元が150円だったと記憶している。従って、日本円で月7,8千円といったところである。

ぼくたちは、国から招かれたひとたちであるから、入国するとパスポートを取り上げられるんだけど(話はそれるが、これって恐いですよ、いきなり身柄拘束されるわけですから)、その替わりといっちゃ何ですが、1日10元の生活費が支給される。当時はもちろん日本円は使えないので、その10元で生活を賄うわけである。1日10元だから月でいうと300元、ということは平均的な中国のひとの6倍ももらうことになる。

で、生活は工事現場(サイト)の近くの招待所(こういう呼び方をしているが、外国人専用の宿泊所でまあホテルのようなものです。食堂や卓球、ビリヤード等の娯楽施設もあるし、床屋もある。)に缶詰みたいなものだから、お金を使うところがない。近所には何もないし、だいいち半径1km以内しか出歩いてはいけないのだ。

一日でいくら食べても2,3元しか使えない。あとは、2週間に一回マイクロバスで北京市街に連れていってくれるときに豪勢に飲み食いするくらいだ。食べ物以外で買うといったって、ぼくは人民服と人民帽で暮らしていたが、それもおそろしく安く買える。しかも、余った人民元は持って帰れないのだ。

でこの金を使ってどうしたかというと麻雀なのだ。招待所のなかで日本人だけなら麻雀してもよいことになっているが、これって賭け麻雀かなあ。実質使えない金だからぼくらにとっては、単なるチップみたなものだが、中国人が見たらさぞかしびっくりしたはずだ。だって、“ロン!満貫、車一台”、“役満だ、家一軒!”なんて言葉が行きかうんだからすごいもんでしょう。でもおもしろくねえんだなこれが。

ところで、この生活費がもらえるということですごい助かったのだ。結局4ヶ月ぐらいいたので、そうなんです、日本でもらった給料がボーナスも含めてまるまる残ったというわけです。ぼくは、自慢じゃないが、江戸っ子になった気分で宵越の銭は持たないと豪語していたので、それまでまったくの蓄えがなかったのだが、一気に貯金通帳に数字が打たれたのであります。実は、結婚式をあげるお金がなかったのが、これで何とかなった。というような話は嫁はんにはしていない。

一瞬ではあったにしろ、その国ではお金持ちになったが、ただ、お金はもっているんだけどそれが使えないというのは、本当のお金持ちと言えるのだろうか。

2007年9月20日

乗り物が様変わり - チャイナばなしその8

最近中国の街の映像が映ると車が溢れていて、特に北京や上海などはすっかり世界の大都市に近いものになっている。この乗り物の変化もこの30年で大きく変化したもののひとつであろう。乗り物もさることながら、道路や鉄道、航空事情も昔とぜんぜんちがって非常によくなっている。

30年前の風景を少し書いてみる。

当時は自動車の数がほんとに少なかった。北京の市街地でもほとんどが自転車で、車は自転車をよけながら走っていた。郊外の行くと馬車か牛車である。のんびり御者が居眠りしながら道路を歩いていく。驚いたことに工場の中でも廃油のドラム缶を積んでいくのは馬車の仕事なのだ。だから、いたるところに馬と牛の糞がころがっていて、またその糞を拾っていくヤツが道路の脇を歩いている。燃料にするのだ。

自動車は紅旗という高級車と上海という一般車とあとすこしのフォルクスワーゲンとフォードくらい。日本車は全くない。トヨタにしてもホンダにしても中国進出は非常に慎重で、最近こそ多くの日本車が走っているが、最初はヨーロッパ車が進出していた。特に上海はヨーロッパ好きの都市で、そこは北京と違うところである。この北京対上海という対立構図についてはまたあとで記す。

さて、車に関して入国してからすぐにたまげたことがある。北京空港から市街まではいまでは立派な高速道路もでき、時間も短縮されているが、当時はまだ舗装もされていないところもあり、もちろん車の通りもほとんどない。着いたのが夜遅かったので特に真っ暗なところを自分たちの乗るマイクロバスだけが走っている。ところが、恐ろしいことに何とヘッドライトの明かりを消して走るのだ。そして、前から対向車が来るとそのときだけヘッドライトを点灯する。これには、びっくりしたなあ。いまでもそうだという話を聞いたような気がするがどうだろうか。

自動車のことを中国語で「汽車(チーチャ)」という。最初ホテルの前に汽車と書いてあるので機関車でも来るのかと思ったらタクシーのことであった。この言葉はすぐに覚えた。どこかに行って国際友誼商店(ここがいつも集合場所になっていた)に戻るときは、“チーチャ”と言ってタクシーを呼んでもらわないとえらいことになる。10年後くらいして行ったときには北京駅前に人力車がたむろしていたが、料金を聞いたらタクシーの何倍かの値段を吹っかけてきたので日本語で“アホぬかすな!”と言ってタクシーで帰った。

話変わって、日本語の汽車のことである。中国語では「火车」という。滞在中3度ほど乗ったことがある。いちばん印象的だったのは、上海から西湖のある杭州までの鉄道の旅です。みなさんよくご存知だと思いますが、中国には硬席と軟席というのがある。硬席は文字通り板が張ってあるままの硬い席ですぐにお尻が痛くなる。ぼくらはVIP待遇だから、乗るときも貴賓室みたいなところから乗り込んだのだけど、何かの手違いで乗った車両が硬席だったのだ。同行の通訳がびっくりして、乗務員と掛け合ってくれて軟席に移されたが、しばらく一般の中国人といっしょに硬席に座っていたので、そのすわり心地がわかるのだ。

さらに、飛行機のことである。北京から上海には中華民航で行ったのだが、仲間はほとんど何もしゃべらずじっと目をつぶっていたといったらおわかりでしょうか。

ぼくの見た30年前の風景から考えると今の状況は想像を絶する早さで変化していることになる。こうした、急激な変化がどこかでひずみを起さなければいいがと心配になる。え、もうひずみが出てるって。

2007年9月26日

少数民族 - チャイナばなしその9

中国は多民族国家である。現在56の民族がいる。ただし、人口の94%が漢族だから、他の55の民族は「少数民族」という。広大な国だから、東西南北の境界のほうにはさまざまな容貌、生活習慣、言葉を持った民族がいる。ヨーロッパ人かと思うものや南方の浅黒いもの、日本人にそっくりなものなど驚くほど多様だ。

一応中国政府は少数民族を保護する政策をとっていて、言語使用や単独の法令制定などの権利を持たせている。30年前にも少数民族の保護ははさかんに喧伝されていた。北京にある民族文化宮というところに行くと、少数民族の写真などが展示され、いかにも中国政府は少数民族に足して手厚く遇していることを強調される。

ぼくは、そうはいっても結局は力でねじ伏せている裏返しに見えていた。チベットに対する弾圧をみればわかるように、少数民族が自立化へ目覚めないように懐柔しているだけなのだ。

さて、ぼくが出会った少数民族の話である。比較的大きな集団として満州族というのがある。いまは、東北部の遼寧省・吉林省・黒龍江省の3省を中心に1000万人くらいが居住しているそうだ。

この民族は、その昔、清という国を作ったこともあり、また1932年から1945年にかけて日本の支援を受けて「満州国」が存在した。その元首には、滅亡した清の最後の皇帝愛新覚羅溥儀が就く。あの有名なラストエンペラーである。「満州国」は日本の関東軍の強い影響下にあったため傀儡政権であるといわれていた。1945年に太平洋戦争での日本の敗退とともに消滅した。

30年まえに一緒に仕事をした中国側のメンバーに、確か課長くらいのレベルの人だったが、李さんという人がいた。よく働くまじめなひとで好感が持てるひとであった。前にも書いたが、この国は自力更生主義であり、また共産党員の監視が常時ある中では、われわれ日本人と仲良くやることを避ける人が多かった中では、気さくに話しもできた数少ないひとであった。その李さんが満州族であった。

これは、李さんに直接聞いた話ではなく、多分日本人の通訳のひとから聞いたと思うのだが、一般に満州族の人たちは日本人に対し、そんなに嫌悪感がない、むしろ好意を持っている人もいるということを言っていた。

当時は、たいていの中国人、特に年配の人たちの日本人を見る目は鋭く、ぼくらも町の中で射抜くような視線を何度も浴びたことがあった。だって、まだ日本の軍隊が荒らした痕跡が町の中に残っているのだから、そう簡単に許せる話ではないのだろう。

ところが、満州族の人たちはそうではないのだという。なぜかというと、傀儡であったかもしれないが、まがりなりにも自分たちの国を日本の支援で建設できたという思いが残っているのだそうだ。真偽のほどはわからないが、現在も満州族の自立への動きが話題になることを考えると、日本人にはなかなか理解できないところの自分の国を持たない民族の思いが少しわかるような気がする。

その李さんとは、5年後に北京で行なわれたプラント建設5周年記念フォーラムで一緒になり、相変わらずにこやかに言葉を交わした。そして、それから、12年後に東京で再会することになる。

李さんが政府系の商社の東京事務所長として着任したのである。なぜそれを知ったのかもう忘れてしまったが、ぼくがその事務所に訪ねていったときにはよく覚えてくれていて、お互いに再会を喜んだ。そして、一緒にあるプロジェクトも構想したのだが、残念ながらうまくいかなく、しばらくして李さんは帰国してしまった。

それ以来会っていないが、今はどうしているのか、もう一度顔をみたいなと思わせる満州族のひとであった。


2007年10月 5日

酒 - チャイナばなしその10

中国には酒が豊富にある。もちろん、日本酒やウィスキーはないが、ビールやワインもある。何と言っても中国酒で代表的なものといえば、醸造酒である黄酒と蒸留酒である白酒である。前者で有名なのが紹興酒や老酒で、後者では茅台酒や汾酒があります。

茅台酒は日中国交正常化の式典で田中角栄が周恩来と乾杯した酒として有名になりました。アルコール度数が55度ですから、気をつけないとひっくり返ってしまいます。われわれも当初は慣れていないものだから、宴会の席で茅台酒を飲みすぎて担がれて部屋に帰ったやつもいました。

そうなんです、この宴会というのが曲者で、円卓を囲んで飲み食いをするわけですが、やたら乾杯(中国でカンペー)をする。だれかがコメントを述べたらそれに対してカンペーとやる。一番多かったのは、「日中(中国側が言うときは中日)友好にカンペー」です。当時は多少言っていいことと悪いことに神経質になっていたところもあったので、まあ、これさえ言っておけば無難なのでそればっかりです。

これを繰り返すと酔っ払うのは目に見えています。よく見ると中国人は平気です。あとでよく聞くと、宴会慣れしていることもありますが、どうもカンペー要員を各テーブルごとに用意していたのだそうだ。そいつが、主に場を仕切っている。

でも、最近はこうしたカンペーを繰り返す方式もなくなっているようで、ぼくの姉の旦那が数年前に上海に駐在していたとき、宴会が大変でしょうと聞いたら、もう若い人が昔のようなことをやりたがらないので、日本とあまり変わらないようになっていると言っていた。

ビールは最近日本でも飲める青島啤酒や五星啤酒といったところを飲んでいました。ところで、中国ではビールを冷やす習慣がないのです。一度、北京の中南海公園で暑かったのでビールを飲もうとしたら、何と野ざらしの桶みたなものに入っていて、それをひしゃくで汲み取り、メスシリンダーのようなジョッキに入れてくれたときにはたまげたな。いくらなんでも、なまぬるい気が抜けたビールはうまくなかった。

で中国では酒が量り売りなんですね。ぼくは毎日宿舎の食堂で汾酒の量り売りを飲んでから食事をしたものだ。茅台酒にしても白酒は中国の料理によく合うんですね。強い酒なんだけど胃が中華料理の油でコーティングされているので、けっこう飲んでもだいじょうぶなのだ。

それで、おみやげに茅台酒をいっぱい買って帰ったのだが、不思議なもので現地で飲んだときと日本に帰ってから飲んだときとでぜんぜん違った。刺身に茅台じゃ、合わないし、すぐに酔っ払ってしまう。酒というのは、その土地の気候や料理があってこそうまく感じるものだとそのとき当たり前に強く感じたのである。


2007年10月13日

ピンポン - チャイナばなしその11

いま、「ピンポン外交」という言葉を知っている人はどれだけいるだろうか。それは、中国が永年国際舞台から孤立していた状態を抜け出るきっかけとなったエポックメーキングな出来事である。

1971年、舞台は日本の名古屋であった。この年、第31回卓球世界選手権が開かれることになっていたが、日本の卓球協会長の後藤 二が、当時文化大革命で数年前から参加できないでいた中国を出場させるべく奔走した。それが、周恩来の応援や毛沢東の決断で参加が決定。そして、来日してある偶然のできごとがきっかけとなり、米国等の卓球チームの訪中が電撃的に決まる。

あるできごととは、アメリカの選手が間違って中国選手が乗っていたマイクロバスに乗りこんでしまったのだ。中国の選手は米国人と絶対に話をしてはいけないと厳命されていたから、車内はしーんとしていた。

ところがそのときひとりの中国選手が紛れ込んだ米国選手に語りかけたのである。その選手の名は、荘則棟である。過去3回連続世界チャンピオンにもなった有名な選手が声をかけたのである。この予想外の接触を翌日の新聞が取り上げた。これが、後押ししたかのように毛沢東も米国選手団の中国訪問を許可したのである。

そこから、キッシンジャーの秘密訪中につながり、ニクソン訪中、そして数ヵ月後に田中角栄の訪中、国交回復へと進む。

ちょっと長々とピンポンをきっかけに日中国交回復までいった話をしたが、このように中国では非常に卓球が盛んであり、国技みたいなものですね。荘則棟を筆頭に、当時もものすごく強い選手が一杯いた。その前は日本が強く荻村伊知郎とか田中利明とかいった世界チャンピオンを生み出していたが、このころから中国が台頭してきたように思う。

さて、30年前に中国にいた時も卓球が盛んで、宿舎にある卓球場でたまに中国人を交えて卓球大会を開いたりした。これがみんな強いのだ。いわゆる前陣速攻というやつで打ったと思ったらすぐ戻ってきてやられてしまう。

そして、ある日のこと日本人が集めれて、いまから近くの体育館に行くと知らせがあった。何があるのだろうと興味深々だったが、普段行ってはいけない公団アパートみたいな集合住宅のところに連れていかれた。

なんと、そこで卓球の中国代表選手による模範演技があるというではないか。女子選手だったが数人のトッププレイヤーがラリーの応酬や練習試合を見せてくれた。当時は娯楽のない国だから、こうしてチームを組んで巡回しているらしい。住民も多数集まってきて観戦するのである。

まあ、プレーのすばらしさもさることながら、ぼくがいちばん驚いたのは何だかわかりますか。それは、彼女ら卓球選手の体格や血色のいいことである。からだもふっくらとして、顔も肌もつやつやしていて、観客と比べると全く違う人種に見える。

そのころの中国人に太ったやつは一人もいなかった。皆、がりがりにやせていたのだ。いまの中国人の子どもをみると明らかに肥満児といえるやつもいるが、当時はそんなヤツはいなかった。

で通訳の人に聞いてみると、代表選手は普通の人と全く別の生活をしているとのこと、食べるものも栄養のあるものをたらふく食べられるそうだ。いまは福原愛ちゃんが行っているくらいだから、日本なんてと変わらないと思うが、当時は国策としてのピンポンがあり、その国の威信を背に見世物もやりなながら戦っていた選手を思うと、いくらいいものを食べられたとしても幸せなのかと考えさせられたものだ。

2007年10月29日

観光地 - チャイナばなしその12

中国には、歴史的な観光地がたくさんある。さすが4千年の歴史の国だ。だから、中国にいたとき、ずいぶんといろんなところに行ったし、連れていってもらった。

前にもいったとおり、普段は工場のすぐ近くの宿舎から出られなかったが、2週間に一度の日曜日に北京までマイクロバスを出してくれる。基本的に北京市内は自由に動けるので、自分たちでタクシーと徒歩で回る。その他には、特別に史跡見学会みたいなのを何回かやってくれる。それと、プロジェクトが終わって、ごほうびとして上海旅行を行なって帰国した。だから、かなりの観光地を知っていることになる。

その北京へのマイクロバスにしても、北京市内と市外の境界で検問があるが、毎回そこで止められてチェックを受けるところが、あの「盧溝橋」である。ここは観光地とは言いがたいが、まあ史跡ではある。毎回、何となくいやな気分になるところである。

北京および北京近郊には、万里の長城、明の十三陵、頤和園、故宮、天壇、周口店北京原人遺跡という6ヶ所の世界遺産がある。これら全て行ったが、どれもこれも歴史を感じるとともにスケールが大きく驚かされることばかりだ。

だって、万里の長城なんてヒルマンじゃないけど「シンジラレナーイ!」。だいたい、八達嶺というところに行くのだけれど、そこに行っても長城の全貌はわかりっこないわけで、ほんの一部を見るだけということになる。故宮なんか、これまた贅を尽くした遺物にびっくりする。頤和園なんて、人工の庭園だけどそのスケールが違う。日本の庭園なんて比ではなく、池じゃなくて湖を作っちゃうんだから。

このように、北京の史跡は皇帝の権力を誇示するようなものが多く、ぼくはあまり好きではない。色にしてもけっこう派手だし、渋い感じがまるでないのだ。

ところが、北京以外ではそうでないところもあって、ぼくが印象的だったのは、北京から北東259キロくらいのところにある承徳という町と、上海から南西180キロくらいのところにある杭州である。杭州には世界一美しい湖である西湖があることで有名だ。この湖は頤和園の人工湖なんかと比べものにならないほど清楚で美しい。ここのほとりの宿で一泊したが、ほんとに癒されるところである。

さて承徳のほうは、明清の時代から避暑地として有名で、康熙帝が造営した「避暑山荘」(これも世界遺産です)がある。趣としては京都という感じで、落ち着いた静かな町です。そのほかに「外八廟」(これも世界遺産)といってチベット式寺院がいくつも建てられているところがる。

前にもこのブログに書いたけど、ポタラ宮を模した宮殿があり、さしずめミニチベットという様相である。ぼくが行ったときは、紅衛兵が荒らしまくったあとに行ったので、非常に残念だったし、がっかりした。それでもぼろぼろになりながら屹立している姿には感動したのである。

実は承徳という町は、かつて日本の関東軍が占領し、司令部が置かれた場所でもある。町を歩くと塀などに日本の兵隊さんが書いたであろう自分の名前と出身県を落書きしてあるのを見つける。いまはどうなっているのか分からないが、少なくとも30年前には、日本軍の爪あとが残っていたのである。

ぼくは、そのとき日中両国の軍人さんに痛めつけられた傷を両方同時に目の当たりにして非常に複雑な気分に陥ったことを、今思い出している。
  


2008年2月23日

おとなとこども

これはもう「スポーツ“感”戦記」ではなく、「チャイナばなし」で書く。サッカー東アジア選手権の中国戦のことである。呑み会があったのでライブで観られなかったが、そのあとビデオで観たのだが、まああきれかえったな。

久しぶりに代表チームをほめてあげたい。何と言っても冷静さを失わなかったことで、ふつうあれだけラフプレーとひどいレフェリングだと冷静ではいられないと思うのだが、それをチーム全体として落ち着いていたことが称賛される。ぼくだったら絶対に乱闘になっている。鈴木啓太がつっかかって行ったが、あれはどちらかというとわざとやった感じだ。

まあ、あのキーパーの安田への跳び蹴りは噴飯ものだが、どうして中国選手はあんな試合ばかりやるんだろう。ぼくの感じではこの試合だけに限ったことではなく、これまでも似たような試合をしている。しかも、日本相手だけではなく韓国に対しても変わらない。

だから、へたくそ審判の試合コントロールが無茶苦茶だったというのもあるが、それよりも何よりも中国選手のプレーの下劣さに腹が立つのだ。

どうしてラフプレーをするのかということを考えてみると、まず技術が未熟なことがある。下手なヤツというのはタックルが遅れたり、足がついていかなかったりという具合にファウルを繰り返す。これはしかし意識的ではないからまだいいとしても、意識的にやることがある。

それはイライラすることからくる精神的な不安定さがラフプレーを生む。それにも、相手に対するイライラと自分に対するイライラがある。で今回の中国選手のラフプレーは技術が未熟なのと自分に対するイライラが嵩じて起きたのだとぼくは思う。

ということは、ガキなんですよ。こどもってこと。ということは、そうしたガキの挑発に乗らなかった日本選手はおとなだってっことのようだ。ああ、おとなになれない中国人はいつまで続くのだろうか。

今晩は韓国に勝ってまた一段とおとなになろうぜ。


2008年3月20日

チベットが揺れている

中国チベット自治区の首都ラサで3月10日反乱が発生した。軍や警察の発砲で多数の死者や逮捕者が出たようだ。ぼくはチベットにかなり肩入れした時期があった。いや今も何かにつけて気になるところであるので憂えている。

ちょうど32年前の今頃中国にいたことがある。そのころの中国というのは周恩来が死んだばかりで、その年の4月は初めに最初の天安門事件が起きる。もちろんわれわれ外国人に対してその事件はさっぱり伝わってこない。報道なんてしないし、共産党が言論を封じ込んでいるためである。だからこの事件を知ったのは1週間後の日本から送られてきた朝日新聞を見たときである。

そうした報道管制はいまも変わらないのだ。ただし、インターネットで多くの中国人も知ることが出来るのがそのときと大きく違う。だから、中国政府、共産党に対する反発は大きくなる可能性があるような気がする。

ぼくがチベットを意識したのは、その32年前に仕事を終えて日本に帰って、その2年後にまた招待されて行ったときのことである。そのとき、承徳という地方都市に連れていってもらったときに見た「ポタラ宮」のイミテーションに感動したからである。その宮殿は紅衛兵に荒らされて見るも無残な様相ではあったが、遠くからみる姿が端然としてそびえたっていたのである。そうぼくには見えた。

そのときから、本物の「ポタラ宮」があるチベットに思いをはせるようになった。それ以来、ダライ・ラマの本や日本人で初めて行った河口 慧海の物語などチベットに関する本や映画をみたりした。そうしたことを勉強するにつけ、チベットは明らかに独立国家であることを再認識する。

1950年の人民解放軍に侵攻はまさに不当な侵略に他ならないのだ。おそらく多くのチベット人の思いは、自分たちの文化や信仰を踏みにじまれていると感じているのである。それは、チベット人としての誇りであり、アイデンティティであるわけで、そこに武器を片手に勝手に入り込んできて、そして今は札束で頬を張りながら懐柔しようとしているのである。それは許せないことなのである。

さて、これからどうなるのだろうか。中国は他に多くの少数民族を抱えているのでやすやすと弾圧の手をゆるめないと思うが、今や共産党一党独裁は破綻しかけているし、世界の目が届くようになってきているので無茶なことはできなくなってきている。

ダライ・ラマ14世が生きているうちに何とかしないとなお混沌とした状況に行ってしまうように思う。心配だ。
 

2014年5月10日

中国企業のビジネスモデル

ソフトバンクの決算発表で売上、営業利益は過去最高になりついにNTTドコモを抜いた。日本の企業で創業から営業利益が1兆円を越えたのはNTTドコモとトヨタに次いで3番目だそうだ。ただNTT118年、トヨタ65年に対して何とわずか33年で達成してしまった。まあ、この速さは企業買収によるものだがそれにしてもたいしたものだ。

ところでこの決算発表で話題になったのが、中国の電子商取引最大手のAlibabaだったらしい。ソフトバンクが34.4%出資していて、孫正義が取締役を務めている。なぜ話題になったかというと、米証券取引委員会(SEC)に新規株式公開(IPO)を申請したからである。もし上場となると資金調達額がFacebookの160億ドルを上回ると予想されているからである。

中国ではこのAlibabaをはじめ百度、微博など急成長したネット企業が多く輩出されている。これらは、Google、Apple、Twitter、Facebookなどの米国発のモデルを踏襲しているものである。ただ、中国という市場がとてつもなく大きいからそこでのシェアを抑えていると企業規模も必然的に大きくなる。

中国市場の閉鎖性にも助けられて、グロバールの巨人であるGoogle、Apple、Twitter、Facebookなどを押しのけているのである。ですから、極端な話全く同じことをしても中国語と中国本土で展開すれば非常に大きなユーザ数を確保でき大企業になってしまうのである。つまり、新奇性による新規ビジネス創出というプロセスを経なくても良いことになるし成長も速い。

ちょっとずるい感じもするが、そこがグローバルに出て行って戦って勝ち残ればいいだけなのでとやかく言うこともない。お手並み拝見というというところだろう。以前このブログでも触れたことがあると思うがMITのマイケル・クスマノ教授がソフトウエアに対する各国の捉えかたの違いを言っていておもしろかった。

まずアメリカは、"Software as a Business"なのだそうだ。次にヨーロッパはというと、"Software as a Science"、インドは、"Software as a Service"、そしてわが日本は"Software as a Product"なのだそうだ。なかなか的確だと思いませんか。で中国はどうなんだろうかと考えてみた。そこで思いついたのが"Software as a Imitation"ということである。自分で言って自分でなるほどとうなずいてしまった。中国ではソフトウエアはコピーするものなのである。

ちょっとそれるかもしれませんが、「資本主義という謎」(水野和夫、大澤真幸著 NKK出版新書)のなかで中国は新しい覇権原理を打ち立てられるかという問に対して、二人の次のような対話がおもしろい。

大澤 たしかに中国は調子がいいように見えるけれども、ほんとうに新しいものが出てきたから調子がいいわけではない。実質的には、海の帝国の「没落していない部分」に便乗しているだけだと思います。中略

水野 中国が近代化路線を走っている限りにおいては日本はその競争に乗らずに「どうぞ頑張ってね」と傍観していればいい。いずれ全世界に中国の工業製品がゆきわたり、月や火星以外に利潤を得る場所がないような事態になりますから。

これは中国のソフトウエアに対しても同じことが言えて、欧米のビジネスモデルに便乗してしているだけのように思えるのである。
  

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