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世相を斬る アーカイブ

2014年7月20日

勘違いCM

3連休の真ん中なので、くだらないというかちょっとした与太話を。以前、トヨタのCMをけなしたことがあるが、あまりテレビを見ないぼくでも気になるCMに出会うことがある。センスが無いとかくだらないとかという意味で批判するというわけではなく、何を言いたいのか、というか勘違いしているんじゃないかと思わせるものがある。

NTTファシリティーズという会社のCMをご覧になった方もいると思いますが、そのCMを最初に見たとき何じゃこれって即座に思いましたね。「父へのメール篇」というらしいのだが、父と娘の会話で、NTTファシリティーズに就職した娘に寡黙な父親がしっかりやりなさいとだけ言う。そして、就職した娘が、今は人々の暮らしを支える仕事をしているというナレーションがあって、私はしっかりやれてますかという娘のメー−セージが入る。すると父親が、メールをみながら頑張りすぎるなよとつぶやくのだ。

驚きましたねえ。てめえの会社に勤めている娘と父親のほのぼの会話を流してどうするのだ。全く顧客を無視していませんか。まあ、いい父親とその娘が働く職場としていいところですよというリクルートCMならいいかもしれませんが、基本的にこうしたCMはどんな商品・サービスでそれが買う方にとってどんないいことが待っているのかを言ってくれないと困るのである。顧客視点の欠如にはびっくりした。

これはこの会社だけなのかと思ったら、なんとNTT東日本のCMにも同じような勘違いがあったのだ。宇多田ヒカルの歌に乗って始まるCMは「もっと深く」篇なのだそうだが、夢は続くほうがいいといったり、気持ちは伝わる方がいいといったあたりまではいいのだが、私たちの仕事は世の中をアッと驚かすものばかりではない。そして、当たり前のような日々を支えている。人の力で。つなぐ力。ときて社員が働いている姿がかぶる。

あららと思いませんか。自分たちは一生懸命世の中のために働いているんですよ。えらいでしょ。と言わんばかりにがんばる姿を映し出す。それは、あんないい人達がいる会社だったらいいのかなくらいには思うかもしれないのだが、こんな商品・サービスがあるからみなさんの暮らしを支えることができるのですというメッセージはどこにいったのだろうか。

両方共NTT系であるというのは偶然ではないような気がする。CM はイメージアップのためという考え方もあるかもしれないが、内輪の論理が優先、つまり私たちはこんなにがんばっているんだからいいものを提供していると思ってよというかなり情緒的な訴求である。そこには何度も言うが顧客視点、顧客価値という捉え方がないように思う。なんという日本的な考え方なのだろうか。
  

2014年8月20日

勘違いCMその2

以前、同じタイトルでNTT系の会社のCMをおちょくった。その前にもトヨタのCMのセンスのなさも言及したので第三弾である。そういえばテレビCMは突っ込みネタの宝庫ですね。今回のターゲットは富士通です。「あなたの未来に。富士通の技術」という中の「ビックデータ篇」というのがある。それだ。

説明にはこう書いてある。とある閑静な住宅街。タクシーに乗り、待ち合わせ場所に急いで向かう母と娘。しばらくするとなぜか、タクシーが急に止まる。不思議がる二人。すると、まるで予知していたかのようにサッカーボールが転がってきたのだ。というCMである。子どもが「どうしてわかったんですか」というと、運転手さんが、「よく使う道なんでね」と答える。子どもが「すごーい!」

その後子どもの声でナレーションが「でもこれからは、運転手さんに代わってICTが、飛び出しの多い場所だけでなく、便利でお得な情報を知らせてくれるそうです」とくる。別に聞き流してしまえばすむのかもしれないのだが、これが引っかかるのだ。これを見たとき思わず運転手に"あんたの仕事がなくなっちゃんだぞ"さけんでしまった。

もうICTに任せれば安全だし、便利だし、情報も豊富だからあなたはもうお払い箱になるんだぞと言っている。あわよくば運転も自動運転、あるいは運転ロボットが登場するかもしれない。そんなことを主張しているのに運転手さんはニコニコ笑っているのだ。どうも違和感があるのはぼくだけだろうか。

しかも、よく使う道であらかじめ注意をして止まれるように運転するってICTでできるのかな。そして、乗客と会話もできるのかな。そういうロボットもできるかもしれないが、人間と人間のふれあいがあるから、あるいはいろいろなわがままが聞いてもらえるからタクシーに乗る人も多いはずである。そんなことができるICTって無理なような気がする。

富士通のCMはがみなダメかといっているわけではない。「暮らしと富士通」というシリーズのCMではグローバル(通信)篇、グローバル(医療)篇、消防篇、アメダス篇などがあるのだが、それはよく出来ていると思う。ICTの魅力を伝えている。ただ、グローバル篇に比べると国内篇の後者2作品はちと劣る。だって、消防とあなたをつなぐICTとか気象とあなたをつなぐICTって何?ッて感じなのだ。これは、CMの問題ではなく、日本のICT利用が遅れている証左なのかもしれないとふと思ってしまった。
  

2014年9月18日

勘違いCMその3

なんとなく変なCMを採り上げて書いてみたら同じようなものがあるんですね。しかし、テレビの一日平均視聴時間は1時間もいかないかもしれないぼくが気がつくのだからネタの宝庫かもしれない。ということで第3弾です。今回はけなすCMと同時におもしろいやつも採り上げてみることにする。

変てこなのが、富士通エフサスのCMである。この会社富士通の100%子会社で元々はICTのカスターマーエンジニアの会社で保守がメインの会社だったのがいまはシステムの開発、運用などを手がけています。全国に事業所があり多くのフィールドエンジニアを抱えて中堅中小規模まで幅広い展開を行っています。

さて、その会社のCMで気になったのが「FUJITSU Business Application 長時間残業ソリューション篇」というやつだ。テレ東の「未来世紀ジパング」で放送されていてあれって思った。まず部長みたいなのがでてきて、"最近残業が増えちゃってさあ、長時間残業を減らして社員のやる気を引き出す、何か効果的な方法ってあるかなあ"とエフサスのエンジニアに言う。そうすると答える。"それならおまかせください。とっておきのがあります。"と言う。

そのソリューションというが「長時間残業抑止ソリューション」なのだ。要するにICTを活用したサービスにより勤怠システムとPCを連動させ、残業とコストを削減するのだという。これってちょっと違うのじゃないかと思う。つまり、残業時間を管理しようという方向なのだ。時間外で仕事をしようとすると早く帰れと監視しているのだ。そんなんで残業減りますか。というか、ICTをこうした使い方で利用するのはもうやめよう。

残業することが良いの悪いのではなく、いかに楽しくいきいきと仕事ができるかが重要で残業しても楽しいことだってある。まあ、早く帰ってところでとんかつ屋で呑んだくれてたらしょうがない。そのとんかつ屋のシーンが出てくるCMで思わず吹き出したのがある。

堤真一がとんかつ屋のカウンターで"何にしようかなあ、おお三元豚(サンゲントン)、うまそうだな"とつぶやく。するとリリー・フランキーの店主が"最近、ヒノノニトン増えてるよな"と使用人と会話している。"これからはさあヒノノニトンが主流になるんじゃないか。安全だしさ"と続ける。そうすると堤真一がすかさず"ヒノノニトンください"という。一同あぜんというわけである。これ何のCMかわかりますよね。日野自動車の2トントラックだ。おもしろい。こういうのを作ってくざさいよ、富士通エフサスさん。
  

2015年5月16日

保守的ということ

明日は大阪では重大なことが起こる。大阪都構想の是非を問う住民投票が行われるからである。当事者でもないし、大阪に住んでいるわけでもないので論評しづらいのではあるが、ある意味画期的なことのように思える。先回の地方選かなんかにしても関心が薄く非常に投票率も低い状況はいかがなものかと思う。そうした状況を打ち破るきっかけになると面白いのである。

ただ、一連の提案側の維新の会とそれに反対する勢力との論争を見ているとどうも咬み合わないというか、まっとうな議論になっていないように見受けられる。つまり、大阪市を解体して5つの特別区を作って二重行政を解消したいということなどのイシューに対して、反対派はそれはダメだというだけで対案も示していない。これでは、論点を設定してそれに対して甲論乙駁という進みにはならないのである。

ですから、こっちに行くといっても行くなというだけでどっちに行ったらいいのかを言わないから選択がいびつになる。おそらく、反対派は現状のままでいいじゃないかと言っているのだろう。そうすると、論争のそもそもの出発点で食い違っている。推進派は現状のままだと様々な問題点があって、それを改革していかないと住民生活の質が低下していくという認識であり、一方反対派はいやいや多少問題はあるのだがこのまま変えないほうがいいという認識ということなのだろうか。

問題があることは共通認識で、それをどう変えていくかで争うというなら対案を示さなければならない。対案が出てこないということは入口の問題意識が違うのだ。だとすると、本当に今のままで満足しているのだろうか。ぼくは大阪に住んでいるわけではないので軽々には言えないが、何らかの変化をしていかないと衰退していってしまうように思う。これだけ周囲を取り巻く環境が変化しているわけだから、それに合わせたような変化は絶対必要であると思う。これは自治体に限らず企業だってそうだし、いまシャープが危なくなっているように、変化に乗り遅れると悲惨な結果が待っている。

いやー、徐々に変えていけばいいじゃないかとか、二重行政にしても話し合って、みんなで納得して直していけばいいじゃないかとかいう人がいっぱいいる。こういう人は変えたくないのだ。憲法改正の話に持って行くと大げさかもしれないが、時代の変化とともに改革することは必須に思えるがどうなのだろうか。どうも、大阪での議論を見ていると都構想がいいのだ悪いのだと言う前に、事実認識を経ての現状問題の共通認識が不足しているように思う。

そんなことを言うとすぐに情報が少ないからわからないとか、説明不足だといったような批判をステレオタイプ的にいう人が多い。でも今回の場合が画期的だと言った理由のひとつに、こうした批判が当てはまらない住民投票になったということである。遠いところにいるぼくらでもかなりの情報を得ることもできるし、ある程度の理解できるわけで、市民はもっと情報にアクセスできるので判断材料に困らないと思う。ですので、明日どうなるかわからないが、これが否決されたら、政策がどうのということで否定されたのではなく、現状からの変化を嫌う保守的な感情がまだまだ日本人の心性に根強く、単にそうした"感情"が理由であると言えるのかもしれない。それはそれで困ったものではある。
  

2015年7月25日

安保法制の議論が枝葉すぎる件

今政治の国政では安保法制と新国立競技場がホットな話題になっているが、もっと大事な案件があると思うのだが目下のところこの二つの世論が大きな声となっている。安全保障関連法案についてさほど重要ではないというと怒られそうだが何かこれは戦争法案だとか、違憲だとか、徴兵制になるとか、自衛隊は地球の裏側まで行かなくはいけないだとか枝葉の話になっているような気がする。

つまり、大事なことは日本を取り巻く環境が地政学的にもずいぶんと変化してきて、しかもその変化はグローバルなものなので、一国が勝手に行動できるものではなく国際的協調というのが重要になってきている。そんな中でわが国の安全保障はどうしたらよいのかという論議が必要である。そのための法制はいかにあるべきかという論点にしてもらいたい。端的に言えば、安全保障上、日米同盟も自衛隊も必要で、自衛隊が違憲というなら憲法を改正すればいい。

つまり、国としての安全保障に対するビジョンとコンセプトをしっかりと固めて、そこを国民が共有してどうしたらよいのかのアイデアを出し合いデザインしていくプロセスをふんだらよい。ところが、野党やマスコミがアホだと思うのだが、ビジョン・コンセプトをすっとばして、つまらないレッテルを貼って、感情に訴える醜い姿をさらけ出している。もっと論理的な争いができないのだろうか。

冷静にみたら今法案に反対しているのは、中韓と日本の左派だけだから国際政治の世界での常識は集団的自衛権による自国の安全確保ということなのではないだろうか。先日確かTBSテレビのニュースで南スーダンのPKO活動中の自衛隊が取材されていたが、戦闘が起きたらどうしますかと小隊長に質問していて、答えがすみやかに離れると言っていた。

どうも今度は戦闘に巻き込まれて死ぬかもと言いたげだったが、ぼくが印象的だったのがそんなことではなくて、一緒に活動中のネパールの軍隊が登場していて、彼らは最近でも戦闘でけが人が出たと言っていた。ネパールでさえ(というも失礼かもしれないが)アフリカの紛争地域に国連軍として治安にあたり、いざとなったら住民の安全を守るために戦っているのだ。日本の自衛隊は危なくなったら逃げればいいのだろうか。

どうも、憲法学者の違憲発言が注目されてしまって内輪の議論になっているように思うのだが、もう少し目を開いて世界の趨勢をよく観察してわが国としてどう振る舞えばいいのかをもっと真剣にかつ現実的な議論にしてほしい。安倍首相だって、戦争したいなんて言っていないわけだし、中国の脅威だって日増しに高くなってきているのだから、戦争を仕掛けるなんてことではなく、国民の生命を守るにはどうするのだという根本的な問いを考えてほしい。
  

2015年7月27日

縮図はどっちだ?

前回の記事の続き。新国立競技場の問題のほうは呆れて口がふさがらないのだが、安倍首相の決断で白紙に戻った。安倍さんは支持率回復のためのパフォーマンスだという見方もあるがリーダーがちゃんと意思決定したという意味で評価できるのではないでしょうか。いままでは、誰が責任者なのか定かではないこと、一旦決まったことは変更を頑なに拒む文科省というように典型的なお役所仕事で進められてきていたから、それを戻したのだからよくやった。

しかし、あのデザインが本当に必要だったのだろうか、しかも膨大なデザイン料にも呆れ返る。橋下徹が貧乏人にはフェラーリは要らないと言ったが、そういうことよりも、スーパーマーケットに買い物に行くのにフェラーリは必要ないだろうというのに近いような気がする。

つまり、見た目ではなくて機能性で考えるべきだということである。あの競技場でアスリートが躍動して、それを観客が観て興奮して拍手し、選手と観客が一体となって競技を楽しむためにはどんな競技場であるべきかという、これもビジョンとコンセプトの確立プロセスが欠如しているようにみえる。

結局、強く言いたいのは、安保法制にしても新国立競技場にしても上位概念のビジョン・コンセプトがしっかりできていないが故に議論が堂々めぐりしたり、変化対応が鈍くなるのである。これは、何も国政レベルだけの話ではなく、実は地方の行政の場でも同じようなことがどこでも見られる。

ぼくは、今地元の工場跡地の開発計画問題に関わっているのだが、いつも行政側と話し合っていると国政でも見られるような、ビジョン・コンセプトの欠乏、前例踏襲、一旦決めたことの墨守といった悪弊がはびこっているのだ。これが全くダメだということでもなく、場合によってはコロコロ変わるとか、突拍子もない案が出てくるなんてことは避ける意味で程度問題なのだが、概してディフェンシブな姿勢が多く、現代のように人口減・少子高齢化といった社会の態様の変化が激しい時代にあっては弊害になることも多い。

ということで、地方の行政もまるで国政の縮図のような様相を呈していると思えるのだが、ちょっと待てよと思う。縮図と言うのは、goo辞書によれば「現実の様相を、規模を小さくして端的に表したもの」となっている。これでいくと、国の様相が規模が小さい地方でも同じように表れているということなのだが、そうなのだろうかということである。

むしろ逆に日本人全般に当てはまることで、日本人というものが持っている行動様式があって、それが地方行政の様相を作り上げ、それが国政にも反映されているのではないだろうか。つまり、日本人全体だからこちらのほうが規模が大きくて、国政を行っている日本人は規模が小さいのだから、日本全般の縮図が国政なのだ。これは根が深い問題だな。
  

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