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鎌倉のちづくり(3)

前回、深沢という地区が歴史的ロマンあふれる土地であることを紹介しましたが、戦時下の昭和17年に突然海軍工廠により強制接収されてしまいました。横須賀工廠向けの部品供給工場となったわけです。北側の山を削ってまだ稲穂が繁っていた田を埋め立てて作られました。戦後の昭和20年には日本国有鉄道に払い下げられて、大井工場分工となりました。

ですから、その当時は各地から人も集まってきて600人位の人が暮らしていました。ぼくが小学生の時にも多くの国鉄大船工場に勤めている人たちの子弟が学校に通っていましたし、友達も多くいてよく官舎に遊びに行ったものです。いまだに、その当時の同級生たちとは集まっては昔話に花を咲かせています。

その後、ご存知のように昭和61年の国鉄民営化に伴い、その地は国鉄清算事業団の管理下に置かれることとなった。実はその時、自分たちの土地を強制接収されたという経緯から、地元町内会を中心にして鎌倉市に払い下げてくれという陳情を行いました。しかし、一部は市の土地となりましたが、大部分は現在のJR東日本の所有するものとなっています。

そして、平成18年度末をもって工場が閉鎖されて、市有地を含めた32Haという広大な土地が生じたのです。そこで平成19年に「深沢地区事業推進協議会」が発足して利用が本格的に議論されるようになり、その結果「深沢地域の新しいまちづくりビジョン」が提案されました。それまでにも「深沢地域の新しいまちづくりの基本計画(案)(平成8年)や「深沢地域の新しいまちづくり基本計画」(平成16年)といったものが策定されて、まちづくりのビジョンが示されていましたが、より具体的な土地利用計画が示されてきました。

そこから、平成22年に「深沢地土地利用計画(案)、平成25年には「深沢地区まちづくりガイドライン(案)」ができ、そこにある計画について見直しを陳情して採択されたわけです。もちろんこうした計画づくりには市民の代表として地元の人間も参画してはいたのですが、なかなか意見が聞き入れてもらえず、専門家と称する人や行政が主体的に引っ張っていったというのが実態だったようです。

いま見てきたように、現計画の元は平成8年に作られた「深沢地域の新しいまちづくりの基本計画(案)」であるわけで、もう20年近く前のものなのですが、基本的にはそれを引き継いでいます。この20年で環境は大きく変化していることを考えるとどうしても見直しせざるを得ないのではないでしょうか。次回は実際の計画の中身についてみていくことにします。

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2015年9月 5日 20:48に投稿されたエントリーのページです。

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