« 鎌倉のまちづくり(1) | メイン | 鎌倉のちづくり(3) »

鎌倉のまちづくり(2)

地域開発の事例として、現在ぼくの家の近の土地利用計画についてみていきましょう。このブログでも若干紹介したことがありますが、再度これまでの経緯について簡単に説明しておきます。土地というものは、代々様々な事情があって引き継がれてきたものなのでその辺のところを理解しておく必要があります。

ということで、まずは今対象となっている土地についてです。ここは梶原、寺分、上町屋、常盤といった住所にまたがったところで主にJR東日本の工場があったところです。平成18年にその工場が閉鎖されて、市有地を含めた32Haという広大な土地をどう利用するのかという「深沢地区まちづくりビジョン」(平成21年)、「深沢地区の土地利用計画(案)」(平成22年)、「深沢地区まちづくりガイドライン(案)」(平成25年)が策定されてきました。

その計画に対して、地元の私たちは昨年の3月に「洲崎陣出の杜の会」を立ち上げて、現行計画の見直しを主張したわけです。どういう主張かは後述しますが、具体的な行動としては鎌倉市議会に陳情書を提出しました。その結果昨年12月に出した2度目の陳情が賛成多数で採択されました。それを受けて、会としての土地利用計画(これも後述)を市に提示して、意見交換会を実施したのですが、市は既存の計画に固執して話し合いは平行線をたどっています。

前回指摘したように、一度決めたことは頑なに守ろうとする態度がありありなのです。ですから、現計画の微調整ですませたいようなのですが、基本的な考え方の齟齬があり、また世の中の情勢もずいぶんと変わってきた現在、現計画の陳腐化は明らかで、抜本的な見直しが急務なのです。ですから、私たちは市との意見交換会を打ち切り、広く地元住民の意見を聞くべく署名活動の準備をしています。

おおまかなこれまでの経緯はこんなところですが、そもそもこの土地がどんなところであったのかを知ることも私たちの思いを理解する上で大切なことだと思うので少し紹介しておきます。鎌倉というと七つの切り通しの内側(旧鎌倉という人もいる)が由緒ある歴史があるところと思いがちですがここ深沢にも深く歴史が刻まれています。

この地域は、奈良・平安時代は相模国鎌倉郡と呼ばれ、七郷の1つである梶原郷が現在の深沢地区の一帯にあたります。有名な故事としては、1333年の新田義貞の鎌倉攻めのときに迎え撃つ赤橋守時との攻防の地であり、鎌倉幕府の終焉を告げる洲崎の古戦場なのである。その字名は陣出と称したことから「洲崎陣での杜の会」という名はそこからとっている。

このことは、「太平記」にも一日60回の切り合いがあったと記されています。また、そのときの戦死者を周辺の住民が弔うために建てた「泣き塔」と言われる供養塔が残されています。そこには文和5年(1356年)という年号が刻まれ、重要文化財に認定されています。こうした由緒ある土地はその後農地として住民たちが農業を営んできました。この地がある日突然・・・。続きは次回に。
  
泣き塔.jpg
  

About

2015年9月 1日 20:08に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「鎌倉のまちづくり(1)」です。

次の投稿は「鎌倉のちづくり(3)」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type