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縮図はどっちだ?

前回の記事の続き。新国立競技場の問題のほうは呆れて口がふさがらないのだが、安倍首相の決断で白紙に戻った。安倍さんは支持率回復のためのパフォーマンスだという見方もあるがリーダーがちゃんと意思決定したという意味で評価できるのではないでしょうか。いままでは、誰が責任者なのか定かではないこと、一旦決まったことは変更を頑なに拒む文科省というように典型的なお役所仕事で進められてきていたから、それを戻したのだからよくやった。

しかし、あのデザインが本当に必要だったのだろうか、しかも膨大なデザイン料にも呆れ返る。橋下徹が貧乏人にはフェラーリは要らないと言ったが、そういうことよりも、スーパーマーケットに買い物に行くのにフェラーリは必要ないだろうというのに近いような気がする。

つまり、見た目ではなくて機能性で考えるべきだということである。あの競技場でアスリートが躍動して、それを観客が観て興奮して拍手し、選手と観客が一体となって競技を楽しむためにはどんな競技場であるべきかという、これもビジョンとコンセプトの確立プロセスが欠如しているようにみえる。

結局、強く言いたいのは、安保法制にしても新国立競技場にしても上位概念のビジョン・コンセプトがしっかりできていないが故に議論が堂々めぐりしたり、変化対応が鈍くなるのである。これは、何も国政レベルだけの話ではなく、実は地方の行政の場でも同じようなことがどこでも見られる。

ぼくは、今地元の工場跡地の開発計画問題に関わっているのだが、いつも行政側と話し合っていると国政でも見られるような、ビジョン・コンセプトの欠乏、前例踏襲、一旦決めたことの墨守といった悪弊がはびこっているのだ。これが全くダメだということでもなく、場合によってはコロコロ変わるとか、突拍子もない案が出てくるなんてことは避ける意味で程度問題なのだが、概してディフェンシブな姿勢が多く、現代のように人口減・少子高齢化といった社会の態様の変化が激しい時代にあっては弊害になることも多い。

ということで、地方の行政もまるで国政の縮図のような様相を呈していると思えるのだが、ちょっと待てよと思う。縮図と言うのは、goo辞書によれば「現実の様相を、規模を小さくして端的に表したもの」となっている。これでいくと、国の様相が規模が小さい地方でも同じように表れているということなのだが、そうなのだろうかということである。

むしろ逆に日本人全般に当てはまることで、日本人というものが持っている行動様式があって、それが地方行政の様相を作り上げ、それが国政にも反映されているのではないだろうか。つまり、日本人全体だからこちらのほうが規模が大きくて、国政を行っている日本人は規模が小さいのだから、日本全般の縮図が国政なのだ。これは根が深い問題だな。
  

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2015年7月27日 09:48に投稿されたエントリーのページです。

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