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2014年5月 アーカイブ

2014年5月 1日

文具店はなぜ潰れたのか?

「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」という本がベストセラーになったが、これは会計学の本で、タイトルの意味はどうもそれだけの商売ではなくて抱き合わせ販売のような形だからのようだ。つまりさおだけだけを売っているのではなくて、他の商品の配達のついでにマイクで叫んで売っているからコストがかかっていないからだそうだ。

このたび弟の急逝によって書店兼文具店のにわか店主になり閉店セールを行った身としては「文具店はなぜ潰れたのか?」に非常に興味をもった。ただ、倒産したわけではなく、細々とはやっていたのだが、それは自分の土地と建物だったからで、もしそれらを借りていたら成立していなかった。始めて40年になるがバブル前までの20年間は儲かっていたようだ。はっきり聞いたことはなかったが当時の羽振りで読み取れる。

しかし、ここ10年から15年は、電子若者の本離れや書籍の登場、それとスーパーやコンビニ、100円ショップでの文具の販売の影響で正直絶滅商売になってしまった。近くにあった書店ももう10年くらい前に廃業してしまっている。それにもかかわらず、少子高齢化の影響もあって客数がどんどん減っているのだ。だから、もうお客さんは近所の老人と小学生である。

今回の閉店セールで多くの人が来店してくれたのだが、老人たちが口癖のように言ったのが、「この店はとても重宝で、コンビニや百均にはないものがここにはあるのでホント助かった。これからどうしようか困ってしまった」というものである。子どももここに来ると新しいモデルがあるからうれしいというのだ。

これがクセモノである。ここにしかないものは数が出ないわけで、ある少数の人のために仕入れるのだが、その人はめったに買いに来ないという構図である。だから、まとめて仕入れたり、セットで仕入れたりしてしまうと当然のように在庫となってしまう。また、子どものものはすぐに流行遅れになるから、販売量より多く仕入れてしまうとこれまた在庫の山となる。

結局、在庫の負担が尋常ではなかったのである。ちょっとでも売れなくなったらすぐに値引きして売ってしまえばよかったのに置いておいたのだ。びっくりしたのはもう30年前だと思われる電卓が値札に1万円と書いて残っていた。プリントゴッコがまだあった。

こうした少数のお客さんの要求になんでも答えてあげるというモデルは顧客第一主義なんて言われて一見良さそうなのだが気をつけなくてはいけない。ネットビジネスでいうロングテールは成立するのだが、いま言ったような地方の文具屋の"ショートテール"は無理なのである。稀少のものを取り扱うのならその対象を広く、あわよくばグローバルに設定していかなくてはいけないのだ。ところが、地方の狭い範囲の少数に対して稀少商品を売ってもダメなのである。

ところが、先日テレビの番組でA−Zスーパーセンターという九州にある大型スーパーが取り上げられていた。そこは生鮮食品から日用品、さらに自動車やガソリンなどありとあらゆるものを売っていて、要するにお客さんがほしいと思うものを揃えているのである。さっきのような"ショートテール"ビジネスじゃないかと思うのだが、いろいろな工夫をしている。

24時間営業で、送迎バス、購入品の配送などショートをロング化している。そして、もっと感心したのは、大量の仕入れをしないために、売り場の担当を多くしてその人に仕入れを任す仕組みにしている。だから、絶えず売れ筋の商品、逆に売れない商品をきめ細かくチェックして無駄のない仕入れをしていた。これだ。うちの仕入れと全く正反対である。ぼくも同じようなことをして立て直して見ようかと一瞬思ったがもはやどうにもならない。さて、この空いた店舗にどんな商売が入るのやら。
  

2014年5月 2日

極私的子育て論(2)

「1つ、胸を開いて抱きしめて」「2つ、背中を見せてついてこい」「3つ、肩を並べて歩こうよ」の実践編である。よいことを言ったって実際にやっていなかったら単なるホラ吹きになってしまう。一つ目の胸を開いて抱きしめては、おむつをしている小さいときから抱いてあげるのだ。これは母親だけの仕事ではなく父親も大いにやるべきなのだ。

ぼくは結婚した時は三重県四日市にある工場に勤務していたから、通勤時間も短いし、夕方には帰ってくることも多かった。だから、家に帰ってからもよく一緒になって遊んだ。夏などはまだ明るいから外でひとしきり遊びまわれたのだ。休日になると近くの公園とか遊園地などに行ったりした。

それと、夏は鈴鹿セブンマウンティンがすぐなので必ずテントを持って山登りをした。キャンプ場でもないところで一泊するのである。だから、水は川か湧き水だし、当然野糞である。子どもたちに設営から食事の支度までやらせる。そしてクライマックスは星が降ってくる夜空をみながら抱きしめるのである。中には悪天候に会い、一晩中水浸しになって抱き合って寝たこともあった。

2つ目の背中を見せてついてこいは、あまりああしろこうしろと言わないことから始めた。自分たちで塾に行くにしても受験する学校にしても決めるようになった。だから、下の子は中学生の時に真剣に競馬の騎手になると言い出した。こんな時もダメだとは言わないで見守っていた。今彼の身長は185cmだから全く無理だったのだが。

ここで象徴的なこととしてあることが彼らにインパクトを与えたことがある。実はぼくは学生の時からずっとたばこを吸っていた。一日30本くらい吸っていたからけっこうなスモーカーである。ところが、ある日ピタリとやめたのである。禁煙するぞと言ったり、だんだん本数を減らしていったというわけではなく、いきなりやめたのだ。いまだにその時のハイライトが机にしまってある。

その時、確か上の子が12歳で下の子が9歳だった。だからちょうど"胸から背中"に変わる時期である。この潔さを見た彼らは驚いたのだろう。いまだに、あの時のお父さんは偉いと言ってくれる。だから、子どもたちに何かよくないことをやめさせようとするとこの話が効くのだ。お父さんだってスパッとやめたのだからお前もできるだろというわけである。どんなエピソードでもいいから印象を植え付けることをしたらよい。背中を見せるとは"報われないことを誠意をもってやること"でこれを暗黙のうちにみせることだ。

最後は、現在進行形のことである。上の子とは彼が大学院を卒業すると同時に二人で起業した。それもぼくが社長ではなくかれが社長でぼくは一介の社員である。肩を並べるというよりぼくが背中についていっているのかもしれない。

ところで、最近のネットの話題で埼玉県の高校教師が自分の勤務する高校の入学式に欠席して別の高校に通うわが子の入学式に参加したことで大騒ぎになった。ここ、無責任だとか、プロ意識がないとか、逆に家庭が大事だからいいじゃないかといった、要するに自分が受け持つ生徒は放っておいてわが子を優先するのはよいのか悪いのかという論争である。

どうも世間は賛否同じくらいらしい。そこで、ここに書いた子育論で見ていくとどうも論点がそこではないように思える。高校の入学式までどうしても親がついていかなくてはいけないのか、あるいは子どもの視点として親がきてほしいと思うのだろうか、とぼくは思ってしまうである。何やら親のエゴだけのような気もする。"胸を開いて抱きしめて"時代ならわが子を優先してもいいが、"背中を見せてついてこい"時代になったらわが子よりも自分の仕事を優先すべきだと思うのである。皆さんはどう思いますか。

2014年5月 8日

プロセス中心アプローチのフレームワーク(2)

前回、プロセス中心アプローチのポイントを説明しましたが、プロセスの重要性を理解してもらえたでしょうか。さて、前回に最後に示した要請に応えるようなビジネスモデル、ビジネスプロセス、アプリケーションはどんなものなのかの議論に入って行きます。

そして、留意しておくべきことは、それぞれが独立しているわけではなく連動していること、すなわち上から下、さらに下から上への継承関係が維持されていることで、ビジネスモデルで導出されたビジネス要求をプロセスがちゃんと受けとめて、そのプロセスが成果を上げるように動くことを担保されていなくてはいけないし、結果を戻して修正するループが確立していることである。

話は戻って恐縮ですが、ビジネス活動というのは、こうしたフィードフォワードとフィードバックの制御機能が働くことが必須で、というか必ずあることなのであって、それがどういう形態でやられていたかが問題なのである。それを人間系でやるのかITを活用してやるのかで違いが出てきて、繰り返すが、変化が激しい今日ではITを使わないと対応できないということだと思う。

さて、前置きが長くなったが、ここからフレームワークはどんなものから成り立っているかを考えていきましょう。プロセス中心といってもいきなりプロセスを描くことはどうでしょうか。何のために、何をしたいからプロセスがあるのかという視点が必要であると思うと思います。そこをしっかりと抑えておかないと、ぶれたり後戻りしたりします。

こういうことを言うとやっぱり大事なことはビジネスモデルだという人がいるかもしれませんが、残念ながらビジネスモデルというのは静的で、実際に適用するときの動的手段をもっていません。だからプロセスなのです。ですから、プロセスにどういうふうに受け渡すことができるビジネスモデルを描けるかが重要なのです。

このことは、重要な視点でつまり継承という担保を確保しようとするとボトムアップ指向が必要だということである。つまり、こんなふうに規定してくれないと受けられないというふうに下から突き上げるべきなのである。またまた話がそれるのだが、受託開発の様態の問題はここにあって、言われたままにやるという上下関係は連動性を損なっているのだ。受託側が委託側に言えないということが問題かもしれない。

話しを戻そう。フレームワークを構成する要素は何かである。まずは、きちんとその目的とかなぜ必要なのかがあって、そして、具体的なモデルとかフォームがあり、それがどんな要素から成り立って、どういうふうに記述したらいいのか規定されたものであろう。次回はビジネスモデルについて具体的に見ていきましょう。

2014年5月 3日

家電メーカーの逆襲?

一時業績不振でさんざん叩かれた大手家電メーカーがこぞって業績を回復している。日立、東芝、三菱電機の重電三社が好調だったところへ、家電メーカーでもシャープとパナソニックは苦境を抜けだしたようですが、ソニーはまだのようです。家電はどこもテレビ事業の不振が深刻のようで軒並み赤字でソニーは分社化するようです。

それでもテレビ事業ではこれからの目玉が4Kテレビということで各社競っているようだが、ちょっとおかしくないかと思うのはぼくだけだろうか。表示パネルの画素数がフルハイビジョンの4倍あるのだという。こんな高画質のものが本当に必要なのかという疑問である。フルハイビジョンでも顔の皺のなかまで見えるくらいだから、さらに高解像度になったらいったいどうなってしまうのだろうか。

ぼくはなぜそんなものはいらないと言うのかというと、人間の目が普段とらえているレベルの解像度以上にあってもしょうがないと思うからである。つまり、人間というのは自分の視覚能力でものを見て、それを認識して感じるわけで、もしそれ以上の能力を得て何がしたいのだろうか。顕微鏡をのぞきながら生活にしておもしろいのだろうか。はっきり、くっきり見えることがなんでも良いこととは限らない。

このことは、DVDレコーダーのリモコンでも同じことなのだが、家電のレベルというのは生活用のツールであるわけだから、あくまで"アナログ的"な生活のなかで機能させればいいのであって、デジタルだから限界まで機能を向上させればいいというものではないし、生活が便利になる、楽しくなる程度のものでいいのである。

どうも、家電のメーカーの意識の中に機能的に優れているもの、パフォーマンスがすごいものを作れることを競おうとして、それがよそに勝てるとなるとその製品がすばらしいと思い込んでしまう傾向があるように思う。もうそういう時代は終わったのではないだろうか。技術の進歩に人間が追いつかないといったほうがいいのかしれない。

だから、ぼくの予言では4Kテレビは失敗すると思う。テレビは見ない世代が増えているが、そういうテレビ離れの人たちが4Kだからといって戻ってくるとは到底思えない。むしろ、テレビに関してはもっと他のデバイスとの融合だとか、異質のメディアとの連携といった従来のテレビの概念を打ち破る発想がいるのではないでしょうか。
  

2014年5月 4日

車のCMがダサい件

4Kテレビの話題が出たのでついでにテレビCMの話です。ぼくはほとんどテレビを見ないからCMもあまり興味もないのだが、それでも気になるものがいくつか出てくる。繰り返し出てくるので鼻につき出すともうたまらなくなるということもあるからかもしれない。

そのなかで最近気になるのはトヨタのCMでタレントがいっぱい出てくるやつがありますよね。織田信長とか豊臣秀吉とかなんかが登場してきたり、話題になったタレントを起用したりしています。さすがに金持ちトヨタという感じもするが、あのCMを見て車を買おうとは思わない。タレントの売り込みのためのCMかと思う。

それにしても、中でも木村拓哉が出てくる確かカローラのやつで「ラブ&ジーズ編」というらしいのだが、これがひどい。何がひどいかというとキムタクのジーンズ姿が全くダサいからである。ジーンズの着こなしのひどさにはびっくりである。ちゃんとスタイリストが付いていると思うが、やっぱキムタクの足の短さはどうしようもないのだろう。センスのかけらもない。

CMのけなしついでにもう少し。これも車だ。ダイハツの福祉車両のCMなのだが、介護が必要な人のために提供しているもので、このCMにマイク真木が出演しているのだ。奥さん役があの「私は泣いています」のリリィである。僕らの年代のものにとっては憧れの人たちである。そうなんですよね、彼らも介護のCMに登場するようになってしまったのだ。マイク真木が70歳、リリィは62歳だ。

ただ、ぼくにとってはこれがショックだった。「若い頃から海が好きだった人だった。でも足を悪くしてから・・・」てな言葉で始まって、その福祉車両に乗ってでかけられるようになり「やっぱ、海似合うね」とか言って終わるのだが、マイク真木がもうあんなじいさんになって、海に杖をついて行く姿は「バラが咲いた」からは想像がつかない。

やはり、青春時代の思い出とつながっているからそれを壊さないでほしいというのが正直な気持ちなのである。まだ、加山雄三じゃないが無理してでも昔のイメージを保とうとしているほうがいいような気もする。あこがれの人は自分と同じように年老いてもらっては困るのである。だからこのCMもダサいのである。
  

2014年5月 5日

謎解きはディナーのあとで

原作が2011年度「本屋大賞」第一位を受賞した「謎解きはディナーのあとで」(東川篤哉著)である。その後テレビドラマ化されて、けっこうな視聴率を稼いだそうだ。それの映画化である。何やらフジテレビということもあり「踊る大捜査線」路線を追いかけている風でもある。大きな文学賞ではなく、まず本屋大賞を受賞し、それをテレビドラマ化し、それを映画化するというパターンははやりの錬金術でもあるのだろう。

さて、同名の映画はどうだったろうか。まあ結論から言っておくとコケたようだ。監督がこれまでテレビドラマの演出を手がけてきて本作が映画デビューとなる土方政人で、主演が櫻井翔と北川景子、脇を固めるのが、椎名桔平、中村雅俊、桜庭ななみ、要潤、黒谷友香、竹中直人、生瀬勝久、鹿賀丈史、宮沢りえと多彩な陣容である。

題名からもわかるようにミステリーである。しかし、単にしかめっつらしい顔をして謎を解くのではなく、コメディタッチのおふざけも満載である。だから、大人から子どもまで楽しめるなんて謳い文句になっているが、要するに何から何まで中途半端なのである。シャーロック・ホームズのように本格的ではないし、コメディといったってあまり質のたかくない笑いだし、俳優さんの演技もオーバーアクションでなんじゃこれって感じになる。

大金持ちの令嬢と執事といったって日本では全くなじみがないわけで、執事の櫻井翔君が放つ毒舌といってもそれが毒舌に聞こえない。令嬢の北川景子にしたって、どうといったことのない普通の女の子にしか見えないわけで、こうした中途半端感はどうしようもない。

肝心の謎解きも、謎が多すぎて頭が混乱する。それを2時間の中で展開するわけだから、結局こちらのほうが一緒になって謎解きを楽しむということができないのである。そうするとどうなるのかというと、終わりの方は櫻井翔の謎解きの説明をただ聞くだけになってしまう。これじゃあ、映像は要らないということになる。

けなしてばかりだけど何かいいこともあるのでは言われそうだが、なかなかみつからないなあ。まったくひどい映画というわけではないのだが、なぜこんな作品を作ったのかという思いが強い。最近、この手のものが多いような気がする。つまり、安易に映画を作りすぎているように思うのである。本が売れたから、テレビでそこそこの視聴率だったからといって、映画もいいものになるというのは保証されたわけでも何でもなく、むしろ本のようにとかテレビのようにつくると失敗すると思ったほうがよい。なぜなら、みんな別物のメディアだからである。
  
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2014年5月 7日

正義の偽装

今、日本国民の間でなんとなく閉塞感を抱いている人が多いように思うのだが、少なくともぼくはもやもやしている。その正体が何なのかというのをいろいろ考えているのだが、なかなか整理がつかないでいる。そこに「正義の偽装」(佐伯啓思著 新潮新書)という本が現れて参考になったというか頭の体操の手助けをしてくれた。

ぼくがもやもやしている原因のひとつに世の中の論点の設定がずれている、あるいは勘違いしているということがある。だが、何となく違うのではないかと思ってもそれを理路正しく説明できないもどかしさである。そこのところを著者はうまく論点を設定し小気味よい筆法で明かそうとしている。ということで、なかなかおもしろくお薦めの本ですね。

論点の設定というのは対立軸の設定のことだがそこがよく考察されているので納得感がある。その対立軸に行く前に、そもそもこの本のタイトルである「正義の偽装」というのはどういうことかというと、今日の日本の政治の動揺は「民主主義」や「国民主権」や「個人の自由」なる言葉をさしたる吟味もなく「正義」と祭り上げ。この「正義」観点からもっぱら「改革」が唱えられ点にあって、本当は信じていないことを「正義」として「偽装」して来たのではないかということなのである。もうここでおもしろそうでしょ。

まずやり玉にあがったのは、「改革」ということでもう20年も改革と叫んでいたにもかかわらず、日本が良くなったという実感はないのではないでしょうか。それが政治的には「何も決められない政治」ということになる。内外からそう言われると「そうか、日本の政治は十分に民主化されていないんだ」となって、またさらなる「改革」を要求する。

改革派の人は「日本の政治は、民意を反映されリーダーシップが発揮できるようになっていない」という。「だから統治機構の抜本的な変革が必要だ」となる。これを筆者は大いなる矛盾があると指摘する。つまり、もしも民意を実現するのが政治だとすれば、たえず世論調査や民意調査を行って、政治はそれを実行すればよい。政治的リーダーシップなど必要なくなるというわけである。日本の改革派はそのことを知っているのだろうか。

さらに返す刀で、政治改革が唱えられたこの20年で「民主主義」は間違いなく進展したのに政治は良くなったのかと問うて、だれもそう思っていないということは「日本は官僚主義で民主主義をやっていない」などということ自体が無意味な議論ではないというのだ。確かに、民意によって民主党政権も誕生したし、維新の会ブームもあったが、こうした「民主主義の進展」があってもかえって閉塞感は高まっているように思える。

この問題の本質はどこにあるのか。著者は「ステイト」と「ネイション」という言葉を並べて論じている。つまり、「改革派」は日本がうまくいかないのは「統治機構」である「ステイト」に問題があると言っているのだと。だから「国を変える」のは「ステイト」のありようを変えるということである、しかし、歴史や文化、そしてそれらを共有しているという意識を持った人々が「ネイション」であり、その中心にあるのがおおよその国民に共有されている「価値」なのである。ここが変わらなければ変わらないのである。

さて、そうなると山本七平の「空気の支配」とか丸山真男の「無責任の体系」に行くのは必然でしょう。とここまで書いてみて、この先を書き出すと長くなりそうなので一旦ここで止めて、続編を書き留めて行くことにします。大変重要な論点が出てきますので残しておきたいと思います。
  

正義の偽装 (新潮新書 554)
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2014年5月 6日

日常点描2014.5.6

会社を辞めてからは連休だからどこかに行くということはなくなった。ふだん、空いているときにいろいろなところにいけるから、わざわざ混み合っているときに出かけることはない。ただ今年は家にじっとしているかというとそうではなくて、3月末に亡くなった弟の後始末みたいなことがあって何かと忙しくしている。

先々週にやっと店を空っぽにしたので不動産屋さんを呼んで貸店舗募集をかけることにした。まだどんな種類の店が入るかもわからないのでとりあえず本棚などを残したままで出す。最近ではデイサービスだとか保育児の預かり所とかの話が多いのだそうだ。今この辺りは整骨院とかマッサージ、整体などがいっぱいでさすがにもうそれはないようだ。世の中、老人と働く若い夫婦のための需要が多いのだ。

モノレールの駅とバス停の前だし、近くにスーパー、行政センター、郵便局、病院があるので場所としてはいいので、もうちょっと気の利いたものがありそうだと思う。ぼくはスイーツの店なんかどうかと不動産屋に言っている。最近、近所のスイーツ屋が2軒立て続けに閉店した。そこはどちらかというと目立たないあるいは不便なところにあったので、人通りがあれば成り立つと思うのだが。

3日は四十九日の法要があった。お寺さんが鎌倉材木座の妙長寺なので、連休中は付近が混んでいるのかと思ったら意外と空いていて助かった。ここの住職は若いのだがなかなかやり手というか、丁寧に行事やお経について説明してくれるのでいつも感心する。お経なんて見ても何が書いてあるかわからないが、それを現代風に翻訳して語るので楽しい。一緒の唱えたお経を一冊もらってきた。

昨日は、上の息子の彼女と会食。先月に彼女の実家がある金沢に行っていちおう結婚の承諾を得てきた。ぼくの家の方は承諾も何もなくて端からOKだから、それで決まりというわけである。ちょうど下の子も帰省しているので連休であるが会うことにした。鎌倉は混んでしょうがないので横浜で食事をすることとなったのである。珍しく、ちょうど乗ろうとしたモノレールが車両故障車庫入りとなり代わりの車両が来るまで20分くらい待たされたのでぎりぎりに到着する。

うちは両方とも男の子なので、娘になる子を前にするとなんだかドギマギしてしまう。うちのヨメさんもなんだか落ち着かない。それでも気さくな子なので楽しい時間を過ごす。どうも結婚式は来年らしいのだが、この7月から一緒に暮らすとのこと。近頃の結婚事情はよく知らいのだがこんなものだそうだ。これで、下の息子も刺激を受けていい子を見つけてくれればいいのだが。

その帰りに家の近くに来たらまだ飲み足らなかったのでヨメさんを先に返して「鳥つね」に寄る。ひとしきり呑んだので帰ろうとしたとき若者二人が来店。どうも近所の子なのだが初めてきたらしい。しばらくすると店の主人の常さんが僕に話を振ったのでそこから彼らと話し込んでしまった。同じ小学校を出ているとのことで、ただ二人は22歳という若さで、一人は大学院(なんと東大)で史学を研究していて、もう一人はIT会社に就職したばかりなのだという。

そこから、中世の鎌倉のこと、それとシステム業界のことなど話がはずむ。もうすぐ日付が変わろうかというところまで呑んでしゃべって帰ることに、ところがまだ話したりない感じもあったので「写楽」に誘う。IT屋の子は帰ったので史学の子とさらに呑む。写楽のマスターも抽斗が一杯あるから話はあちこちに跳ぶ。なんだか知らないうちにタバコを自分で作って二人で吸っているのには驚く。やることもこだわり満載だ。というわけで、家に帰ったのが夜中の3時過ぎていた。ああ、疲れたけど楽しかった。

さてこの季節、ずいぶんと家の周りも花が咲いたりして気分がいい。桜が散ったあとは、木蓮や牡丹が咲き、今はふじがきれいな紫を見せてくれる。また、たけのこももう終わりに近づいているが、採ってきてたけのこご飯を炊いた。やはり、旬のものはうまい。ただ、あまり浮かれていないで多少仕事もしなくてはいけないので少し気を引き締めたところである。
  
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2014年5月 9日

ちょっといい話2014.5

もうずいぶん前に「ちょっといい話」を何本か書いたが、最近はネタもなくなり、新しいいい話もないもので滞っていましたが、先日ちょっとばかし感動したのでそのことについて書く。これもまた死んだ弟の店にまつわる話なのでちょっと食傷気味かもしれませんがご容赦のほどを。

閉店した書店と文具店には老人と子どもばかりなのだが、閉店するにあたり老人たちからは、寂しいとか他に買うところがないから困るとか、いつも優しくしてもらったとか口々に言う。要するに暇な私たちを丁寧に相手にしてくれてありがたかったが、これから暇つぶしするところがなくなってしまうのでどうしようかという嘆きなのである。

ところが子どもたちはどう思っているのかが気になっていたら、閉店セールの終盤になって、そうですえね小学校3年生くらいの女の子から手紙を渡されたのだ。下の写真にあるように可愛らしい便箋にお礼の言葉が書かれていた。その手紙は、「閉店してしまうのはかなしいです」から始まって、最後「本当にありがとうございました」で結ばれている。

これを読んだときはぼくが店をやっていたわけではないのに涙がこぼれそうになった。それは最近の子どもは生意気で礼儀も知らないと思い込んでいたぼくには驚きであった。その後も別の女の子からも同様の手紙をもらったから、その子が特別なのではなく、素直で温かい心をもった子どもは、昔も今も変わらずいるのだと今更ながら再確認したのだ。今の子どもたちも捨てたものではない。ああ気持ちがよかった。

お礼の手紙.pngのサムネイル画像
 

2014年5月12日

イノベーションを支援するITシステム構築の極意(18)

3つのパラダイム変化の2番目の「作って終わりから使ってナンボへ」というのは、システム構築のゴールはどこかという話になります。つまり、作ることがゴールではなく、動かしてみて、もっと言えば成果を上げた時点がゴールですよと言っているのです。こんなことは至極当たり前だと思われるかもしれませんが、存外そうなっていない例を多くみかけます。

なぜそうなってしまったのかは、ユーザとITベンダーやSIerとの関係に見ることができます。ユーザはITのことがわからないからといってこんなものが作りたいと言っただけでITベンダーやSIerに丸投げします。特に一昔前の経営者は最初からITを遠ざけている人が多かった。また、ITベンダーやSIerはあいまいな要求仕様のままプログラム仕様書を書き、プログラマーに丸投げします。無責任連鎖です。

さて開発会社はそうやってできたシステムはこれだけ人月を要したのでそれに見合う費用を請求して受け取るわけです。だから、開発会社は極端な話その時点で仕事は終わります。ITベンダーもSIerも同様にユーザに対して言われたことをやりましたと言って、"プログラムが正常に動くこと"を確認して検収してもらうことになります。

これってどこかおかしいと思いませんか。ITベンダーやSIerにしても受託した開発会社にしても「作ってナンボ」と考えているわけです。そうした成果物を使いだしたユーザは使おうと思ったら使えないとか、使い出すとこう変えたいとかいったことが出てくるがもうどうしようもない。というわけで、半数以上のシステムが使うことなく眠ってしまっているのだ。

ユーザにとってのゴールは、当然のようにビジネス上の成果が出ることである。そのために大きな投資をしているのである。ではどうしたら、使って役に立ったというところまできちんと確認して終わりとなるシステム作りができるようになるのでしょうか。もちろん意識の持ち方もあるだろうし、契約の問題もあるでしょうが、大きいのは開発方法とか体制の問題だと思います。

つまり、ウオータフォールのようなフェーズドアプローチだとフェーズ間の受け渡しがうまくいかないとか、できあがりイメージがつかめない中でユーザが要求仕様を出していかなくてはいけないといった問題がどうしてもおきてくるから、そこから変えていく必要があります。

こうした問題を解決するには、いきつ戻りつでき、早い段階である程度動くものをみせていく反復型のやり方にするとともに、そこにユーザが参画してIT技術者と一体になって進めていくのが必須になってきます。こうすれば、ユーザーが真に欲しいものが具体的イメージとして出てきてそれをブラッシュアップしていくのでできた時は必ず使いものになるシステムになっているわけです。

こうしたやり方を前提として、使い手側も作り手側も意識を変革し、難しいかもしれませんが、契約形態も受託開発ではなく成功報酬に近いようなものにしていけばよいのではないでしょうか。そのくらいのことをしないとイノベーションを支援することはできないと思います。
  

2014年5月11日

極私的子育て論(3)

前回は実践編ということでそれぞれ実際にどんなことをやったのかを書いた。ところで、親がやることも大事だが、子ども自身が現実社会の一員として自律した形でサバイバルしていかなくてはいけない。そのためにはどんな要件が必要であるかを考えてみる。これは確か内田樹さんが言っていたと思うのだが次の3つがある。

① 何でも食べられること
② どこでも寝られること
③ 誰とでも友だちになれること

子どもからおとなになって行く上で様々な障害を乗り越えていかないといけない。そのときここであげ3つができるのかできないかで大きな差が出てくるように思う。基本的にうちの子どもに食べ物の好き嫌いはないし何でも食べられる。ただ、上の子はアレルギーがあるので山芋とキウイが食べられない。

何でも食べられるというのは好き嫌いということもさることながら、多少生煮えだとか、地べたに落っことしたとか、ゲテモノ風とかいっても平気だということもいう。そのあたりは前回のエントリーでキャンプの話をしたが、そんな経験も生きていると思う。

キャンプの経験はどこでも寝られるということにもつながっている。ふたりとも少々劣悪な状態でも平気で眠っている。極端な例では学校から夜帰ってくると玄関で寝ていたなんてことが何回かあった。よそのうちに泊まったりしても気にすることもない。

3つ目の誰とでも友だちになれるというのはある意味特技であろう。それができるのは、おそらく楽観主義というか、どんな人でも何か良いところを持っているからそこを見てあげようという意志を持っているかだと思う。これはこんなところで内輪の自慢をしてもしょうがないがヨメさんすなわち彼らの母親の他人の悪口を言ったことがないという資質が受け継がれているように思える。

この、何でも食べられ、どこでも寝られて、誰とでも友だちになれるというのを丸ごと実践したのが下の子で、海外へのひとり旅である。それも欧米とかではなく、東南アジアそれもカンボジア、ラオス、タイ、インドなどのあまり人がいかないところを平気で出かける。そして、現地のものを食べ、現地の人と仲良くなるのだ。

ただ、上の3つだけでなくもうひとつあるように思う。それは「自分の頭で考えて言葉にできること」ではないでしょうか。現代は単に動物的な意味での生き残りではすまなくて文化的な部分の要件もあるように思う。それがこのことだ。すなわち、人に言われたように、あるいは教えられたとおりに考えるのではなく、しっかりと自分の頭の仲で思索し、表現できることが大切なのである。

表現の主なものは言葉である。上の子は本を何冊か書いているし、下の子も以前コピーライターの登竜門である「宣伝会議賞」でもうちょっとでファイナりストになりそうだったし、これもぼくがずっとブログを書き続けているのを見ているからかもしれないとちょっぴり思ってみたりする。ということで、もう親がどうのこうのと言わなくともとりあえずはサバイバルできそうである。
  

2014年5月10日

中国企業のビジネスモデル

ソフトバンクの決算発表で売上、営業利益は過去最高になりついにNTTドコモを抜いた。日本の企業で創業から営業利益が1兆円を越えたのはNTTドコモとトヨタに次いで3番目だそうだ。ただNTT118年、トヨタ65年に対して何とわずか33年で達成してしまった。まあ、この速さは企業買収によるものだがそれにしてもたいしたものだ。

ところでこの決算発表で話題になったのが、中国の電子商取引最大手のAlibabaだったらしい。ソフトバンクが34.4%出資していて、孫正義が取締役を務めている。なぜ話題になったかというと、米証券取引委員会(SEC)に新規株式公開(IPO)を申請したからである。もし上場となると資金調達額がFacebookの160億ドルを上回ると予想されているからである。

中国ではこのAlibabaをはじめ百度、微博など急成長したネット企業が多く輩出されている。これらは、Google、Apple、Twitter、Facebookなどの米国発のモデルを踏襲しているものである。ただ、中国という市場がとてつもなく大きいからそこでのシェアを抑えていると企業規模も必然的に大きくなる。

中国市場の閉鎖性にも助けられて、グロバールの巨人であるGoogle、Apple、Twitter、Facebookなどを押しのけているのである。ですから、極端な話全く同じことをしても中国語と中国本土で展開すれば非常に大きなユーザ数を確保でき大企業になってしまうのである。つまり、新奇性による新規ビジネス創出というプロセスを経なくても良いことになるし成長も速い。

ちょっとずるい感じもするが、そこがグローバルに出て行って戦って勝ち残ればいいだけなのでとやかく言うこともない。お手並み拝見というというところだろう。以前このブログでも触れたことがあると思うがMITのマイケル・クスマノ教授がソフトウエアに対する各国の捉えかたの違いを言っていておもしろかった。

まずアメリカは、"Software as a Business"なのだそうだ。次にヨーロッパはというと、"Software as a Science"、インドは、"Software as a Service"、そしてわが日本は"Software as a Product"なのだそうだ。なかなか的確だと思いませんか。で中国はどうなんだろうかと考えてみた。そこで思いついたのが"Software as a Imitation"ということである。自分で言って自分でなるほどとうなずいてしまった。中国ではソフトウエアはコピーするものなのである。

ちょっとそれるかもしれませんが、「資本主義という謎」(水野和夫、大澤真幸著 NKK出版新書)のなかで中国は新しい覇権原理を打ち立てられるかという問に対して、二人の次のような対話がおもしろい。

大澤 たしかに中国は調子がいいように見えるけれども、ほんとうに新しいものが出てきたから調子がいいわけではない。実質的には、海の帝国の「没落していない部分」に便乗しているだけだと思います。中略

水野 中国が近代化路線を走っている限りにおいては日本はその競争に乗らずに「どうぞ頑張ってね」と傍観していればいい。いずれ全世界に中国の工業製品がゆきわたり、月や火星以外に利潤を得る場所がないような事態になりますから。

これは中国のソフトウエアに対しても同じことが言えて、欧米のビジネスモデルに便乗してしているだけのように思えるのである。
  

2014年5月14日

テルマエ・ロマエⅡ

「2匹目のどじょうをねらう」というのがある。本来は「柳の下にいつもどじょうはいない」ということで最初にうまくいっても次もうまくいくとは限らないという意味である。同じことまたやるのを二番煎じという。二番煎じでうまくやろうとしてもそうはいかないよということである。「テルマエ・ロマエⅡ」は前作の大ヒットに続けとばかり二匹目のどじょうをねらったのだがうまくいったのだろうか。

前作は60億円近い興行収入を得たというから驚きだ。そんなに前評判が良かったわけではないのに、風呂を題材として古代ローマと現代を行ったり来たりしたりするという奇想天外の設定や、日本人がローマ人に扮してローマ人と一緒にそれほど違和感なく溶け込んでしまうとかが受けたのだろう。確かにぶったまげて大笑いした。

今作も登場人物や設定もほぼ同じである。監督も前作同様の武内英樹、キャストも阿部寛、上戸彩、北村一輝、宍戸開、市村正親、笹野高史、といったいつもの面々である。それと今回はシャレだかどうかわからないが、変なゲストが登場する。今の若い人たちは知らないと思うがぼくらにとっては個性的な人たちとして名をはせた松島トモ子、白木みのる、菅登未男、いか八郎という連中が出ていたのにはびっくりした。松島トモ子なん露天風呂で熊と一緒に入浴していた。これには笑い転げた。(知っている人は知っていますよね)

どうも、多彩なゲストがそれぞれのギャクとかネタをやって笑いをとっているように、ストーリーなんてなくて、そうしたコント集が売りのようだ。すなわち、ハドリアヌス皇帝(市村正親)がこんな風呂がほしいとか、後継者であるケイオニウス(北村一輝)を癒すための風呂が欲しいとテルマエ技師のルシウス(阿部寛)に言うと、ルシウスがいいアデアが浮かばなくなると現代日本にワープして、そこで今の風呂文化を持ち帰るというパターンの繰り返しなのだ。

今作では、風呂以外にグラディエーターが登場して、日本の相撲との対比を描いているのがちょっとユニークかもしれない。あとは今の日本で普通にやられていることが古代ローマでは大受けするわけで、ただ機械化されていないから奴隷が人力でやるというギャップによる笑いの定石を踏んでいる。いやー、近頃では珍しいスラップスティック・コメディに近い感じがする。日本人の出演者の濃い顔立ちといい、裸で身体を張った演技はもうコメディでしょう。

ということで最初に言った二匹目のどじょうはいたかどうかだが、いたのだが捕まえられなかったってところかもしれない。寅さんとか釣りバカ日誌のようにいくかというと無理なような気がする。シリーズ化できるには、毎回ストーリーがあり、第三の人物がきちんと描かれて、ある意味準主役として存在感を持たせることが必要である。いまのだと同じパターンの繰り返しだからそのうち飽きられるかもしれない。
  
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2014年5月16日

正義の偽装その2

「正義の偽装」(佐伯啓思著 新潮新書)という本の書評で、論点の設定が適切なので頭の整理がつきやすいという話をして、最初の議論として、「民主主義」は間違いなく進展したのにだれも政治は良くなっていないと思っているということを取り上げ、だから「日本は官僚主義で民主主義をやっていない」などということ自体が無意味な議論ではないかというのだ。そしてそれはやがて「空気の支配」とか「無責任の体系」に行き着くのではないかという議論である。

今回はそれにも関係する「ミンイ」についてである。多くの人が何かにつけて「ミンイ」という。マスメディアもこぞって民意を反映せよと叫ぶ。民意という名の正義が偽装されているのです。ぼくは、団塊世代だからその時代の人はわかると思いますが、戦後の日本では民主主義は絶対でした。その民主主義とは民意の実現だと教わったものです。だから、政治は民意に従ってやることだというわけです。しかし、当時のぼくにとってはその民意の"民"は誰のことなのかというのがよくわからなかったのです。

自分のイデオロギーや気分が民意でもないし、志を同じくする行動的な人々がデモで訴えていることが民意なのだろうかという思いである。ただ、当時は暴力的空気感によりそんなことを言えない状況であった。佐伯さんはこういう、政治的に関わるということは「自分の考え」を述べることで、もっと正確にいうと「公の事柄について、自分の考えを公に述べる」ことだという。これは相当にきついことです。国家の将来を左右するようなことをちゃんと分析して、考えを持つなんてそう簡単にできるものではない。

そうして民意を実現せよと正義を偽装するのだが、いったい民主主義ってなんだろうかである。そこに佐伯さんはルソーを持ってくる。あの有名な誰もが知っているジャン・ジャック・ルソーである。しかし、名前を知っていても実際どんなことを言っているのかをちゃんと理解している人は少ないかもしれない。「民主主義の祖」はこう言ったとされている。

自然状態において、人間は生命や財産を自分の手で守っていた。その点で彼は全くの自由であった。 しかし、この自然状態における生命・財産の保持はかなり危なっかしいものです。いつ敵が襲ってくるかわからない。そこで、人々は契約を行って、共同社会を作り、共同の力で生命・財産を守ろうと決めた。

ところで、この生命・財産を守る主体は誰なのか。ホッブスは全権委任された主権者であり、当時で言えば王や君主であった。それに対してルソーは、共同体を運営する主体はあくまで契約の当事者である人民だというのである。このルソー的な考え、すなわち「人民主権論」であり直接民主主義が戦後の日本人の頭のなかに植えつけられたのです。民主主義というものは国民の意思を実現するものとなったわけです。

しかしこれは一見なるほどと思うのですが非常に難しいことのように思う。「国民の意思」っていったい何なのだろうか。だからいろいろと矛盾というかやっかいなことが出てくる。有名なルソーの「一般意思」だってよくわからない。ただ、まず生命・財産を守るために共同体が必要だということがあります。でその目的のためには外的に対して共同で戦うのです。つまり国家のために死ねと言われたら死ぬのです。また、共同体の持つべき基本の目的やルールを定めることも必要です。

つまり、ルソー的な民主主義の要件は「共同防衛」と「憲法の制定」にあるのです。これだけでも今民意という大合唱をしている人たちはどう思うのでしょうか。ルソーの社会契約論をまったく理解していないのではないでしょうか。戦後の日本では、防衛はアメリカに委ねられ、憲法は主権をもたない占領期にGHQによって作られたのですから。ルソーのような民主主義でいえば、民主主義者こそ愛国者であり、市民による武装と自衛を当然の義務とするのです。

なにか変なことになりますが、民主主義絶対論者やルソー信奉者、民意の絶叫者たちはこのことを本当に考えているのだろうか。全体主義や独裁が、「民意」を絶対化する民主主義から生み出されるということを肝に銘じたいものである。
  

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2014年5月13日

ワールドカップメンバー決まる

6月に開かれるブラジルW杯のメンバー23名が決まった。ほぼぼくの予想通りであった。サプライズもなかったので大方の人もそう思っているに違いない。選出されたメンバーは次の通りである。

▽GK
川島永嗣、西川周作、権田修一

▽DF
伊野波雅彦、今野泰幸、長友佑都、森重真人、酒井宏樹、酒井高徳、内田篤人、吉田麻也

▽MF
山口蛍、青山敏弘、遠藤保仁、長谷部誠

▽FW
本田圭佑、清武弘嗣、大久保嘉人、香川真司、柿谷曜一朗、斎藤学、岡崎慎司、大迫勇也

ぼくの予想と違うのはフォワードの大久保ではなくミッドフィルダーをもう一枚、高橋秀人か中村憲剛のどちらかいうところであった。細貝はザックはあまり好きなタイプではないような気がする。同じように大久保もザック好みではないと思うのだが、いまの調子の良さを無視できなかったのだろう。ただなじむかなあとちょっと心配。

結局各GK以外ポジション二人ずつということになった。でも大型のボランチが欲しいなあ。あとケガ明けの吉田、内田、長谷部が気がかりだ。ケガが治っても試合感が戻ってくれるかというあたりである。

このメンバーを見てはっきりと戦術が浮かんでくる。もうスピードで勝つですね。高さは要らない。ハーフナーも豊田も選ばなかったということはその選択肢を捨てたのだ。ぼくは正しいと思う。

さあ、メンバーが決まったからには全員が本大会に向けて全力で向かってほしいと思う。何といっても初戦のコートジボアール戦である。岡田武史前代表監督も言っていたが、予選リーグで当たる3国は手強いけど歯がたたないというわけではなくむしろ日本の良さがでれば3連勝もあり得る。もちろん楽観視できないがぜひ予選を突破してもらいたいものだ。
  

2014年5月17日

自転車

自転車を買った。これで何台目になるだろうか。最近は車を使うことが多くなって少し運動不足を感じたので、季節も良くなったので自転車に乗ろうと思った。いまはあまり見かけなくなったがちょっとしたマウンテンバイクである。ぼくの家は山の中にあるから以前からほしいと思っていたのだ。6段変速でシマノ製である。

ただ山の中だから家から出るときはいいが戻る時に坂道を登って来なくてはいけないので大変である。もちろんもう漕ぎ上がる力はないので引っ張って登ってくる。これは大変でしょうと思われるのだが杖代わりと考えるとかえって楽なところもある。

もうかれこれ3、4年前まではけっこう自転車で鎌倉の街を彷徨したものだ。鎌倉という街は京都などと比べてコンパクトになっているので自転車が便利だ。貸し自転車もあるが、いい天気だとすぐに出払っちゃうし、乗り捨てができないから自分の自転車で好きなだけ回るのがいい。

神社仏閣といった歴史的な名所はほとんど行ってしまった。そこは昔も今も変わらない姿なのだが、食べ物などのショップは毎年めまぐるしく変わる。テレビ番組にもよく取り上げられるともうそこには客さんが押し寄せる。ところが少し経つと飽きられて店が変わっていたりする。小町通などがある中心部の店でぼくが子どもの時から残っているのも数少なくなってしまった。

ぼくの家は鎌倉駅、大船駅、江ノ島駅、藤沢駅のちょうど交差したところだから、三方から鎌倉市街にでることになる。また、江ノ島も近いので潮風にあたりながら海岸を走ることもできる。だから、同じ道を行って帰ってというコースでなくとも周回コースがとれるのもうれしい。いい運動にもなるのでルンルン気分でせっせと乗り回すことにしよう。
  
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2014年5月15日

なでしこオーストラリアに引き分け

最近、サッカー日本代表の試合が少ないので試合の記事がなかなか書けない。なので男子のAFCで勝ち残ったら書こうと思っていたら、みんな負けてしまった。広島ぐらいは残ると思っていたのがまさかの0−2という敗戦で万事休す。C大阪と川崎も第二戦では勝利したもののあと一歩というところだった。まあ、昨年よりはましだったので来年に期待したい。Jリーグ優先だから仕方ないのかもしれないが選手層が薄いということなのかもしれない。

さて、男子はW杯のメンバーが決まっていよいよ本番に向けてチーム力をアップしなくてはいけない。一方女子は来年のカナダのW杯のアジア予選を兼ねたアジアカップがベトナムで始まった。世界チャンピオンとしてはアジアでもトップをとらないといけない。意外にもまだアジアチャンピオンになっていないのだ。

昨日の初戦の相手が前回の覇者オーストラリアである。いきなり、強豪と当たるということでちょっと心配してたが、案の定立ち上がりは落ち着かないというか集中力に欠けた感じで、オーストラリアのペース。前半21分に中盤でボールを奪われるとそのままゴール前まで運ばれて、きれい左隅に決められる。それからも反撃を試みるが、イージーミスがあったり、パスが続かなかたりでちぐはぐな攻めになる。

どうも前線でのボールの収まりが悪く起点が作れないでいたので、34分に吉良に変えて大儀見を投入する。さすがチェルシーで活躍している彼女のポストプレーで徐々にリズムができる。後半に入ると、日本のペースになってボール支配率も高くなるが、逆にカウンターをくらいゴール前でキープされてそれを横に流されるとフリーの選手にわたり追加点を許す。

しかし、ペースは日本のものであったのでいくつかのチャンスをつかんでいるうちに後半26分に川澄の左サイド深く切り込んでのクロスがオウンゴールを誘い1点差に、さらに39分にはまたもや川澄のゴール前のセンターリングを大儀見がうまく合わせて同点にする。さらに勝ち越しを狙ったが時間がなくそのまま試合終了。

最初は負けを覚悟したがよく同点まで持っていったと思う。昨日は、常連のメンバー以外にも何人か出ていたが、結局は、岩清水、宮間、川澄、大儀見といったところが中心で彼女らだけで試合をつくっているという印象だ。やはり、まだ世代交代がうまくできていないようだ。フレッシュで刺激を与えるような若手が出てこないと(楢本期待)、来年のワールドカップは危ないかもしれない。それでもこの大会は優勝することがノルマである。ガンバレなでしこ。
  

2014年5月21日

クラウドからAIへ

ITの世界の注目技術はいまやめまぐるしく入れ替わる。技術とは呼べないバズワードのようなものから非常に大きなインパクトを与えるものまで多くの技術が登場している。現状の筆頭はクラウドであろう。これもなんだかんだと言われながらもだいぶ浸透してきて、ある領域では当たり前になってきている。さて、そのあとには何が来るのだろうか。

「クラウドからAIへ」(小林雅一著 朝日新書)はそれをAIだと言っている。AIとはArtificial Intelligenceのことで日本語で人工知能なんて訳されている。ところで、このAI=人工知能という言葉は、今出てきたものでないことは若い人は知らないかもしれませんが、よく知られていることです。そういう意味では古くて新しい技術であると言えます。

その研究開発が始まったのは1950年ですから古いですよね。それから非常に持ち上げられ、期待されたたかと思うと、その反対にこんなもの使いものにならんと冷遇されたりの繰り返しでした。日本でも1980年代に「第五世代コンピューター計画」でも取り上げられています。ぼくもちょうどその頃ケミカルプラントの制御システムを担当していて、あるプロジェクトでAIを導入したことがあります。

それは当時エキスパートシステムと呼ばれたもので、専門家が持っている豊富な知識やノウハウをコンピューターに移植して高度な作業や制御をさせようというものでした。これで省力化や安全性の向上などが期待された。しかし、結果的には失敗でした。知能をどういうふうに表現するかというと基本はIf then elseです。つまり、デシジョンテーブルを読み込ませて、ある事象が起きたらそのテーブルに従って結果を出してガイドするというものです。

実際に適用したのがプラントの異常診断でした。異常というのはどこかの値が異常を示したから異常であるとは限らないことがあります。つまり、計器が不正確であったりして隠れてしまうことがあり、こうしたケースは大きなトラブルに発展することが多くあります。なので、ただ一つの指示値だけに頼らず関係する様々な数値を総合して、あるいは比較して異常の判断をさせたわけです。これはベテランのオペレーターは無意識のうちにやっていることなのです。

もちろん、効果はあったのですが、それが広がって行くことはありませんでした。なぜかというと、まずはスピードのも問題があります。If then elseを回しますから、当時のコンピュータ能力では時間がかかってしまうことです。それともうひとつは、考えられるロジックを固めてそれを動作させるわけですが、現実の問題として、人間というのはあいまいなことも含めてがちがちのロジカルで考えているわけではなかったのです。人工知能にはなれなかったのです。

ここらあたりはAIを考えるにあたり重要なことで、その後、こうした単純なもの限界が見えてきた時に新たに登場したのが確率・統計的な考え方を取り入れたAIでした。「ベイズ理論」を情報科学に応用した「ベイジアンネットワーク」と呼ばれるものです。いわゆる「確率的な推論」で、最初に適当に確率を決めて出発し、その後の実験や観測で正確な確率へ近づけるという手法です。GoogleなどのWebの世界でよく使われています。

ところが、それは本当のAIではないと言い張る人もいて論争もしています。そんなことやコンピュータと人間の将棋対決とか無人運転自動車などの話をしだすと紙数が尽きるのでやめておきますが、ぼくが思うにはAIと言うのは結局はUI(User Interface)の設計のことのような気がする。

このUIを研究する人たちに2つの学派がある。この2つの学派のそれぞれの言い分を聞いていると「機械と人間の関係」がどうなるのかの対立概念がわかるのでおもしろいのでここにあげておきましょう。

スタンフォード人工知能研究所のジョン・マッカーシー氏
「コンピュータは今後、急速に進化し、やがて人間に匹敵する。あるいはそれを凌ぐような知的能力を持つようになる。いずれ人間はコンピュタに「あれしろ、これしろ」と命令するだけで、あとはコンピュータがまるで召使かロボットのように人間の面倒をみてくれる」

スタンフォード研究所のダグラス・エンゲルバート氏
「機会が人間の面倒を見るというのは、現実離れしているし、本末転倒している。人間にとってコンピュータのような機械は一種のツールに過ぎない。ツールが進化することも重要だが、それと同時に人間もツールの進歩に適応する必要がある」

前者が「AI派」と言われるのに対して、後者は「IA(Intelligence Amplification)派」というのだそうだ。さて皆さんはどちらに与しますか。ぼくは、あくまでコンピュータは人間が使う道具でるとかねがね言っていますのでもちろん後者です。いずれにしろ、これから見えないという意味も含めて様々な形でAIと呼ばれる技術が浸透していくものと思われます。ほら、お宅のルンバモAIですよ。
  

クラウドからAIへ アップル、グーグル、フェイスブックの次なる主戦場 (朝日新書)
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2014年5月20日

WOOD JOB!(ウッジョブ)~神去なあなあ日常~

いま旬の原作とスタッフ、キャストを揃えた作品で成功を約束されたものだったかもしれない。「WOOD JOB!(ウッジョブ)~神去なあなあ日常~」は、原作が三浦しをんの同名の小説で、監督・脚本が「ウオーターボーイズ」「スイングガールズ」「ハッピーフライト」「ロボジー」の矢口史靖、主演が染谷将太、長澤まさみとくれば面白くなるに決まっている。予想通りおもしろかった。

この作品のテーマが林業である。ちゃらい高校生平野勇気(染谷将太)は、大学受験に失敗するが、ふと街角で見つけたパンフレットを見て興味を持つ。そこには三重県の山奥で行われる林業研修生の募集の案内であった。勇気はそのことよりパンフレットの表紙を飾っている美女に会えると思ったのである。

東京から遠く離れた地へ赴くのだが、日に数本しかない電車で付いたところでは携帯電話がつながらないのである。そこは神去(かむさり)村という林業を生業としている村であった。そこから、勇気の研修が始まる。しかし都会の生活しか知らない勇気にとっては見るもの聞くものやることすべてがとんでもないことで途中で帰りたくなってくる。

しかし、研修を終えて1年間の実習に入るのだが、そこの寄宿先の夫婦(伊藤英明、優香)や林業オーナー(光石研)そして何よりあの表紙の美女(長澤まさみ)たちに囲まれて徐々に溶け込んでいく。この間、ヒルにかまれたり、実際の伐採するシーンなどのエピソードが散りばめっれて、最後は壮大なお祭りが描かれる。

林業の実態はなかなかわからないから、興味深いシーンが出てくるとなるほどなと感心してしまう。おそらく過疎の村になってしまって深刻だと思うのだが、それをユーモアたっぷりに描いて見せる。ぼくは三重県に住んでいたので言葉もなんだか懐かしくて、また住んでいる人々のたくましさもうれしくなる。

都会の子が挫折して行き場を失って、田舎に逃げ込むというパターンはけっこうあって、「銀の匙」というのも似たような展開で、そっちは酪農に逃げ込むのだがこちらは林業ということになる。そのうち漁船に乗り込む映画が出てきそうだな。脚本がしっかりしてテンポがいい演出なので気持ちがいい。染谷将太と長澤まさみの好演が光る。(もちろん優香もいい)
 
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2014年5月27日

ブルージャスミン

ウディ・アレンももう80歳近いはずだが衰えを知らない。最近は「マッチ・ポイント」「恋のロンドン狂騒曲」「ミッドナイト・イン・パリ」といったヨーロッパを題材にした作品を多く手がけてきたが、「ブルージャスミン」は再びアメリカを舞台にしたものである。ただし、おなじみのニューヨークというわけではない。出てくることは出てくるのだがサンフランシスコが主たる舞台である。

かつてはニューヨークのセレブ世界では有名だったジャスミン(ケント・ブランシェット)は、金持ちの実業家だった夫ハル(アレック・ボールドウィン)とも別れ、財産もなくなってしまい落ちぶれた姿でサンフランシスコの空港に降り立つ。血はつながっていないが里子の姉妹として育った妹のジンジャー(サリー・ホーキンス)の家に転がり込むことになったのである。

ジンジャーは、シングルマザーでスーパーで働きながら子ども二人を育てている。いまだにセレブの生活に未練があるジャスミンにとっては、ジンジャーの庶民的な生活に合わせるのが面白くない。ジンジャーが付き合っている男どもも下品で性に合わないのだ。しかし、一文無しだから生活して行くには働きに出なくてはいけない。仕方なしに歯医者の受付などをやるのだが、その歯科医に言い寄られてやめてしまう。

こうして、過去の栄光を引きずったままのジャスミンはあまりのギャップに精神的にも壊れて行く。ところが、あるパーティで知り合った外交官に再び栄華を期待することになるのだが。という具合に、セレブに上り詰めた女性が、何も知らないうちに夫の浮気、事業の失敗などが起こり、気がつかいないうちに奈落におちていく悲劇である。そこで過去を捨て再出発すればいいものをその栄光が忘れられないのである。

ぼくは、そういう生活には無縁だからよくわからないけれど浮き沈みはあるのだろう。このヒロインをケント・ブランシェットが見事に演じている。やはり、アカデミー賞を筆頭に多くの主演女優賞を獲得したのもうなづける。彼女の映画をそれほど観てはいないが最高の演技だったのではないでしょうか。ぼくは、妹役のサリー・ホーキンスもよかったと思う。(アカデミー賞の助演女優賞にノミネートされていた)

この映画のおもしろさは、ウディ・アレンの会話術というのもあるのだが、"コントラストの妙"というのを感じた。最初に言ったように、ニューヨーク対サンフランシスコだとか、セレブ対庶民、過去対現在など対立的な要素を行き来しながら、人生の悲哀や本質、価値みたいなものを表現していておもしろかった。
  
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2014年5月18日

お酒の話2014.5

先日、銀座の行きつけの「M」で呑んでいたら、とある社長さんが数人を引き連れて店に入ってきた。同じ会社の人ばかりと思っていたら一人ちょっと異質な若者が混じっている。どうも歌舞伎俳優なのだという。それも、一般から募集して入ったらしい。女形ということでどことなく優美な感じがする。

その社長さんが注文したのが、「ウオッカマーティニー」である。ジンの代わりにウオッカを入れる。ちょうどその日は新宿で「ブルージャスミン」を観てきた時で、その映画でケント・ブランシェットが飲んでいたやつである。確か"ウオッカティーニ"と言っていたと思う。これは大人のカクテルですね。今度ぼくも飲んでみよう。

彼らの一団が帰るとすぐに、ぼくと同じくらいの男の人とその部下らしい若い男女のグループが入ってきてボックス席で何やら大きな声で話して出した。その同年輩の男の人が注文したのが「コークハイ」だった。一緒にいた若者は何のことかわからないようで、一生懸命説明していた。ウィスキーをコーラで割ったもので青春時代によく飲んだなあと言っている。

思わず、ぼくも割り込んでよく飲みましたねえ、それも安いウィスキーでと相槌を打つ。そうしたら急に昔のセピア色のシーンが蘇ってきた。このコークハイたるものを初めて口にしたのは、高校の卒業式のあとに仲のいい友達数人と藤沢駅前にあった喫茶店にたむろしたときのことである。卒業式が終わると何だか大人になったような気分で酒を飲みたくなったのだ。そして、そのときのおいしさと言ったらなかった。

それ以来すっかりコークハイのとりこになってしまった。街の喫茶店だけではなく、友達の家などでもウィスキーとコーラを買ってきて酒盛りをしたりした。それでもけっこう酔っ払うからひどい目にあったこともあった。よく飲んだ仲間にT君というのがいて両親が出かけていることが多いので彼の家で酔いながら熱く語ったりした。ところが、別々の大学に進学するとだんだんと疎遠になって行く。

そんなある日、友達からあいつ自殺しなんだってと聞かされる。一瞬何のことだかわからなかったが死んだことを知る。信じられなかった。コークハイを片手に語る姿がもう見ることができないと思うとやりきれない思いでいっぱいになった。だから、ぼくはコークハイと聞くといつも彼のことを思い出す。

それからというともはやコークハイから、レッドかホワイト、せいぜい角のウィスキーそのものに飲むものは移っていった。そして時々ハイボールを飲むのが粋であった。そのウィスキーもハイボールも影が薄くなって、いまや焼酎やワインが幅を効かせている。そこに復活したのが、ハイボールでありホッピーである。しかし、コークハイが復活することはおそらくないであろう。
  
ウイスキーと焼酎の話が出たので日本酒のことである。ぼくが最近よくいく店に「写楽」がある。ちょっと前にも初めてあった若者と3時まで呑んだ記事を書いたが、ここに来るといつも午前様になる。その後もその若者がくれた連絡先のメモがへたくそな字で判読できなかったので名刺を置きに行ったらまた午前2時だ。名前から探したFacebookにメッセージを入れたのに見ていないようだ。

ここは主人が仕込む日本酒の銘柄がありきたりのものではなく珍しいものも含めて豊富に揃っている。そして食べ物に合わせて選んでくれるからうれしい。しかし、最近ぼくが呑む酒が決まっている。「和田来」という酒である。山形県鶴岡の渡会酒造のものなので「わたらい」と読む。「田」からとられたお米を原料にした酒で「和み」がやって「来る」ことを願って命名されたという。ちょうどぼくが来るのを待っていてくれるというわけである。これは呑まないわけにはいかないでしょう。
 
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2014年5月22日

プロセス中心アプローチのフレームワーク(3)

前回までの議論でプロセス中心アプローチといってもいきなりプロセスを書けばいいというわけではなく、なぜプロセスが必要なのかという意味でビジネスモデルを起点として考えましょうというのがあります。そして、そこから課題を解決するために対象となるプロセスが特定され、そのプロセスを設計します。

プロセスの設計は最終的には日々のオペレーションで生かされますから、オペレーションをいかにうまくやれるように設計するかが大事になります。そして、オペレーションを実行するためのITシステムを作ることになりますが、それはいちいちプログラミングするのではなく既成のソフトウエアやツールを活用して、反復的に試作を繰り返しながら素早く組み上げようというのがこのアプローチの肝の考え方になります。

従って、大きくは、どんなビジネスモデルにするのか、どのようにデザインされてプロセスにするのか、すぐにオペレーションに供されるアプリケーションを作りあげるのかという3つのステージに分けることができます。そのそれぞれのステージで大きな括りのフレームワークがあります。そのフレームワークの中身は、主に目的、モデル・設定フォーム、構成要素から成り立っています。それと、それらをどういう手順で記述し、定義していくかとセットで考えていきます。つまり、モノとコトの組み合わせになるわけです。

だいぶ前置きが長くなりましたが、ここをよく理解しておくことが大切なのであえて繰り返して言っています。さて、最初はビジネスモデルになります。ビジネスモデルを記述することになりますが、なぜ記述するのでしょうか、記述する目的は何なのでしょうか。

どんな形態でビジネスを行うのかを戦略やビジョン・コンセプトから描いていきますが、結局それを記述する目的は「顧客の望む価値提案」ということになるのではないでしょうか。単に商品を用意してそれを販売するというだけでは、そのビジネスはいつかは消えてしまいます。顧客が買う価値があると思ってくれなくてはいけません。そうした価値を提案するのがビジネスモデルを描く目的になります。

次のモデル・設定フォームには型があります。「モデル構成」「要素モデル」「要素表」です。ビジネスモデルについては次の図のようになります。
  
ビジネスモデル構成.pngのサムネイル画像
 
ビジネス要素モデル.png
 
ビジネス要素表.png
 

2014年5月19日

なでしこW杯出場決める

ベトナムで行われている来年カナダで開催されるサッカー女子W杯予選でヨルダンに圧勝して出場を決めた。まずはおめでとうと言いたい。アジアカップと兼ねている大会で、予選リーグの最終戦は西アジア地区代表のヨルダンが相手である。まだまだ中東のチームの力は落ちるので勝利は当然であったが、結果的には7−0の大差となった。

初戦のオーストラリア戦で0−2からの劣勢を盛り返して引き分けに持ち込んだのがいい流れを生んだようで、第二戦は地元ベトナムのがんばりで前半のはじめは手こずってはいたが、次第に実力差が現れて前半終了間際に川澄の目の覚めるようなミドルシュートでそれこそチーム全体も目が覚める。

後半は日本のペースで追加点をあげ4−0で快勝する。それにしてもいくら地元とはいえベトナムの奮闘には驚いた。技術的にもけっこうなものでチームプレーもできていた。アジアのこうした国がレベルをあげてみなで切磋琢磨するといい。いつまでも、日中韓豪だけではない争いをみたいものだ。

最終戦のヨルダンにしても、ここまでできるとは予想していなかった。まあ日本人監督の下にサッカーのいろはを覚えたのだろう。中東も男子に負けないような力をつけてほしい。しかし、力の差は歴然として、ほとんど控え組の日本でも圧勝である。この試合、代表初出場とか初スタメンといった選手も多かったが、割とのびのびとやっていた。これが、強豪チームとの対戦でもできるかどうかだろう。

今なでしこリーグで首位を走る浦和レッズの選手が多かったが彼女らがなかなかいいパフォーマンスを発揮していた。後藤とか猶本などは今後期待できそうだ。どんどん経験を積んでいくことが大事であるのと、世界レベルのチーム内の選手の中で自分をアピールする押しを磨くことだろう。昨日の試合でも後半澤と大儀見を投入したのはそういった状況を佐々木監督は作ったのではないだろうか。

さて、次はアジアカップの準決勝である。ぜひ、ディフェンディングチャンピオンとしては、アジアを1位通過して本大会にはずみをつけてほしい。海外組の主力が欠場しているのでその代わりの選手の本当の力を見る絶好の機会なのでぜひがんばって新戦力の台頭を感じたいものだ。
  

2014年5月23日

劇的勝利

なでしこがAFCアジアカップ準決勝で中国相手に劇的な勝利を収める。まあ、しびれましたね。試合は予想されたように厳しい戦  いとなる。中国は、いつものとおり日本戦は眼の色を変えて戦って来るが、そこはワールドチャンピオンの日本は冷静に対応する。

今回の大会は国際Aマッチではないということから、海外で活躍する熊谷、安藤、近賀、大野といった面々が招集されなかったし、大儀見も予選リーグだけでイギリスに戻ってしまったから、戦略ダウンしているという見方があったが、確かに予選リーグ前半では、多少新しい選手のパフォーマンスも悪く、チームとしてもちぐはぐであったが、この試合ではレベルアップしているように思った。

川村、中島、高瀬、有吉、宇津木といった選手が入って来たのだが、みないい動きとテクニックを見せていた。川村なんか1試合ごとによくなっていたし、中島も空回りではない動きが多かった。また、宇津木がかなり泥臭いプレーが出来るようになって成長していた。やはり、アジアとはいえ厳しい海外での試合を経て力をつけて行くのだろう。

試合は、前半は若干日本が押し気味に進めるが両チーム無得点で終わる。後半に入ると、左サイド宮間、トップ下川澄の布陣を入れ替えて臨むと活性化して攻めこむ。そして、後半6分に宮間のコーナーキックを澤がニアには仕込んでヘッディングでコースと変えてゴールに放り込む。もう、ワールドカップのシーンを思いだしてしまった。

試合後の澤のコメントに驚く。「宮間からいいパスがきた」と言ったのである。コーナーキックをパスという表現をすることは、やはり宮間のキックの正確さを如実に表している。宮間は、コーナーキックを澤が走り込んだのに合わせてパスしたのである。

ところが、後半35分に中国が左サイドからクロスをあげたのが中島の手に当たりPKを献上する。これはちょっと可愛そうだった。手に当たったことは確かだが、もちろん意識的でもないし、ペナルティエリアの端っこで得点に近いシーンでもないのだから流すのもありかなと思った。レフリーの力量も問題である。最後のときもレッドカードを出すのを忘れていたしちょっとレフェリングが下手だった。

これで1−1の同点となり延長戦に突入する。もう両チームの選手も疲労困憊でくたくたになっている。そしてもうPK戦かと思われたときにまたもやコーナーキックから岩清水の頭にぴたりとあって決勝点をあげる。すごい試合であった。よくぞまあ最後の最後に点をとったと思う。なでしこは、精神力がつよいなあ。さて、25日が決勝である。相手は、予選リーグで引き分けたオーストラリアである。悲願の優勝を期待している。たぶん、大丈夫でしょう。
  


2014年5月24日

マレーナ

ぼくの映画友達が好きな女優はペネロペ・クルスとモニカ・ベルッチである。かたやスペイン出身でかたやイタリア出身ではあるが、その容貌と雰囲気が似たところがある。黒髪で色気たっぷりの濃い顔立ちは日本人好みなのかもしれない。もちろんぼくも好きな女優さんである。

そのモニカ・ベルッチが主演した「マレーナ」を観る。実はこの映画は2000年公開だったのだが、ぼくは少し映画から遠ざかっていたときでもあり知らなかった。ところが、先日女友達と飲んでいた時に感動した作品として紹介されたのである。ぼくは、基本的に女友達であれ男友達であれ、推薦された作品は観ることにしている。ちょっと前も呑み屋のマスターから紹介されたので今DVDを借りる手配をしている。

ストーリーはこうだ。時は第二次世界大戦のさなかでイタリアのシチリア島が舞台である。マレーナ(モニカ・ベルッチ)は、その妖艶な姿から街のセックス・シンボルとして男どもの興味の的であった。それは大人だけではなく、少年たちにとっても憧れの女であった。とりわけレナートは最初は追いかけ回す他の少年たちとは一線を画していたが、次第に彼女の虜になっていく。

もうストーカーまがいの行動をとるようになり、また妄想にふけるのであった。マレーナの夫は出征していたのだが、戦死の報が入る。そうなると、街の男たちも色めき立つのだが、レナートはマレーナの悲しみや純粋さを知ることになる。しかし、街の人々はそうしたマレーナの真の姿を知ることはできなかった。ひとりでは生きていけないために男に媚を売ってしまうマレーナを見て淫売のレッテルを貼ることで蔑みだすのである。

そうしたマレーナの姿を見続けるレナートは彼にとっては憧れでもあり、欲望の対象でもあり、天使でもあり、夢の中で彼女に誘惑されたりするのである。しかし、戦争も終わるとマレーナは街にいることはできずにひとり寂しく去って行ってしまうのである。それから数年して意外な事実に直面する。そして衝撃の結末を迎える。

ということで戦時下において女がひとりで生きていく困難や、大衆行動の怖さなどが描かれる。それと同時に年上の女性へのあこがれる少年の目を通して、そうした女性の生き方を語っていて、悲しい場面とかもさほどあるわけではなく、割と淡々と描いているのにじわっとあの時代の不条理を感じてしまう。モニカ・ベルッチの存在感はすごい。監督がジョゼッペ・トルナトーレ。
  
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2014年5月25日

世界は宗教で動いている

最近、世界ではきな臭いことも多くなってなにかと紛争が絶えない。そうした紛争に宗教が絡むことも多い。「世界は宗教で動いている」(橋爪大三郎著 光文社新書)は、「ビジネスマンなら、宗教を学びなさい」と呼びかけている。日本人にとってはそう言われてもと首をかしげる人が多いと思いますが、日本以外の国では、経済、政治、法律、社会生活など全部ひっくるめたものが「宗教」なのだという。

そこでこの本では学生に講義する形式で、ユダヤ教・キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教、儒教・道教、神道を順番に論じている。ぼくは、これまであまり宗教には興味がなかったのだが、これだけグローバル化してくると否応なしに関心を抱かざるを得ない。著者も言うように文明は宗教を核にして、その社会のまとまりを作ったという意味で人間の知的遺産である。従ってそこから学ぶことは現代を生きるものにとって大事なのだ。

いちいち説明するわけにはいかないので感じたことを少々。ぼくは正直なところ、キリスト教とユダヤ教の違い、そしてキリスト教のカトリックとプロテスタントの違いもよくわからないでいた。神父さんと牧師さんとか、独特のいでたちとか、皮相的なことは多少知っていても、その思考傾向とか政治に対するスタンスとか言ったものはほとんど考えてもいなかったので、なるほどなあと感心する。

面白そうだったのは「キリスト教はウオール街の強欲をどう考えるか」である。著者の言では「アメリカでは誰かがたくさん儲け、ほかのひとがあまり儲からなくても、神の意思だから甘受しなくてはいけないと考えます。市場には運、不運があるし、いろいろな事情や偶然で儲かる場合も、儲からない場合もある。それを含めて、市場は公正だとする信頼がある。大儲けしたひとは市場と神とによって祝福されたのであって、努力したかどうかは関係ないと考える」のだそうだ。おーそうか、日本人のメンタリティとちょっと違いますね。

ウオール街の話が出たついでに少しそれるかもしれませんが、イスラム銀行では利子をとらないという話です。全部が全部ではないのですが、湾岸沿には無利子銀行がたくさんあるそうです。そこに膨大なオイルマネーが預けられていますがなぜだというと欧米系の銀行だと、アルカイダなどに爆弾を投げつけられるからだそうだ。なるほど。

それから、インド、中国、日本といったアジアの宗教に話は及ぶのですが、これまたおもしろいはないがけっこうある。ヒンドゥー教とカースト制とかインドのあのターバン姿は誰なのかとか、インドで仏教が起こったのになくなったのはなぜかとか、中国という国って一体何かとかなるほどとうなってしまう。

読んでいて、やはり日本人というかぼくは一神教にはなじめないなあと思った。ということでキリスト教、仏教、神道の考え方の違いを。

「仏教は世界を因果律(輪廻の法則)が支配しているから、そこには責任者がいない。一神教の場合には、Godは自分が造ったこの世界に対して、責任と支配権をもっていて、世界はすべてGodの所有物であり、Godのコントロール下にあると考える。地震も津波もGodの承認をへて起こるのだ。一方神道ではこの世界は言うならば、多くのカミと人間の共同作業によって支えられているから、人間にも出番があり、責任もあると考える」。うーん、やっぱり・・・。
  

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2014年5月29日

イノベーションを支援するITシステム構築の極意(19)

さて、3番目の「個人作業からチームワークへ」というのをみていきましょう。仕事というものは、特に会社の中で行われるものはほとんどが全く個人で独立してやるものではなく、複数の人間が関わって行われます。だからこそ、会社には組織というものがあるわけです。

最近ではネットが発達したから組織に属さないノマドワーカーなんていう人種も現れてきていますが、彼らだって、というより彼らこそチームで仕事をやっています。ただ、それはルーティンワークというのではなくプロジェクト的な動きにはなっていますが、より密な関係性を維持することが重要になっているように思います。

むしろ、企業の中のほうが個人的な振る舞いが多いのではないでしょうか。昔はそういった状況をよく見かけました。サラリーマンでも職人的な人が多かったのです。しかしながらいまだに変わっていない会社も少なからずあるのではないでしょうか。

ですから、業務にITが入り込んできた時、そうした個人の仕事を助けることが目的になっていました。すなわち、個人の仕事、作業が楽になるように機械が代わりにやってあげるというためのツールがITというわけです。従って、そろばんをはじく代わりに数字を打てば計算してくれるものでした。そこでの必要な機能は早く、正確に、大量に処理することです。

ところが、これだけ年月も経るとそうした処理マシンとしてのITはかなり行き渡りました。では普及した結果どうなったのでしょうか。みな仕事をITがやってくれていますか。どうも、ある程度は自動化も進み、生産性も上がってきたとは思いますが、ITでできない仕事がまだまだあるのが現状ではないでしょうか。残った仕事はどんなものなのか、おそらく個人のルーティンワークではないようですね。

非定型で複数の人が関係して進めていくような仕事が残ったように思えます。これは、実は昔は「タバコ部屋」で行われたものです。たばこを吸いながら関係する人たちが"摺り合わせ"てものごとを決めていたのです。これは、インフォーマルの世界ですから、表に出てこないのでごく一部の人だけが知っているというクローズしたものになってしまっていました。

これからは、こうした隠れた意思決定を表に出して、組織の皆が知った上で仕事を進めていくオープンなものにしていく必要があります。そのために、ITはどう使ったらいいのかを真剣に考えていかなくてはいけません。つまり、チームとしてコラボレーションを行いながら進めていくイメージです。まさに、個人作業からチームワークへの転換が重要なパラダイムになるのです。
  

2014年5月30日

ぼくたちの家族

もう身につまされるというかリアル感が半端じゃなく押し寄せてくる映画だ。「ぼくたちの家族」は、「舟を編む」に引き続いていま注目の石井裕也が贈る家族の物語である。何といっても夫婦と男の子二人の設定からしてわが家とピッタリである。だから、出てくる様々なシチュエーションがどこかで見たこと感じたことなのである。

その家族は、小さな会社を経営しているが借金を抱えている頼りない父親(長塚京三)、父親の借金も知りながらも家を支えているが、サラ金に金を借りている母親(原田美枝子)、大きな会社に勤めて結婚もして妻は妊娠3ヶ月、かつて引きこもりで家族に迷惑をかけたことがある長男(妻夫木聡)、大学生で留年して小遣いを母親から無心する次男(池松壮亮)という4人である。

ローンで建てた家は都心から離れた郊外にあり、最寄り駅までの父親の送り迎えは母親が車で行っていて、子ども二人は家をでている。このあたりの設定もわが家に似ていないこともない。現代の典型的な家族形態だろう。そして、この4人はお互いに干渉しあうわけでもないのだが、ただ母親は次男をかわいがっているふうに見える。

そんなありふれた家族に異変が起こる。母親が記憶がなくなったりしたので医者に診てもらうと大きな脳腫瘍ができているという。もはやどうしようもない状態で余命一週間と告げられる。それがきっかけで、父親の借金、母親のサラ金、長男の妻との関係などが明らかになっていく。どうにか繕っていたほころびが一気に破れた感じである。
 
この病気を機にいろいろなことが噴き出してくるというのは、多かれ少なかれどこの家でもあるように思う。わが家でも、もう5年位前にヨメさんが子宮がんの宣告を受けた時も、幸い借金はなかったが、もしものことがあったらということ考えてはため息をついたし、逆に自分の父親がおかしくなった時に介護の問題が一気に浮上してきた。さて、そういった時に家族はどうするのだろうか。

映画は、頼りない父親、家庭と仕事に縛られる長男、学生の身分で調子のいい次男が動き出すのだ。母親を救うことに全力投球するのだ。その過程の中で徐々にお互いを理解するようになる。実は頼りになりそうもなかった次男が献身をするし、長男もかつて引きこもった姿はそこにはなく徐々にたくましくなり、父親もおろおろするだけではなく、しっかり考えだすのである。そして、奇跡が起こる。

秀逸なのは、母親の脳腫瘍で記憶が薄れるというのもあるが、無意識のうちに本音をいうことである。そこから、本音を隠した家族の実態が浮き彫りになるが、母親を救うために3人が徐々に本音をぶつけあうところで、家族が再生していく。この家族の喪失と再生というテーマはよく取り上げられるのだが、かなり激しいものが多いのだが、この作品では普通の家族はこんなものかもしれないということとか、ディテール、例えば大きな車のへこみ傷があるといった描写も手を抜いていないといったことも含めて、最初に言ったようなリアル感が非常によかった。また主演の4人がそれぞれの役を見事に演じてすばらしい。秀作である。
  
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2014年5月26日

なでしこ初優勝!

ついになでしこジャパンがアジアを制覇した。きのうベトナム・ハノイで行われたアジアカップ決勝でオーストラリアを1−0で破り、念願の初優勝を飾る。まずはおめでとう。世界王者が初優勝というのも意外なのだが、これまで中国やオーストラリアに阻まれてなかなか優勝できなかったのだ。

オーストラリアとは予選リーグの初戦で当たったが、0−2でリードされるがなんとか追いついて引き分けに持ち込んだ。その時の印象ではかなり押し込まれていたが、初戦の硬さが感じられたので次にあたればなんとかなるのではとは思っていた。しかし、あの時は劣勢だった状況を大儀見を投入することで打開したわけで、その大儀見が決勝ではイギリスに帰っていないという不安はあった。

先発は、ぼくの予想と全く同じで準決勝の中国戦と変わらないメンバーである。やはりあの試合で澤を入れて、宮間をトップ下という布陣が機能していたので当然の布陣である。だから、立ち上がりの不安定な時期に危ないシーンがいくつかあったものの、試合の主導権を握っていたのは日本であった。中盤を宮間、澤、坂口が支配していたので本来のスピードのあるパスサッカーができた。

前半28分にコーナーキックを得ると宮間がショートコーナーで宇津木にフィードするとダアイレクトでゴール前に上げたクロスを岩清水が頭で合わせて先制する。相手ディフェンスが大きいのでまともにCKを蹴っても無理なのでショートコーナーを使うことが多いのだが、そのパターンをちょっと変えて、だいぶ遠いところへ流した。これで、相手選手はボールウオッチャーになり、岩清水のヘッドが生まれた。日本は宮間がいるのでセットプレーは大きな武器になるなあ。

後半は、オーストラリアも攻勢をかけてきたがなんとか凌ぐとオーストラリアもさすがに息切れして日本も持ち直す。一進一退の攻防が続くうちにタイムアップ。日本の初優勝が決まる。最初の戦いよりも数段チームとしてのパオーマンスが向上していたので、相手もとまどったように思えた。

特に、中国戦の後も書いたが、W杯、五輪とだいたい固定されていたメンバーから、新たに替わって入った選手の成長が著しい。高瀬、川村、中島、有吉といったところが相当がんばった。高瀬も昨日はポストとしてボールを収めていたし、積極的にゴールを狙いに行っていた。川村は最初はオロオロしていたところもあったが昨日はもう落ちついて堂々としていた。中島、有吉のスタミナの発揮どころも無駄がなくなった。

これで、男子フットサルと女子サッカーのアジア制覇が続いたので今度は男子の世界制覇を実現してほしい。昨日は壮行会をやっていたがきっといい刺激になったのではないだろうか。何よりも、なでしこのあのあきらめない闘争心をぜひ見習ってほしいものである。
  

2014年5月28日

壮行試合に勝利

昨日埼玉スタジアムで行われたキリンチャレンジカップでサッカー日本代表はキプロス相手に1−0で勝利、まあ可もなく不可もなくブラジルW杯壮行試合を終えたという感じである。前回の南アW杯の壮行試合では韓国に0−2で敗れて、岡田監督の進退問題まで出たことを考えればまあまあだろう。

相手のキプロスは仮想ギリシャという設定ではもってこいだ。ギリシャ人がほとんどだしプレースタイルも似ている。フィジカルを生かした堅守速攻だ。だから、ボールの支配は日本で、ときどきボールを奪ったキプロスがカウンターを仕掛けるという展開。日本も合宿の疲れもあり動きが鈍いので、ミスやコンタクトで負けてボールを奪われるシーンが多かった。それでも無得点に抑えたのでよかったのではないだろうか。

得点は、前半終了間際にゴール前に持ち込んだボールを香川がシュートするもキーパーに阻まれるが混戦になったところを内田が詰めてシュート、そのまたこぼれてきてサイドシュートしてゴールネットをゆらす。その前にもゴール前で細かくつないで最後は本田にラストパス行くがシュートが弱くキーパーに取られたり、チャンスが何回かあるが不発に終わっていたのでほっとする。

結局、その1点が決勝点となったのだが、前半は言ったようにコンディションがよくないせいで動きが鈍かったが、後半は割といい動きも見せて連携もよくなった。昨日の試合は勝負というより、いろいろなことの確認のためという要素が大きい。確認することというのは、けが人の回復具合、所属チームで試合に出ていない本田や香川の試合勘、大久保の融合性などだろう。

けが人に関しては、内田、長谷部、吉田がそれぞれ45分出場したが、心配なさそうだ。本田と香川では本田のほうがちょっと気になるところである。昨日はほとんどいいところがないといったできで、持ち前のキープ力もキックも影を潜め心なしか元気もないように感じた。まあ、アメリカに行って気分転換すれば良くなると思うので期待しよう。

後半途中から柿谷に替わってワントップに起用された大久保は、ファーストタッチでシュートを打つなど積極的なプレーを見せたが、得点に絡むことはできなかった。いまいちまだなじみきれていないようだ。ただ、柿谷とちがうゴールに向かう果敢さがあるのでジョーカーとしての役割はあると思う。

さて、これから2週間ちょっとでW杯が開幕する。それまでに技術・体力・組織力・モチベーションをピークに持っていかなくてはいけない。コンデショニングが非常に重要なのでうまく持っていってほしい。その中でけが人の回復はいい方向だが、逆にこれからけが人が出てしまうのが怖い。昨日の試合で長友が足を痛めた風に見えたのでとても気になる。さあ、泣いても笑ってももう少しである。何としても初戦のコートジボアール戦には全力で当たって勝利してもらいたい。ガンバレ、ニッポン!
  

2014年5月31日

日常点描2014.5.31

昨日は久しぶりのフルタイム活動だった。朝8時には家を出る。午前中は東銀座であったあるセミナーに参加。ぼくがリーダになって行っているワーキンググループの成果発表があった。メンバーのひとりの若い子が発表したのだが、パワポのページめくりが飛んでしまいヒア汗。なんとか発表を済ませてほっとする。また、今年も継続してやることにする。

午後もセミナーがあるので昼は築地で寿司を食べて聴講しようと思ったのだが、内容がBCPとかいったリスクマネジメントのようなので、現在のぼくにはあまり関係がなさそうなので失礼する。さて、その後どうしようか。通常だと近くの映画館に向かう。三原橋の映画館は閉館してしまったのでシネチッタ銀座へ行く。しかし、時間がうまく合わないので映画は諦めて思案すると、ぱっとひらめいたのが寄席だ。そういえばいま、柳家小里ん師匠が浅草演芸ホールの夜の部の主任(トリ)を務めていたのを思い出した。

ということで、とりあえず浅草に向かう。寄席は昼の部から入れ替えなしだからずっといてもいいのだが、そんなに長くいるわけにもいかないので、少し仕事をすることにする。仕事といえばルノアールだから、この4月に開店したばかりの店でひとしきりパソコンに向かって資料作りを行う。

さて、夕食をどうするのか。演芸ホールの中でも酒も食事もできるのだが、おいしい弁当でもあるのかと探したが、なかなか見つからないので、早めに食事して入館することにする。で、昼が寿司だからということで「カツ吉」の味噌とんかつを食べる。味噌とんかつというと名古屋のミソカツとか関西のものなどは上から味噌をかけるのが普通だが、それとはちがい、味噌をつけた肉がころもの中に入っていてソースをかけずにそのまま食べる。うまいのだ。しっかり冷えたビールと冷酒をいただいて、演芸ホールへ。

入るとけっこうな入りのようだが一画が空席になっていたので座ろうとしたら団体席になっていた。この団体席はよしあしですね。あとからどこどこってきて小1時間いてさっと出ていってしまう。寄席は久しぶりだったが、曲芸やらものまねといった色物もおもしろかったし、若手から古参までの落語家の個性を楽しめた。さすが、小里ん師匠は最後をびしっと締めていた。

しかしながら、浅草で驚いたのはなんと外人が多いのかということである。あちこちからどこの国の言葉かわからない声が聞こえてくる。これから東京オリンピックに向けて多くの外国人がやってくるのだろう。浅草は日本らしさのシンボルタウンとして機能しているようだ。

9時過ぎに終わったので、酔いもさめたので飲んで帰ろうとも思ったが、地元で飲むことにして東京を出る。いつもの「写楽」に向かうが途中でなんとホタルに遭遇。近くを小さな川が流れているのだが、そこに十匹くらいのホタルが光っているではないか。ぼくらが子供の頃はすごい光の乱舞を見ることができたのだが最近はとんと見かけないでいた。「写楽」に来ていた若い女のお客さんはホタルを見たことがないと言っていた。

さて、またまたぼくのための酒「和田来」を飲んでマスタ夫妻としばしあれやこれやの会話を楽しむ。マスタと生まれた年と月が同じでしかも血液型もB型で同じということが判明、奥さんにやっぱりそうかと変なところで感心されてしまう。ということでまたもや家についたのが午前2時であった。ああ、疲れたけど楽しい充実の1日であった。
  

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