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2013年3月 アーカイブ

2013年3月 1日

シルバー川柳

今、高校の時の同級生たちと連歌というものをやっている。10数人がメンバーになっていて、連歌の起源に則って上の句(五七五)と下の句(七七)をそれぞれ別人が詠んでいくという遊びである。先日、ぼくの番になって次のような句とコメントをエントリーしたら意外とウケたのでこのブログでも書いておこうと思う。


「陽水と違っていても探しもの」

ちょっと川柳っぽくなってすみません。
というのも、昨日近くの老人ホームに入っている91歳になる母親のところに行ったら「お前これおもしろいから読んでみー」と渡されたのが「シルバー川柳」(ポプラ社)という本で、全国有料老人ホーム協会が主催し公募した中から選ばれた作品を載せたものである。これがおもしろいのだ。思わず吹き出しそうになる。

・誕生日 ローソク吹いて 立ちくらみ
・恋かなと 思っていたら 不整脈
・万歩計 半分以上 探しもの

といったもので笑っちゃいますね。この最後の句の歳とって探し回る姿に共感したので、こんな句を読んでみました。

井上陽水が1973年に「夢の中へ」という曲で

探しものは何ですか?
見つけにくいものですか?
カバンの中も つくえの中も
探したけれど見つからないのに

と歌ったのが頭に浮かんできました。最近、しょっちゅうあれは何処いったといっては探し回っています。3日前から机の上に置いたペーパーナイフが見つからない。不思議だ。
ああ、歌の最後が「墓の中に 墓の中に 行ってみたいと思いませんか?」に聞こえてきた。

ボケ防止のために川柳を考えるのもいいものだ。ぼくの母親のお気に入りのTV番組は「ペケポン川柳」である。だから、連歌でつなげていくのもボケ防止になっていると思うし、だんだんシルバー連歌調にはなってきているようだ。
 

2013年3月 2日

ブラック企業

最近、ブラック企業という言い方がよくされるようになった。もう3年くらい前になるが「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」という映画があって、そこではIT企業がやり玉にあがっていたが、まだ、ブラック企業というと悪徳金融やマルチ商法みたいなイメージがあったが、「ブラック企業 日本をくいつぶす妖怪」(今野晴貴著 文春新書)という本の中では、一般の大手企業でも「ブラック化」していることを書いている。

著者は、大学在学中に若者の労働相談を受け付けるNPO法人「POSSE」を立ち上げ、現在代表を務める。以来、1500件もの労働相談に関わってきた経験から「ブラック企業」という問題を提起している。ぼくは、ブラック企業というとタチの悪い一部の特殊な企業の問題だと漠然と考えていたが、この本を読んで目から鱗であった。そんな簡単な問題ではなく「社会問題としてのブラック企業」まで敷衍すべきものだということがわかった。

本の構成はこうなっている。
第Ⅰ部 個人的被害としてのブラック企業
第1章 ブラック企業の実態
第2章 若者を死に至らしめるブラック企業
第3章 ブラック企業のパターンと見分け方
第4章 ブラック企業の辞めさせる「技術」
第5章 ブラック企業から見を守る
第Ⅱ部 社会問題としてのブラック企業
第6章 ブラック企業が日本を食い潰す
第7章 日本型雇用が生み出したブラック企業の構造
第8章 ブラック企業への社会的対策

それぞれを簡単に追いかけてみよう。実態としては過去に相談にきた事例をベースに語られている。例は、徹底的な従属とハラスメントのIT企業、入社後も選抜と称してプレッシャーをかけ続ける超大手・優良衣料品販売会社である。要するに両者とも自社の成長のためなら、将来ある若い人材をいくらでも犠牲にして行くという姿勢である。社員を使い捨てるのである。

こうした企業に入った若者たちは過労死や自殺に追い込まれたり、鬱病になったりしていく。ここでは、ウエザーニュースや大庄、ワタミ、SHOP99といった実際に死者を出した企業について書いてあるが、ここでも、若者を交換可能な「物品」のように扱う姿がある。そんな状態では若者は「働き続ける」ことができないのである。

ブラック企業のパターンは、大量募集が前提で、そこから①選別、②使い捨て、③無秩序なのだという。月収を誇張したりして多くの採用を行い、入社してもすぐには正社員としては認めず選別を行っていき、使えるものだけを残し、その他はやめてもらう用にパワハラを行うのだ。また、長時間労働もいとわず使えるだけ使って辞めさせないということも行われる。そして職場崩壊が起きる。

おそらく、多くの人がそれは若者の覚悟がないとか、我慢が足りない、社会を甘く見てるんじゃないかとか、そんなになるならさっさと辞めればいいじゃないかといった意見を持つかもしれないが、著者の相談経験からいうと、そうした若者に共通しているのが自分が悪いのでないか、まだまだ努力が足りないのではないかと言うのだそうだ。また、さっさと辞めろと言われても辞めたとたんに生活保護を受ける身になる恐ろしさがあるという。

だから、単に昔風の今の若者はだらしないといった根性論では片付く問題ではない。問題の根っこには労働供給の過剰という社会情勢が大きく、企業側がそれにつけこんでいつも代替がきくのでやりたいことをやるという体質がある。それは、日本型雇用の悪用だとも言える。つまり、彼らの「強い命令権」というのは、従来は終身雇用と年功賃金と引き換えに労働者は許していたのだが、ブラック企業では単に「異常な命令」をする権利だけ残しているとも言える。それに対抗するには若者側も戦略的な思考が大事だと指摘している。

結局、こうした構造的な問題を解決しないとブラック企業の存在はなくならないのだろう。"ブラック"な行動が経済合理性を得ていること自体がおかしいわけで、そうした行動がデメリットになるという社会構造にしていくことなのだろう。そういう大きな問題を孕んでいることを知らせてくれただけでも有為でであった。非常にとくまとまった良書である。
 

ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪 (文春新書)
今野 晴貴
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2013年3月 5日

蜂蜜

「壇蜜」ではありません「蜂蜜」ですとボケてみても何も面白くはないのですが、というより全く対極にあるある映画である。第60回ベルリン国際映画祭において金熊賞を獲得した非常に格調高い映画なのである。トルコの代表的な監督のセミフ・カプランオール監督が演出している。ユスフ3部作の完結編として作られたものである。他の2作は、「ミルク」と「卵」である。

最初の「卵」は壮年期のユスフ、第二部作の「ミルク」は青年期を描いたもので、本作は少年期のものである。だから時系列的には反対で年齢が下がっていくように作られている。まだぼくは他の作品を観ていないので、逆にユスフがどう成長したのかが見たくなってきた。三部作を全部観ないと映画の良さが分からいないのかどうか知らないが興味があるところである。

ストーリーは、6歳になるユスフは森の中に養蜂家として生計を立てている両親とともに暮らしている。父親と森の奥に分け入りそこで過ごす時間が大好きな子であった。ある朝、夢を見たユスフは、父に「夢を人に聞かれてはいけない」と教えられたが、父にだけこっそりと夢をささやく。すると父は「その夢は誰にも話しちゃダメだ」とユスフに告げる。いったいどんな夢だったのか、他の2作を観るとわかるのだろうか。

学校では、まだ読み書きを学んでいるが、クラスメイトの前で教科書を読んでいると突然吃音になってしまい、うまく読むことができなくなり悩むのである。そんな日常としての親子の機微や学校生活が描かれる。ところが、ある日森の蜂が突然消えてしまう。父は蜂を求めて森の奥に行くのだが、それから家に戻ることはなかった。その日を境にユスフの口から言葉が発せられなくなる。

父親が帰ってこないことで母は徐々に憔悴するのだが、ユスフは母親を手伝いながらいつまでも戻らない父親を待ち続ける。少しずつ成長していくのである。といった展開なのだが、これが実に静かに静かに進行する。口数も少なくBGMも流れずゆったりとした時間が経過する。また舞台が幻想的な山々や森なので悠然とした趣が絵を見るように映ってくる。

今の日本映画なんかもそうなのだが、めまぐるしく動くシーンも多く、せわしない感じばかりであるが、この映画はほんとゆったりして、われわれの倍の時間をかけているようである。これはDVDを借りて見たのだが、こんなことをしては失礼なのだが、試しに倍速の早送りにしてみた。なんと全く違和感がなく観ることができたのだ。だから、現代社会のスピードがいかに早くなってしまったのか、なんて饒舌な人間関係なのか、それが幸せなのかどうか大いに考えさせられたのである。
 
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2013年3月 6日

プロセス中心アプローチを阻む壁(3)

これまで、プロセス中心アプローチを阻んでいるのはユーザサイドの組織風土だったり企業規模だったりについ考察してきたが、今回は提供側の問題を考えてみたいと思います。つまり、ユーザが業務改革や情報システムの導入といったプログラムを実行したいと思ったときに誰がそうした要求に的確に応えて提供できているのかという問題である。

そもそも、プロセス中心アプローチというのは、ビジネスの実相を捉えて、それが効率的であるいは顧客満足度を高めるような仕組みにし、実際にオペレーションして結果を出したいということから起こるものである。それは再三言っているようにITシステムを作ることだとは限らないということを忘れてはいけません。現状においてはここに問題が隠れているような気がします。

ITシステムを開発するためのSIerなりソフトハウスはいます。ITシステムを構成するソフトウエアを供給するITベンダーはいます。戦略を立案したり、業務分析をしたりするコンサルタントはいます。では、そういう人たちはプロセス中心アプローチで考えることができるでしょうか。残念ながら、ほとんどの人はそうではないように見受けられます。

ITシステムの開発というと、多くの場合は「データベースアプリケーション」を作ることをします。既存の帳票や画面からデータを捕捉してデータベースを設計します。そして、データの登録・検索・レポート出力を行う画面を作成します。ソフトウエアベンダーは、決められた機能を保有した「道具」を提供するだけで、それを使ってプロセスをオペレーションするという感覚ではありません。

一方、SWOT分析だとか、マイケル・ポーターの競争戦略といったようなことは、ビジネスモデル的であっても、その戦略をどうやって実現するのか、ルーティンとしてどう実行させて行くのかには興味ありません。また、業務分析というのも一見プロセス志向と思われがちですが、これは基本的には個人の作業レベルの話であって、業務量分析でありビジネスプロセスの分析とはちょっと違っています。しかも、現状分析が主体でToBe化も作業量の平準化といった切り口ですから、ビジネス要求をどう反映するのかという視点が欠乏しています。

こうして見ていくと、現状の供給サイドのコンセプトが旧態依然としたもので、ビジネスの環境とか、形態がかなり変わっているのに追随できていないように思います。そういうと、内部統制でちゃんと業務フローも書いてプロセス管理を徹底するようになったではないかという反論がきそうです。そうでしょうか。たしかに業務の手順などをきっちりと書き出したことはやられたと思いますが、多くの場合はただ文書化したというところでとどまっています。実際の、オペレーションに供さなければ意味がありません。

それよりも、もっと本質的なチェンジがあるように思います。それは守りから攻めです。つまり、間違ったことをしないように、正しい手順通りにやるためのプロセス管理から、いかに新規の顧客を獲得するのか、いかに顧客満足度を高めるのかというためのプロセス管理である。人間は間違えることがあるという前提に立つこと、そして何かを生み出すためのプロセス管理である。そうした考え方でユーザに提案できるところがどれだけあるでしょうか。

だから、供給サイドの変革が求められているわけです。そのためのポテンシャルを持った人として、ITコーディネータとビジネスアナリストに期待しています。ただ、今のままでは物足りないので、ITシステムを導入するためのITCではなく、ITを道具として提案できるITCになること、分析するところで終わるのではなく動かすまで面倒をみるビジネスアナリストです。こうした人たちが出現すれば壁は越えられるかもしれない。
  

2013年3月 4日

ビジネスサービスのつくり方 - 第3章 設計

■ いきなりToBeを書く

プロセス設計というと普通は現状分析をしてAsIsとして書き出して、それをいろいろな角度から分析して、見直しをして、変えるところを見つけ出し追加・削除・変更を施してToBeにする。これって、ちょっと変だと思いませんか。AsIsに問題があるから、直そうとしているのにAsIsをベースにしているわけです。そこでは、どうしても現在の延長線すなわち連続的な思考になり、少なくともイノベーティブなものは出てきそうもないですよね。

だから、そんなことをする必要があるのかということです。もちろん、業務プロセスは現状にないわけではなく、現にビジネスをやっている限りどんな企業でも必ずあります。それならその業務プロセスがAsIsではないのかという指摘もあろうかと思います。問題は、ほとんどの場合、AsIsのプロセスを書いていますといっても業務分析、作業手順になってしまっているから意味がないと言っているのです。

業務体系表に従って、組織のそして個人のタスクを書き出すわけです。それって、組織や人の仕事を解析するのであって、改革とかビジネスモデル変更要求引き出しとかいった動きとは別です。重要なのは、今やっている事業にとってどういう業務プロセスだとビジネスの要請から持ち込まれる要求を実現できるかである。設計とは、そういった業務プロセスを設計することです。

ですから、設計アプローチは現状がどうのというよりToBeをいきなり設計するという感じにならざるを得ないのです。つまり、これも何度も言っているのですが、組織と人から離れて、かつITシステとも無関係に俯瞰的な目線で書き出しましょうと言っているわけで、そうなるとほぼ必要なプロセスは決まってきます。このプロセス(まだフローを主体にしたもの)はすでにToBeというわけです。

さらに、そのプロセスに必要な要素を当てはめていくことで全体としてのToBeになります。ただ、ここで気をつけなくてはいけないのが、ToBeのレベルのことである。本当に理想的なものといったら技術的に難しかったり、リソースが不足していたりということは往々にしてありますし、経済合理性がない場合もあります。ですから、ToBeという言い方がよくないのかもしれません。ベストは難しいのです。

会社の成熟度に応じた、その時点で採れる最適な形態をToBeというふうに定義したほうがよいと思う。現有する経営資源のもとで当該ビジネスの執行にもっともよい業務プロセスを現状からではなく、ビジネス起点で書いてみるというのが最も簡潔で分かり安いアプローチだと思うのです。いきなりToBeを書こうというよりも、ビジネス起点で書き出すと自ずとToBeを書く事と同じになってしまうと言ったほうが適切なのかもしれませんね。
 


2013年3月 3日

球春

今日は3月3日はお雛さまの節句だ。今年はもう3月だというのに寒い。それに花粉症になってしまったので、目も鼻もムズムズでけっこう辛い日々が続いている。そうは言っても春は訪れてきて、庭の梅の木のつぼみがほころび始めている。昨日は、野球のWBCとサカーJリーグが開幕した。

WBCの方はダイジェストだけ見たのだが、1次ラウンドA組でブラジル相手に大苦戦。かろうじて逆転し5―3で薄氷の勝利。戦前の予想では楽勝と思っていただけにちょっとした驚きだ。まあ、こうした大会の初戦というのは、格上が苦戦するのはよくあることで負けないでよかった。お隣韓国はなんとオランダに0-5の零敗という結果だ。日本の第2戦は今日、中国との戦いになるがぜひ快勝して勢いをつけてほしい。

さて、Jリーグが開幕だ。昨年は広島が優勝して、先日のゼロックススーパーカップでも柏を破っているので本命は広島だという人も多い。その広島はホームに浦和を迎えての開幕戦だ。広島は昨年のメンバーから森脇が抜けたが、さしたる補強はしていないのでほぼ現有勢力の底上げで臨む。一方の浦和は、その森脇をはじめ、鹿島から興梠、仙台から関口、柏から那須といったようにいい補強をしている。

そういえば、以前では柏木、槙野と広島から浦和への移籍が目立つ。昨日の試合でも移籍組3人がボールを持つとブーイングが発せられていた。浦和の監督が元広島のペトロビッチだからこういうことになるのだと思うが、監督と選手の相性というものもあるので、それそれでいいことだと思う。変に干されて腐るより、自分を活かしてくれるところへ移るのはごく自然である。

前半は、浦和のペースで進む。全体のバランスや連動性が昨年と比べて格段によくなっている。このところ3バックのチームが増えているそうだが、浦和もこのシフトであるが、永田、槙野、森脇がかなり機能していた。広島の得点も森崎(浩)の絶妙フリーキックだからいたしかたない。昨年の得点王の佐藤寿人をほぼ完璧に押さえ込んでいたので、いいチームに仕上がっている証拠だ。

まだ、開幕戦の1試合しか見てないのだが、今年の浦和はやりそうな気配十分である。昨年優勝したからといっても、次もというわけにはいかないのが今のJリーグである。ひょっとすると広島でも下位争いに回るかもしれない。欧州のように上位グループが固定されているのと、絶えず混戦模様のJリーグとどっちが良いかは何とも言えないのだが、どうもACLでの日本勢の戦いを見る限りにおいては、地域チャンピオンズリーグと混戦の国内リーグの併行戦はきついということは言えそうだ。
 
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2013年3月 7日

「ボケて」が本になりました

うちの社長がCTOを務めるオモロキという会社が提供する「ボケて」というサイトがありますが、今や非常多くのユーザを抱える人気サイトとなっています。昨年にはスマホアプリ版もリリースされ、そこでのダウンロード数も多くご存知の方もいらっしゃると思います。その「ボケて」が本になりました。3月2日に発売になっていますので、書店で並んでいるのをみかけると思いますのでぜひご購入してみてください。

実は以前にも出版されたのですが、いわゆるコンビニ本として出ていましたのであまり知られていなかったのではないかと思います。今回は一般書店で売られるような単行本になっていて、推薦文を板尾創路が書いてくれています。一昨日も桜木町の紀伊国屋に行ったらサブカルチャーの棚に5冊くらい並んでいました。

何しろ、500万ボケの中から243作品が選別されているのでおもしろいことこの上ないといったところで、見ているとつい吹き出してしまいます。ぼくは笑いの効用というものを高く評価していて、先日もこのブログでシルバー川柳を紹介しましたが、頬の筋肉を緩めるのも健康によいと思うし、仲間同士のコミュニケーションにも役立つのではないでしょうか。
  

写真で一言 ボケて
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2013年3月11日

コンピュータはあくまで道具である

常日頃、コンピュータに使われるのではなく、コンピュータと競争するのではなく、あくまで人間が主体的に道具として使うことだといっている。ところが、どんどん仕事がコンピュータに置き換わっていくので、そのうち単純労働はおろか何もかもがコンピュータで出来てしまうのかもしれないないように思ってしまうこともある。

将棋でプロ棋士がコンピュータに負けたとか、人間と同じようなことができるロボットができたというような話を聞くとそうかもしれないと思いそうになる。しかし一方で、人間の行動や思考は機械的にはいかないものであり、実際の生活や仕事でも単に機械的ではない熱意とか信頼とか好き嫌いといった感情を伴ったような行為は残ると思う。だから、いくらコンピュータががんばっても、創造的な仕事と肉体労働は残り、問題はその中間的な部分が置き換わり二極化すると言われている。

そんなことを考えていたら、また酒井穣さんのブログに触発された。「人間から、コンピュータを引き算する未来」というタイトルで「機械と競争」という本を紹介している。そこでは、コンピュータがどんどん人間の働く場を奪っているのは確かだが、そう悲観することはなく、どうしても人間に勝てないところがあると言っています。"近代社会では、感情は理性の奴隷であるべきでした。これが終わり、僕たちは「感情の世紀」に向かおうとしているのかもしれません"と表現していますが、それをチェスでのコンピュータと人間の戦いの例で紹介しています。

1997年、人間最高のチェスの名手であるガルリ・カスパロスはIBMが1000万ドルを投じて開発したスーパーコンピュータ「ディープブルー」に敗れた話はみなさんご存知だと思います。さて今はどうなっているのかですが、試合が「フリースタイル」になっているのだという。フリースタイルというのは、人間、コンピュータ、人間+コンピュータの三パターンの戦いになったということである。さて、どれが一番強いのか、本にはこう書いてあるそうだ。

「優勝者は、アメリカ人のアマチュアプレーヤー2人と3台のコンピュータで編成されたチームだった。 2人はコンピュータを操作して学習させる能力に長けており、これが決め手になったと考えられる。対戦相手にはチェスのグランドマスターもいたし、もっと強 力なコンピュータを持つチームもいたが、すべて退けた。(中略)[弱い人間+マシン+よりよいプロセス]の組み合わせが、一台の強力なマシンに勝った。さらに驚いたことに、[強い人間+マシン+お粗末なプロセス]の組み合わせをも打ち負かしたのだ」

実におもしろい結果だと思いませんか。「弱い人間+マシン+よりよいプロセス」という組み合わせというのが示唆的ですよね。このプロセスというのが具体的に何を指すのか判然としないのですが、アマチュアプレーヤー2人はコンピュータを操作して学習させる能力に長けていると言っているのでCBR (Case-based reasoning)のような技術に優れていて、それを活かすプロセスができていたのではないでしょうか。(酒井さんの言う 「コンピュータを学習させる力」とは、人間からコンピュータを引き算して残るもの、すなわち人間の感情なのではないでしょうか)とはちょっと違うのですが)

つまり、弱い人間というのがミソで、へたに専門能力を持たない方がよいのである。おそらく、専門家はどうしても自分の知識や経験のフレームから抜けられないから硬直的である。戦いは相手があることだから、硬直的では直ぐに見破られてしまうわけで、機に敏な柔軟性こそ重要なのである。少し手前味噌で言うと、プロセス志向では、業務に精通する人でなくてもプロセスが書けるというのも同じようなことを言っているわけである。

このパターンは、チェスだけでなく経済のどのシーンでも有効である。医療、法律、金融、小売り、製造、そして科学的発見においてさえ、競争に勝つカギはマシンを敵に回すことではなく、味方に付けることなのだ。
  

2013年3月 8日

草原の椅子

遠くの地に旅するのは何かを発見するというよりも何かを捨てることでもある。過去の自分を見つめ直して、再生する決心をする機会でもあるような気がする。宮本輝の原作小説を映画化した「草原の椅子」はそんなことを考えさせられた映画であった。宮本輝は、阪神・淡路大震災で被災したのをきっかけにシルクロードを旅したことを題材に書いたものであり、その中で描かれるパキスタンのフンザというところに出かける4人が主人公である。

その4人とは、バツイチで大学生の娘がいる50歳になるサラリーマン遠間憲太郎(佐藤浩市)、彼の取引先で同い年のカメラ販売店の社長冨樫(西村雅彦)、遠間が街で見かけて通い始める骨董店のオーナーの篠原貴志子(吉瀬美智子)、母親から虐待を受けて心に傷を負ってしまった幼い少年圭輔である。それぞれが、最初は何も強い関係がないのだが、知り合ってから惹かれるように関係が深まっていく。

彼ら結ぶ糸は、遠間がかつて世話をしたことがあった写真家が持ってきたパキスタン・フンザの写真集である。そこには、雄大な自然とそこに暮らす人々の姿が写し出されていた。みなその写真に魅入られていく。そして実際の行ってみたい衝動にかられでかけてしまう。映画では、冒頭にそのフンザで4人が楽しんでいる様子が映しだされ、なぜ関係のなさそうな4人がそこにいるかを振り返るという構成である。

中心には遠間がいて、彼は会社でも主要なポストについていて、部下と上司に挟まれてストレスが溜まっている。家に帰ると娘の動向が気になる。男がいないのかといって後をつけたりする。そんな娘がバイト先の上司の息子圭輔の世話をしだす。圭輔は母親からの虐待で、なかなか心を開けないでいる。

一方、ある夜いきなり取引先のカメラ店の社長である冨樫が灯油を頭からかぶったので助けてくれと電話してくる。どうも、浮気相手ともめたらしい。また、冨樫は東京から撤退することを考えていた。そんなふうにその年頃によくあるように、何かと厄介事が紛れ込んでくるのである。

まあ、男はつらいよといった趣で、そんな時にはマドンナが必ず現れるもので、それが骨董屋の女主人貴志子である。独身だという彼女に遠間はぞっこんとなる。貴志子は旧家に嫁いだのだが子供ができず、いたたまれなく家を出たのだという。こうして、4人が結びついていき、吸い寄せられるようにフンザへと旅立つのである。

フンザというのはパキスタンの北西部に位置して、その景色の素晴らしさから「桃源郷」と呼ばれることもある。なので、その景色を非常に楽しみにしていたのだが、その割には映像があまり冴えなくてがっかりだった。冴えないといえば、圭輔役の子役がイマイチで星から生まれた子とか言うのだが、もうちょっといい子役はいなかったのだろうか。

劇的ではなく、むしろ日常的で、どこにでもいそうな人々なのだが、それぞれに悩み、悶えているわけで、それをずっと引きずっていくのではなくどこかでたち切りたいといった思いは誰でも持つだろう。それを映画にも出てくるのだが安易に「絆」という言葉で表さないところがよかった。そうなんです、フツーの人にとってちょっとした非日常性の中でリセットするんでしょうね。最後に出てくる長老が「正しいことを繰り返すことだ」という。しっとりとしたいい映画です。
 
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2013年3月 9日

チームの時代

つくづくチームの時代になってきたと思う。これまでのパラダイムの延長ではビジネスにおけるチームというと固定された組織の中で、プロジェクト的な仕事ができた時に結成されると考えられている。研究開発なんていうのは長期プロジェクトだから、常時チームで動いている。しかし、これはあくまで既成組織のなかで、どうやったらプロジェクト進行がうまくできるかという観点である。ところが、現在は会社の枠を超えたチーム編成も多くなっているように思う。

チームというのはある目標に向かってメンバーを集めてそれぞれに役割分を負わせて成果をだすような形態である。ただ、みな同じではなくいくつかのタイプがある。チームというとスポーツの世界が典型なのでそれで見ていくと、サッカーで例えると、学校サッカー、Jリーグ、日本代表といったチームを考えてみる。もちろん、3つとも勝利を目指すということには変わりないのだが、戦術の組み立てに差が生じてくる。

学校サッカーでは、毎年メンバーが入れ替わるということと、教育的指導要素がどうしても入るというのが特徴的である。ですから、毎年入学してくる生徒の能力に応じて戦術も変えて行かなくてはいけないし、技術だけで選抜するわけにもいかないといった側面を持ち合わせている。なので、このケースは外して、Jリーグと代表を比較するとおもしろい。

Jリーグでは、そんなにメンバーが入れ替わるわけではないので、だいたい固定されたメンバーで戦うわけなので、おのずと選手の特性を生かすような戦術となる。フォワードに背の高い選手がいたら、ゴール前にロングボールを放り込むなんて戦術になるかもしれない。一方で、代表チームは、監督の戦術を実行するために適した選手をピックアップする。

トルシエだったら、ジーコだったら、オシムだったらというふうに選ばれるメンバーもまた、監督の色を持った選手となる。オシムが、ジェフ千葉の選手の多くを代表に招集したことをご記憶の方も多いと思います。ザッケローニもしかりである。つまり、メンバーに戦術を合わせるのか、逆に戦術にメンバーを合わせるのかという違いが生じる。少し、こじつけ的な言い方になるが、グローバルで国を背負って戦うには後者のようなチームでないと戦えないのである。

さらに、飛躍するかもしれないが、ビジネスの世界でも代表選手を集めてドリームチームを作るような動きが多くなるような気がする。現にぼくの周りの若者たちには軽々と現帰属組織を飛び越えて、社外の人とコラボレーションをしている人たちも増えてきている。得意分野を持った子たちが、補完関係を形成できるメンバーとつながってチームを編成してビジネスを展開するといった動きである。

一律的な集合はチームと呼べないと思う。イケメンチーム、美女チームはチームではない。異質のスキルやパフォーマンスを組み合わせて大きなパワーにすることがチーム力の重要な態様である。そこのインターフェースの取り方が最近のネットの世界のサービスなどによりとりやすくなったこともそのことを助長している。軽やかなアジリティを武器にさくさくとさばく姿をみると若者のリテラシーの高さに驚かされる。

こうしたチーム力によるグローバル化がこれからの日本を救う道かもしれない。そのために最も必要なものは何かというとぼくは「オープン性」だと思う。ところが、既成の日本企業はまだまだ閉鎖的というか、属人性すなわち個人プレーを評価する風潮が色濃く残っている。

先日もあるセミナーで、ぼくが推奨しているプロセス志向の実践ツールである「kintone」の紹介をサイボウズの人がしたのだが、その時の質問に「個人が秘蔵するExcel情報などをさらけ出すことが必要だ」といった話をしたことに対して、オープンにするとやりにくいのではないのかというのがあったが、もはや、そんなことを言っている暇がないほど日本企業の遅れは致命的になりかねないのだが。

おそらく、大企業の人たちの多くがこうした感覚があるように思う。ところが中小企業の人たちの危機感の方がはるか先に行っていて、それぞれの会社の得意分野を活かすようなアライアンスを検討しているところもある。ぼくも、そうした画策のお手伝いをしようと思っているが、そこではどうしたら強い「チーム力」を形成できるかということが重要なテーマになってくだろう。
  

2013年3月16日

辞める覚悟、辞めない責任

ちょっと前に「日本型リーダーはなぜ失敗するのか」という本の書評を書いたが、結局あの戦争で敗北に導いたのは、これぞというリーダーが不在だったことが大きかったことです。なぜそうなったのかは日露戦争に遡ります。日露戦争の奇跡とも言える輝かしい栄光を引きずってしまったことがそもそもの始まりだったのだ。そこで、参謀まかせの「太っ腹リーダー像」が生み出されたわけです。これはいまだに残っていて、細かいことは言わない、良きにはからえ的なリーダーの存在である。

そうした日本型のリーダーシップを改めるべく、本来あるべきリーダーとしての条件が本には提示されていたが、ここで取り上げるのは「焦点に位置せよ」ということについてである。上に立つものは自分が絶えずどこに位置しているのか明確にせよということなのだが、「われここにあり」という好例として戦争終結という難しい時期に陸軍大臣として内閣にいた阿南惟幾のことが書かれている。

本土決戦を主張する軍の動きを「われ陸相として内閣にあり」を貫き通します。「不服なものは俺の屍を乗り越えて行け」とまで言う。結局、鈴木貫太郎内閣の閣僚として職責を全うし、その上で敗軍の将として責任をとって自決する道を選ぶ。著者の半藤一利は、もしあの時の陸軍大臣が阿南惟幾ではなかったら日本の敗戦はもっと悲惨なことになっただろうと賛辞を贈っている。

さて、ここからがかなり飛躍する。いま話題の日銀総裁、副総裁人事のことである。国会で承認されたようだが、この間国会の衆議院議院運営委員会で総裁候補の黒田東彦氏、副総裁候補の岩田規久男氏、中曽宏氏から所信聴取があったが、その中で注目するのは、学習院大学教授でもある岩田規久男氏の発言である。曰く、「2%の物価安定目標を達成することは日銀の義務であり、達成できないときの最大の責任の取り方は辞職することだ」と述べたという。

この発言の受け止め方はどうなっているのかはよくわからない。2%の物価安定目標を達成が出来るかどうかという評価でははなく、責任の取り方のことで、ひょっとするとその潔い物言いがウケて立派だなあということになっているのだろうか。先に言ったように阿南陸相の辞めないという責任の取り方との対比を考えさせられたのである。よく、行くも地獄、戻るも地獄と行ったりするように、辞めるべきか留まるべきか非常に難しい局面が訪れることが必ず出てきそうである。(ぼくの見立てでは、目標の2%の達成は難しそうだし、もしできたとしても副作用がきついと思っているからである)

このことは、日銀といったような大きな組織でのはないだけではなく、もっと低いレベル、例えばあるプロジェクトのリーダーをまかされたのだが、そのプロジェクトがうまくいかなくなった時とかも、レベルの差はあっても同じように悩ましい問題にぶち当たる。そのとき放り出してしまうのか、あるいは粘るのかはどうやって決めたらようのだろうか。簡単に直ぐに辞めたとなると、そんな無責任だとなるし、粘ったことで停滞がひどくなって早く辞めてくれとなる。

もちろん、答えはちょうどいいタイミングということになるのだが、それでは答えにならないのだが、言うのは難しい。ただ、大事なことは継続性への留意だとぼくは思う。つまり、辞めた後の手当なしでさっと去られても困るのである。本人はそれでいいのかもしれないが、リーダーシップによって動かされている世の中の人、あるいは内部的には部下やメンバーたちにとっては捨てられたことになるからである。新たな金融政策により混乱して、その後始末も放り投げて辞めるなんてことがないようにしてもらいたいものだ。
 

2013年3月10日

日本型リーダーはなぜ失敗するのか

戦争に関して多くの著作があり、その中でも指導者たちの振る舞いにも精通している半藤一利の「日本型リーダーはなぜ失敗するのか」(文春新書)を読む。ちょっと前にもそのものずばりの「リーダーシップ」(山内昌之著 新潮新書)を読んだが、日本におけるリーダーシップが注目される時なのかもしれない。山内のものは古今東西広い範囲に及んでいるが、半藤のものは日本という国のリーダーシップ、とりわけ太平洋戦争に焦点を当てている。

おそらく両作とも、3.11(そういえば早いもので明日で2年が過ぎたことになる)における日本のリーダーたちのていたらくを見て書いたのであろう。山内の本では、はっきりと「民主党リーダーの置き土産」と題して、鳩山、小沢、菅を槍玉に上げているが、こちらでは後口上で述べているだけで、中味は戦時のリーダシップについて語っている。しかしながら、今でも当てはまるのだから失敗する「日本型リーダー」はいつの時代にもいるのだろう。

日本型リーダー像の源流は西南戦争にあるという。西郷軍に対抗するために政府軍を派遣することになるのだが、その時の「総督」は有栖川宮である。参謀長に山県有朋がつく。つまり、総大将はおごそかな権威さえあればよく、実質的なリーダーは参謀長および幕僚が担ったのである。これが日本型リーダーシップの発祥である。それは、ひとことで言うと「参謀が大事だ」ということになる。ということで、陸軍大学校と海軍大学校が創設されたのである。

お神輿に担がれているだけのリーダーとそれを補佐する参謀が大事なのだという考えた方が悲劇を生むことになる。そこでは責任と権限が非常に曖昧になるわけである。そして、この軍のエリート中のエリートである参謀を教育するのがまたおかしなことになっている。ほとんどが軍略の教育に明け暮れたのだという。つまり、国際情勢だとか国際法、経理といったような軍政についての教育がほとんどされていない。だから結局、軍事オタクの養成機関でしかなかったのである。これじゃあ、負けるのが必定である。これって、何となく官僚とか、大企業のエリートたちの状況と似てなくもない。

こうして育てられた参謀のタイプには「書記官型」「分身型」「独立型」「準指揮官型」「長期構想型」「政略担当型」の6つがあるそうだ。こうしてみると本来あるべき姿からかけ離れた存在である気がします。ではその本来の姿とは何かについて著者は、3つの条件を提示しています。ひとつは、指揮官の頭脳を補うことができること、2番目が、部隊の末端まで方針を徹底させること、最後は、将来の推移を察知する能力を有することである。

こうしたことは何も軍隊だけではなく政治やビジネスの世界、あるいはスポーツの世界でも通用するものであろう。ここら辺までは、日本型リーダーというよりも、日本型リーダーシップの発現形態といった趣で論じられているが、そこからは、担がれたお神輿ではなく真に上に立って指揮する人のリーダーシップが語られる。

リーダーたるものの条件を上げている。
(1) 最大の仕事は決断にある
(2) 明確な目標を示せ
(3) 焦点に位置せよ
(4) 情報は確実に捉えよ
(5) 規格化された理論にすがるな
(6) 部下には最大限の任務の遂行を求めよ

登場するリーダーたちは度々登場するおなじみの人々である。山本五十六から小沢治三郎、阿南惟幾、山口多聞、栗林忠道、栗田健男、宮崎繁三郎らである。彼らがそれぞれの条件に対してどう対処したのかが書かれているが、まさにこのことも現代にも通用する戒めでもある。3.11でもそうだったように、決められない政治、参謀(官僚)任せの行政、意思決定の遅い企業経営者などもっともっと太平洋戦争の教訓から学んで欲しいものだと強く思うのである。
  

日本型リーダーはなぜ失敗するのか (文春新書)
半藤 一利
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2013年3月13日

ジャンゴ 繋がれざる者

さすがタランティーノのだ。「ジャンゴ 繋がれざる者」はおもしろい。クエンティン・タランティーノ監督というのはほんとに映画が好きなんだなあと改めて思う。脚本も自分で書いていて、今年度のアカデミー賞とゴールデン・グローブ賞の脚本賞を受賞している。面目躍如といったところである。そうだ、この作品に出演しているクリストファ・ヴァルツが同じように両賞で助演男優賞に輝いている。確かに脚本とヴァルツの存在が光っている。

まだ南北戦争が始まる前の1858年、舞台はアメリカ南部である。奴隷ジャンゴ(ジェイミー・フォックス)は、賞金稼ぎのドイツ人の元歯医者キング・シュルツ(クリストフ・ヴァルツ)と出会う。ジャンゴはキングとともに指名手配犯を捕まえながら賞金を稼ぎ、拳銃の腕もあげ凄腕のガンマンになっている。また、奴隷市場で生き別れとなった妻のブルームヒルダ(ケリー・ワシントン)を探していた。

そのブルームヒルダはカルヴィン・キャンディ(レオナルド・ディカプリオ)が営むキャンディランドという農園にいることをつきとめる。農園主であるカルヴィンは、奴隷を戦わせては楽しむという極悪の男である。そこから、愛する妻を救うべくジャンゴとキングは知恵を絞って挑んでいく。二人の計略がうまく生きそうになったが、これまた悪党の黒人執事に見破られてしまい、そうなるともう大立ち回りにするしかない。

簡単にあらすじを言うとこうなのだが、そこに様々な仕掛けが施してあるのがタランティーノ流である。黒人奴隷が賞金稼ぎのガンマンになるなんて想像がつきますか。まあ奴隷ではなくフリーマンになるのだが、それは単に奴隷という立場から解放されるというくらいしか思いつかないのが、さらに腕利き拳銃使いだからたまげる。それと、カルヴィンに仕える黒人の執事がジャンゴを敵に回すのである。奴隷制度とか白人と黒人の対立といった通俗的な描き方ではなくアッと驚く。

いつものようにハチャメチャで残酷でこれでもかと人が殺されるアクションもタランティーノワールド全開である。これって、普通にやられるとちょっとやり過ぎとか残忍性が強くてやばいんじゃないとなるのだが、彼の映画だと不思議とそういった感じがないのである。なぜだろうか。おそらくどうせ遊びですよ、一緒にお祭りしましょうよといった感覚を共有できるからではないだろうか。

最初に言ったクリストファ・ヴァルツもさることながら、主演のジャンゴに扮したジェイミー・フォックスの熱演やあのレオナルド・ディカプリオが悪党を演じて様になっているなど出演者もタランティーノの世界を楽しんでいるかのようである。

ジャンゴというのは、マカロニ・ウエスタンの「続・荒野の用心棒」から採ったものだが、このときのジャンゴを演じたのが、フランコ・ネロである。多分、彼へのオマージュの映画でもある。まさに、本作はマカロニ・ウエスタンそのものである。
  
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2013年3月12日

「ビジネスをプロセスとして捉える」

昨日は、田町にある東工大のCIC(キャンパスイノベーションセンター)で行われたシンポジウム「ビジネスをプロセスとして捉える」にでかける。主催が「科研費基礎研究A「ひと」のつながりを重視したビジネスプロセスのモデル化」研究グループで、代表者は東工大の飯島淳一教授である。経営情報学会や日本BPM協会などが協賛して告知もしたので出席者も多くほぼ満席であった。途中で東日本大震災の犠牲者を悼んで黙祷も行った。

演題と講演者は次です。
・ 「ひと」のつながりを重視したビジネスプロセスのモデル化・・・飯島教授
・ Enterprise Engineering in practice ・・・Martin Op'tLndアントワープ大学教授
・ 「ひと」のつながりを測る変数群・・・妹尾大 東工大准教授
・ 「ひと」はなぜビジネスプロセスを嫌うか・・・末松千尋 京都大学教授

初めの2つはDEMO(Design&Engineering Methodology for Organization)という理論についての発表である。この理論については本ブログでも何度か取り上げたので読んだ方もいるかと思いますが、Ontologyという概念に基づいて開発されたもので、オントロジーというのは、企業 活動を捉えるとき、従来のような仕事のつながりを重視することから 人間的な側面を見ていこうというもので、観測可能な表層の下に隠れた深層構造があり、もっとそこに焦点をあてる考え方である。

ここでは詳しい理論の説明はしませんが、ぼくが今推進しているプロセス中心アプローチとの関連でお話します。飯島先生は、DEMOへつなげるためにビジネスをプロセスとして捉えることの重要性を強調していました。ビジネスプロセス志向性が高いと、部門間連結が進み、機能間コンフリクトがなくなり、組織内に一体感が生まれ、企業業績が向上すると報告していました。さらに、仕事をプロセスとして見るだけではイノベーションにつながらなくて、重要なのはプロセス管理や評価をきちんとやることだとも言っています。

また、BPMを二つの観点から比較していて、すなわち「しごと」のつながりを重視した"リエンジニアリング"と「ひと」のつながりを重視した"リデザイン"である。前者は、活動の仕方が詳細で実装の表現となっているのに対して、後者は、意思決定や新たな価値の創造だけにフォーカスするデザインの表現である。後者が大事なのだが、ぼくがプロセスとは意思決定の連鎖であると言っていることに符号すると思う。

Martin Op'tLnd教授は、DEMOの創始者であるオランダのデルフト工科大学のJan Dietz名誉教授の下で学んだ人で社会人から研究者に転身したので実践的な発表であった。ただ、飯島先生が前フリである程度の説明はされたとはいえ、難しい理論の説明も含めて1時間ぐらいだったのでほとんどの人は分からなかったのではないうだろうか。ぼくは、3年ほど前のセミナーでJan Dietz教授の話を直接聞いていたので大体は理解できたが初めてだと相当きついだろう。

ただ、ちょっと残念だったのは、事例が3年前と全く同じであったことで、まあ典型だからということだろうと思うのだが、最新のものが聞きたかった。それと、前回もそうだったのだが、その事例が、「ビザの宅配」「レンタカー」と「Air FranceとKLMのアライアンス」なのだ。これでは両極端だと思いませんか。かたや、単純なリクエストに対するトランザクションに対して、かたや企業関連携というレベルや範囲もだいぶ違うのである。一般の企業ではその中間的なプロセスがほとんどなのだからそういった事例を取り上げてもらいたい。

後半の二つでは、妹尾准教授が「ひとのつながりに関する3つの変数」ということで、「外部連携」「内部連携」「協力と信頼」をあげて、それぞれの特徴とか位置づけや変数の測定方法などについて論考していた。そして組織の吸収能力(新しい価値や外部情報を認識して吸収し、商業目的に応用する企業の能力)と外部連携と内部連携が密接な関係にあることを指摘していた。

最後の末松教授は、ビジネス・プロセスに対する拒絶の背景ということで、「有効なモデルの抽出と設計の能力」(がないこと)「目に見えない資産としての認識」(が弱い)「間接費に対する誤解(直接コストの弊害)」「ユーザ視点(設計・マーケティング)」(がない)、「既得権の利害調整」(が大変だ)などを上げていた。ぼくもそう思うし、おそらく問題点の所在はだれも同じような認識であろう。それをどうするかという処方箋が難しいのである。

それよりもおもしろかったのは、末松先生は今会議技術と業績の相関について研究しているとのことで、会議スコア(どうやって出すのかは教えてくれていないが)が高いほど業績指数も高いことを明らかにしていた。そのとき、どういう会議がそのスコアが高くなるかについて、"プロセスの中に会議があること""議論がプロセス的である"ことだそうだ。このことは、ぼくも日頃まずはプロセスがあって、そこでの個人の役割やコミュニケーション、情報参照などが従属すると言っているので大いに共感したのである。
  

2013年3月14日

ビジネスサービスのつくり方 - 第3章 設計

■ いったい何を定義したら設計されたことになるのか

こうした議論で設計というといわゆるITシステムの設計というふうに捉えられがちである。そうなると、(1)要件定義 (2)外部設計 (3)内部設計とか、あるいは(2)(3)を概要設計、詳細設計と呼んだりします。まずシステム要件を定義して、それに従って、システム機能設計、具体的には、画面設計、帳票(レポート)設計、データベース設計などを行い、そこで決まった機能をプログラムレベルに落とした設計を行うというわけです。

ところがここでは、"ビジネスサービスの提供プロセス"を設計することですから、ITシステム設計とは異なることがおわかりになるとい思います。画面や帳票、データベースを設計することはもちろん必要ですが、それは一部といった側面しかないように思えます。この章の最初に言ったようにサービスとは「提供者が受給者の望む状態変化を引き起こす行為」であるから、そのための構造や機能を設計することになります。

つまり、"受給者の望む"ことが何なのか、そのリクエストに対して、どうやって応えていくのか、その結果として"受給者が満足してくれる"かという一連のプロセスを設計することが大事なのです。しかも、それはただ格好を作るだけではなく継続的に使い続けることを考慮したものでなければいけないのです。そうなると、プロセスをオペレーションするために必要な機能から発想したらどうでしょうか。これも一種の要件定義ですが、システムにとっての要件ではなく、サービス提供プロセスとしての要件ということになります。

それは何度も書いていますが次なようなものになります。
①ビジネス活動(プロセス)の進捗がわかること
②意思決定(データ確定・判断)に必要な参照情報を得られること
③コミュニケーションをしながら意思決定が行えること
④プロセス全体と単位意思決定の責任者が明確になっていること
⑤パフォーマンスの状況がわかり対応アクションがとれること
⑥オペレーションの結果がアーカイブされて、次に生かされること

これらは、サービスを提供するプロセスの機能概要ということになります。次にこうした要求機能を実現するためにプロセスを構成する要素が必要になってきます。プロセスというのは、始点と終点があってその間に複数のアクティビティがあるもので、アクティビティというのは単位意思決定を伴うものです。単位意思決定というのはさらに具体的に言うと、データを確定すること(文書も含む)、判断をすることです。

さて標題の「いったい何を定義したら設計されたことになるのか」ということになりますが、まずはコアで必須の要素である「確定するデータは何か、どんな判断をするのか」を定義します。プロセス設計というと順序性を重視してフローの定義を一生懸命しますが、サービスプロセスはそれほど厳密ではなくてもかまいません。サービスの順番ってきちっと決められたものではありませんよね。お客さんによっては順番を変えたりすることもあるからです。ですから、おおよその順番で並べておきます。

次に、各アクティビティ(単位意思決定=データ確定・判断)で必要なプロセス要素を定義します。「付帯登録情報」「業務ルール」「参照情報」「ロール」「パフォーマンス管理指標」「分岐先・連携先」といったものになります。この段階でIT的な設計がないのがおわかりだと思いますが、基本的にはプログラミングしてスクラッチで開発することは考えていないからです。つまり、市販ソフトウエアを利用するのでそこに内包している機能を使えばよいからです。
 

2013年3月15日

「kintone」がすごい

サイボウズの「kintone」がバージョンアップした。かなり大きな変更もあってずいぶんと機能が向上した。その主な追加機能を列挙してみる。

・ グループ内での連絡に使用する機能(スペース機能)
・ kintoneのユーザー同士の連絡や、アイデアなどの共有に使用する機能(ピープル機能)
・ Excelブック形式、またはCSV形式のファイルを読み込んでアプリを作成する機能。
・ JavaScriptファイルを読み込んで、アプリの表示や動作をカスタマイズする機能。
・ フィールドをグループ化して、グループ内のフィールドの表示/非表示を切り替えられるようにする機能。
・ フォームに配置できるフィールドの種類に、ほかのフィールドの数値や時刻を基に計算する機能を持つ「計算」フィールドを追加。
・ フォームに配置できるフィールドの種類に、ほかのフィールドの数値や時刻を基に計算する機能を持つ「計算」フィールドを追加。
・ 指定したフィールドの日付を基準にして、レコードの一覧をカレンダー形式で表示する機能。
・ アプリのコメント欄に宛先を指定して書き込む機能。(メンション機能)
・ ファイルから読み込んでレコードを登録/更新する際に必要だった、アプリのフィールドとファイルの列をマッピングする作業を自動化。

といったところでしょうか。元々どんな仕様なのかを説明していないのでバージョンアップした機能がどうのという評価はできないかもしれませんので、個々の機能というよりコンセプト的な変化について見ていきます。追加機能で特徴的なのは、よりSNS的になってきたこと、Excel連携のやりやすさ、JavaScriptでカスタマイズできるようになったこと、そしてフィールドのグループ化あたりですね。

スペースというのは会議室という使い方ができ、ピープルやメンション機能というのは上司や同僚とのコミュニケーションがやりやすくなるわけで、プロセスオペレーションというのは人を中心とした調整行為が大事な位置を占めるので有効な機能となります。これにレコードの一覧をカレンダー形式で表示できるようになったことを加えて、グルーウエアの要素がだいぶ入り込んだ感じです。もう、グループウエアは不要になるかもしれませんね。グループウエアというのは基本的には個人の生産性を上げるためのツールですが、個人の仕事というのはプロセスの一端を占めるものでなくてはいけないわけで、そういう意味で非常に良いことだと思います。

Excel連携とかマッピングの自動化やJSでの記述など外部との連携もやりやすくなりました。kintoneのコンセプトはコア部分にはあまり機能を装備させないであくまでもシンプルに置いておいて、付加機能や連携機能はAPIを用意しておいて外付けにする(それもサードパーティやユーザ自身でやる)という考え方なのでこうなります。SOA的な思想ですよね。非常によいコンセプトです。何でもできるように一つのツールに埋め込むのは却って融通性を損なうことになってしまうのでこうした疎結合は歓迎です。

ぼくが今回のバージョンアップで最もうれしかったのは、「フィールドをグループ化して、グループ内のフィールドの表示/非表示を切り替えられるようにする機能」です。ぼくの方法論ではWebデータベース上にプロセスを表現するわけですから、どうしても縦長になってしまいます。そうなるといちいちスクロールしなくてはいけなくて視認性に難がありました。ですから、その解決に今回のフィールドグループという概念と折りたたみ機能が非常に役に立つわけです。

プロセスにおけるアクティビティをフィールドグループとして記述することによってプロセスが一望でき、各アクティビティのデータ登録、閲覧が指定するフィールドグループを開け閉めすることで個別設定ができるようになるのでとても扱いやすくなります。また、その上部に各アクティビティ(フィールドグループ)のステータスを登録・表示できるようにしておくとさらに管理しやすくなります。

ということで、ぼくが以前から欲しいと思っていた機能がだいぶ実装されてきて、プロセスオペレーションのプラットフォームとしてますます進化してきています。kintoneはすばらしい。(別にサイボウズ社からお金をもらっているわけではありませんが(笑))ぜひ使ってみてください。
 


2013年3月17日

インターミッション

銀座の真ん中に何とも不思議な空間がある。銀座四丁目交差点から晴海通りを歌舞伎座の方に向かい、三原橋交差点のちょっと手前にある地下街である。これがまた奇妙なのだ。階段を降りるともう昭和の匂いがプンプンするレトロ感満載の場所である。かつて、三十間川という川が流れていたのだが、昭和20年代に戦災で壊れたときの瓦礫を処分するために皮を埋め立てたそうで、そのあとに商店街ができたのだという。

そこに「銀座シネパトス」という映画館がある。映画館は昭和42年にできたのだが、昭和63年に現在の名前になった。3館あるうち1館が今では少なくなった「名画座」で昔懐かしい映画をやっていた。日活ロマンポルノなどB級、C級の邦画を上映していてその筋の映画ファンにとっては名の知れた映画館であった。ぼくも何回か足を運んでいた。
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この映画館は、今はやりのシネコンのようにデジタルでなくフィルムを回すというのもあるのだが、何といっても映画館の下を走る地下鉄の走る音である。もちろん上映中でもおかまいなしにゴーゴーという電車のの音がお尻に響いいてくる。名物といったらそうかもしれないが初めての人はびっくりする。

ところがその映画館が今月末で閉館になるという。だいぶ古いので耐震性の問題等で東京都から立ち退き命令がでているのそうだ。四半世紀続いた映画館がついになくなってしまう。地下にもぐるとタイムスリップしたような感覚も味わえなくなってしまう。まあ、しょうがないのだろうがさびしい限りである。

その銀座シネパトスで「インターミッション」を観る。何と舞台がこの映画館なのある。映画とシネパトスを愛する映画人が集結して最後のロードショー作品を作ってしまったのだ。監督が樋口尚文で、この人は初めての劇場映画の演出である。ただ、映画評論とかCM作家でもあって、さらにシネパトスで多くのトークショーをプロデュースしている。なおインターミッションという意味は、長編映画の時の間に入れる休憩のことである。

映画は、取り壊しが決まった名画座の銀座シネパトスを舞台に、映画の休憩時間に交わされる会話劇によるブラックコメディである。映画館の関係者が狂言回し的な役回りとなって、多彩なゲストのような人々が休憩の時間におしゃべりが展開される。それを映画のタイトルとつなぎ合わせるといった趣向である。ただ、ここに登場する昔の映画がかなりマニアックで知っている人が少ない作品ばかりなのでちょっと興ざめのところもある。

映画館の関係者ということで支配人のクミコ(秋吉久美子)と年下の夫ショウタ(染谷将太)がいて、それにもぎりのお姉さん(佐伯日菜子)と映写技師(奥野瑛太)が登場する。そこに、観客として、香川京子、小山明子、水野久美、竹中直人、佐野史郎など登場するすべての面々が出色だ。ぼく的には、ひし美ゆり子と畑中葉子の組み合わせとと大瀬康一と古谷敏が繰り広げる月光仮面とウルトラマンの話とか、中丸新将と中丸シオン親子に絡む森下悠里のハチャメチャさがよかったなあ。

舞台となっている映画館でその映画を観ると奇妙な感覚になる。だって、いま座っているところに映画で女優さんが座っているわけなのだ。しかも、入るときに通った階段や切符売り場、酒場もそのまま映っているから、これまた変な気がする。こんな映画は初めてだ。映画が好きで、こんな猥雑な映画館も好きだという人にとってはたまらない一作である。(そうでない人にとっては単なるマスターベーションじゃないかと言われそうだ)

「映画って何でもありなんだよ!」
  
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2013年3月18日

彼岸の入り

昨日は、お彼岸の入りということで墓参りに行く。わが家の墓は鎌倉の材木座にある妙長寺というお寺にある。日蓮宗のお寺で1299年(正安元年)の創建で、日蓮が伊豆流罪の際、いわゆる「伊豆法難」の時に日蓮の命を救った漁師「舟守弥三郎」の子の日実が開山したという。

埼玉に住む姉夫婦も来たので老人ホームに入っている母親を連れてでかける。せっかくみんな集まるということで墓参りのあと食事することになった。なので、4時半ころに行ってそのあと5時半から早めに食べることにする。いつもお彼岸だと何人かは訪れているのだが、さすがそんな時間にはだれもいなくて、住職ひとりが見回っていた。挨拶をして花を手向け線香をあげたのだが、住職に愛想がない。

そして、帰ろうとすると山門で小僧さんが待ち構えて挨拶をしてくれた。なかなか丁寧だなと思ったら何のことはないぼくらが出ると門をさっと閉めてしまった。そうなのである。時間が遅いのだ。そんな時間に行っては行けなかった。そういえば本堂も閉じられていた。そうか、住職はさっさと帰れと合図していたのだと合点がいく。

ヨメさんが、ちょっと前にテレビで鎌倉特集があって(最近やたら多いですね。近場でコンテンツが豊富だからでしょうね)、そこで杉本寺に行こうとしたら夕方の明るいうちだったのにもう閉まっていてタレントさんが引きあげていったという話をする。そんならもっと早く言ってよねと言う。お寺のサイクルは普通の人よりずっと早く回っているんですね。

さて、早めの夕食は近くのすき焼き屋に行ったのだが、91歳になる母親の健啖ぶりにびっくりする。普段は老人ホームのあっさり老人食だから肉を食べたかったという。霜降りの肉をぺろりと平らげさらに寿司も食べ、なおかつご飯もぼくから奪うという暴れぶり。これでは当分母親のお墓参りはなさそうだ。
 
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2013年3月19日

長嶋的、野村的

とかくヒーローを俎上にした比較はよくやられる。古くは信長的、秀吉的、家康的といったものもある。それをスポーツの世界で見てみたのが「長嶋的、野村的」(青島健太著 PHP新書)である。もちろん、長島の直感と野村の論理である。さてどっちが強いのか。ただ、二人の比較はそれほど紙数を割いているわけではない。野球界に限らず他のスポーツ選手も含めて多くのプレーヤーが取り上げられている。

サブタイトルでは直感と論理となっているが本文では野生と知性の対決となっている。野生の達人として登場するのが、イチロー、青木宣親、浅田真央、青木功で、知性の達人が宮里藍、丸山茂樹、小宮山悟、石川遼である。ちょっと意外な感じがしないわけではないですね。登場しているのが野球とゴルフとあとはフィギュアスケートだから、スポーツの種類に影響されるような気もする。

つまり、野生では野球の選手が多く、知性ではゴルフの選手が多いことからも言えて、野球というスポーツは個人スポーツで個性を前面に押し出すというか、攻めが基本なのである。フィギュアスケートもそうでしょう。それに対して、ゴルフも個人スポーツであることは変わりないのだが、守りである。個性もあるようでない。だって、正確にホールまで刻むことだけだから、型にはめることが重要なのである。野球のピッチャーも似たようなところがある。従って、知性派というか理詰めというか、野生を殺すことが必要なのであろう。

あとの章になると、「臨機応変」「リーダの資質」「個性を磨く」「ゾーンへ」といったテーマになって、あれえ、長嶋的と野村的、野生と知性の話はどこに行ったのだろうとなる。結局、こうした話では最後はバランスですねみたいなことになる。臨機応変というのもこのことで、状況に応じて野生と知性を使い分ける必要があるということになる。

初めに書いたように野球とゴルフの選手が多く出てくる。著者は元プロ野球選手だからいたし方ないのだが、それならそれで野球に関しての長嶋対野村という構図を徹底的に追求したほうが良かったのではないだろうか。王はどうなのとか落合ってどっちよ、野手と投手の違いはといったような設定で掘り下げてほしかったなあ。

スポーツに関するエピソード集のような形になってしまっているのだが、内容的にはそう驚くようなことでもなく、ほとんど知っているようなものなのでインパクトがない。浜チャンのテレビ番組の方がおもしろい。スポーツというのは書く題材の宝庫でもあるが、事実の方がおもしろいのでそれを超えるような書き手が少ないように感じる。もっと、スポーツライターが多く出てきて欲しいものだ。
 

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2013年3月20日

SEって何?(1)

年明けからITProに馬場史郎さんが「SEマネージャーよ逞しくなれ!」というタイトルで毎月記事を書いている。最初のサブタイトルが「日本のSEはこれで良いのか」で次が「なぜ、体制図や人月の提示と技術偏重の風潮が変わらないのか」、3回目の今月が「SEが変わればIT企業のビジネスが伸びる」というものである。馬場史郎さんといえば泣く子も黙るSEのカリスマですが、かなりの違和感を抱いたのでそのことについて少し書いてみようと思う。

▐ SEが抱える問題とは?
ご存知のようにSE(システムエンジニア)というのは和製英語で海外では使われていません。ということは、日本特有の職種でもあるわけです。おそらく、ハードウエア主体の時にそのマシンを使いこなすために技術者を張り付かせたところからではないかと思う。ですから、お客さんがどんなことをしたいかを聞きだし(実態はこんなことができますからやりましょうよと言ったのではないでしょうか)、それをプログラム開発のための仕様を書くことが主な仕事だったようだ。

その後、多重下請け構造化していく中で、そうした外注を管理することまでやるようになった。また、ネットワーク化とかそれに伴うセキュリティ管理といったインフラ系もカバーすることにもなってきて、ずいぶんと範囲も広がってきた。それと急速にIT技術の進化があり、それを取り込むことに汲々となる場面も増えてきたのである。ただ、基本的には、顧客のシステム化の要求に対してどういうソリューションがよいのかを選定し、プロジェクトを起こし、実際に動かすまでをサポートするのが仕事になっている。

そんなSEたちの現在の状況を馬場さんは次のように言っている。

日本の多くのSEは、IT技術に偏重気味でビジネス意識に乏しく視野が狭い。また、仕事に対して受身で営業や顧客などと壁を作りがちだ。そして、往々にし「営業は無理ばかり言う。IT技術も知らない。だからSEは困っている。会社はSEを分かっていない」などと言ってフラストレーションをためている。程度の差はあってもどこのIT企業のSEも大体こんな状況であろう。

そして、このことはずっと以前から変わらない問題でいっこうに解決できてないという。むしろ昔より悪くなっているとも指摘する。SEがいろいろな問題を抱えているうちは、情報化の進化やIT企業の発展・成長はないのではとも言っている。確かに状況としてはそうなのかもしれないのだが、これを嘆いているだけでよいのだろうかというのがそもそもの疑問なのである。

なぜか。まずは何十年も同じ問題を抱えていても解決できていないということは状況認識とか問題設定が間違っているのではないでしょうか。ITの世界は時間軸、空間軸からみてもものすごい勢いで変化しています。また同様にビジネスの世界も激しく動いています。つまり、取り巻く環境が以前とは全くと言っていいほど違うわけです。何を言いたいかというと環境が変化しているのに問題認識が変わらないということ自体がおかしいと思うのです。環境が変わるということは価値観も変わるわけで悪かったものが良くなったり、その逆もあるからである。
 

2013年3月21日

愛、アムール

第65回カンヌ国際映画祭で、最高賞にあたるパルムドールに輝いた作品で、米国アカデミー賞でも作品賞、監督賞、主演女優賞、脚本賞、外国語映画賞にノミネートされ、外国語映画賞を受賞している。「愛、アムール」は、音楽家同士の老夫婦の物語である。監督がミヒャエル・ハネケ、老夫婦役を演じるのが、ジャン=ルイ・トランティ二ャンとエマニュアル・リヴァである。

病気で倒れ体が不自由になった妻を夫が献身的に介護するという筋立てである。音楽家である夫妻は妻アンヌの弟子の演奏会に出かけるが、その翌日朝食を取っている時に夫ジョルジュは妻に異変が起きたことを知る。おそらく脳卒中であると思うが病院に運ばれるが手術もうまくいかず車椅子の生活になる。病院に入院するとか。施設に入ればよいのだがアンヌは頑なに拒否する。ジョルジュはそんな妻を自宅で介護することになる。

娘や管理人夫妻も心配して見守りながらジョルジュの献身は続くのであるが、雇ったヘルパーからも見放されるとともに、アンヌの容態も徐々に衰えていく。さすがに労体を鞭打って支えるジョルジュも疲れが見えてくるのだ。もう二人きりの世界へと閉じていく。そして、過去の思い出に浸りながら夫はあることを決断する。

要するに老老介護の映画である。高齢化社会の先進国である日本ではこうした状況はいたるところで起こっている。むしろもっと悲惨な現状がときどきニュースになったりしているわけで、だからそこのところに焦点を当てて社会的映画だと思ってはいけないと思う。タイトルにあるように崇高な夫婦の愛の物語なのだ。病に侵される妻の衰えに夫が変わらぬ愛を貫き通すという夫婦の姿をジャン=ルイ・トランティ二ャ ンとエマニュアル・リヴァのみごとな演技で表現していることに感動する。

ぼくは、この映画を見て数日後、高校・大学を通じての友人が昨年末に脳梗塞で倒れて、今リハビリ中のところに見舞いに行った。右半身不随なので映画と同じように車椅子である。バイタリティのある元気なやつだったのが。自分の体が言うことをきかないことへの苛立ちみたいなものが伝わってきて辛かった。奥さんが一生懸命寄り添っていて、夫と妻の立場は逆なのだがつい映画のことと重なってしまった。

ぼくらの歳になると、夫婦のどちらかが倒れてしまい片方が介護に回るというのケースは少なからず起こってくるだろう。そんなとき、介護される方がいいのか介護する方がいいのかなんて議論はないわけで、両方とも不幸なのではないかと思う。映画は、そこは最後まで愛を貫いたから幸せだったとかまでは言っていないし、ネタバレになるから言わないが、事実としては不幸な結末のように思えるし、結局ハネケ監督のメッセージは自分で考えなさいということなのだろう。ぼくは、映画のような行き方は微妙な感じであった。
  
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2013年3月22日

久々の小里ん

このところしばらく何だかんだと都合が悪き遠ざかってしまった柳家小里ん独演会にいく。会場はいつもの池袋演芸場で椅子席も出る盛況である。以前は、空席もあったのだが最近ではいつもこんな状態だという。小里ん師匠はぼくの一学年上だから、同じくらいの年代が多い。いつものことだが師匠の学校の同級生とか幼なじみみたいな人たちも見かける。

前座の子は落ち着いていてまあまあの切れでいいところにいくかもしれない。そのあとに登場したのが 古今亭志ん吉である。いつもなら、小里ん師匠の弟子の麟太郎なのだが前回もそうだが今回も欠席だ。どこか具合でも悪いのだろうか。志ん吉は古今亭志ん橋さんのお弟子さんで、志ん橋師匠は年2回、関西の笑福亭松喬さんと小里んさんと3人で東西三人会というのやっている関係で登場したのだろう。

小里ん師匠も自分の最初の噺のマクラで、麟太郎と志ん吉をトレードしようかと思ったという話をして、それが成立するには、麟太郎プラス金銭が必要だといって笑わせていた。それはそうかもしれないと言ったら師匠に怒られてしまうが、志ん吉は本人は酒をそんなに飲む法ではないといいながらも見事に酔っぱらいを演じていた。いやあ、そうは言っても最近の麟ちゃんの成長もたいしたものですよ。

出し物は、「ろくろっ首」と「お直し」で後の話は廓話で自分は得意だと言っていたが、吉原が消えたのが昭和33年だから、彼は知らないはずだから、願望を言っているだけかもしれない。また怒られそうだ。この噺は、お茶をひくだけになってしまった元花魁と今でいう客引きの男が所帯を持つという筋なのだが、ぼくはこの夫婦のやりとりが師匠のよさのひとつだと思いだした。おそらく、ぼくもそうなのだが、このくらいになると夫婦の機微がなんとなくわかるということなのかもしれない。今度本人から聞いてみたいと思う。

ということで、落語を堪能した夜であった。やはり、芸は人間性がでるのであって、案外どういう人間が好きなのかで贔屓が決まるのかもしれない。ただ、ぼくは生の師匠を知っているかもしれないのであって、おおかたの人はテレビや週刊誌からの情報で判断するから、そういった場合は虚構が作られるからニセの人間性を信じてしまうから注意したいものだ。以前、小里んさんから聞いた立川談志異話を思い出したからである。
 
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2013年3月24日

ビジネスサービスのつくり方 - 第3章 設計

■ プロセス要素の定義

具体的なプロセス要素の定義をみていきましょう。コアのデータ確定というのは意思決定の典型的なものですよね。例えば提供商品名を決めるとか、納期を確定するなんてことになります。確定するデータがどんなものなのか、どういった判断をすることなのかが決まるとそういった意思決定に必要な"もの"や"こと"をプロセス要素として定義していきます。

確定データは基本的にひとつなのですが、現実的には複数になることもあるし、補足するべき情報として登録したいものが出てきます。このあとのほうで言っているものが「付帯登録情報」です。例えば、納期が確定データだとそれに付随する納入条件といったものはこうした付帯情報として定義しておくということです。

意思決定というのは、単に誰かが勝手に決めることもでき、よく言えばと裁量ということになるのですが、往々にして属人的な決定プロセスになってしまい、人が変わると決定の仕方も変わってしまうことになります。ですから正常な組織ではそうした属人性をできるだけ排除すべく取り決めをすることになります。それが業務ルールです。実際にプロセス設計をしていくとルールがない状態が多いことに気づくと思います。ただルールといってもきちんとルールブックに記述していなくてもよくて、組織構成員で共有されていればよいと考えても構わないでしょう。

業務ルールには、規程・基準・規則・ガイドラインといった様々な名前がつけられていますがあまりこだわる必要がないと思っています。そこをきちんとしようというとルール体系を作りましょうとなるわけですが必ず失敗します。重要なことは、プロセスの意思決定のために使うルールは何かというアプローチでルールを定義することです。そのルールがどんなプロセスのどの場面で使われるかに紐づいていないと意味がないということなのです。ですから、ルールマネジメントというのは必ずプロセスに従属的にやるべきことなのです。

意思決定には情報を参照して行うという側面もあります。その参考とする情報にはどんな種類のものがるのかというと、事実情報、判断情報、制約情報の3種類です。業務ルールも参照情報の判断情報一種ですが重要なので抜き出しでおきます。事実情報には、マスタ、販売実績のような履歴情報、予算といった計画情報、競合他社情報といった外部環境情報などがあります。

判断情報には、業務ルールの他にリソース状況のようなものがあります。例えば担当者を指名する場合に要員の稼働スケジュールをみるなんてことをするわけです。また、ちょっとした計算だとかシミュレーションをした結果から何かを判断する場合もあります。さらに帝国データバンクに与信チェックをしてもらうような外部サービス情報なんてこともあります。制約情報は、契約・規約、制約条件、コンプライアンスといったものから得る情報になります。

次はロールです。ロールはプロセスの意思決定に関係する役割のことです。例えば、起案、確認、承認といった役割を誰にやらせるかになります。一番重要なのはだれが最終的にその意思決定に責任を持つのかです。すなわち、承認者は部長なのか課長なのかといったことを定義することです。業務プロセスでは、基本的にはプロセス全体の責任者と単位意思決定の責任者という階層を持ちます。このあたりも今は曖昧になっているケースをよく見かけます。

最後に「パフォーマンス管理指標」についてですが、プロセス制御という考え方からいうと何か変な方向に向かいそうになるとそれを戻すような動きをすることが大事です。その変な方向なのかを測定する指標のことです。ですから、測定対象となる変数とその正しい設定値と異常を検知した場合の知らせ方と戻し方を定義することになります。例えば、見積提出期限というものを制御するとします。測定対象は見積書作成日となり、設定値は提出期限の一週間前で、それを超えたらすぐに作成担当者にメール通知機能を使って早期作成を促すメッセージを送るといった具合に定義します。

まだ、多少定義したほうがよい項目もありますが基本的にはこうしたここにあげた要素を定義すると設計が完了します。
 


2013年3月23日

F1参戦?

どうもホンダがF1に復帰するようだ。2015年からの参戦を目指し、「マクラーレン」チームを軸にエンジンのみを供給する形での復帰を検討しているのだそうだ。そいえば「マクラーレン・ホンダ」は一世を風靡しましたね。あれが、1988~91年というから24年ぶりとなる。

朝日新聞の天声人語でもこれにふれていて、復帰を後押しするような表現で次のように結んでいる。

セナが「日本の父」と慕った本田宗一郎は、自ら出場するほどのレース好きだった。半世紀も前に「クルマはレースをやらなくては良くならない」と断じている。この会社に脈打つ激走への情熱は、時を得て、間欠泉のように噴き上がるとみえる▼撤退や縮小のニュースが目立つ日本の産業界では、とんとご無沙汰の復帰話である。それも華のあるモータースポーツの最高峰だ。技術立国の意地を賭けて、また限界に挑んでほしい。

ぼくは読んだときに一瞬首をかしげてしまった。朝日はどうかしちゃったのと思う。F1参戦がどれだけの意味があるかよくわからない。ホンダはF1で培われる環境技術の寄与があるといっているのだが本当だろうか。なぜこの時代にF1なのかが理解できない。要するにこれからの車を考えたときにスピードを追求するという方向に疑問を持たざるを得ないのである。

本田宗一郎がいた時代や25年前に参戦していた時は必要なことだったかもしれないが、現代の車に対する人々の意識や求めるものは昔とはずいぶんと違うように思う。若者の車離れとか、街で見かける車の大多数が軽自動車であり、コンパクトカーなのである。要するに、かっこよさとかスピードとか性能とかいったことより機能性重視の方向に行っているのである。そんな価値観の変化があるのになぜスピードを追求するようなカーレースに参戦しなくてはいけないのかが理解できない。

車の概念も変わると思う。大きな図体で大量のエネルギーを使いそこに一人しか乗っているだけですぐ近くのスーパーに走って行くというのは何というムダだろう。しかも、スピードは人を殺すに十分な凶器となっているのである。放射能で死ぬ確率よりも交通事故で死ぬ確率の方がよっぽど高い。だから、これからの車は一人乗り自動車も含めて機能性を追求し、かつ人を殺さないという意味も含めて環境にやさしくすることが要求される。日本の大企業の誤った原点回帰現象(脱皮できないという裏返しでもある)は困ったものである。時代は変わったのである。

それでもF1参戦? というかカーレースって必要? モータースポーツって何?
  

2013年3月25日

知の逆転

これはいい本だ。「知の逆転」(吉成真由美インタビュー・編 NHK出版新書)は現代の知の巨人たちのインタビューをまとめたものである。6人の巨人たちが登場する。ジャレット・ダイヤモンド、ノーム・チョムスキー、オリバー・サックス、マービン・ミンスキー、トム・レイトン、ジェームズ・ワトソンといずれ劣らずすごい人ばかりである。

6人へのインタビューを新書に載せてあるので、これほどの人たちを50ページ足らずで理解するなんてことはとんでもないことのだが、彼らの著作とか業績を本格的に探ってみたくなる。それだけ、的確な質問を投げて答えを引き出している。インアタビュアーである吉成真由美が素晴らしい。それはそうかもしれない。MIT(マサチューセッツ工科大学)を卒業して、ハーバード大学大学院を出ている才女でサイエンスライターという職業にある。だからかどうか知らないがMITの教授が多い。

簡単に印象に残った部分を紹介したいと思うのだが、インタビューの全部がおもしろいのでみな載せたいくらいだし、ぼくの理解力で感想を何だかんだ言うのもおこがましいので、インタビュアーの吉成真由美が書いたあとがきを紹介したほうが適切のようだ。

その前に6人を簡単に紹介しておくと、ジャレット・ダイヤモンドは「銃・病原菌・鉄」で有名な生理学者、地理学者で、ほかにも考古学や人類学、鳥類学にも通じている。ノーム・チョムスキーは、プラトン、フロイト、聖書と並んで、最も引用回数の多い著者であり、「生きている人の中でおそらく最も重要な知識人」という最大級の形容で語られるMITの言語学の教授である。オリバー・サックスは、アルバート・アインシュタイン医科大学で脳神経科医として診療を行うかたわら、「妻を帽子と間違えた男」や映画にもなった「レナードの朝」などのベストセラーの著者でもある。

マービン・ミンスキーはコンピュータ科学者、認知科学者でMIT教授。専門は人工知能である。「人工知能の父」とも呼ばれている。トム・レイトンについては、MITの応用数学科教授というより「アカマイ・テクノロジー社」の共同創業者といった方がよいだろう。ネットワークへのアルゴリズムの応用分野の権威である。最後の、ジェームズ・ワトソンは、1953年にフランシス・クリックとともにDNA二重らせん構造の解明に成功する。コペルニクスやダーウィンに並ぶ偉業とまで言われた。こうして見ると、すごい人ばかりだと驚くでしょう。

さて、そのあとがきです。

ダイヤモンドは静謐にして鋭い室内楽、チョムスキーは、鮮明にして華やかなオペラ序曲、サックスはカラフルで心地よいジャズ、ミンスキーは一つのテーマにクールに焦点を当てたソナタ、レイトンはドキドキするほど生きのいいロック、そしてワトソンはサイエンスを基にしたコンチェルト、といった感じでしょうか。
ぼくは、音楽はちと苦手なので何とも言えないのだが、要するのみんなに響くものを持っているということなのでしょう。そして、みな個性が強いということでもある。               
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2013年3月26日

SEって何?(2)

▐ 問題の背景?
前回、SEの現況について議論したが、SEの多くが技術偏重や受身の仕事のやり方、ビジネス意識が薄く視野も狭いといった状況に陥っている背景にある問題について、馬場史郎さんは3つあげている。

(1) SEの世界の「技術をよく知っている、IT技術に強いSEは優秀だ」という風潮
(2) IT業界の「顧客へのSE体制図の提示や人月の提示、常駐」など人売り的とも言えるビジネスのやり方
(3) IT企業の「売るのは営業、システム開発や保守などを行うのがSE」という風潮

なのだそうだ。そして、こうしたSEの問題の背景にある因習的な風潮やIT企業のビジネスのやり方にメスを入れる必要があると論じている。これが根っこの問題だとも言う。これって本当だろうか。みなさんどう思われますか。

ぼくが感じた大きな違和感は2つあって、ひとつが「顧客視点の欠如」で、もうひとつがきつい言い方になるが「時代錯誤」ということである。あとの方は「SEのシーズと顧客ニーズのミスマッチ」という言い方にもなるが、その意味はどういうことかというと、企業システムとしてのコンピュータやITの役割は当然変化しているわけで、30年前は経理計算が主役だったかもしれないが、現代ではそんなことがほぼどこの企業もやられていて、主戦場は違うところになっている。そうであったら、当たり前だがSEの使命も当然変わらなくてはいけない。なのに、30年前からずっと同じ物差しでいいの悪いのと論じることがおかしいと思うのである。

では、まずは「顧客視点の欠如」について考えてみましょう。上にあげた3つの問題についてですが、異論はないだろうとおっしゃるのだが、お客さんから見たら"どうでもいいこと"なのではないでしょうか。顧客にとっては、誰がどうやろうとも必要なものを適切に提供してもらえばいいだけの話でしょう。こうした「サービス」を提供できていないことが根っこだと思う。日本人だからかどうか知らないが、内部に問題を設定することが多いように感じる。

ちょっと飛躍するのだが、柔道のパワハラ問題やかつても大相撲もそうだが内向き志向の問題設定と解決策選定をしがちである。このような傾向がSEの問題についても言えるのではないでしょうか。つまり、自分たちが何とかすればいいという視点になっていて、外部の人がどういう目でみているのかまでいかない。その自分たちの問題が顧客にとってどういう問題を引き起こしているのか、そうではないのかといった検討が必要であろう。

さらに飛躍するかもしれないが、日本のものづくりにも通じる話で、すなわち、いいものを作れば売れるはずだ、お客さんも喜ぶはずだというやつである。ビジネスの基本は、顧客の要求ありきであり、そのお客さんに満足してもらえるサービスを提供することなのである。ものを作ることがビジネスではない。

前述したようにめまぐるしく変化するビジネス環境に対応したITや情報システムを提供することが求められているわけで、もはや避けられないグローバル化も含めて日々刻々とユーザ要求、ビジネス要求も変化していっている。従って、それに応えられるSEが要望されているが、そのSE像も当然変わってきているのである。昔のようにコンピュータに慣れていないリテラシーの低いユーザに対する場合と今のように個人の生活でもITを駆使するようなユーザがいるような時代では自ずと求められるSEも違うはずである。
 

2013年3月27日

負けた

ちょっとは予想していたとはいえショックである。2014年サッカーW杯ブラジル大会アジア地区予選 最終予選グループBで敵地に乗り込んだ日本代表はヨルダンに1-2で敗れる。5大会連続の本大会出場はお預けとなった。この試合の前にオーストラリアがホームでオマーンと引き分けていたので、引き分けでもW杯出場が決まるという有利さがあったにもかかわらず足元をすくわれた。中東のアウエーでの戦いの難しさを改めて実感する。

試合は、立ち上がりヨルダンがあまり仕掛けてこなかったこともあり比較的落ち着いて入れたので行けるかと思った。ピッチコンデションや競技場の雰囲気といた点でアウエー感満載なので試合の入り方が問題だったのだがスムースにいった。しかし、幾度かあったチャンスを決めきれず前半が終わろうかというアディショナルタイムにコーナーキックから失点してしまう。一番気をつけなければいけない時間帯だったのだが、やられてしまった。

ただ、後半も浮き足立つこともなくいい具合に押し込んでいたのだが、60分に一瞬の隙をつかれカウンターをくらい追加点を許す。みんなが早く同点にという意識が強く前のめりになっていたところを前線の一人に持って行かれてしまった。その後69分に清武のゴール前のダイレクトパスに反応した香川がボレーシュートを決めて1点差に詰め寄る。さらに、71分には内田がペナルティエリアで倒されPKをゲットする。しかし、遠藤のPKが相手キーパーに阻まれ追いつくことができない。そして、タイムアップの笛を聞く。

まあ、悔やまれる試合です。セットプレーからの失点は何度も繰りかえされてきたが今回も狙われた。これは日本の弱点ですね。川島が出られないところに放り込まれると吉田一人じゃあきついかもしれない。何とか対策を考えないといけない。2点目は、テレビの解説でも言っていたが、吉田がファウルをしても止めるべきだったと言っている。ぼくはあのとき今野はどこにいたんだと思う。

ただ、吉田の頭にはレッドカードの怖さがあったと思う。一発退場になってしまう危険性である。しかも、1-0で負けているというのが引っかかっていたはずだ。つまり、もし、レッドで退場になってこの試合を落とすと次戦も出場できない事態が頭をよぎったのではないのだろうか。それで飛び込まなかったのかもしれない。今野はコンディションがあまり良くなったようだ。

遠藤のPKは完全にキーパーに読まれていたということ。コースも高さもドンピシャだった。多分遠藤は最初から蹴る場所を決めていたと思う。しかし、それにしてはもう少し駆け引きがあっても良かったのではないでしょうか。蹴る前の姿を見ているともうあそこに蹴るしかないように見える。キーパーもそう感じたはずだ。

まあ、負けたとはいえまだ首位をキープしているわけで、あと2試合で勝ち点1以上を取ればOKだからそう悲観することはない。もし勝てなくても、オマーンとヨルダンは日本の勝ち点13を上回れないし、オーストラリアは2勝1分け以上、イラクは3連勝しなくてはいけないのでほぼ大丈夫なのだが、なんとしても6月のホームでやるオーストラリア戦ですっきりと決めてほしいものである。ガンバレニッポン!
 

2013年3月28日

どうやるかの前にどこでやるかが大事である

様々な議論で落ち込む落とし穴がある。議論の対象となっている領域を間違えるあるいは噛み合わないことである。これでは、戦うリングが違うから殴り合いにもならない。5W1HでいうとWhereを取り違えることである。このことはどこの局面にも転がっていて、意外とこのWhereをおろそかにするケースが多くあることに気づく。大きくは、アベノミクスで金融の話と財政の話を混同したり、原発のリスクとエネルギー問題を冷静に議論できないといったことが起きる。

つまり、多くの場合論点が定まっていないところで議論するものだから結局は空中戦になって何だか分からないで終わってしまう。ただの議論で満足するならそれでいいのだが、結果を出さなくてはいけない時には困ってしまうのである。目的(Why)とか構造・機能(What)とか方法(How)、スケジュール(When)といったことは熱心なのだが、意外に見落としがちなのが、今一体どこの話なのか(Where)である。本当はすごく重要であるにもかかわらず忘れられる。

なぜ重要かというと、そこの設定を誤ると結論が逆になったりする弊害があるからである。ここからは、ITの話になる。ITの議論で多くあるのは、システム化する目的の明確化やシステム開発方法論や使用技術といったことが中心になっている。ところがそういった議論はみな一緒くたに語られている。例えば、ビッグデータとかクラウドだとか、アジャイルもそうだし、BPMだってそうかもしれないが、じゃあそれはどこの領域の話なのかが抜けていたりする。

そのWhereというのは、適用領域のことで、それでもいろいろな切り口があるわけで、個人なのか企業なのか、その企業も大企業なのか、中小なのか、それもどういう業種なのか、また企業内でも販売系なのか生産系なのか、さらにリソース系なのかイベント系なのかもっと言えば、多少生煮えでも直ぐにやることに価値があるのか時間をかけても正確さが重要な領域なのかといったように、みな性格が違うのである。大事なことはそういった性格に適したソリューションがあるということである。

それと、ソリューションが決まるとどんなもの(What)をつくるが決まるのだがその作り方も違ってくるのである。要するにこの"どこでどんなものを作る"かによって作り方が変わるということを理解しなければいけない。このやり方が一番だから何でもこれでやるというのは間違いである。

具体的に言おう。トヨタのカンバンシステムを作るのと、銀行のオンラインシステムを作るのと、セブンイレブンのPOSを作るのと、一般企業の経理システムを作るのと、標準品か特注生産システムを作るのとWebサイト作るのとみな違うのである。それをITシステムという括りで一緒にするから混乱する。最初に行ったような仕組みをアジャイルでやれって言っても無理でしょとなる。ぼくは、元ケミカルプラントにいましたからわかりますが、銀行のオンラインなんて工場を作るようなものです。それをとりあえずやってみましょうはないでしょう。

それと、システム開発といっても業務システムなのかソフトウエア開発なのかでも全然違います。これもよく間違えるのですが、モノを作るのとスタイルを作るのとでは作るものも作り方も変わります。さすがに組み込みソフトウエアとは一線を画しているとは思いますが、そこの混同もありますね。今や業務システムはスクラッチからプログラム開発するなんてとこはなくなって、既成のソフトウエアを使って作るという位置関係ですから同じレベルではありません。

結局何が言いたいかというと、ちゃんとどこの領域について議論しているのかということを明確にしてほしいのである。例えば、いまぼくのやっている「プロセス中心アプローチ」というのもどこにでも適用できると言っているわけではなく、文字通りプロセスがあるところが対象です。単なるデータの出し入れはDOAでやればいいわけです。また、企業の決算などのバックヤードシステムはウオーターフォールでやればいいし、生き馬の目を抜くような顧客接点のところはアジャイルでやればいいだけの話である。

ただ、IT化の適用領域が広がってきたので必然的にシステム屋さんの考えなくてはいけない範囲も自ずと広範囲になってきたわけです。だから余計に今どこの位置のことについて議論しているのかを3次元的に把握しておかないといけないのである。つまり、業務領域はどこなのかという水平感、プロセスモデルのことなのかITのことなのかという垂直感、あるいは時間軸としてどうなのかといったことに対するフォーカッシングが必要になってきます。戦う場所をきちんと特定しないといけないのです。そのためには、概念化スキル、構造化できる能力が非常に大切なのではないでしょうか。
 

2013年3月31日

ビジネスサービスのつくり方 - 第4章 開発

■ コードは書かない、ドキュメントは作らない

さて、ここからは開発ということになります。設計フェーズではプロセスを構成する要素を定義し、「プロセス要素表」というものを作成します。開発ではそれに従って実装していきます。具体的なやり方に入る前にすこし考え方のようなことについて議論していきましょう。開発というと要件定義から起こされたプログラム仕様書に従ってコーディングをするというのが一般的ですが、そこを考え直そうではないかというのが趣旨です。

ですから、Webサービスとも違うわけです。Webサービスは明らかにコードを書いてサービスを作っていきます。もちろん、フレームワークやモジュールを利用したり、マッシュアップといった組み合わせもありますが、基本的にはコーディングが開発作業の重要な位置を占めているわけです。そういったやり方だと開発という言葉が合うのですが、コードを書かないとなると開発というのもおかしいかもしれません。

では、コードを書かないのならどうやってシステムを作っていくのかということになります。ざっくり言うと既成のソフトウエアを組み合わせてシステムを作るということです。家を建てるのにプレハブ工法というのがありますがそんなイメージになります。ですから、開発という言葉はそぐわないですね。家を開発するとは言いませんから。開発ではなく構築と言ったほうがぴったりします。従って、業務システムの場合はシステム開発とはいわずにシステム構築と呼ぶことにします。

逆に、業務システムに使われるソフトウエアは開発することになります。ある機能を実現するために開発されたソフトウエアを組み合わせて組み上がったものが業務システムとなっていくわけです。ノンコーディングで構築されるというのはこういうことです。ただ、全部が全部コードレスかというと現実には多少のプログラミングをする場合ももちろんあります。本当に特殊な機能の盛り込みとかインターフェースといった部分です。

また、既成のソフトウエアは特定の業務システム向けの仕様で作ってあるわけではありませんから、ぴったりフィットしない場合や不足機能があったりします。そんなときについアドオンとかカスタマイズということをしたくなります。それは極力しない方向で考えます。不充分なところや不足する点は人間がカバーしてもよいという割り切りをします。何でもかんでもITで自動化するというのはやめたほうがよいと思います。

例えば、業務フロー進行を自動化しようとすると分岐の嵐になったり頻繁な差し戻しがおきて却って複雑してしまうということがあります。あるいは、トラブルがあった時の異常の発見、復旧に時間がかかることもしばしばおきます。人間の目で管理できる限界を超えてしまっているわけです。しかしある程度人間がシステムに入り込んでおけば防ぐことが可能です。

それと、業務システム構築の段階でプログラミングすればするほどバグの発生という危険が待っています。よくERPなんかでもテストの時にバグが発見されて修正に追われるのはアドオン部分だと言われています。その点、既成のソフトウエアを利用すればその点は非常に楽です。きちっとテストされバグフィックスされたものが納入されるわけですから安心して使えます。だから、余計な手をあとから加えないでそのまま使えばよいのです。

今や、そうしたソフトウエアがクラウド上に多く置かれるようになったのでそれを利用しない手はありません。このクラウドソフトを見てもお分かりのようにドキュメントはありませんよね。多くは、ソフトウエアのヘルプを開けば分かるようになっています。昔のように分厚いドキュメントを書くのだが、いつも間にかメンテできなくなり誰も読まなくなり、結局はコードを書いた人に聞くなんて破目に陥ることもなくなっています。"コードは書かない、ドキュメントは作らない"という方向で行きたいものです。
 

2013年3月30日

ハングリー・ラビット/悲しみのミルク

ぼくはDMMの月間レンタル会員になっていて、そこから毎月映画のDVDを借りている。"ネットで借りて・自宅に届き・ポストに返却"というあれである。TSUTAYAに替えようかと思っているのだがめんどくさいのでそのままにしている。このシステムでは、ウィッシュリストというのに借りたい映画を登録しておくと、一応は借りたい順番はつけておくのだが向こうで勝手に選んでくれて2本まとめて送ってくる。

借りたい作品はどうしても人気があるので借りにくくなる。そうなると順位の低いものが届くケースが多いのである。じゃあ、リストに載せる数を絞ればいいじゃんとなるわけで、極端な話、2本づつしか登録しなかったらどうなるのだろうとふと思った。ちょっとやってみるかな。今はまだけっこう多く登録したので希望とはちょっと外れたものを観ることとなった。なので、いいかげんにするわけではないのだが2本いっぺんの映画評である。

▐ ハングリー・ラビット

あのニコラス・ケイジが出演を熱望したというのでちょっと期待して観たが残念といった評価である。監督がロジャー・ドナルドソンで共演は妻役のジャニュアリー・ジョーンズである。妻を暴行された高校教師が、謎の男から復讐の代行の提案を受けてしまったことから追い詰められるサスペンス・アクションということである。

ある日、高校教師のウィル(ニコラス・ケイジ)の妻で音楽家のローラ(ジャニュアリー・ジョーンズ)が帰宅途中に暴行されるという事件が起こる。ローラが運ばれた病院で、ウィルは見知らぬ男から、ウィルの代わりに犯人を殺し復讐することを提案される。それを受けてしまったことから、変な組織と関わりあうことになり、殺人の罪を着せられ追われる身となってしまう。そこにひとり敢然と立ち向かうウィルといったストーリである。

これって何がテーマなのだかよくわからないというか、妻への暴行に対する復讐なのか、いつの間にか陰謀に巻き込まれる市民という設定なのか、そして大体の結末も見えてしまうし、どうもおもしろくなかったというの正直なところである。
 

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▐ 悲しみのミルク

おそらくペルー映画なんて観たことのある人は非常に少ないと思う。ぼくは、こうした珍しい国の作品は劇場で観るのは難しいこともあって、DVDで借りることがよくある。最近では、アルゼンチンとイランの映画が面白かった。映画は世界中のどこにでもあるから、発掘するという喜びもあるので続けていこうと思う。

さて、「悲しみのミルク」である。第59 回ベルリン国際映画祭金熊賞、第82回アカデミー賞外国語映画賞ノミネートなど、国際的に高い評価を受けたものである。監督はクラウ ディア・リョサで、この人は2010年にノーベル文学賞を受賞 したマリオ・バルガス・リョサの姪にあたるのだそうだ。ペルーの歴史や政治あるいは民衆の暮らしといったところの表現も文学的であるのかもしれない。

映画は母親の苦悩が母乳を通して子どもに伝染する「恐乳病」という南米ペルーの言い伝えを基に作られている。母親を失った若い娘ファウスタ(マガリ・ソリエル)は「恐乳病」に侵されていると信じ、また男たちから身を守るためにじゃがいもを体の奥にひそませている。死んだ母親は、ペルーに暴力が吹き荒れていた時代に目の前で夫を惨殺され、自分も凌辱を受けたのである。その深い悲しみを娘も受け継いでいると信じていていまだにひとりで外を歩けないでいるのである。

しかし、母の亡骸を故郷に埋葬しようと決めた彼女は、その費用を稼ぐため裕福な白人ピアニストの屋敷でメイドとして働くようになる。そこで聞いた彼女が口ずさむ歌にピアニストは惹かれていく。そして、ファウスタの周りに様々なことが起きて、少しずつ彼女も変わっていく。こうして成長していく姿をペルーの生活と景色の中で描いている。

母親の死と埋葬といとこの結婚式の進行との対比とかまだ依然として残る貧富の問題だとかわれわれにはうかがい知れない世界を知ることになる。ただ、ファウスタの笑顔がないので全体的に暗い感じが否めないので観てる方も滅入ってしまう。最後の方の海のシーンで何となく希望が見えた感もあるが、もう少し明るいほうがいいなあというのが率直な感想である。
 

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2013年3月29日

桜が満開

ひところの暖かさのせいで例年よりも10日くらい早かった開花のため、桜がもう散り始めてきた。ぼくの家の周りはお花見のメッカであるがあわててお花見となっていて、今週でもう終わりだろう。ところで、ぼくがいつもモノレールの駅に行く時に通る道の脇に桜の木があり、この時期いつも楽しみながら歩く。その桜の木がバラエティに富んでおもしろいのだ。それが3色に彩られてきれいなのである。白、ピンク、赤という組み合わせなのだが、何と同じ木で赤とピンクが同時に咲いているのもあるのだ。

写真は順番に白、ピンク、赤で、最後がその赤とピンクが同時に咲いている木です。すごいでしょ。
  
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