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2012年9月 アーカイブ

2012年9月 1日

彼女が消えた浜辺

イラン映画である。以前このブログで傑作だと高く評価した「別離」を監督したアスガー・ファルハディがその前作である「彼女が消えた浜辺」を観る。これもベルリン国際映画祭で最優秀監督賞に輝いたことからも、違わずいい作品である。イラン映画というと何となくエキゾチックで特殊性を予想してしまうが、そうではなく一般的な普遍的なものになっている。

アスガー・ファルハディ監督の作品は「別離」もそうだったが、エンターテインメント性を盛り込んだ作りで、しかもサスペンス仕立てのストーリー展開だから実に面白い。それも細かい心理描写もありちょっとしたあやで物語が動いていくといった感じで、潜んでいる人間性を表に引きだしてくる。

さて、そのストーリーである。イランの中流階級といったらいいと思うのだ、大学時代の友人たち男女数人でカスピ海沿岸のリゾート地を訪れた。その中に、セピデー(ゴルシフテェ・ファラハニー)が誘ったエリ(タラネ・アリシュスティ)もいた。現地ではちょっとしたトラブルがあったが、何とか初日は楽しく過ごすが事件は2日目に起こる。

海で同行の幼い子どもがおぼれ何とか助かったのだがエリの姿がこつ然と消えてしまって いたのだ。さあ、そこから混乱してくる。みな懸命に捜索するのだが見るからない。流されてしまったのか、それともこどもがおぼれる前にどこかへ去ってしまったのか。そんな騒ぎになるとそのエリという女性はいったい何者なのかとなるのである。

誘ったセピデーさえも単に同じ職場で働いていただけということがわかる。そして、一行のみなも思惑や不安やわがままやそういった様々な心理が交錯してくる。結局何もわかっていないのだということが暗黙に示されていく。こうした人間の関係性に焦点のあてる映像はなかなか見ごたえがある。舞台の群像劇にあるような面白さだ。

そのほかにも、普段は知ることもないイランの生活もうかがい知れて、最初に言ったように、ええー日本や欧米と変わらないではないかとちょっぴり驚いたりする。女性もいつもまとっているヒジャブというスカーフみたいなものを取ればどこにでもいる女性であり、普通に離婚もして、弱いイメージもないのである。

外国映画というとハリウッド映画ばかり観ないで、それ以外でもいいものもけっこうある、というかドンパチのバブル映画もやめて幅広く観るといい。いまイラン映画とアルゼンチン映画がおもしろい。
  
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2012年9月 3日

ハチの巣退治

庭の片づけをしていたら、突然目の前にハチが何匹も現われてびっくりする。どうしたかと見上げると蜂の巣があるではないか。エアコンのホースに巣を作っていたのだ。何十匹ものハチが群がっている。だいぶ前に軒下に大きなスズメバチの巣を発見してその時は市役所に頼んで駆除してもらったことがある。

今度もと思ったがよくよく見るとスズメバチではなくアシナガバチのようだ。ハチの形状とハチの数でわかる。スズメバチの巣は徳利を逆さにしたようになっていてそれも幾重にもなったような形状で多くのハチがそこにいるが、アシナガバチは巣の穴がむき出しで数もそんなに多くない。

スズメバチは獰猛で襲ってくることもあり毒性も強く刺されて死ぬのはこのハチである。アシナガバチも刺されると危険ではあるが命を取られることはほとんどない。さて、どうしようかと思案して、業者に頼むと2万円くらい取られるので自分やることにする。遠くから噴射する薬もあるが、うちにあったキンチョールと虫コロリアースで退治することにする。本当はハチが寝ている?夜に退治するのがいいのだが暗い所も怖いので昼にする。

ハチは黒いものをめがけて襲ってくるので下の写真のように目だけを出した白装束でいざ出陣。キンチョールと虫コロリアースを両手にもち、二丁拳銃よろしく連射する。5匹ぐらいを仕留めるとあとは逃げていってしまった。ハチの子を食べようかと思ったが何となくかわいそうな気がして、と言いながらごみで捨ててしまった。山の中に住んでいると虫との戦いは茶飯事だがハチとはあまり戦いたくない。

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2012年9月 4日

映画監督 藤田敏八

しばらく前に、藤田敏八という映画監督の命日である8月29日に追想の会が渋谷であることを告げたと思う。その日は「映画監督 藤田敏八 パキさんとその仲間たち」(林 久登著 映芸読本)という本の刊行記念と銘打ってもいることも書いた。その29日に著者の林さんに会いに渋谷の「オーディトリアム渋谷」に出かける。

あいにく、その日は飲み会があって、途中で抜け出してくる。会場では本も販売していたので購入し、それを読みながら林さんを待つ。映画の上映(危険な関係)が始まる直前に「すまんすまん、ちょうど行こうと思ったら林隆三がきてなあ」と言いながらの林さん(本の著者のほうの林さんです)と会うことができた。つかの間の立ち話であったが、ここまでよく書いたねえ」と言ったら「暇だもん」とさらりと答えられてしまった。

ただ、暇だから書けるというものではなく、文章力も含めて才能がいるのは確かだ。あとでメールが来て、「朝起きたら突然作家扱いになった、いわば「狂い咲きシンデレラじじい」。未知との遭遇に舞い上がっていまったとさ。」と書いてあった。もう古希に近いのにすばらしいと思う。四日市におられる方なので久しぶりに会ったのですが、変わらず若々しいのは意欲的な日々を送っているからなのでしょう。

さて、この本はかつて輝きを放った映画監督藤田敏八の人となり、作品、そして彼を囲む仲間たちについて詳述したもので大変面白い読み物である。彼は1967年に「非行少年 陽の出の叫び」で監督デビューすると、鮮烈な印象を与えた「八月の濡れた砂」、秋吉久美子三部作である「赤ちょうちん」「妹」「バージンブルース」やロマンポルノ作品、「赤い鳥逃げた?」「帰らざる日々」など多くの秀作を残している。

本では、そうした作品の紹介とともに藤田敏八の生い立ちや生活などから切り込んでいく論評に感心させられる。それは、本のはじめににも書いてあるように、著者の林さんは藤田の弟と親友だったことから一歩踏み込んでいるからである。だから、単に年表を追うだけではなく、藤田敏八という一人のアーティスト、クリエーターの生き様が浮かびあがっているのである。ちょっとほめすぎかな。

ぼくも、藤田監督とも会ったことがあるし、弟の慶二さんも知っているので、エピソードとかを読みながらニヤニヤしてしまった。ずっと以前にも載せた写真を再掲します。ぼくの隣に座っている人が著者の林さんです。藤田監督の名前が「敏矢」と間違っているのが愛嬌で、本にも書いてあるのですが、元々の名前は繁夫なのですが、最初の監督作品のとき間違って繁矢となってしまっていて、あわてて訂正しようとしたら、そのままでいいと言ったそうだ。そのあと、事故でけがをして縫って抜糸したとき、事故を起こすのは名前がよくないという奥さんが、糸を抜いたのを機に名前の繁からも糸を抜いて、更に矢を八に変えたのだそうだ。

そんな話が頭にあったので、つい名前の記述を間違えてしまった。映画に興味がない人とか若い人たちはなかなか馴染みがないかもしれませんが、かつてこんな映画監督がいたということを知ることも楽しいのではないでしょうか。本のあとがきに書いてある謝辞にサラリーマン時代のシネマディクトの仲間ということでぼくの名前が出ています。うれしいですね。

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2012年9月 5日

ヤングなでしこ散る

ヤングなでしこは調子に乗りすぎた。昨日のU-20女子サッカーW杯の準決勝でドイツに0-3で完敗。前半20分で3点はきつい。なぜこんなことがおきてしまったのだろうか。たしかに、前回優勝のドイツはその高さと強さで圧倒していたことはある。ただ、前半の始めに失点を重ねたことがどうしてかということである。後半は0-0だったのだから。

つまり、試合の入り方が悪かったのが原因である。それにはいくつかの要因がある。最初に言いたいのは、試合が始まる前にこりゃまずいと気になったことがあった。入場を前にして選手がみな笑いなが話をしているのである。となりのドイツの選手はと見るとみな笑顔ひとつ見せずに緊迫した顔立ちであった。

最近、変に緊張せずに笑顔でいこうよみたいな風潮があるように思う。オリンピックなんかでも昔のように日本選手がプレッシャーで押しつぶされてしまうのを反省するかのようにリラックスするのだというわけである。しかし、試合に臨むときは笑ってはいけない。柔道の松本薫を引き合いに出すまでもなく、精神を高揚させて入り込むべきである。

だからかどうかはわからないが、ふわふわとした感じで試合に入ってしまったように思う。緊張感が乏しいというか集中力が欠けていたように見えた。最初に言った調子に乗りすぎたというのもこのとこに通じていて、これだけメディアにも露出してちやほやされて舞い上がってしまっていた。そのことは、いい方に向かえばいいのだが強い相手だとたかをくくってしまうことがある。

前半20分で勝負ありだったが、言ったような精神的な緩さもあったが、プレーとしてもまだまだのところもあった。まずは、最初の入りのところでのラインコントロールと縦の関係性がうまくいっていなかった。相手のドイツを研究していたと思うが、試合の始まりできちんと対応することを徹底する必要があった。

相手フォワードを最終ラインとボランチとの間のスペースに置きすぎたのである。だから、そこにパスが渡ると簡単に前を向くことができてしまう。つまり、人に付ききれていなかったのだ。もっとマン(ウィメン?)マークをした方がよかったように思う。このことは、3点目もそうだが、コーナーキックのときにフリーしていることにも通じる。

おそらく、あまり密着するとフィジカルで負けるので怖いのだ。だからどうしても離れたがる。昨日の試合でも、完全に当たり負けで吹き飛ばされていた。ただ、密着するというは体をぶつけるという意味ではない。ゴールに向かって突進するのを弱めるという効果である。昨日も体の接触が多かったので、日本選手はそれを避けるようなプレーが必要である。スペインの男子選手はあまりでかいやつとは接触しない。

多分選手みながこんな強い相手とやるのは初めてかもしれなくて相当びっくりしたのではないだろうか。つらつら書いたが結局慣れていなかったことに尽きるかもしれない。ということは、今回の経験がものすごく大きいということである。強くなるということは強い相手と試合をして、その経験を生かしてより強くなるという繰り返しなのである。とはいえ、ここまでよくやった。3位決定戦も残っているのでさらに大きな経験を積んでほしいと思う。
  

2012年9月 6日

ビジネス活動にプロセスはどのように入り込んでいるのか(1)

いま、バリューチェーンプロセス協議会(VCPC)のワーキンググループ活動で「BPMアプローチによるITシステム構築研究WG」というのを主宰しているのが、このBPMアプローチというのは、簡単に言うとプロセスを中心に業務を考えてシステム化しようという考え方になります。

そこで議論しているうちにこのアプローチで何でも通用するのかという質問がきます。つまりできるできないというより得手不得手があるのではないかという指摘である。それはその通りで何でもかんでもプロセス中心でいいのかというとそうではなくて適している領域があるということです。

そうであると次の2つのことをクリアーにしておく必要があります。すなわち、得手不得手な領域はどこなのか、では不得手なところは別のどんなやり方が適しているのかということである。それを考えるときそもそもビジネス活動のうち異なった性格の領域がどこにあるのかをみていく必要がある。つまりビジネス活動の構造化ができていないと何とも言えないわけです。下の図は、超簡単に書いた模式図です。
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水平方向の、Requirement-Process-Resultというのがメインストリームになります。顧客からの要求を受けてそれに応えるプロセスがあって、そこでの結果が事業成果として記録・報告されるわけです。これがメインストリームであることは多分異論はないと思いますが確認しておきましょう。わかりやすいのは、起業するときでもいいのですが、ビジネスを始める時って最初にあるのはここですよね。これはビジネスモデルの根幹です。

こうしたメインストリームを流すためにPlanである事業方針から予算のような計画とドライビングフォースとしてのResourceがあります。事業におけるビジネス活動は、ポリシーや計画に則って、お客さんの要求に対して様々な経営資源を活用して処理していき顧客満足を与えることなのである。

この絵で真中の領域でProcessと書いてあるのでここはプロセス中心アプローチが有効であるはずです。では、他の領域ではどうなのでしょうか。プロセスというのは意思決定の連鎖ですから、決めごとがいくつかあってそれを順次決めていくという業務があるのかどうかになります。まずはメインストリームのRequirementのところになります。

その前にRequirementというのはどの範囲を指すのかがあります。お客さんを獲得するところ、正確にいうと、商談に乗ってくれそうなお客さん(まだぼやっとした要求の見込み顧客)をつかむところまでなのか、実際に商談を経てオーダーを出してくれるお客さんにするまでを含めるのかです。ここでは、後者はProcessのところに含めることにします。どちらにするかは重要ではなくて見込顧客を顧客にするプロセスは全くのプロセスだからそうした方が都合がいいという意味です。

では、お客さんに商品を認知させて興味を持ってもらい、引合・見積に行ってもいいなああと思わせるのはプロセスなのだろうか。もちろんマーケティングプロセスというのがあるくらいだからプロセスと言えないこともないが、不特定多数を相手にすることが多いから、コンタクトのしかたもまちまちなので、プロセス中心アプローチはなじまないような気がします。顧客との関係性をどう構築するかといったアプローチになるのではないでしょうか。

その他については次回に。

2012年9月 7日

ヤング≒アダルト

こんなオッサンが、アラフォーの女性の映画を観るのも気持ち悪いと言われそうだが、日本のアラフォーは見聞きするので何となくわかるのだが、外国のアラフォーってどんななのだろうと、どうでもいい興味で「ヤング≒アダルト」を観る。原題がYOUNG ADULTだから、若い大人という意味で、アメリカでは13歳から19歳あたりを指すらしい。また、その年代向けの文学という意味もある。だから、邦題に≒を付けるとちょっと意味が変わる。でもこの方が主題に合っているような気がする。要は、輝いていたYOUNG ADULTの時が忘れられない大人になりきれない女性の物語である。

37歳になるメイビス(シャーリーズ・セロン)は小説家と称しているが、単にゴーストライターとして“ヤングアダルト”を執筆している。もちろん結婚経験はあるが今は離婚して愛犬と暮らす独身女である。さびしさを紛らわすためにアルコールびたりの毎日でもある。このあたりは、万国共通の生活スタイルですね。

そんなある日、高校時代の恋人バディ(パトリック・ウィルソン)の妻から子どもが生まれたという内容のメールが届く。そこから、彼女の勘違いが始まる。もうこのメールはバディが私とヨリを戻したいと言っているに違いないと思うのである。さっそく故郷へ舞い戻るのである。

しかしながら、その町はミネアポリスという都会に住む彼女にとっては退屈な田舎に映るのだが、人々はそれなりに現実の生活を楽しんでいる。そこが彼女には理解できない。いますよねこういう女(男もいるけど)。最初のうちは、高校時代は皆の憧れのマドンナだったわけだからちやほらされるのだが、過去の栄光のことしか頭になく、田舎町を馬鹿にしたような言動に周囲はうんざりしだすのである。

その中で唯一、うだつの上がらない同級生のマット(パットン・オズワルド)が相談相手になってくれる。彼は高校時代にゲイだといじめられ傷害を受けたのだが、高校時代輝いていた女と全くマイナーでロッカーが隣でいつも憧れのまなざしで見るしかなった男が、わかりあえるのである。この辺も、ありそうな話で子供から大人へ脱皮すると男女の評価も変わったりするものだ。

結局、メイビスは空気を読めずにまた勘違いのまま大暴れするのであるが、さりとて気がついて田舎町に落ち着く気配も全くなく、大都会へと遁走していくのである。主演のシャーリーズ・セロンの美人でありながらいびつな性格といった女性を見事に演じていてすばらしい。監督のジェイソン・ライトマンもユーモアを交えて実に“あるある“感を演出して好感が持てる。それにしても、マット役のパットン・オズワルドがどうでもいいけど行きつけの焼き鳥やのおやじそっくりでびっくりした。
 
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2012年9月 8日

人間の基本

人間の基本とは「人生を無駄にしないために必要な足場、それが人間の基本である。末端ばかりを大切にする時代にあって、それがなければ、周りに流され、やがては自分を失い、死んでしまうこともある。」とその本には書いてある。

「人間の基本」(曽野綾子著 新潮新書)は、基本というかごくごく常識が書いてあると、ぼくは思う。これが10万部を超えるベストセラーになるということは、常識がなくなってそれを求めている人が多いということを意味しているのだろうか。非常識というのは、常識を知っていてそれに非ずということだから許すのだが、無常識というのが一番困る。

曽野綾子さんはもうすぐ81歳になるのだが、クリスチャンで作家であり、日本財団会長も務めた人である。家の中で執筆に専念することもなく、アフリカなどにも積極的に出かけでいく行動派でもある。そんな著者から発せられる言葉は非常に常識的でありながら説得力のあるものになっている。

最初に「どんな状況でも自分の頭で考え、想像し、工夫して生きることが人間の基本」だと言っています。彼女は海外での生活などを引き合いにして言っているわけだが、ぼくがいつも言っていることを思い出した。生き残るために必要なことは「何でも食べられること、どこでも寝られること、誰とでも友だちになれること」で、そのことを実感したのである。

そのほかにも「乗り越える力」をつける教育、ルールより人としての常識などの指摘があり、すべてのことに両面があるという大切さを言う。「格差はいけない」とか「人間は平等」なんてことは基本的に間違いだと喝破する。善か悪か、白か黒かでしか物事を考えられないのは幼稚さの表れだと言っています。いまの原発の問題にしても、これはもう好き嫌いのレベルでしか考えられていないひどさだが、両面からの洞察が必要なのだろう。

それに関連してとても面白かったのは、著者の貧困の条件のことである。「今晩食べる物がない」この一点だという。どこかに行けばあるのは貧困とは呼べないのだ。おおー、日本には貧困はない。でその解決策がまた面白い。「空き腹を抱えて水を飲んで寝る、盗む、物乞いをする」、この3つしかないのだそうだ。さすがクリスチャン?

「プロの仕事は道楽と酔狂」というのも唸ってしまう。労働にはプロとアマがあって、アマは労働時間でもって労賃をとる人のことで、プロは時間とまったく関係ない働き方だという。本来のプロの仕事は趣味道楽の領域にあるもので、もっと言うと酔狂ということかもしれない。ぼくは共感するのは今仕事をしているのは“酔狂“だと思っていたからである。そういう意味からすると会社をやめてやっとプロになれたともいえる。

東日本大震災や原発事故のあとに書かれているので当然そこに言い及んでいて、こうした経験を経てわかったこととして、まずは安心して暮らせる生活などあり得ないということだ。政治家の口からはこぞって安心な社会をお約束しますなんて出てくるがそれは嘘だという。これからは政治家も「安心して暮らせる」を「いざとなったら」に置き換えてと訴えよということだ。最後の著者の言葉を添えておきます。

常時ばかりではなく、非常時にも対応できる人間であるために、その基本となるのは一人ひとりの人生体験しかありません。強烈で濃密な体験、それを支える道徳という名の人間性の基本、やはりそれらがその人間を作り上げるのです。
    

2012年9月 9日

よくやったヤングなでしこ

FIFA U20女子W杯ジャパン2012最終日は、わがU20日本代表が3位決定戦でナイジェリアを2-1で破り銅メダルに輝く。まずは、お疲れ様とよくやったと褒めてあげたい。試合後、優勝を狙っていたから悔しいと猶本は涙を流していたが、そう簡単には頂点にいけないことを身をもって体験したことのほうが大きいだろう。

やはり、上位に上がってくるチームは強い。日本チームより優れたところが必ずあるから、そこをどうやって消して、自分たちの良さを上書き修正していくかである。しかも、それを試合中の瞬時にやっていかなくてはいけない。その点で昨日の試合は、準決勝のドイツ戦の反省がしっかりできていて、ナイジェリアのストロングポイントをかなり消していたように思う。

ドイツ戦のエントリーでも指摘したが、ディフェンスで相手フォアードを簡単に前を向かせてしまっていたが、昨日の試合では相手との距離を狭めてフリーにさせていなかった。中盤でもかなり密着して競っていた。それと、試合の入り方も集中していたし、こうした修正をすぐにできる彼女たちの能力の高さにも感心する。

ただ、ドイツ戦もそうだが、昨日ナイジェリアのフィジカルの強さに突き飛ばされるシーンが多くみられた。イエローカードをもらってもおかしくないファウルが連発されていたが、これが世界基準なのだ。ときどきわざわざ相手の当たりを受けるような突っ込み方も見られ、もうちょっと球離れをよくすれば激しいタックルを受けなくてすむのにというシーンもあったのでここらあたりは反省点だろう。

話は若干それるが、試合を見ていてあんな激しいタックルを受けてよくけがをしないなあと思われた方もいると思います。男子だと何人かはけがをしているかもしれない、少なくとも担架で運ばれるシーンを見るはずである。ところが、あぶないと思ってもすくっと立ってきて平気でプレーを続行する。特に日本の両田中、柴田とか猶本、藤田のボランチなんては幾度も倒されていたが立ち上がっていた。(怒らない日本選手のフェアプレーはすばらしい)

これは、ボクシングなんかもそうなのだが、当たりを受ける力と当たりを与える力の関係なのである。当たりを受ける力は体重差や男女差が少ないが、当たりを与える力はその差が大きいことではないだろうか。ヘビー級とフライ級でKO率が違うのはそういうことだ。パンチに耐えるのはヘビー級とフライ級では差が少ないが、パンチ力はだいぶ違うからである。サッカーも同様で男子の場合当たりの強さが大きいのでけがをしたりダメージが大きくなる。

話を戻すと、昨日深夜のフジテレビのすぽるとで、この大会を通じて日本チームのMVPは誰かという質問が出演の監督と選手に飛んでいた。そのとき吉田監督が答えたのが、土光真代だった。田中陽子でもなく柴田華絵でもなく、センターバックを務めた土光だったのだ。6試合フル出場は猶本と彼女だけだったので監督からの信頼が厚いのは確かだが、なるほどと思った。

読みの良さからくるカバーリング技術と前線へのフィードの正確さを評価したものと思う。なんと若干16歳ですよ、しかもバックスという経験と冷静を必要とするポジションというのも驚きである。もう試合ごとに成長しているのがわかるくらい伸びた選手だ。この子は末恐ろしい。おそらくあと10年以上日本代表のバックスの中心として活躍するのは間違いない。

まあ、銅メダルは大したものだ。よくやったヤングなでしこ!
  

2012年9月10日

ポピュリズムはどこにでもある

最近はポピュリズムという言葉を聞く機会が多い。橋下徹のやり方はポピュリズムだとか、民主党のバラマキ政治はポピュリズムだとか、渡辺恒雄が「反ポピュリズム論」という本を書くわで喧しい限りである。ポピュリズムはこの文脈で言うと「大衆迎合主義」となるが、本来的な意味は、反エリート主義のことのようだ。ただ、日本で一般化された意味は、大衆に阿るという意味なのであるが、必ずしも悪いだけでもない。朝日新聞の「知恵蔵」によれば次のように解説されている。

政治に関して理性的に判断する知的な市民よりも、情緒や感情によって態度を決める大衆を重視し、その支持を求める手法あるいはそうした大衆の基盤に立つ運動をポピュリズムと呼ぶ。ポピュリズムは諸刃の剣である。庶民の素朴な常識によってエリートの腐敗や特権を是正するという方向に向かうとき、ポピュリズムは改革のエネルギーとなることもある。しかし、大衆の欲求不満や不安をあおってリーダーへの支持の源泉とするという手法が乱用されれば、民主政治は衆愚政治に堕し、庶民のエネルギーは自由の破壊、集団的熱狂に向かいうる。例えば、共産主義への恐怖を背景にした1950年代前半の米国におけるマッカーシズムなどがその代表例である。民主政治は常にポピュリズムに堕する危険性を持つ。そのような場合、問題を単純化し、思考や議論を回避することがどのような害悪をもたらすか、国民に語りかけ、考えさせるのがリーダーの役割である。

つまり、ポピュリズムと言われても良い方向に行くのかそうでないかがあると言っている。これを書いたのは誰だかわかりますか?実はあの橋下徹の天敵である山口二郎北海道大学教授なのです。なぜかニヤっとしますよね。さて、維新の会ははたしてポピュリズムなのだろうか。少なくとも鳩菅の民主党は衆愚政治に近いことをやってきた。今も消費税は別として原発ゼロなんて政策はポピュリズムである。首相がわけもわからない反原発派と会談するなんてそれ以外の何ものでもない。

ポピュリズムの問題は、「大衆」が何者かであるかということである。まず、大衆が大衆となっているのだろうかということがある。反原発といってデモをしたからと言ってそれが多数派だとは思わない。時として声の大きな少数が大衆であると錯覚することがあるのである。だから必要なことは山口先生も言っている「問題を単純化し、思考や議論を回避することがどのような害悪をもたらすか、国民に語りかけ、考えさせるのがリーダーの役割である。」ように、単純な原子力の好き嫌いではなくエネルギーや経済の問題をきちんと議論することだろう。

実はこうしたことは、政治や社会の世界だけではなく多くの様々な世界にもある。昨日の読売新聞に葛西敬之JR東海会長が原発ゼロ政策について論じている記事があって、その中に国民に原発依存度を聞いて政策を決める愚について語るときの例えとして、「商品の生産計画をアンケート結果に依存する経営者は会社を倒産させる」とあった。まさにその通りである。

さらに、もっと微細な例をあげると、業務システムの開発の現場のことである。よく要求定義とかでユーザのどんなことをやりたいのかといった要望を抽出するということをする。これを現場ヒアリングという。実はこれが危険なのである。生産計画をアンケート結果に依存するのと同じになってしまったり、声の大きい一部の人の要求が全部の要求であると勘違いしてしまうのである。

つまり、どこのどんな場面でもポピュリズムの芽はあって、単純に言われたこと、聞いたことが正しいという態度は避けて、問題をきちんと分析して、冷静な思考や議論をすることだろう。そのためには、「事実に基づいた科学的な態度」というのが非常に重要であることとそれによって新たに知り得た知識で考え方を変えることに柔軟でありたいと思うのである。
  

2012年9月11日

ビジネス活動にプロセスはどのように入り込んでいるのか(2)

前回、ビジネス活動を簡単に5つの領域、すなわちPlan、Requirement、Process、Resources、Resultというふうに分けてみて、それぞれにプロセスがどのように入り込んでいるのかという議論を始めた。そして、まずはRequirementのところにフォーカスしましたが、考えてみると、ビジネス活動のところをちゃんと定義なり、論理化しておかないと枝葉になりかねないので、少し回りくどいかもしれませんが、基本線に立ち戻りつつ議論していこうと思います。

前回示した模式図は構造を表しています。大きな括りとしての業務機能を配したものです。ではそれぞれの機能はどうなっているのかをみていきましょう。下図が各エリアのもつ機能を表したものです。すべてを網羅したものではなく代表的なものをあげてあります。
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Planというのは、単なる計画ということではなく、計画を立てるためのポリシー、経営戦略、事業コンセプトといったものや、計画を実際のお金の裏付けをもったものに落とした予算といったものも含んでいます。Planというのは、もちろんここだけのものではなく、どこの領域、レベルでも多かれ少なけれ持っている機能ですが、ここでは大きく企業全体のものを指しています。

Requirementというのは、顧客接点のところで、基本的にはお客さんの要求をどうさばいていくかということです。お客さんというのはある意味わがままですから、様々な要求がやってきます。それらを最終的にビジネスに結びつけることが求められる機能です。要求には単なる問い合わせから、オーダーにつながる要求、さらに苦情やクレームの類まであります。

以前は、クレームを受け付けることを嫌がる企業が多くありました。いちいちお客さんの言い分を聞いていたらたまらないといった感覚だったと思います。ところが最近では、クレームこそ新商品のアイデアの源泉だとか、適切なクレーム処理がリーピーターを増やすといった言われ方もされ、アフターサービスの質がビジネスにつながるという意識になっています。

Processについては、本稿の主題なので後でたっぷり議論するとして、次はResourcesです。これは経営資源のことで、いわゆるヒト、モノ、カネ、情報というのがよく言われるものです。最近ではそれ以外に、技術・ノウハウ、ブランド力、ネットワークといった無形資産の価値の重要性が増しています。ビジネスはこうしたResourcesを使ってビジネス活動を行うわけですが、競争相手に勝つとか、市場を寡占するなんてことは競争力のあるResourcesがあってこそ実現できるものなのです。

最後のResultは事業成果をチェックして、その成績を報告・開示することです。煎じつめると決算書を作ることです。貸借対照表、損益計算書、キャシュフロー計算書、事業報告書を書くことに他なりません。そのために必要な、売上だったり、変動費や固定費のコストだったり、またResourcesの状況だったりを(勘定科目といってもいいかもしれません)集計して加工するわけです。

ということで、Processを除く4つのエリアについてみていきましたが、それぞれの業務機能の性格が違うのがお分かりになったかと思います。その特徴に応じたプロセスがあると同時にマネジメントのやり方が違うことになります。次回エリア間の関係について考えたあとにこの話に行きます。
  

2012年9月12日

理想に近い折り返し

昨日埼玉スタジアムで行われた2014年ワールドカップ アジア最終予選の第4戦で日本代表はイラクを1-0で破り、通算成績を3勝1分けの勝ち点10のトップで前半を折り返すことになった。オーストラリア戦以外はホームの試合だったのでその点でも有利ではあったが、非常に順調にきた。

試合は二つの驚きで始まった。日本チームの香川の離脱であり、イランの先発10人が初スタメンであったという予想外の状況で行われた。香川の代役は清武でただ彼はその前のUAE戦でもいい動きを見せていたし、オリンピックの活躍からそこそこやると思っていたが、そのとおりになった。

一方、イラクのメンバーをみて、ジーコもずいぶんと思いきったことをするなあと思ったが、どうも主力のコンデションが国内の様々な悪状況でよくなかったようだ。ただ、若手主体のチームだったが非常によくやった。さすがに後半の後半は疲れていたようだが、前半はよくやっていた。それと、ジーコの戦術で遠藤、長谷部、本田の3人をマンツーマンでマークさせて、中央のスペースを消し、バックスにボールを持たしたのが奏功していた。

それでも前半20分に右サイドで駒野のスローインからバックスの裏に抜けた岡崎が絶妙のセンターリンをあげ前田がドンピシャで決める。その後は、セットプレーで相手をフローにしてしまう危ない場面もあり、また後半中ばから主力の選手を投入して反撃をしたが、彼らを生かせる体力が先発の若手には残っていなかったので、何とか強豪イラクをシャットアウトした。心配していた伊野波も無難に務めていた。

日本も追加点のチャンスを左サイドから作るが決めきれない。ここらあたりが課題かもしれないが、それを越えるにはもう組織というより個人の力になると思う。一番典型的な例でいえば、後半35分に清武からのクロスに本田がフリーでヘディングするもGKに触られポストに当たって外れたシーンである。ほんとに惜しいシーンであったが、あえて本田の技術がまだ超一流になっていないと言いたい。

本田がなぜ決められなかったかの理由はキーパーの右を狙ったことである。あれを左に打っておけば得点していたと思う。どうしてかというと、清武は左サイドから右足で中央に流している。だから、ボールはゴールに向かってしかもキーパーを越えた位置に飛んでいくわけで、本田にとっては逃げるようなボールとなり、相手キーパーは左に、つまり本田にとっては右サイドにキーパーは体重移動していたのである。そこに本田は逃げるボールだから弱いシュートをキーパーが動きやすい方向に打ったのである。

それを一瞬に察知して、キーパーの動きとは逆で角度としてはより強いシュートが打てる左サイドに打っていれば入っていたというわけである。このあたりが、一流と超一流の境目である。ファンペルシーはこれができるのである。

さて、これで大変優位な位置に立ったので、早く予選突破を決めてほしいのだが、まだまだ油断してはいけない。これまでの経験上楽な予選はなかったわけで、どこかで苦しい状況に追い込まれるはずだと思うのである。楽観主義者のぼくは、ことサッカーに関してだけは悲観主義なので、ハラハラドキドキがやってくるに違いないと引き締めている。
  

2012年9月13日

若者、バカ者、よそ者

タイトルからだけみると過激な主張の本かと思うでしょうが、いたって常識的な本です。ときどきテレビなどでも顔を見ることがある経済学者真壁昭夫の著作になる「若者、バカ者、よそ者」(PHP新書)を読む。著者は行動ファイナンスの専門家であるが、イノベーションの必要性を説いたものである。

若者とは文字通りこれからの世界を作り出す若い人のことで、バカ者というのは、既成概念をぶち壊すような挑戦的な人である。よそ者というのは外部の人で、内部で見る目と違った見方ができる人である。こうした人々がイノベーションを生み出すのだという。そして、今の行き詰った日本で必要なことはイノベーションであると強調する。

イノベーションとは何かでは、ちょっと古いがシュンペーターの定義をもちだしている。

① 新製品の発明・発見
② 新しい生産手段の導入
③ 新市場の開拓
④ 原料・半製品の新たな供給源の獲得
⑤ 新しい産業組織の実現

こうした5つの類型によってもたされる「創造的破壊」とか「新結合」がイノベーションを生むのだという。これは、ぼくが日ごろ言っているビジネスモデルでの各エリアで起こることである。すなわち、“どこの誰に“という市場とか顧客では、③新市場を開拓することであり、”どんな商材を”は①の新製品の発明・発見である。“どの経営資源を使って“と”どのように提供して“の技術や流通チャネルあるいはサプライチェーンでは、②と③が関係し、最後の”どうやって儲けるか”は、⑤がそれに当たるというわけである。

さて、ぼくの考え方はまた別の機会に譲るとして、ぼくはもはや若者ではないし、バカ者でもないから、よそ者としての存在感を発揮しようと思う。企業というのは、うまくいっていればいるほど現状肯定で継続を選択したがる。しかし、その瞬間停滞がはじまるという恐ろしい世界でもある。そんなときに必要なのは、他人の眼で気づかせてくれることだ。そんな役割を担えたらと思う。

本では、若者、バカ者、よそ者の事例をあげている。若者では、成功にあぐらをかいた任天堂や創業時の原点を忘れて多角化に走ったソニーの例がだされ、フェイスブックとグーグルのSWOT(強み弱み、機会と脅威)分析をしている。ただこれとて今は強みになっていることが、いつのまにか弱みになってしまうこともあるのが現代のビジネス、特にITの世界なので永続的であるとは限らない。

バカ者の例では、ニトリとユニクロが引き合いにだされている。よく知られた企業なのよけいな説明はいらないと思うが、要するにチャレンジし続ける姿である。ここは、サラリーマン社長の経営者には難しいところかもしれない。アイデアは出せるかしれないが実行力という面ではオーナー経営者には負けるのだろう。

よそ者の例では、成功したものととして日本マクドナルドの原田社長である。マックからマックへの転進として話題になったが、異業種に乗り込んでよそ者の眼で見たことが成功した要因なのだろう。一方、失敗した例として、ソニーのストリンガー社長、三洋電機の野中ともよ会長&CEOである。

ものづくりという精神を希薄化させてしまったストリンガー、「Think GAIA(地球を考える)」という鳩山由紀夫ばりの抽象的な経営理念を掲げた野中ともよ、ふたりがともにジャーナリスト出身というのも面白い。きっと、カルロス・ゴーンのような厳しさや冷徹な合理的精神がなかったのだろう。

まあ、上述のように事例もまじえてあって読みやすいのは確かなのだが、特に新しい視点だとか、ユニークな立論といったものはないので、当たり前すぎて刺激と感動はなかった。事例にしても聞きなれたものばかりである。

また、気になったのは、普通のサラリーマンにバカ者、よそ者の感覚をもってイノベーションを起こせと説いているのはどうかと思う。世の中、みんなが勝手にイノベーションを起したらどうなるのか。それよりもそんなことができるやつは限られている。普通の人間にはできないのだ。与えられた仕事をコツコツこなすことも大事なのである。
 

  

2012年9月14日

使い方という視点

もうだいぶ前になるが、テレビはあまり見ないのであるがたまたま飲みながらチャネルを回していたら、スマステーションという番組をやっていた。SMAPの香取慎吾が司会でそういえば稲垣吾朗が月一回映画の解説をしているので見たことがある。そこで超便利文房具を紹介していてそれを見てびっくりしてしまった。別に文房具から遠ざかっていたわけではないが驚くべきグッズがあるのには唖然とした。

紹介された中でも面白かったのは、片手で書いても滑らない「スベらないメモ」、細かい部分もラクラク糊付けできる「消えいろピットほそみ」、下敷きなしで簡単カット「スコッチ(R)安全ペーパーカッター」、シャープペンシルなのに鉛筆の書き心地の「大人の鉛筆」、修正液の塗り間違いを修正できる「消ゴムではがせるミスノン」などなどである。

中にはこれはというものももちろんある。スマートフォンでメモが作れる「メモプリ MEP―B10」は、別にスマートフォンのメモに書いておけばいいじゃんと思えるし、香りに癒されるアロマボールペン「リロマ」も、においを嗅ぎたくないときどうするんだろうとか、ツッコミを入れたくなるが目くじらたてるものでもない。

これらを見ていると思うのだが、商品としては全く新しいものではない。メモであり、糊であり、カッター、シャーペン、消しゴムである。つまり、商品そのものの新規性というわけではない。何が受けるのかというとその使い方なのである。ただ単に書ければいいとかくっつけばいいいい、あるいは消せればいいというのではなく、それを使って生活する局面でほしい機能を提供しているのである。

とっくに飽和していると思われる文房具の世界でもライフスタイルと密接に絡み合った新商品の開拓の余地はいっぱいあるのだ。斬新であっと驚くような新製品なんてそんなにあるわけがないのであって、こうしたちょっとした工夫である程度のマスをもった商品化が可能なのである。

といった思いで見ていたら、ふとITはどうなっているのだろうかと思いだした。ただITといっても広くて、Webサービスとかスマホアプリなんていうのは文房具に似ているが、業務ソフトはどうだろうか。どうも新しいスタイルの訴求という面では弱いなあと思う。ましておや、業務システムでは全くと言っていいほど離れているように感じる。

そこがこれからの業務システムの目指すところであると思う。すなわち、データ登録したら癒しのメロディが流れてくるとか、お客さんの苦情の程度を絵文字で表すとか、ちょっと遊びすぎか、要するに学生が勉強を楽しくやれそうな文房具と同じように、働く人たちが楽しく仕事ができるためのITを考えたいものである。

そのために大事なことは使い方という視点で見ることだと思う。今の業務システムは、作った人がどんな使われ方をしているのかをちゃんと把握していないことが問題なのでまずはそんなところから直していったらどうだろうか。
 

2012年9月16日

ヒミズ

俳優の演技力の評価とその映画の良し悪しとどういう関係があるのだろうか。いい演技だから傑作が生まれるのか、作品がよかったので演技も評価されるのだろうか。第68回ヴェネチア国際映画祭で最優秀新人俳優賞にあたるマルチェロ・マストロヤンニ賞を染谷将太、二階堂ふみが同時受賞した「ヒミズ」を観る。ヒミズとは、モグラの一種で日を見ないというところから名づけらている。

あの「稲中卓球部」で有名な古谷実の同名の漫画を園子温が監督した作品である。主演の二人の演技にくらべると作品の出来がもうひとつだったように思える。なので冒頭の言い方になる。ふたりは賞をもらっただけのことはあって、決して恵まれてはいない、むしろ異常な家族の中で揺れ動き、ぶつかり合う中学生の男女を熱演して感動させてくれる。

15歳になる住田佑一(染谷将太)の願いは当たり前の大人になることで、大きな夢があるわけでもなく、ただ誰にも迷惑をかけずに生きたいと考えている。そして、実家は貸ボート屋で、その周辺には震災で家をなくした人々がブルーシートやテントで暮らしている。

一方、同じクラスの茶沢景子(二階堂ふみ)の願いは、愛する人と支えあいながら生きることで、そんな彼女の目下の愛する人は住田なのである。ただ、住田はそんな景子を最初は疎んじているが、彼女のアタックにだんだん距離が縮まっていく。そんなある日、蒸発していなくなっていた住田の父親(光石研)が戻ってくる。

父親はお前は死ねばいいと罵詈を浴びせてわけもなく暴力をふるうのである。金を無心に来たのだが、母親も別の男と駆け落ちしてしまい。結局、住田がひとりで学校にもいかずにボート屋を経営する。そして、とんでもないことをしでかしてしまう。もはや、普通の人生を全うすることはできなくなるのだが、それはクズの両親から生まれた自分が立派な大人になろうとする夢を打ち砕く。

そのあとの住田は、世の中のクズを退治することに向かうのである。もはや絶望の奈落である。それでも景子はまだ愛情を注ぎ続けるのである。さて二人は希望を見つけることができるのであろうか。とストーリーを追ってみても震災とどういう関係があるのと思うでしょう。ボート屋の周辺に被災者が住みついたというのがあるだけで、住田と景子の人生には無関係である。

ということで、震災との関連が希薄でこじつけふうに感じられてしまう。まあ、絶望のふちから希望を見出すところにつなげたかったのだろうが、必要なかったように思う。原作は2001年の状況であったのが、製作中に震災があって急きょ2011年に設定を変えたそうだが少々無理があったようだ。
 
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お役所仕事

以前と比べるとお役所の人たちはずいぶんと低姿勢になってきたと思うですがみなさんどうでしょうか。昔はつっけんどうで、こちらがお願しますといった関係となる。しかし最近は、毎度ありーとまでは言わないが、愛想がいい。行政の仕事はサービス業だから「お客様は神様」精神でいけとでも言われているのだろうか。

日本郵便も変わったけどあれは民営化されたからで、インセンティブは何なのだろうか。まあ、愛想がよくなるのは気持ちがいいので詮索することもないだろう。ところが、低姿勢はいいのだが、だからといって業務が円滑化、効率化、あるいは質の向上ができているかは無関係のようだ。

先週は、ちょっとしたことで大分手間を取られてしまった。鎌倉市はなぜかゴミの収集、リサイクルに異常に熱心で、これまで住宅敷地外に何軒かがまとめてごみを排出するようになっていたが、将来これを個別住宅単位で敷地内に排出するようにしたいらしい。目的はゴミの減量なのだが、どうして減るかは結局意識の問題に帰しているので実効性が疑わしいのだが、別段やっかいなことでもないのでしょうがないやと思っている。

場所によっては、年寄りが遠くまで出しに行かなくても済むようになるので喜ばれてもいる。それで、ある地域をモデル地区として先行させるということで我が家もそれに該当するので10月から実施の運びで、先日クリーンセンターに人がきて排出場所の指定をした。ところが、今は隣3軒がまとめて出しているが、その1軒はうちのばあちゃんだから、老人ホームに入ってしまったので、もう1軒のところに行ったときにそこのうちの人からなぜ今までどおりではいけないのかと言われたそうで、そうしたらあっさりいいですよと言ったらしい。

それを、その隣の人から聞いたのでなんじゃこれって話でぼくが市役所に確認することになった。さて、これからである。市の方に電話すると女の人が出てきて今担当者が不在なので明日電話しますという。電話番号を教えて翌日待ったが一向に連絡がない。翌々日にこちらから電話をする。電話口に出た人の名前を聞くのを忘れたのもいけなかったのだが、違う女の人が出てまた最初から話をする。しばらくして、電話がかかってきて、この件は市の方ではなくゴミ収集をしているクリーンセンターに連絡したのだが、あいにくお宅に行った人間が今日は休みだから明日またご連絡しますとなる。

そして、翌日電話がかかってたので、今までどおりでいいという例外は認めてくれるのですか、それはどんな条件だから許されるのですか、それを確認したいのですがと言ったら、おそらくクレームだと思ったらしく、また市と相談してからご返事しますとなる。そして、その翌々日担当者が直接その隣のうちに行ってしまって、なんと例外は認めないといったトーンで言ったからまたまた混乱したのである。

結局、ぼくがそこの意思決定者に直接会って当面は従来通りで何かあったら個別に切り替えるということで収まる。しかし、ちょっと文句言われるとほいほい変えてしまうのはサービスでもないと思うのだが、変に媚びたことはしない方がいいと思う。ある程度毅然としていてほしい。彼らにも言ったのだが、この方式は無理やり住民に強いるわけではなく、逆の面もあって、上述のようなお年寄りへの支援ということもあるからなおさらだ。

それに、鎌倉の住宅事情を知っている人はわかると思うが、引越し屋に嫌われているように、個別住宅対応になったら収集員の人たちの負担は大変なことになるはずだ。細い路地をゴミ袋を持って走りまわらなければならない。本当にできるんですかと言ったら苦笑いをしていた。きっと作業員の負担が増えて、結果的にコストアップになってしまいこの企ては失敗すると思う。

もうひとつ思ったのは、現場に裁量権を持たせていないが故にたらい回しになっていることや硬直化した対応のことである。ヤマト運輸のセールスドライバーには結構な裁量権の与えていたので震災の時の対応にはすばらしいものがあったという話を聞かされたが、そこまでいかなくてももう少し何とかした方がいいと思う。

裁量権という話でいつも何とかならんのかと思うことがある。毎年、市の方でわが家の前の歩道の草刈りをしてくれる。それは市の道路だからやるのだが、メインの車道から1mしか刈らないのだ。これが規則だという。その歩道は倍の2mくらいの幅がある。ガソリンエンジンの草刈り機でささっと刈っていくのだが、何と半分を残していくのである。歩道は、場所によっては1mくらいしかないところが多いからかもしれないが、家の前だけならものの2、3分でできるのにだ。ちょうど在宅していると頼んで刈ってもらうのだが、いないといつもこうだからあきれかえっている。

2012年9月17日

ビジネス活動にプロセスはどのように入り込んでいるのか - Bridge

前回にビジネス活動のところをちゃんと定義なり、論理化しましょうとなったのでシリーズ化していきます。今まで言ってきたことと重複することも多々あるかと思いますが、年寄りの繰り言と思って聞いてつかーさい。

これまでの2回でビジネスの構造と機能についてPlan、Requirement、Process、Resources、Resultの5つのエリアで見ていきました。図の恰好が花びら風になっているので接しているところの関係は分かるのですが離れているところとの関係はどうなっているのだろうか。それをBridgeと称して考えてみた。それが下図です。
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最初は、PlanとRequirementの関係です。戦略とか事業方針、計画といったものとお客さんの要求との関係になります。Plan側から見ると、これはマーケティング戦略になると思うのですが、SegmentationとかTargetingですね。つまりどういった市場と顧客に狙いを定めるかになります。

一方、要求側つまり顧客から見るとPlanというのはどのように映るのでしょうか。近頃はCSR(Corporate Social Responsibility)とかメセナ活動とか、今回のような災害支援といったようなこととか、ずばり企業成績もそうかもしれませんが、その会社のイメージをわかせるための姿勢といったものが大変重要になってきています。

RequirementとResourcesの関係はどうでしょうか。Resourcesというのはヒト、モノ、カネといった経営資源のことですが。そこで重要なのはお客さんとの関係性です。そこで継続性のあるよい関係ができネットワーク化されるとそれは大きな経営資源となります。また、製品やサービスといったリソースは、お客さんによいブランドイメージを持ってもらうことも大事です。こうした、ネットワーク力とブランド力は現代のビジネスではとても重要な要素となっています。

さて、そのResourcesとResultです。Resultは事業成績のことで最終的には決算書といったフォームに落とされるわけです。わかりやすいのは、ビジネス活動で消費された、あるいは生み出されたリソースをバランスシートに反映することです。資金調達をどれだけしたかとか、従業員の採用を増やしたとか、給与をあげたとか、設備投資をしたとか言ったことです。また、あまりないのですが事業の結果をリソースに戻すといったことがあります。

最後のResultとPlanとの間になりますが、Plan側からの要請はあまりなく、多少利益の配分だとかといった経営方針が関係しますが、一番大事なのは事業成果から戦略なり次の事業方針といったようなところを見直すことがあります。ここが非常に重要なところで、BI(Business Intelligence)などを使って分析して新たな計画を作っていくことになります。

ということで各エリア間の関係をみてきましたが、このことは実は大企業では組織間の連携を必要とします。縦割りの組織になっているとこのインターフェースがうまくいっていない例をみかけます。これまで見てきたような構造化をちゃんとして、何を受け渡していくのか、どうやったらスムーズの受け渡せるのかをお互いに理解しあうことが大事になってくるのではないでしょうか。


2012年9月18日

一枚のハガキ

今年の5月29日に新藤兼人が逝った。享年100歳である。その新藤兼人が99歳の時の作新「一枚のハガキ」を観る。2011年のキネマ旬報第一位に輝いている。その歳までメガホンをとるなんて信じられない。新藤監督自らの戦争体験に基づく映画である。ぼくも91歳になる母親をみたり、自分も歳をとってくるとわかるのだが、ちょっと前のことより昔のことの方が鮮明に覚えている。

おそらく新藤監督もずっと心の中に残っていたことがより鮮明になってきてどうしても残しておきたいと考えたのであろう。前作の「石内尋常高等小学校 花は散れども」も自分の故郷広島を舞台にしている。それにしても99歳になっているのに「映画人生最後の作品にする」と宣言したというから驚きである。

この一枚のハガキには何と書いてあったのか。

今日はお祭りですが、あなたがいないので何の風情もありません -友子

とある。戦争末期に100人の中年兵が召集され、天理教の施設に集められるが、そのあとくじ引きで出征先がきめられることになる。くじ引きのあった夜、松山啓太(豊川悦司)は仲間の兵士、森川定造(六平直政)から妻・友子(大竹しのぶ)から来たという一枚のハガキ渡される。そこにそう書いてあったのだ。森川は戦地フィリピン行きが言い渡され、一方啓太は国内の宝塚であったので、生きて帰れないことを悟った森川がもし啓太が生き残ったらハガキを読んだことを妻に伝えてくれと頼むのである。

ハガキに書いてある「何の風情もありません」という言葉に感動する。好きだよ愛しているよなんて言葉よりも、控え目でありながら、夫を思う気持ちがじわっと伝わるいい言葉である。生き残った啓太は、故郷に帰るのだが家の中には誰もいない。啓太が戦死したという噂がたち、何と妻と父親ができてしまい二人で出て行ったのだという。生きる気力もなくなって家を売りブラジルへ行こうとする。

そんなときに、森川から手渡された一枚のハガキを見つけるのである。そして、それをもって広島の山奥に住む友子のもとに向かう。戦死した森川定造の家はこれまた呪われたように、定造の死のあとに友子と再婚した弟もまた出征して戦死、父親も発作で急死すると母親はいくばくかの金を友子に残して自殺する。友子はたった一人取り残されるのである。

そこにハガキを持って現れる啓太と出会うのであるが、これはもう自然の成り行きのような形で一緒になる。しかし、そこは普通の男女ではない。戦争の不条理を嘆く友子と運良く自分だけが生き残ってしまった啓太が、向きあったとき爆発的に絞りだすうめきがこの映画のクライマックスである。大竹と豊川の熱演が見ものである。

映画を見ていて戦争を知っている人たちがいなくなってしまうのだなあとつくづく思う。新藤兼人が1912年すなわち明治45年生まれだから、もうすぐ明治生まれが消えていく。(ただ、ちょっと前のニュースで国内で100歳以上が5万人を超えたというのにはびっくりしたが)もう映画を作っている人は昭和以降生まればかりであろう。ただ、こればかりはしょうがないことで、日清、日露戦争を描けないのと同じように風化してしまうのは避けられない。まあ、新藤監督の執念が乗り移った作品である。
  
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2012年9月19日

「反原発」の不都合な真実

今月14日に政府は「30年代原発ゼロ」のエネルギー戦略を決定した。全くよくわからない世論に後押しされたというか、選挙対策として耳触りのいい提案をしたということだ。これで、日本の国は相当なダメージを受けるのは必至だろう。そうした原発問題あるいはエネルギー戦略について冷静に考える知見を与えてくれるのがこの「「反原発」の不都合な真実」(藤沢数希著 新潮新書)である。

著者の藤沢数希はあまり知られていなかもしれないが、ぼくの中ではよく知っている。ブロガーとしてずっと追いかけていた存在だからである。「金融日記」というタイトルで書いている。外資系投資銀行に勤めていて金融市場に強いのだが、そんな立場の人が原発について書いているので不思議に思う人もいると思う。ただ、彼はもともと物理系の研究者であるので、ブログにちょくちょく原発についてのエントリーをしていた。

彼のブログは、主に池田信夫が主宰する「アゴラ」という言論プラットフォームで見ることができるが、立ち位置も反原発に批判的である。先日のTVタックルにも池田信夫さんが出演して反原発派とやりあっていたが、藤沢さんも似たような主張を本でも展開している。ぼくは、ずっと彼らの話を幾度となく目にしているので感化されているのでは言われかねないのだが、同じように以前からずっと内田樹や武田邦彦のブログを読んでいたから、あながちそうともいえず両サイドの意見を比較考量している。

ぼくは著者が冒頭でも言っているように、いきなり原発を悪と決めつけ、原発をなくすことが正義であるという論調にはいささか懐疑的である。非常に情緒的で単に空気に流されているように見える。もっと冷静になって、論理的に科学的に分析して立論すべきでしょう。その前提として、事実認識をしっかりとすべきだと思う。

まずは、原子力は安全かどうかという問題がある。今回の事故でも津波では死者行方不明者は2万人を超えるというのに原発の事故では死者は出ていないのである。こういうといや避難所で死んだ人がいるだとか、これからガンで死ぬとか、死者の数だけで推し量るなとか言われる。しかし、事実として避難のやり方がまずくて死んだ方はいるが直接的に死亡した人はいないのである。

ぼくは以前化学プラントで働いていたからある程度分かるが、あえて誤解を恐れず言うと、全電源喪失というあり得ない状況であの程度で収まったことを見て、素直に原発は安全なんだと思ったのだ。みなさんメルトダウンして大変なことになると思っている人が多かったでしょうが、あの事態でさえ大したことはなかったのだ。

こんなことを書くと罵られるのでこれ以上言わないが、お前は原発の近くに住んでいないから気楽なことが言えるんだという言い方もされる。そうだろうか。おそらく原発の近くに住んでいる人たちはそんなに危険ではないという認識であったはずだ。そうでなかったら事故の前にとっくに移住しているからである。

だから、近いか遠いかという問題ではなくて、生命のリスクというか、何が危険であるかという捉えかたの問題なのかもしれない。ぼくの個人的な感覚でいうと今一番怖いのは自動車事故である。そのうち一番はガンになると思うが、今は道路を歩いていて車に轢かれて死ぬ危険が一番だと思っている。だから放射能の危険は大したことないと感じているのだ。本でも、なるほどと思ったことが書いてある。アメリカの9.11テロ事件のあと飛行機を避けて自動車で人たちが増えたのだが、そのために前と同じように飛行機にしておけばよかったのに自動車にしたばかりに死亡した人が最初1年間で1595人にも上ったという。

リスクは個人的な感情なのだろうか。しかし、ぼくは原発より、地震・津波(住んでいるところが山の中だからかも)より、飛行機より、交通事故が一番怖い。夜道を酔って歩いていて車にはねられる、あるいは駅のホームで知らない人とぶつかって線路に転落して死ぬかもしれないと本気で思っている。それよりも原発にリスクがあると思う感情がなかなか理解できないのである。

安全性のことでもこれだけではなくまだまだ多くの事実を知っていないと思う。さらに、エネルギー戦略とか経済問題も大きなイシューである。お気軽に原発ゼロ社会を目指すなんて言っている民主党もひどいが、メディアを含めた“一般大衆“が冷静になってちゃんとした事実認識がされていないことが問題であると思う。変てこなトンデモ先生とかが煽った代償は大きい。

なんでも原発反対という空気が困るのである。この本も出版されるかどうか危惧されてみたいで、新潮社の英断で刊行できたという。反原発本はいっぱい出ていくるがその反対は少ないなかで、客観的な論調でぜひ読んでみて「事実」を知ってほしいと思う。議論はそれからだ。
  

  

2012年9月20日

改革の前にやることが

やたらと“改革“を叫んでいませんか。政治改革、行政改革、構造改革、教育改革、なんちゃら改革とあらゆる分野で改革しなくてはという。ところが、こうしてわめいてもうまくいったというのは少ないように感じる。だからいつも改革と叫んでいるようにみえる。

改革は英語でReformである。形を作りかえることだ。これだけなら、家のリフォームを思い起こすとすぐにできそうに思える。ところが一向に進まないのは、どこが悪いのか、どこを直さなければいけないのかが分かっていないことと、分かったとしても、範囲が広くなると直さなくてもいいとか、直し方が違うという人が必ず出てくるからである。

改革が必要なところ、作り変えたいところには静的なというか構造的な部分と、動的ないわゆる機能的な部分とがある。例えば、議員の定数を変えるなんていうのは前者だし、行政サービスの質を高めるなんては後者になる。ただ実際には両者が合わさって有効な改革につながると思う。この構造と機能をきちんと分析して、どこに問題があるのかを共通認識として確認しておくことが重要だと思う。

そこの議論をいい加減にするから、どういう改革を行うのかという手段議論にすぐに入り込んでしまう。そうなると、立ち位置が違うともう議論は平行線になり、しかもトレードオフという概念を多くの日本人は理解していないので、あちらも立たないし、こちらも立たないという結果になって進まないのである。

ですから、すごく大事なことは、事実はどういうことなのか、実態はどうなっているのかをまず提示してそこで徹底的に議論して合意形成することだと思う。納得いく事実が共通化されたら、そこに潜む問題や課題をこれまた共通認識として持つことだろう。こうしたアプローチがきちんとできれば、自ずと手段はついてくると思うのだが。しかし、やろうとしているのかどうか知りませんが難しいようですね。

ただもう少し身近なところで、業務改革ということもよく言われる。ここも同じように現状をちゃんと分析し把握していないまま改革を進めると失敗します。業務の見える化というのは改革の大前提なのです。逆に言うと、的確なかたちで見える化ができるとその時点で改革のポイントは浮かびあがってくるものです。

そういう意味で政治や行政、教育といった分野は見える化できていないということかもしれない。それは改革される側でしか見える化ができない、つまり国民の目にはよくわからないで行政側でしか実態が分からないからではないだろうか。見える化のインセンティブが働かないのだ。じゃあ議員さんにやってもらおうと思ってもなかなかできない。

こうした目的と手段のとり違いというか、よく目にするおかしなパターンは改革を始める段になって、さあ目的を明確化しましょうとなることで、目的の明確化が手段だと勘違いする。実施の段階で重要なのは「目的の明確化」ではなく、やろうとしていることが目的と合致しているのかという「合目的性」なのである。
 

2012年9月21日

ビジネス活動にプロセスはどのように入り込んでいるのか - PDCAとビジネスモデル

さて、企業活動モデルの構造と機能をみていくと、会社ってPDCAを回しているということに気がつくと思います。計画を立ててそれを実行して、実行した結果をチェックして、次のアクションにつなげるというわけである。それをあの模式図にかぶせると下のようになります。
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Planは一緒ですからそのままですが、DoはProcessのところに当たります。つまりプロセスをオペレーションすることで計画を実行することになります。その結果はResultですから、そこでチェックが入ることになります。チェックの最たるものは会計監査ですね。それ以外でも管理会計と称して様々な角度から評価をしていきます。そうした分析データを次の計画に生かすことになります。そうした意味ではAはActionというより、Analyzeの方が適当だと思います。

ここで言っているPDCAは企業全体の大きな範囲でのものです。PDCAはもちろんそれだけではなく、様々な領域で存在します。ただ、覚えておいてほしいのは大方の場合、Doはプロセスオペレーションからなりたっていることです。ちょっとしたアクションもあると思いますが、PDCAサイクルという場合はアクションレベルではなくオペレーションレベルの話だからです。

一方で、ビジネスモデルというものがあります。ビジネスモデルというのは、どこの誰に、どんな商材をどの経営資源を使って、どのように提供して、どうやって儲けるかであるから、それをかぶせると次のようになります。
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ある市場のあるお客さんからの要求、Requirementに対して、手持ちのResourcesを使って、サプライチェーンプロセスや収益プロセスを経て応えてあげることになります。要求に対する答えを用意して回答するのがProcessです。こうした機能のそれぞれに価値、すなわち自分たちの強み、他社との差別化要素などを配してビジネスの競争に勝っていくのです。

ところで、PDCAとビジネスモデルでカバー領域が違うのはなぜでしょう。PDCAサイクルではRequirementとかResourcesが、ビジネスモデルでは、PlanやResultがあまり入り込んでいません。これはどういうことなのか考えてみるのもおもしろいと思います。次回にここらあたりの議論をしますのでみなさんも考えてみてください。

2012年9月22日

アントキノイノチ

アントキノイノキという芸人がいる。「元気ですかあー」と叫んでアントニオ猪木のマネをする。なぜか東京スポーツ映画大賞の授賞式にいつも顔を出していて、終了後の立食でひとりで酒を飲んでいる姿を見かける。猪木とはかけ離れて小柄で見栄えよくないので、こちらの方から「元気ですかあー」と声をかけたくなる。

そんな芸人の名をもじってつけたダジャレ好きのさだまさしの原作と同名の「アントキノイノチ」という映画は、格闘技ともお笑いとも全く違う、いたって真面目な映画である。監督が、「ヘヴンズ ストーリー」の瀬々敬久で主演が岡田将生、榮倉奈々である。ぼくは、なぜかさだまさしは好きになれないタイプなので、感動のベストセラーという原作は読んでいないが、映画は原作と大分違うようだ。

とはいえ、見入っていくと図らずもほろっとしてしまう。ストーリーは、高校時代にいじめにあって心を閉ざしてしまった永島杏平(岡田将生)が父親から遺品整理業で働くことを進められる。そこには、社長の古田(鶴見辰吾)をはじめ先輩社員の佐相(原田泰造)、久保田ゆき(榮倉奈々)とみないい人ばかりで、徐々になじんでいく。

とくに、ゆきとはお互いに持つ傷を吐露しあうようになり惹かれあっていく。杏平は高校時代、陰湿ないじめにあった友達が飛び降り自殺をしてしまうのを目の当たりにし、その後そのいじめが自分に向いてくるという目に遭い、相手に殺意を抱くところまで追い込まれていき壊れていったのである。一方のゆきも、レイプされて妊娠するも堕りてしまうという衝撃的な出来事を告白する。

そして、ある日ゆきは忽然と杏平の前から消えていく。その彼女を見つけ出すのだが・・・といったストーリーである。そこで、「アントキノイノチ」すなわち「あの時の命」というわけである。自分の友が落とした自らの命であり、自分が殺めようとした憎いやつの命であり、レイプされたとはいえ身ごもった新しい命である。そうした命と遺品整理業という中で出会う亡くなった命とを対比させながら生と死を考えさせられるのである。

ぼくは、ちょっとした皮肉屋の面があるので、つい「こりゃあズルイなあ」と思ってしまう。いじめ、自殺、殺意、障害、レイプ、堕胎、リストカット、孤立家族、生と死、親子の情、介護とこれでもかというふうに感動と泣かせのアイテムを並べられると涙を強要されているようでちょっと嫌な気分になったりする。

この映画がヒューマンドラマというジャンルに入るのかどうか知らないが、ヒューマンドラマが好きなぼくとしては、やっぱもっとベタではなくさらっとした感じなのだがジーンとくるものの方がいいなあ。
  
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2012年9月23日

まずはベスト16

いよいよ全国高校サッカー選手権の神奈川県の第二次予選に登場です。わが湘南高校は、第4シードになっているので、最初に勝つとベスト16になります。第4シードというのは、高校総体の予選でベスト16になったチームに与えられます。ちなみに、第1シードは、総体代表となった桐光学園と三浦学苑です。三浦学苑はこの大会を制覇して初の全国優勝を手にしました。昨年が桐学園だったので2年連続神奈川県代表が優勝するという驚きです。

さて、昨日の試合の相手は、一次予選から勝ち上がった瀬谷西高校です。気温もそんなに上がらずコンディションは上々だが、グランドが土でしかも野球のマウンドがあるというのが気になる。実力的には湘南の方が上なので、序盤から優勢の展開である。すると前半5分に左サイドからえぐり込んでセンターリングをするとフォワードが一瞬のスピードでバックスの前に出てシュートして先制する。

これで、楽勝と思われたが、惜しいシュートを連発するがあと一歩で防がれる。相手はセットプレーから崩しにかかるがシュートらしいシュートもなく前半を終える。後半に入ってからも攻勢は続くのだが、なかなか決まらない。こんな時は、一瞬のすきを突かれて失点というケースがよくあるのだが、一度キーパーと一対一になる場面がありひやりとさせられる。結局、前半の1点を守り切り、というか追加点を奪えず勝利する。これで、ベスト16になる。

力が上だから、もっとこちらのペースでやればいいのだが、相手に合わせて蹴り合いの試合になってしまった。もっとワイドに開いてパスを回せばよいのだが、どうしても中央付近で密集を作ってしまいヘディングの応酬をする。後半の後半に新しい選手を2人入れてテンポを変え、サイドを広くしていい攻撃をしていた。終わってから監督があれでよくなったのでもっと早く投入しておけばよかったと言っていた。

ただ、高校生ぐらいだとどうしても相手に合わせてしまうというか、自分たちのペースで仕切れない。ぼくが昔の顧問の先生(元県サッカー協会長)にこのことを言ったら、お前そういうこと言うけど高校生というのはそんなもんよと軽く言われてしまった。そういえば監督の先生も言っていたが、普段強い相手ばかりと試合をしているので、格下との試合のやり方がわからないようだ。

さて、今度は強い相手となる。昨日の試合からみると大丈夫かなあと思うのであるが、相手に合わせるのだから面白い戦いが待っていると思う。ただ、勝ち上がると全国大会優勝の三浦学苑が待ち受けるので難しいかもしれないが、もし勝てば全国でもとちょっぴり期待をしているのである。
 

2012年9月24日

ビジネス活動にプロセスはどのように入り込んでいるのか - PDCAとビジネスモデル(続き)

前回、PDCAとビジネスモデルのカバー領域が違うという話をしました。つまり、PDCAサイクルではPlan-Process-Resultが、ビジネスモデルでは、Requirement-Resources-Processが主な主なカバー領域でした。まずここで気がつくのは、違うと言いながら共通のところがあります。それはProcessです。だから、プロセスが重要なのだという前にまずはこのProcessのところを考えてみましょう。

PDCAサイクルでいうProcessとビジネスモデルでいうProcessは同じでしょうか。どうも全く同じではなさそうだと思いませんか。ここで、PDCAサイクルのProcessを見てみましょう。DoはPlanに基づいて実行するためのプロセスというイメージになりますよね。計画を実行するという見方です。一方でビジネスモデルではお客さんの要求に応えるためのプロセスになります。

どうもプロセスの起点が違うようです。すなわち、PDCAでは計画ありきというか自分たちの計画を達成するというところから出発しています。ビジネスモデルではお客さんが出発点です。ですから、内部起点プロセスと顧客起点プロセスという違いが出てくるのです。従って、同じProcess でも性格がちょっと違うのです。別に同じプロセスだから分けて考える必要がないという人もいるかもしれませんが、実はプロセスの設計の仕方だとか、案件の扱いだとか相違があるのです。これはまた別の機会に。

こうしてみて気がつくと思うのですが、これまでの業務システムがいかにPDCAサイクルを基本にして作られているかです。少し乱暴な言い方かもしれませんが、Resultをちゃんとマネジできるための仕組みを作ってきたともいえるのではないでしょうか。ERPはまさにPDCAサイクルを回すためのITシステムであったわけです。

だからダメだと言っているわけではぜんぜんなくて、根幹としてはなくてはならないものであるのは言うまでもありません。言いたいのは、逆にビジネスモデルのところのITシステムがちょっとおろそかになっていやしないかということです。いやあ、SFAだとかCRMだとかやっているじゃないかと言われるのだが、プロセスという概念を含めたものになっているでしょうか。まだまだ、リソースマネジメントの域を脱していないような気がします。

それと、PDCAサイクルにおいても従来のようなPlan-Do-Check-Actionという機能的な定義は再検討した方がいいと思う。どういうことかというと、先にどういう意味合いにしたらいいのかを言います。Design-Operation-Control-Analyzeという風な考え方が必要ではないかと言いたいのである。

なぜこんなことを言うのかの一番大きな理由はPlanのことである。長年の実感として「計画」を立てる有効性について疑問があるのだ。計画を立てたのに守られないということもあるのだが、それは守れない計画しか作れないからだと言ったらそれでおしまいである。一生懸命、販売計画や生産計画を作ったとしても、そのとおりにできないことがしばしばで計画の変更を余儀なくさせられる。

特に最近のように目まぐるしく変わる環境変化に追随するのは大変である。ということは、計画がどう実行されたかをチェックして次のアクションに生かすという言い方は似つかわしくないように思うからである。さらにCheckというのは遅いのである。“後の祭り“的なのである。また、Actionという前にちゃんと分析、解析をしないといけない。

ということで、フィードバックループを効かせたような制御系を持った方がよいのではという意味でDesign-Operation-Control-AnalyzeというDOCAを提案したいのである。実はこれはビジネスモデルオペレーションの考え方なのだが、PDCAサイクルの領域においてもこうしたダイナミックでスパイラルアップ的な動作が求められているのが現代の企業なのではないだろうか。ドーカ(DOCA)なな?
  

2012年9月25日

下町ロケット

いまの生業の相手先企業は中小企業が多い、というか大企業はぼくらのような零細企業は相手にしてくれない。その中小企業と付き合っているとそのたくましさや苦労がよくわかるようになった。彼らが日本の産業や経済を支えているのだという実感がわいてくる。そんな下町の中小企業の奮闘ぶりを描いた「下町ロケット」(池井戸 潤著 小学館)を読む。

本作品は昨年度(2011年)の直木賞受賞作である。前々から読もう読もうと思っていたのだが何となく先延ばしになってしまったのだが、やっと読むことができた。いやー、あまりのおもしろさに一気に読んでしまった。題名のとおり、下町の小さな企業が持つ特許がなければロケットが飛ばないという話で、大企業の様々な圧力(嫌がらせ)にめげず戦う物語である。

大田区にある佃製作所の社長佃航平は、かつて研究者としてロケット開発に携わっていたが、打ち上げに失敗して、その責任をとる形で辞めて、家業をついで2代目社長となった。中小企業の経営者になって7年目にピンチが訪れる。大手取引先から注文がキャンセルとなり大幅な売り上げ減となる。さらに追い打ちをかけるように、同業の大企業から特許侵害で訴えられる。

このままだと資金繰りも立ち行かなくなる事態が待っている。こうなると銀行も業績がいい時は調子よくふるまうのに一旦悪化すると冷たいものでそんな会社を助けようともしない。こんな負のスパイラルに入った中小企業はほとんどが倒産の憂き目にあうのが普通である。ところがそこから踏んばるのだ。資金繰りには銀行の代わりに投資ファンドが、訴訟には有能な弁護士が登場するのである。

そして、悪辣な同業の仕業に裁判所も佃の勝訴をもたらす。それ以上に逆提訴した特許訴訟で多額の損害賠償金を手にする。これで、一挙に反転するのである。そして、今度は超大企業の帝国重工がロケット打ち上げプロジェクトで使うエンジンの一部が佃製作所の持つ特許のために使えないことがわかる。内製化を方針にしている手前、他社の製品の使うことができないのである。困った帝国重工は、脅しも交えて特許使用料を払うという案をあの手この手と攻め込んでくる。

それに対して、佃はあくまで部品提供を主張する。自分たちで作ったエンジン部品をロケットに積んで飛ばしたいという夢を追うのである。でもそんなことができるのかはかなりの困難をもたらすので、社員の中には簡単に特許使用料をもらえばいいじゃんというやつも現れる。社長の夢を追うためにおれたちがなぜ犠牲にならなければいけないのかというわけである。

あまり、筋を追いかけてもしょうがないのでここまでにするが、会社経営というのは、特に中小企業の場合、夢では食えないが夢がなくては面白くないというジレンマに陥る。しかし、今の時代少なくとも小さくてもいいから夢を持たない会社はつぶれると思う。それがあってはじめて、明後日のビフテキか今日のコロッケかという話になる。

ぼくの実感としてあるのは、今はいろいろな意味で中小企業の大転換期ではないかと思う。以前は夢がなくても食えた時代であった。すなわち、大企業の下請けとして降りてきた注文のこなすだけで十分成り立っていたのである。ところが、今は自立しないと生き残れない時代となった。口を開けていればお腹いっぱいになった時代から、自ら餌をとりに行かなくてはならない時代になったのである。

そして、その時代の経営者たちは老齢化して、2代目にバトンを渡す時となったのである。だから、二代目は新たな経営方針とビジネスモデルを確立しなくはいけない。つまり、夢を語る必要があるのだ。ある程度、ビフテキを食べる姿を思い描く必要がある。そんな中小企業の物語がこれである。もう最後は泣けてきた。こんな中小企業がいっぱい日本にできるといいなあと思う。ぼくの知っている若い中小企業の2代目社長のなかには本に出てくる佃社長のような人がいるので期待しているのである。
 

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2012年9月26日

ヒューゴの不思議な発明

映画人が映画を題材に映画を撮ると映画批評家や映画好きから賛辞が送られ映画賞をとったりする。それが、一般の観客に受けるかというと必ずしもそうはいかない。どうしても、オタクっぽくなるからである。「ヒューゴの不思議な発明」は、巨匠マーティン・スコセッシが世界初の職業映画監督と言われたジョルジュ・メリエスへのリスペクトを込めて作られた作品である。映画好きにはたまらないが他の人にはそう評判になったわけではない。

ジョルジュ・メリエスというのは1861年生まれのフランス人でまだ映画が登場して間もない頃のリュミエール兄弟の作品を見て自分で映画を作りだす。元々は、マジシャンであり、劇場を経営して人気を博していた。彼のもっとも有名な作品は、1902年に公開された「月世界旅行」で、ちゃんとしたストーリーもありカラーにもなっているという画期的な作品であった。映画の歴史なんて調べてみると必ず登場する。

1930年代、父(ジュード・ロウ)を火事で失ったヒューゴ(エイサ・バターフィールド)は、伯父に引き取られ駅の時計台に住んで時計のネジを巻いて毎日を過ごしていたが、その伯父も亡くなり一人となる。彼の楽しみは父が残した「機械人形」を修理して動かすことであった。その過程で機械人形の修理に必要なハート型の鍵を持った少女イザベル(クロエ・グレース・モレッツ)と、その少女の養父である老人ジョルジュ(ベン・キングズレー)に出逢う。

そして、その修理が終わって鍵を使って動かしてみると、機械人形はある絵を描きだす。それは「ジョルジュ・メリエス」という署名の入った月の絵であった。そのジョルジュ・メリエスこそ、イザベルの養父の老人であった。ジョルジュは過去の栄光も夢も捨て心を閉ざしていた。そうしたジョルジュの心をヒューゴは徐々に開かせていく。そして、あの映画のシーンがよみがえってくるのである。

映画は3Dで制作されているのだそうだが、そうでなくても十分楽しめる。特に「月世界旅行」の撮影風景やそこで用いられたSFXまがいのテクニックには驚かされる。メリエスに3Dを使わせてあげたかったという思いがスコセッシ監督にあったのでないかと思える。もともと映画というのはこうした“マジック“的な面白さをもったものだったのだろう。

マーティン・スコセッシとういうと誰でもがあの「タクシードランバー」の監督かというように、どちらかというとハードボイルドタッチのものを多く手がけているが、今回の作品はかなりファンタジーを感じるもので、子供にも見てほしいものに仕上がっている。冒険、機械、発明、夢といった少年につきものの要素をちりばめてあって映画好きのぼくには童心にかえって見応えがあった。
 
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2012年9月27日

建設業界とIT業界

例えば、IT産業は建設業を似ているが、建設業に比べて日本のIT産業はなぜこんなひどい状態なのだろうかという議論がある。確かに業界構造的は似ているかもしれないのだが、本当に共通項として括っていいものだろうか。括れなかったら何が違うのだろうか。その違いから何かが見えてこないだろうか。

その前に一言でIT業界といっているが様々で、普通は「インターネット業界」「パソコン、その他ハードウエア業界」「ソフトウエア業界」「通信関連会社・プロバイダ」といったジャンルに分けられます。ここでは、「ソフトウエア業界」のことを言っていますので間違わないようにしてください。ソフトウエア業界でもさらにソフトウエアそのものを作っている企業とソフトウエアを使って業務システムなどのアプリケーションを作っている会社とに分かれますが、後者のようなアプリケーションを作っている領域に焦点を当てることにします。建設業も同じようなのですが、こちらは家を建てることや建造物を構築することに該当します。

似ているところはというと、受託請負であること、要求定義から要件に落とし込んで設計・開発を行うこと、大手ゼネコンを頂点にした多重下請け構造になっていること、末端に零細の中小企業が多くあること、仕事のやり方がプロジェクト管理主体などだろう。こう見ていくとやはり似ているなあと思う。

では逆に違う点というか、どちらかにできていてどちらかにできていない点は何なのだろうか。建設業界を眺めると談合、JV(企業共同体)、建築基準法、設計事務所、不動産屋の存在など、建設業界の特徴をあげることができる。ところがIT業界はなかなか取り上げるものがない。ということは、業界特有のビジネスモデルが確立していないことを意味していて、だからこそこうした議論がなされるのかもしれない。

ここであげた建設業界の特徴をよく吟味すると共通的な意味がくみ取れる。何だと思いますか?要するに、談合できるような、JVを組めるような、法的な枠組みがあるような、設計屋さんとして食っていけるような、中古も含めた物件を売買できるような、そんな商品であり仕事であり、ビジネスなのである。それはいったい何なのだろう。

それは、汎用的であり標準化されたものであり、顧客ニーズに対する適合性がよい商材をエンジニアリングとして提供していることにあると思う。だからこそ、同業と組んでもできるわけで、中古でも使いたいという人がいるわけである。IT業界でこんなことができるだろうか。JVというケースも公共などではないことはないが、同じ仕組みを別々に作らすなんてことがやられる。どこかで要らなくなったシステムを買ってくるなんてことも、銀行のオンラインであったようだが少ないと思う。

だからといって単純にIT業界はダメだと言っているわけではなく、このことをヒントにして考えてみるのも意味があるのかと思うのである。今言ってきたことですごく感じるのは結局“役に立たないシステムが半数以上ある”ということに尽きる。なぜIT業界は使ってもらえないような商品を平気で生み出しているのだろうか。少なくとも、建設業ではあり得ないと思う。(グリーンピアのような別の意味で使ってもらえないものはあるが)

つまり、建築物というのは、作る前も作っているときもどんなものができて、それをどうやって使うのかという具体的なイメージを作り手と使い手が共有しているからなのである。できてから、思っていたものとぜんぜん違ったものだったなんてことがないのだ。ところが、業務システムではこうしたことが結構あって、出来上がってから変更が頻発したり、使いものにならないのでそのまま放ってあるなんてことが起きる。

IT業界がダメだというのは結局ユーザの信頼を勝ち得てないからであるのだから、役に立たないものを平気で提供している限りはダメな業界であり続けるだろう。ですから、単に建設業界と比較してダメだと言っても始まらないので、どうやったら本当にユーザに喜んでもらえる役に立つシステムをエンジニアリングできるかを真剣に考える必要があると思うのである。
  

2012年9月28日

ビジネス活動にプロセスはどのように入り込んでいるのか - PlanとResourcesのプロセス

プロセスというものを考えていくと大きな意味でのPDCAよりもビジネスモデルのほうに入り込んでいるのがわかると思います。それに進んで行く前にPlanとResourcesという二つの領域について考えていきましょう。なぜこうして取り上げるのかというとどうもプロセスになじまないような気がするからである。ただ、ここでいうプロセスというのは日常的な企業活動、ビジネスモデルの実行するためのプロセスという意味です。

要するに「位相」が違うのである。もちろん計画を立てるという意味ではプロセスがあり、リソースを管理するという意味でもプロセスはあります。ただ、計画を作るプロセスは前回にも議論したように日常のビジネス活動の前にあらかじめ立てておくということで時間的なずれがあります。ただ生産計画などは、連続性があると言えばありますが、直接的なビジネス活動でもないのです。こういうと反論されそうですが、つまりお客さんとの関係では希薄だという意味です。

ですから別の時限で計画を立てるプロセスが動いているわけです。それと同じようにリソース管理についても言えて、日常的なビジネス活動ではリソースを使うことであって、その管理プロセスはまた違った「位相」で動くことになります。例えば、新規のビジネスが始まるときにその専門家を雇うといった人材採用プロセスは前もって動いていることになります。逆に、ビジネスのスループットが増えたので設備の増強をしたとなると、そのあとの設備管理は後で発生するといった具合である。

そして、大事なことは計画にしてもリソースにしてもビジネスモデルから導かれたプロセス(後で議論していきます)を円滑にかつ効率的にオペレーションするために存在するのです。つまり、そうしたメインストリームありきなのです。いつも言っている「プロセス先行アプローチ」は厳密に言うとこのプロセスを中心に据え、先行させて考えるということになります。

時々、みかけるのはメインストリームのプロセスがちゃんとしていないのに、やれ販売計画システムだ、需要予測だ、CRMだ、物流システムだといったようにサブプロセスに力を入れることがあります。これらは本末転倒で、ビジネス活動の要諦である顧客の要求獲得から商品提案、オーダー受領、商品ピッキング、輸配送、納品、代金回収といったプロセスをきちんと確立しておくことが先決なのである。

PlanとResourcesという領域はメインストリームのプロセスと位相がずれているという指摘をしましたが、それとともにフロー的な機能よりもストック的な機能が重視される点でも違ってきます。別な言い方をすると「情報(データ)管理」的な色彩が強いとも言えます。ちょっとわかりにくいかもしれませんが、計画もリソースも最終的には情報(データ)という形になります。例えば、予算値、販売計画数とか、人材プロファイルとか設備能力といった情報(データ)を活用することです。

ですから、これらはほぼマスタ管理と同義ということになります。すなわち、データを生成、読み取り、更新、削除するいわゆるCRUDの世界である。ただ、単純なデータベース管理ではなく、プロセス要素が入ったマネジメントが必要であることは言うまでもありません。ということで次回からは、ビジネスモデルからプロセス展開をどうやって行くのかを見ていきます。
 

2012年9月29日

文書の編集が仕事そのもの?

文書作成ソフトとかドローイングツールとか、データベースソフトなどに編集機能というのがある。字句の修正や入力フォームを追加・修正したりできる機能である。新聞や雑誌の編集作業と同じようなことである。こうした作業こそ仕事そのものではないかと思うのである。なぜこんなことを言うのかというと、プロセスを記述してそれを動かす時、何やら編集作業をしているように思えるからである。

プロセスというのはフローを表現するわけだから、順番があることになる。つまり、ある意思決定をして、それが終わると次の意思決定に移るとなる。その意思決定は同じ人がやらない場合もあるから、一旦終わらせておいてから次の意思決定に進むことが多い。後のほうは追加となるわけである。また、差し戻しのようなこともあるがそれは修正ということになる。

結局、依頼に対する回答書という文書を追記・編集しながら完成させるのがオペレーションといえないこともないのである。例をあげると見積依頼に対する見積書という文書を作成する場合、納期を記入したあとその文書を一旦保存して、そのあとに金額を追加記入という編集作業を行うわけである。見積書作成という業務オペレーションはこんな形で行われるのである。

ただ、これらのソフトイやツールはこのことを意識していない。要するに、字句や図の編集にフォーカスしていて、編集作業のしやすさとかには気を使っていない。編集作業はなぜか裏の作業のような感覚になっている。まだ未完成だからよそには見せないでこっそりやりましょうという感じである。だから、決してやりやすいようにはできていない。完成してから見てください、そこはきれいになっていますよというわけである。

これは業務システムを考えた場合であって、たとえばオープンソフトやWebサービス開発なんかではやられていると思う。プログラムソースをみんながコミットして作り上げるイメージだ。勝手にやられても困るのでチケットで管理しましょうといったやり方である。そういった感覚をITツールに持ち込んでほしいと思う。

この間も業務システムを開発するシステムベンダーの人だちと話をしていても、まだまだアウトプット重視というか、できあがったものだけで評価するクセみたいなものがあって、そこに至る過程を軽視する傾向があるのではないだろうか。これは、自分たちの仕事の部分だが、業務システムに対しても同じような姿勢があると思う。

仕事は段取りしたあと実行して終了するというのが基本だが、その途中経過というのは編集作業によく似た動作なので、それがスムーズにできるようなソフトウエアを作ってほしいと願っている。それってワークフローがあるじゃんという人がでてきそうだが、決められた順番どおりに編集作業ができるかどうかやってみてから言ってほしいと思う。
  

2012年9月30日

夢売るふたり

お待ちかね西川美和の新作である。松たか子と阿部サダヲ主演の「夢売るふたり」を観る。西川美和はもちろん今回も原案、脚本、監督をひとりでこなしている。昨今は漫画やベストセラー本の原作を映画化するのがはやりであるが、彼女は自分で本も書くし脚本も自分で書く。彼女が最初に仕えた是枝裕和も同じようなスタイルだがぼくは評価している。売れた原作を映画化するのはいかにも安易な感じがするからである。

ただ、期待が大きかったしれないが観終わったあとちょっと物足らなさを感じた。一緒に観た映画友達のS君も同じだったらしく、帰り道でなんというか「キレがなかったなあ」というのが異口同音に出た言葉であった。

夢見る二人ではなく夢売る二人というのがミソで、貫也(阿部サダヲ)と妻の里子(松たか子)は、東京の片隅で小料理屋を営んでいるがあるとき失火でその店を焼失してしまう。絶望した貫也は酒びたりの日々を送り自暴自棄になる。ところがある日酒を飲んで帰るとき元の店の常連客だった女と出会い一夜を共にする。その女は不倫の相手が事故で死んでしまい、その手切れ金をもらうのだが同じように絶望感を持っていたのだ。

その帰りにその金を貸してくれることになる。ところが、持って帰った家で里子はすぐに夫が女と寝たことに気がつくのだが、ふと結婚詐欺を思いつく。そこから、結婚願望の強い女たちを狙って貫也が迫っていくのである。それも弱さを前面に出してあわれみを乞うようにして相手の心の隙間に入り込み金をせしめる。相手は、出版社OL、重量挙げ選手、デリヘル嬢などである。もちろん、里子がコントロールするのである。

ところが、徐々に二人の心が変化し始めるのである。お互いに知らなかった本性が顕在化してくる。従順な妻であった里子が悪意の表情を見せるのであり、貫也は様々な女を渡り歩く男を嬉々として演じるようになる。そして、新しい店を構えられるほどの金を稼ぎだす。しかし、所詮悪事であるから長続きする明けではなくやがて・・・。

さびしい女たちに束の間の夢を売ってお金を手に入れるというわけである。こうした着想自体もおもしろく、人間の心理の揺れもじわっと恐ろしくなりなかなか見ごたえはある。また、松田たか子が「告白」の悪まではいかないまでもその表情の変化の表現がすばらしく感心させられる。貫也が女と二人で電車に乗っているところを新聞越しに見る眼なんて見てる方がすくんでしまう。

そのほか阿部サダヲもだまされる女役の鈴木砂羽、田中麗奈、木村多江などもなかなかの好演である。ただ、常連の俳優さんというのかどうか知らないが、「揺れる」と「ディアドクター」で主役を務めた香川照之と笑福亭鶴瓶が出ているのだが、主役を張れるような俳優さんでまたクセもあるので邪魔になったきらいがある。

西川美和はだますだまされる映画が好きなようだが、今回は貫也という男がだましている明けではなく女の里子が操っているだけなので、まさに女のための映画のような気がしてぼくら男にはそこがちとわからないところだったのかもしれない。

もうひとつ、最初のタイトルで主演や監督の名前と一緒に主要なスタッフの名前が流れた。これは珍しいことだが、西川監督のスタッフへの思いというかリスペクト感がとてもよかったのである。この人たちと一緒になって作った映画をさあ見てくださいという気持ちが伝わってくる。

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