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2012年5月 アーカイブ

2012年5月 1日

KOTOKO

最近の若い女性の歌手の名前がわからない。特にAikoだとかYuiだとかCharaなんて言われても顔も浮かんでこない。Coccoというのもけっこう人気のアーティストらしい。沖縄出身のシンガーソングライターで根強いファンがいるという。その彼女が主演する「KOTOKO」を観る。監督は鬼才塚本晋也で彼もCoccoのファンだという。

第68回ヴェネチア国際映画祭オリゾンティ部門最高賞(グランプリ)を受賞している。この映画祭は、日本映画の評価も高く古くは黒沢明の「羅生門」、最近では北野武の「HANA-BI」が金獅子賞という最高の賞を受賞している。塚本監督もこの映画祭では以前にも賞ももらっていて高い評価を得ている。

Coccoが演じる女性琴子はシングルマザーで唄っている時以外は世界が二つに見えるという。大二郎という幼い息子を守ろうという意識が強く、それがだんだん大きなものになり、ある種の脅迫観念にかられ、現実と虚構との区別がつかなくなり、精神の均衡が崩れていく。そして、自分の存在を確かめるように自らの肉体を傷つける。

そんな時に、田中と名乗る小説家(塚本晋也)が彼女の前に現れ、一緒に暮らし始めるのだが、その男の体をも傷つけることを繰り返しながらもまた精神の彷徨を続けるのである。この女性をCoccoが体当たりの演技で熱演する。手首を切り血だらけになりながらわめく姿は、演技とは思えない迫真のものである。

ただ、ぼくにはよくわからなかった。その前にこの映画に明るさがないということが嫌だった。一緒に鑑賞した映画友だちのS君も同じ感想で、確かに緊張感を失うことなく見たが、ポスターにあるように「生きろ、生きろ」というメッセージなのだろうが、救いがない先が見えてこないそんな映画に思えて息が詰まるのである。

さらに、一歩下がって見ると琴子の独りよがり的な思い込みだけで、彼女と他者との関係性が描かれていないのも嫌だった。厳しい言い方だが、あなたが勝手に被害妄想に陥っているだけじゃんと思ってしまう。それと、精神を病んでいることを映画にしてどうなのということも手伝っている。

人によっては、これが放射能が子ども与える恐怖におびえる母親という図式でとらえる見方もあるそうだが、それは飛躍しすぎだろう。いかにもヨーロッパの映画人が好みそうな観念的な映画であるが、ただぼくにはよくわからないというのが正直なところである。あまり後味のよくない映画であった。

kotoko.bmp
 

2012年5月 2日

たまにはメディアでも斬ってみるか

さすが連休ともなると雑音が入ってこなくなり落ち着いて過ごしている。こんなときはふとものごとを第三者的な目線で見ることができる。これだけ多くの情報に囲まれ、何かと些事に振り回されていると、効率性、能率性を求めて情報の絞り込みをする。例えば、ネットにある情報にしても、ふだんよく読む記事などを“お気に入り”に入れておいたり、自分のフィードリーダーに登録しておく。しかし、よくよく考えてみるとずいぶんと世の中を狭めているのではとそんなことを考えてしまった。

自分のお気に入りの情報だけに接するわけだから、耳障りのいいものばかりでやっぱりおれの考えは正しいと錯覚してしまう。だから、反対の意見も傾聴しなくてはと言いながらも読むと腹が立つのですぐにやめてしまう。そんなときに本来必要なのがマスメディアだろうと思う。まさにマスとして見方を客観的に公正に提供してくれるものであるべきだろう。

ところがそのマスメディアが劣化しているので困ったものだ。だから、そのメディアを叩くことで位置を確保している個人も含めたネットメディアがあって、それはそれは毎日ネタを提供してくれるのでコバンザメ状態で潤うことになる。ここでそれをどうのこうの言おうというわけではなく、ぼくもちょっと言いたくなったのである。

つい最近頻発している自動車事故もそうだが、ニュースにおける事件や事故の報道の異常さである。なぜこれほど大々的に、またプライバシーに切り込む報道が必要なのだろうか。近所のおばさんに被害者はどんな人でしたかと聞く必要がどこにある。報道の目的は何なのかを忘れてはいないだろうか。だいいち事件・事故に遭った人や家族などにとって触れたくないことばかりだろうし、報道を見聞きした読者や視聴者にとっても単なる興味でしかない。だから、そっと触れるだけで十分なはずだ。

テレビ番組にお金がかけられなくなったので、事件のニュースは安上がりなので時間をとるのだという。もしそうなら、ひどい話でテレビ局は大事故や大事件が起きるのを期待して待っているというあきれたビジネスモデルである。ところが、世の中こうしたビジネスモデルが多くあるのである。貧困ビジネスなんて言葉もあるように人の不幸をビジネスにするモデルで筋が悪い。

同じような話に医療を基幹産業にということを言う人もいます。何となくよさそうな印象を受けますよね。ただ、ここでも産業とかビジネスといったものになると、収益が成り立つには儲けなくてはいけない、売上を伸ばさなくてはいけなくなりますが、それは病人が増えることを願うことになります。顧客拡大という意味は患者を増やすことなのです。いや、病気にならない医療をめざすと言うかもしれないが、究極的には病気にならなくなったらその産業がなくなってしまうわけだから、自分の商品が売れなくなることをめざすビジネスはないのではないでしょうか。

ちょっと話がそれたので戻すと、マスメディアのことで時々不可解に思うことがある。先日、日米首脳会談が行われてそのとき当地で記者懇談会というのをやって、それが記事になるのだが、何と話題が、小沢一郎であり、原発再稼働であり、消費税なのである。ええー、記者さんは何しに米国まで行ったの?

まあ、野田首相の訪米の目的もイマイチなのだろうが、わざわざ米国まで随行してオバマとの会談もそばにいたのだから、そんな国内問題ではなく、日米関係だとか国際問題について懇談するんじゃないのか。これじゃあ、旅の恥はかき捨て発言を期待するという週刊誌みたいなメディアに成り下がったと思われても仕方がない。

というわけで、いまさら腹も立たなくなったが、マスメディアの自業自得の劣化はひどいものでこのまま衰退の一途をたどうのだろうか。

2012年5月 3日

たまにはビジネスモデルのことでも考えるか

家の前の山は竹林である。今年はだいぶ遅くなったが筍が旬である。採りたての筍で筍ごはんと刺身を食べる。ぜいたくな瞬間である。昨日も書いたがのんびりとした時間を過ごしながら、6年前に起業した頃のことを思い出している。はずみで息子と一緒に会社を興したような気がする。もう少し熟慮してちゃんとビジネスモデルを作ってから跳べばよかったのではと今だから思う。いつもそうだ。しかし、考えてみればそうやって始めたからこそそう思えるのであって、とことん考量したからうまくいくとは限らない。

こんなことを思い出したのも、テレビで「伊賀の里 モクモク手づくりファーム」と「リブセンス」という二つの会社のことを知ったからである。何となくは知っていたのだが改めてすばらしいと感じ入ったのである。「伊賀の里 モクモク手づくりファーム」は、三重県の伊賀市(旧阿山町)にある農事組合法人で、後者の「リブセンス」は社長が弱冠25歳で最年少上場記録を作った会社である。

もくもくファームは元農協職員だった二人の修さんが、農協を辞めて1987年に起業した組織であり農場で、そこで最初は「ハム工房モクモク」という名で伊賀豚からハムを作っていた。今では、年間50万人が訪れるという。年商も50億円に届こうとする勢いである。牧場で豚やヤギと戯れることができるかと思いきや、手づくりハムやソーセージの販売や食堂や温泉もあり、農業体験もできる。リピーターの会員が4万人にもなるという。

ここのビジネスモデルは、農業の下請け構造、すなわち自分たちで価格を決めることができずいいなりの価格で納めるしかないモデルを変えたことが特徴的だ。だから、他に較べて高いのだが、うまいものを高く売るのは当たり前だという考え方である。しかも地元産にこだわり続ける。価格決定権をもつということは、生産、流通、販売の全部を自分たちでやるという自己完結型なのだ。

ただし、高品質高価格を維持するには様々な仕掛けを施すわけだが、重要なことはその良さをどう伝えるかだ。この伝える力があったからこそこれだけの人気を得たのだという。情熱とよいビジネスモデルがあれば、農業であっても、地方にいてもできるのである。日本の農業再生のヒントがここにある。

「リブセンス」は、社長の村上太一君(社長に君づけもおかしいがその方が似合っている)が大学生の時に作った「ジョブセンス」というサービスでビジネスを始めている。「ジョブセンス」はアルバイトのための求人サイトで、特徴は成功報酬型であること、すなわち掲載費が無料で、採用できて初めて費用が発生するモデルである。さらに採用された求職者には祝い金を贈呈されるという。3方1両得という仕組みである。

いまでは5万件の掲載数と、月間300万人のユーザだという。おそらくこれからは「成功報酬型」のビジネスモデルが増えて来ると思う。現に弊社もこうしたサービスを指向している。いいところに目をつけたと思う。ただ、これだけだとすぐに後発が登場してくるケースが多いのだが、そこをどう乗り越えていくかになるのだが、この会社は強い技術力で追随を許さないようにしているという。ネットビジネスの要諦である。

この2社を見ていると、全く新しいビジネスモデルというわけではないのだが、だれもが常識的には難しいと躊躇する部分を果敢に攻めて有効なビジネスモデルを確立したように思える。中抜き商流であり、成功報酬型である。それと、根底に流れる精神としてもくもくの社長の言葉である「消費者は、仲間だ」というのがあるように思える。

ビジネスの果実を一方的に得るのではなく、生産者も消費者もみながハッピーになれるようなモデルがこれからのキ―になるだろう。顧客をだましても儲かればいいやという時代ではなくなったのだ。だから、日本の従来型の商流(例えば総合商社の存在とか)はだいぶ変わっていかざるを得ないのではないだろうか。
  

2012年5月 4日

たまにはベイスターズの弱さを嘆いてみるか

今季ベイスターズは、球団オーナーがDeNA、監督も中畑清となりかなり期待はしていたのだが、予想通り?定位置の最下位にいる。昨日のヤクルト戦は3-1で久々の勝利である。打ってははケガで出遅れていた筒香の復帰しての活躍と投げては開幕投手高崎がやっと勝利をつかむ。しかし、4連続完封と連敗を6でストップしただけなので手離しで喜ぶものではない。

それにしてもひどい。チームの成績をみると一目瞭然で、わかっていながらあきれかえる。勝ち数・負け数もちろん勝率2割9分2厘は断トツ最下位、得点・失点も言うに及ばず、チーム打率1割9分4厘、防御率3.66ももちろん最下位である。もう首位中日から9.5ゲームも離されてしまった。打てないわ、打たれるわではどうしようもない。

ぼくの印象だと今年は投手陣は比較的がんばっていると思う。去年は早々と試合が成り立たなくなることがあったが、今年はふんばっている。だから、このていたらくの原因はもう打てないことに尽きる。打率もさることながら、本塁打数がたったの4本ですよ、ヤクルトのバレンティンなんて一人で9本も打っている。

開幕当初は中畑も元気がよく、マスコミでも取り上げらていたがここのところあまり見かけない。さすがに声も小さくなったようだ。でも、いつも思うのだが野球は監督の力なんて大した影響力がないから、この弱さの原因は采配とかいった問題ではない。多少選手の起用法で影響力を行使できるが、おおかたは選手の力不足である。

野球というのは、団体競技と思われがちであるが、これはまぎれもなく個人競技である。サッカーとかラグビー、バスケットボールなどとは全く違っていて柔道とか水泳とか体操といった個人競技である。ピッチャーとバッターの勝負は柔道だし、盗塁は水泳で守備は体操競技である。だから、野球の監督はオリンピックの柔道監督と一緒である。試合が始まったら監督はなにもできないというのも同じでしょ。

それと、ほとんどピッチャーとバッターの勝負で決まってしまうのだが、打つ方が攻撃で投げるのが守備と思われがちだけど、実は反対なのです。サッカーやラグビーではボールを支配している方が攻撃しますよね。野球はどうでしょうか。ボールを支配しているのは投手であり、守備についた方ですよね。だから、ボールを持っている方が攻めているのです。

何を言いたいかというと、攻撃と守備の考え方を変えてみたらと思うのである。打撃は攻撃ではなく守りなのだということである。だって、ボールが相手にあるのだから攻められないでしょう。ピッチャーがあの手この手と攻めてくるのを負けない(三振させられる)ために、バットに当てるか、向こうが自滅する(四球)ように守るのである。もうこうやって守備のチームにするんだと宣言すればいい。そんなことでうまくいくはずがないと言われると思うが、何か変えないとどうにもならないので苦し紛れに言っているのだ。

もう今シーズンはあきらめたから、将来を見据えた戦いをすればいい。中村とかラミレスとか森本といったよそからベテランを連れてくるのもいいが、生え抜きを育成するというのも大事だと思う。両方をうまくミックスした形が望まれるのだが、そこに戦略がなければいけないのだが、それがあるようには思えない。

これは、シーズン中の監督采配とかコーチの知恵や指導といった問題ではなく、マネジメントに関わることだろう。高田繁がGMになってフロントに若手の優秀な人が入ったと聞いていたがそれがどうなっているのか良くわからない。もうこうなると強くなるために「マネーボール」にならえばいい。高田がビリー・ビーンになれるかどうかは別として、あのセイバーメトリクスによるチーム編成をするのだ。

セイバーメトリクスというのは野球を統計学的手法をもって分析することで、そこで選手獲得の基準として重視するのが、出塁率、長打率、選球眼である。ビリー・ビーンはこれで選手を集めてオークランド・アスレチックスを強豪チームに引き上げたのである。いいですかこれって“守備”ができる選手を集めたのである。
  

2012年5月 5日

たまには人生論でも語ってみるか

この間53年ぶりに小学校4年生のときのクラス会を開いたことを書いた。あのあと、86歳になる恩師の先生から丁重なるお手紙をいただいた。そこには、当日の感動が記してあるが、それに続いて「本日は皆さんひとりひとりから小学校、中学校、高校は、仕事や大学は、どんな仕事にどんな人と世帯を持ったのか、そして今を伺いたかったのですが・・・」とあった。そうした人生論のようなものを求めているとのこと。

その手紙に触発されて自分の50年史を考えた。するといつのまにか“小学校を卒業すると”という書き出しで綴り始めていた。そして小学校を卒業してからの50年で経験したことや思ったことを認めたものを手紙として出そうかどうか迷ったのであるが、一昨日、先生あてに投函したのである。

やはり50年というと書くことがいっぱいあり過ぎる。このブログの「男の伝言板」とか「極私的年代記」(ここに出てくるK先生が4年生の時の担任です)にも書いてあるのですが、ポイントだけを通しで書いてみたのである。それを眺めながら“おれの人生ってどうなのよ”とツッコミを入れたくなった。

もうこの歳になると恩師にかっこいいことを言おうなんて思わないし、先生だってそんなことを聞きたいわではない。特段意識せずにぶっちゃけた話を素直にすらすら書いてみた。それで、どんなことを書いたのかを見てみると、結局しくじったことばかりだったのである。失敗したことが並んでいる。

それら失敗の原因は自分自身の不注意や未熟さ、優柔不断さだったりがほとんどですが、人間関係の絡みとか巻き込まれたこともあった。いずれにしろ、いま考えるとなぜあんなことをしたのかとか、もっとこうすればよかったと思うことばかりである。でもできなかったのですよね。今の自分がその時にいたらもっとうまく立ち回っただろうというのは当たり前で多くの経験を経たからこそ言えることなのだ。いまでもあいかわらずしくじってばかりですが。

ぼくが小学校を卒業するときに寄せ書きに書いた言葉が「後退するな、自信を持って前進しよう」というものであった。裏を返せば、それだけ自信がなかったということでもある。大人になるということは、少しずつ自信をつけることであるような気がする。あのときは失敗したが、もうしくじらない自分になったという自信を持つことで成長するのだ。

そしてまた時間の力というか効果を実感する。失敗すると死んでしまいたいくらい落ち込むし、ずっと引きずってしまうが、時間の経過とともに、今言ったように自信も持つことも手伝って清算していけるのである。この歳になってやっと我慢して嫌なことを忘れる術を身につけたように思う。

失敗したことは様々な形で記憶に残っているが最も心に沁み込んでいることは人間関係である。うまくいかなかった時、それまで関係のあった人たちが2極化する。助けてくれる人と去っていく人である。去っていくだけならいいがなじる人、さらにひどいのはじく人まででてくる。ぼくは、何回も人に助けられた。失敗をカバーしてくれる、なぐさめ、はげましてくれる、そういった人たちには今でも大変感謝している。

一番きついのははじく人で、はじくとは無視するならまだしも排除しにかかる人である。あなたはもう要らないから出て行ってくれである。こればかりは人間失格のレッテルを貼られたようでなかなか立ち直れなくなる。だから、ぼくは自分では絶対に排除の論理をふりかざしてはいけないと思った。相手が失敗したり、間違ったり、時には意地悪されたとしても排除することはしまいと誓ったのである。

このことを改めて知らされたのは、ぼくの家族である。自分のヨメさんやこどもたちをほめるのもバカかと言われそうですが、3人の共通したすばらしさは、「他人を悪く言わない」ということである。あの子はひどいとかあの人は大嫌いとかいうのを3人の口から聞いたことがない。単なるおひとよしなのかもしれないが、排除することなんて端から考えてもいないようだ。そんな気付きをぼくに与えてくれた。

結局、人生は何でもうまく行くことはあり得ない、ということはだれでもしくじることもあり、失敗するのである。自分も他人もうまくいっている時にはひとが寄ってきて良好な人間関係が表面上できるのだが、ひとたびうまくいかなくなると対人関係にもひびが入る。そんなときこそ、人間の器量が試されるわけで、その時の大切な心根は“受容“ではないだろうか。
  

2012年5月 6日

再び、ノマドについて

この間「ノマドとは」というタイトルで記事を書いたが、この話はけっこうホットなのですね。というのも、うちの社長も自身のブログ(ゆーすけべー日記)で「ノマドならルノアールがはかどるよねぇ~っていう10個の理由」というエントリーを載せていた。その10個の理由というのが、

①長居しても嫌な顔されない
②場所によっては空いている
③電源が使える
④livedoor無線LANが使える
⑤打ち合わせにも使える
⑥お茶がエンドレスに出てくる
⑦禁煙席・喫煙席と分煙
⑧コピー機があったりする
⑨会議室を持っているところも
⑩今ならルノアールEdyで15%オフ

なのだそうだ。ルノアールの快適さはぼくが教えてあげたようなものだが、ちょっと付け足したい。会議室を持っているところもあるのだが、ビジネス席があるところもあって集中して仕事をしたい時には絶好だ。で本当にプラスしたいのは「ウエートレスの女の子がきれい」だってことです。どこの店でもチャラい子がいなくて気分が良くなります。これはノマドワーキングスタイルの話。

あと、常見陽平さんというかたが「尾崎豊とノマドワーカー 自由な生き方に答えはあるか?」というエントリーをしていておもしろいことを言っています。尾崎の言動をみていると、彼の曲の解釈は「「学校」や「家」に所属することを拒み、盗んだバイクで走りだすのだが、彼は「自由になれた気がした」だけであり、「自由になった」わけではない。学校は彼を「支配」していたのかもしれないが、卒業したところで、会社や社会が人を支配していく。」ということではないか、これはまるでノマドワーカーみたいだという。ノマドさんたちははたして「自由になれた気がした」のか「自由になった」のか。

前の記事でマラソンの藤原新のことを書いたが、あれから彼はなんと「ニコニコ動画」を通じて募集していた個人スポンサーが、定員の2万人に達し、1050万円の活動資金を得たそうだ。ニコ動プレミアム会員の1か月分の会費525円が藤原選手への協賛金として振り込まれるというのである。五輪代表マラソン選手というコンテンツの価値を売り込んでそれをマネタイズしている。やはりノマドランナーですね。

前回も言ったのだが、「自由になれた気がした」から「自由になった」と思えるのは、自分自身が主体的に、能動的に動くことで、そのためには自分という商材の価値を高め、そのサプライチェーンと収益モデルを自身で確立する、すなわち自己完結型のモデルにすることなのだろう。ビジネスマンが芸術家に近づくようなそんな時代なのかもしれない。
  

2012年5月 7日

クラウド時代の業務システム・・・クラウドとは

クラウドがもてはやされている。バズワードに近いと思うのだが世の中こぞってクラウドだと言っている。IT業界は、何でもいいからはやりの言葉を作って、ユーザーを煽りたてて売り込むことを絶えずやり続けるという商法だからまたぞろ出てきたなと思う。ただ、そうは言っても新たな変化ももたらしていることは確かだから、きちんと評価して必要なものは採り入れるようにしたほうがいい。

そのとき、自分の立ち位置として業務システムにとってクラウドとは何なのかという視点があるので、「クラウド時代の業務システム」というテーマで書いていくことにする。おそらく、GoogleやAmazon、SalesForceなどからの切りこむのはよくやられるのだが、一般的な企業の業務システムについての論及はほとんどないので議論してみたい。

まずはクラウドとは何かをみていくことにします。小池良次さんの「クラウドの未来」(講談社現代新書)では、“脱パソコン時のビジネスモデル”という定義をしているが、ビジネスモデルと言った途端にメーカーとかメディアの視点になってしまうので、ユーザサイドというか利用する立場で考える。

簡単には、「インターネットの向こう側にあるサービスを使い、サービス利用料金を払う形態のこと」になる。従来のコンピュータ利用は、ユーザー(企業、個人など)がコンピュータのハードウェア、ソフトウェア、データなどを、自分自身で保有・管理していたのに対し、クラウドコンピューティングではそうしたものは保有せずにただ利用するだけになる。

サービスには、よく言われるSaaS、PaaS、IaaSなどがある。すなわち、ソフトウエアやアプリケーション、運用環境や開発環境、そしてインフラやハードウエアなどである。これらはデータセンターの中に置かれていてみなで共有して使うことになる。多くのユーザでシェアすることになるのでコストダウンにつながる。やはり、このメリットが一番大きいと思う。

コンピュータの利用形態の大きな流れとしては、メインフレームを中心にしたホスト集中型からPCの出現によるクライアントサーバー分散型へ移行し、インターネットの登場によるネットワーキングの時代になり、こうしてクラウドという小池良次さんによれば、“超集中と超分散”の形態へと変化したことになる。

こうしてみると、集中と分散を繰り返していることになる。だから、そこは変わらないわけだから、クラウドが全く新しい画期的なものであるというわけではない。個別単体的なものから広範なネットワーク的なものへと集中と分散が変化したことがわかる。ただそれも急にやってきたものではなく、例えばデータセンターなんて以前からあったものだし、ASP(Application Service Provider)という形態もあったし、ネットワークコンピューティングとかユーティリティコンピューティングといった言われ方もしてきた。

ということは何がクラウドなのかよくわからないのである。結局、これまで断片的にあるいは段階的にこうあってほしい、こんなことができたらいいなあと考えてきたことが技術の進歩があって現実のものになってきたということかもしれない。次回はもう少し従来からの進化を議論してみます。

2012年5月 8日

プリンセストヨトミ

万城目学の小説は何とも奇想天外なストーリーが展開されてドギモを抜かされる。「鴨川ホルモー」でもびっくりさせられたが、この「プリンセストヨトミ」でも思わず何コレと叫んでしまった。監督が鈴木雅之、出演が堤真一、綾瀬はるか、中井貴一、岡田将生といった面々である。

舞台は大阪で大阪国総理大臣が登場してくるあたりは、今の大阪府、大阪市の状況を重ね合わせて、こりゃあ奇想天外でもないかもと思ったりする。映画の最初のシーンが大阪の繁華街から人がいなくなったところを綾瀬はるかがおっぱいを揺らしながら走っている。「おっぱいバレー」で見せてほしかったシーンである。話がそれてしまった。

そこから、なぜそうなったかを振り返るように4日前に遡る。東京から3人の会計検査院調査官、松平(堤)、鳥居(綾瀬)、旭(岡田)がやってくる。その彼らが目をつけたのが財団法人「OJO(大阪城跡整備機構)」である。徹底的に調べるのだが、経理担当にのらりくらいとかわされてしまうが、調査作業で忘れた携帯をとりにいくとそこはもぬけの殻で、しかもだれも外に出た形跡がない。

これは大阪中が口裏を合わせているしか考えられないと怪しんだ松平が再びOJOを尋ねるとそこに待っていたのはお好み焼屋の主人(中井)であった。彼は、OJOの事務所の秘密のドアから地下に案内してくれて、自分は「私は大阪国総理大臣、真田幸一です」と名乗る。豊臣家の末裔が生きのびてそれを守るためにいるという。OJOというのは王女のことなのだという。

大阪中にそのシンパがいていざとなったらみな動員されるようになっているのである。だから、大阪国の実態がばれそうになった危機にみなはせ参じてしまい大阪の繁華街が無人となったというわけである。どうです、奇想天外でしょう。残念ながら評価は高くないようだが、ばからしいと思ったら終わりだ。ぼくはおもしろいと思った。

しかし、おもしろいのはそれだけではなくて、これは父と子の物語でもある。何と大阪国の真実を伝えることができるには資格があって、14歳以上の男子で父親がいないことで、父親は自分の死が訪れるときに、息子に大阪国のことを伝えるのである。二人だけの約束として、記憶の中に留めるのである。

父と子の物語なんてちと大げさすぎるかもしれないが、くだらない中にも大事なエッセンスが埋め込まれているなんて楽しいですよね。それが、検査官の松平父子の関係にも展開していくわけです。一見ふざけたような映画でも見るべきところがあってそれを正当に評価する態度は大切にしたい。案外、各人の映画観ってくだらない映画の好き嫌いにあるかもしれない。
  
prinsestoyotomi.bmp
  

2012年5月 9日

日本企業にいま大切なことを見直す(10)

いよいよこのシリーズも最後になりました。最後の章は、遠藤功先生がまとめを書いていらっしゃいます。基本トーンは、日本は「民の国」であり、「現場の国」であるということのようだ。確かに、この震災でも民の力が見直され、福島原発事故でも現場力が救ったこともあるが、だからといってこれからも現場力重視でやっていけるのだろうか。

「中央」がしっかりしないからとよく言われるのだが、「中央が弱いから現場が強くなったのではなくて、現場がしっかりしているから中央がだらしなくなった」のかもしれない。ここで遠藤先生が、現場力を生かす復興のために、国、地域、企業の留意するべきポイントを3つあげている。

ひとつが、復興の青図(ビジョン)をいち早く示すことで、そこでも現場と一緒になって青図を描くことを勧めている。第二のポイントが、「権限委譲を徹底させる」ことだという。最適な判断をスピーディに行えるのはやはり現場をおいてほかにないのだという指摘だ。

第3のポイントが、この復興を人材育成の好機ととらえることだという。若い世代を現場で育てるチャンスととらえろという。若い世代を復興の現場に送り出し、ベテラン・中堅社員たちと交流させる。そこで体験を共有させる。それによって「暗黙知」とも言われる現場のノウハウを移植するのであると主張されている。

うーん、ちょっと待てよと思ってしまう。若い世代の人材育成の好機とするのは大いに賛成で是非進めてほしいと思う。しかしながら、「暗黙知」の移植って何よとなるのである。だって、今回の震災は未曽有の災害であって、今まで誰も経験したことがないことが起きたわけだから、そんなところに「暗黙知」があるのだろうか。

期待するのは、若い人のゼロベースで考える斬新なアイディアであり、前向きな実行力なのではないだろうか。昔に戻すことではないだろう。野中先生も遠藤先生にも流れる考えかたの根底にあの成功した日本のもの作りを支えた現場力をもう一度というのがあるが、前にも言ったが、あの時代と今はあきらかに企業や社会をとり巻く環境が大きく変化している。ですから、昔の成功モデルが必ずしも今でも通用するとは限らないのである。

そして最後に「日本のリーダーはつねに現場とともにあることこそ「民の国」「現場の国」にふさわしいリーダーシップではないか」と結んでいる。ただ繰り返しになるが、ぼくは工場の現場でそれこそ油まみれになって働いたことがあるが、どうも両先生はほんとうの現場を知らないのではないだろうか。現場を買いかぶってやしないだろうか。“会社を預かる“リーダーたるものは、現場を俯瞰した眼で見ることができる冷静なリーダーシップが必要なのであって、必ずしも現場とともにあるという感覚とはちがうと思うのだがいかがだろうか。

現場とリーダーシップという問題について、いま話題の橋下徹を考えてみるとおもしろい。彼は山口二郎のような学者さんたちを現場を知らないでいいかげんなことを言うなと批判している一方で、ハシズムとか言われような強烈なリーダーシップで独裁者という批判も受けている。さて、橋下徹は「現場とともにあるリーダー」なのだろうか。

現代は刻々と変化している不連続の連続の時代なのだ。復古のモデルではなく、変化に対応した新しいモデルが求められているのである。
  

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2012年5月11日

「しがらみ」を科学する

おなじみ山岸俊男さんの著作である。ただ、今までと違うのは高校生に向けて書かれているということである。「「しがらみ」を科学する」(ちくまプリマー新書)は高校生からの社会心理学入門と銘打った本である。大人が読むのはちょっとと思われたら大間違いで、大人こそ読むべきではないかと思える。

大人向けの本だと難しい専門用語がでてきたり、難解な文章で書かれていて、理解できていないのにわかったふりをするなんてことがよくあるが、平易な文章でわかりやすい。学問の本質ってある程度の知識があれば誰でもわかるくらいに落とし込めなくてはいけないと思う。高校生にでも理解できることが重要なのである。

さて、テーマは「しがらみ」のことであるが、「しがらみ」とは何のことだろうか。それこそ、専門用語でいうと「インセンティブ構造」ということなのだが、それだと何のことだかわからないのでこの言葉を使ったという。簡単に言うと“社会で生きていくためには、自分の行動に対してはほかの人たちがどう反応するかがだいたい決まっていること”なんです。

最近のことばで「KY」とか「空気読めよなあ」なんていうところの「空気」もそうかもしれない。高校生くらいだと「社会に出るのが何となく不安だ」と思うのはこうした空気を感じるからで、それを取り除くために山岸さんは一生懸命説明してくれる。そのために「社会は理屈では割り切れない」という大人に向かって、論理的に科学的に分析してみることもできるんだよと言っています。

そこに出てくるポイントは、「心でっかち」、「予言の自己実現」、「単純な原因と結果といった考え方から離れる」「理解と説明の違い」、「世間がだめなら社会で生きよう」といったことになる。おもしろそうでしょ。これらを説明するのクイズだったり実験だったりが提示され理解しやすいようになっている。

最初の「心でっかち」というは「頭でっかち」に対して言っていることで、一人ひとりの気持ちや考え方がある「心」がすべての原因だと考えることで、心と現実との間のバランスがとれなくなってしまう状態のことだという。いわゆる「精神主義」です。「頭でっかち」の典型が、橋下市長がよく言う現場を知らない学者さんですが、一方「心でっかち」の典型が、誰にも受け入れられそうもないもっともらしい「説教」を垂れ流している一部の評論家の人たちで、何でも「心の荒廃」で説明しちゃう輩です。原発問題なんかもこれですね。

「予言の自己実現」というのは、ちょっと難しかもしれませんが、社会は私たち自身が作り上げているというもので、人々がある期待を持って行動すると、結局その期待通りの結果が生まれてしまうという話である。自分たちは好きなように行動できないという側面があるのだ。

結局、社会というものは、人間たちが勝手なことができないように、お互いにしばりつけあっている状態である。そうした「社会によるしばり」は、実は自分たちが、自分たちの望んでいないかたちで自分たち自身の考え方や行動をしばってしまっているのである。これが世間のしがらみというやつで、そんなの嫌だということで「世間」の上に「社会」を作ってきたわけである。

若い人たちの中にも、世間でうまくやれる人たちもいるけど、ほかの人の反応は気になるんだけど、ほかの人たちの気持ちがうまく理解できない人たちにとって生きずらい世の中なわけで、そんな人は、無理に合わせることではなく、社会を理論的に理解して、そこで働いている原理を使って「社会」で自分がどうしていいのか考えればいいと言っている。

いままで読んだことと重なるものもあったがなるほどと思うことが多くある。ぼくが高校生のときにこういった本を読んでおけばよかったと思う。でもなかったよなあ。でも今からでも遅くはないと思うのである。
  


  

2012年5月12日

オヤジ会を楽しくさせるための5つの条件

最近はやたら女子会というのがあって、飲み会の店を探していると女子会目当ての宣伝が目に付く。女子会があるならオヤジ会があってもいいだろうと思う。このオヤジ会は特に還暦過ぎのものが盛んだ。ぼくの回りでも、学校や会社の同期会など定年退職した連中が集まって飲む機会が増えた。

つい先日も、大学のサッカー部の同期会を青山にある「満重」というさかな料理屋で行った。ぼくはずっとこの会の幹事をしているのだが、非常に盛り上がって楽しい夜を過ごしたのを見て、オヤジ会を成功させるためにいくつか理由というか条件があるなあと感じたので書きとめておく。

1. 人数は10人程度にする
先日も参加者がちょうど10人だったが、このくらいが一番いい。もちろん多いと話もできなかった人ができたり、少ないとまたいつもの話題かとなって驚きもあまりないことになる。

2. 通知は早めにする
まあできれば1ヶ月以上前に日程を決めて通知しておくのがいい。みんな閑だから直前でもいいかとなるが、それでも来れない人もでてくる。でもそれ以上に早めに決めておくといいのは、いつかいつかと待っていること自体を楽しめるからである。これも閑になったから故の楽しみかたである。

3. 告白タイムを設ける
ただワイワイやるのもいいが、ひとり5分くらい近況を報告させるのがよろしいかと。閑だと言いながらも家族のこととか人に話したいことを持っているものでそれを言わせてあげる必要もある。先日の同期会でも驚きの告白があって一同唖然となる。数年前に奥さんを亡くしたヤツがいて、ずっとヤモメ暮らしをしていたが、なんと最近パートナーを得たという。再婚?というと、いや事実婚だという。おいおい、フランスの次期大統領のオランド氏の事実婚が有名になったばかりだというのに身近にいたとはびっくり。この話はすごくおもしろいのだがここまで。

4. 周りが騒がしくない静かな場所
この会は何回もやっていて、前回は浅草の「神谷バー」だったが、ここはまだいいほうで例えば繁盛している居酒屋なんかだとやかましくて隣のやつの話を聞くのが精一杯ということがよくある。みなの告白をちゃんと聞いてやるには静かなところがいい。じゃあ個室にすればと思うのだが、何となく閉じ込められ感があってイマイチなのである。この間の店は個室に近いつくりのところですぐ周りにお客さんもいないので非常によかった。

5. さかな料理が基本で飲み放題3時間以上
もう還暦をすぎると、食は細くなるし、脂っこいものが口に入らなくなる。普通の居酒屋の宴会メニューだと腹に重たい。だから、どうしても刺身といったさかな系がいいようだ。それと、幹事としては飲み放題にしたいのだが、2時間制限が多い。10人で5分づつと言ってしゃべってもらうと、一人5分じゃ終わらなくて10分ぐらいかかるが、それだけで2時間使ってしまうことになる。だから最低3時間でできたらそれ以上が望ましい。もう2次会なんかいかない年頃ですし。

ということで「オヤジ会を楽しくさせるための5つの条件」を書いてみました。ただ、この条件を満たしてくれるところは少なく、毎回頭を悩ましている。また来月にでも今度は高校の同期会を計画しようとしているのだがさてどこにするかな。
  

2012年5月13日

小川の辺

藤沢周平の原作の映画化は8作目のようだ。その「小川の辺」を観る。山田洋次が2002年に「たそがれ清兵衛」を撮って以来、1年1作程度提供されてきている計算だ。今回は、「闇の穴」という短編がベースになっている。ぼくは藤沢周平のファンでかなり読んでいるが、まだまだ映画化して欲しいものもあるので、これからも継続的に出てくるだろう。

何が、受けるのかというと武家社会での忠義やそこで必死に生きる武士の姿、そして山形という土地の風情といったものがあると思うが、ぼくは良質の恋愛劇がそこにあるからだと思う。恋愛というのは、全くの自由のなかというより様々な制約のなかでそれを乗り越えて行くという行為とともに高みに到達する気がする。

そういった制約が少なくなった今、現代劇では純な恋愛映画が作りにくいという面があるのに比べ、時代劇という型式のなかでは表現しやすいということもあるかもしれない。「小川の辺」もそうした恋愛が描かれる。監督が篠原哲雄で主演が東山紀之。同じ藤沢作品である「山桜」以来2度目のコンビである。他に、菊池凛子、片岡愛之助、勝地涼らが固める。

おなじみ海坂藩の武士である戌井朔之助(東山紀之)は、家老からある藩命を受ける。それは親友である佐久間森衛(片岡愛之助)を討つことだった。佐久間は、藩の農政を批判したためお咎めをうけ妻の田鶴(菊地凛子)を連れて脱藩したのである。実は、その田鶴は朔之助の実の妹だったのである。何とも過酷な運命なのだろうか。藤沢作品の典型的なモチーフである。

田鶴は小さいときから気が強く、女と言いながらも剣術の使い手であるから、夫が討たれるとわかったら手向かってくるに違いない、その時はどうするのか悩むのである。千葉の行徳で見かけたという情報をたよりに、兄弟のように育った奉公人である新蔵(勝地涼)ととも江戸に向かう。美しい東北の山々の景色が映しだされ、これから向かう運命との対比を静かな序曲として提示してくる。これもおなじみ藤沢ワールドでもある。

そして新蔵が何日もかけて探し回った結果、彼らの居所を見つける。結果は予想通りであるが、そこにかぶって来るのが、田鶴と新蔵の関係である。それが許されぬ愛としてあったものが、一途な思いがそれを突き破るように・・・。そうした心の変化を新蔵が旦那様という呼びかたから朔之助様へ変わることで表現する。どうもこちらの方が親友を討つということよりメインに感じてしまった。

東山紀之は武士としての凛々しさを体現していて見ごたえがあり、勝地涼のすがすがしさもよいのだが、時代劇初出演という菊池凛子がいけない。藤沢作品のいや海坂藩の武家の娘にはちょっと似つかわしくないのである、残念。
  
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2012年5月14日

クラウド時代の業務システム・・・クラウドは従来とどう違うのか

前回、クラウドは従来からの願望が技術の進歩によって実現されたということを指摘した。ではその技術とは何なのか。クラウド自体はコンピュータの利用形態だから、新しい技術というわけではない。つまり、新しい利用形態を可能にした技術は何かということになるが、標準インターネットプロトコルと仮想化されたサーバー運用技術ではないだろうか。

当たり前のようになったインターネットだが、当たり前になったことがすごいことだと思う。昔は、独自の仕様のものばかりで互換性のない専用技術しかなかったのだ。そういった意味では、ネットワーク以外でもハード、ソフトともに標準化が進んできた。そして、ユーザー数や処理量の増減に対応できる仮想化技術はクラウドにとっては大きなインパクトを与えたのではないだろうか。

クラウドでは不特定多数のユーザがある意味勝手気ままに使ったり、やめたりするわけだから、負荷の変動は激しく、柔軟性を持ったスケーラビリティが求められる。うちの会社でも、アマゾンEC2とかLinodeといったサービスを利用しているが、使用申請したり、停止したりが簡単にできる。それが、世界中で行われているから変動は半端じゃない頻度で起きてくる。これができるようになって飛躍的にユーザビリティが向上したし、クラウドの価値がここにある。

だから、パブリッククラウドとプライベートクラウドの大きな違いはここにあって、プライベートクラウドは本当にクラウドなのだろうかと思うのである。結局、煎じつめると標準化されたインターネット技術と仮想化技術のおかげでクラウドという利用形態が現実的なものになったのではないだろうか。

もちろんそれだけではなく、他にあげるとすると様々なデバイスの登場もクラウド化を後押ししていると思うが、案外忘れてはいけないのに“課金モデル“があるように思う。利用させるということは利用料を徴収しないと意味がないのは言うまでもないが、しかも頻繁に使用停止やスケールアップダウンを繰り返される中できちんと課金するシステムは必須であるからである。

さて、ここまでは技術的な進歩がクラウドコンピューティングの到来を促したことを指摘しましたが、どちらかというとパフォーマンスの圧倒的な向上がもたらしたもので、利用形態という意味ではまるで違ったものが登場したわけではない。では、クラウド以前にあったデータセンター、ネットワークコンピューティング、ASP(Application Service Provider)などとどう違うのかみてみましょう。

基本的な構造とか形態は変わりないと思うのですが、まずはほとんどがプライベート利用でした。データセンターと言っても、ホスティングというか、自社のマシンを預かってもらうということが主だったもので、謳い文句的には、複数のユーザでシェアするからコストダウンが図れると言われても、知らない会社と相乗りなんかいやだとなって単独で置いておくことがなされていました。まあ、それでもインフラや運用リソースは共用できるのでそれなりの効果はありました。

もうひとつ、これから業務システムの話に入っていきますが、その時に注目すべきはASPのことです。ASPという言葉が出てきたのは2000年頃だったと思いますが、あまり世の中では知られていなかったし、実際にやられたところもあったかなかったというくらいでした。このASPは結局業務パッケージの共同利用みたいな形になっていきましたが、SaaSの登場までは表に出てきませんでした。ただASPという考え方は業務システムのクラウド化にとって重要なものですので次回議論していきます。

2012年5月15日

わが母の記

5月13日は「母の日」であった。ぼくの母親はすぐ近くの老人ホームに入っているので、そこで前日に移動レストランでフレンチのコースが出て、当日はケーキバイキングとやらがある。ぼくはあいにく法事があって出かけたのでヨメさんに鉢植えのカーネーションを持って行ってもらった。

どうも近頃ボケのような兆候がときたまみられるようになった。ただ、もうすぐ91歳だから普通なのかもしれないのだが。ただ、昔のことはよく覚えていてこの間もぼくの小学校時代の同窓会の話についてきてくれた。映画「わが母の記」は、痴呆となった母親と向き合う息子の物語である。原作は、井上靖の自伝的小説である。

監督が原田眞人で、主人公の小説家伊上洪作を演じるのが役所広司でその母親八重が樹木希林、伊上の末娘琴子を宮崎あおいといった布陣である。時代設定が昭和39年からであるので、まだ家族という枠が色濃い時代のことである。ちょうど母の日の直前ということだったが、観客はぼくぐらいの年齢の人か、かなり年配のご婦人ばかりだった。つまり、母親世代と息子世代がそれぞれの立場で感じていた。

小説家伊上洪作は、幼少時祖父の愛人に育てられたことから母に捨てられたという想いを抱きながら生きてきたのだが、父の死を境に母親の八重と相対すのだが、痴呆が進み、同じことは繰り返すし、徘徊しはじめたりする。そんな母親を湯ヶ島から東京へ連れてくるのだがすぐに帰ろうとし手を焼くのだが琴子を筆頭に家族の協力もあり面倒を見るのである。

そして、洪作もボケている母親とはいえ徐々に心開いていく。あるとき、母の口から、ある詩を朗読し始めたとき、洪作は大粒の涙を流し、母を許そうと思うのだった。そして、自分を捨てたのではなく、それなりの事情があったこともわかってくる。母親はずっと強い愛を抱き続けていたのだ。そうして断絶は埋めることができたのだが、老いた母親やもはやボケてしまっている。

登場するみんながいい人で、また売れっ子の小説家という設定だから、恵まれた家族の肖像といった趣ではあるが、母と息子、父親と娘、夫と妻というような関係が昭和の時代の匂いがして懐かしい思いに駆られてしまった。ぼくも歳をとったなあと変な感慨にふけってしまった。ただ、だからいまの時代はダメだとか言わないようにと思ったのである。

若い人はほとんど観ないだろうが、毎年母の日には年末に忠臣蔵をやるように、母もの映画をやったらいいなあとも思う。でも、「わが父の記」というのはないなあ。ああ男はつらいよ。
  
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2012年5月17日

デフレの正体

これはかなりのベストセラーとなった経済本である。しかし、特段の理由があったわけではないのだが何となく読む気がしなかったが、ここにきて手にしたのが「デフレの正体」(藻谷浩介著 角川oneテーマ21)である。タイトルのデフレの話はあまりなく副題のように「経済は「人口の波」で動く」とあるように、景気の波という“常識“を疑えという切り口である。

著者は、日本政策投資銀行参事役という肩書だが、国内の各市町村あるいは海外の各国を自分の足で回って実態を肌で感じていると同時に多くの資料から様々なデータを読み解いてその“常識”を覆す。この本では、客観的データ、しかも公の統計資料だけから採ってきているのだが、データはウソをつかないので(データそのものはウソをつかいないが、データを抽出する時にウソになることがある)、見えなかったものが明らかになる。

テレビの自称経済評論家のコメンテーターの単に表面的な現象や教科書的な見方で語るのとはわけが違って説得力があって感心する。データをきちんと分析して、そこから事実を明らかにするという科学的態度は非常に重要で、どんな局面でも必要条件となるであろう。しかしながら、日本にはまだ多くの人が情緒的かつ感覚的な捉え方をするので気をつけた方がいい。思い込みを捨てて乾いた眼で眺めなくてはいけない。

例えば、世界同時不況なのに減らない日本人の金融資産あるいは貿易黒字、中国が栄えれば栄えるほど儲かる日本とか、なるほどそうだったのかというのをデータで示してくれる。国内に目を転じても、常識的には地方が疲弊して東京が元気があると思われがちであるが大ウソで、地域間格差の実態は違ったものであるのがわかる。関西の凋落と沖縄の成長なんてものの見事にデータに表れている。

で結局問題は何かというと、日本中が内需不振に陥っていて、その原因が「現役世代の減少」と「高齢者の激増」なのである。この現役世代というのは15歳から64歳までの人口のことで、生産年齢人口である。この世代の人口が減少している。ぼくは団塊のど真ん中だから今年64歳になるが団塊の先頭は生産年齢人口から外れだした。

このインパクトが大きいのだ。そんなこと言われるとぼくらは何だか肩身の狭い感じがするのだが、こればかりはしょうがない。要するに生産年齢人口から外れる数とそこに流入する人口の差が大きく減って行くのだから大変なことなのだ。そんなことはずっと前からわかっていることじゃないのか言われればそうなのだが、著者も言うようにそのうち景気がよくなれば解消されるという思い込みで放置してしまったのかもしれない。

いま生産年齢人口ということを言ったが、この人口は同時に「消費年齢人口」とも言えるわけで、そこが減ってきているのでものが売れないのは当たり前なのである。しかも金持ちの高齢者は将来の不安がるから、貯め込んで使わないときている。孫のために何か買ってあげればいいのにその孫が少ないときている。ぼくにもまだ孫はいない。

簡単に言うとそういうことなのである。ですからデフレの正体とは違うでしょ。その処方箋として著者が提示しているのが、「高齢富裕層から若者への所得移転」、「女性の就労と経営参加を当たり前に」、「労働者ではなく外国人観光客・短期定住客の受け入れ」である。最初のやつはぼくは富裕層でもなんでもないのだが、ちと痛い話ではあるがしかたないと思う。他の2点は全くそのとおりだと思う。

なかなか面白く読むことができた。中味で全部がそのとおりというわけではなくぼくと意見が違うものもあるが、要するに議論ができるレベルに論点を引き上げていることが評価できる。つまり、客観的なデータからそれを解析した結果を提示して、事実認識を共有して、それに対する課題設定、自分なりの解決策の提案という構成であるからわかりやすいのである。読んでおくといい本である。
  

デフレの正体  経済は「人口の波」で動く (角川oneテーマ21)
藻谷 浩介
角川書店(角川グループパブリッシング)
売り上げランキング: 282

  

2012年5月18日

ツリー・オブ・ライフ

伝説の監督と呼ばれるテレンス・マリックがブラッド・ピットとショーン・ペンという2大男優を起用した作品である。ぼくは彼の作品は初めてであったが、“伝説”の意味がわかった。感覚の共有ができる人たちには熱狂的に受け入れられそうだということである。残念ながら「ツリー・オブ・ライフ」は観念的過ぎてぼくには合わなかった。

カンヌ国際映画祭の最優秀賞のパルムドールをもらった作品だから、ヨーロッパ受けがいいのだろうが、あまりにも観念的で、感覚的で難しい。映画はジャック・オブライエン(ショーン・ペン)というある実業家が、自分の少年時代を回想するところから始まる。そして、1950年代のテキサスの彼の家族が映しだされる。

オブライエン夫妻は3人の息子にも恵まれ、テキサスの小さな町で満ち足りた生活を送っていた。父親は(ブラッド・ピット)は社会的な成功もおさめ、西部の男らしく厳格で子どもにも強くあれと接する。一方の母親(ジェシカ・チャステイン)は慈愛に満ちた優しい女であった。こうした一見幸福そうに見える家庭ではあるが、長男であるジャックには穏やかなものではなかったのである。

父親の視点と、子どもの視点とでずいぶんと違ってくるところがある。あの当時の父親は日本でもそうだったが、男は強くあれというのが強く、しかし逆に言うとそれは息子への期待の表れであり、ある意味溺愛しているのである。息子の方は父親を乗り越えなくてはいけない脅迫感があって、絶えず不安との戦いなのである。

まあ、男の子であれば誰しもが抱く感情かもしれない。反抗期なのかもしれないし、エディプスコンプレックスそのものかもしれない。永遠のテーマであり、男の子はみんなこういった葛藤を繰り返しながら壁を乗り越えて大きくなっていく。日本の家庭でもそれこそ1950年代では同じような光景であったはずだ。ぼくらがジャックだったのだ。

だから、別段特異な話でもないので、それをどう料理するかになるが、映像的には非常に寡黙で無口な映像が流れる。しかし、ムダなショットや余計なシーンが多く、これがぼくには冗漫な感じがして好きになれない。最後のシーンなんて宗教的な匂いもともなって意味不明に映った。

映像で何かを語ろうとしていることはよくわかるのだが、それは最初に言ったように感覚の共有という作業がいるので大変難しいのである。だから、どうしても説明的な言葉が補うことになる。そこの兼ね合いが難しいのだがこの映画はちょいと寡黙過ぎた。

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2012年5月19日

変化対応力と変化察知力

近頃のキーワードに変化対応力というのがある。と思っているのはぼくだけかもしれないが、これだけ外部環境の変化が激しいと、それへの対応を俊敏に行えるかどうかは企業にとって大事なケイパビリティであると言える。例えば、今年の決算で家電業界の惨状、とりわけテレビ事業の不振は目を覆うばかりであるが、これも変化対応力の欠如といえる。どうしてここまで来る前に手を打てなかったのだろうかと思うのはぼくだけではないだろう。

ただ、彼らだって手をこまねいていたわけではなく、ちゃんと変化に対応していたのかもしれない。少なくともそう思っていただろう。ただ、その対応の仕方が遅かったということなのだが、それ以上に“変化に対応する”だけの限界を感じる。今の世の中では、変化に対応するだけでは、結局後追いというか、取り繕いの対処になってしまうのである。

これは、制御工学ではフィードバック制御という。つまり、何か事象が起こったとき、その事象を検知して、制御目標を外れると、その状態を戻す作用を起こすことなのだが、まだまだこうした対処をしているように思える。変化がそれほど速くない場合はこれでいいのだが、現代のようにスピードを要求される、あるいは複雑にからみあった現象が絡み合うような時代では不十分である。

ではどうしたらいいのか、制御工学上では、フィードバック制御に対してフィードフォワード制御というのがある。予兆を事前にキャッチして、スムーズに進むようにあらかじめ対処をある程度やっておくということである。こうすると、変化がやってきても入口でその変化を収めるような手を打っておくので影響を少なくできるということになる。

これはどちらか一方というのではなく、両方必要な時代だと思う。フィードフォワード制御である程度入口で変化を吸収しておいて、受け入れたあとは、修正動作としてフィードバック制御で出口を合わせるという対処である。福岡伸一さんではないが、「動的平衡」を保つためにはこうした制御システムがビジネスの世界にも必要な気がするのである。

もっと大げさに言うと、今までは“作ること“が第一義で、作ったものをコントロールして、オペレーションするという概念が希薄であるというのが企業経営、事業運営においてもあるというのがぼくの見立てである。こうした、コントロール&オペレーションという概念は、すごく大事であるのだが、いっこうに向上していない。

ひとつには、ITがそこの領域に対してほとんど寄与していないこともある。しかしながら、今言ったことはコンシューマ向けではすごく進んでいるわけで、なぜそれがビジネスに世界に入ってこないかがすごく不思議なのである。例えば、フィードフォワードとはちょっと違うのだが、アマゾンのリコメンドの仕掛けなんていうのもあるし、多くのおせっかいシステムがある。また以前新日鉄が高炉の制御システムを金融に生かしたという例があるように制御工学的な考えをとりいれたらいいと思う。中村俊輔ではないが「変化察知力」が重要になってくるということである。

2012年5月20日

街場の小経済学その21

ぼくは、最近昼飯だけだけど自炊をしている。だから食材の値段に敏感になっていて、昨日もばあちゃんの買い物についていったらそこのスーパーの野菜の価格が気になってしまった。それとともに、料理をする時に使う調理器具についても同じように注意が行くようになる。そんな時に助かるのが100円ショップである。近所にダイソーがあるので時々覗くことにしている。

100円ショップといってもただ安いだけではなく、いろいろなアイディア製品が豊富である。昨晩も寝る前にテレビのチャンネルを回していたら、スマステーションという番組100円ショップの便利グッズというか人気商品のランキングを放送していたのでしばらく見入ってしまった。ほんと、多くのアイディア商品があるのですねえ。びっくりしました。

手づくり餃子セットとか枕干し器とか、ブラインドの掃除器具とかほおーと感心するような商品が紹介されていた。1位は何だと思いますか。開封したお菓子の袋の封をする洗濯バサミのようなものです。ぼくも使っていますが、昨日のは日付をかけるというのが特徴のようです。それを見ていて、多くの商品が調理や炊事用のものだったのです。やはり、毎日の作業のなかでこんなものが欲しいとなるのでしょう。

ぼくが、いいなあと思ったのは、キッチンブラシでこれは洗っている途中で洗剤が切れたときにいちいち洗剤の容器を取ってスポンジにつけるのが面倒なので、最初から容器とブラシを一体化させたもので、途中で押すと液が出る仕掛けである。その他にも、ネギカッターで、これはラーメンなんかに入れる白髪ねぎに切ることができるやつで、包丁で切るのはけっこう難しいので便利ですね。

さらに、ぼくにはあまり関係ないが手を入れないでお米が砥げるものとか、電子レンジでご飯が炊けるとか、何等分化に分けるときのもの差しシートとか、サンドイッチにするためにパンの耳をカットするものとかあるのだが、このあたりになると別に普通にやればいいじゃんと思えてくる。それにしても、炊事、調理用グッズが多いですね。

こういうアイデアって誰が出しているのだろうか。ダイソーやキャンドゥーの人たちだけで考えているのだろうか。というのも、テレビを見ながら、ふとスマホアプリのことを重ね合わせてしまったからである。IPhoneやAndoroidでもいいいのだが、そこにあるアプリも100円前後でほぼ均一価格だから、100均によく似ているし、アイディア商品でもある。だから、ダイソーは、オープンにして誰でも商品企画ができるようにしたらどうかなと思ったのである。

スマホとの違いは、作るのが普通にはできないので、生産は委託しなくてはいけないということがある。それ以外は、リアル店舗がいるとかがあるが基本的には同じようなモデルでできる。要するに、コンシューマ参加型商品開発で売上還元方式仲介ビジネスがこれからも違った分野にも波及するのではないかと思うのである。

2012年5月21日

チェルシーが勝っちゃった

UEFAチャンピオンズリーグ決勝、バイエルン・ミュンヘン対チェルシーの試合はPK戦までもつれこんだ結果チェルシーの優勝となった。決勝の舞台となったのはバイエルンのホームスタジアムというバイエルンにとっては幸運なめぐり合わせになった。だから、有利に働くと考えられていたが、圧倒的に攻めながらも勝利を呼び寄せることはできなかった。逆にホームの緊張感から堅くなった可能性がある。

試合の展開は、攻めるバイエルンをチェルシーが守る構図である。再三のチャンスにも関わらずシュートが入らない。ようやく、終盤の83分にミューラーのヘディングシュートで待望の先制点をあげる。これで勝負あったかと思われたその5分後、チェルシーは初めてのコーナーキックからドログバが値千金の同点ゴールを決める。これは、女子ワールドカップ決勝でアメリカ相手に沢がみせた同点ゴールを彷彿とさせるものであった。

こうなると、チェルシーのペースかと思われた延長戦でそのドログバがペナルティエリア内でファイルを犯しPKを与える。ところがこのPKをロッベンがミスする。そのまま試合終了となりPK戦へ。バイエルンが2人外して最後ドログバが決めて、チェルシーは初の栄冠を手にする。こうみるとドログバの独り舞台の感もあるが、辛抱強く守りぬいた組織力のたまものであろう。

前半のほうは、さすが世界のトップの試合と思わせる内容で、攻守の切り替えも早く、高い技術力で質の高いゲームだと思っていたが、だんだんとその評価が落ちてきた。というのも、圧倒的に攻めていたバイエルンが何本も放ったシュートの精度が悪いし、単調な攻めが続いたからである。何しろ、シュート数が24本でそのうち枠に飛んだのが7本である。

攻め方も、右のロッベン、左のリベリの両看板にボールを預け、彼らの個人技で突破するというもので、しかもロッベンは左利きでリベリは右利きだから、ほとんどが中央に切れ込んでいくスタイルである。だから、中央のマリオ・ゴメスがぜんぜん生きないし、守る方からすれば読めてしまうのである。もっと、バリエーションを持たないと二人の突破が威力を失う。ブンデスリーグでドルトムントに勝てなかったのはこんなところにも原因があると思う。

それにしても、チェルシーの粘り強い守備は評価できる。あのバルセロナの攻撃にも耐えたのだから本物だ。この試合でも要のジョン・テリーを欠くなかで落ち着いた守りをみせたが、その中心にいたのが、フランク・ランパードだ。ボランチで相手の中央への絞り込みに対して的確に対処していたし、守備から攻撃への起点となって統率していた。影の功労者である。

まあ、「PK戦はクジのようなもの」だけど、勝つか負けるかで天と地のほどの差がある。両チームのキーパー、チェフとノイアーは二人とも超一流だから、PKを蹴る時の緊張感はタダものではないと想像できる。そのPKに関してぼくの経験から言いたいことがある。

テレビの解説で清水さんも同じことを言っていたが、助走を長くとった方がいいと思うのである。なぜなら、助走を長く取るということは、キーパーがどちらに動こうが決め打ちで左右どちらかの上隅に強いボールをければいいだけと割り切れるから精神的に楽なのである。この試合でも、キーパーに同じ方向に跳ばれても入れていた。遠藤のようにキーパーの動きを見てという蹴り方もあるが、迷いの入り込む余地があってリスクが大きいのである。ここでもランパードの蹴り方がお手本になる。ともあれ、おめでとうチェルシー。
  

2012年5月22日

市販ソフトを使いたおす

「非定型業務のIT化」というテーマで記事を書いてきましたが、“実装を考える“というタイトルを最後に連載を終えました。というのも実装のところまで来ると、元々コードを書かない方法論を主張しているから、どこかから既成のソフトウエアを持って来ることになる。そうなると固有名詞のソフトウエアを特定した話になるので、フェーズを変えたわけである。

そのソフトウエアは昨年サイボウズ社から売り出されたクラウド型Webデータベースソフト「kintone」で、それを用いた実装について、新たなシリーズを起こしていく。題して「「kintone」を使いたおす」である。別にサイボウズ社からお金をもらっているわけではないのだが、「kintone 」が出る前からサイボウズの人と情報交換をしていた関係があって、割といいものができたので使ってみようということである。

それもあったのだが、もっと大きな理由は、「kintone」が出てくる前にオンプレミス型の「デヂエ」という前世代の同じWebデータベースを使ってシステム構築をしていたので、それをクラウド型に変えていきたいという思いがあったからある。

さて、「kintone」というのはいったいどんなソフトウエアなのだろうか。カタログ上の謳い文句は「ファストシステム」である。ファストフードのあのファストである。すなわち、欲しいと思ったときにすぐに手に入るということである。しかもそこそこの品質で安価である。そして、4つのファストを強調している。利用開始、効果の実感、管理者やユーザへの教育、ユーザニーズへの対応のそれぞれがファストであるという。

ちょっとわかりにくいところもあるので説明しておくと、詰まるところ簡単にデータベースが開発できるプラットフォームがクラウドにあるっていうことだ。だから、利用開始や効果の実感がファストというのはクラウドのメリットである。申し込みから利用開始まですぐだし、最初は無料お試し期間もあってすごく敷居が低い。しかも、従量課金で低料金である。

データベースアプリの開発は非常に簡単だ。フォーム設計のところでは、ラベル、文字列、ラジオボタン、日付といった各種のパーツがステンシルのようにおいてあり、それをドラッグ&ドロップでフォーム設定エリアに配置すればそれでOKだ。それが入力フォームとなり、そこから一覧表を作ったり、レポート出力したりできる。だから、案件管理とか日報、顧客リスト、FAQなんていうのはすぐにできてしまう。テンプレートもあるから、ものの数10分でできてしまうものもある。

さて、これから日報だとかFAQを作ろうとしているわけではありません。Excelの代替システムを作るつもりではないのです。「非定型業務のIT化」にこのソフトウエアを活用しようとしているわけです。今までずっと議論してきたように非定型業務のほとんどはプロセスから成り立っています。単にデータベースを作ればよいということではありません。

もちろん、「kintone」はプロセスアプリケーションを作るためにあるツールではありませんから、いろいろな工夫を施す必要があります。場合によっては人力で対応するとか、多少トリッキーなことにもなるかもしれませんが、市販のソフトを使うメリットの方がコードを書くより格段にあります。それは、基本的にはテストが不要ですし、ユーザ管理とかセキュリティとかいったシステム管理がすでにあるのですから、ここも大きいと思います。

ということで、次回から、どうやって実現したらよいのかを議論していくことにします。ただ、スペシフィックでテクニカルな話になりますのでWadit Blog. の方に掲載していきます。


2012年5月23日

別離

これは、まぎれもない傑作である。第84回アカデミー賞外国語映画賞、第61回ベルリン国際映画祭金熊賞など多くの映画賞を受賞したのもうなずける。日本では珍しいイラン映画である。監督はアスガー・ファルハディで前作「彼女が消えた 浜辺」でも話題になったので知っている人もいるとい思います。

この作品には、映画を面白くする、いや人生のあらゆる要素が詰まっていると言っても過言ではない。家族、夫婦、親子、宗教、政治、文化、社会、罪と罰、虚と実などなど。そして、緻密なストーリー展開、継続する緊張感、驚く結末とすばらしい脚本にも脱帽する。しかも、イランだということでその特殊性を前面にだすのかなと思いきや、全くなくどこの国のどこの都市でも成立する話としてできている。

だから、映し出されるのはテヘランの街なのだが、俯瞰した全体像見せるわけではなく近景しか映さないので、ここがテヘランだという意識もない。多少、黒いチャードルを身にまとった女性が出てくるのでそうだと分かる。さらに、主人公の家の暮らしが中流ということなのだが、日本の家庭とあまり変わらないのである。つまり、これだけでも映画の主張は普遍性を帯びていると感じさせられるのである。

冒頭のシーンが、ナデル(ペイマン・モアディ)とシミン(レイラ・ハタミ)という夫婦が、裁判所で離婚の調停を受けているところから始まる。妻のシミンは11歳になる娘の将来を案じて国外移住を望むのだが、夫のナデルは自分の父親の介護があるのでできないと拒否する。そのため、シミンは離婚してまでも計画を実行しようとするが結局ナデルがうんと言わずに物別れに終わり、自分は実家に戻ってしまう。

もう、これだけで夫婦の関係、家族の置かれている状況、社会的な制約などがぱっとわかってしまい、この人たちはいったいこの先どうなっていくのだろうという興味が湧いてくる。目が離せなくなるのだ。そして、妻に出て行かれたナデルは父のためにラジエーという敬虔なムスリムである女性の介護人を雇う。ここでも、介護の問題、宗教上の制約として女性が男性をどこまで介護できるのか、雇う方と雇われる方の家庭の格差問題などが浮き彫りになる。

そうしたある時、ラジェーが外出してしまうのだが、たまたまそのときに家に戻ったナデルが発見したのはベッドから落ちて意識を失った父親だった。ラジェーが戻ると怒ったナデルは彼女を手荒く家から追い出す。その晩、ラジェーが入院したことを知ったナデルが見舞いにいくと彼女が乱暴に追い出されたことが原因で流産したことを聞かされる。そしてナデルは胎児を殺した殺人罪で告訴されてしまう。イスラム法では、胎児は受精後120日目以降人間とみなさるのだという。

さて、ここからが波乱含みの展開が始まっていく。関係する人々のちょっとしたウソが繰り出す交錯にそれぞれが翻弄されていく。推理映画の面白さである。何がいったい真実なのか、どうやって解決されるのか。観ているほうも、もう息もつけないくらいの緊張感が続き、そしてラストシーンも驚かされることになる。再び言うが、傑作である。
  
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2012年5月24日

さあ、いよいよ最終予選だ

昨日、静岡・エコパスタジアムで行われた日本代表はアゼルバイジャンとの国際親善試合で2-0というまあまあのスコアで勝利する。得点は、前半終了間際と後半13分で真剣勝負だといい感じの得点経過であるが、昨日の試合ではもう少し早い時間で取らないといけないとは思う。しかし、代表の試合も久しぶりだったのでこんなものかと思う。従って、6月3日から始まる最終予選に向けて期待を持てる内容であった。

相手のアゼルバイジャンは。FIFAランクでは100位以下だけどいいチームである。中東の国に似たサッカーでもあったので、いいシミュレーションになったのではないだろうか。ところで、アゼルバイジャンの監督はベルティ・フォクツなのだ。ぼくらの年代のものにとってはあこがれの選手で、西ドイツ代表として1978年に地元で開催されたワールドカップの優勝メンバーである。小さい体で闘志あふれるプレーぶりは目に焼き付いている。そんな闘将が築いたチームらしかった。

いつもの遠藤、今野、吉田、李を欠いた布陣でスタート、彼らの替わりに細貝、伊野波、栗原、森本が入る。それと本田が9カ月ぶりに復帰したのでそのプレーぶりにも興味が行く。本田がいない最近の代表の試合があまりかんばしくなかったので、彼の存在感を推し量るいい機会になったが、結果としては大きな位置を占めているのがわかった試合だった。

誰もが異口同音にいっていたのが、「タメができる」ということだ。強靭なフィジカルによるキープ力でタメを作ってくれるので周囲が非常に動きやすくなる。昨日の一点目もタメというより強いフィジカルで長谷部とのダイレクトパスの交換ができたために長谷部がフリーとなり、その結果また香川がフリーとなりスルーパスが出せ、あとは香川の個人技で得点できた。こうしたパターンは、これからの戦いの武器になりそうだ。

後半の2点目は香川からのクロスに本田が頭で合わせて落ちたところを岡崎が押し込む。その他惜しかったものに本田のバーに当たったフリーキックと酒井からのクロスに合わせたヘディングがある。こうしてみるとほとんどが本田がらみである。本田がもう少しヘディングがうまければ得点がもっと増えたかもしれない。

これから、遠藤が戻ってビルドアップする機能を果たすだろうから、さらによくなる可能性があるが、本田との連携がうまくいくかどうかがある。あとは、トップをだれにするのか、右サイドの内田と酒井をどうするのかが課題だろう。昨日も、香川、岡崎はいい動きをしていたが、トップの森本、前田と右サイドの内田があまり目立たなかったのが気になったからである。

ただ、その酒井や高橋、宮市といった初選抜の選手がいいパフォーマンスを見せていたので、層が厚くなった。どんどん競争させたらいいと思う。これから恐いのが選手のケガであるから、そういった意味では代替選手の能力アップはたのもしいのである。いずれにしろまあまの結果だったので、6月3日のオマーン戦に向けて準備はできてきたと思う。あとは、フィジカル面をあげていけば大丈夫だろう。負けられない熱い戦いが始まる。
  

2012年5月25日

プロ野球最強のベストナイン

最近はプロ野球の興味がだんだん薄れてきて、わがベイスターズの低迷もあって、ダルビッシュの活躍ぐらいしか興味がなくなってしまった。しかしながら、子どものころは大のプロ野球ファンで選手の名前もよく覚えていた。小さい頃は何を隠そう南海ホークスのファンで選手では野村克也だったのである。だから母親の急造のユニフォームの背番号は19番だった。

ところが、小学校高学年のときに父親に川崎球場に連れていってもらい、試合が終わったあと大洋ホエールズの島田源太郎投手に抱っこされてから大洋のファンになった。ただ、ぼくらの子どもの時代は巨人全盛で長嶋、王が入団したころである。巨人対国鉄の試合を見に行って金田の球を取り損ねたキャッチャーの谷田が股間を押さえてのたうち回っていたのを覚えている。

だいぶ前置きが長くなったが「プロ野球最強のベストナイン」(小野俊哉著 PHP選書)はそんなぼくのプロ野球ファン心を刺激してくれた。日本にプロ野球が誕生したのが1936年だから、今年で76年ということになるが、その間で最強の選手を、打順別に選ぶとういうのがこの本の趣旨である。普通はポジション別が多いが打順というのが面白い。

選択は、単なる印象や人気ではなくあくまでデータに基づいて、しかも打順ごとに評価基準を変えている。例えば、1番打者だと、打率なのか盗塁数なのかといった具合でみていって、いやそれ以上に出塁率だと、いや通算獲得塁(塁打+四死球+盗塁)だとなる。4番だとそりゃあ打点でしょうとなるのです。

一方、投手はどうしたかというと各年代でのナンバーワン投手を選びます。年代というのは最初は1リーグ時代である1936年~19549年で、その後は10年ごとに2000年代までの7人です。ただ、これだと先発投手が対象ですから初期のころならこれだけでいいのですが、分業制になってからは救援投手も選んであげなくては可愛そうなので、抑え3人、中継ぎ1人を選んでいます。ですから、全部で11人です。

さて、著者が選ぶベストナインはどうなったのでしょうか。ここでばらすのもまずいかなと思うのですが、本のエッセンスは誰が選ばれたということもあるが、むしろどんな根拠で、どんな評価基準で選んだのかですので、ネタバレとはちょっと違うと勝手に解釈して発表します。この選考方法や選に漏れた選手の評価が面白いのでぜひ本を読んでください。

1番 :福本豊 センター 阪急
2番 :千葉茂  セカンド 巨人
3番 :王貞治  ファースト 巨人
4番 :藤村富美男 サード 阪神タイガース
5番 :(DH)チャーリー・マニエル 近鉄 ヤクルト
6番 :張本勲 ライト 東映、巨人他/イチロー ライト オリックス、マリナーズ
7番 :山本浩二 レフト 広島
8番 :野村克也 キャッチャー 南海、ロッテ、西武
9番 :松井稼頭央 ショート 西武、ロッキーズ、楽天他
投手 :(先発)スタルヒン 巨人他/稲尾和久 西鉄/村山実 阪神/江夏豊 阪神、南海、広島他/
    大野豊 広島/斎藤雅樹 巨人/ダルビッシュ有 日ハム、レンジャーズ
    (救援)佐々木主浩 横浜、マリナーズ/岩瀬仁紀 中日/久保田智之 阪神

となるのだが、若干疑問があるでしょう。例えば、4番サードは長嶋でしょうというのとイチローがなんで1番ではなくて6番なんだよ、しかも張本と二人が選ばれている。川上や落合も入っていないしと思うでしょう。だが、だいたいいいところをついていると思う。ただ初期のころの選手は見たこともないので是非自分でデータではなく印象でいいから選んでみるのも楽しいかもしれませんよ。 
  

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2012年5月26日

言い訳はいけないこと?

スティーブ・ジョブスは生前オバマのことを「あいつは言い訳ばかりするヤツだ」と言っていたらしい。ぼくの家のトイレに貼ってある塗装屋さんからもらったカレンダーに毎月人生訓みたいなものが書いてあって今月は「本当に自分の誤りに気付いたら言い訳の言葉は出てこない」とあって、毎朝それを眺めている。その解説に、どこかに遅れたりするとつい「すみません、道が混んでいたもので」言ってしまうが、その言葉にはすみませんというより、道が混んでいたからというほうを強調する響きがあると戒めている。

自分の責任ということをはっきりさせることが大事だとぼくもそう思う。しかしながら、良い言い訳と悪い言い訳があるというわけではないが、言い訳を全く考えないというのもおかしな話ではないだろうか。むしろ、ことを起こす時に言い訳を備えていないでやみくもに突っ込むのことのほうもおかしいと思う。

例えば、昨年のあの大震災のあと菅元首相がいきなり浜岡原発を停止させたのだが、あれって言い訳を考えていたのだろうか。気分であるいは感情的に決めてしまったのではないだろうか。つまり、言い訳のない行動は論理性がないということだと思う。なぜ、あのような決断、行動を行ったかを説明できないのは問題のような気がする。そういった意味では言い訳を考えておくのはある程度必要であろう。

ある程度という意味は、ちゃんとした理屈を伴った決断をしましたよということであるが、だからといって最初から言い訳をするのではないというスタンスがよいと思う。決断がうまくいかないことを想定したリスク管理の一種だとも言える。つまり、そんな言い訳をしなくて済むように十分考え抜いておこうよという意味である。

ところで、言い訳を平気ですぐに出してしまう人種がお役人である。逆に言い訳を言えないお役人は失格である。様々な人々と相対するわけだから、必ず意見の違う人がいて、どちらかが賛成すると、片方は反対という場面ばかりである。また一部の人の意見だけを取り上げることもできない。だから、言い訳を用意しないと何もできないということになる。

この言い訳の最も効果的なものは何だと思いますか?それは前例です。法律というのもあるが、法だけで片づくような問題はそう多くはないので、今まではこうしてきましたよとか、その件は過去はこうだったですよ、そうおっしゃいますがみなさんこれで納得していますよといった継続性を持ち出すのである。まあ、分からなくもないが、言い訳をすぐに表に出さなくてもいいようなサービスをやってもらいたいものだ。

つべこべ言い訳するな、素直に謝るだけでいいのだというのも精神論的で考えものだし、最初から言い訳を用意して事を処すのも前向きではないし、結局、根拠や理由を論理的に積み上げてその結論としての行為を情緒的な要素をちりばめて実行するのが現実的ではないのかとつらつらと思うのであります。


 

2012年5月27日

テルマエ・ロマエ

いやはやこれは面白い。原作の大ベストセラーのまんがも知らなかったし、テルマエ・ロマエって何のことという予備知識ゼロで観た「テルマエ・ロマエ」は楽しい映画であった。思わずウソでしょうと叫んでしまった。出演は、阿部 寛、北村一輝、市村正親、宍戸開といった濃い顔の男たちと、“平たい顔族”を演じる笹野高史、竹内力、そして漫画家志望のヒロインに上戸彩といった面々。監督が武内英樹。

テルマエ・ロマエというのはラテン語でローマの風呂という意味です。風呂のことをテルマエというらしい。古代ローマで浴場の設計師であるルシウス(阿部寛)は、斬新な設計ができないで悩んでいた。そんなふうに落ち込んでいたとき友人とでかけた浴場で何とタイムスリップしてしまう。しかも、たどり着いたのが日本の銭湯なのである。

これだけで何と荒唐無稽だと思うでしょう。しかも古代ローマ人を日本人が演じているのですよ。それが別段おかしいことでもないように思えてくるのが不思議だ。ルシウスに扮するのは阿部寛であるが、他にも皇帝ハドリアヌス、次期皇帝候補のケイオニウス、アントニヌスをやはり日本人である、市村正親、北村一輝、宍戸開という濃い顔の俳優さんが演じている。多くの現地エキストラに混じっていても違和感がないというこれまた不思議だ。

日本にタイムスリップしたルシウスがそこで見た日本の銭湯に驚き、その風呂文化を古代ローマに持ち帰る。最初が富士さんの絵の替わりにベスビオス火山を描いた壁画をかざり、湯あがりにフルーツ牛乳を飲ませるのである。これは受けるに決まっている。こうして、彼は浴場の設計技師として名声を得ることになる。

それに目をつけたのが皇帝のハドリアヌスで新しい風呂の設計を彼に依頼する。そして、どうしたらいいのか悩み抜くとまたタイムスリップして日本に行き着くことになる。そこで出会った“平たい顔族”(日本人のこと)や上戸彩演じる真実らに出会う。家庭風呂や露天風呂、はたまたウオッシュレットまで飛び出して、皇帝の歓心を誘うのである。

こうして、行ったり来たりしながら、日本の風呂文化を古代ローマに持ちこむ。ところがただそれだけではなく、皇帝の跡継ぎ問題にまでは話は展開していく。このようにローマ時代にづかづかと入り込んでいく神経に驚くとともに乾杯したくなった。イタリア人もこの映画のプレミアム上映で大笑いしたということだから風呂好きの共通項があることはどこか似た文化なのかもしれない。

タイムスリップする映画というと、海外では有名な「バック・トゥ・ザ・フューチャー」とか日本では「戦国自衛隊」「時をかける少女」なんていうのがありますが、全然別の国の過去に戻るなんて珍しい。こういうハチャメチャ感がとてもうれしい映画である。
  
terumaeromae.bmp
  

2012年5月28日

クラウド時代の業務システム・・・業務システムにクラウドが与える影響

業務システムにクラウドが与える影響を考える場合、ASP、SaaSというものがどういうもので、その延長としてクラウド化があるのかどうかを議論するのがいいと思う。「インターネットの向こう側にある業務システムを共同で使い、利用料金を払う形態」が有効なのかどうかということである。

ASPは字句通りに解釈すると、「SIerのサービスの一つとして、業務アプリケーションを複数のユーザに提供する」ということになる。しかし、このアプリケーションとはいったい何なのか、全く同じものを使わすのか、どうやってインスタンスを分けるのかとかいった問題を抱えていた。つまり、概念的なレベルの話でこれこそがASPという実体があったわけではなかった。

よくある3文字熟語のバズワードである。ただ、ぼくがその時考えたことは、グループ会社に同じシステムを使わすということである。情報システム部門を分社させて情報子会社を作ったのだが、そのビジネスモデルのキーはグループ会社へ安価なサービスお提供することであった。シェアードサービス化とも言える。何しろ、子会社が100社以上で国内70数社で海外にも30社ぐらいあったので、そこがバラバラのシステムは入っているので共通化、標準化して、運用を一括でやりたかったのである。

そうなると当然同じものを共同利用するという考えが浮かんでくる。汎用機をTSSのように使うわけにもいかないし、世はオープン化、クラサバへ移行した時期でもあったので、どうやってその仕組みを作ったらいいのか思い悩んだものだ。そのとき、誰だかもう忘れたがASPという概念を提示していた。これだと飛び付いたはいいが、統合ネットワーク化から始めなくてはいけなかった。また、業務パッケージを持って来ると、投資がすごいことになるし、子会社はあるゆる業種・業態があるので対応が難しいこともあり、自社でフレームワークを作ってしまった。

そんなことで始めたのだが、非常に難しいプロジェクトになる。結局、親会社で大型パッケージの導入が決まり、そちらの方が忙しくなり止まってしまったのだが、今はどうなっているのかわからない。今日のクラウドの環境があればかなりのことができるようになった。プライベートクラウドという言い方があるが、グループ会社を多く抱える大企業にあっては有効であると思う。

ですから、クラウドはひとつには標準化されたアプリケーションあるいは業務システムを複数ユーザーが共同で利用することでコストを抑える効果があるような形態の企業群が採用してこそメリットが享受できるのではないでしょうか。少なくとも、そうしたことをやりたいと自分たちの頭で考えて人にとってはいい時代がやってきたのではないかと思います。

もうひとつは、個別企業の場合でクラウド上にあるプラットフォームを利用して安価に自分たちの業務システムが組み上げられて、使用できることがある。ここで気をつけなくてはいけないのは、プラットフォーム利用に留めることだということである。そもそもクラウド上にぴったりの業務システムがあるわけないからだ。もしあったとしても、相手が勝手にバージョン変えてきらどうしますか。ですから、やみくもにとびつくのではなく、そうならない領域での利用ということをよく考えておく必要があります。
  
  


2012年5月29日

メディアと日本人

これはまじめな本である。ふまじめな本があるかどうかは分からないが、実直な内容で受けをねらった釣り言葉もないし、実証研究に基づく考察が主でそれはそれで好感がもてる。「メディアと日本人」(橋元良明著 岩波新書)はそんな本で、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、書籍、インターネット、携帯電話といったメディアについて、その過去、現在、未来について論及したものである。

この中で特筆すべきことはインターネット登場ということであろう。この15年間でメディア環境は急変した。日本人の生活が一変したと言っても過言ではない。本では1995年から2010年までの調査結果を基にその変化を追いかけている。それぞれのメディアがどう変わって来ているのかをみたいが紙数がないのでテレビとインターネットをひろってみる。

テレビは何となくインターネットに取って代わられてみんな見なくなっているのではと思いがちであるが、意外にそうでもない。例えば、テレビの視聴時間でも50代、60代はほとんど変わらないし、一日のうちにどれだけの割合の人がテレビを見たかでも単純な減少傾向にはなっていない。また、「いち早く世の中のできごとや動きを知るメディア」という質問もでも断トツトップがテレビで、比較的テレビ離れが激しい10代でも高い評価である。

一方、インターネットは、すさまじい勢いで普及していて2009年の時点で人口普及率で78%にも達している。最近では、若い人はもう生まれたときからインターネットがあるから飽和に近くなっているから、30代から50代の中年齢層の増加が著しい。そして、「趣味・娯楽に関する情報を得るのに最も利用するメディアは」という質問ではついにインターネットがテレビを追いぬいてしまった。

ただ、だからといってインターネットがテレビに「取って代わる」ことはない。インターネットはほとんどの場合、情報の様相としては何も新しいものではないわけで、既存メディアと違って効率的で低コストの強力な新しい伝送路が登場したということに過ぎない。むしろそのことで分散しただけなのである。新しいタイプのものがどんどん出てきている。本でもBlogやTwitterについての記述はあるが、Facebook には言い及んでいない。

テレビや新聞との違いは何かというと、テレビはニュースの放送順序で、新聞は記事の掲載位置で何が重要な争点であるかがわかるが、ネットだと自分で判断しなくてはいけないところがある。いいか悪いかはどちらとも言えない。例えば、新聞なんかでも偏向的な傾向もあるので気を付ける必要がある。ネットは逆に多様な意見があるからうまく情報を得られればバランスがとれるとも言える。

また、テレビは、癒しの機能、つまり代理体験機能があると言われている。でも昨今の番組を見ていると癒されるというよりバカになるものも多い。もちろんネットでも癒し系のコンテンツだってあるので、そう大きな違いはないのではないだろうか。さっき言ったようにネットだからということで新規のメディア的要素はそうないわけだからである。

先日もニコニコ動画のドワンゴの川上社長が多様性を提供する広場を作りたかったというような発言をしていたが、究極の分散メディアなのだろう。直接メディアに関する質問ではないが、「人と会って話すより、メールでやりとりする方が気楽だ」でそうだと答えたのが10代は25%、60代が6%、「世間のできごとより、自分の身の回りのできごとに興味がある」としたのが10代が80%、60代で50%、「政治に無関心」に人が10代62%、60代29%、「自分が他人にどう思われているのか気になる」人が10代で72%、60代が27%というような意識調査の結果も気になってしまった。内ごもりの若者がちょっと心配でもある。

さて、この本の最後の最後のことばが秀逸である。思わず膝を打った。

なお、本書を執筆するにあたって、メディアに関する知識や統計的数値の確認のため、しばしばインターネットを参照した。正直言ってネットの助けがなければ書けなかった。しかし、ネットがなければ、もっと早く書けた。ネットは、ありあまる知識を与えてくれる一方で、惜しみなく時間を奪う。
  
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2012年5月31日

ファミリー・ツリー

ぼくは、ジョージ・クルーニーが好きだ。「オーシャンズ11~13」でのカッコよさや「マイレージ・マイライフ」の疲れたビジネスマンもよかった。その彼が主演の「ファミリー・ツリー」を観る。ここでも父親役でがんばっていて、第84回アカデミー賞主演男優賞ノミネートされほどの熱演だ。監督・製作・脚本はアレクサンダー・ペイン。こちらはアカデミー賞で脚色賞を受賞した。

これはまさしくジョージ・クルーニーの映画である。最初はやんちゃ坊主のような俳優さんだったが、いいオヤジに変貌した。ぼくはひそかにポール・ニューマンの再来だと思っているが、かいかぶりすぎかなあ。

舞台はハワイである。ジョージ・クルーニー扮する弁護士のマット・キングは、妻と17歳と10歳になる娘の家族を持ち幸せな生活を送っている。仕事の方も順調で、というか仕事中毒に近く、家庭を顧みず仕事に熱中しているような夫であり父親であった。また、カウアイ島にある先祖代々受け継がれてきて親戚で共有する一等地を売却するかどうか決定を任されていた。

そんなとき、妻エリザベスがボート事故に遭い、意識不明の重体となる。そこからいろいろな展開が始まるのだ。モーレツ社員(古いなあ)が急に妻が倒れ家庭にもどるのだが、娘は全くついて来ないというか反抗されてしまうというよくあるパターンとなる。それをクルーニーは厳格な父親ではなく、オロオロしてしまう姿をさらす。次女の不始末を一緒に謝りにいったり、寮に入っている長女を連れてくるがなじられてしまう。

その長女が意識の亡くなった母親に対して複雑な対応を見せる。そして、なんと母親が浮気をしていたのを目撃したことを告げる。ここでも、マットはショックで右往左往してしまう。ここで面白いのはさすがアメリカ人で、自分の妻の浮気相手を見つけ、妻の状況を直接伝えようと行動を起こすのである。ぼくだったらどうするだろうかとつい考えてしまうが、すぐにあきらめるような気もする。

結局、浮気相手を突き止めて見舞いに来てくれと詰め寄る。もうその時は意識のない妻の生命維持装置を外すことを決めていたのだ。このことだって、マットは悩んだはずである。要するに、この映画にはどんな男でもある年齢になると大なり小なり抱えなくてはならない問題が全部詰まっているように感じる。

夫婦、家族、病気から死、親戚、妻の不貞、自然と開発などなどが出てくるが、別にスパっと割り切れるわけでもなく、おろおろしながら解決せざるを得ない姿がわが身に照らしてぐっときたのである。いやいや妻の不貞はないですよ。それとぼくには二人の子はいるが両方とも男だから、娘を持つオヤジの気持ちはわからないですね。

それにしても、観ていてふと思ったのは、舞台がハワイであるということがけっこうキーなっているのではということで、どういうことかというと考え方とか様々な対応がアメリカ的な部分と日本的な部分を合わせ持っているように思えたからである。つまり、先祖代々の土地とかそれに絡む親せきが登場して来たりするところや、赦しみたいなことととかドライなところだけではなくかなりウエットな部分があったりするのである。

いずれにしろ、偉大な父親がいるわけでもない、有能なビジネスマンがいるわけではない、妻に浮気をされてしまうような間抜けな夫かもしれない。しかし、必死に愚直に動く姿に拍手を送りたくなった。最後のシーンがとても印象的でそれを見るとああぼくにも娘がいたらなあと思うのである。父親必見の映画である。
  
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