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2012年3月 アーカイブ

2012年3月 1日

負けた、勝った。

昨日トヨタスタジアムで行われたアジア3次予選でサッカー日本代表はウズベキスタンと対戦し、0-1で敗れた。そのあとすぐにポルトガルで行われた女子サッカーのアルガルベ・カップで日本代表はノルウエーを2-1の逆転で破った。男女の代表戦が続けて見れるとは初めてではないか。

ただ、結果どおり男子の試合はだらしなかったが、女子は世界チャンピオンとしての自信が現れた試合であった。ウズベキスタンは非常にいいチームでシンプルで堅実なサッカーをやっていたからそう簡単に勝てないのは戦前からわかっていたが、それにしてもホームでこんな試合をしていたらだめだ。

前半に岡崎のシュートが惜しくもバーにあたったが、もし入っていればという“たられば“の話はあるかもしれないが、あとは大した攻撃もできなかったしシュートもあまり打てていない。メンバーはほぼベストに近いのにこれなのだが、ザックも言いわけでコンディションが悪いと言っていたが、海外組は今はシーズンだから時差だけの問題なのでそこだけではないだろう。

ただ、海外組のできがあまりよくなかった。香川と岡崎はまあまあだったが、長谷部と内田がよくない。試合に出せてもらえないからなのか、力がないから試合に出られないか分からないが、調子がよくないのは確かだ。ウズベキスタンにそこを突かれていたように思う。

遠藤も言っていたが、お互いの距離感がうまくいかなかったことや、セカンドボールの処理が相手が勝っていた。このあたりは個人の意識の問題と技術力があって、個々の力関係でウズベキスタンに負けていた局面が多く見られた。こんな調子だとオーストラリアとか韓国、イラク、イランには勝てないかもしれない。

とはいえ、チームの調子と言うのは波があって一回落としておいて最終予選でまた上げていけばいいのだ。だから、だいじょうぶだ。

女子は貫禄である。先制されてもあわてることなく逆転するし、あとから入った控え組もそこそこのパフォーマンスをみせるあたりチーム力もずいぶんと向上しているようだ。オリンピックを期待しよう。

共喰い/道化師の蝶

第146回の芥川賞は、田中慎弥の「共喰い」と円城塔の「道化師の蝶」に決まった。受賞が決まった日の記者会見でふてくされた態度で話題になってしまった田中慎弥と東北大学理学部出身というバリバリの理系である円城塔の対照的な二人である。そうした、表面上の違いはまじめとふまじめ、一度も職についたことがない風来坊と物理学の研究者というのだが、作風はそれとは反対である。

まず、田中慎弥の「共喰い」は非常にオーソドックスな小説である。氏の住んでいる下関を舞台に二人の母親を持つ17歳の高校生の日常が描かれる。父親との関係、自分を生んだ母親、今父親と一緒に暮らしている後添いの女、そして幼なじみの女子高生との何とも生臭い関係がどくどくと吐き出される。その最たるものが父親の殴らずにはいられないセックスを嫌悪しながらも自分の体にもあるかもしれないと恐れるのである。中上健次の世界を彷彿とさせる。

こうした地方都市における土着的な風土を色濃く書く筆力は大したものである。ストーリーは、おどろおどろしいのではあるがそれとは逆に丁寧な文章表現でリアルな情景が浮かび上がってくる。いみじくも、今回で芥川賞の審査員をやめる黒井千次と石原慎太郎が書評で毀誉を語っている。黒井はほめ、石原はけなしたのである。

「川辺の暮らしの中に幸せそうな人は登場しないのだが、そのかわりに生命の地熱のようなものが確実に伝わってくる。歴代受賞作と比べても高い位置を占める小説である」と黒井はベタほめである。一方、石原は「戦後間もなく場末の盛り場で流行った「お化け屋敷」のショーのように次から次へと安手でえげつない出し物が続く作品で、読み物としては一番読みやすかったが。」というものである。両方とも言い当てているようにぼくには思える。

つまり、えげつないかどうかは主観的な要素が多分にあるが、ちゃんと読み物になっているわけで、そこに人間の生き様ふがかぶっているは確かなのである。いずれにしろ、地方で職にもついたことがない文学青年がこうして陽の目を見られたことは良かったのではないだろうか。地方から出たエネルギッシュな文学が様々なものを刺激してほしいとも思うのである。

さて、円城塔の「道化師の蝶」である。ぼくには全く理解できなかったし、途中で何度となく読むのをやめようと思った。前衛的とか実験的といったものなのかもしれないが、普通の小説ではないのは明らかだ。だから、どんな筋書きでどんな感想をもったかと問われても答えることができない。

ただ、作者が言っているように「エンジニアをしているような人間が今のメインストリームの小説を読んでも楽しいかというと、たぶん楽しくないんですよ。エンターテインメントとしては付き合うけれど、結局は嘘じゃん、となってしまう。(中略)彼らに対して、ストーリーだけではなく、もっと構造や部品そのものを面白がってもらう小説のあり方もあるんじゃないか、と思うんです」とういうことらしいが、その結果が今回の受賞作かというと唸ってしまう。さて、どんな方向にいくのだろうか。元エンジニアとしては興味がある。
  

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2012年3月 3日

恋するナポリタン~世界で一番おいしい愛され方~

こりゃあひどい映画だ。ストーリーも俳優も監督も脚本もどうしようもない。珍しいですねこんな作品。監督は本作がデビューとなる村谷嘉則で、脚本が鈴木勝秀、主演が相武紗季、眞木大輔、塚本高史といった面々である。この眞木大輔というのがぜんぜん知らなかったけどEXILEのマキダイなのだという。踊りはうまいかもしれないが演技は全くの素人ですね。これじゃあ、相武紗季と塚本高史がかわいそうだ。

とりあえずとんでもないストーリーを。ある男性からプロポーズを受けた幼なじみの瑠璃(相武紗季)の伝言を聞いた イタリア料理のシェフ武(塚本高史)は、長年の思いを伝えようとした瞬間、ピアニストである槇原佑樹(眞木大輔)が起こしたアクシデントで命を落としてしまう。しかし、奇跡的に助かった佑樹が取り戻した記憶は武のもので、佑樹は瑠璃が慣れ親しんでいる武の料理を鮮やかに作ってみせる。

って何だこれはと思いませんか。入れ変わっちゃうわけで、その結果で武の密かに抱いていた思いが瑠璃に伝わっていくというのがミソなのだが、その思いというのが幼なじみだから、ともだち感覚でしか見ていなかったのだが本当は違ったのだということらしい。でもそんなことは別に憑依しなくてもいいと思うし、分けがわからない。

それに、レストランの厨房に犬は入れるは、茶髪でロン毛でコック帽もかぶらないで料理を作るし、花嫁が披露宴で腹いっぱい食べてしまうし、初めて聞いた息子の作曲した曲を楽譜も見ないでピアノを弾いてしまうオヤジとか、ディテールに全くこだわりを感じないのは観客をバカにしている。

最悪なのは、演技陣の稚拙さでこれは目を覆いたくなる。最初に言ったように相武紗季と塚本高史はまあまあなのだが、EXILEの何とかというがいかん。せりふは棒読みだし、容貌もそこらのにいちゃんみたいで、もう興ざめもいいところである。

それに、瑠璃と結婚する水沢という武の先輩シェフを演じる市川亀治郎がこれまたいただけない。あの顔で相武紗季とキスされたんでは吐き気を催す。さらに、槇原佑樹の異母姉の真琴つばさも「東京公園」三浦春馬に対する小西真奈美の再現かと思わせたが気持ち悪い。終いには医者役で茂木健一郎まで登場してはしらけてしまう。

ということで、要するに素人の芝居を見せつけられて、しかもストーリーがおもしろければ我慢ができるのだが、ありえねー展開では万事休すである。ぼくは映画好きの人間として基本的に悪口は言いたくないのだが、どうも最近安易につくられたものが多くなったような気がする。その典型がこの映画である。いやはや困ったものである。
  
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2012年3月 4日

男の伝言板 - 資格

最近は何かと資格をとるのが流行っているようだ。その人の能力を判定するのには資格はわかりやすいし、アピールポイントとなるので自己啓発という意味も込めて多くの人が取得をめざしているのだろう。資格でも難しい国家資格から民間資格まで1000以上あるらしい。ジャンルも公務員系、法律系、会計系から工業系、IT、スポーツまであらゆるジャンルに資格があるといっても過言ではない。

じゃあ、おまえはそういった資格を持っているのかと聞かれると、運転免許は持ってますけどと答えてしらっとされますが、実は少しは持っています。もともと化学工場で働いていましたからいわゆる工業系の資格です。正直なところ取らされたというのと費用の補助と奨励金みたいなものがもらえるからという理由です。

工場だと、そこで必要な資格の取得者の配置が義務付けられていたりしますので、職務命令で取らされます。例えば、危険物取扱主任者や高圧ガス取扱主任者とかボイラー技士とかいったものがあります。こうした試験は、筆記試験はもちろんありますが実務経験が必要であったり、甲と乙種があったり、二級から徐々にあがって特級にいくみたいな階層もあったりします。

ぼくはこの試験が大嫌いなんですね。資格試験に関わらず学校のテストも入学試験も大嫌いです。好きな人は少ないと思いますが、ぼくはどうしてもやる気がでないのです。それでも、しかたなしに受験するわけで、やっと危険物取扱主任者、ボイラー技士、熱管理技士くらいは持っています。だから、ビルの管理人にはなれます。あれ免状はどこにいったかなあ。

また、資格によっては昇格の条件になったりします。資格とはちょっと違うかもしれませんが、よくTOEIC何点以上ないと課長になれないなんていうこともあります。ところで化学工場では高圧ガスを扱うのでその資格がないと責任者、すなわち製造課長とか製造部長になれないことがあります。ですので、必ず取る必要がありますのでもちろん受験をしました。

これはけっこう難しいので自習だけだとつらいので認定の講習会というもの出かけるわけです。そこで強制的に詰め込むのと試験に出そうなところを匂わせてくれるというメリットがある。もちろん有料なのであるが会社が出してくれる。で今からそこまでしてくれたのに取れなかった話をする。

当時はまだ若かったから遊びたいのが先にあって、勉強も一夜漬けでいけるだろうとたかをくくっていた。名古屋であった講習会に行ったのはいいが、頭は帰りに女子大小路で飲むことで頭がいっぱいになる。講習が終わるとそそくさとネオンをめざしたのである。

ところが、女子大小路はそんなぎらぎらにいちゃんを手玉にとるくらい簡単なことはないらしかった。いいかげん酔って帰ろうと勘定お願いしますというと5万円だという。3人だからひとり1万7千円くらいだと思ったら、いやいやひとり5万円なのである。ありゃー金がない。そうしたら、ひたすら頼んでまけてもらえばよかったのに、なかのひとりが近くに友だちがいるから金を借りてくると言ってしまった。

こりゃあだめだ。結局ぼくが人質となり、お金が来るまで待つことになる。もうこうなると開き直っているし、相手の恐いおにいいさんもだんだん打ち解けて、あんた運が悪かったなあとか、金もないのにこんなところで遊ぶんじゃないよとか、店の女の子がやたら飲み物をせがんでも無視するんだなとか話がはずんでしまった。

そうはいっても結局ぼったくられたわけで、当時のお金としては大散財をしてしまった。これじゃ、多少とも講習会で覚えてこともどこかへ飛んでいってしまい、予想通り試験は落第の憂き目にあう。それからというもの、ぼくは資格をとる資格がないと自覚して一切の試験を受けなくなった。

IT分野へ変わっても何の資格も持っていない。でも身近で中小企業診断士とかITコーディネータとかの資格を持った人が多くいるが、資格をもっているからどうのとういうより、それとは関係ないスキルで勝負しているように見えるし、そのほうが大事なように思えている。ということで少し脱線気味の自己弁護のエントリーでした。
  

2012年3月 6日

日本企業にいま大切なことを見直す(5)

前回は「ムダが多いはずの「総合力」が生きる時代」の話をしたが、もうムダが多いはずといったところでアウトでしょ。総合力なんて生きません。日本の総合家電メーカーの惨状を見ればわかるでしょう。それで今回は「世界に注目される共同体経営」である。

ところが、ここで言うところの「共同体経営」というのがよくわからない。社会との「共通善」をめざす企業なのか、長期雇用、終身雇用がベースにある経営なのか、どこかで日本という国を背負っているという気概をもっていることなのか。野中郁次郎先生はそんなことを評価している。遠藤功先生も同様に、日本流を押し通す気概が必要だと思いますと述べている。

おいおいちょっと待ってと言いたくなる。気概はいいけど日本流がどれだけ世界で評価されているのかが問題で、今までおふたりが言っている日本型経営がそんなにすばらしいものなら、なぜ日本企業の成績がよくないのだろうか。日本の「当たり前」が世界で評価されているとも言っているのだが、それは一部のことであって、全体にあてはまるわけではない。

この「当たり前」というのは高度経済成長のときに築かれたものであるから、これから日本の後を追うような発展途上国への適用はあるかもしれないが、一般的、標準的なものには成りえない。ましてや、現代日本の企業にとってそんなモデルは時代遅れなのである。だから「日本企業にいま大切なこと」でもなんでもないのである。

重要なのは変化に対応していくことで、過去を振り返るにしてもそのまま持ってきてはいけなくて、今の環境に合わせたものにしないといけないのである。へたすると過去の成功がいまは失敗になるかもしれない。

それと驚くのは松下幸之助の「産業報国」の精神を持ちだして、シャープの創業者の早川徳次も同様だったという。グローバル化という言葉を言うまでもなくずれているし、今のパナソニックとシャープを見ていると「日本的経営バンザイ」なんて言ってる場合じゃないだろうと思える。

そんなことを考えていたら、池田信夫のブログでこの日本的経営バンザイ本の紹介みたいなのが載っていて、その中に「知識創造企業」という野中郁次郎が書いた本をボロクソに叩いていた。有名な「暗黙知」という概念は単に「職人芸」や「経験主義」の言い換えに過ぎないと両断されている。ぼくが言っていることと同じような指摘である。

それと、批判ばかりで恐縮なのですが、遠藤先生が組織に対する帰属意識に触れているのですが、その中で「会社を好きになる」という感覚をどうもってもらうかが大事だみたいなことを言っているのだが、これって間違っていないですか。終身雇用につながるような話なのであるが、会社を好きになる前に自分が作っている、あるいは売ろうとしているモノやサービスを好きになることが第一なのではないでしょうか。

だから、日本では就職ではなく就社だと言われるのはこのことで、自分が産み出したものが、人々に役に立ち喜んでもらうことが目的であって、いい会社に入ることが目的でもなんでもない。だから、その会社商品が好きになれなかったら会社を変わるべきなのである。発言力のある先生が労働市場の固定化を促すようなことを言われても困るのである。
 

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2012年3月 7日

BPMフォーラム

昨日、目黒の雅叙園で開かれた第7回BPMフォーラムに参加する。もう7回目になるわけだが、終わってから事務局の人たちと打ち上げしたとき感慨深けによく続いたたなあと言っていた。ぼくはほとんど出ているので、その変遷というか流れを見てきたが、今回の特徴はおそらくユーザの人たちの割合が増えてきたことではないだろうか。

はじめた当初は、ベンダーの人たちの参加も多く、どちらかというと開発メソッド的な捉え方でBPMは見られていたように思う。そしてある種の期待感があってこれから導入企業が増えてきそうだという観測もあったのである。ところが、IT投資が抑制されているという面もあって、新たな投資案件にBPMを適用するという例がなかなかあらわれないという現象が続いている。

従って、最近の傾向としては開発ツールとしてのBPMSといったトーンが薄れてきて、プロセス改革に向けた、いわゆるビジネスマネジメントの活動といった側面が表に出てきているといえる。これは本来のBPMに近づいたわけだから非常によい方向である。だから、ユーザ企業の人たち関心に答えることをしていかなくてはいけない。

知り合いの何人かのベンダーの人と話していたら、単にBPMSを売ろうとしてもなかなか売れないと言っていた。ツールを売るというスタンスだとシステム屋さん向けにプロモーションすることになるが、情報システム部門のひとたちにプロセス改革といっても通じないと嘆いていた。だから、経営者と事業責任者へアプローチしないといけないのだが、それが不十分で今後の課題だと言っていた。

そうした流れを象徴的に発信した(と思っている)のが、日本BPM協会のBPM推進フレームワークで、フォーラム冒頭でも事務局長の横川さんの方から紹介があり、それを受ける形で午後の最後のセッション「これからの業務改革アプローチ:BPMは、こう取組む~実践事例に見る新・推進フレームワークの有効性~」で報告を行った。

このセッションでは、推進フレームを作ったコモンセンス部会(ぼくもメンバーです)のリーダの岩田アキラさんからフレームワークのコンセプトや意義について話して、そのあとぼくのほうから実践事例を紹介し、後は協会理事である太田大作さんがモデレータとなったパネルディスカションを行った。

全部で55分という短い時間だったので、ぼくのプレゼンも15分しかなく言いたいことが言えなかった面もあるのだが、最低限のことは主張できたかなあと思っている。新しいフレームワークのポイントは、まずは従来のデータベースアプリケーション主体からBPMアプリケーションに軸足を移そうよねというパラダイムの転換を訴えたことがあります。このことは以前からずっと言い続けたぼくとしては大変心強く感じました。

それと、PC、PD、POという3つの環をシンボリックに表現したことです。Process Change(プロセス改革推進)、Process Development(プロセス開発)、Process Operation(プロセスオペレーション)が三位一体となって動く姿を提示している。特にオペレーションの位置を引き上げたことが特記されるところです。従来のBPMではあまり表にでてきていなかったところで、オペレーションできちんと成果をあげなければいくらいい戦略をたてても、いくらいいツールを使ったとしても何ら意味のないことなのである。

ということで、ぼくの年来の主張が埋め込まれたものになり、こうしてプレゼンもさせていただけたことが大変うれしく思う。セッションが終わったあとに出席者のアンケートを見せてもらったのだが、もっと詳しく聞きたいといった声も多く好評だったようななので早速追加セミナーを開こうという話になった。ぜひ、皆さんと一緒になって議論する形で実現できたらいいと思っている。

他のセッションや基調講演にも触れなくてはいけないのだが、まだちょっとプロセスという概念がばらばらのような気がする。ただ、わりと事例を中心にな話されているという印象でよいことだと思うのだが、欧米の金融、保険、証券といった例はまだこれからという日本の企業には突出しすぎているように感じられた。プロセスの適用というのは様々なところがあり、あまり製造業でいう工場のような領域(例えばATM、株取引、切符発券、空港オペレーションなど)は、少し分けて考えた方がいいように思う。とりあえずご報告です。
  

2012年3月 8日

ものすごくうるさくて、ありえないほど近い

タイトルをなかなか覚えられなくて、英語の「EXTREMELY LOUD AND INCREDIBLY CLOSE」のほうが思い出せる。そのままの訳が日本語のタイトルになっている「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」を観る。アカデミー賞の作品賞と助演男優賞にノミネートされた作品である。残念ながら両方とも受賞は逃したがさすがノミネートされるだけの良い映画であった。

大好きな父親を9.11のアメリカ同時多発テロで亡くした少年が、父親の残した鍵の謎を探るべくニューヨーク中を奔走する姿を描く。監督が「愛 を読むひと」や「リトル・ダンサー」のスティーヴン・ダルドリー、出演が父親役のトム・ハンクス、母親がサンドラ・ブロック、そして少年役には映画初出演のトーマス・ホーンという布陣である。

9.11で父親を亡くした少年オスカーがある日父親の部屋から鍵を見つける。もちろん何の鍵だかわからないのだが、その鍵を使って開けると何か父親とのつながりが見いだせるかもしれないという思いでニューヨーク中を探しまわるのである。父親を亡くしたことの悲しみが大きすぎてそれを受け入れらない喪失感をその行為で何とかしようとしているかのように。

オスカーはパニック症候に陥らないようにタンバリンを鳴らしながら歩くと言ったように繊細な神経の持ち主でうまく人と接しられない子なのだが、父親はそんな彼を優しく見守りながら、彼の個性をのばしてやるのである。だから、オスカーの喪失感はものずごく大きなものだったのである。しかも、最後の父親からの連絡を聞かなかった自分を責める気持ちもあって、余計に清算できていないのである。

鍵の入った封筒に書かれたBlackさんを手当たり次第に尋ねるのだが、たどり着いた結末は意外なものであった。しかし、その探索の過程で彼の心も変化していく。言葉を失った祖父や実は暖かく見守ってくれていた母親だとか、また多くのBlackさんとの出会いで徐々に再生していく。

鉄板の喪失と再生の物語ではあるが、脚本も演出もよくできていて、主役のオスカー少年を演じたトーマス・ホーンの熱演もあり感動的で後半は涙を流しっぱなしであった。日本でも何年か後に大震災の物語を紡いでもらいたいものだ。

ところで、この少年はアスペルガー症候群の疑いがあるというようなエピソードが語られるように精神的に不安定というか才気走ってガラスのような子であるが、ふとこういう子が大きくなるとビル・ゲイツやマー・ザッカーバーグになるんだなと思わせる。アメリカの社会はこうした子を見る目に偏見がなく寛容だなあと変なところで感心してしまった。いずれにしろ大変おもしろいのでぜひご覧になってください。
  
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2012年3月10日

さあ、最終予選だ!

2014年ブラジルワールドカップのアジア最終予選の組み合わせが決まった。日本はB組で、オーストラリア、イラク、ヨルダン、オマーンが入った。A組の方は、韓国、イラン、ウズベキスタン、カタール、レバノンという組み合わせである。

何しろ、あまり相手にしたくなかった国としては、日本戦にやたら張り切っちゃう韓国や三次予選で負けたウズベキスタンやいつも苦戦しているカタールといったところだったので、それが別組にいったので、まあまあよかったのではないだろうか。

さて、B組を見るとオーストラリアと日本が一段上なので、その点でも有利である。早い段階でこの2国が抜け出すと他の国が戦意をなくすということも考えられる。最初のオマーン、ヨルダン戦がホームでやれるのでこの点でも恵まれた。出足でうまくスタートしてオーストラリアと戦いたいものである。

オーストラリア以外ではイラクが強いと思うが、何せ監督がジーコだからだいじょうぶだ。(笑い)ということは、相手チームがどうのこうのというより、選手のコンディショニングだとかケガといった内部の準備が重要になる。まあ、長丁場となるので思いもよらない事態も起こったりするので、選手層をもっと厚くするとか、若手新戦力の台頭やスタッフの不断の努力も必要になってくる。さあ、いよいよ決戦である。是が非でも本戦出場は譲れないわけだから死に物狂いで戦ってもらいたい。しっかり応援するから。

さて、今日からJリーグも開幕する。今年も混戦になると予想されるが、やはり基軸になるのが昨年の上位チームだろう。柏、名古屋、鹿島、横浜M、G大阪あたりが有力だ。そこに割って入りそうなのが、今年J2から上がったばかりのF東京で昨年の柏のように台風の目になるかもしれない。あとは浦和が復活なるかであろう。

Jリーグもさっき言ったように日本代表の底上げを図るためにもレベルの高いいいサッカーをやってもらいたいと思う。天皇杯やゼロックススーパーカップなどを見ていてもかなり質の高いものを見せてくれているので期待したい。Jリーグのおもしろさは、チームごとの個性だと思うので、そうした色をいかんなく発揮して意地のぶつかり合ったエキサイティングな試合を見たいと思う。

僕のラジオ

弊社では昨日、iPhoneアプリ「僕のラジオ」をリリースしました。これは、紹介文にあるように、iTunes Storeで提供されている楽曲の短いサンプル曲を連続再生して快適にラジオのように聴くためのアプリです。

機能や何かの詳しいことは社長のブログを読んでもらうとわかるのですが、要するにあるジャンルの曲のサンプルが垂れ流しで聞けて、そこでこれいいなあと思ったら詳細に聞けるし、iTunesでその楽曲を購入できるというものです。とても便利な道具だと思います。

Techwaveでも紹介されているようにプレビューコンテンツをメインにするという逆転の発想が市場に受け入れ始めていることもあっておもしろい試みだと思います。さらに、「僕のラジオ」はユーザの使い勝手をすごく重要に考えていてそうしたユーザビリティを追及しています。

「僕」というネーミングだと女の子が使わなんじゃないのといったら最近は女の子でも僕という子もいるよと言われて、まああまり男と女だとかのこだわりはない世の中なのかと変なところで納得してしまった。Phoneをお持ちの方ぜひ使ってみてください。(いまキャンペーン中で半額です)
  

2012年3月11日

3.11

今日は、昨年の3月11日起きた東日本大震災からちょうど一年目になる。早いものであの未曾有の大災害からあっという間に1年が経ってしまったように思える。だから、あの日のことをつい昨日のように覚えている。

その日はちょうど東京の半蔵門にあるソフトウエアベンダーでプレゼンをしていた。午後2時から1時間の予定で始まっていたので、そろそろ終わろうかという2時46分である。今まで感じたことのない揺れがぐらぐらっとやって来て、それがかなり長い時間続いたのでこれはただ事ではないなと思ったのである。

もちろんプレゼンなんてしている場合ではなく、そこにいた人たちもオロオロという感じで、すぐに部屋にあったテレビをつけた。それでやっと東北で大きな地震があったことが判明する。そうこうしているうちに津波が来ることが予想され、何と恐ろしい光景が徐々に画面に現れるではないか。堤防が決壊して、逃げ回る人々や車の列、思わず早く逃げろそっちじゃないと叫んでいた。同じ部屋に実家が宮城県という人がいて、名取川に押し寄せる津波にああーうちの近くだと目を覆っていた。必死に電話をするが通じない。

やっとのことで重大さがわかってきたが、さて自分のことである。家のことも心配だし、自分のことも伝えなくてはいけないので電話をかけ続ける。ぜんぜん通じなかったのだが、奇跡的に一瞬通じる。無事だから、そっちは?といっただけでそれから途絶えてしまった。

そのうち、そこにビルにいた人たちも徐々に帰り出す。もちろん交通機関は全部マヒしているから徒歩である。その時点で僕の判断は、夜になれば電車も動き出すし、最悪深夜バスもあるしという気でいた。だから、僕の頭の中はそれまでの間どう過ごそうかということである。

ここはいちばん賑やかな所に行くのがいいと決断する。すぐに歩いて銀座に向かうことに。出ると人があふれていた。その波に乗るようにして銀座に着くとそこで食事をしながら待つことにする。ニュートーキョーでビールとワインを飲みソーセージとジャーマンポテトを食べながら待ったのだが、午後7時くらいにJRが終日運休するという情報が入る。

これで帰れない可能性が大になったので、店の人に今日は特別に朝まで営業してくれるように頼む。しかし、従業員が確保できないことと深夜営業が法律上できないということで断られる。(後で考えると、こんな時は特例で店をあけておいてくれよと思う)ということで、しかたなしに行きつけの「M」に行く。こんな時は空いていないとばかり思っていたが、バーテンのKちゃんがひとりぽつんとグラスを磨いていた。

さすが、銀座の人たちである。そのうちマスタ夫妻がバスを乗り継いで登場する。こんなときこそ店をあけるという根性がすばらしい。そこで呑み始めて、ひょっとしたら深夜バスが動いているかもしれないと思い電話するが運休とのこと、こうなると帰れないのでねぐらの確保をしなくてはいうとマスタが避難所を調べてくれた。夜中の1時ころ泰明小学校に行ったら満員だったので、有楽町の東京国際フォーラムにいくがそこもホール内は満員でしかたなしに通路で一泊する。

早朝5時に起きて東京駅に向かう。始発から動いているだろうという淡い期待も裏切られ、7時ころに出るというのでホームに並んだのが一向に電車が来ない。結局2時間くらい待たされようやく出発するも、普段なら45分くらいなのに2時間かかる。しかも超満員でほとほと疲れる。わが家にたどり着いた時にはもうぐったりであった。

ところが、ぼくの災難もあったが、わが家でも大変だったのである。ちょうどその日に僕の姉が母親のところに遊びに来ていて地震にあったのである。当初はどこで地震があったかがすぐに停電になったせいで分からないでいた。そこにうちの息子がiPhoneでどうも東北で宮城、岩手が大変なことになっていると伝えたとたん姉は言葉を失い茫然とする。

というのが、姉の娘家族が宮城県の大崎市にいるのである。旦那の仕事の関係でそこに居を構えているのだが、まだ8ヶ月くらいの乳呑み児を抱えているのである。姉は狂ったように電話をかけまくったそうである。ところが通じない。結局、翌朝に娘の旦那とメールがつながって無事を確認できたそうだ。という話を僕は家に帰ってから聞いた。

その後の計画停電やガソリン、水、米を買いに出たこと、息子のAnpiレポートのことはここではもう書かないが、こんな遠くの地でも少なからずの被害にあっているのだから、現地では想像を絶する世界であったであろう。あれから1年なのだが、あの日を境に世の中がだいぶ変わったように思える。表面上のことではなく人々の内面で起こった変化である。それが災い転じて福となすことであることを願いばかりである。
  

2012年3月12日

コア業務とノンコア業務

ちょっと前のITLeadersの特別レポートで、「【座談会】グローバル化担う企業ITの課題とIT部門が果たすべき役割」という記事があった。対談しているのは、カシオ計算機のCIOの矢澤篤志さんと、ITコンサルティングの桑原里恵さんで、司会進行が編集長の田口潤さんである。矢澤さんと桑原さんはご両人とも知っていますが、日本の情報システムの世界ではぼくは大変評価をし、尊敬している人である。

この座談会で大変有意義な議論がなされているので少し紹介しておこうと思う。お二人の意見が至極まっとうで的確なので参考になる。まずは、「「業務」に対する既成概念を変える」ということで、グローバル化とリアルタイム性に言及したあと、「ノンコア業務」と「コア業務」に話が行く。矢澤さんは、会計・購買、調達・物流、人事、EDI、コミュニケーションなどはノンコア業務でここは徹底的に標準化し、インフラは統合することが必要で、そこはERPを利用すればいいのだと言っている。

ところが、コア業務はどうなのかという話になって、桑原さんは、ノンコア業務はERPのデータフローで基本的にまかなえるが、そこにコアとなる「事業のシステム」の層を重ねる構造にしなければならないと指摘し、そこを履き違えて、直接ERPの機能に求めにいったために、全体が複雑化し、事業とのギャップが起こったのだという。

同じように矢澤さんも、ERPは当然ながらすべてカバーできると思っていたが、よくよく見てみるとERPには“幹線”しかなく、事業によって異なるサプライチェーンを担うという発想が元々ERPに組み込まれてないことを知ったという。コアとノンコアの仕分けが重要だという指摘である。コア=事業システム、ノンコア=企業システムという桑原さんの区分けも参考になる。

こうした議論はみなさんあまりしてこなかったように思うが、お二人の指摘はぼくが以前から言ってきたことと同じなので意を強くした。ただ、桑原さんとはもうだいぶ前にERP導入で一緒に仕事したことがあるのですが、その当時はまだここまではっきりとおっしゃっていなかったように思う。みんながERPに走ったこともあり、世の中の期待がいつのまにか実現できるものだと思いこんでしまった節がある。

ただ、矢澤さんのノンコア業務の分け方として会計や人事はいいとしても購買、調達・物流などは一部はコア業務に入ると考えられる。ですから、機能別に仕分けるのではなく、データ確定前後で分ける方がよいように思う。つまり、データが確定してそれを登録、格納し、集計やレポート化などの業務、すなわち決算系の業務とリソース管理系をノンコアと位置付けたいのである。まさにERPのやっていることである。

ただ、コア業務の重要な要素は「プロセス」なのであるが、その議論はなかった。いずれにしろ、日本のITベンダーやシステム屋さんたちはまだまだERPを基幹業務(コア業務)だと思っている人がけっこういるが、ここでの議論のように、他社と差別化なんてできないものがコアであるわけがない。早くこのことに気がついて真のコア業務を見極めてそこに資源を投入していかないとグローバル競争に負けてしまうだろう。
  


2012年3月13日

岳-ガク-

こりゃあマンガみたいだと思ったら、やはりマンガであった。人気コミック「岳 みんなの山」が原作だそうだ。「岳-ガク-」は山岳遭難救助を題材にしたドラマで、監督が片山修で主役の島崎三歩を小栗旬、共演が長澤まさみ、佐々木蔵之助、石田卓也、市毛良枝らである。

ぼくは若いころ山登りをしていたから、山の恐ろしさや素晴らしさを少しは知っているし、冬山にも行ったことがあるので大変興味深く観た。北アルプスの冬は行ったことがないが、そこでロケをした映像は素晴らしく、過酷な条件の中で頑張った出演者の努力も称賛できる。

大したストーリーはなく、山岳救助ボランティアとして活躍する島崎三歩と北部山岳救助隊に配属になった椎名久美が出くわす数々の遭難を描いていて、そこに山に対する教訓を挿入するという作りである。大したストーリーがないと言ったのも三歩と久美が恋愛関係になるのかと思ったら一向にそんな気配がないといったところも手伝っている。

別にそれはそれでいいのだが、これだけ次からつぎへと遭難が起こるというのはどういうことだろうか。“マンガ“だからいいのかもしれないが、もうっちょっとひとつの遭難くらいに絞ってじっくりと描いても良かったのではないだろうか。

それと、すごく気になったのは、真冬の山の中を走ってしまうのだ。ありえないでしょ。いくら超人的といったって、冬山の雪の中を歩くだけで無茶苦茶大変なのに走り回るなんてありえない。さらに久美が落ちてしまったクレバスに飛び降りるという“離れ技”を見せてくれる。さらにさらにもうヘリコプターが引き揚げなくてはいけないのにロープを切って飛び降りる久美といったようにこれまたやってはいけない“離れ技”である。

こういうのは、アニメでやるならまだ許されるが、実写だと現実との対比をどうしてもしてしまうので、あまり現実離れするとかえって違和感を増して映画の価値を落としてしまうように思える。キャストやスタッフは大変だったと思うが、ご苦労さまといいつつそんなことを考えてしまった。
  
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2012年3月14日

ラー油とハイボール

さて、みなさんこの題名でどんな内容の本だと思いますか?ちょっととまどうような題名の「ラー油とハイボール」(子安大輔著 新潮新書)を読む。著者は博報堂を経て飲食業界に転じ、飲食業界のプロデューサーやコンサルタントとして活躍している。副題が”「時代の空気は「食」でつかむ”となっているように、飲食業界にいる人間の眼から時代の空気がどう変わってきたのかを論じている。

と思って読み始めたのであるが、どうもちょっと違うように感じるのである。本のはじめにに書いてあるのだが、“食に関して今起こっている現象を読み解いくと、その背後にはいつの間にか起こっていた人々の心理的な変化が潜んでいることがあります。あるいは、食のヒット商品を分析することで、他の業界にも応用できるビジネスのヒントを見つけ出すこともできるはず」です”と言っている。

これをよく読むと、そんなことに関係がなさそなことが並べられているように思える。はじめは人々の生活スタイルとか嗜好の変化といった現象を考察するということが書いてあるが、後者のほうは単にマーケティングの話である。だから、第一章で「「時代の空気」は「食」でつかむ」となっているが、そのあとの章は「「明日のビジネスは」食欲から生まれる」「飲食店のメカニズムを見抜く」「思考停止しないために」(これはなんの事だかわからないでしょうが、ダイエットのウソみたいなことが書いてある)である。第二章からはマーケティングとか飲食店の内幕といった趣である。

ちなみに、ハイボールがヒットした理由は、「ビール後の二杯目」という長らく目立った動きのなかったポジションに、活きのよい新参者として入り込んだからだそうだ。ラー油については、「かける」しか使い道がないと思われていたものを「食べる」という位置づけに」切り替えたことなのだという。この変化を「ずらし」と呼んでいて、そして「ずらし」に着目してみると、ビジネスのヒントが浮かび上がってくるのですと言っている。ほらやっぱりマーケの話でしょ。

というわけで、四日市の“とんてき“の話がでてきたり(要するにそれだけという「だけ」というコンセプトが受けたという話)、飲み放題の効用など、個々のネタ話はそれなりに面白い。しかし冒頭で言ったように焦点がぼけていて、いったいどんな情報、あるいは知識を得ようとしているのかが混乱してしまう。編集者の力量が問われるのではないだろうか。
  

ラー油とハイボール―時代の空気は「食」でつかむ (新潮新書)
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2012年3月15日

五輪出場だ!

昨日のロンドン五輪のサッカーアジア最終予選でU-23日本代表は2-0でバーレーンを下し、見事本大会出場権を獲得した。まずはおめでとうと言いたい。ただ、まだ予選を通過しただけに過ぎないのでぜひ本番ではメダルを取ってもらいたいものだ。

昨日の試合は、清武、大津という主力が戻って戦力の上積みがされて危なげなく勝った。当初、大迫が累積警告で出られないということでポストプレーヤーをどうするかがあったが、ちょっとタイプが違う大津をそこに起用したがまあまあの結果を残した。

前半は、相手の出方を見ていたようで慎重な出足である。やはり、首位に立って、しかもだいぶ差をつけて有利になったことで精神的な落ち着きが感じられた。サッカーは技術もさることながら精神的な部分の割合が大きいのを改めて思い知らされた。その精神的な余裕が点が入らなくても相手を真綿で首を絞めるようなじっくりとした攻めをもたらした。

後半に入ると、バーレーンも少し意欲を失ったのか緩くなった10分に原口が左サイド深くをえぐり折り返しを扇原が右足で見事にゴールネットを揺らす。このチームのボランチは山村のケガのあとは扇原と山口のセレッソコンビが務めているが、ちょっと物足りなかったのはゴールエリアへの侵入である。3列目くらいからの飛び込みをたまにはやらないと攻撃の厚みがでない。昨日はそれをやってくれた。

1点入るともうこちらのペースである。先取点から4分後に東のセンターリングを大津がつぶれて流れたところに清武が寄せてクリーンシュート。こんなに気持ちのいいシュートもなかなかないくらい見事なものであった。これで勝負あり、ということであとは余裕の試合展開で勝利する。まあ、追い詰められてもこのくらいの試合ができるといいのだが、そう簡単にいかないのもサッカーである。

ただ、今回の最終予選も決して楽なものではなく、一時は突破も危ぶまれたがシリアの自滅で生き返り結果オーライとなった。選手もこうした経験をつむことでずいぶんと成長したのではないだろうか。さて、いよいよ本大会だが、香川だって招集できるわけだからまだまだメンバーも入れ換わるし、オーバーエージ枠を使うのかもあって流動的であるが、ぜひメダル獲得に向けて一丸になってもらいたいものだ。なでしこに負けるな。
  

2012年3月17日

吉本隆明が死んだ

昨日、評論家で詩人の吉本隆明が亡くなった。享年87歳。今の若い人たちはよしもとばななのお父さんとしか知らないかもしれないが、ぼくらの年代では神様みたいな人だった。60年安保闘争や全共闘運動で若者たちに熱狂的に迎えられ理論的な支柱となった。まさに昭和の思想のシンボルであり、ついに巨星墜つという思いで時代の終わりを感じる。

昭和40年に刊行された「言語にとって美とは何か」や、昭和43年の「共同幻想論」は、難解でよくわからないのだが、当時の学生のファッションとしてこれらの本を持ち歩いたものだ。今朝、ぼくのほこりだらけの本棚を眺めていたらこの二つの本ができたので手にとって昔を懐かしんでしまった。

ずいぶんと影響力の大きかった人だが、その思想や理論をちゃんと理解していた人がどれだけいたのだろうか。ただ、思想の気高さとか理論の高邁さだとかというより、内にこもっていない人で外に出て発言していたことがその影響力の大きさをもたらしたのではないだろうか。時には挑発的なもの言いで論争する姿が若者の心をつかんだのである。

今朝の読売新聞にも出ていたが、60年安保のあとの「無名の思想を自立せしめるより他に権力を否定する権力への道などあろうはずがない」なんていう発言はしびれますよね。その他、よく使ったことばに「情況」というのがあって、ぼくはことあるごとに「この情況を」とか「情況としては」なんてほざいていたものだ。

また「原発放棄は人間が猿から別れて発達し、今日まで行ってきた営みを否定することと同じ」なんていう最近の発言も扇動的ですよね。こうした意見を聞くと彼が東工大の電気化学科出身の技術者だったという側面が見える。技術者と文学者・思想家の両性具備的なスタンスが、ある意味孤高を保ったのかもしれない。

いずれにしろ、最近こうして昭和の時代を走り通した人々が消えていく。さびしさはないのだが、ひとつの時代が確実にフェードアウトしていく感慨に浸っているのである。

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2012年3月18日

戦火の馬

最近、邦画の面白そうなのが少ないようだ。一方、アカデミー賞にノミネートされた作品に見るべきものがあるように思う。その中のひとつである「戦火の馬」を観る。作品賞を含む6部門でノミネートされていたが、残念ながら受賞はのがした。監督が巨匠スティーヴン・スピルバーグ。

いやー、面白かった。さすがスピルバーグだ。映画の王道のようなオーソドックスな作品で見応えがある。こうして見ると日本ではこんな映画ができそうもないと思えて、たけしじゃないが、日本のレベルが低いのが情けなくなってしまった。映画らしい映画が作れないのは経験がないからなのか、そもそも力がないからなのか、作る気がないからなのか。第二の黒沢明はでてこないのだろうか。

題名にあるように、第一次世界大戦の時代に戦火にさらされた1頭の馬の運命を描いたものである。スピルバーグは、人間だけではなく、その間に第三の動物的なものを介在させるのがうまい。ロボットもそうである。この映画では、美しいサラブレッドが時代の嵐に翻弄される姿を追ってはいるが、けっして馬の物語ではない。

第一次世界大戦前のイギリスのある農村で、1頭の美しい馬を農夫が買ってくる。その家の息子のアルバート(ジェレミー・アーヴァイン)は、その馬にジョーイという名を付け可愛がるのだが、戦争が始まると、ジョーイは英国軍の軍馬として買われてフランスの戦地に送られる。アルバートはジョーイを探すため、徴兵年齢に満たないにもかかわらず入隊 し、最前線フランスに向かう。

ジョーイは幸いなるかな行く先々、敵も味方から大切にされ奇跡の馬と呼ばれるようになる。馬を大切に扱うイギリス人将校、ドイツ軍を脱走した少年兵の兄弟、祖父と暮らすフランスの少女らと巡り合う。映画はそうした戦争という異常な世界で懸命に生きのびようとする人々をジョーイを通して描くことにより、戦争の無常さを見せてくれる。

アルバートの父親は自分の子に借金までしてジョーイを与えることで息子の成長を願っているように見える。このことは何か親が子を一人前にするためのシンボルのような気がする。つまり、少年のときに夢中になるものを目の前に差し出すのが親の務めで、ただそれだけでいいのだ。まるでスピルバーグの父親が彼の前に映画を置いたかのように。

最後は、予定調和の世界に入るのだが、そこでも西部劇の趣を感じさせてくれるし、いやー映画っていいですねという声がどこからか聞こえてきそうだった。
  
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2012年3月20日

街場の小経済学その20

ここしばらく、うちの会社のビジネスでちょっとしたトラブルに見舞われて、それにずいぶんと手を取られたが、やっと片付いた。といってもうまくいったわけではなく、その逆でひどい目に遭ったのだ。せっかくシステムを開発して収めたのに代金の回収が途中で途絶えてしまいそれっきりになった。

あまりいい話で話ではないので、この件についてとやかく言うつもりはないが、考えさせられたのは、こうしたトラブル時にその解決にかかるコストとどれだけ回収できるかという差引勘定のことである。結局今回はいくらがんばってもとれそうにないので、最後は裁判所へ駆け込むわけでその時の訴訟費用もかなりの額になる。そこまでしてもこちらの要求額が全部返ってくるとも限らないから、その見極めをしなくてはいけない。

で、あきらめたのであるが、いろいろと考えさせられることがいっぱいあって、改めてビジネスの難しさを痛感した。さて、交渉を行って取り返すためのコストをどう見積もるかだが、いったいコストにはどんなものがあるのだろうか。裁判に持ち込めば直接的には訴訟費用が生じるがそれ以外のものを考えてみる。

ひとつは時間である。何だかんだと時間がとられてしまうことがある。それもあるがぼくはけっこう影響があるのが「気分」だと思う。いつもそのことに気をつけなくてはいけないとか、うまくいくかなあとかいった気持にさいなまれるとか、モヤモヤした気分が取れないとかいった精神的な圧迫感である。

今回の件でもずっとああじゃないこうじゃないと思いつめているから、いっこうに気分が晴れないでいた。だから、そのことだけではなく他の件でも気持ちが乗ってこないのだ。これだと生産性も落ちるし、判断も誤ることもある。なので、もうあきらめたと思った瞬間に気分がすっとしたのである。過去を洗い流したその日は奇しくも3月11日であった。結局、ある種のサンクコスト(埋没コスト)だったというわけである。

交渉問題のコストは定量的な金額だとか時間だとかよりもこの「気分の悪さ」が続くことのコスがかなり大きいことがわかった。それを避けるためには、きちんとした契約を結ぶことやリスクマネジメントなのかもしれないが、それとて完璧にできるわけではないので、まあ単純な話、相手を選ぶんですね。“気分よく”仕事ができそうな相手としかビジネスをしないか、さもなければ極論かもしれないが自己完結型のスタイルにするかですね。しかし、高い勉強代だったなあ。
  

2012年3月21日

「つながり」を突き止めろ

近頃はネットワークという言葉が氾濫していて様々な分野で、様々な言われ方をしている。ところがネットワークに対する理解が意外とぼんやりしたところがあるように思う。人のネットワークにしても何が接着剤となってつながっているのかがよくわからなかったりする。従って、ネットワークに関する学問も多岐にわたっていて、心理学、社会学といった人文系から情報科学、生物学、統計物理学といった工学系までネットワークというものを扱っている。

「「つながり」を突き止めろ」(安田雪著 光文社新書)は、著者の研究領域である「社会ネットワーク分析」という側面から論じたものである。ネットワークそのものの強さ、怖さ、魅力を伝えようとしている。ただ、それが成功しているのかどうかというと必ずしもうまく書かれているわけではない。

どうも、この本で何を伝えたいのかかがよくわからないのだ。取り上げている対象が、米軍の対テロ戦略におけるもの、電子メールから浮かびあがる会社での人間関係、SNSの人脈ネットワーク、知人の連鎖とインフルエンザ感染といったものなのだが、これらのネットワークを一生懸命解析した話が主であるのだが、だからどうなのよと突っ込みたくなる。

研究者としてこんな苦労をしてmixiの人脈形成を解析しましたよはいいのだが、結局、有名な統計物理学者のバラバシの「スケールフリー」の話をしている。「スケールフリー」というのは、極端な勝ち組が少数、中堅どころがそこそこ、圧倒的大多数は負け組という、紐帯の分布の性質のことである。このことは、ぼくらはネットワークの世界では実感していることである。

さらに、これも疑似拷問実験で有名なミルグラムという研究者が明らかいした未知の人に到達するには何人の仲介者が必要であるかという問題である。彼は「世界の人々はほぼみな、6人の友人を介せばつながる」という主張である。こうした話は面白いのだが、それとて著者の研究のことでないから、もっと研究の成果がどんなところで活かされているのかとか現実の生活との結びつきどうなているのかといった問題に言及してほしい。

象徴的なのは、本の最後の最後はこんな言葉で締めくくられている。「ネットワーク・サイエンスの熟成と蓄積、そして異分野との融合や競争による研究領域の拡大と研究者の広がり、これこそ、私が時間と空間の先に見る夢である」。おいおいこれって研究者向けの本かよと言いたくなる。新書で一般の人向けに書かれているわけだからこんなこと言ってもらっちゃ困りますね。
  


  

2012年3月22日

男の伝言板 - オンチの話

ぼくは音痴である。だから、カラオケが大嫌いで、昔流行った頃はカラオケスナックみたいなのが氾濫して、そこへ行くのが嫌であった。最近は東京ではカラオケボックスが少し残っているようだが、全体的には下火になっているが、地方ではまだ根強く残っているようだ。

数日前に小学校の同級性5人で地元の鎌倉で呑んだあともお決まりのカラオケスナックに行く。呑んだきっかけは4月に小学校4年生の時のクラス会をするので会場の下見と予約に行った帰りなのである。小学校4年生の時のクラス会って珍しいでしょ。しかも、担任の先生がまだご健在なのです。このシリーズの最初に書いた「先生」というタイトルにも登場するK先生である。

そのクラス会には18人が参加するという。卒業の時すなわち6年生のクラスは卒業アルバムがあるからわかるのだが、4年生ともなると特定するのが難しいが、遠足の時の写真を頼りにほとんどの名前を掘り起こしてしまった。おっと、その話をしているわけではなかったですね。そのクラス会の幹事会のあとのカラオケスナックの話に戻ろう。

その店は鎌倉の小町通りにある。昼間のにぎやかさとはうって変って夜も遅くなるとさすがの小町通りも静かになる。そんな通りに面した2階で歌い出す。ぼく以外の4人はみなうまい。プロ並みのうまさで思わず拍手喝采。ぼくは歌いたくないから黙っているとキタ―。しょうがない定番の歌を何とかごまかして唄う。これで今日は終わり。

こればかりはいくら練習してもどうしようもない。そういう遺伝子を受けついでしまったからには無理だ。でこれは音楽だけではなく○○オンチという言い方もあるように他のジャンルでも言えるのだが、例えば絵がうまく書けない(ここでもぼくはダメだ)と絵痴とは言わないし、運動にしても運痴とは言わないで、運動オンチという。そんなオンチはアメトークで取り上げてくれるだろうが、ここで言いたいのは、芸術やスポーツ系ではなく、仕事とかビジネスといった領域でもオンチというのがあるのではないだろうかということである。

要するにオンチというのは論理的ではなく、「感覚的に表現できない」ことだと思うのだが、つまり、頭の中ではあのように歌いたい、こんな形を描きたい、こんな動作がしたい、こんな仕事のアウトプットを出したいとイメージするが身体的機能がそれを表現してくれないということである。どうしてそうなるかというと、そこに至るまでの感じ方すなわちセンサーの機能が劣っているからではないだろうか。センスアンドレスポンスでいうセンスがきちんとできていないと、トンチンカンなレスポンスになってしまうということである。

このことを仕事にあてはめると仕事オンチとはどんなタイプかがわると思う。KYという言葉で語られることもあるように今言ったセンシングの話なのである。最初にオンチは直らないと言ったので、仕事オンチの人は働いてはいけないのだろうか。ひどく冷たく言うとぼくがカラオケボックスで味わう屈辱感を職場で味わうことがないように、基本的にはそうしたほうがいいと思う。

しかし、救いは何もかもオンチだなんて人間はいないから、盆栽界の美空ひばりだとか、ボランティアの孫正義でもいいのである。世間一般の評価とは別に自分の感覚がフィットする世界を見つけることなのであろう。そういった世界が見つけられれば、経済的な問題は何とかなるのではないでしょうか。
  

2012年3月23日

大木家のたのしい旅行 新婚地獄篇

今をときめく前田司郎の小説を本田隆一監督が映画化した「大木家のたのしい旅行 新婚地獄篇」を観る。最近は演劇のほうが疎くなってしまい、前田司郎というのはよく知らないのだが、どうも三島由紀夫賞や岸田國士戯曲賞などを受賞した注目の作家、劇作家のようだ。

竹野内豊と水川あさみが演じる新婚夫婦が奇想天外な旅にでかけるというシチュエーションである。この夫婦新婚だというのに、倦怠期風ではつらつさもなく惰性的な生活をしている。そんなとき、近所のスーパー(なぜか前田はやたら五反田が好きらしく、そこにある店である)で占い師(樹木希林)から新婚旅行を勧められる。

しかしそれが温泉付きの地獄旅行だという。それでも刺激を求めるように申し込んで出掛けることに。地獄についた二人は絶対に振り向いては行けないと言われたのに振り返ってしまい、地獄の変なところをさまよい、変な人々とでくわす。そして、やっとのことで温泉にたどりつく。

というように荒唐無稽な設定でわけのわからない展開に驚かされるが、いつのまにやら引き込まれていく。ほとんどがこの夫婦の会話なのだが、この会話がおもしろい。三谷幸喜や官藤勘九郎ばりのたわいのない言葉を速射砲のようにお互いがぶつけ合うのである。ただ、全体的には脱力系の三木聡の映画のほうに近いかもしれない。

さっき言ったように奇妙なシーンの連続なのであるが、ちょっとしたリアル感が埋め込まれていて、それゆえに終わったあとに倦怠期の夫婦に頑張れよと声をかけたくなってしまった。前田司郎が人気を博している理由がちょっぴり分かったような気がする。

夫婦役の竹野内、水川の二人の演技も堂にいっていたが、脇役も占い師役の樹木希林以外に、片桐はいり、荒川良々、でんでん、柄本明といったクセのある個性派をそろえ、地獄篇にふさわしい演技を見せてくれた。
  
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2012年3月25日

エコがエゴになる時

テレビのCMであれっと思ったのが、坂本龍一が出てくる日産の電気自動車のやつである。坂本龍一が駐車場に現れて、車に乗り込むとこう語る。「自分がね、CO2をどのくらいだして走っているかすごく気になっていたんですよ。この車、そこが完全にゼロですよね。CO2出してないわけでから、こんなに気分いいことはないですよね」

これってものすごい違和感というかいいかげんさを感じるのはぼくだけではないと思います。よくもすぐにばれるようなウソをつくのかと呆れてしまう。お分かりだと思いますが、電気自動車はCO2を出しませんが、電気をつくるのにどのくらいCO2を出しているのか分かっているのでしょうか。

いま、電気をつくるには、つまり発電所のエネルギー源は石化原料が大部分ですから、石油を燃やしてたくさんのCO2を出しているわけです。従って、電気自動車を走らしているのことはCO2を撒き散らしているのです。自分は出していないからよくて、他のところで出してもかまわないという態度が気にいらない。

坂本龍一は反原発主義者だと思うが、ここでも矛盾しているわけです。自然エネルギーなんて全体のエネルギー供給からいうと微々たるものだから、原発をやめるということは石化燃料を増やし結果的にCO2を増やすことにつながるのが現実というものだ。つまり、原発をやめて電気自動車をいっぱい走らせるとCO2をふやすことになるわけで、逆に電気自動車でCO2を出さないようにしたいなら原発をつくらなくてはいけないのである。

どうもエコロジーを叫ぶ人の現実感がとぼしく、その結果自分だけがよければという身勝手な発想になりがちなので注意してほしいものだ。他にもエコグッズと呼ばれるものにも実はエコでもなんでもないという代物もあるし、日常生活で使っているものにもアルミホイルのようにエネルギー多消費型のものがあったりする。

結局、人類はエネルギーを消費することで文明を築き上げたわけだから、エネルギーを使うのをやめて、原始生活に回帰することが究極のエコなのだろうか。そうしたら、電気自動車なんか乗ったらいかんでしょう。機械を使う、高度な道具を使う、加工物を摂るなんてことをしないで、ひたすら人力だけで生活したらいい。

ぼくはもはや戻れないと思う。だとすると、できるだけ人間が生活する環境を持続可能な状態にするようにバランスをとっていくしかないと思う。もちろん、自然を壊すこともあるが、自然を回復させることもあるし、少し消費型で楽しみたいこともあるが、がまんするところもあるという“中庸”の精神で行きたいものである。

2012年3月26日

魔法少女を忘れない/シャンハイ

今回は2本束ねてのコメントです。なぜかというと一本ずつ批評するに値しないからである。あまりいい出来ではなかった映画「魔法少女を忘れない」と「シャンハイ」である。

ではまずは、「魔法少女を忘れない」であるが、これを観ようと思ったのは、映画芸術という雑誌のベストテンの9位に入っていたからである。映画芸術という雑誌をご存知でしょうか。創刊が1946年と古いのだが、ぼくの知っている1960年代から1970年代にかけて小川徹が編集長であった時代は、並んであった「映画評論」「映画批評」とともに映画フリークにはたまらない読み物であった。

キネマ旬報などに較べるとポルノなども取り上げた過激で先鋭的な論調であったが、政治的なところもあってか、商業的にはうまくいかずやっと細々とつなぎ止めている。現在の編集長がシナリオ作家の荒井晴彦で彼の人脈と通じた執筆陣で、毎年ベストテンを発表しているが、ベストテンは「ベスト票の点からワースト票の点数分を引いて、その結果をベストランキングとする」というユニークな選び方をしている。なのでクセのある作品が残ったりする。

ちなみに今年の1位は「大鹿村騒動記」だから無難なのだが、「魔法少女を忘れない」が9位というのが解せない。監督が堀禎一。出演者はよく知らない若い俳優さんたちである。ストーリーは、高校生の北岡悠也は、ある日突然、母親からみらいという名の妹を紹介される。それ以来、一緒に食事をし、学校に行くという兄妹の生活をするようになる。

そのうち悠也はみらいを特別視するようになるが、次第に人々の中からみらいに関する記憶が消えつつあったのだ。悠也は彼女の記憶が消えないように努力する。その子は魔法少女だったというような話がなのだが、ぼくにはさっぱりわからなかった。これは人気ライトノベルを映画化したようなのだが、アニメの映画化同様安易に映画化するのはやめてほしいものだ。

次の「シャンハイ」はこれまたひどい映画である。太平洋戦争開戦前夜の上海を舞台に日本の軍人、米国の新聞記者、レジスタンスの中国人などが登場して、それぞれが暗躍して動くのだが、それでいったい何を言わんとしているのかさっぱりわからないのだ。

なぜか、日本軍の蛮行がクローズアップされて、その軍人役に渡辺謙が起用されているのだが、損な役回りでかわいそうだ。よくこんな映画にでたものだ。監督がスウェーデン出身のミカエル・ハフ ストロームで、振れこみは「世界の列強がしのぎを削っていた太平洋戦争開戦直前の上海を舞台に繰り広げられるサスペンス大作」となっているが、サスペンスにもなっていないし、大作にもなっていない凡作である。評論になっていない辛口コメントの2作であった。

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2012年3月28日

居酒屋の世界史

居酒屋によく行く。居酒屋チェーン店ばかりに行くということではない。外で酒を飲んだらそこは居酒屋であるといった定義をしている。居酒屋の歴史をたどると言ったとき狭義の居酒屋を想定したら歴史はすぐに終わってしまう。例えば今の居酒屋チェーンなんてぼくが酒を飲み出した40年くらい前はほとんどなかった。まあ、養老の滝くらいだろうか。大学の近くにあった養老の滝はよく行った。

40年経ってみて広義の意味すなわち外で酒を呑ませてくれるところという居酒屋もずいぶん変わったなあと思う。それこそ40年前はぼくらが飲みに行ったのは、一杯呑み屋みたいなところ、大衆酒場とか小料理屋といった赤提灯がぶらさがっているところ、そしてスナック、あるいは中華料理屋とか寿司屋である。だから今で言う和民とか魚民だとかいったものはなかった。

ただ、酒呑みとして思うのはもし居酒屋がなかったらどうなのだろうかということである。そして、いつできてどんな変遷を経て今に至っているのだろうかと想像したくなる。それに答えるような本として「居酒屋の世界史」(下田淳著 講談社現代新書)が出ている。著者はドイツ史専攻の大学教授で、ドイツの歴史を探っているうちに居酒屋の歴史に興味をもったようだ。学者らしく多くの文献を精査してヨーロッパを中心とした歴史を教えてくれて面白かった。

著者が再三論及する3つのキーワードが「農村への貨幣経済の浸透」、「居酒屋の多機能性」、「棲み分け」である。要するに、もともと居酒屋というのは都市部で成立したが貨幣経済が浸透するうち農村部に居酒屋ができていったという。確かに、貨幣の授受で居酒屋は成り立つわけだからそうした制度の浸透がなければならないのである。だから、農村に限らずこうしたか貨幣精度と密接に関係しているようだ。

つぎの「居酒屋の多機能性」と言うのは特にヨーロッパやイスラムの世界であった形態で、単に酒だけを飲むところではなく、銀行や裁判所あるいは集会所、結婚披露宴や精進落としの場であったりした。教会で酒を飲んだり、酒を作ってしたというのにはちょっと驚かされる。しかし、日本にはそういった形態は薄いのだが、お寺で呑むのは普通に行われるわけだからその程度の機能性はあるのだろう。

最後の「棲み分け」というのは、今言った「多機能性」がそれぞれ居酒屋から分離・独立していったことを指している。例えば、居酒屋で金貸しをしていたのが銀行に派生していくとか、演芸とかショーみたいなものが分離していくといったことである。確かに、最近でもキャバレーのようなものも無くなってきている。

また日本の話になると、逆にまだ残っているものとして相撲がある。以前両国に相撲を観にいったことがあるが、相撲茶屋というのがあってそこで酒と食べ物を買って相撲見物をしながら酒を飲んだ。これは、ヨーロッパの居酒屋発祥のころの形態とも言える。

その他、教会、売春、芸人、犯罪・陰謀のそれぞれと居酒屋との関係も論じられておもしろい。地域的、宗教的、政治的な違いも含めて論考されていてさしずめ比較文化人類学の様相で勉強にもなりためになった。これでますます居酒屋通いはやめられない。(あまり関係ないか)

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下田 淳
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2012年3月29日

「しこう」のすすめ 

ITに関して感じたことをIT雑感として別のブログで書いているが、こちらの方に載せることにする。もう一方の方は主にテクニカルな話にしようと思う。さて、今回は「しこう」ということについて書いてみる。仮名で書いた意味は、いろいろな漢字に当てはめて考えたいからである。

ITをうまく使って役に立つ業務システムを構築するのがぼくのミッションだと思っているので、そこを「しこう」という言葉を使って表現してみる。よくオブジェクト指向とかデータ志向アプローチとかが出てきて、「指向」と「志向」の違いって何だろうなんて考えたのがきっかけである。たいしていい思いつきでもないのだが、たまにはこんなお遊びもいいのではないでしょうか。

プロセス「志向」で業務をながめ、柔軟な「思考」でよく考えて、顧客の「嗜好」にあったシステムを、オブジェクト「指向」的な技術を用い、とりあえず早くプロトタイプで「試行」してみて、よしとなったら広く「施行」することこそが、「至高」の業務システム構築方法である。

強引にこじつけた風でもなく語呂合わせができたと思いませんか。「志向」と「指向」の違いがどうも「志向」には思いとかこころざしのような趣があって、「指向」は客観的、あるいは技術的といってもいいかもしれませんが、めざすべき方向性を言っているように思う。ですから、業務をプロセス中心、プロセス先行でみて行くというのは意志(意思ではなく)として持ちたいと思う。

ただ、お客さんの嗜好にあわせるということには異論があるかもしれませんね。嗜好という言葉の意味は「ある物を特に好み、それに親しむこと。好み。」とある。顧客の好き嫌いで作るものを変えていいものだろうかという意見である。確かにそういう面はあるのだが、“それに親しむ”というところに注目してみたらいかがでしょうか。

最近のスマホやiPADなどのITデバイスをみてもわかるように自分の気にいったものを買い、それを可愛がって使い回すということがユーザの態度である。ここのところはコンシューマ向けのデバイスやサービスという領域だけの話にとられがちであるが、これからはビジネスの世界、企業の中でも大事なポイントになってくるのではないでしょうか。

それと、「試行」から「施行」という流れも重要で、つまり早い段階で使うものを見せて試しに動かしてもらうことでさらに要求をだしてもらったり、確認してもらうことがますます必要になってくると思う。紙の上で設計書をみているより、まだ未完成でも動かしてみることの方が仕様がためが早いし、運用になってからの手戻りが少なくなる。

さてこうした業務システム構築のやりかたがぼくの「私考」にとどまることなく、多くの人が取り上げてくれたら、ぼくは「至幸」を感じるのである。
  



2012年3月30日

もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら

ぼくは何を隠そう昔はロリコンであって、またキャンディーズのファンだったのだが、さすがにAKB48は興味がわかない。だから、最近AKBのエースの前田敦子が卒業するとかいって大騒ぎになっているのも別段気にもならないしどうでもいいことだ。その前田敦子が主演の「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら」を観る。監督は田中誠、共演が瀬戸康史、池松壮亮らである。

この映画の原作は言わずもがなだが、岩崎夏海の大ベストセラー小説で、あのドラッカーのマネジメント理論を高校野球に当てはめたらどうなのかという設定である。これだけ本は売れたのに、どうも映画の評判はよくないようで観客の入りもイマイチだった。しかし、ぼくには大変おもしろく泣きそうになるくらい感動もしたのだ。

どうも批判の多くは前田敦子の演技にあるようで、下手くそさをみななじっている。でもそれはファン心理の裏返しみたいなところがあって、期待が高いがゆえにその落差を嘆いているようにみえる。ぼくのようにどんな顔だかも知らないでみるとそんなに下手な演技力ではないと思える。ただ、顔つきが悪いのが気になる。何となく意地悪そうな雰囲気が出ていて、そういう意味ではアイドル映画の主演女優としては失格なのかもしれない。

別の見方をすると意地悪そうな感じは逆にドラッカーのマネジメント手法を入れて改革しなくてはいけない立場ではお人よしではできないのでうってつけかもしれない。物語は、前田敦子扮する女子マネージャーがドラッガーの言う事業の定義やマーケティング、マネージャーの資質、イノベーションなどを弱小高校野球部にもちこんで甲子園出場を目指すというものである。

だから、非常にわかりやすいストーリーなのだ。野球部の定義はどういうことなのかを決め、そして野球部の顧客は誰なのか、その人たちを何を提供するのかといったことを考えるのである。その結果として、目標である甲子園出場を目指すわけである。ビジネスモデルを確立し、戦略を立て、シンプルで明快な戦術を固めてそれを徹底する過程をえがきながら結果へと導いてくれる、観てる方も一緒になって考え、一喜一憂することになる。AKBのファンには無理かもしれないが、組織論とかビジネスモデルとかに興味があると楽しめる。

そりゃあ、ドラッカーが対象としているマネージャーと高校野球の女子マネとはだいぶ違うし、そんな簡単に改革なんてできるわけがないという突っ込みはわかるけど、けっこう現実的な面もあってうなずくシーンが多かった。変な先入観にとらわれずもっと素直に観たらいいのではないだろうか。そうすると意外にいい映画だと分かると思う。

mosidora.bmp
  

2012年3月31日

ミスをしたら負け

今年の冬は寒さが続きなかなか春が来ないと思っていたら、やっと春が来たようである。どうも12年ぶりに春一番も吹かないうちに春になったということだが、とはいえ今日は春一番の様相のような強風が吹いている。いよいよ本格的なスポーツの春も到来である。Jリーグはすでに始まっていて、春のセンバツも佳境に入っているなかで、昨日からプロ野球も開幕した。様々なスポーツが熱き戦いを繰りひろげている。

ここ数日で、アメリカ大リーグの開幕試合とか、日本のプロ野球、卓球とフィギュアスケートの世界選手権、UEFAチャンピオンズリーグの準決勝のバルサ対ミランとかを観ていてふと思ったのは、同じスポーツでも感じ方がずいぶんとちがうものだなあということである。ずばり言うと卓球とフィギュアスケートは見ていてあまりおもしろくないのだ。

というのは、これらのスポーツはミスをしたら負けというか、どれだけミスをしないかで勝負が決まってしまうところがある。フィギュアスケートに限らず体操とかシンクロナイズドスイミングなんかもそうなのだが、採点制をとっているものはどれだけ減点を防ぐかである。だから、ひいきにはミスするなと願うが逆に競争相手にはミスしてくれと祈るわけである。

このハラハラ感と意地悪さがどうもすんなりと受け入れられないのである。では、卓球がなぜといわれそうなのだが、昨日の世界選手権で女子日本代表が韓国に負けたのをみていて、結局最後の石川選手が負けたのもミスの回数なのである。特に相手の韓国選手はカットマン(女子選手にこの言い方はないと思うが)だから、つなぎまくって相手のミスを待つ戦法だからなおさらである。

どうもぼくの性格としては、ばんばん攻め合ってより攻め勝った方が勝利するというスポーツが合っているように思う。頼むからミスするなよと応援していると疲れてしまう。おもしろくないのだ。イケイケ応援の方が楽しいのである。

とはいえ、日本人選手もずいぶんとミスに対して強くなったと思う。昔は日本人はプレッシャーに弱いというのが定評で、肝心なところで緊張してミスをおかすというのがよくあった。しかし、石川佳純選手は惜しいところで負けてしまったが、現代っ子たちは臆することなく戦うようになってきたのでたのもしい限りである。

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