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2012年1月 アーカイブ

2012年1月 1日

新年明けましておめでとうございます。

新年明けましておめでとうございます。

2012年という新しい年を迎えましたが、今年こそはよい年になることを祈るばかりです。

昨年は、未曾有の大災害に見舞われ大変な一年となりました。そんな中でも日本人のすばらしさを実感した年でもありました。ただ、それは現場の強さであって、逆に本部の弱さを露呈したことも確かです。日本という船のかじ取りをきちんとやってもらいたいものです。

個人的にも、震災で帰宅難民になったり、後半では周囲の多くの人が病に倒れ、また様々な難題が身に降りかかり大変な年でもありました。それらも年末には何とか片付き新年を迎えることができました。

(株)ワディットとしても6期目に入りましたが、収益的な難しさをずっと引きずったままでなかなか飛躍でないのが現状です。とはいえ、ぼくは、昨年の「カジュアルBPM」の実践を踏まえたビジネス、社長(息子)は,iPhoneアプリの開発といった蒔いた種が少しずつ実ってくれそうなので期待しています。

今やTwitterやFacebookが盛んになっていますが、ぼくの情報発信の中心はやはりブログです。今年も5年連続の皆勤賞をめざして、日々綴っていこうと思っています。

どうか今年もよろしくお願いいたします。
  

2012年1月 2日

年頭所感

年頭に当たって特別にどうだというわけでもないのだが、やはり今年1年の過ごし方みたいなことを考える。何度も言うようなことになるが、昨年はいろいろな意味で転換点であった。つまり、これまであった既成概念が大きく崩れ、いったんご破算にしてやり直しを迫られた年であったということである。原発の安全性、国家首脳のリーダシップ、大災害への想定などいままで隠れていたものが顕在化した。

その現象をみて、そしてこれからどうしたらいいのかを考えるとき、ぼくがすごく意識せざるを得なかったのが「フレーミング」ということである。行動経済学でいうフレーミングというのは、人間は思い込みがあって、それによりものごとに対する判断が変わってしまうということを言う。

例えば、手術に先だって死亡率10%ですと言われるのと、生存率90%ですと言われるのでは受け取り方が違う。またアンケート取って好き嫌いが 50%ずつになったとすると、半分が好きだとみるのか、半分もが嫌っているとみるかで違ってくる。このように人の見方で印象が変わってしまうことを言う。

例えば、原発の問題にしても、大変な事故が起きたとみるのか、いや死者ゼロで済んだから案外安全だったと見る人もいる。さらに、これだけの事故を起こしたのだから脱原発だという人だがいる一方で、そうは言っても原子力の替わりになる代替エネルギーはないから原発は動かすべきだという人もいる。

ものの見方によって印象がかわってしまうことなのだが、ぼくはもう少し広い意味で考えようと思う。「フレーム」というのを「思考の枠組み、範囲」というような定義にしてみたらどうだろうか。そうするとすぐに浮かぶのが、去年盛んに言われていた「想定外」という言葉である。これほどの津波に襲われるとは想定外だったというわけである。

実はこうした言い方がすごく逃げた感じを受けたのはぼくだけではないだろう。本来は、想定外のことも想定しておかなければいけないのに、想定外のことが起きたからしょうがない、そんなことは考えないことにしようという思考停止に陥っているのである。責任を放棄している。

ただ、ちょっと前に自衛隊で指揮をとった人が言っていたことが印象的だった。戦争で想定外なんてことはあり得ない、そんなことをしていたら兵士を死なせてしまうから、あるゆることを想定すると言っていた。だから、政府にしても、原子力保安院にしろ、東電にしろそんな覚悟がなかったのである。情けない話である。

自分のフレームをいかに大きくしていくかが大事なことであるのだが、フレームを拡げれば拡げるほどいいのかという問題がある。必ずしもそうではないのではないでしょうか。フレームを拡げるということは当然キャパシティを大きくすることだから、それだけのエネルギーがいるのである。力もないのに拡げると無理が生じるわけでかえってリスクを増すからである。

ですから、ぼくが気をつけようと思っているのは、自分の持つあらゆる知恵を総動員して適切なものの見方を身につけることと、その枠組みをできるだけ大きくなるように進化させることをたえずダイナミックにやり続けることである。寄る年波にめげそうになるがまだまだがんばろうと思う。
  

2012年1月 3日

映画三昧(2012)

正月は時間があるのでゆったりするが、テレビはスポーツ番組以外見るべきものがないし、パソコンの前に座るのも嫌なので映画鑑賞とあいなる。というわけで、映画評を並べてみる。

【ククーシュカ ラップランドの妖精】
みなさん、ラップランドってどこにあるのかご存知ですか。フィンランドの最北の地でサンタクロースで有名である。そのくらいは知っているかもしれませんが、そこを舞台にした映画はなかなか知っている人は少ないでしょう。ロシアアレクサンドル・ロゴシュキン監督による人間ドラマである。

時は1944年の大戦末期、ラップランドではロシア軍とドイツ軍、そしてフィンランド軍が戦っていた。フィンランド軍の狙撃兵ヴェイッコは、戦争への非協力的態度に怒った戦友らによってドイツ軍の軍服を着せられた上、鎖で大岩につながれたまま置き去りにされる。またロシア軍大尉イワンは、味方による誤爆を受けてしまい傷を負う。

そこにサーミ人の女性アンニがやってきてイワンの命を救う。さらにやっと鎖を解いたフィンランド兵士のヴェイッコも転がり込み、お互い全く言葉の通じない3人の奇妙な共同生活が始まる。この文化も言葉も違う三人の会話になっていない会話がおもしろい。アンニは夫が徴兵されたまま帰って来ないから男に飢えているから若いフィンランド兵を誘惑する。

それに中年のロシア兵が嫉妬して、あるときヴェイッコが ドイツ軍の軍服を着ていたため彼のことをドイツ人と思い込んだイワンは、墜落機の残骸から見つけたピストルでヴェイッコを撃ってしまう。アンニはヴェイッコを献身的に看病して命を救う。その間に今度はイワンを誘惑するのである。これだと淫乱だが、アンニはすごくかわいらしいそれこそ妖精のような女として描かれる。

いつも言うのだが、女一人に男二人というシチュエーションはおもしろくなる映画の定石で、この映画もまた男と女の間、男同士の関係が入り乱れた中で微妙なバランスをとるおもしろさがある。自然の美しさやラップランドの生活も見ることができ、またユーモアもある秀作であった。

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【ミッション:8ミニッツ】
これは年末に劇場で観た映画である。「月に囚われた男」で評判が高かったダンカン・ジョーンズ監督の第2作となるSFサスペンス。シカゴで乗客全てが死亡する列車爆破事件が発生するが、犯人を探すために政府が遂行する極秘ミッションが事故犠牲者の事件発生8分前の意識に入り込み、その人物になりすまして犯人を見つけ出すという作戦である。何かすごい設定ですよね。もうこの時点で引き込まれてしまう。タイトルの「ミッション:8ミニッツ」その8分からとっている。

その犯人を見 つけ出すという任務遂行のため、軍人であるスティーヴンス(ジェイク・ギレンホール)が選ばれ、事件の真相に迫るため何度も8分間の任務を繰り返す。ミッションは予告されている第2のテロを未然に防ぐためで、スティーヴンスの意識が死んだ乗客の記憶に基づく世界へと転送されるである。そこで限られた時間内に犯人を突き止める行動をするのだが、失敗を繰り返す。

このテロを防ぐためにというのをみるとあの9.11を思い起こさせる。戻せるものなら戻したいという声が聞こえてきそうなきがした。それにしてもアイディアからストーリー展開、そしてラストの衝撃はなかなかのもので期待以上の映画であった。

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【まほろ駅前多田便利軒】
直木賞に輝く三浦しをんのベストセラー小説を映画化したものである。まほろ駅というのは町田市を想起させられるが、そこで多田便利軒という看板を掲げている三十男の便利屋とその友達の話である。監督が大森立嗣で、主演の二人が多田を演じる瑛太とその中学校の同級生だった行天の松田龍平である。

正月のある日、客から預かったチワワが逃げてしまい探しているとバス停でその犬を抱いた行天と出会う。そして、無口でおとなしかった行天の変貌ぶりに驚くと行天は強引に多田の家に居候を始める。そこからの二人の便利屋稼業の生活が一年続いて行くのを描いていく。

二人ともバツイチでいわくがあるのだが、そんな生活の中で徐々に明らかになってくる。もちろん、偽悪ぶっているが本当は優しいみたいな話に決まっているのだが、それでもほろりとしてしまう。それに、2人の掛け合いがまた楽しく、ホンワカした三浦しをんワールドが展開される。

瑛太もいい味を出しているが、ぼくは行天役の松田龍平にしびれた。「探偵はBARにいる」でもその存在感に酔ったが、何というか無頼“感”がとてもいいのだ。

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2012年1月 4日

スポーツ三昧(2012)

毎年どうしてこう変わりばえのしない正月を送るのだろうかと嘆いてみても結局は同じような日々を過ごすことになる。多少変わったといえば、ばあちゃんが昨年からすぐ近くの老人ホームに入ったので元旦はそこに挨拶にいく。下の息子は中国に行ってしまったので、ヨメさんと上の息子と3人である。

息子がさんざん早く結婚しろとしつこく言われて辟易していた。ぼくの家の竹で作った門松の前で記念撮影して帰る。もうそのあとは、テレビの前でぐだぐだとなってしまう。元旦のニューイヤー駅伝から始まってサッカー天皇杯があって、2日からは箱根駅伝が行われ、そのあと高校サッカーやラグビーがある。一年で一番ぼけっとする時である。

ぼくは駅伝が好きで以前はずっと見ていてヨメさんから、どこがそんなにおもしろいのと言われてバカにされていた。ところが今年は自らなぜ見るんだろうと思ってしまった。つまり、あまりおもしろく感じなくなったのである。特に今年の駅伝は年末の高校駅伝もそうなのだが、ほとんど競り合いみたいのがなくて、勝負ありとなるのが早く、そうなるとおもしろくもなんともなくなってしまった。

それもあるがもう一つの理由にレベルが低いということもある。かつては駅伝から巣立った選手が世界のマラソン界で活躍していたのが、いまや世界基準から取り残されてしまっている。実業団駅伝の2区を見れば分かるが、アフリカ選手と日本選手の差が歴然として彼我の差を見せつけられる。そん戦いはあまり興奮しないのである。

箱根駅伝は、東洋大学のダントツ優勝で幕を下ろしたが、もう3区ぐらいで勝負はついた感じでおもしろくない。しかも、復路は13校が繰り上げスタートという事態になり、そうなるとどこが何番だか分けがわからない。例年、優勝争いとシード権争いが絵になるのだが、優勝はぶっちぎりだし、どこの学校が10位で11位はどこを走っているのかわからないので興ざめもいいところだ。

しかし、箱根駅伝も年々盛んになってくるが、どうも本来のスポーツから離れていっていくような気がする。選手がタレントみたいになり、番組もバラエティあるいはドラマみたいなってきて、台本があってそこで踊らされているようにも思えてくる。だから、勝負のおもしろさが消えると、なにかアクシデントがおきないかと期待して、往路の東農大の脱水症状でフラフラになって走っている姿や復路の戸塚中継所のわずか手前で倒れながらタスキを渡したシーンに絶叫するのである。

さて、サッカー天皇杯であるが、FC東京と京都サンガという初めてのJ2対決となった。結果はリーグ戦の結果と同じようにFC東京の実力通りの勝利となった。しかし、ふだんめったにみることのない10代の若い選手が躍動する京都のいきのいいサッカーは楽しかった。なにしろ、スタメンの平均年齢がFC東京の26.8歳に対して23.9歳である。

試合は、前半は石川、ルーカスを中心に東京ペースで始まったが、先取点は京都があげる。13分ドゥトラが突っ込んだところで徳永と今野が交錯してしまいこぼれたボールを中山がうまくGKをかわしてシュート、これでおもしろくなる。ところが、すぐに東京の反撃をくらいその2分後、ショートコーナーから石川が絶妙のクロスをあげ今野が頭で同点弾をたたき込む。

こうなると、東京のペースとなり、森重のフリーキック、ルーカスのシュートと立て続けにゴールして3-1で前半を終える。後半に入っても主導権は東京にあって、21分にルーカスがダメ押しの4点目を入れる。その後京都の高校生Jリーガー久保が1点を返すが万事休す。点差はあったが両チーム持ち味を出したいいゲームであった。FC東京はさらにこのサッカーを磨いてACLでの活躍を期待したい。

特に初めて見る京都のサッカーと若手選手には目を見張るものがあった。ただ狭い地域でショートパスを回すサッカーはそれなりいいのだが、細かく回しながらもすきをみて大きく展開しないと意味がないわけで、その点京都のパス回しはまだ局地的なので相手に脅威を与えきれていない。

最近、高校サッカーにしてもスペインサッカーやバルセロナサッカーに影響されてか、細かなパスを回すという戦術がはやりのようなのだが、たしかに日本人にも合っているともいえるのでつい採用したくなると思うのだが、これはあくまで手段であって、目的は点を奪って勝つことだから、その点を忘れないようにしてもらいたいものだ。

さてこれからは、高校サッカー選手権であるが、神奈川県代表の桐光学園が惜しくもPK戦で敗退してしまった。神奈川県代表は予選が大変だからどうかしらないが本戦であまり勝てない。さて、今年はどこが優勝するのだろうか、さらに熱い戦いがくりひろげられるので楽しみにしている。

2012年1月 5日

街場の小経済学その17

うちの社長が昨年末「ListTube」というiPhoneアプリをリリースした話は書いた。このiPhoneアプリは、無料のものもあるがダウンロードしてもらえばお金が入るモデルである。ただ、一回のダウンロードで入る金額はしれたもので、「ListTube」は定価が170円で最初はクリスマスキャンペーンということにして半額の85円に設定した。今は170円にしている。

それがよかったかどうか知らないが、リリース直後は国内のベストテンに入った。しかし、だんだんと減ってきてベスト100以内に入ってはいるがだいぶダウンロード数が減った。そこでまた、ある紹介サイトでとりあげてもらって盛り返す。そんな状態だが、これから改良点や新規機能を入れてバージョンアップしてまた売り上げを増やすことを考えている。そのとき、価格を定価にするのか半額にするのかといったことがけっこう悩ましかったりする。

iPhoneアプリで儲けるなんて話が聞こえたりすることもあるが、正直そんなに儲かることはない。世界中のユーザが相手だから売れたら爆発的だからすごいことになるなんて夢見るが、現実は日本のアプリなんて海外じゃほとんど売れない。それと単価が安いから企業のビジネスとしてやっていくには相当無理がある。つまり、個人ベースのビジネスなのではないでしょうか。

そこでビジネスモデルや業務機能的な観点から眺めるとおもしろいことがわかった。あらゆるビジネス的な機能が集約されて詰まっている。それを一人の人間が全部こなしているという姿にはたと気がつく。つまり、商品開発から、販売計画、マーケティング、設計・製造、調達、出荷、ブランディング、価格設定・収益モデルなどなど、それぞれをひとりでやるのだ。

具体的には、どんなコンテンツにするのかアイデアを浮かべるのと同時に調査したり、売れ筋のアプリの分析などを行い商品コンセプトを決定する。そしてそれを実装するための技術の調査や習得を行う。社長はPerlのプログラマーだから、iPhoneのObjective-Cを覚えなくてはいけなかったり、アップルのフレームワークや規約もしっかり知っておかなくてはいけない。

アップルの規約はいっぱいあってそれに準拠していないとRejectされてしまうのでけっこう大変だ。ただ、逆にそれを守れば標準的なUIが保証されるといったようにある意味楽なところもある。さすがアップルの統制はすごい。ついフリーにどんどんやれるように思うのだがそうではなくてとても厳しい。そして、実装してショップに出して売る。それもただ商品を並べておくだけではダメなのでプロモーションをかけるという具合だ。

これをぼくは「テキヤモデル」と言ったら社長はニヤっと笑っていたが、結局、アップルという親分がいて、iPhone という神社の境内で夜店を出させてもらい、売り上げの何%かをショバ代として召しあげられるという構図だからである。うちの会社は露天商というわけだ。別にそれが悪いと言っているわけではなく、富山の薬売りだって現代のビジネスにもあるように、古来からのビジネススタイルのひとつなのである。
  

2012年1月 6日

非定型業務のIT化 - 非定型業務とは(1)

昨年末にVCPC(バリューチェーンプロセス協議会)のセミナーで「非定型業務のIT化の事例と構築方法」というタイトルで1時間半もしゃべったので、この非定型業務のIT化ということについてシリーズで書いておこうと思う。

そもそも、非定型業務はIT化に適さないからということからこれまであまりやられていなかったと思う。しかしながら、よく眺めてみると非定型業務というのが非常に重要な位置を占めていることがわかる。その辺の話はおいおいするとして、まずは非定型業務とはいったい何なのかを考えてみましょう。

その前にちょっと角度を変えて、非定型業務ってどこにあるのかをみてみましょう。つまり、企業のビジネス活動においてどんなところに非定型業務があるのか、あるいは逆に定型業務はどんなところにあるのかということである。いつも決まりきったことをしているエリアとはどういった業務機能をもったところなのかということである。

企業活動モデルをシステム構造的にみると、水平方向にビジネス活動があるとすると垂直方向にプロセス階層があります。ビジネス活動というのは、お客さんからの要求があり、それに答えるためにプロセスを回し、その結果として事業成果が生まれるわけです。一方、垂直方向を見ると、上位には戦略や事業方針があり、その下に業務機能とかバリューチェーンのようなものがあり、更に下位に行くと業務プロセスに展開され、最後はITや人によるアクションといったレベルまで分解されます。

それらが、クロスする形で実際の企業活動が構造化され、実行されていきます。そのときに日常的な業務プロセスオペレーションを行う縦横が交差するところに非定型業務があります。

少し分かりにくいので、具体的に言うと、ビジネス活動としては前述したように、顧客からの要求とか依頼があって、それに答えるためにプロセス活動があります。それに答えるというのは、要求項目に対して製品やサービスの送り手側である意思決定を行うことになります。その意思決定の連鎖の結果としてデータが生成されて、それが成果となるわけです。成果は、決算システムにデータを登録することでPL/BSといったものとなり成果を表現することになります。

この流れの中で、定型的なものと非定型的なものを考えてみましょう。まずお客さんの要求はどうでしょうか。要求自体は定型のものとそうでないものがありそうですね。標準品のオーダーのように決まったフォームで依頼してくるものもありますし、特注品のようにいつも違った要求というのもあります。しかし、よくよく考えてみると提供側からすると要求のあいまいさは何らかの形で定型化しないと受けられないので結局処理としては定型業務になると思うのです。

また、後の方のデータ登録というアクションはもう定型ですよね。会計システムとかERPが口を開けて待っているところにデータを流し込むだけで、そのデータを使って所定のルールやロジックに従ってコンピューターが計算をし、決算書を出してくれるわけで典型的な定型業務になります。ということで、その間にあるプロセス活動が非定型になります。プロセス活動は意思決定の連鎖で、その意思決定は人間の判断業務が入りますからどうしても非定型になります。

一方、プロセス階層からみてみるとどうでしょうか。戦略とか事業方針、さらにその下の業務機能のようなレベルは定型なのか、非定型なのか。戦略とか事業方針そのものはもちろん各社、各事業でまちまちですが、決めるべきこと、書くべきこといったメタモデルはそう変わらないものです。ビジネスモデルの構造あるいはバリューチェーンとかハイレベルのプロセスといったものはどこも同じです。

例えば、サプライチェーンで言えば、計画・調達・製造・出荷なんてどこの会社にもあることですし、もう少し下のレベルでも見積作成、オーダ受領、在庫引当、輸送手配なんてプロセスも変わりありません。つまりそのあたりのレベルは定型的なものなのです。ですから、リファレンスモデル化ができるのです。世の中の標準モデルは定型的なレベルで行われています。

また、最下層のアクションレベルではITで言えば、データ処理みたいなことになるわけで、CRUDだとか検索、レポーティングといった機能は定型的なものです。人は担うところでも電話をするとか、ファイルするとか、運ぶとか、捨てるとか、そんな行為は定型業務になります。

ということで、その間の階層にある固有性をもった細かな業務プロセスが非定型なものになります。水平方向も垂直方向もこのように中間的な領域が交差したところに非定型業務は存在します。
  

2012年1月 7日

毎日かあさん

最近どうして、こんなに西原理恵子がもてはやされるのだろうか。「女の子ものがたり」も「パーマネント野バラ」も「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」も西原の原作あるいは関係する作品である。本人曰く、低予算で映画化できる作品だからだそうだ。その最後の「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」と似たような話である「毎日かあさん」を観る。

「毎日かあさん」も主人公である女流漫画家とアルコー ル依存症の元戦場カメラマンの夫、そして二人の子どもの家庭を描いたものである。だからどうしても「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」と比較してしまう。こちらは、主演が永作博美と浅野忠信で、「毎日かあさん」は小泉今日子と永瀬正敏なのだが、そこから比較を始めてしまう。

ただ、映画の視点は違う。「酔いがさめたら・・」の方は夫だった鴨志田譲の原作を基にしているので、夫の視点からの作りになっているのに対して、「毎日・・」のほうが西原のマンガから採っているので母親の視点、というよりぼくには子どもの視点に映ったが、その違いがある。だからどちらがいいかというような話ではなく別物の作品なのである。

むしろ、小泉今日子と永瀬正敏の夫婦役に興味がそそられる。別れたのにこうして一緒に共演したりしているわけだから、映画の離婚しておきながら舞い戻ってくる夫との関係が似てなくもないので、やりにくくないのかと思ってしまう。しかし、映画を見る限りにおいてはその距離感というか、呼吸がすばらしく、彼らの実生活もこんなこともあったのではと想像してしまう。

ストーリーは、二人の子育てと漫画家としての仕事にと毎日忙しい日々を送っている漫画家(小泉今日子)には、戦場でのトラウ マのせいでアルコールにおぼれる元戦場カメラマンの夫(永瀬正敏)がいるが、酒をやめると言ってはまた呑み始めるということを繰り返す。あきれはてた結果離婚することになる。ところが、今度はがんがみつかり何回か吐血する。

そんなダメ夫ではあるが、口ではののしりながらも見離さないでいるのである。だから離婚しても家に舞い戻ってくるのだ。何もかも笑い飛ばし受け入れる包容力のある妻と母親がいるからである。そして、最後はほろりとさせてくれる。

監督の小林聖太郎はよく知らなかったが、演出はあまり深刻にはならずたくましくかつ陽気にふるまうかあさんと奔放でかわいい子どもたちを素直に表現させていてとても共感がもてる。一方、永瀬も迫真の演技でがんでやせ細っていくのを自らも減量して演じていてすばらしかった。

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2012年1月 8日

官僚の責任

今何かと登場してくる話題の古賀茂明さんの書いた「官僚の責任」(PHP新書)を読む。最近でもあの橋下徹に請われてか押しかけてか知らないが、大阪府市統合本部顧問に就任している。そんな注目の人物が何を考えているのかを知っておいた方がいいと思ったからである。

まあ、書いてあることはまともでほとんどのことがごもっともですねと言わざるを得ない。ということは、現状の官僚あるいはお役所は深刻な制度疲労を起こしていると思う。この人がこの本だけでなくテレビなどでよく言っていることは、「官僚は決して優秀ではないし、必ずしも国民のことなどを考えて仕事をしていないのだ。たとえ官僚になるまでは優秀だったとしても、いつの間にか「国民のために働く」という本分を忘れ、省益の追求にうつつを抜かす典型的な「役人」に堕していく。それが「霞が関村」の実態なのである。」

確かに縦割りで自分たちの省の利益だけを優先するという姿はよく目に耳にする光景だが、一向に改まらない。彼も公務員制度改革を訴えるのだが、官僚と癒着していた自民党から民主党に交替した時に改革が実行されると期待したのに裏切られたと嘆いている。それは、民主党の官僚に対する認識が甘かったのではないだろうか。政治主導を官僚を排除することだと誤解していたのである。

ここでも天下りのことを批判しているがもう長年染み付いている習性は直らないかもしれない。そのことを実体験として今でも思い出すことがある。もうかれこれ20年近く前になるが、ぼくが東京本社で技術企画室というところにいた時の話である。化学会社では多くの製造プラントを持っているが、事業撤退したときに休止するプラントが出てくる。

しかし日本では成熟期なので採算が取れないかもしれないが中国ではこれから必要となるから、その休止プラントを中国に持って行けないかというアイデアを思いついた。中国人の作業員を大量に連れてきて解体して運搬すれば費用は安く済むから成立すると考えたのだ。それには当時の通産省にお伺いをたてなければいけないということで、基礎化学品の課長に相談にいった。

その時の衝撃は忘れられない。説明が終わるか否かのとき、その課長は係長に向かって、○○協会を作ろう即座に指示したのである。これで天下り先をひとつ増やせると思ったのである。まさに本に書いてあるように、官僚の仕事は法律をつくり、同時に予算をとり、関連団体をつくり、天下りポストをつくることで評価されるのである。国民のためはどこに行ったのか。結局、そのアイデアは立ち消えになってしまったが。

著者はこうした互助会システム的な体質を改めるには、キャリア官僚を縛りつけている省という枠組みにとらわれないで動ける仕組みを新しく作るしかないという。そのための方法が、「内閣人事局」を新設して、全政府的見地から人事管理を一元化することえお提案している。

おそらく、大阪もある意味国の縮図のようなところもあるので、試金石としてやってみて、それを国に当てはめていくというアプローチもおもしろいかと思う。いずれにしろ、結局のところ人事とか人材活用とか組織といったところを抜本的に変えていかない限り、いくらお題目だけ、意欲だけを叫んでも変わらないような気がする。そのためにも強いリーダシップが望まれるのだが。



2012年1月 9日

男の伝言板 - 老人と酒

こんなサブタイトルだと、何やら酒に溺れる老人の姿が思い浮かぶ。ぼくは何を隠そう溺れるほどではないが酒好きである。ここ数十年は一日も欠かさずに呑んでいます。それでよく肝臓を壊さないかと思うのだが、いまのところγGTPもぎりぎりセーフである。

初めてちゃんと酒を呑んだのは高校生のときでコークハイだった。要するにウイスキーをコカコーラで割ったやつで、その当時はけっこうはやっていた。呑みみやすいのでつい呑み過ぎてしまうことがある。大学に入ってからもコンパと称して呑んだり、燃える前の新宿西口のションベン横丁(今は思い出横丁といって一部残っている)に行ったり、友だちの下宿で呑み明かしたりとよく安酒を大量に呑んだものだ。

ついこの間、サッカー部の現役の子を会食に誘って呑んで食ったのだが、飲み会みたいなのをしょっちゅうやっているんだろと言ったら、いやほとんどやりませんという返事。せいぜい合宿の時の打ち上げで呑むくらいだという。普段も飲みませんと言っていた。そのときも食べるばかりで何とかサワーというのを舐めていた。

学生時代、あまり自慢することでもないが、二日酔いでサッカーの試合をしたことが何回もある。もちろん吐いたことは数限りなくある。いちばんひどかったのは、西武新宿線の電車のなかでドア付近に倒れ込み、駅でドアが開くたびに吐いていた。よく首をはさまれなかったかと今でもぞっとする。

社会人になってからは、金もあるし独身寮だし、それはそれはよく呑んだ。先輩連中が頼みもしないのに市中引き回されて、毎日のように呑み歩いた。店を紹介してくれてなじみにもなったりした。もう当時の店はほとんど残ってはいないが、数年前にはなじみの店にいた女の子が開いた飲み屋にときどき行って、もはやおばさんになったママと昔話をしたりした。

そうだ、ここは酒呑みの行状記を書くのが目的ではなく、老人にとって酒は何よりも健康にいいし、精神衛生上よろしいのだということを言いたいのである。会社勤めを辞めて自宅で仕事をすることが多くなると、仕事が終わってから家でゆっくりと呑むのが楽しみである。呑むと頭が緩んでくるのがわかる。それが何とも気分がよいのだ。

緩むというのは解放感ともちょっと違って、柔軟な発想が浮かんでくるといった方が近い。しらふの時って、無意識のうちに構えて思考回路を働かせているのと、年をとるとそれこそ頭が堅くなる。一種の“たが”をはめているわけで、発想が狭いのと同時に硬直的になりやすいと思う。その“たが“を酒が外してくれるというわけである。

だから、酒を呑む時はいつもメモを横においておく。いい気持になってぽっとアイデアがうかんだり、いい言葉が思いついたらすぐに書きとめるのである。ぼくは外でひとりで呑むことも多いのだがそのときは呑みながら、ブログの記事を書きあげてしまうこともある。というわけで、このエントリーは酒を呑みながら書いたわけではないが、「酒呑みの自己満足」というカテゴリーに入れた方がいいかもしれない。

2012年1月10日

市立船橋高校おめでとう!

昨日行われた第90回全国高校サッカー選手権大会決勝で千葉県代表の市立船橋高校が三重県代表の四日市中央工高を延長の末2―1で逆転勝利をあげ9大会ぶり5度目の優勝を飾った。まずは市立船橋のイレブンにおめでとうと言いたい。

ここのところ新鋭というか初優勝というケースが多かったので久しぶりに過去に優勝経験のある伝統高であるイチフナとヨンチュウコウの対戦ということで注目されました。ぼくは、大学卒業から20年近くを四日市で過ごしたのでもちろんヨンチュウコウに肩入れです。ただ、地元ではヨンチュウコウなんて言わないでただチュウオウと言います。

ぼくが最初に行ったころは三重県というと上野地域のチームが強く四日市はまだまだでした。しかし、そのころから城先生という熱心な先生(昨日もテレビで紹介されていました)が中央工業高校にいらして、めきめきと力をつけてきました。ぼくの会社のチームにも何人か入ってきました。今の監督の樋口士郎が現役のときくらいから全国的にも強豪といわれるようになった。そして、20年前に小倉、中西を擁して全国優勝を成し遂げています。

なので、かなり入れ込んで応援したのですが惜しくも逆転をゆるしてしまい非常に残念です。始まって1分でセットプレーから得点するという幸先の良いスタートだったが、最後に力尽きてしまった。しかし、負け惜しみじゃないが、四中工のサッカーの方が市船よりも数段よいサッカーをしていた。スピードのあるパス交換と突破、そして守備への素早い切り替え、時としての大きなサイドチェンジとレベルの高いサッカーを見せてくれた。

いっぽうの市船の方は、わりと単純でセットプレーと個人技だけのように思われた。2得点をあげた和泉君(この子はいい選手だ)を中心に個人で仕掛けて、セットプレーを得てそこから得点というパターンである。では、いいサッカーがどうして負けたのか。それは試合運びに差があったということだ。市船のほうが試合運びという点において大人だったのである。

四中工はどこで試合運びを間違ったのか。試合時間がこれまでの40分ハーフから決勝は45分になったことがある。要するに、最後の10分が持たなかったのである。その原因は単に時間が長くなったということもあるが、ペース配分でも間違った。四中工の樋口監督が前半を終わった時点で100点満点だといったことがそれを象徴している。100点満点では突っ込みすぎだったのである。

本当に、前半の戦い方はすばらしかった。しかし、そのことは相当にペースをあげていたことを意味する。事実、出足や玉際ではあきらかに市船の選手に勝っていた。それがずっと最後まで続かないのがサッカーというもので、相手が慣れてくるということもあるが、最後は息切れしてしまった。ですから、全体のペース配分をどうコントロールするかという難しい問題なのであるが、キャプテンが出場停止ということが影響していたかもしれない。

四日市中央工業はまだ1,2年生も多くいるので来年がまた楽しみである。市船のことにあまり言及しませんでしたが、さすが歴史があるだけに、強く堅いサッカーを展開していた。よくやったと称えたい。

ここで、スイスのチューリッヒで行われたFIFA(国際サッカー連盟)年間表彰式で、なでしこジャパンの澤穂希が女子FIFAバロンドールを受賞した。また、FIFA女子最優秀監督賞にも同じくなでしこジャパンの佐々木則夫監督が同時に受賞したという、何ともうれしいニュースが飛び込んできた。すごいですねえ。

2012年1月11日

IT再考-「生命を捉えなおす」から考える(3)

前回、マクロとミクロの話として観察の対象物(系)のことをマクロと言い、それに対して、その構成要素をミクロと呼ぶとしました。そして、ものを見る時、適当な尺度で見ないと何がどうなっているのかが分からないということを言いました。今回は、マクロの系の状態というものを見ていきます。また、生きていることはどういうことかも考えてみます。

ここで、構成要素が規則正しい配列になっているマクロの状態と配列が乱れたマクロの状態を考えます。あるマクロの状態が乱雑なほどその中のミクロな状態をたくさん含むことになります。そうすると、秩序の高い低いを、その状態に属しているミクロの数が少ないか多いかによって表現することもできます。そして、無秩序さが大きくなる傾向があり、それを「エントロピー増大則」というのです。

これを組織にあてはめると人数が多ければ多いほど秩序が乱れる方に向かうわけです。業務でいえば、例外とか個別処理とかが多くなるとその業務プロセスが不安定になるのです。ですからできるだけミクロの構成要素を少なくする、すなわち標準化、共通化、あるいはコンポーネント化していくことが大事になるわけです。

さて、自然界には、エントロピーが増えることによる自由度増大の傾向と内部エネルギーの減少による安定度の増大の傾向が見られます。従って、秩序ができるのは、自由度の要求と安定度の要求の二つのうち、安定度の要求が勝った場合です。例えば低温で結晶が規則正しい形態をとるような場合があります。こうしたメカニズムによってでてきる秩序が「静的秩序」となります。

一方で、多種多様な生命現象に共通的な特徴は何かと考えてみた結果、多くの生物学者の意見は「それはマクロな系に秩序(生物学的)が自発的に出現することである」だという。こうした、生体の形態にみられるような秩序を動的秩序と呼ぶ。

ここでまとめると、生きている状態は、特定の分子や要素があるからというわけではなくて、多くの分子や要素の集合体(マクロな系)が持つグローバルな状態(相)であり、生きている状態にある系は、高い秩序を自ら発現し、それを維持する能力を持っているということになります。

ここにおいても、会社の業務やその情報システムにヒントを与えてくれます。“高い秩序を自ら発現し”というところに惹かれます。つまり、動的秩序、あるいは動的な平衡が保たれてこそ生きた状態なのだから、システム的にもこの生きた状態を作れるかどうかでシステムの本当の価値が生まれるわけです。

現在の情報システムは、見た目は動的になっているように見えますが、フィードバックループが働いていないという点だけとっても静的な域を出ていません。状況に応じて柔軟に変化できるようなシステムが望まれるのですが難しいですね。
  

2012年1月13日

新書がベスト

小飼弾という人を知っているのはITとかネットに関係している人が多く一般にはあまり知られていないかもしれない。元オンザ・エッヂ(現ライブドア、今はNHN Japanの子会社)のCTOで今は有名なブロガーでかつすごい読書家です。その小飼弾が書いた「新書がベスト」(ベスト新書)を読む。

実はぼくは弾さんと面識があって、息子がPerlというプログラミング言語の世界で知っていて、数年前に紹介してもらったのだ。初対面なのに勝手に自分のことをしゃべりまくって去って行ったという印象で少し驚いたのを覚えている。彼は読書家であるといったが、まずびっくりしたのは本を読む早さである。新書だと10分で一冊を読んでしまうという超人である。だから、一日10~20冊読んでしまうのである。

その弾さんが、読書は新書に限るというアジテーションをしている。新書を手当たり次第に読め、他の本なんて読まなくてもいいとも“弾言”している。彼曰く、読書の目的は、生きていく上での強みを養うことにあって、その強みになるためには最低1000冊読まなければいけない、そして様々な分野の書籍を「読み飛ばす」ことであると喝破している。それには新書が最適だというわけである。

そこから新書の買い方、読み方、使い方を伝授してくれる。まとめて買う大人買いをしようとか、読んだら読書記録をつけろとか、当たりはずれも当然あるがダメ本でも恐れずどんどん読めという。自己啓発本は洗脳されずに読めとか話題の本とは距離をおけといった注意もしてくれる。

後半には、数ある新書のレーベルに対してその特徴とか評価を下していておもしろかった。その形容詞を紹介すると、「岩波新書」-新書スタイルはここから生まれた、「中公新書」-じっくりと時間をかけて仕上げる、「ちくま新書」-社会派老舗の風格、「光文社新書」-目のつけ所が光る。「新潮新書」-新書ブームをつくった、幻冬舎新書―クリーンヒット率の高い、「PHP新書」-節操のなさが強みでもある、といった評価がなされている。

まだまだ他のレーベルもあるのので、こうしてみるとずいぶんと沢山の種類の新書があるものだと感心する。ぼくは、最近では新書ばかり読むようになって、何となくもっとまともな本の読めよなあと言われそうでちょっとひっかかっていたが、弾さんが気持ち良いくらいに新書以外は買わなくてよいと言い切ってくれるので勇気づけられた。

それとただ読むだけでなくその感想をどこかに書いておくというのも大事である。ぼくは必ず自分のブログに書くことにしている。それはポイントのところだけでいいから自分が感じたことを残しておくとあとで振り返るとすごく参考になる。また、もうひとつの記録として、本に書いてあるのと同じ章立てで今度は自分の考えを書いてみるというのも楽しいものである。
  

  

2012年1月14日

書くことについてちょっと考えてみた

昨日の記事で本を読んだらその感想なり思ったことを書きとめることを薦めた。また、以前にも、このブログで「それでもオヤジがBlogを書く理由」とか「SNSとお笑い芸」といったタイトルでブログを書くことに言及した。そして、ぼくは、ブログという場で毎日せっせと書き続けている。

そうしたら、同じようにブログで文章を書くことについて少し前になるが参考になる記事を見つけたので紹介しつつ考えてみる。ひとつは、内田樹さんの「ツイッターとブログの違いについて」というエントリーで、少し長いがその中から引用してみる。

Twitterには「つぶやき」を、ブログには「演説」を、というふうになんとなく使い分けをしてきたが、二年ほどやってわかったことは、Twitterに書き付けたアイディアもそのあとブログにまとめておかないと、再利用がむずかしいということである。 Twitterは多くの場合携帯で打ち込んでいるが、これはアイディアの尻尾をつかまえることはできるが、それを展開することができない。指が思考に追いつかないからである。 だから、Twitterは水平方向に「ずれて」ゆくのには向いているが、縦穴を掘ることには向いていない。そんな気がする。ブログは「縦穴を掘る」のに向いている。 「縦穴を掘る」というのは、同じ文章を繰り返し読みながら、同じような文章を繰り返し書きながら「螺旋状」にだんだん深度を稼いでゆく作業である。Twitterだと自分の直前のツイートがすぐに視野から消えてしまう。 誰かのツイートがはさまると、もう自分の先刻のアイディアの「背中」が見えなくなる。 「アイディアの背中」というのは、けっこうたいせつなものである。自分の脳裏をついさきほど「横切った」アイディアがある。それは「あっ」と思って振り返ると、もう角を曲がりかけていて、背中の一部しか見えない。そういうものである。 長い文章を書いているときは、その「背中」がけっこう頼りなのである。自分が進んでいる道が「どうも展望がない」ということがわかって、「そうだ、あのときのあのアイディアについてゆけばよかったんだ」と思うことがある。振り返って、走り戻って、「アイディアの袖口」をがしっとつかむ。そして、いっしょに「角を曲がる」。長い文章を書いているとそういうことができる。

もうひとつが、酒井穣さんの「書くことは、僕だ。それは、新しい自分を獲得するための大切な方法として。」というエントリーでこれも一部を再掲してみる。

ブログの文章に限らず、仕事のための企画書などを書いているとき「手が勝手に動く」瞬間を強く感じることがあります。いわゆる、シュルレアリスムの自動筆記(オートマティスム)に似ているような、でもちょっと違うような気もします。 誰でも、電話で誰かと話をしていて、近くにあったメモ帳にグリグリと落書きをして、でき上がった「作品」を捨てるのに躊躇したことがあるでしょう。僕がなにかを書くときは、どこかあの感じと似た状態になることが多いのです。(中略) (いろいろ執筆して)結果 として得られたのが「書くことは、僕だ」という、日本語としては少しおかしな言葉です。実際にすべて僕が書いているのですが、実感としては「僕が書いている」のではなくて、そこに書き出された内容に、自分自身が引っ張り上げてもらっているといったイメージでしょうか。それが「書くことは、僕だ」という意味 です。 自分のアウトプットとして生まれた文章に当の自分が学び、それが僕自身のフロンティアを少しずつですが確実に広げています。今年一年、アウトプットにこだわってみて得られたのは、結局のところ「新しい自分」でした。

この二人の言っていることがすごくよくわかるのである。それは実際にある程度長い期間、自分の手で文章を書いてみると感じることができる。だから、ぼくは日常でふと思いついたことをメモに残しそれを「縦穴を掘る」ように掘り下げてブログ記事にするし、セミナーでしゃべったことだとか、ディスカッションしたようなことをあえて文章として書いていくことをしている。

そして、何よりも書いたことを読み返しながら「書くことは、僕だ」を再確認し、「新しい自分」を発見するのである。
  

2012年1月15日

水曜日のエミリア

「ブラック・スワン」でゴールデングローブ賞、アカデミー主演女優賞に輝いたナタリー・ポートマンが主演の「水曜日のエミリア」を観る。ナタリーはこの作品に惚れこんだらしく製作総指揮も務めたという。監督はドン・ルース。連れ子のいる上司と結婚したが、その子との関係や元妻との確執、また忘れられないつらい過去といったことに悩みながら乗り越えていく姿を描いた作品である。

弁護士であるエミリア(ナタリー・ポートマン)は、毎週水曜日になると夫ジャック(スコット・コーエン)の8歳の息子 ウィリアム(チャーリー・タハン)を学校に迎えに行って、家に泊まりに連れてくる。しかし、その連れ子である息子は、エミリアになかなかなつこうとしない。エミリアが両親の離婚の原因をつくったわけだから心を開かないのである。また、医師である前妻のキャロリン(リサ・クドロー)も冷たく当たってくる。

そんな状況に悩んでいるのだが、彼女にはもっと苦しい過去があったのだ。ジャックと再婚して生まれたイザベルと名付けた赤ん坊が生後3日で突然、亡くなってしまった。そのトラウマみたいのを引きづっていて自らのミスで死なせたと自分を責めるのである。

こうした葛藤って誰でも大なり小なりあったりして、周囲の見る目が自分を非難しているように感じ、どんどんと落ち込んでいくことがよくある。エミリアもそんな風に自棄的になるが、両親や同僚など様々な人々と接するうちに徐々にわだかまりが溶けていく。このあたり、ナタリー・ポートマンはブラック・スワンとは違って普通の女性の人生や愛や家族について悩む姿を素直に見せてくれる。

最後にもあっと驚く仕掛けもあって、新しい生き方を見い出していくプロセスが感動を呼ぶなかなかよい映画であった

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2012年1月16日

IT再考-「生命を捉えなおす」から考える(4)

前回「生きている状態は、特定の分子や要素があるからというわけではなくて、多くの分子や要素の集合体(マクロな系)が持つグローバルな状態(相)であり、生きている状態にある系は、高い秩序を自ら発現し、それを維持する能力を持っている」という話をしました。ただ、エントロピーなどが出てきて難しくなるので、ここからは秩序の自己形成系と情報ということを考えていきます。

清水先生は、生きた自然はエネルギーではなく情報によって支配されていると言っています。系が生きているからこそ情報という量が必要になってくるのであって、生命に関係ない統計的な系に情報の量を使う行き方は必然性がないのだという。こんなことは考えてもいなかったのでちょっと驚きである。自然科学の世界に価値観とか美意識といった要素を持った情報はなじまないと思うが、生きたものとして扱うにはこの概念を入れ込む必要がありそうなのである。

このことは、人間の活動をも含めた自然を理解するにはここはどうしても通らなければいけない橋なのだという。そのために情報という量の本質をはっきりさせる必要がある。前回、マクロとミクロの話をしましたが、情報というのは、粗視化していることに相当するマクロな状態の中から、逆に、ミクロな状態を指定するものなので、情報に従って、ミクロな状況を選ぶことは微視化してモノを見るということになる。

またエントロピーが出てきて恐縮ですが、情報をもらうということはマイナスのエントロピーをもらうことであると考えていいわけです。エントロピーの増大は秩序を乱すことだから、情報は秩序を与える方に作用するのである。

このように、マクロな眼とミクロな眼の行き来により森を見たり木を見たりするには「情報」というものが媒介しているということが分かる。言い換えれば、マクロとミクロという相とその構成要素という構造としてモノを見るということが必要ということでもある。このことは、生きた情報システムの構造にも当てはまるような気がするのである。

マクロ的な業務の流れがあって、これがビジネス活動を表現していて、そこでは細かなアクションは見えていないが、全体としてどう進んでいるかを捉えることができる。それを、眼を細めてみるとマクロを構成するミクロとしての要素が見えてきて、それは情報、例えば依頼情報とか前提情報とか事実情報とかいったものが介在して、その状況をつかむことができる。

プロセス志向のアプローチで盛んに言っている2段プロセスというのはこの概念に近いのである。企業あるいは組織という生命体はマクロ的な視点で眺めることで生きているのか死んでいるのかが分かるのであって、データを登録するとかの個人のタスクレベルでは分からないのである。ですから、マクロとミクロという概念は非常に重要なのである。
  

2012年1月17日

日本企業にいま大切なことを見直す(2)

「日本企業に いま大切なこと」(野中郁次郎、遠藤功著 PHP新書)の第二章は「横文字思考の“毒”」というテーマである。まずは、野中氏の論旨ですが、日本の抱える問題点として、ひとつはグローバル化が進んでいく中で、「モノづくり」だけでは生き残れなくなっていること、もうひとつは、技術や市場の変化がこれまで以上にスピードを増し、調達、生産、競争がますますグローバル化したが、日本の国内市場だけをみてイノベーションを起こし、それを他国にも応用するという手法では競争できなくなっていると言っている。

そして、たんなる「モノ」ではなく、iPADの例を引き合いに「モノ」を媒介とした「コト」を生み出すことが必要だという。それがなかなかできないのは、合理性、論理性、効率性を重視するアメリカ型のマネジメントを採り入れた結果、過剰なコンプライアンスや単に数字を追いかけるようになったからだという。

そして元気のある企業を見て、持続的なイノベーションを執拗に追いかけて、知の創造を日々の実践の中で徹底的に練磨することを推奨している。「連続の非連続」だという。確かにわかるのだが、だからといって、現場主義的な愚直な行動だけではできないのであって、やはり合理性、論理性、効率性は必要であると思う。アップルはアメリカの会社である。

一方、遠藤氏は「情緒的な国でどこが悪い」と居直っている。日本企業は過去20年ほど、アメリカ的なマネジメント手法に傾斜していたきらいがあって、「情緒よりも論理」「戦術よりも戦略」「部分最適よりも全体最適」といった考え方が支配的になっていたと指摘している。

これをそのままそうだとは言い難いのである。つまり、もともとグローバル化の流れの中で、そうした情緒的な国ではダメなのだという声を大方の人が出していたのであるから、方向はみな賛成したはずである。ですから、評価すべきはアメリカ的なマネジメント(これもおかしいのだが)を吸収したのか、吸収しきれていないのかということで、そういう見方も必要ではないかと思うのである。

話は飛躍するのだが、似たようなこととして、小泉首相がやった構造改革もそうで、構造改革をやり過ぎたおかげで今の格差が生じたといった議論がされることがあるが、逆にやりきれなくて中途半端に終わったがためにこうした結果を生んでいるという見方もある。

さらに、震災を例に強い現場と弱い本部を浮かび上がらせ、「三現主義」を評価して「現場・現物・現実」というリアリズムこそ、日本企業が大切にしてきた価値観であり、行動様式であると強調している。「論理よりも情緒」「戦略よりも戦術」「全体最適よりも部分最適」に向かわそうとしているのだろうか。これじゃあ、グローバル化に対応できないとみんなが言っているんですよ。

まだまだ、周りの日本企業をみても、またオリンパスの例を持ち出すまでもなく、“情緒的過ぎる”企業が多いのも確かである。だから、ぼくはもっと論理的、合理的な考え方にして、そこに日本のよさである現場の強さを埋め込んだものにすればいいと思うのである。
  

  

2012年1月19日

男の伝言板 - 行きつけの店

前回に酒呑みの老人の話をしたが、その延長で行状記を書いてもいいのだが、それは屁のツッパリにもならないのでもうちょっと生産的なことを書く。どんなところに呑みにいくのかという話である。「酒呑みの自己弁護」を書いた山口瞳が「行きつけの店」(新潮文庫)という本を著している。その本の帯には、“行きつけの店は、文化である。修行の場である。学校である。”と書いてある。

ぼくはかなり飲み屋で鍛えられた。若いころは先輩に呑み方や酔い方を教わったというか、見せつけられた。もちろん、見習うべき人もいたが反面教師もいた。むしろ、反面教師から学んだことの方が多いような気がする。普段おとなしいのに酔うと暴力的になる人、説教を始める人、愚痴ばかりこぼす人、怒りだす人と酒癖が悪い人は数多く見てきた。

そんな人とはあまり深入りせずに適当にあしらう術を身に付けた。たまにけんかになることもあるがさっと逃げることにしている。さすが行きつけの店ではほとんどそういった人も少ない。いやそういうことがないから行きつけになるのである。でも客筋が悪いところもあって、チンピラとトラブルになって危なかったこともあった。あら、これでは行状記になってしまうので話を変えよう。

ぼくの若いころというのは三重県四日市という街で呑んでいたわけだが、その頃は工場がいっぱいあってしかもみな活気があった。何にしろ先日の高校サッカーの決勝戦で四日市中央工の校歌が流れたと思うが、その中に「工都 我等を生かし 我等 工都を生かす」とあるくらいですから工業が盛んであって、労働者がたくさんいたので当然飲み屋も多い。

当時、日本で人口当たり一番飲み屋が多い市はどこかという話題があって、その答えが徳山市(今は周南市になった)だったが、ここも石油化学コンビナートの街だから、四日市はその次ぐらいかもねと言うくらい多くの店が軒を連ねていた。今は見る影もないほど閑散としている。

そこでの行きつけの店は、小料理屋、居酒屋、スナック風バー、すし屋、中華料理屋といったところで、みな個人経営の店で、今のようなカラオケとか居酒屋チェーンはほとんどなかった。まずは、小料理屋か居酒屋で呑んで、そのあとスナック風バーで女の子をからかって、最後はすし屋、中華料理屋でお腹を満たすというコースである。すし屋ではもう店が閉店するまでいて、そこの見習いの若い子が練習で握るすしを食べるのである。

小料理屋の女主人のおばさんとは家族のようなつきあいで、みないろいろ面倒を見てもらった。お嫁さんを世話してもらった人もいた。その店で知り合った大学の先輩が、他の飲み屋の女とドライブに行って事故で亡くなったという悲惨なできごとにもめぐりあった。そういう意味では、居酒屋チェーンのような飲み屋では味わえない濃密な時間を過ごしたような気がする。

東京に来てからは、やはり地方都市とは違ってべっとりとしたことは無理で時々訪れるだけになる。それでも、なじみの店は何軒かできる。今でも続いているのが、さかな料理屋、中国料理屋、小料理屋、焼き鳥屋、バーといったところである。場所はどうしても通勤経路であった新橋近辺ばかりになる。東京に通っていた時はなかったが、最近は家の近所にも行きつけの店が数軒できた。

ただ、毎日勤めに出ていた時とは違って、たまに外に出るので行く店も限られてくる。今一番よく行くのはこのブログでもたびたび登場する銀座のバー「M」である。ぼくはひとりで呑むことが多いが、この店でもひとりで止まり木に腰かける。それでも、マスタ夫妻や女性バーテンダーのKちゃんとのおしゃべりや、お客さん同士の会話も楽しいのである。この間も、隣に座った人の奥さんとぼくのヨメさんが高校のバレー部の先輩後輩だったことがわかり大いに盛り上がった。

もうずいぶんと通っているので、ぼくが落ち込んでいたときも知っているし、ぼくの家族のことも話題になる。下の息子とは定例としてここで一緒に呑むことにしている。そんなほっとする場所がいくつかあると酒呑み人生も楽しくなる。行きつけの店は修行の場であると同時に“癒しの場”でもあると思う。
  


2012年1月20日

暴力団

別にぼくは暴力団に入っていたわけでもなく、知り合いもいないし、仕事に関係していないから、そのことに詳しくなる必要もないのだが、多少は興味があってその手の書き手としては一番の溝口敦が書いた「暴力団」(新潮新書)を読む。

暴力団って、ヤクザと違うのかとかマフィアと同じなのかとかやっぱりわからないことが多いですよね。定義があって「その団体の構成員(その団体の構成団体の構成員も含む)が集団的に又は常習的に暴力的不法行為等を行うことを助長するおそれがある団体をいう」のだそうだ。その暴力団は全国でどんなものがあるかが分かっているのでそれを指定暴力団といって、全部で36,000人くらいいるそうです。その頂点に立つのがご存知山口組なのである。

映画などでずいぶんと暴力団も描かれているので何となくその存在を肯定してしまっていて、あるのはしょうがないから関わり合いだけは避けたいと思うのではないでしょうか。しかしながら、犯罪を行うことを目的としている団体が公然と存在していること自体が不思議なような気がする。ここが、マフィアのような海外の組織とは違うところなのだそうだ。この公然性と非公然性という大きな相違がある。

アメリカの犯罪組織は徹底して秘密で地下に潜行して実態が分からないのである。ところが日本は、街の中に組の看板かけた事務所があったり、テキヤとかやくざとか極道と言われてけっこう表に出ている。しかし、日本の暴力団もいまやどんどんその勢力は衰えてきて、暴力団もつらいよというのが現実なのだそうだ。

暴力団を取り締まるのはまずは刑法がありますが、最近は「暴力団対策法」や「組織犯罪処罰法」といったものもでき、また各地で暴力団排除条例が施行されたりしている。暴力団というだけでアパートも借りれなくなったり、銀行口座も作れないし、子分が恐喝をしてその場にいわわせなくても親分が捕まってしまうとかいった締め付けが相当厳しいようだ。しかも、経済的にも苦しいとなると組員になる魅力がなくなっている。

ただ、繰り返すが暴力団という組織犯罪集団の存在を認める法律を持っているのは、世界の中で日本だけだというのに驚かされる。存在を否定すればいいものをどうして温存するのかと思うと、警察との腐れ縁みたいなことがあるのではと勘ぐられ手もしょうがないかもしれません。少なくとも、暴力団がなくなると、警察の捜査第4課や暴力団対策室の刑事は仕事を失うわけだからと思ってしまう。

しかし、存在そのものが否定されたら、地下に潜るだけかもしれないし、六本木の例の暴走族OBみたいなのがのさばってくるのも困るわけで、とまあ世の中の必要悪なのかもしれませんが、そんなことより著者も言うようにもう暴力団は構造不況業種だから存外市場原理で退場していくのではないでしょうか。



2012年1月21日

エル・ブリの秘密 世界一予約のとれないレストラン

食通の人やスペインに興味のある人は知っていると思うが、世界中から予約が200万件来るが、席が45席しかなく、しかも半年しか開いていないのでおそろしく予約を取ることが難しいレストランがある。スペインのカタルーニャ地方にある三つ星レストランの「エルエル・ブリ」である。「エルエル・ブリの秘密 世界一予約のとれないレストラン」は、そのレストランを追ったドキュメンタリ映画である。

ぼくはそんな食通でもないし、料理にこだわりとかもないのだが、この映画を見てほんとうに驚く。主役は、レストランそのものというより、オーナーシェフのフェラン・アドリアである。それと彼に率いられたスタッフである。エル・ブリを有名にしたのは、毎年同じものを出さないという創造性豊かな料理である。

どうやって生み出すかは、そのための準備にカギがある。映画は、店から調理用の器具をバルセロナにある料理研究用の厨房に運ばれるシーンから始まる。つまり、その年に出す料理を半年かけて調査・研究するのである。その様子がまたすごい。様々な素材に対していろいろな調理法を試すのである。そのとき、フェランが言うのは、レシピを考えるな、素材の良さだけを見つけろである。そして、おいしさより驚きだという。

さらにびっくりさせられたのは、それらのデータベース化である。おもしろいシーンがあって、スタッフのシェフが実験した結果をPCに記録することになっているが、データを消してしまったときフェランが激怒する。なくしたスタッフは紙に書いてあるし、コピーもとってあるからいいじゃないかと言うのだが、フェランはデータとして保存しておかないとダメだとわめく。

要するにそれだけ膨大なデータを取得して記録することでそこから新しい料理のアイデアを引っ張り出しているのである。紙だと枚数がどんどん増えてきてどうしようもなくなるからだという。それとか、液体窒素を使うとか、料理というものの概念が変わっているのがわかる。料理人の腕でさばくという職人芸ではなく、芸術だという人もいるが、ぼくにはサイエンスあるいはプロジェクト管理だと思えてくる。

そうした実験を経て、多くの新作料理を編み出し、営業を開始する。何しろ1回に30も40もの料理を出すわけだから、寸分のミスもなく作業しなくてはいけないので、掃除をする人からウエターや調理人を訓練する。このあたりを見ていると一大プロジェクトだと思うのである。

普通のプロダクト開発のプロジェクトと同じで、デザイン思考で新しいプロダクトを開発し、それを作り出す、そしてメンバーの役割、スケジュールをきちんと決めて管理する、そんなシーンが描きだされる。例えば、映画では創作と調理はちがうということを強調する。だから、フェランは創作をするが調理はしないのである。

ただ、「エル・ブリ」は2012年、2013年は休業するそうだ。まあ、これだけ創造を続けたら疲れるだろうと思う。料理という世界から、もっとクリエイティブなプロジェクトはどうやるのかといった汎用的な世界を見ることができた。ということで、映画評ではなく料理プロジェクト評になってしまったが、是非ご覧になることを薦める。

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2012年1月22日

話題の映像

あまりテレビを見ないのだが、それでもビビッドなニュースをネットでみることができるのでありがたい。便利な世の中になったものだ。最近話題になった映像について書いておこうと思う。ひとつは、橋下徹大阪市長と山口二郎北海道大学教授とのテレビでの論争と芥川賞を受賞した田中慎弥の記者会見の模様である。

もうかなり話題になったので皆さんご存知で二番煎じになるかもしれませんが、おもしろかったので感想も含めて紹介しておきます。前者のほうは、だいぶ前になってしまうのですが、今月の15日に放送されたテレビ朝日系「報道ステーションSUNDAY」で行われたもので、もうこれは橋下徹の圧勝というか、山口二郎がみじめなくらい徹底的に打ちのめされてしまった。

だって、橋下市長は現状をきちんと分析し、問題の所在がどこにあってそれを改革しなくてはいけないと言っているのに対して山口教授は具体的な事案に反論するのではなくで気分的な言い回しに終始していてかみ合わないのである。学者さんは現実を知らないのにとやかく言うのをやめてくれませんか言われてはなす術もない。

まあ、その論争でおもしろかったのは、山口教授が今のままでも改革はできるというのに対して、仕組み自体を変えないとできないという橋下市長の主張のまっとうさで、何でもそうなのだが、Howばかり論じていっこうに変えられないとなるとWhatを変えない限り無理だということなのだ。サヨク系の先生なのに守旧的な意見でがっくりくる。橋下の意見は当たり前のことなので反論できないのは当然かもしれない。

もうひとつは、これは受賞者の記者会見の態度がひどいという意見とあのくらい尖っていてもいいじゃないかという論争である。確かに、ふてくされた言動は普通には不興を買うのだが、作家であるし、まだ若いし、あのくらいはいいのではないかというのがぼくの感想である。石原慎太郎にかみついているが、石原慎太郎の「太陽の季節」の頃だって、表現は違っているがもっと尖っていただろう。

世の中みな優等生づらしたものが評価されるとか、マスコミの期待像に持ち込もうとするひどい記者会見(恩師のかたとから賛辞が贈られていますがそれに対するコメントをという質問に、それは絶対にウソです。ぼくは嫌われ者でしたからと答えたのには吹いた)とか、こうした既成のレッテルをはがすことも必要なのではないかとふと思ったりした。今後は記者会見の態度がどうのではなく作品で話題になってくださいね、田中さん。
 

2012年1月23日

IT再考-家電化

しばらく「生命を捉えなおす」から考えるというシリーズで書いてきたが、一旦ちょっと休んで別の話題で書いてみようと思う。業務システムの実装ということについて考えてみたい。これまでは要件定義に従ってプログラミングをして作り上げるケースが多かったが徐々にできあがった業務アプリケーションが出てきて、一部はわざわざコードを書かないでもよいということが起こってきた。

このことはすごくよいことで、何がよいかというともちろんプログラミング工程がはぶけるということもあるが、大きいのはシステムの品質が確保されていることだと思う。つまり、製作時のテストも入念にできるし、多くのユーザーに使われることでバグ出しなどの不具合の修正が終わっているから安心して使える。スクラッチで開発したものは、時間に追われることもありテストや手戻りで大変である。

ですから、究極には業務システムをそうした個別アプリを組み合わせて、あるいは機能付加して組み上げて作れるとうれしいのだ。ノンプログラミング開発であるが、プログラミングの自動生成ではなく、むしろプログレスシステム構築と言った方がよい。開発という意味合いより構築である。DevelopmentではなくConstruction とかAssemblingという感じである。

この流れの行き先は業務アプリケーションの家電化だと思うのですがいかがでしょうか。ただし、単純なデバイス的な意味だけではなく幅広くとらえています。例えば、家電というのは、快適な家庭生活を送るために必要に応じて、あるいは経済的な事情も加味して買っていくわけです。そして何よりも自分たちのライフスタイルにあったものを選択していきます。

その時、自分たちのライフスタイルを、そして使いたい家電をコンサルタントを頼んで設計するでしょうか。それと同じように企業経営、事業運営も自分たちで決めてその結果としてのビジネススタイルを実現するための電化製品を買うという風にならないのかと言っているわけです。

ですから、ビジネスにおける洗濯機、掃除機、テレビ、冷蔵庫は何なのかを考えてみたいのです。家具とかインテリアとは違う家電なのです。ある特定の活動を助けてくれるものを家電と呼んでいるのです。例えば、汚れたものを洗うという洗濯機に相当するのがクレーム処理アプリであったりする。

家電化と言っていることで大事なことは何かというと、使える道具、使われる道具から選択するということがある。つまり、家庭で買う家電は使ってみたら不具合があったとか、想像していたものと違ったということはほとんどないから、ムダな費用が発生しない、だいたい期待通りの効果があげられる。

では、今の業務システムはどうなのかと考えると、多くのシステム開発における成果物が実運用にさらされた時に使えないあるいは使ってもらえないという結果になっているという報告がなされている。それは、家庭でいえば、家の中のゴミを取ってくれる道具を作ってくださいと頼んで、何ヶ月か経って掃除機という装置が届いたが、使ってみたら大きなゴミはいいが小さいゴミがとれなかったといったような話なのである。

家庭の世界ではそんなことはあり得ないわけで、企業とか業務システムの世界でも家電のように出来合いのものをさっと持ってきて、取扱説明書もろくに読まなくてもコンセントに差し込む(ダウンロード)とすぐに使えるようになってほしいと思うのである。

クラウドのめざすところはそこではないかと思うのである。そのとき忘れてはいけないのはユーザに使ってもらえるものを作ってそれをクラウドに置いておくということで、従来のようにシステム屋がはいこんなものを作りましたよではダメなので、そこの発想を転換しなくてはいけないのだ。
  

2012年1月24日

日本企業にいま大切なことを見直す(3)

「日本企業に いま大切なこと」(野中郁次郎、遠藤功著 PHP新書)から自分なりに日本企業にいま大切なことを考えるシリーズの第三弾は“傷ついた日本の「暗黙知」と「現場力」“である。本では、前章で遠藤氏が「経験もないのに仮説なんか考えても意味がない。まずは現場に行って何かを感じてきなさい」と日ごろ若い人に言っているという話題から入っていきます。

野中氏も仮説とは身体的経験から生まれるものであって、論理的な分析から仮説を立てる人は、それが現実と合致しなかったとき現実のほうを否定しがちになると戒めています。しかし、ぼくはちょっとした違和感があって、すなわちこの場合の経験とは何かということ、仮説を立てようとしている領域での経験を言っているのかそうでないのかが気になるのである。

もし、対象領域だけで言っているとするとそれは違うのではないかと思う。仮説が経験値に縛られ発想が狭くなる危険があるように思うからである。つまり、誰でも何らかの形で経験を積んできているわけで、それがたとえ異った領域であっても貴重なあるいは有為な経験をしたことが重要であって、それができた人はどこでもよい仮説を立てられると思うのである。むしろ、越境の発想として良い結果を生むだろう。

ちょっと話がそれたが、野中氏はマイケルポーターの5フォースなどのような「科学的」な競争戦略からはイノベーションは生まれないと考える人が出てきたと言っている。そしてイノベーションは平凡な日常からしか生まれないとも言う。すなわち、理論に基づく論理分析で「正解」を導き出す演繹的な手法ではなく、個別の具体的な現実から出発し、間違いを恐れずに新しい理論をうちたてようとする帰納法を薦めています。

多くの発明や発見は、論理的な分析がもたらす形式知から生まれるものではなく、経験から得た深くて多様な暗黙知とビジョン達成の強い思いをもち、新たな関係性を考えぬくことから生まれるという。そこで日本の強さを発揮するべきなのだが、この暗黙知がだんだん失われて行くのを心配している。

ただ、大方は賛成なのだが、世界のソフトウエア業界などを眺めてみると経験から得た深くて多様な暗黙知とはあまり関係がなさそうに思える。むしろ、ぼくは日本人のコンセプト形成力のなさを痛感する。コンセプト形成力というのは演繹的に概念化する能力でそれがないために欧米のソフトウエアの後塵を拝していると思う。

遠藤氏は「現場力」の再強化を訴えている。トヨタのリコール問題を例にグローバル化に伴う品質問題を指摘しています。それを避けるために「体格」ばかり追求するのではなく「体質」で勝負することを心がけるべきだという。確かに、日本の現場力は昨年の大震災でも大いに発揮されたし、現場力が強い企業が結果的に生き残っているように思える。

ただ、同じことの繰り返しになるかもしれないのですが、現場力だけではダメでそれを空回りせずに有効に威力を発揮させるためには、「本部」力とか、科学的、論理的な態度もあってこそ可能なので忘れないでほしいと思うのである。
   

  

2012年1月25日

ブログのリニューアル

このブログも2006年から始めたのでもう5年半も経ちますが、このたびリニューアルしました。リニューアルといっても内容が変わるわけではなく、見栄えを変えたのと関連記事とかソーシャルネット対応とか少し機能を追加しました。

また、このブログではIT関係のものとその他が混在していましたが、分けることにしました。以前もそうしたのですが、徹底できなかったのでwaditのホームページのリニューアルに合わせて(もうすできます)IT関連は、「wadit.blog」のほうに移行します。

ということでこれからもよろしくお願いたします。再出発を記念して(おおげさか)今日の富士山を載せます。裾野の方まですっかり真っ白になっています。

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2012年1月26日

あなたイズム

以前、「「応援したくなる企業」の時代」(アスキー新書)という本を紹介したが、同じ博報堂ブランドデザインというコンサルタント集団が書いた本「あなたイズム」(アスキー新書)を読む。副題が、“ムリなく、自分らしく、でも会社に愛される働き方“となっている。

いまは、社会人の3人に1人が現在の仕事に対して「つまらない」と感じているという。仕事だからつまらなくてもがまんしてやるものだとか、仕事っておもしろくないんだよねといった意識は昔からあったけど少なくとも高度成長期にはこんなに多くはなかった。

そんな感じを持つ要因には二つあるという。ひとつはその人の「適性」や「志向性」が合っていないこと。もうひとつはその人の「スキル」や「才能」が合っていないことがあげられる。個人の「志向性」が合っていなければ、その仕事も職場もつまらないし、「スキル」や「才能」がフィットしなければ、結果が出ず、やはりつまらないからである。

そして、著者は「志向性」と「スキル」が合わさったものが個人の“持ち味”であるという。個人もそうだが、組織にも同じように“持ち味”がある。それを組織の「らしさ」と呼んでいる。この「個人の持ち味」と「組織らしさ」の接点を見つけることが大切だと言っている。個人と組織のらしさの接点にある価値観を行動指針とすれば、自分の持ち味を活かしながら組織の貢献できることになる。

この行動指針を「イズム」と定義している。昔と違って自分の持ち味を前に出せるようになったし、また組織も企業理念などでらしさをだすようになってきたと思うが、現実的な眼で見てしまうと、うまく接点をみつけられたらいいが、もし見つけられなかった時はどうしたらいいのかと考えてしまう。

入る時にイメージしていた会社がいざ入社したら違っていてどうしても合わないなんてケースはよくあるわけで、そうした場合日本の社会で労働市場が硬直化しているから、「イズム」を発揮できる別の会社への転職もままならないという事態が問題なのである。理想論としてはあり得るかもしれないが、実際問題、結婚と同じようにぴったりとはいかないと思うので、そうしたことをやり直す、あるいは修正できる機会を作ることも同時にしていかなくてはいけなのだろう。

本の終わりの方で3人の人と対談をしているのだが、これがおもしろい。明治大学教授の野田稔は元野村総研でコンサルをやっていた経験から、自分のまわりに辺境を作り続けたというのが印象的だ。「変わった人と組む」ことで偶然が起こりそうな状況を計画的に作ることだそうだ。

元早稲田大学ラグビー部の監督の中竹竜二は、ビジョンへの行動指針が自分のスタイルでそれを持てと指導したという話は説得力がある。彼の言うスタイルとは、どんな逆境でもこれだけは譲らないという軸を意味するという。そして、このスタイルが確立している選手をレギュラーにしたという。監督は、うまい、強い選手だけを選ぶわけでななく、個性的なスタイルの集合体としていちばん機能する選手を選ぶのだそうだ。これはよくわかる。

最後は、あの星野リゾートの星野佳路で、旅館やリゾート施設の再建をする場合、総支配人を送り込むそうだが、その総支配人の条件が、3つあって、まず明るくて前向きなこと、2つ目が、コミュニケーション上手なこと、そして3つ目が判断力なのだそうだ。最後の判断というのは正しい判断をすることではなく、材料が揃わなくてもとにかく判断するということだという。このあたりはおもしろいですね。アジリティが大事なのですね。

ということで本で言っていることはある意味当たり前な組織論なのですが、まだまだ日本の企業のなかで実践しているところは少ないように思う。それは、終身雇用や年功序列の弊害が残っているからなのかもしれない。
  

あなたイズム ムリなく、自分らしく、でも会社に愛される働き方 (アスキー新書)
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2012年1月27日

男の伝言板 - 男子厨房に入る

男子たるもの厨房に入るべからずというのはまだぼくらの頭の中に残っている。最近では弁当男子なんて言葉があるように男でも料理をする。共働きの夫婦でお父さんが子供の幼稚園の弁当を作るなんてこととは当たりまえかもしれない。

かくいうわが家の次男坊はいま駒沢公園の近くで一人ぐらしをしているが、どうも自分で料理をしているし、弁当も作っているらしい。行きつけの銀座の「M」のママからうどんやスパゲッティ、あるいはおかずをもらって喜んでいる。さて、ぼくの方はといえば、ヨメサンは他人が自分の台所を使うのを嫌がるせいもあって、家で料理なんぞやったことがない。

ところが、もう20年近く前になるが4年間の単身赴任をした時はちょっとやったことがある。社宅を借りてくれたのだが、いちおう食事は隣接の独身寮で食べられるようになっている。最初は、そこで食べていたのだが、問題は予約をしておかないといけないことで、きちんと帰ってくればいいのだが、だんだん会社を出ると飲み屋に直行なんてことが増えてくるとキャンセルばかりとなる。

そうなると、一回の食事代が倍もすることになりばからしくなって寮で食べるのをやめてしまった。社宅は普通に家族が住むところだからもちろん炊事ができるようになっている。飲み屋に行かない時は(めったにないが)、とりあえず刺身だとか、コロッケだとか、冬は鍋セットだとかすぐに食べられるものを買ってきて済ませていた。しかし、帰郷しない土日なんかは時間がたっぷりあるから料理でもしようかとなる。

そして、持ったこともない包丁や下げたことがない鍋を手にする。その時の得意は“煮物上手“で作るいか大根だった。でも作り過ぎて飽きる。あるとき何を思ったか、ボルシチを作ろうと思い立つ。タマネギ、ニンジン、キャベツ、牛肉、ソーセージなどを買い込みぐつぐつやったのはいいが、ちょっと油断していたら焦げ臭いにおいがするではないか。ものの見事に真っ黒焦げで、それ以来刺身とコロッケに戻ったのであります。

ところが、最近料理をし始めたのである。以前からぼくの母親の家の応接間を事務所代わりに使っていたが、その母親が昨年秋に老人ホームに入ったのでぼくひとりになってしまった。ぼくの食事は朝と夜はヨメさんが用意してくれるのだが、さすがに三食みなというのも可愛そうなので、昼は外食(社長と一緒にというケースも多い)というのがパターンであった。

ところが、台所が自由に使えるのだ。なら自分で作ろうかなと思っていた矢先に、知り合いの工務店の社長から郷里の鹿児島の米だといって5キロの新米をもらったのだ。よし、これからは自炊だと決心してみた。というわけで、ここのところ家にいるときはほとんど自分で作っている。昨日は、アジを買ってきて、塩焼きとなめろうを作り、これまた作り置きの豚汁と野菜いためを食べた。うまかったー。

ここで役に立つのが「COOKPAD」http://cookpad.com/ です。めちゃくちゃレシピが載っているので、好きなように、あるいは手元の材料に合わせて選んでいける。昔だと、料理本を買ってくるか、テレビの料理番組をメモするくらいだったのにずいぶんと便利になったものである。ぼくは、洗いものをするのが苦にならないから(子どもが小さい時やらされたので)、だんだん、凝りだしそうな気配だ。
 

2012年1月28日

ジーン・ワルツ

医師ものの映画も「ジェネラル・ルージュの凱旋」とか「孤高のメス」とかけっこうあるが、「ジーン・ワルツ」は「ジェネラル・ルージュの凱旋」と同じ作者海堂尊の原作になる。監督が大谷健太郎で主演の女医役に菅野美穂、共演は田辺誠一、南果歩、浅丘ルリ子らである。

残念ながら、ジーンとくる映画ではなかった。映画の公式サイトの紹介では、「崩壊の 一路をたどる産科医療に潜む闇に迫るのは、主演・菅野美穂扮する<史上最強の女医>曾根崎理恵。(中略)体制に一人立ち向かう彼女の仕掛ける大胆なる計画。そして、そこに秘められた衝撃の真相が解き明かされるとき、想像を超えるクライマックスが押し寄せる。」とあるが、何が史上最強なのか、大胆なる計画、想像超えるクライマックスと言われてもさっぱりわからない。

ストーリーは、帝華大学病院の医師の曾根崎理恵(菅野美穂)は、非常勤で廃院寸前の小さな産婦人科医院「マリアクリニック」の院長代理を務めていた。この医院の院長の息子が手術のミスで逮捕されてしまうのが冒頭のシーンで出てくる。しかし、それとはあまり関係がなくて、産婦人科医は大変だねということぐらいである。

そこの医院に通うのはそれぞれ事情を抱えた4人の女性たちで、その中にタブー視されている遺伝子技術を用いた代理母出産を行おうとしているのを、同じく帝華大学病院に勤め、教授の地位が約束されたエリート医師・清川吾郎(田辺誠一)が嗅ぎつける。この二人の関係もよくわからない。

それで、2人が医学界を改革するんだ、私は外部から、あなたは内部からだとか言っているんだが、何が問題なのかも提示されていない。そして、クライマックスは台風が襲来した日に何と3人の妊婦が同時に出産なのだ。しかも病気で歩くこともできないので伏せていたマリア医院の院長(浅丘ルリ子)が急に元気が出てきて赤ん坊を取り上げてしまう。

あり得ないでしょう。観てるものをバカにするのもほどほどにしろと言いたくなる。多分原作はベストセラーになったくらいだから、きちんと作られていると思うが、映画はテーマがテーマだけにさばききれないという力不足がありありで全くひどい作品となってしまった。これだけ、酷評するのも珍しいのだがこのできではしょうがない。
  
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2012年1月29日

イノベーションにはITが不可欠

先週のテレ東のカンブリア宮殿でアニコムホールディングスという会社の創業者の小森伸昭さんという方が出ていた。この会社はペット保険という新しいジャンルの保険を開拓して急速に伸びている会社である。社長の小森氏は京都大学経済学部を卒業して東京海上に入ったエリートであるが、31歳で脱サラして会社を起こしたのである。

普通に考えるとずっと居れば将来を約束されていたにもかかわらず、茨の道を選んだわけだが、その理由が「保険会社はただ保険金を払うだけでいいのか、せっかく持っている事故などの情報を生かす方が、付加価値を生めるのではないか」と考えたことにある。

これまでの保険会社というのは、保険金を払っていさえすればいいとしか考えていない、つまり保険加入者である顧客のことなんて知らないでよくて、あわよくばできるだけ保険金を払わないですむことを考えていたわけである。それを、保険に入る人も保険金を払う保険会社も両者が喜ぶウィン-ウィンの関係をつくろうというのだ。

それをまずはペット保険という形で実行したのである。ペットのオーナたちが、健康保険と同じように病院の窓口で保険証を提示すると、診療費も自己負担が1~5割の支払いですむというものだ。そして、もっとすごいものに年に一度出す「家庭動物白書」というのがある。過去の保険金支払いデータを分析して、ペットがかかりやすい病気やケガなどを載せている。要するに「予防」に使ってくれというのだ。これは顧客もペットも動物病院もそして保険屋さんもみんながハッピーになれるのである。

この社長の話を聞いていて、既成のビジネスでも一見成熟して改革の余地なんかないだろうと思うが、そうではなくて思考停止に陥っているだけで、まだまだ改革するところがいっぱいあるのだなと思った。彼も言っているようにいま保険は大きな転換点にきているそうだが、ライフネット生命保険の岩瀬大輔さんもそうだが、こうした優秀な若者が硬直したビジネスモデルを破壊していくのだろう。その時の視点がただ物を売ろうというだけでないからいいのだ。

もうひとつ強調したいのは、小森さんも岩瀬さんもITを駆使していることである。もっと言えば、ITがなければ彼らのビジネスモデルは成立していないかもしれないということだ。だから、さっき言ったようにITがなかった時代のモデルで思考停止になっているのをITを使って変えていくのだと考えることによって、彼らのような若者がITを生かす革新的なモデルを創出する時代になった。

ライフネット生命保険は、保険の売買を保険屋のおばちゃんの手からインターネットへ変えていく仕組みが肝だし、アニコムは従来は契約者が一旦治療費を全額支払い、後で請求して払い戻していたのを病院が一括して請求する仕組みに変え、さらに病院の電子カルテと連動する保険請求システムを開発してしまったのだ。また、言ったように膨大な実績データの解析もオープンにしている。

こうした30代40代の若い経営者がだれも当たり前のようにITを利活用している動きを見ているとIT経営なんて言わずもがなという感じになる。もうすぐ彼らが主流になってくるわけだから、今のように経営者がITを知らなくてとか意識が低くてなんて言っていられなくなって、逆にもっと彼らの要求に答えられるように進化させなくてはいけないようになるのではないでしょうか。

ただ、くれぐれも間違えてはいけないのが、ちゃんとした革新的なビジネスモデルを作ったからITが生きるのであって、ITを使えば革新的なビジネスモデルができるわけではないのでここは気をつけましょう。

2012年1月31日

街場の小経済学その18

ぼくが住んでいるところの近くに辻堂という街がある。ぼくの母親の生まれた土地で小さい時によく遊びに行った。この間もばあちゃんを連れて実家に行ってきた。そんな街が一変している。JR辻堂駅の北口というと昔は何もないところで、ほとんどの人は南口から海の方に移動する。

そんなところに昨年秋「テラスモール 湘南」というのがオープンした。何しろ広いし多くの店舗が入っている。ショップのカテゴリーとしては、ファッション、ファッション雑貨、ライフスタイル・雑貨、ドラッグ&コスメ、グルメ&フード、サービス・カルチャー・その他という風になっていて、全部で281店舗があるのだそうだ。

109シネマズ湘南も入っているので、ちょっと前に映画を観に行った。休みの日だったので大勢の人がいてびっくりした。ぼくは映画以外はほとんど興味がないのだが、食事をしなくてはいけないので物色して、3階に潮風キッチンというの名の湘南地域の選りすぐり銘店を集めたというフードコートに行った。入口で人が並んでいる。どこかと思えば「しらす問屋とびっちょ」である。江の島の店もいつも行列しているが、ここでも人気だ。

ぼくはしらすなら、江の島の「きむら」に行くので、他をあたると「野の実」というラーメン屋があるではないか。知らなかったのだが、この店はあの有名な佐野実が出した店で、そう言われると、店の名前もうなづける。そこで850円の塩ラーメンを食べてとりあえず満足する。

ここで食べ物の話をしようと言うことではなく、こうしたショッピングモールの乱立についてである。実は「テラスモール 湘南」のすぐ近くに同じようなモールが2つもあるのだ。「湘南モール FILL」と「MrMax 湘南藤沢ショッピングセンター」である。しかもこの二つは隣接している。

FILLとMrMaxができた時は驚いた。ホント道路一本隔てただけで全く隣合わせである。意図的にやったとは思えないので偶然そうなったのだろうか。お客さんの取り合いになるのではと思うのだが、それとも集客ができるから効果的だったのだろうか。何と昨年末には両店の2階を結ぶ連絡路ができたそうな。テラスモールに対抗するための呉越同舟っていうことのようだ。

それにしても、たかだか1.5Kmくらいのところに3軒の大型ショッピングモールがあるとはどういうことだ。まさか、東京や横浜殻のお客さんをねらっているわけではないだろう。確かに客層やショップの性格も若干ちがうので棲み分けはあるにしても3つは多いでしょう。さて、どうなることやら。
  

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