中学校の時に大きな影響を受けたのは、2、3年の担任だったM先生だ。女の国語の先生で、バスケット部の顧問だった。何というか、凛とした感じで男っぽくもあった先生らしい先生であった。だからぼくはいつも先生の前ではシャキっとしたものだ。
ただ、ぼくは通うのに時間がかかったので(これは言い訳)、遅刻の常習犯であった。ホームルームがあるときはいつもM先生がこそっと教室に入るぼくをにらみつける。そして怒られるのだがこれがなかなか改まらない。その時だけシャキッとするのだが、またもどるので先生も呆れたと思う。
先生に教えられたことで、印象に残っているのは、自主性ということだ。自分の頭で考え、自分の思うように行動しなさいというようなことを、別段はっきりと言われたわけではないが、そう仕向けてくれた。例えば、体育祭などの行事にしても、みな生徒が全部自主的にやった。自ずと役割が決まり、それぞれがその役割をはたすべく動き、それを周りがサポートするということを知らず知らずにやらされていた。
M先生もぼくが卒業するとすぐに同じ中学のサッカー部の顧問でぼくを教えてくれたH先生と結婚してしまった。これにも驚いたが、ぼくらがキューピットみたいなところもあって、一度新婚のお宅へお邪魔した。たぶん、その時はカレーは出なかったと思う。
ぼくはサッカーを中学3年から始めた。家が遠いこともあって、部活は難しかったが、同級のS君が2軍の試合でメンバーが足りないから来てくれと言われて参加したら、それから部員になってしまった。それで、高校進学したら、サッカー部から誘いがきたのである。今の高校ではみな中学でサッカー経験がある子ばかりだろうが、当時はあまりいなくて、同期でも中途半端なぼくを入れてたったの3人であった。
で次に高校時代の先生はサッカー部の顧問だったS先生である。ぼくらの高校は文武両道が伝統ではあったが、サッカー部はけっこう強かったので、練習もきつく武の方に偏った生活であった。だから、S先生とはいつも指導を受けるという濃い毎日を送ったのである。
先生は、ぼくらが入学したとき30歳になったくらいだったので、ぼくらと一緒にグランドを走り回り、それは元気でした。教育大(今の筑波大)の名選手だったキャリアだから、いろいろなことを教わった。サッカーに関しては、素人のような生徒で、経験者ばかりの他のサッカーの強い学校に勝つにはどうしたらいいのかをよく研究されていた。
そこは、文武両道だから頭を使えということにつきる。力と力の勝負では勝てないから、個よりも組織、技術よりもひたむきさ、足の速さよりも判断の速さといったような自分たちの実情にあった戦い方を模索したのである。その最も効果を発揮したのが、4-2-4フォーメーションの採択である。
当時はWMというフォーメーションが主流、というかこれしかなかったのだが、それを変えてしまったのだ。先生はヨーロッパサッカーの情報もちゃんと収集していたので、そこから得たのである。このフォーメーション変更が、ものの見事に決まったのが1966年の関東大会であった。何と予想もしていなかった優勝を成し遂げてしまった。
4-2-4とWMがぶつかるとどうなるのか、簡単に言うと相手のバックスはツートップをセンターハーフ一人で抑えなくてはいけなくなり、また相手センターフォワードはストッパーにマンツーマンで付かれ、それを振り切ったと思ったらスイーパーがいたということになるわけで、もう混乱するのである。当時は、センターハーフとセンターフォワードくらいしかすごい選手がいなかったからなおさらだ。
いまや、4-2-4というか4-2-3-1といった変形の方が多いかもしれないが、主流となったフォーメーションを45年も前にやっていたことに驚く。そんなわけで、S先生からは、頭を使い、知恵を出し、やるべきことができたらそれに真剣に立ち向かい全力を尽くすことを教わったのである。今も会うと昔と同じように指導してもらっている。
さて、最後は大学なのだが、正直言ってまじめな大学生ではなかったので師と仰ぐ先生はと問われると首をかしげてしまうのであるが、卒業論文を指導して下さったO先生である。もう亡くなられたのですが、当時ももうけっこうなお歳でべらんめー調のしゃべり方で恐いというイメージでした。
ぼくがなぜその先生の研究室に入ったかというと、3年生の時のO先生の授業でひどく怒られたことがきっかけである。ぼくはさっき言ったようになまくら学生だったから、その授業のときも雀荘にいるパターンが多かったが、あるとき友だちが雀荘に来てお前何やってんだよ、いまテストがあったんだぞと言ってきた。ありゃー、こりゃあまいったである。
そして、次の授業のとき先生は、成績の悪い奴を名指しし立たせたのである。もちろんぼくの名前も呼ばれ、もうこいつらは落第だと脅された。ところが、あとで成績表をみるとぎりぎりセーフではないか。というわけでとても簡単な理由で先生の部屋にいったのである。それから、ぼくが改心してまじめな学生になったかというと相変わらずひどい生活は変わることはなかった。しかし、そんなぼくをきつい言葉で叱り飛ばされながらもいつも目の奥で微笑んでくれたのである。この包むような暖かさを教えてもらったような気がする。