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2011年9月 アーカイブ

2011年9月 1日

IT再考-WhatがHowに優先する

先頃のエントリーで「BPM交流会」のことを書いた。その中で、ぼくの行った講演のポイントの初めのところに“WhatがHowに優先する”ということを指摘したので、もう少し詳しく説明しようと思う。大変に大事なことだと思うからである。

Whatというのは、ビジネス要求を実現するための仕組みと仕掛けをどんなものにするのかである。それをどうやって作るかはHowであるが、まずは仕組みと仕掛けを設計しておくことが先決であると言っている。そんなことは当たり前だと思われるかもしれませんが、意外といいかげんになっていて、Howを優先しがちになっているのが現状ではないでしょうか。

どうしてこうしたことが起きるのでしょうか。ぼくは次のような3点があるように思っている。そのひとつが、システム化することはITを使うことだと勘違いしていることがある。ビジネス要求を実現するためには、システム化することは重要である。つまり、システムとして対応するのが会社としてのビジネス活動であるわけです。

ただし、ここでいうシステム化というのは何もITを使わなければいけないということではなく、ITがなくても仕組みと仕掛けはできるのです。仕事のどうやるのか、業務をどうやって進めていくのかといったことを定義するわけだから、最初はITを意識することはないのである。それをITばかり、すなわちHowばかりを頭に浮かべてしまうのである。

次に、ソフトウエアとかパッケージの中にWhatがあると思いこんでしまう人が多いということである。従って、そうしたソフトウエアやパッケージを入れさえすればWhatができてしまうと勘違いするのである。自分の力でソフトウエアやパッケージを導入したことがある人なら、どこにWhatがあるのだと思うだろう。

3つ目は、Whatを考えるのがシステム屋さんだということである。だからといってシステム屋さんが悪いと言っているのではなく、システム屋さんにまかせているビジネス側のスタンスがいけないと言っているのだ。

システム屋さんが、ビジネス要求を実現するための仕組みと仕掛けをどうするかと考えたとき、おそらくは、こえは要件定義の問題だと受け取るだろう。機能要求は何で非機能要求はこれだなんて発想になる。つまり、要求を定義してその通りにプログラム仕様書を起こしてコーディングをするというアプローチになる。

結局、コンピュータでやらせるにはという発想がしみ込んでいるから、案外手作業でやった方がいいことを無理やりIT化して、そこで多くの例外処理を作ったり、分岐・差し戻しの嵐になったりする。実は、実業務ではユーザは恣意的だし、例外はしょっちゅうあるのだから、決まりきったフローしか動かないITはやめた方がいいかもしれないのだ。

最初に戻ると、既成概念にしばられるとどうしてもHowを重視してしまうし、所詮最後はツールを使うんだから、そこから考えたっていいじゃないかとなったりする。そうした惰性に負けないよう、“WhatはHowに優先する”という大事なことは守りたいものである。



2011年9月 2日

IT再考-魅力的なWhatを提供できているのか?

前回、“WhatはHowに優先する”ということを強く訴えた。ということは別な言い方をすると、システム側としてユーザが欲しがるようなWhatを提示できていないことを意味していているとも言える。だから、Howで勝負しようとする。どんなものが欲しいですかとユーザに聞いて、そのとおりうまく作ってやりますよというのが売りになる。

そして、作ったはいいがあまり使われないと、あなたたちがちゃんとどんなもにしたらいいか言ってくれないからこうなったと言い張るのである。そこには表面上はそうは見えないのだが、奥底にはルサンチマンの響きがあるよう感じてしまう。つまり、自分たちは弱者で強者であるユーザを恨むようにも思えるのだ。

システム屋として一生懸命説明してもなかなかユーザに分かってもらえないという嘆き節もよく聞こえるのであるが、ほんとうにユーザがわかるものを提示しているのだろうか。もちろん中には適当な要求であとはまかせたとか、その反対に本質的なことは忘れて枝葉末節のことばかり言うといったユーザもいるが、実際のところ、ユーザが思わず「君が言っているそんなものが欲しかったんだよ」とか「それはなかなか面白そうだね」と言うような提案をしているのだろうか。

もしできていないとすると、魅力的なWhatを提供できていないということになる。普通、商品やサービスという商材を買ってもらおうとするとき、その商材の魅力を目いっぱい訴えて買ってもらうのだが、業務システム開発は何を訴えているのだろうか。Howばかりをを強調しているのだろうか。

ところが、このHowを売りにするというのもビジネスモデル上矛盾したことになっていて、どういうことかというと、優れたHowは結局のところ低開発コストをもたらすから、売り上げを落とすことになるのである。だから、皮肉な言いをすると冒頭のようにユーザが仕様をあいまいにしていてくれた方がいいのである。

このことは、Whatを議論できる人が少ないことからも推察できる。業務システムあるいはBPMのWhatを突っ込んで考えている人があまりにも少ない。既成のものを無条件に肯定してしまっていて、それをどう作るかというHowばかり議論している。さもなければ、超上流のところとか、目的や効果といったWhyを一生懸命やるひとも多い。

例えば、よくある議論にBPMはなぜ普及しないのかというのがあって、ぼくも加わったりするのだが、いまいちむなしくなることがある。どうしたらユーザに使ってもらえるのだろうかという設問がなされて、やれトップに理解がない、情シス部門がやる気がない、いい事例がないからこれを何とかしなくてはといった答えが返ってくる。

でも、何か変だと感じるのはぼくだけだろうか。自分たちの力のなさを棚にあげて、買い手の非難をしているように思える。ビル・ゲイツがスティーブ・ジョブスがラリー・ページがマイク・ザッカーバーグがそんな根性だっただろうか。

彼らは、おれの作ったこんな素晴らしいものを使わない手はないぜと主張したのである。つまり、魅力にあふれたWhatの提案を続けたから今の成功がある。コンシューマプロダクトと業務システムは違うという反論があるかもしれないが、ほんとうにそうだろうか。

2011年9月 3日

IT再考-Whatはオペレーションから発想する

WhatはHowに優先するのだから、初めにWhatを固めておく必要がある。その時の思考アプローチとして守らなくていけないことは、オペレーションから発想するということである。なぜなら、Whatは使われてナンボ、ビジネスの役に立ってこそ存在価値があるからである。

これは自明であるかごとく思われるが意外と分かっていないというのがぼくの実感である。つまりそこまで考えないでシステムを作っていることが多いのである。使われようが使われまいが、あるいは役に立とうがそうでなくともどうでもよいから、ひたすら要件定義に従って作るだけなのである。

視点を変えて業務オペレーションからWhatを考えるとどうなるか。当たり前だが、仕事がうまくできる、業務を円滑進める、ビジネス成果をあげるためにどんな“What”が必要なのかと考えることである。これまでは逆にこのパッケージあるいはこの業務システムを使うと、こんなオペレーションになりますという発想のような気がする。

ですから、ITありき、コンピュータシステムありきで見るわけです。これって、どう考えてもおかしいと思いませんか。一旦白紙で考えてみてください。そうすると気がつくのは、業務オペレーションって、別にITを導入したときに初めて行うわけではありません、ビジネスが行われた時点、事業を開始した時点で業務オペレーションも始まるわけです。

これも当たり前の話ですが、業務オペレーションをしなくては事業運営がままにならないからです。ITがなければ、電話や黒板や立ち話で行っているのです。こうみていくとオペレーションから発想していけば、使われない、役に立たないシステムはできようがないのです。そもそも、こんな風に使いたいから、それができるものを作ってよねとなるわけです。

このことは、特別なことではなく、コンシューマプロダクトを作っている人はみな知っていることなのです。スティーブ・ジョブスはこんなことを言っています。「僕にとってのコンピュータは、人間が考えついた最も素晴らしい道具なんだ。それは知性にとっての自転車に相当するものだ」。ここで、自動車ではなく自転車であると言ってところがポイントで、要するに自分のスタイルを貫くために自分の力で自在に操れるものであると言っているのだと思う。

また、スタンフォード大学のテリー・ウィノグラード教授は、「人間を代行するコンピュータから人間の道具としてのコンピュータへ」と提唱しています。彼はGoogleのCEOのラリー・ペイジの先生だったのですが、かつては人工知能(AI)の第一人者だったのです。つまり、AIで人間の代わりをめざしたのですが、人間の営みはもっとあいまいで複雑だということに気がつきAIの限界を悟ったのです。

いま紹介した二人に共通しているのは、あくまで人間主体で考えるべきであり、コンピュータはしょせん道具であるという認識である。これは、エンタープライズのシステムにも適用すべき考え方だとぼくは思う。業務オペレーションから発想すると帰結するところはここなのである。



2011年9月 4日

IT再考-営業のこと

このシリーズを「IT再考」というタイトルにしたのは、明らかにシステム屋さんはITをベースに思考するので、ちょっと待てくれ、一旦そこから離れて考えてみたらという気持ちを込めているからである。だから、HowではなくWhatだぞとか、オペレーションなんだぞというメッセージを送っている。

ところで、今から、更に離れてしまうようなことを書く。先日テレビ東京の「カンブリア宮殿」を見ていたら、登山家の栗城史多が出ていた。今年もエベレストに挑戦するという。自分の登る姿をインターネットで動画配信してしまうという今時の若者でもあるが、ぼくがこの番組を見ていてすごくおもしろかったことがあった。それは優秀な登山家ということもさることながら村上龍も言っていたようにすばらしい営業マンであるということだ。

何しろ、この登山プロジェクトで費用が何と7200万円かかるのだそうだ。中継用の機材と人件費がその3分の1くらいだという。ただ登だけなら確か800万くらいで済むらしい。そうなると、この資金をどう集めるかが山に登るより難しい。スポンサーになってくれる企業、人を探しに奔走するのだ。アポなしの飛び込み営業もするのだという。

狙いは社長で、決定権のある人にダイレクトに行くのである。そこで断られても友だちを紹介してくれというのだそうだ。社長の友だちは社長だからである。そこで、スポンサーを獲得できるのはなぜなのか。それは、彼には明確な目標があるからである。挑戦するべき具体的目標を相手にぶつけるからである。この話をしたとき、いみじくも村上龍が「自動車は売れないですものね」と言った。

よく、営業のプロを自称するひとがいて、おれの手にかかればどんなものでも売ってあげるという手合がいるが、それは消費者をだましているに等しい。手段で何とかなるという営業テクニックを強調する本なんかもあるが、どうも変だと思うのはぼくだけだろうか。

営業の真髄は、買ってもらいたいものが明確にあって、それに命を賭けているぐらい惚れこんでこそ買ってもらえるということだ。そこで前々回の「魅力的なWhatを提供できているのか?」というエントリーを思い出してほしい。このことである。ITの世界の営業ははたして、自分が本当に売りたい、こんないいものだから使ってほしいと思って営業をしているのだろうか。ITだけではなく、他の商品でも同様であるが、成功している会社は自分が売っている商品に惚れている売り子がいっぱいいる会社だと思う。

翻って、例えばERPにしても、BPMにしてもクラウドにしても、売り込んでいるほうが本当にその良さをわかっているのか、魅力を感じているのか、それを訴えられるのか、もっと言えば自分が使いこなせるのか、そんな問いかけをしてみたらいかがでしょうか。BPMというなら、自分たちの営業プロセスを書くことからやってみらいいと思うのである。プロセスを書けないBPMの営業では困るのである。だいぶ脱線してしまって、ITから離れすぎたかもしれないが、最近大変気になっているところである。


2011年9月10日

クラウド考

(1) クラウドとは何か?

カジュアルBPMの連載が終わったので少しBPMから離れたIT関連記事を書いてみようと思う。テーマを何にしようかなと思案したが、最近やはりよく耳にする、目にする言葉がクラウドなのでそれについて考えてみることにする。

ここでクラウドについて詳しく解説してどうのこうの言うつもりもないしできないので、ひょっとすると間違った解釈をするかもしれない。だからといって、世の中でこれだといった決まった定義もあるようでなさそうなので、ある程度勝手に言ってもいいだろう。

とりあえず、@ITの定義から、「クラウド」とはどんなことかを探ってみます。

インターネット上にグローバルに拡散したコンピューティングリソースを使って、ユーザーに情報サービスやアプリケーションサービスを提供するという、コンピュータ構成・利用に関するコンセプトのこと。

なるほど、こういうことならすぐに言いたくなるがインターネットができたときからやっていることなのではないだろうか。そういうと、続きの解説にはこう書いてあった。

従来のコンピュータ・ネットワークにおいて、ネットワークは単にデータやメッセージが通過する経路であり、エンドノードである個々のコンピュータこそが計算や情報処理を行う主体であった。これに対してクラウドコンピューティングでは複数のコンピュータがグリッドや仮想化の技術で抽象化され、ネットワークで接続されたコンピュータ群が巨大な1つのコンピュータになるという、パラダイムシフトの意味が込められている。

なるほど、なるほど、仮想化された複数のコンピュータ群が有機的に連携されることが違うのか。でもこれは情報の供給側の形態であって、情報の需要側であるユーザーには関係ないことなのではないだろうか。そういえば使い方についてこう書いてある。

インターネットやTCP/IPネットワークは、しばしばクラウド(cloud= 雲)と表現される。ここから、インターネット上の“どこか”にあるハードウェアリソース、ソフトウェアリソース、データリソースをユーザーがその所在や内部構造を意識することなく利用できる環境、ないしその利用スタイルを「クラウドコンピューティング」という。

なるほど、なるほど、なるほど、これだと複数のコンピュータが連携してなんて、ユーザーにとってはどうでもいいことだと言っているわけです。すなわち、サービスを作って供給する側、つまりそれでビジネスをしようとしている人たちにとって大きなインパクトがあるパラダイムシフトであるだけなのである。

このことはWeb2.0という言葉が出てきたのと似たような話で、さもすごい変化があると煽って儲けようというプロパガンダなのであろう。ただこれでは何か味気ない結論で先に進まなくなってしまうので、次回からはもう少し詳細に見ていくことにする。

(2) クラウドのサービス

まずは、クラウドから提供されるサービスを考えてみましょう。このとき切り込み方として形態と構成要素という見方で分けるのがよさそうだ。構成では、パブリッククラウド、プライベートクラウドに分けられる。パブリッククラウドというのは不特定多数を対象とするが、プライベートクラウドは、同一企業やグループ内で提供されるものをいう。

一方、構成要素で見て行くと、○aaSという言葉を浮かべればいい。すなわち、HaaS、IaaS、PaaS、SaaSで、HはHardware、IはInfrastructure、PはPlatform、SはSoftwareである。HaaS、IaaS、PaaSは似たり寄ったりのところがあって、ハードウエアやネットワークまでだとHaaSで、さらにOSやストレージ、一部ミドルウエアなどまではIaaSで、更にアプリケーションの稼働環境までを提供するPaaSという具合に発展系の呼び名である。

ということは、ユーザが必要に応じてハードウエアからプラットフォームやソフトウエアまでのサービスをパブリックな環境あるいはいくぶん閉じたプライベート環境を通して獲得するということがクラウドのサービスといえそうだ。

次に、その特徴をみてみよう。クラウドだからインターネット上にサービスがあるということは確かだが、それ以外何のだろうか。前回に書いたように技術的な特徴があるのはわかるが、サービスという面で捉えるとサービスそのものに特徴があるというより、それが組合せることができるとか、すぐに簡単に使えるとか、そういったことのように思う。

つまり、サービス提供のし方だとか、パフォーマンスが発揮できる環境を作る基盤技術に特徴があるのでないだろうか。このことは、クラウド先進企業であるグーグル、アマゾン、マイクロソフトなどをみたらわかると思うが、大量のデータを早く処理するために膨大なサーバーを統括的に運用する技術だとか、スケールアウトが簡単にできるとかを売りにしている。

うちの会社でも、クラウドコンピューティングの恩恵にあずかっている。自宅に何台かのサーバーを持っているが、ウェブのサービスをどこで動かすかの最適化を考えている。例えば開発は自宅でやってサービスインするときはアマゾンのEC2にするとか、データが増えて着たらS3に移すとかいったことをしょっちゅうやっている。

この震災の時に立ち上げた「Anpiレポート」も海外のVPSサービスのLINODEを使って素早く立ち上げた。ほんと数十分で稼働させられるという驚きである。また、非常に助かるのは、安価にそして容易にスケールアウトできることで、しかも時間オーダーでやめたりできるというすごいフレキシビリティである。

どうも、このスケーラビリティが、エンドユーザまではいかないサービスプロバイダーにとっての大きなメリットであるような気がする。エンドユーザはこうした頻繁のスケールアウト要請はないのでメリット性は薄い。これが前回ユーザにとってあまり関係がないことだと言ったことである。

(3) 従来のものと何が違うのか

前回はクラウドのサービスにはどんなものがあるのかをみていき、その特徴について考えてみました。パブリッククラウドとプライベートクラウド、そしてSaaSやPaaSなどのサービスがありました。特徴としては、ユーザが必要に応じてサービスの組み合わせができることやスケールアップダウンが容易にできることなどを見てきました。

今回は、そうしたコンセプトがクラウドだから突然出てきたわけではなく、昔から考えられたことであるというのを振り返ってみます。似たようなものに、ASP(Application Service Provider)、ISP(Internet Service Provider)やアウトソーシング、データセンターなどがありますが、私自身がもう十数年前に指向した企業システムの構造化を紹介することがひとつの答えになると思います。

企業情報システムは1980年代にはメインフレームが主流で業務アプリケーションは全部その中で稼働し、高価な端末が置かれてそこで処理されていた。そして、そのメインフレームは自社内に設置され、そこにオペレーターを配置し運用されていました。主要な遠隔地には高速デジタル回線が引かれそこからデータの登録や帳票の出力がばなされていました。

その後、PCの導入でクライアントサーバー型のコンピューティングシステムが登場し、またインターネットが使えるようになり、集中型から分散型へと変化していきました。2000年代になると、そうした技術が成熟してきて、様々なコンセプトが提示されるようになりました。Webサービスなんて言葉も出てきましたし、RDB、プログラム言語、パッケージなど新しい技術が出てきました。

そんな状況で企業システムをどんな構造にするのがいいのかが問われてきました。また、連結経営の重要性だとか、グローバル化という流れもあり、企業も単体ではなくグループとして見て行かなくてはいけない環境になったわけです。

そこで、要請されたのは、ひとつのメインフレームにロックインされたものから、マルチベンダー化あるいは多様化された技術の採用、分散処理化といった統合システム、そして標準化、共通化したアプリケーションを使いまわすこと、インターネットの利活用といったことです。

そのために構想したのが、グループ会社向けASPでした。つまり、親会社の持つ業務アプリケーションと同じものをネットワークを介してグループ会社で使ってもらおうというものです。ですからグループ会社は、PCだけあればいいし、システム運用要員も不要というわけです。

さらに親会社では、メインフレームをベンダーのデータセンターへアウトソーシングしました。東京のビルの地下にあったハードを全部撤去して、データセンターにある新鋭のマシンに載せ替えました。これでPCだけで基幹システムを使えますし、オペレーターはいらなくなり、スペースも返すことができたのである。

これって精神はクラウドですよね。しかも親子でクラウドです。ハードウエアからソフトウエアまでのサービスをプライベートネットワーク(IP-VPN)の環境でユーザに提供することに何ら変わらないと思うのですがいかがでしょうか。

(4) クラウドでしかできないことは何か?

前回、クラウドと言いながらも昔にやっていたこととその精神においてはかわらないではないかという指摘をした。しかしながら、やろうとしたことは同じでもやれていたかどうかは別の話である。そこを考える時に大事なのは、サービスそのものは変わったのか、その提供のし方が変わったのかである。

前々回にクラウドのサービスで形態と構成要素という切り口で見たが、その見方で分析すると、パブリッククラウドとプライベートクラウドでは、後者のプライベートクラウドは本来のクラウドとは違うように思う。これだと、昔の企業内ネットワーク(VPN)やベンダーのデータセンターと何ら変わりないのではないでしょうか。クラウドはパブリックでなければ意味がないと思う。不特定多数のサービスの良さを享受することが重要だろう。

次に構成要素だが、クラウドになったからといって、ネットワーク、ハードウエア、OS、ミドルウエア、アプリケーションがクラウド用に従来と違ったものになったのだろうか。確かに、分散コンピューティング技術や仮想化技術がなければできないという意味で基盤技術上の進展はあったが、それは大きな変化なのだろうか。変化をもたらす要因ではあるがそのものが変化ではないと思う。

別の角度からみてみると、費用やコストあるいは運用とか人的リソースの問題があるかもしれない。システム開発をしなくていいし、買ってこなくていいということでいえば一時的な費用から従量料金的な費用になることはその通りであるが、これとてリースで買えばあまり変わらないのではないだろうか。

大きなコストダウンが見込まれるのだろうか。規模の経済学が働く可能性があるが、デメリットもあるのでどうなのだろうか。運用の問題では、ハードウエアやインフラのお守が無くなるから、そうした人材がいらなくなるという面があるが、アプリケーションの運用はどうなるのだろうか。

けっこう悩ましいことは、クラウド化によって情報システム部門の業務が変化するということだ。こうした変化はある。つまり、情報システム部門は現状でかなりシステム運用にリソースを割いていますが、それがなくなるわけだから、別の機能を持たせるように役割を変える必要が出てくるのである。

理想的には、システム運用から本来果たすべき役割である事業とITの橋渡しをすべく変貌するというのがあるが、そう簡単にはいかない。なぜなら要求スキルが全く違うからである。ただ、早晩そうしたシフトは必ずやってくるのでそれに備えた方がいい。

結局、クラウドでなければできないことは何だろうかと考えたとき、サービスそのものが新たに出現するのではなく、その提供のし方、つまりその機能的な側面と性能に現れてくるのではないだろうか。必要なサービスを多くの候補から選べるようになり、それぞれを組み合わせることができるようになったとか、大量の処理が可能になったとか、早くなったとかといったことである。

そして、それを突き詰めていくとコストに集約される。すなわち、クラウドはコストダウンをめざしたソリューションなのである。言い換えれば、いろいろな角度からその費用対効果を吟味して、見合うようならそのサービスを買ってくるという態度が大切なのだろう。

(5) クラウドと業務システム

ここからは業務システムについて考えていく。最初にクラウドはサービス供給側の変化を強調したが、使う側それもエンドユーザにとってのクラウドということになる。つまり、クラウドコンピューティングによってもたらされるサービスを使うことでどんないいことがあって、今までと何が変わってくるのかといった論点になる。

まず初めに言いたいひどい間違いは、エンドユーザの人が、“これからうちの会社でクラウドコンピューティングを導入します”なんて言うことである。クラウドを入れることが目的化するのである。何のためにクラウドを使うのか、クラウドにあるどういったサービスがいいのでそれを使いたいのかをしっかりと見極めないと本末転倒である。

クラウドになって、素晴らしい業務システム、まあ業務アプリケーションでもいいが、出てきたのだろうか。クラウドでしかできないものが登場したのだろうか。もし、既存のものをクラウド上に乗せただけだとしたら、それを使う意味は何なのだろうか。それは前回指摘したように導入コストとか運用コストで選択されるだけである。

もし、業務システムをクラウドにするとしたら、それが使い回しできるものでないと意味がない。ということは、標準化、共通化できるものが対象であろう。それに対して共通化できない差別化されたもの、あるいは競争優位点を持ったものなどはむしろクラウド化しない方がいいのではないだろうか。

業務システムの議論で陥りやすい誤りは、手段の話ばかりに終始してしまうことで、新規の技術やアーキテクチャはどんどん出てくるが、それらはみな手段のことばかりである。ただ、クラウドというのは、従来のシステムを作るため手段から、使うための手段に変化してきていることは評価できると思う。

しかしながら、使うにしても使うものがよりいいものに変わったのであろうか。使い方の前に使うものの構造だとか機能だとかを進化させていかなくてはいけないのに、それができていないように思う。だから、クラウドにあるものを使ったところで、役に立たない、事業に貢献できないシステムを生み出すことには変わりない事態になるのである。ただ、すぐにやめられるというメリットはあるが。

結局、業務システムという捉え方をすると、クラウドの影響は少ないと言わざるを得ない。ちょっとした情報系のシステムや個人の生産性向上ツールなんては、クラウドが有効かもしれないが、企業のコアの業務への適用は難しい。それは、繰り返すが、他の会社と同じ仕組みにして競争するなんてことはナンセンスだからであり、固有の仕組みは固有のインフラ、プラットフォームでいいと思うからである。

(6) クラウド化するための要件とサービス

前回、前々回で企業のコアな業務システムはクラウド化には向いていないという指摘をした。ただだからといって、全く無関係というわけではなく、実は大いに関係してくる面もある。業務システムにとっては、そこで必要になるサービスを取得する場所でもあるということである。

何回も言っていることだが、クラウドを目的化してはいけないということ、クラウドを入れることで何でもできてしまうという誤解をしないことの裏返しとして、あくまで主体は業務システム側にあって、そこがクラウドにあるサービスを使いたかったら使えばいいだけの話なのである。

昔、クライアントサーバーなんて言われたこともあり、今ならSOAかもしれないが、要するにサービスという概念を正しく理解して、誰が何のためにどんなサービスを使うかを定義することが大事なのである。サービスの欲しがり手(クライアント)とサービスの出し手(サーバー)のリレーションシップである。

そして、必要なサービスをそれがあるところから持ってくるという授受を適正に行うのが業務システムの重要な機能なのである。業務システムは、そのオペレーションのために様々なサービスを依頼して、提供してもらうことを行う。ただ、それが当然のようにみなクラウドにある必要がなく、キャビネットの中でも人の頭の中でもいいのです。

ですから、必要なサービスがクラウドにあったらそれを使うというだけのことです。その時、クラウドでしかできないサービスは何かということで、4回目に議論したことである。そこをもう一度整理すると、クラウド以外の他のところでは、機能として持っていないのか、機能として持っているが性能がでない、機能・性能はあるがコストが見合わないのかをみて、どの理由でクラウドを使うのかという選択となろう。

最初の機能のところはそうでもないだろうが、あとの二つの威力はすごいと思う。簡単な例で言うと、顧客から引き合いとか問い合わせがあった時に初めてのお客さんだとどこにあるのかがわからないからその場所を知ろうとするなんてことは必ずといっていいほどあります。

昔はどうしていたかというと書棚から地図を引っ張り出して、ページをめくって見つけ出し、そのページをコピーします。ところが今はどうでしょうか。Googleで検索して終わりですよね。同じように、その会社の概要を知りたい時は、それこそ会社四季報をまためくりながら、または帝国データバンクの情報を見るわけですが、今ならウエブサイトを見れば一発でわかります。

このように、クラウド上にある情報は格段に早く、安価に手に入れることができるようになりました。ですから、クラウド時代では情報を使う側の要求レベルが非常に重要になってきます。クラウド上にいっぱいサービスがあるから、それを使えばいいという単純なことではなく、自分たちの業務システムで必要なサービスは何か、そのために使う情報は何かを設計できるスキルとそれはどこにあるのかを見つけ出すスキルが要求されてくるでしょう。

(7) 最後に

今回でシリーズも7回目であるが、最後にしようと思う。始めた時はもう少し何か書けるか思ったが、意外と早くネタが尽きた。それだけクラウドというものに深みがなかったということだろう。つまり、サービス供給側でのインパクトは大きいが、エンドユーザにとっては新規性や斬新性に乏しいのである。

なぜこんなことになっているのか考えてみると、ITについて議論を戦わせるリングがごちゃごちゃになっていることに起因しているように思える。例えば、このシリーズでも出てきたように、ITサービスを供給する側の話なのか、サービスを受ける方の話なのかを混同して議論してしまうことである。だから、あちら側ではすごいと言ってもこちらでは大したことがないとなる。このあたりは別のシリーズ記事を立てようと思っている。

さて、クラウドであるが、繰り返しになるがあくまで供給サイドの変化であって、しかもパラダイムが変わるような話ではなく、大規模分散サーバーで大量のデータを早く処理するというパフォーマンスとそれを運用する可用性がとてつもなく向上したということなのだと思う。Google、Amazonといったパブリッククラウドがそれを実現しているのである。

そして、最終的にはコストに集約されてきて、費用対効果が見合うかどうか、そしてそれに重要なファクターとしてリスクを加味して判断するのだろう。コストとリスクは必ず相反するから、トレードオフとしてバランスをみて選択すればいい。

日本の企業では、パブリッククラウドとか言って狭い閉じたエリアでやってますよというのがあるが、これは厳密にはクラウドではないのではないでしょうか。3回目にも書いたようにデータセンターやVPNとどこが違うのかと言いたいのである。だから、無理やりクラウドと呼ぶ必要性はない。

先日、前にいた会社の元部下と呑む機会が会って、いろいろと話をしていたら、クラウドのことに話題になった。別にクラウドを意識してやっているということではなく、やっていることが結果的にクラウドだねという話である。

どういうことかというと、ぼくがいた頃にグループ会社向けにネットワークの提供とアプリケーション使用サービスを始めた。親会社の情報子会社の最大のミッションはグループ会社のIT化支援にあるという信念からである。ハードからソフトまでの共通利用と運用の一元管理が、全体の高ストダウンにつながると考えたのである。このことは3回目に書いたことである。

ところが、その当時は単体経営から連結経営へシフトする時期ではあったが、まだグループ会社の独立性が高く、自前でシステム部門をもったり、地元のベンダーと仲良くやったりとあまり協力的ではなかった。だから、少しずつ糾合していったのである。

ところが、ここにきてグループ各社がこぞってグループネットワークに入りたいと言ってきているのだそうだ。おわかりのように、震災の影響である。直接的に被害に合った東北のグループ会社からはもちろんのこと、全く別の地域の会社からも問い合わせがあるという。ぼくから言わせると、最初から気づいてくれよと言いたいが、やはり何か起きないとその気にならないものなのだろう。

ユーザからみるとクラウドなんて言葉は知らないと思うが、これがクラウド化なのである。「カジュアルBPMのすすめ」というシリーズでも指定したが、システムの送り手(作り手)側の発想ではもう限界なのであって、ユーザ(使い手側)の感覚をもっと大事にしたアプローチが必要だと今回も強く感じたのである。

2011年9月17日

近頃の“近頃の若者は”

先月、27歳になる下の息子と定例会で呑んだときに、彼の回りの若者を見ているとある特徴があるという。そのくらいの年齢の若者の口癖が「ところで結論は」とか「もっと具体的に」というのだそうだ。すぐにすぱっと言いきってくれないと困るというわけである。

つまり、抽象論が苦手というかできないのではないだろうか。ぼくらの昔を言うのはちと憚れるのだが、逆に抽象的で観念的な議論ばかりで、ぐたぐたとわけのわからない理論をふりかざしたものである。どちらがいいのかというのではなく、ずいぶんと違うのだと思うのである。

どうしてそうなのかとか、何が影響しているのかといった考察はぼくにはできないが、テレビや新聞雑誌などのメスメディアの影響があるように思える。おそらく、マンガは読むけど小説や評論は読まない、テレビドラマは観るけど映画は観ない、演劇は観ないがお笑い芸人は好きだ、といった傾向にあるように思える。

テレビにやたら登場するコメンテーターと称する輩とか売れっ子芸人はみな明快にワンフレーズで表現する。そういったすぱっと反応するリアクション芸が評価されているからである。もうめまぐるしく会話が流れるから、理屈っぽく筋道を立てて論じてもだれもいらいらして聞いてくれない。

本にしても、最近哲学書とか数学の本が売れていると言ってもある程度の年齢の人が読んでいると思う。20代の若い人はコミック、あるいは携帯小説の類かもしれない。だからといって、目くじらを立てることではないのだが、もう少し理屈っぽくてもいいのではないかと思うのである。

以前、ビジネスパーソンに必要なスキルは、概念化スキル、コミュニケーションスキル、技術スキルということを言ったが、最初の概念化できる能力というのは、ロジカルな頭で抽象化できないといけないわけで、決して、結論を急いではいけないし、高い抽象度から徐々に落としていかなくてはいけない。だから、今時の子の特徴が気になるのである。

2011年9月18日

高校サッカー予選

今日は、全国高校サッカー選手権大会神奈川県2次予選の1回戦を辻堂にある湘南工科大へ見に行く。わが母校の湘南高校対秦野総合高校の試合である。結果は3-0の快勝ですっきりである。このあと、2次予選2回戦、3回戦、準々決勝、準決勝、決勝である。あと5回勝つと代表になれる。

夏の総体の予選でベスト16で、全国総体で優勝してしまった桐蔭学園に終了間際の得点で惜敗したが、それで2予選からのスタートとなった。それでも、6回勝たなくてはいけないので、1次予選から戦う学校は大変な道のりだ。

今日の試合は、結果は3-0であったが、3点目は相手が退場者が2人も出てからなので、それまではけっこうヤキモキさせられた。前半5分くらいで先取点をあげたので楽勝と思われたのだが、決定機を何回も逃してしまいいやなムードで前半を折り返す。後半に2点目を入れて勝負あり。

ほんと久しぶりに高校生のサッカーを見たが、いやーレベルが上がりましたね。個人の技術や体力もそうだし、スピードが格段に向上したように思う。ただ、そうは言ってもまだ単純なボールの蹴り合いが多くその点では物足りなさを感じた。グランドが狭かったことも影響しているのだが、中盤を省略して、かつサイドのえぐりもなく、単純にゴール前にクロスをあげるか、トップに渡し、個人技でシュートというパターンである。グランドが狭いのにさらに狭く使っている感じである。

前にも言ったが、これなら「なでしこ」はかなわないと思う。そりゃあそうかもしれない。高校のトップはすぐにでもJリーグで通用するやつもいるわけだから、レベルははるか上にある。「なでしこ」は中学生男子といいとこかもしれない。

かつての顧問の先生とぼくの2つ上の先輩から、6つ下の後輩までのOBも応援に来ていて楽しかった。選手の父兄も多く駈けつけていて、観客もけっこうな数になっている。しかも、予選だと言いながらも有料のパンフレットも売っていて、ぼくらの頃とずいぶんと違うなあと思う。親が見にきてくれたことなんて一度もなかったなあと横で同期のO君がつぶやいていた。

さて、次は24日に横浜創英高校との試合である。今日のように決定的なチャンスを外さずに確実に入れられれば勝てるかもしれない。また、応援にいくつもりなので、ぜひがんばってほしい。
 

2011年9月19日

朱花(はねづ)の月

「殯(もがり)の森」でカンヌ国際映画祭審査員特別グランプリを受賞した河瀬直美監督の「朱花(はねづ)の月」を観る。この映画も、カンヌ国際映画祭コンペティション部門にノミネートされたそうで、カンヌというかヨーロッパの人たちというか、彼らはこの手の映画が好きですね。

この手というのは、非常に観念的で寡黙でフォトジェニックな映画のことである。しかし、今度もまたよく分からない。そりゃあ、先日のエントリーで近頃の若者は即物的で抽象論ができないと言ったが、この映画はもうちょっとわかりやすくしてくれよと言いたくなる。一緒に行ったいつものS君も出てくるなりわからんと唸っていた。

朱花(はねづ)というのは色のことらしいが、朱色に魅せられた染色家の加夜子(大島葉子)は、地元PR紙編集者の哲也(明川哲也)と一緒に暮らしているが、木工作家の拓未(こみずとうた)と愛し合うようになるという女ひとりを男二人で奪い合うという典型的なシチュエーションである。そこに、戦時中の祖父母の悲哀や、古代万葉の歌がオーバーラップするという仕掛けである。

この女一人に男一人という関係は映画ではよく出てくるパターンで、その時二人の男がどちらかというと対象をなす場合が多く、その間を女が揺れ動くというのが定番である。ところが、2人の男の差とか違いがさっぱりわからんのだ。どうも拓未のうじうじしたところをなじるシーンがでてくるからそのあたりが違うのかもしれないが、だからといって一生懸命尽くす哲也をないがしろにして拓未に向かう心理が理解できない。

それは、寡黙だからである。確かにドキュメンタリータッチのカメラワークと、きれいに映し出される奈良飛鳥の自然が言葉の代わりに表現しているとでも言いたいのかもしれないが、監督の回路とは同じであろうはずがない観客に向かって、その異質を埋めるためには言葉は大事だと思うのだが、ひとりよがりがまだ強いと思うのである。

だから、ヨーロッパでどうして受けるのか、なぜ理解できるのかが不思議だ。香具山、畝傍山、耳成山の大和三山(の神)が神代に恋争いをしたという歌が流れてもわかるのだろうか。とはいえ、河瀬直美の映画はまたもやわけがわからなかったのだが、それでも次もきっと観るだろうという不思議な作家なのだ。

hanedu.bmp
  

トラブル

3日前から、このホームページ用のファイルサーバーがクラッシュしてしまい、見えなくなってしまいました。同時にディスクも満杯でサーバーの修復とデータ取り出しに大変手間どってしまいました。
やっと復旧したのですが、直近の半年強のデータが消えています。まだ調査中ですが、とりあえずいま今の記事はアップしていきます。
  

2011年9月20日

IT再考-DOAが王道?

このシリーズは系統だったものではなく、どとらかというその時々のトピックス的な記事も書いていく。とはいえあまり人の意見や主張にムキになって反応するのも好きではない。しかし、ちょっと言いたいことがあるのでそのことについて書く。

先日、ある勉強会というか、研究会のようなところで、プログラムの自動生成と言うことについて、ツールベンダーから話を聞く機会があった。要するに、データ分析結果と業務ルールを入力するとそこからロジックを推論して自動的にシステムが生成されるという。

これはDOAがベースになっている。つまりデータありきですから、結局単発のデータベースアプリケーションを作る時には有効なのですが、そうではないプロセスアプリケーションを表現することはできない。ERPやその他のパッケージやソフトウエアはほとんどデータベースアプリケーションですから、自動生成するメリットはあまりないように思うのである。ある意味で自動生成の行き着き先であるパッケージがすでにあるからである。

自動化を進めれば進めるほど自動化の必要性がなくなるという自家憧着、あるいはあるパラドックスに陥る。先に言ったようにいいパッケージというのは、自動生成された結果でもあるのだ。同じロジックばかりだとパターン化できて、それ以降は自動生成するのではなくモジュールを持ってくればいいだけになるからである。

ここでそのツールベンダーをとやかく言うわけではない。だいぶ前にでたITProの記事についてである。そのタイトルが「酒は出ないが『注文の多い酒宴』再び 」というもので書いたのはコンピュータ・ネットワーク局編集委員の谷島さんである。その中のメールの引用文ということで、こんな文章が載っていた。「ユーザ主体開発」「システム内製」を主唱する「システムイニシアティブ研究会」に関するものである。

ユーザー主体開発をどう進めるのか、といった点については色々な意見が出ました。五つの講演と質疑応答を聞いた私の感想をまとめますと「欲しい情報 を得るために欲しいシステムを欲しい時期に用意するには、企業の情報(データ)をあらかじめ整理しておくしかない」というものです。  データ中心アプローチが提唱されてから30年近く経つのでしょうか。成果を挙げている企業は昔からありますし、取り組んだものの挫折した企業も昔からあります。  ユーザー主体開発という王道を行くには、データ中心の王道を行かなければならず、そのためにどうすればいいかというと最後は、「やり方を変える」「考え方を変える」といった、いわゆるリーダーシップの話になります。

これを読んだ時に思わずずっこけてしまった。突っ込みどころ満載だ。おいおい、システムって「欲しい情報 を得るため」にあるんだっけ?「ユーザー主体開発という王道を行くには、データ中心の王道を行かなければならず」って誰が決めたの?「「やり方を変える」「考え方を変える」」と言いながら、30年近くはっきりした成果をあげられないものをやるんですか?

谷島さんといえば、よく知られた人で、その人がこんなことを言っていいのだろうか。システムイニシアティブ研究会のいう内製ってだいじょうぶなのかと思ってしまう。当たり前だけど内製化することが目的でも何でもないわけだから、ユーザ主体開発と言うんだったら、ユーザが本当に欲しいものは何かを決めれば、作り方は内製であろうが、外製でろうが、クライドであろうが、どうでもよくて、ほとんどは総合的な経済性で決めればいいと思う。次回にまた補足します。
 


2011年9月21日

あしたのジョー

あしたのジョーといえば、ぼくら近辺の世代ではだれでもが知っているヒーローであり、熱狂したものである。マンガの連載が、1968年から1973年だからぼくの大学時代とかぶる。ぼくはマンガを読まない方だったがこの作品は読んだ。

その「あしたのジョー」が映画になった。「ピンポン」の曽利文彦が監督を務め、主人公・矢吹丈を山下智久、運命のライバル・力石徹を伊勢谷友介が演じている。二人とも映画のために鍛えに鍛えたと思われる肉体を披露してそれだけでも見る価値がある。特に、伊勢谷友介の減量に耐える力石の姿がマンガと写しなって迫ってくる。

原作の時代背景は、まだ暮らしぶりがよくないながらも希望が見える時であり、そこから這い上がろうとする若者がいっぱいいたころで、みな目がぎらぎらしていた。ジョーと丹下段平が暮らす山谷というドヤ街にしろ、岡林信康は「山谷ブルース」の中で、“今日の仕事はつらかった後は焼酎あおるだけ”といいながら、最後は“だけどおれ達や泣かないぜ、働くおれ達の世の中がきっときっと来るさそのうちにその日は泣こうぜうれし泣き”と叫んでいたのだ。

そうあの頃は明日があったのだ。いまは明日があるのだろうか。そして、映画は受けたのだろうか。ぼくには、何はともあれ大変面白かった。当時がよみがえるというより、今でも単純に強くなりたい、あいつに勝ちたいという上昇志向の若者が一心腐乱に努力する姿に感動するのだ。

そして、ライバルがいることの幸せである。またまた今との比較になってしまうのだが、競い合うライバルをあまり見かけないような気がする。王・江夏、長嶋・村山、栃若、柏鵬、瀬古・イカンガ―(ちと落つるか)を持ち出すまでもなく、多くのライバル関係があった。今はどうなのだろうか。田中・斎藤じゃレベルが違う。

矢吹丈と力石徹は永遠のライバルである。力石が言う「初めて会った人です。命をかけても倒したい男に」。だからこそ、階級が違う身体を削ってまで、ジョーと闘う。自分と闘う前に倒れてはいかんのだ。「立つんだジョー」と叫ぶ力石には己の生きざまをぶつける魂がある。

ボクシングは亀田兄弟や井岡ががんばっていてもいまや衰退のスポーツのようなので、この映画を見て日本の草食系男子も奮い立ち、しずちゃんのようにボクシングに目ざめてくれるといいかもしれない。

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2011年9月22日

男の伝言板

最近、「大人の流儀」(伊集院静)「男の作法」(池波正太郎)「男の心得」(佐藤隆介)というタイトル本の話を書いたが、これを合わせたような「大人の作法」(山本益博)「男の流儀」(諸井薫)もあるんですね。ただ「大人の心得」という名の本はなかった。

だから、このタイトルでシリーズ記事を書こうと思ったが、何となく上から目線のようでもあり、説教っぽくなることもあるし、これまで生きてきたなかで、ずいぶんと“心得違い“なことを多く重ねた身にとっては恥ずかしいということもある。というわけでそのタイトルはやめて「男の伝言板」ということで書いていこうと思う。

昔は駅に行くと必ず伝言板というものがあって、待ち合わせなどで利用したものである。今は、携帯電話というものを誰でも持つようになって消えてしまった。だから今の子どもたちは知らないと思うが、伝言板は「○○ちゃん、待ったけど来なかったので先にいった」とか「急用ができて行かれなくなった。○○より」とかいった文言が書かれていた。

伝言が必ず読まれるという保証はないので、誰にも見られることなく消されることもあるのだが、でも書いておきたいという気持ちが伝わって、全然知らない人のほのぼのとした伝言に思わず微笑んでみたりといった風情を感じたものであった。今の人には理解できないプリミティブなコミュニケーション手段である。

で、これから書いていこうというのはぼくが今まで生きてきた中で出会ったことややってきたことなどを、それこそ読みたい人だけ読んでくれという感じで書き流しておこうというものである。だから「伝言板」なのである。以前からこのブログはある種の遺言であると宣言しているが、改まって書くのではなく、それこそ伝言板に書くように書いておきたいということだ。ただし、駅の伝言板と違うのは、消さないということである。(ついちょっと前のトラブルのように、消すつもりがなくても消えてしまうこともあるのだが)

非常にプライベートなことなので、他人にとってはどうでもいいことであり、つまらないことでしょうが、自分の時は、自分の場合は、自分のところではといった見方で比較しみるのも一興かと思います。さて、どうなるでしょうか。

2011年9月23日

白星スタート

1日遅くなった報告です。21日に行われた男子サッカーのロンドン五輪最終予選で日本代表はマレーシアを2-0で下して幸先の良いスタートを切る。何でも初戦というものは緊張もするし、モチベーションの上げ方もあり難しいのですが、合格点をあげられるのではないだろうか。もう少し点をとってもいいだろうとは思っていたが、意外とマレーシアの力があなどれないなあと感じられ、そんなチームから初戦の勝ち点3だからよしとしよう。

この試合の論評をしようと思ったが、各所でやられていることもあるが、あまり言うこともない試合だったので何を書こうか迷ってしまった。つまらない試合というわけでもないし、ひどい試合でもないし、突っ込みどころがあるわけでもない。なので、少し別の角度からながめてみようと思う。

昨日、録画をみたのだが、放映がテレビ朝日だから、解説が例によって松木安太とセルジオ越後という最悪のコンビで、こうなったら音声を消してみようと思い無音の画面で観戦。これがまた快適で自分の眼で見れ、自分の感覚で追えるので楽しかった。そんな見方をしていて、ふとこりゃあ今注目の清武のプレーでもじっくりみてやるかとなった。

前に、本田圭佑の代わりを清武弘嗣が務まるというようなことを書いたが、そのとき両者が「ため」を作れるからだと指摘した。「ため」を作れるということは、前線の動きだしや後からの追い越し、サイドのせり上がりなどを誘導できるからである。ただ、「ため」の性格が違っていて、本田は身体能力を生かしたボールキープ力であるが、清武はパス交換のハブになって「ため」を作ることができるという違いである。

では、なぜ清武はパス交換のハブになれるのかである。何もしないでその役割をはたせるわけがないのはおわかりだと思うが、彼の特徴は、いつも相手を引き離しながら、味方の選手がパスを出しやすい位置に顔をだしていることである。この絶え間ない動きこそ彼の良さで、そのためにいつも周りを見ていてフリーになるから、ボールを受けてからの次のプレーがしやすいのである。

この動作ができると、パスもドリブルもシュートも様々な選択肢を持てるというわけである。更に、ボールコントロールがしっかりしているから、ほとんど相手にとられないから周りの選手もやりやすいわけである。テレビ画面でずっと一人の選手を追いかけてみるのも面白いものだ。

女子に続いて、ぜひロンドン五輪に出場してもらいたい。ただ、出場するだけではなくそれこそメダルを視野に入れて戦ってほしいと思う。そう思えるのも「なでしこ効果」ですね。

2011年9月24日

クレイジー・ハート

ジェフ・ブリッジスはほぼぼくと同じ年齢だから何となく仲間みたいな感覚があって、映画でも共感してしまう。そんな映画「クレイジー・ハート」を観る。この映画でジェフ・ブリッジスはアカデミー主演男優賞を受賞する。長年「無冠の名優」と呼ばれていたがこれで名実ともに名優となった。

シンガーソングライターとして一世を風靡したバッド・ブレイク(ジェフ・ブリッジス)というカントリー歌手ももう57歳となり、かつての栄光は色あせ、いまや地方のクラブやはたまたボウリング場で唄うドサ回り生活である。そんな生活だから、自らの落ちぶれぶりと孤独から酒浸りとなり、りっぱなアル中となってしまった。

そんな彼のところに地方の音楽雑誌の記者であるシングルマザーの記者ジーン(マギー・ ギレンホール)がやってくる。インタビューを重ねるうちに徐々にお互い惹かれ合う。彼女の息子とも仲良くなり、酒も控えめになったように見えるのだが、あるとき飲んだせいで子どもを迷子にさせてしまい、ひどく怒られ離れていってしまう。

一方で、歌の方は自分の弟子 だったトミー(コリン・ファレル)がトップ歌手として大人気なのだが、その前座を務めたりもするわけだが、そんな屈辱も受け入れるのである。このあたりは、過去の栄光を引きずってはいるものの変に意固地になるわけでもない渋さが出ていて共感できる。ジェフ・ブリッジスの演技もすばらしい。

弟子のトミーもバッドに向かって新曲を書いてくれと頼む律義さがあり、結局それに答えていい曲を書くという照れた子弟愛みたいなものもあって、これまた滋味のあふれるシーンが続く。最後も離れたジーンも現れてなんとなくわかりあえるのだが、もう昔にはもどれない。男の人生の哀歓を感じる。

バッド・ブレイクはカントリー歌手なのだが、映画でも多くの唄うシーンが出てくるが、アメリカの田舎ではカントリーばっかりだ。日本の演歌のようなものかもしれない。それが、生活臭があり、人生があるという具合に映画とよくマッチしている。でも考えてみると、日本の映画にこうした落ちぶれた歌手を題材にした映画ってあったけかと考えてしまう。

多少の難といえば、最初からアル中とわかっていながら、アル中だからと詰って別れるという安易な関係性に落として軽くなった感は否めないのだが、ジェフ・ブリッジスの名演技が光る秀作であった。

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2011年9月25日

勝ったぞ!

昨日は、全国高校サッカーの神奈川県2次予選の2回戦があって、その応援に行ってきたのだが、その甲斐があってわが湘南高校は横浜創英に1-0で勝利する。これでベスト16(実際には13チーム)に進出だ。そこで勝つといよいよ準々決勝である。

試合は、序盤相手のペースで防戦一方という感じになるが、時折ペースをつかみチャンスも作るが惜しくもゴールネットを揺らすまでには行かなかった。横浜創英は今夏の総体予選のベスト8のチームなのでもともと力は湘南高校より上であるが、ボール回しは上手だがなかなかシュートまで持って行けない。どこかの国の代表チームみたいだ。

後半になっても劣勢は続くのだが、終了近くになってコーナーキックのゴール前の混戦からセンターバックが押し込んでリードする。終了間際の同じようなゴール前混戦をしのぎ切って歓喜の声をあげる。ほんと、良くやった。やはり何といっても守備が非常に安定していることに尽きる。GKと最終ラインが強固で前試合に続いての無失点である。

それに、前線の2トップがキープ力もスピードもあるのでバックスからのフィードでその二人で局面を突破するというパターンが多い。なので、中盤がもう少し機能すると更によくなるのだが、ちょい弱いのでこれから当たる強豪校との勝負はここでどれだけがんばれるかだろう。

今日も校長先生や元顧問や多くのOBも応援に来ていて、みな満足そうな顔をして帰っていった。次は10月16日の向上高校戦である。かなりの難敵ではあるが、この年代はうまいからとか、強かったとかいってもころっと逆転することがあるので、今の勢いをそのままぶつければ勝てないことはない。

そう言えば、ぼくらが全国高校選手権に神奈川県代表として出場したのが1965年で、その23年後の1988年にまた全国出場を果たしているのだ。おおー、1988年から23年後は今年ではないか。そうなのです、巡り合わせから今年は予選突破の年であるのだ。

2011年9月26日

IT再考-構造論議ができていない

前回、「DOAが王道?」というタイトルで日経BPの谷島さんの記事に茶々を入れたが、別にふざけてるわけでも何でもなく、むしろいま日本のITの世界で課題となっていることを象徴的に示しているように思える。その記事で指摘したように、「欲しい情報 を得るために欲しいシステムを欲しい時期に用意する」ことや「ユーザー主体開発という王道を行くには、データ中心の王道を行かなければならず」とか「やり方を変える」「考え方を変える」という主張は、一見正しいように見えるが間違っているということを言いたかったのである。

今のITや企業情報システムが抱える本質的な問題をすっ飛ばして、皮相的でテクニカルなエリアでしか議論できていないという、それこそが問題である。このブログでも何回も言っているようにHowの議論に終始してしまう。WhyとHow(日本語で言うと目的と手段)を議論するならまだいいのだが(この混同もしょっちゅうある)、その間にあるWhatをないがしろにしていることが最大の問題なのである。

Whatとは何か?道具のようなものから、組織とか、運動とか静的なものから動的なものまで幅広いが、その答えは「構造」である。やわらかい言い方をすると「カタチ」である。ちゃんと言うと構造化された構造体といったところだ。目的を達成するための構造(カタチ)、手段を選択するための構造(カタチ)が重要な位置を占めるのである。ここがあまり議論されない、というか日本人は苦手なのかもしれない。

話は飛ぶが、今あまり「構造改革」という言葉が出てこないが、それが日本の停滞の一因であるように思う。小泉首相時代に叫ばれたが、最近はあまり聞かない。今何かしないとまずいというWhyはまあまあ共有されているが(今のままでいいという能天気な人もいるが)、増税だとか、自然エネルギーだとか、教育だとか多くの議論がなされるが、どんな形の社会、あるべき国の姿といったWhatについての深みがまるでないのである。

規制のない社会とか、セーフティネットの張られた社会とか、リベンジが効く社会とか、グローバル化にどう立ち向かっていける社会とかをどういう構造として設計し、構築していくかが重要だと思う。それと同じように。企業のシステムにおいても、会社の理念、戦略を実行していくためにはどんな組織であり、事業体であるべきか、それを支えるシステムの構造はどうあるべきかが問われているはずである。そこの議論をバイパスしているように思えてならない。

業務改革だとか、IT経営だとかといった上流、超上流の問題は、コンサルファームの人たちやらが多くのことを言っている。一方、開発だとかソフトウエアといったようなテクニカルな下流の領域では、エンジニアが自分語で何かを言っている。じゃあ、上流の人たちよ、あなたたちは、設定した課題を解決するための仕組みを設計・実装できますか、下流のひとたちよ、あなたたちは、書いたコードがビジネスにどう役立っているのか知っていますか。

ITに関するメディアもわかっているのかどうか、日経BP社が発刊している雑誌をみると分かる。「情報ストラテジー」と「ソフトウエア」「システムズ」の間を埋めるものがない。「コンピュータ」がやっているだろうか。もう一度、「何をすることが情報システムのミッションなのか」をよく考えようではありませんか。
  


2011年9月27日

日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか

人はほめられていやな気分になる人はいない。しかし、ほめられ過ぎると褒め殺しではないが、ちょっと待ってよと思うこともある。少し日本をほめすぎていると思われる「日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか」(竹田恒泰著 PHP新書)を読む。

今言ったように、最初はなるほど日本ってこんな素晴らしい国なんだと背中がむずくなるとともにうれしくなるが、読み終わったあと、全面的にバンザイだったのかというとそうでもなくて、悪いところもあるだろうにそれも言ってくれと思ってしまった。いいところと悪いところを見せて、こんな悪い面もあるけどバランスとしてはいい国なんだよと言われたほうがしっくりするような気がする。

著者の竹田恒泰は、旧皇族・竹田家に生まれていて、明治天皇の玄孫にあたる。父親はJOC会長の竹田恒和という正真正銘のサラブレッドである。だから当然、天皇の存在の大きさを強調する。たしかに何だかんだと言っても百代以上続く王朝は世界で他に例がない。ただ、それだから素晴らしいというわけではなく、良くも悪くも日本のもつ特徴を形成している。明治維新やこの大戦などを見ればわかると思う。

最初に2006年に行われた英国BBC放送の調査で「世界に良い影響を与えている国」として最も高く評価されたという話がある。そして、他の調査、例えば世界のホテルマネージャーに対して聞いた「ベストツーリスト」に選ばれたのが日本人であったとか、マンガやアニメなどの「ポップカルチャー」がクールジャパンという評価を与えたとかといった日本礼賛が出てくる。

その他、「頂きます」や「もったいない」の精神とか、世界が愛するモノづくりである「匠」の技だとか、大自然と調和する八百万の世界、和みの外交といった話が並べられる。もちろん、今まで知らなかったことも多く出てくるし、あらためて日本や日本人の素晴らしさを再認識させられるのだが、最初に言ったように一抹の違和感を覚える。

というのも、じゃあ現実の世界で日本の存在感ってどうなのよと思うからである。ポップカルチャーとか匠の世界と言われてもそれはマイナーな領域であり、政治・経済その他のメジャーな領域では存在感も薄いのではないだろうか。ベストツーリストと言われても、意地悪な言い方をすれば「いいカモ」なのかもしれない。人気があることと世界の中で存在感を発揮することとは違うのである。

これまでのようなドメスティックな世界であれば、日本の伝統とか文化・風習が生きてくるのだが、現代のように急速にグローバル化が進む中では、従来の日本の良さだけで通用するわけではなくなって、新たなゲームのルールで威力を発揮するものを作らないといけないのだと思う。

ただ、そのときには日本という国をあるいは日本と言いう文化をしょって出て行かないと打ちのめされてしまうことも忘れてはいけない。そのためにも巻末の北野武との対談で自分たちの国の歴史を教えないことのおかしさを指摘していたが、そのとおりだと思う。

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2011年9月28日

男の伝言板 - 先生(1)

さて、「男の伝言板」シリーズの最初の伝言は「先生」についてである。誰もが先生に教わったことがあるだろうし、中には自分が先生になった人もいるだろう。ここでは。ぼくが出会った先生について書く。先生と言っても、代議士先生やお医者さんといった人たち(ぼくでも中国に行った時は先生である)ではなく、学校の先生のことである。

ぼくには幼稚園から大学までそれぞれの段階でひとりずつ大変に影響を受けた先生がいた。順番に追いながら話していこうと思う。まずは、幼稚園であるが、そんな小さい時のことを覚えているのかと言われるが、かなり記憶に残っている。ぼくは3年保育だったので、3歳で初めて登園するとき姉にしがみついて嫌がったのも覚えている。

その時に面倒を見てくれた栄子先生が忘れられない。いまだにご健在でこの間かかりつけの医者でばったり会った。ぼくが教えられたのは連帯責任ということだ。友だち数人と遊んでいて、その中誰かがいたずらをして(何をしたかは覚えていない)ひどく怒られたのだが、その時、一緒に遊んでいたぼくらも同時に倉庫に閉じ込められたのである。

ぼくは何もしていないのになぜだという思いでくやしかったのだが、あとで考えたらあのときなぜ止めなかったのかという責めを無言のなかで教えてくれたのだ。5歳の子でもその意味はわかった。いまだに閉じ込められた倉庫の暗さと塀の高さが残像としてあるが、だいぶ大きくなって幼稚園にいてみたらなんだこんな小さいところだったのだと驚いた。

小学校は何といっても、2年から4年までの担任であったK先生である。まだ20代の若さで理科の先生であったので、野外活動とかでしょっちゅう植物採集やら化石発掘、日食観察といったことをやった。そのおかげでぼくはすっかり理科少年になったというわけである。いまだに姉に言われるのだが、お前はいつもじゃばら折りになった牧野富太郎の植物図鑑を片手に道端の草を観察していたねと言われる。

4年生になったあるとき先生が「おまえたちテレビにでるぞ」と言われてみんな唖然とした。だって、ぼくの家にテレビがきたのが4年生のときだから、まだまだ自分の家にテレビがない子もいたから、テレビに出ることがどういうことかよく分からなのである。

K先生の学生時代の友だちがNHKにいて、その人からの出演依頼なのだという。「はてな劇場」という始まったばかりの教育チャネルの番組である。一クラス分の子どもたちを並べて、理科の問題を出して、それに答えるというもので、司会がなんと黒柳徹子であった。そこで出された問題はいまだに覚えている。

最初は蛙の絵を見せてこれは何という蛙かを答えるもので、さっとみんなが手をあげた。田舎者にとっては簡単な問題だ。清水君が「トノサマガエル」と答えて、黒柳徹子が「正解」と言った。ところが次の問題が難しい。今でいうジェットコースターのような仕組みが出てきてそこにビー玉を転がして、坂を転がるとだんだん早くなるのを何というのかみたいな問題である。こりゃあ、田舎者にはわからない、全員下を向いてだんまりを決め込む。この時は、付き添ってきた先生もはらはらだったようで、答えは加速度である。

そんな先生が大好きだったが、さらにぼくに教えてくれたのは弱者に対するやさしさだった。あるとき同じクラスにM君という転校生がやってきた。学校からだいぶ離れた山の中の一軒家だがそこに父親と二人で住むようになったためにぼくらの学校に来たのだ。ところが、その子が今で言うところの登校拒否児童であった。

どうも複雑な家庭事情であるらしく、家に閉じこもってしまう。そこで先生はクラスのみんなに順番にその子の家に給食のパンを届けに行かせたのである。誰もいなくて玄関に置いて行くだけの時もあったり、いても一言も話さなかったりということを繰り返すうちに徐々にうち解けていき、そのうち登校してくるようになったのである。

このことはぼくには印象深いこととして残っているのだが、実はその反対に近いようなことも味わったのである。あるときアンケートみたいなことをやった。いくつかの質問に答えるのだが、その中に「あなたがきらいな子はだれ」というのがあった。いま考えると恐ろしい質問だが、名前を書くべきか、書かざるべきかすごく悩んだ結果、ある子の名前を書いてしまったのである。

その子は、ガキ大将だとかいじめっ子ではない。逆で、ぼくが何か言ってもだまってたり、グズグズ、ウジウジしていてしっかりしろよと言いたくなるような子だった。だから、もっとビシッっとしろよという気持ちを込めて“きらい“と言ってしまったのだ。そのことをずっと引きづっている。お前の弱者に対するやさしさって何だったのかというのと、かわいそうだという強者の論理もいやだなあという葛藤である。結局、目線を下げたやさしさを持とうと思ったのである。

K先生のところには、卒業してからも時々先生の自宅にお邪魔をした。ぼくらが卒業してすぐにわれらのあこがれだった保健室のS先生と結婚していて、家が海の近くだったので浜で遊んでから風呂に入れてもらい、そのあといつもカレーライスをごちそうになった。当時はなにかあるとカレーライスである。その味がいまだに忘れられない。
  

2011年9月29日

不思議前提とIT ― 「ターゲットにモノを売る」というまちがい

以前「「応援したくなる企業」の時代」(博報堂ブランドデザイン著 アスキー新書)という本を紹介したとき、その中にある7つの不思議前提というものを見直すことが重要だというようなことを書いた。その7つの不思議前提というのは再掲すると、

・ 「ターゲットにモノを売る」というまちがい
・ 「差別化のポイントはどこ?」という不見識
・ 「ニーズはなんだ?」と問うあやまち
・ 「勘でものをいうな」がもたらす損失
・ 「どんなアウトプットが得られるんだ?」と問う不利益
・ 「下から意見が出ない」という勘ちがい
・ 「仕事にプライベートをもち込むな」という非常識

であるが、それぞれについてIT業界絡みで考えてみようと思う。

まずは、「ターゲットにモノを売る」というまちがいについてである。本の著者は「ターゲットを攻略する」という言い方からもわかるように軍事用語であり、攻撃的なニュアンスがある。しかし、こうした“買わせる”“売りつける”でいいのだろうかということである。

ITももちろん例外ではなくて、普通にマーケティングの一環としてターゲットを設定する。ターゲットは大企業にするのか、中小企業向けなのかとか、2000年問題だとか内部統制だとかいったエポックがあると一斉にそれめがけて売り込む。

そんな時の言い分は、顧客志向であり、消費者目線である。しかし、その前に送り手発想と受け手発想という二項対立概念を踏襲したままでは意味はなく、単に視点を変えただけになってしまう。つまり、いつまでたっても作る人と使う人という区分けの中で、使う人の要求を聞いて、作る人が要件定義するというやり方では、二項対立概念を引きずったままだと思うのである。

この本では、それを解決するには、「ターゲット発想」から「コミュニティ発想」へ転換せよと提言している。システムを作る人と使う人が一体となって、ビジネスの成功めがけて協力し合う姿が浮かぶ。しかしながら、非常に難しいのも確かだ。どうしても収益モデルが書けないから、既成のベンダーやSIerでは無理なので、新しいプレーヤーが出てこないとできないかもしれない。

ただ、希望はWebの世界が、技術的なものもさることながら、その精神の部分でもかなりエンタープライズに入り込んできたこと、そして、クラウドのインパクトである。以前、ユーザにとってはクラウドにあまり積極的なメリットを見いだせないと指摘したが、このコミュニティ発想を後押しする環境という意味では可能性を感じる。
 

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2011年9月30日

ボローニャの夕暮れ

映画というのは、時間と場所というのが非常に重要だということは言うまでもない。いつの時代背景で、どこの場所での物語なのかということである。「ボローニャの夕暮れ」は、イタリアの北のボローニャを舞台に、世界大戦がはじまろうとしている1938年からの物語である。

原案、脚本、監督の名匠プピ・アヴァティは自身の故郷であるボローニャにこだわりがあり、生まれたのが1938年なのである。そうした状況設定の下に、娘に過剰とも思える愛情を注ぐ美術教師の父親(シルヴィオ・オルランド)、夫や娘と距離を置き、夫の友人と不倫を続ける美しい母親(フランチェスカ・ネリ)、そして母親を嫌悪し劣等感をもつ17歳の娘ジョバンナ(アルバ・ロルヴァケル)という家族を置く。

この家族がつつましやかにも平凡な生活を送っていたある日、父親と娘が通う学校で女生徒が殺されるとい事件が起こる。そして、その犯人として、ジョバンナが疑われるのである。父親もあり得ないと思いつつ徐々に彼女の仕業と自覚させられていく。結局、拘束されるが裁判では精神疾患として無罪になり収容されるのである。

そこから、平穏であった家族が音を立てて崩れて行くのである。どうにか取り繕っていた家がほころびを見せてしまうのである。映画はその崩壊を少しずつ観客に示しながら、一方で、戦争の足音も響かせるという、ああ何もかもが壊れれていくというじっくりとした恐怖感を味わわされる。この大きな単位と家族・個人という小さな単位での崩壊と再生がこの映画の主題である。

さて、その再生は何もかも失った父親があきらめずに娘への愛情を注ぎ続けることで希望が見えてくる。このあたりは、過保護的なにおいがして、娘を持たない身にとっては理解しがたい感じもある。不貞を働く妻に対しても許す姿勢を貫くわけで、こんな打たれっぱなしのオヤジでいいのかとつい思ってしまう。だからこそ、再生ができたと言いたいのだろう。

ただ、ちょっと気になったのは、ひとつの大きなエポックとして殺人事件があるのだが、殺人者である娘の側から描かれているわけで、それは映画として当然なのはわかるのだが、逆の殺された側の視点も必要、というか配慮が要るような気がしたのである。もうひとつの家族の崩壊と再生の物語が、殺され女子生徒の家族にも当然あったわけだからである。

父親役のシルヴィオ・オルランドはこの作品で第65回ヴェネチア国際映画祭の男優賞に輝いている。いかにもイタリアの男優と思わせる渋い演技である。
  
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About 2011年9月

2011年9月にブログ「mark-wada blog」に投稿されたすべてのエントリーです。新しい順に並んでいます。

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