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2011年1月 アーカイブ

2011年1月 1日

新年を迎えて

新年明けましておめでとうございます。

2011年という新しい年を迎えましたが、今年こそはよい年になることを祈るばかりです。

わが国の経済情勢もいっこうに良化の兆しもみせず、民主党の政権運営もどうしようもないところに来ている。ますます、日本の衰退は進み、若者が希望を失うというひどいことになりそうである。

しかし、だからといって文句ばかり言っても始まらないので、愚直でもいいから一人ひとりが努力することでしょう。(株)ワディットも5期目に入り、はやく飛翔したいのですが、そう簡単にはいかないようです。ただ、今年はジャンプするきっかけとなりそうなことがありそうなので期待しています。

最近はTwitterやFacebookが盛んになってきましたが、ぼくの情報発信の中心はやはりブログです。今年も皆勤賞をめざして、日々綴っていこう思っています。

どうか今年もよろしくお願いいたします。
  

2011年1月 2日

ぼくらの役割

日本の衰退が止まらない。もう20年間成長というものを味わうことができないでいる。今の若い人たちは、成長する国というものがどんなものかを知らないのである。

これはひとえに日本の社会が成長フェーズから成熟フェーズへ変化しているのに、それに合ったように社会構造が転換できていないことである。世界でも例をみない少子高齢化社会が目の前にあるのにもかかわらず、何も打つ手を持てないという悲劇である。それは、政治しかり、企業しかり、お役所も教育もみなこれまでの延長でしか考えないという思考停止状態がもたらしたものである。

こうした閉塞的な状況を脱するには、不連続の思考アプローチでやるしかない。つまり、これまでの考え方を捨て、新たな視点で構造を変えていく必要がある。そのためには、既得権益者に退場を願って、新たなモデルを構築できる若くて有能な人たちの出番なのである。

ぼくは、これからはそうした若い人たちに少しでも役に立てるようなことをやっていこうと思う。ぼくらがいつまでも居座っているようでは邪魔になりこそすれ、牽引力にはけっしてならないからである。

しかし、だからといってそのまま黙ってフェイドアウトするのではない。というと、また変なところでうるさく言うんじゃないかと思われるかもしれませんが、ここで言いたいのは、既存エリアから去れということで、生まれ変わる必要がある既成社会では、従来の発想にとらわれない若い人が活躍し改革すべきであると思う。

一方、新規エリアではどんどんやったらいいと思うのである。こうした領域では、若い人と同じスタートラインに立って競争すればいいのだ。分かりやすく簡単なのは起業すればいい。それも、自分がいたエリアから離れたところ、要は今までいた会社と同じようなビジネスをやるのではなく、それは全く違わなくてもよいが、少なくとも何か新しいスタイルを提案できるエリアで起業するのがいいと思う。

そこでは若い人にはない経験や知識があるわけだから、それを強みとして戦うのだ。いや、それだけではなく、斬新な発想だって出てくるかもしれない。社会全体から見れば、ぼくらはまだまだ経済的には恵まれているのだから、リスクをとれるとも言える。

いまやわが国では、新陳代謝が不可欠であるが、単なる椅子取りゲームではなく、新しいゲームを作り、その中に年寄を移動させ、そこで若者と切磋琢磨して、自分たちも楽しく生活をし、若者と共栄していくことをめざすべきだと思うのである。

2011年1月 3日

スポーツ三昧(2011)

毎年のように正月はテレビのスポーツ観戦である。元旦のニューイヤー駅伝から始まってサッカー天皇杯があって、2日からは箱根駅伝が行われ、そのあと高校サッカーやラグビーがある。一年で一番のんびりする時期かもしれない。

まずは、駅伝であるが、元旦に行われる実業団のニューイヤー駅伝と学生の箱根駅伝があったが、どうもちょっとした異様な光景を見て考えさせられてしまった。実業団の方では、2区になって、前の方を走っている選手がみなアフリカ出身ばかりなのである。

ここは日本じゃないのではという錯覚に陥る。これは、外国人制限があって2区だけはインターナショナル区間と呼ばれて唯一外国人の登録が可能なのだそうだ。でも、ちょっと変じゃないですかねえ。今の時代、どんどん世界中のひとと競争しているわけだから、まあ人数を制限するのはいいとしても、走れる区間まで制限するのはいかがなものかと思う。

大げさに言えば、産業だって保護されていないのでもろ競争にさらされて中国やインドに負けるところも出てくるが、逆にそうしたことで強くなっていくわけで、何か農業と同じように守られているような気がして、それでいいのだろうかと思ってしまう。負けたっていいじゃないか。世界で伍していこうというのに、競争を避けているように思う。

それに関連するようなシーンを箱根駅伝で見た。第1区で早稲田の1年生大迫選手がスタートしてすぐに飛び出していったが、それについて行ったのが、日大の堂本選手ひとりという状態で、他の18選手はだんごになって遅いペースで走っていた。

これを見た時、ああリスクをとるやつがこんなにも少ないのか思ったのである。大迫選手のペースが特段に速すぎたわけでもなく、昨年と同じようなラップだというのにだ。おそらく、みんながそうしているから自分もその中に身をおけば大きく失敗することはないだろうと思ったに違いない。ちと情けなくなった。

その箱根駅伝は、早稲田が18年ぶりに総合優勝した。学生駅伝3冠も達成し、いちおう母校の優勝はうれしい。しかし、この箱根駅伝の人気はすごい。いつも感心するのは、沿道で応援する人で、ぼくも子どもころには応援に行ったことがあるが、選手が一瞬に通り過ぎてしまうので、何がおもしろいのかと思った。

まだ、昔は人も少なかったので遠くから見ていたが、今みたいにこれだけたくさんの人がいると本当に目の前をあっというまに走り抜けるはずだ。あとこの駅伝の醍醐味はシード権争いで、今年はまれにみる接戦ですごかった。これはJリーグの降格争いみたいなもので、崖っぷちランキングのおもしろさである。

さて、サッカー天皇杯であるが、鹿島アントラーズと清水エスパルスという対戦となった。エスパレスの長谷川健太監督はこの試合が最後ということだったので勝たせてやりたかったが、アントラーズの前にいいところがなく破れ去った。

試合は、前半はアントラーズペースで始まり、26分にガブリエルがセットプレーから頭に合わせて先制し、エスパレスにチャンスを与えなかった。後半に入り、少しずつペースをつかんだエスパレスがヨンセンの技ありシュートで追いつく展開。

そして、32分にゴール前のフリーキックを野沢が決め勝ち越し、そのままアントラーズの勝利となる。このフリーキックは小笠原が蹴るかと思ったら野沢だったが、こういう選手がいることがアントラーズの強みでもある。代表にはならないが、いぶし銀のようなプレーをする。エスパレスも小野や藤本の次の選手にそういう選手がいたかどうかである。

それと、勝敗を分けた要因というか、両者の違いは、はっきりと意図をもったプレーをしていたかではないでしょうか。これは、ひとり一人がそうするのと同時に組織としての意図という意味でも言えることである。つまり、エスパレスは“アバウト”なプレーが多かったということだ。

ひょっとしたらうまくかもしれない、だいたいこの辺なら何とかなるかもしれないという、そんなパスやドリブルである。アマチュアならいざ知らずプロなのだからこれをやってはいけない。だから、単発であり、ムダが多くなるというわけである。その点、アントラーズは一歩上を行っていた。ACLを期待したい。

これからは、高校サッカー選手権で、早くも神奈川県代表の座間高校が敗退してしまった。最近勝てないなあ。さて、今年はどこが優勝するのだろうか、さらに熱い戦いがくりひろげられるので楽しみにしている。

2011年1月 5日

映画三昧(2011)

正月は、やはり仕事をする気にもなれないので、時間があるのでぼーっとテレビを見てしまう。でもほんとスポーツ中継以外は見るべきものがないので、さりとて出かける気もしないので、家で映画を観ようと思う。そんな映画のことを少し。

【プール】

ぼくの高校の時の友だちが、近々にタイでのロングステイを企図していて、ぼくも誘われているのだが、なんだかんだと日本での生活を脱し切れないので無理だと言っている。でも、話だけでも聞いていると何やら楽しげになるのも不思議だ。日本の時計とまた違った時間がタイにはあるという。そんなタイを舞台にした映画「プール」を観る。

「かもめ食堂」、「めがね」のスタッフが作った映画なので、出演者もおなじみの小林聡美、もたいまさこ、加瀬亮で、それに加わるのが新人の伽奈である。場所が、タイのチェンマイでそこに暮らす小林聡美扮する京子、もたいまさこの菊子、加瀬亮の市尾さんのところに、さよという京子の娘(伽奈)がひとりでやってくる。

しかしそこで繰り広げられる物語は、劇的なものではなく日常の淡々とした流れを映しだす。相変わらずのまったり感で、いつものようにまるで生活感がない。京子が働いているゲストハウスにお客さんが来るわけでもなく、市尾さんにしてもどんな仕事をしているのかもわからない。

そして、ほとんどがそこゲストハウスとその庭にあるプールが舞台なのである。この固定した場所に出入りする人間の交流というか、何気ない会話にゆったりとした解放感が感じられるのである。結局、メインは勝手に娘を置いて出てきてしまった母親と娘が少しずつ解けていくところだが、娘は母親のそうした身勝手さをなじるのだが、母親は好きなことをやればいいじゃんといって受け流すところであろう。

それで思ったのは、この母親の血液型は絶対B型だということだ。映画でタイでは生まれた曜日で占うらしいが日本では血液型だ。というのは、昨日は義弟の一家4人とうちの家族3人で会食したのだが、7人のうち息子を除いて6人が皆B型で、そうなんです、みんなが勝手なことを言って、人の話を聞かない状態で、O型のうちの息子が一生懸命とりなしてくれたのである。

映画の話である。おそらく、この映画を観た人は、なんだこの緩さは何なのかとか、現実感がないといった批判があると思うが、ぼくはそれがかえっておもしろかったのである。

【噂のモーガン夫妻】

大人のラブコメディというジャンルは、日本ではあまり見られないが、欧米の映画には楽しいものがあって、それこそ大人になるとけっこう身にしみたりする。この「噂のモーガン夫妻」は、主演が、サラ・ジェシカ・パーカーとヒュー・グラントだから、それだけでもいかにもと思わせる。

なんたって、ダメ亭主を演じたら右に出るものがいないヒュー・グラントである。今回もその魅力をいかんなく発揮している。弁護士と不動産セールスウーマンという夫婦が夫の浮気から関係が冷え切ってしまう。そして、夫はよりを戻そうと必死になるが、なかなかうまくいかないとき、一緒に食事した帰りに殺人事件を目撃してしまうというところから急展開する。

二人は殺人事件の目撃者ということで、ニューヨークからワイオミングの田舎に隔離されてしまうというわけだ。最初は都会と田舎のギャップに困惑したり、それから田舎の生活に慣れるとともに、徐々に二人の間で打ち解けてくるといったあたりがおもしろい。

もちろん、最後は和解するというハッピーエンドであるが、実は夫の浮気をなじっていたその妻も浮気をしていたというのを打ち明けるわけで、そのときの夫のとまどいがまたおかしい。これはあくまで、ほんと仮定の話だが、うちでそんなことがおきたらどうなんだと一瞬考えてしまった。これはあくまで、ほんと仮定の話だが、まずはぼくは絶対にばらさないし、妻から告白されたら許さない。これはあくまで、ほんと仮定の話です。(しつこいな)

この作品はのよさは、主演の二人もさることながら、筋立てではないかと思う。だから、物語の流れがスムーズですんなりと溶け込める映画であった。こんなのもたまにはいい。

【第9地区】

正月なのにこんな映画を観るのかと言われかねないが、「第9地区」のことである。この間ばあちゃんがさかんに宇宙人の話をするので、まあいいタイミングかなと思っただけである。どうもテレビで、UFOがやって来て、連れ去られて生還した人もいたり、ほんとうに頭が三角になっている火星人が映っていたということを放映していたらしい。

ぼくがそんなのウソだと言っても聞かないで信じきっていた。まあ、別段害があるわけではないのでいいのだが、この映画をばあちゃんに見せようかと思ったくらいだが、いささか刺激が強いだろう。

その刺激というのは、SFでありながら、妙に現実感が匂うのである。まずは、舞台が南アという設定も、そしてエイリアンが差別された住民として隔離されているなんてこともつい現実世界と対比してしまう。このように、SFの世界と現実世界が交錯しながら、一方で人間とエイリアンとの交流が描かれたりとかつてなかったような作品である。

そう言う意味で、いろいろなものが詰まっていて大変おもしろかった。こんな不思議な映画を作ってしまうアメリカに驚かされる。
  

2011年1月 6日

中小企業の情報化の課題(1)

昨年の夏から年末まで、ある中小企業の業務見える化プロジェクトに携わっていて、ハイレベルのプロセス設計が終わった。そのプロセスを見ていて、考えさせられたので、そのことについて少し書く。

この会社は、30人足らずでしかも福島に工場があるという会社なので、組織的にも数も規模も小さいから、一人ひとりの担当範囲も広くなる。いわば多能化された人の頭の中にいくつかの組織があるといった感じになる。

これは、中小企業であるとごく普通で別に驚くことでもないが、問題はそこの業務処理が個人の中でとどまってしまっているとか、あるいは属人的になってしまっているかである。そうでない場合は非常に効率的であると言える。大企業だと、組織の壁があってそれを越えるのに多大のコストがかかっていることからみると、意思決定も早いし、そのコストはミニマイズされる。

だが、実際にはそう簡単にはいかない。なぜなら、各人が持つ情報を開放して、共有するための手間がけっこうかかるので、目いっぱいの仕事をかかえているなかでは(中小企業の人たちの稼働率は高い)、そこまで手が回らないというのが多くみられる実態であろう。

もっと言えば、たたき上げのような人から情報の提供が受けにくいとか、みんなでそうしたことを話し合う機会さえなかなか取れないといった課題も横たわっている。従って、多くの中小企業では、仕事が属人的でばらばらになっているのではないでしょうか。

しかしながら、だからこそ中小企業がひと皮むけるために必要なことはまさにここのとろであると思う。今回のプロジェクトでも業務を見える化していく過程でとどんなことがわかってきたかというと次の3つの情報処理に関する問題である。

・情報(データ)が散乱していること
・情報が共有されていないこと
・情報をつなぐプロセスができていないこと

けっして、大それた問題でもなく、ごく基本のところができていないことに気がつく。日常的な忙しさにどうしても引っ張られて、少しずつ放置していくうちに、各個人の頭の中や自分のパソコンのフォルダーにデータが隠れていき、各人で閉じていくのである。

ですから、無理してでもいいから一度立ち止まって、保有情報や業務の棚卸をするとともに、上の3つの課題の解決をめざすことを勧めます。すなわち、情報(データ)を整備・一元化し、情報を共有する仕組みを作り、プロセスを作ることである。

これをどうやって解決していくかについては次回。
  

2011年1月 7日

政治とカネ-海部俊樹回顧録

またまた、政治の本である。「日本の統治構造」(飯尾潤著 中公新書)で、日本の政治の今後の課題として、内閣総理大臣(首相)の強化を指摘していたので、ちょうどかつて首相を経験したひとが書いた本が出たので読んでみることにした。

第76代内閣総理大臣で、1989年から2年3カ月首相を務めた海部俊樹が書いた「政治とカネ」(新潮新書)である。これも、まずはタイトルにだまされる本だ。カネにまつわるどんなおもしろい話が載っているのかと思いきや、まったくインパクトがない。だから、単に副題の「海部俊樹回顧録」でよかったのだ。

では、本書が回顧録としておもしろいかというとこれもいわずとしれたことばかりで何ともつまらない。ほとんどがそんなことみんな知っていると思えるエピソードばかりである。あるのは、つきあった政治家の好き嫌いで、小沢一郎が嫌いらしいことが随所に出てくるが、首相退陣をせまられた「海部おろし」で梯子を外した憎っくきやつの名前は墓場まで持っていくのだという。

海部俊樹が総理大臣に指名されたのは、その前代の宇野宗佑が女性スキャンダルで問題となり、それを抱えての参院選で自民党が惨敗し過半数割れを起こし、退陣したことを受けてである。このとき、もう一つの大きな問題はリクルートコスモス社の未公開株の譲渡問題で、自民党の有力者が軒並み関与していたため、たなぼた的にもたらされたものである。「はからずもご指名を受けまして」ってやつだ。

しかし、ちょっと前までこんなことをしていたのですね。もうひどいのは、そんな形で一国の首相を決めていたことと、なった人物がそれにふさわしくなくてもやれてしまうところにある。こんなだったから、失われた20年が始まってしまったのだ。

この本を読んでいて悲しくなってしまった。かりにも総理大臣を2代も続けて人が書く内容ではない。文章をかみしめるなんてものではなく、1時間もあれば読めてしまうようなもので、ただ単に自分の議員としての経歴と自慢話しかない。この国をどうしたかったのか、どうしようとしたのか、どこまでできたのかといったことがわずかしか書いていないのである。

しかし、よく考えてみると、尾崎行雄を言っているように、そんな政治家を選んだ、あるいは育てたのも、われわれ有権者の責任でもあるのだ。政権交代を促進させた小選挙区制は海部首相の時に決まった改革である。そして、現実に政権交代が起きたにもかかわらず、自民党時代とさほど変わらない無能な総理大臣が生み出されていることをぼくらは大いに反省をしなくていけないと思う。
  

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2011年1月 8日

就活の方向がおかしいんじゃねえ

学生たちの就職がままにならず、職に就けない人も多くいてつくづく大変だなあと思う。新卒一括採用がおかしいとか、就活を始めるのが早すぎるとか、いろいろな問題があるのだが、単純な話、大学生の数が多すぎるのと、彼ら彼女らが行きたい会社の数が少ないという需給のミスマッチが原因の大部分を占めているように思う。

だから、大学生の数を減らし、行きたい会社の数を増やせばいい。つまり、大学に行かないで高校それも実業高校(工業高校、商業高校、誰かが営業高校を作れといっていたが)に行って、社会にでてすぐ役に立つことを学べばいい。ぼくらのころはそうだった。当時の会社の実務的なところはそうした人たちが担っていた。

そして、行きたい会社の数は、大企業だけではなく、中小企業にも範囲を広げればいい。中小企業は人を欲しがっているところはいっぱいある。それは処遇とかで大企業に劣るかもしれないが、何よりも歯車にならないで、かなり重要なところまで任せてもらえる良さもある。

まあ、そうはいっても簡単にはいかないのはわかるが、少しずつでいいからそっちの方向へ変えていったらいいと思うのである。そんな折、先日の朝日新聞に大学が学生たちの就職活動を支援するプログラムを考えているといった記事が出ていた。「教育あしたへ 選ばれるより 選ぶ力」というタイトルである。しかし、読んでみるとびっくりするとともに、こんな記事を書くメディアもどうなっているのかと思ってしまう。

その驚いた内容は二つあって、ひとつが九州産業大学の支援センターらしいところに2つの札束が積んである写真が載っていて、そこには「正社員 2億9千万円」、「フリーター 9,120万円」と書いてある。生涯賃金の違いを言いたいらしい。ええー、そんなことを比較して正社員になることを煽るってどうなんだろう。それを目的化させている学校っておかしくないですか。仕事を選ぶのに生涯賃金だけが決め手になるわけではないはずです。

もうひとつは、関西のいくつかの大学の合同ゼミ発表会で与えられた課題が「考えよう、私たちが40年間働き続けたい企業とは」である。これまた唖然とする。終身雇用、年功序列の会社を望んでいるのだろうか。この変化の激しい環境の中で企業はどんどん変わり続けないと存続できないのは、これまでの日本の社会を見れば瞭然のことでしょう。

そんな世界なのに個人がその会社に合わせるように変化することってあり得ないとぼくには思える。特に研究開発とかITといった分野なんて技術のトレンドが変わったら、もうすぐにその会社では必要ではなくなる。このことは、技術系でなくても専門職はみなそうしたことが言える。なので、そういう人はずっとその会社にとどまることはないのである。

ということは、「40年間働き続けたい企業」を望む人は、非専門職で会社に良く言えば適応、悪く言えば迎合していける人たちのことである。そんな人を大学は育てようとしているのだろうか。こんな時代遅れというか、方向が逆の記事を平気で載せる朝日新聞もどこかおかしいんじゃないのだろうか。

2011年1月 9日

中小企業の情報化の課題(2)

前回、中小企業における問題を指摘し、その解決の方向性として、情報(データ)を整備・一元化し、情報を共有する仕組みを作り、プロセスを作ることであるということを提示した。そこらへんをもう少し堀り下げるというか、具体的な方策を検討してみる。

よく見かける情報の持ち方は、部署ごとで必要なものをそこだけで保有するということだ。つまり、営業は営業として必要な顧客データを持つし、経理担当は別に請求や支払い用の顧客データを持つわけである。

これは簡単に言えば、マスタがばらばらになっているのであるから、マスタを整備・統合して、一元管理できるようにすることとその管理責任者を決めることである。ごくごく基本のところであるが、できていない会社も多いのも確かだ。

情報の共有ということに関して言えば、いまやほとんどの会社にネットワークが引かれているので、単純にサーバー上に共有フォルダーを置いてもできるが、これまた多くの会社でグループウエアのようなものも入れているので、それを使ってもできる。

ただ、情報共有が意外と難しいのは、一方的な形での情報登録はすぐに破綻するということである。どういうことかというと、データを一生懸命入れたとしてもそれが自分のメリットにならないと疲れてしまうのである。自分がデータを入れることによって、皆の役に立つのと同時に自分の役にも立つというギブアンドテイク的な運用ができると有効なものになる。

そのためには、次のプロセスの問題にも関連するのだが、データの使われ方が、そしてその結果としてのビジネス成果が見え、かつ評価がされて、最初に戻ってくるというループが継続的に回っていることが大事になってくる。あなたが有用な情報を提供してくれたから、このビジネスがうまくいったんだよ、ありがとうというHappy Pathを実感することだと思う。

さて、最後のプロセスのことである。こうして、データが整備され、そのデータの出し入れや共有の仕組みを作ったとしてもそれだけではうまく仕事は回らない。各部署間を仕事が流れて結果を出さなくてはいけないからである。

もちろん、今それができていないというわけではありません。そうでなかったら会社として業務遂行が出来ていないことになるからです。要するにまがりなりにもやってはいるが時間がかかったり、手戻りがあったり、重複したりといったように非効率的になっているのである。そのためには、部署間の仕事の受け渡しや、各個人間の連携などをスムーズにするプロセスという概念を持ち込む必要があるのです。
  

2011年1月10日

最低限の結果

しかし、負けないでよかった。昨日ザックジャパンのはじめての公式戦であるアジアカップサッカーの初戦のヨルダン戦で何とか終了間近に同点に追いつく。前半のロスタイムに相手に先取点をとられたが、残り時間も短い中、長谷部のクロスに吉田が頭で合わせたものである。

戦前の注目は、ザッケローニの短期決戦の公式戦をどう戦っていくのかというところだろう。ワールドカップもそうなのだが、こういう形式だとまず大事なのは、昨年のワールドカップのカメルーン戦を持ちだすまでもなく初戦の戦い方である。もうここで大方の勝負がつく場合もある。

そういう意味でこのヨルダン戦はみものであったが、前半に先に点をとられるというミスをおかしてしまった。少なくともこうした戦いでは先行されることは大変なハンディを背負うことになるし、しかもアウエーである。だから、だめだという見方もあるが、一方でよく追いついたとも言える。

なぜ失点したのか、それは相手のシュートが吉田の足にあたってコースを変えたから運が悪かったのだろうか。しかし、それだけではないと思う。たった二人のフォワードシュートまでもって行かれたシーンが数度あったのでもわかるように、カウンター対策をしていたわりには危なかったのだ。

どうしてそうなったのかというと、バックスが引きすぎたことが原因ではないだろうか。遠藤、長谷部と今野、吉田の間が空きすぎたのだ。ザッケローニはコンパクトと言いながらここの緩さが、相手フォワードをゴールに向いてボールを持たせてしまってシュートまで行ったのである。

そして、攻撃もボールは持ってゲームは支配できているようなのだが、決定機をなかなか作れない。この原因は、本田をトップ下にしたことで、最初から香川をトップ下にもってくればよかった。本田と香川の良さを生かそうと思ったらそうすべきですよね、ザックさん。香川のスピードは引いた相手には中央で生きるし、本田のシュート力は外で生きる。

この攻守のもどかしさは、引いた相手をどう崩していくかが一向にできていないことを示している。アジアでは、ワールドカップや先日のアルゼンチン戦のように格上の相手とは違った戦いが要求されるのにそこができていない。

守備でも、相手に持たせてもだいじょうぶだろうという過信が生んだものだし、攻撃でもそのうち何とかなるだろう、あるいはゴール近くにもっていけば、誰か決めてくれるだろうなのである。

またぞろ、テレビ朝日のアホ解説者(松木)が念仏のようにサイド攻撃だと言っていたが、それなりにやっていたのに点が入らない。そりゃそうだろう、ゴール前に多人数で守っているところへ突入するわけだから無理だ。そんなときこそ、遠目からシュートを打つのが効果的なのだが誰もやらない。

なぜ、日本選手は、ロングシュートやミドルレンジからのシュートを打たないのだろうか。パスとドリブルで密集に突っ込むより、よっぽど得点の確率は高いように思うのだがどうだろうか。当たって砕けろ精神の希薄さかもしれない。まあ、まがりなりにも勝ち点をとったので、これをいい薬として次のシリア戦で持ち直して、そのあとのサウジとの対戦で上げていけばいいのじゃないかな。期待しよう。
  

2011年1月11日

おめでとう滝川第二高校

昨日に引き続き今日もサッカーネタです。昨日行われたサッカーの第89回全国高校選手権は兵庫代表の滝川第二が京都代表の久御山を5-3で破り、初優勝を果たした。まずは、優勝した滝川第二イレブンにおめでとうと言いたい。また、破れた久御山の健闘にも拍手を送りたい。

決勝戦にしては点が多く入って、その点ではおもしろい試合であった。一旦点が入ると乱打戦になることがある、昨日もファイタータイプの滝川第二とボクサータイプの久御山の打ち合いといった様相になった。最初は滝川第二が4-1まで差を広げたが、後半の後半に久御山の驚異的なねばりで、4-3まで盛り返したが、最後は力尽きた。

最近は、それぞれチームとして個性がある学校が勝ち上がる傾向がある。これは非常によいことだと思うが、言うまでもなく勝ち残るには個々の力がちゃんとしていないとダメだというのが基本である。

その個々の力というのは、技術と身体能力と知力(これは大昔から、Ball Control、Body Balance、Brainの3Bと言われている)なのである。そういう見方でみると、滝川第二は身体能力が高く、しかも技術もある、いっぽうの久御山は、技術はあるが身体能力で少し劣るという感じである。

最後の知力というのは、高校生のレベルだと個人というよりチームスタイルあるいは指導者の方針といったところに出てくる。この戦いでも、滝川のパワーサッカーに対して、久御山は同じようにやっていては勝てないので、なるべくボディコンタクトを避けるようにつなぐサッカーを指向したのである。

ということで、異質のチームが決勝で戦うわけだからその主導権争いとか、戦い方の切り替えといったことが重要になってくる。だから昨日の試合で最後にあんな形でもつれたのは、攻撃タイプの滝川第二が勝てると思った瞬間にみんなが守りに入ってしまったからである。サッカーはこういうところが恐いのである。

そして、久御山のつなぎサッカーがなかなか通じなかった要因は、つなぐことに溺れたことだ。こうした自分の策に溺れることも恐い。つなぐことにこだわるあまり視野狭窄に陥ってしまった。つまり、グランドを狭く使ってしまい、大きな展開ができなかったのだ。ぼくはもちろん国立競技場であんな観衆のなかで試合をしたことがないが、そうした環境も影響しているのかもしれない。

いずれにしろ、毎年この高校選手権を見るにつけ、高校生のレベルが高くなっているのに驚かされる。それも、全体的、平均的なレベルが上がっている。どこの県であろうと、私立であろうと公立であろうと、3年生であろうと1年生であろうと、遜色ないプレーをするようになった。もう昔のように、静岡、埼玉、広島、国見、鹿実、帝京だといった固定化はなくなったようだ。

しかし、そこでの必要条件は、良い指導者と指導方針であることは言うまでもない。

2011年1月12日

ビジネスエンジニア育成講座(9)

ビジネス要求とプロセス特定

だいぶ時間がたってしまったので、少しおさらいをしてみますが、まずはビジネスの要諦であるビジネスモデル、すなわち誰に何を提供して収益をあげるかというモデルを記述して、それの強み弱みや競合状況などの内外環境を分析しました。その結果、自分たちの置かれているポジションが明らかになってきます。

そうしたビジネスモデルの記述と分析が終わると、次にビジネスモデルに対応したビジネスプロセスの基本構造とプロセス名を書き出しました。そして、今度はビジネス要求とプロセス特定」というフェーズになります。

ビジネスモデルの分析で、新たな戦略や業務改善などといったビジネス要求が導出されます。それを実現するのは、プロセスですからそのプロセスがどれにあたるのかを検討します。そのために、ビジネスモデルとビジネスプロセスの対応付けを行ったわけです。そして、さらに業務プロセスへと絞り込んでいきますが、その手順は下記のようになります。

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最初に、ビジネス要求を記述して、その要求が実現されるビジネスプロセスを特定します。新規顧客獲得が要求だったら、顧客接点プロセスになりますし、リードタイムの短縮であれば、バリューチェーンになります。販売代理店の強化戦略だったら流通チャネルの管理プロセスだったりするわけです。

そうして特定されたビジネスプロセスはまだ大きな括りですから、それを分解して、より小さな単位の業務プロセスに落とし込む必要があります。この業務プロセスへの分解については、このあとのエントリーで詳述していきますが、あらかじめ分解された業務プロセスを持っておいた方がよいでしょう。

こうして抽出された候補の中からビジネス要求を実現すべき対象としての該当プロセスを特定することになります。
  

2011年1月13日

中小企業の情報化の課題(3)

今回は、プロセスというところに焦点をあてて考えていきます。中小企業でプロセスという概念が少し乏しいと思うのは、最初の稿で言ったように、人が少なく多能化されているので、それこそひとりの頭の中でプロセスを動かしてしまっていると言えるからである。

しかしながら、今はいいかもしれないが、業容が拡大したりだとか、人を採用したりだとか、組織を改編したりしようとしたときには困ってしまう。ですから重要なことは人や組織に依拠せずにプロセスという考え方で業務を分解していくことである。

そうしたプロセスを作るときに中小企業の場合は特に難しいことを言ってもなかなか理解してもらえないということがある。一方で大企業の場合は、逆に構成員が歯車的な位置にあるので、階層的なプロセス構造から落とし込まないと分からないことがあると思う。

そこで、提案したいのは“プロセスとは書類の受け渡しである”ということである。実はこの考え方は、2007年にこのブログで「コンポーネントの粒度」というタイトルでこのことを書いている。単位業務とは書類を作成することで、そこで出来た書類を受け渡すのがプロセスであるという考えをずっと抱いています。

こうした考え方はわりと現場の人にとっては理解されやすいものです。例えば、見積もりというプロセスを例にとると、最初に「見積依頼書」というのが起こされます。そこには、見積して欲しい要望が書いてありますので、次にそれを確認するための「見積確認シート」といった書類になります。

そして、その確認シートに従って、商品の型式・仕様あるいは金額、納期などを決めなくてはいけなくて、次々に必要な事項が決まっていき、最終的には顧客に対する「見積書」に反映されていくわけです。つまり、書類に書くべき事項を転記していくと見積書ができあがるというイメージになるわけです。

別な言い方をすると、書類を“成長”させていくというのがプロセスでもあるのです。こうしたライフサイクルをどうやって完結させていくかという見方でみると、そこにはサポートするためのリソースであったり、参照する情報であったり、それこそ誰が書きこんで承認するのだというようなよくある書類の扱いと同じに考えればいいので比較的理解がしやすいと思うのである。

以上、中小企業の最初にやるべきことについて、データの整備、情報共有、プロセス化について書いてみましたが、実際にはそれらしきソフトウエアが導入されています。しかし、それらは、そのソフトウエアの範疇の使い方だけを教えるだけで、ほんとうにその会社のやり方に合わせるにはどうしたらいいのかは教えてくれていません。

大事なのは、ここで言っているその会社として必要なデータ整備、情報共有、プロセス化のやり方を既存ソフトウエアを意識せずに設計して、それに合うようにソフトウエアなりパッケージを使う姿勢です。ところが、問題はこうしたアプローチをとった時にマッチするソフトウエアがないということです。

例えば、プロセス化というと、BPMSを持ってくればいいじゃないかと言うと思いますが、そんな高価なものは中小企業には払えないということもありますが、むしろ30人規模で一人何役もこなしながらさくさくっと業務処理をしたいという要求には応えられていないということのほうが問題ではないでしょうか。

現実にどんな具体的ソリューションになったかはまた別の機会に報告することにします。
  

2011年1月14日

ソーシャルブレインズ入門

最近の脳科学の進歩はめざましく、驚かされることが多いが、それはどちらかというと脳個体の機能と構造といったとらえ方が多い。しかし、実際には、人との関係あるいは社会との関係にさらされているわけだから、そこだけの話ではなく、ネットワーク化された社会構造の要素というとらえ方もできるはずだ。そんな脳についての本「ソーシャルブレインズ入門」(藤井直敬著 講談社現代新書)を読む。

これは大変おもしろい。近頃すばらしい本の書き手となる科学者が出現しているが、確実にその中のひとりに加えてもいいだろう。あまりなじみのないソーシャルブレインズというものを分かりやすくそして実証的にそして社会論的によくまとめてある。そこでこの本で言いたいことを大胆にまとめてみる。

ソーシャルブレインズの定義は、社会環境の変化に応じて適応的に行動を変化させるための脳機能で、その機能は、生まれたときから徐々に後天的に身につける他者とのコミュニケーションをベースにする適応能力であり、コミュニケーションを必要とする以上、その根本に母子関係の持つ特徴が残っている可能性が高いのだという。

そして、徐々に母子間のコミュニケーションの割合は低下し、他者へのコミュニケーション機能へと一般化されていき、その一般化プロセスでソーシャルブレインが獲得されていく。そして、この他者間コミュニケーションと初期母子間コミュニケーションの絶対的な違いは、他者間コミュニケーションではリスペクトが保証されていないということなのだ。

ここでいうリスペクトというのは著者の定義では「人が人に与える、母子関係に源を持つような無条件の存在肯定」としている。ぼくらはつい尊敬とか敬意といった意味でとらえるが、“存在肯定”という概念はコミュニケーションにとってとても重要だと思う。

しかしながら、この他者間コミュニケーションにおけるリスペクトは社会に広まっていないと著者は言う。それは、リスペクトを前提としない経済優先型の行動戦略がもたらす利益が、認知コストの削減から来るメリットと比較して大きなものであるからだそうだ。なるほど、カネで解決するっていうのもよくある話である。でも何でもかんでもそうなってしまうと孤立化してしまうから、その両者の兼ね合いなのだろう。

ぼくらは、脳の研究がすごいのはわかるのだけど、その成果がぼくらの生き方や生活にどう関わってくれるのかがイマイチぴんと来ていないのではないだろうか。だって、脳の機能が解明されといっても人間の心とは別の話のように思える。

だが、このソーシャルブレインという見方はけっこう普遍性があっておもしろい。そこにある、階層化の考え方や認知コスト、さらにミラーニューロンといったことが随所に出てきて、すこし飛躍するかもしれないが、こうしたことは情報システムを作る上でも参考になるような気がする。
  


  

2011年1月15日

ノルウェイの森

村上春樹の超ベストセラーとなった作品の映画化となる、トラン・アン・ユン監督作品「ノルウェイの森」は注目の作品である。主役のワタナベ君が松山ケンイチ、直子に菊池凛子、緑に水原希子、そしてキズキに高良健吾、レイコさんに霧島れいか、永沢さんに玉山鉄二といったキャストである。

これだけ、小説で有名になった作品を映画するということは相当大変な作業だと思う。今こうして、登場人物とキャストを並べたのも、それぞれの人物像が小説から浮かび上がるので、そのイメージに合っているのかという見方をしてしまうからである。

おそらく、原作を読んだ人はぼくと同じようにあの本から抱いたイメージを持って鑑賞したはずで、みな原作とは違うよなと思ったはずだ。それはしょうがないわけで、だいいち皆がみな同じ読み方をするなんてことはないからどこかに違和感を持つはずである。

ぼくは、やはりもの足りなさというか、“はしょった”感じがして、もうちょっと何とか掘り下げてほしかったと思った。しかしながら、皆さんの評価よりは高いと思います。それは、ぼく自身が映画の設定と同時代に生きていたから、その雰囲気に浸れたのである。この物語の時代設定は、1967年からだから、ちょうどぼくが大学に入る前年でほぼぴったりなのだ。

もうすべてのシーンが懐かしい。服装からして、細身のシャツに少し裾が広がったパンタロン風のパンツ、それと今では見かけなくなったホワイトジーンズ、昔はみんなが黒い服を着ていたわけではないのですよ。ただ、ロングヘアーの子がいなかったのはちょっと違っていて、“ぼくの髪が肩まで伸び”た男の子が多くいたはずだ。ぼくの髪も肩まであって、ブックバンドで綴じた教科書を片手に歩いたものだ。

学校生活も、モデルの学校と同じところに通ったので、映画でも語られるように学食の定食のAが120円、Bが100円、Cが80円で、Cも食べられないやつは60円のラーメンを食べていた。これは映画のシーンにも出てくるがタクシーの初乗り2キロが100円の時代だったから、値段の感覚がわかるでしょう。

そして何よりも、あの“安保反対、闘争勝利”のシュプレヒコールである。授業もそうした嵐の中だからまともにはできなくて、映画でも当時は向こう側にいただろう糸井重里が教授役で出ていて、学生運動家に授業を妨害されて苦虫を噛みつぶしたような表情をしていたのが印象的であった。

どうも懐かしんでいてばかりで映画の話にならないのだが、ぼくには、ワタナベ君や緑さんやレイコさんの「喪失と再生」よりもなぜか当時の風景が思い出されて、その時ぼくはどんなことを考えて、何をしていたのだろうかをずっと考えて涙していた。

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2011年1月16日

折れそうな心の鍛え方

数多くの本を書いている日垣隆の著作「折れそうな心の鍛え方」(幻冬舎新書)を読む。ぼくは普通はこの手の本は読まない。この手というのは生き方論とか自己啓発本みたいなものである。そんなこと教えられなくてもテメエで考えるからいいよというクチである。

しかし、パラパラと立ち読みしていたら「大人たちよ、映画を観てもっと泣こう」という章が目に入ったので思わず買ってしまった。ぼくはかなり涙もろいほうだと思う。映画を観てよく泣いてしまう。映画のエンドロールというのは涙を乾かす時間だと思っている。

どちらかというと笑う映画より泣く映画の方が多いように思うのだが、いずれにしろ映画の良さの一つは、普段押し殺していたような感情の発露ができて、精神衛生上よろしいということではないでしょうか。

ここの部分だけ読むわけにもいかないので、もちろん最初から読んだが、要するに自分の経験から「ウツに打ち克つ」方法を書いてあるのだ。落ち込むと何でもかんでもウツという診断をくだすのはやめようから始まって、そんな時はまずはガス抜きをしようよ、そして、応急処置として「忘れる」「埋め合わせる」で乗り越え、日々、心を鍛えましょうというものである。

さすがに、もう還暦を過ぎたオヤジが感服するには、良くも悪くもしっかりと鍛えられてしまった心は反応しなかった。それと、こうした自分克服の本を他人が読んでもそりゃああなただからできることで、私にはねえとなる。それもあるし、本を読んですぐに分かりましたなんてあり得ないように思うのである。しかし、人によっては、はっと気がついたり、書いてあることをやってみようと思うのかもしれない。特に若い人は経験値をもった人の言葉に少しは耳を傾けたらいいと思う。

それで最後の章の泣ける映画のことなのだが、これについても人それぞれで、38作品がピックアップされているが、ぼくは半分くらいしか観ていない。その中でも、え、これが泣ける映画なのというものもあって、どこか感覚が違うように思う。つまり、ブログで書いた自分の思いをつなげて本になっているだけのように思えてぼくには感じるものがなくちょっぴり心が折れそうになった。

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2011年1月17日

ビジネスエンジニア育成講座(10)

業務プロセスへの分解の考え方

前回は、ビジネス要求を埋め込むべき業務プロセスの特定という手順を説明しましたが、それにはビジネスプロセスから業務プロセスへの分解を行う必要があるわけで、それについて検討していきましょう。

前々回ビジネスモデルから「顧客接点プロセス」、「商品設計・開発プロセス」、「リソース提供・管理プロセス」、「バリューチェーンプロセス」、「収益プロセス」というプロセスに展開しました。この段階でのプロセスは大きな括りのものになっていますので、それらを分解していきます。

そのとき、注意しなくてはいけないのが、すぐに○○プロセスというふうに考えないことです。それをすると、既存にそういったプロセス名を冠したソフトウエアなどがあるため、それに影響されてしまい、ビジネス視点からシステム視点へシフトしてしまう恐れがあるからです。

ですから、まずはビジネスプロセスにある基本構造であるそれぞれの要素についてその中身を吟味することから始めます。その要素が持つ機能はいったい何をすることなのかとか、どんなことができればいいのかといったことを考えるわけです。

つまり最初の「顧客接点プロセス」は「顧客を獲得し、注文を受付ける」ということですから、この中身はいったいどんなことだろうかと考えます。顧客を獲得するといっても顧客の種類、性格によっても違ってきます。新規なのか既存なのか、既存でもリピート客なのかそうではないのかでその獲得の仕方が変わってきます。

新規顧客だと、何もしないで注文が来るわけではないので、注文をもらうためには、まずは商品を知ってもらうことをしなくてはいけないと思うはずです。商品を認知してもらうためのプロセスが要ることがわかります。それを「商品認知プロセス」と名付けるとひとつの業務プロセスが出来ることになります。

あとでは、「商品設計・開発プロセス」や「バリューチェーンプロセス」、「収益プロセス」といったものは、比較的分解しやすくイメージがわきやすいと思いますが、「リソース提供・管理プロセス」をどう扱ったらいいのか悩むと思います。

前回、経営資源の管理は、リソースの“情報”を提供することと、そのリソース自体を管理することの二つの機能に分けて考えた方がよいと言いました。そのうちいろいろなパターンがあるのが、リソース自体の管理です。もう一度、リソースとは何だったかをみると、ヒト、モノ、カネ、技術、ブランド、チャネルといったものでした。

ヒトだと、広い意味では人事システム全体が該当してきますが、ここではビジネス実行に直接関係するような機能に絞りましょう。従って、給与、福利厚生などは外した方がよいでしょう。そうなるとメインは人材管理であるとうことがわかります。

モノでは、設備の管理が主体になります。サプライチェーンを実行するために、ビジネスに必要な設備や装置を買ってくるとか、設備のメンテナンスなどを行うといったプロセスがそれに該当してきます。

このようにビジネス実行のために、それぞれのリソースが準備されているという状態を作っておくことが管理という意味で、それが重要な機能なのです。そしてそれをどう使うかを判断するためにその状態を「情報」という形でいつでも提供しなくてはいけないのです。
  

2011年1月18日

一次リーグ突破

サッカーアジア杯の一次リーグの第3戦でサウジアラビアを5-0で圧倒し、1位通過を果たした。岡崎のハットトリックと前田の2得点でフォワードが大活躍だ。本田と松井が欠場の中で、岡崎と柏木がその穴を埋めた。

サッカーというのは改めてメンタルなスポーツだと思う。モチベーションの持ち方でぜんぜん違ったチームになってしまう。2連敗で一次リーグ敗退が決まっている昨日のサウジはまさにやる気のないダメチームになり下がってしまった。

そんな相手だからこの大勝は喜んでばかりいられないがまずは準々決勝進出できて良かった。こうした長期の大会というのはどうやってチーム力を上げていくかが難しいところがあって、最初にピークを持っていくとあとで息切れをするし、徐々に上げようとすると初めに足元をすくわれる羽目になる。

そう言う意味では、日本チームはうまく上がって来ているのではないでしょうか。初戦で引き分けに持ち込んだことが大きく、その次のシリア戦で10人になりながらも勝ち越したのはそれがあったからで、サウジの勝ちは、相手のやる気のなさもあったが、そうした積み重ねから生まれたものでもある。

準々決勝は、カタールのようなので、全くのアウエーのなかでどう戦うかになる。勝つためには、昨日のサウジ戦で見せたダイレクトプレーがどれだけできるかになる。ヨルダン戦、シリア戦と違っていたのは、このことでダイレクトパスを多用していた。それによって攻撃にリズムが生まれ、大量得点につながった。それと、逆襲からのシンプルなカウンターもできていたし、だいぶ自信がついてきた証拠である。若いチームなので大会で成長するのだろう。

ところでこれと同じことを福田がテレビのやべっちFCで言ったら、セルジオ越後がどこが若いのか世界ではこの年齢はもうトップクラスがいっぱいいると言って、たしなめたので福田がいやな顔をしていた。これはセルジオ越後が間違っていて、若いというのは年齢ではなく経験のことを言っているのだ。

この番組で、その他に釜本と秋田が出ていたが、言っていることが、釜本、越後の年寄組と福田、秋田の若い世代とすごくギャップがあるのに驚いた。解説の松木も含めて年寄組の言っていることはもう古くてだめだ。遠藤をトップ下に置けだとか本田が嫌いだとかおかしい。昔の考えそのままで今の新しい潮流に対する理解もないし、受け入れようとしないのだ。これは、政治や企業のような実社会と同じような話なのである。

さて脱線したが、21日は準々決勝であるがぜひ勝ち上がって2大会ぶりの優勝を勝ち取ってもらいたいものだ。
  

2011年1月19日

なぜiPhoneやiPadにはマニュアルがないのか

こんなタイトルを思いついたのは、業務システムも同じようにならないのかと思ったからである。いつもびっしりと書かれた分厚いマニュアルをみながら苦闘するのでついそういう思いになるのだ。

それと、最近業務システム開発ということに関して、いくつかの問題に当たって考えさせられたからでもある。その問題は、ユーザ主体の開発という動きや単純な受託開発を避けるような話とかが聞こえてきたり、既成のソフトウエアをさわったりして感じたことである。

その問題の行き着くところは、もう何回もこのことについて書いているのだが、いまの業務システムにはオペレーションという視点が抜け落ちているよなあという感覚である。上記の問題の根源は、システム開発がまずありきというスタンスにあると思う。つまり、システムをどうやって作るかが優先しているのである。

このことを考える時に思い浮かぶのはiPhoneやiPadのことなのである。こうしたシステムはどうやって作るかが先に来るのでしょうか。違いますよね。ユーザがそれを使って遊んだり、コミュニケーションをしたり、情報を取得したりするために、どのようなUIにするとか、操作性をどうするのか、どんなことができてほしいのかといったオペレーションがまずありきですよね。あるいは、どういうスタイルでこれらを使うかという提案をすると言い換えてもいいかもしれません。

だから、マニュアルも要らないのです。ユーザがこうやって使いたいというのを表現しているだけだからであり、さわっていれば使えてしまうのです。こんなことを言うと、個人ユースのことであって、業務システムとはぜんぜん違うと言われるかもしれないが、あえてオペレーションという観点から考えてみたらと言っているのです。

というのは、個人ユースでも企業情報システムでも、結局は情報をさばき、コミュニケーションを行い、意思決定しているのは全く同じだと思うのだがいかがでしょうか。家の中やプライベート空間ではITの高度な使い方ができているのに会社に入ったとたんにプリミティブなインターフェースだったらがっかりするのではないでしょうか。

ですから、ここであえて言っているのは、会社の仕事ってどのようにして行っているかをよく考えてみたらということなのです。そうするとまたぞろ、業種業態が違ったらとか、業務形態だって様々だからそんな簡単なものではない、あるいはiPhoneやiPadはしょせんツールでしょとか言われる。たしかにそうなのだが、ひとり一人の人間のとる行動局面で言えば、共通的な考え方でいいと思うのである。

もっと言えば、仕事を楽しく気持ちよくできるにはどんな道具であってほしいのか、どういう機能があればいいのかということを真剣に考えてみることだ。いまの旧態依然とした業務システム開発や中途半端な完成品となっているソフトウエアあるいはパッケージではここの観点が希薄なのである。

ぜひとも、マニュアルがなくても使えるお仕事システムを作ってほしいのです。(ぼくなりに考えたものは作っていますが)このことを第一に考えることなしに、速く開発するにはどうしたらいいのかとか、ユーザに作らせるためにはどうしたらいいのか考えても、従来型システムを作り続けている限りは、いっこうにエンドユーザが満足できないのではないか思うのである。

2011年1月20日

クレアモントホテル

平日の岩波ホールは、年配の女性客でいっぱいだ。最近の映画館は年寄が多くて驚くが、ここは場所柄年齢層が同じでもどちらかというとインテリっぽい人が多い。「クレアモントホテル」(ダン・アイアランド監督)は、イギリスを舞台に老婦人と青年のハートウオーミングな物語である。その主人公に自分を写しているのか、老婦人のお客さんが多かったのである。

主演の老婦人と青年を演じるのが、ジョーン・プロウライトとルパート・フレンドである。このおばあさんがいい。品があってユーモアがあってしかも快活的でイギリス婦人然としている。

この老婦人がロンドンのホテルに長期滞在すべくやってくるのだが、そこからユーモラスな会話とシーンが展開される。イギリス料理をからかった定番のジョークから始まって、予想と全く違ったホテルにとまどいながらもすぐに溶け込んでしまう。

そこのホテルでは、老いた人たちが人生の終わりを過ごしていたのである。何やら高級老人ホームといった趣で、退屈な日々の生活に加わった主人公は、徐々にそこの滞在者たちと交流していく。そんなときにある親切な青年と出会う。作家の卵だという彼は食えないので路上でギターを弾いて糊口をしのいでいる。

そして、ひょんないきさつからその青年に孫の身がわりを頼むことになる。老人というのは、身うちの自慢をしたがるもので、そうした話題が日常の会話を占め、時にその自慢の身うちが実際に現れると鼻高々ものである。このあたりは万国共通なのだと思わされる。

こうして、その替え玉にまつわる滑稽な場面や老男性からプロポーズされたりするが、徐々に家族のことや自分の持病のことなどが明らかになってくると老いのさびしさ、不安などが描かれていく。それと対をなすかのように青年は新しい恋人が出現して、前途は明るくなるのである。

実はシリアスな話なのだが、それを落ち着いた演出とユーモアをちりばめた味付けで非常に楽しめた映画であった。阿川弘之が「大人の見識」で書いていたように、イギリスのユーモアとは単なる滑稽感覚ではなく、人生の不条理や悲哀を鋭く嗅ぎとりながらも、それらを笑いとばすことで、陰気な悲観主義に沈むのを斥けようというものだ。改めて、さらりと描かれた、あるいは描いたイギリス人のユーモア感覚にしびれた

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2011年1月21日

なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか

ぼくはパチンコというものを今は全くやらないし、まわりでもやる人は少なくなっているように思う。若いころはけっこうはまったこともあって、その中毒性についても恐いと思う。そんなパチンコの実態について、お隣韓国では全面禁止にしたのに、日本では相も変わらず全国いたるところでちんじゃらじゃらとやっている。それを憂い告発する本が「なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか」(若宮 健著 祥伝社)である。

ぼくの最後のパチンコはもう20年以上も前になる。忘れもしないのだが、三重県の四日市に住んでいたころ、小学校低学年と幼稚園に行っていた二人の息子をドラえもんの映画に連れていった。ぼくは一緒に見るのも何なので、劇場のもぎりのおねえさんに二人の面倒を頼んで暇つぶしにパチンコをしたのだ。

それが、あのフィーバーするってやつで、そんなの初めてだった。ところがたった200円で打ったらすぐに何かぴかぴかして玉が出るは出るはで、どうしていいかわからなくておろおろしていたら隣のおっさんが箱を持って来てくれた。そんなわけで、夢中になっていたら子どものことをすっかり忘れてしまった。あわてて映画館に行ったら二人がさびしそうに座っていてぼくは睨みつけられた。それがパチンコの最後だった。

ところが、これには後日談があって、もちろん出玉は換金して、何に使おうかと考えたときに、そうだ自転車を買おうと思ったのである。それで会社へ通勤だ。われながら言い使い方だと悦に入ったのだが、3日ぐらいして街で吞み会があったのでその自転車で行った。ところが、吞み会が終わっていい気分でさあ帰ろうかと思って置いたはずのところに行ったのだが、無い。買って3日で盗まれた。悪銭身につかずってやつかなあ。まだまだ、後々日談もあるがここまで。

だいぶ自分のパチンコ話が長くなったが、この本を読んで、日本でのパチンコの問題が相当深刻であるのがわかって恐ろしくなった。何が驚いたかって、その市場規模である。一時は30兆円といわれ、今はだいぶ減ってきたがそれでも21兆円なのだ。これは、ラスベガスやマカオの10倍ぐらいだそうだ。

そして、パチンコの抱えている問題やおかしなところは多く、また根が深い。

・実質ギャンブルなのに遊戯となっているので風営法の対象となっている
・遊戯なのに射幸心をあおっている
・換金できるのに違法ではない
・依存症の人が増えていいて、特に主婦が多く、悲劇を多く生み出している
・利権に群がる政官業の癒着がある。政治家は献金を受けている。
・ひとりあたり年間120万円も使っている
・どこの駅前にもパチンコ店がるというおかしな利便性

まだまだ、ほとんどが朝鮮系の店であるといったことも含めて、実態を知らないままに多くの人がパチンコ依存症に陥っていることにびっくりする。その責任は何もしない、というかむしろ業界を擁護する政治家と事実を伝えようともしないマスコミにあると著者は言っている。

ただ、難しいのはだからといって韓国のように全廃できるのかということである。それは利権とかいったことではなくて、依存症になるのはあくまで「自己責任」なのだからという見方もあると思う。でも、ぼくとしてはその限界を超えているように思う。そうした弱い人間を食い物にした21兆円という巨大な集金システムが恐ろしいのだ。

要するに、たった数千人の莫大な利益のために、数百万人を泣かせる行為を平気で放置していることがおかしいのである。ただ日本では、だから全廃しなくてはいけないという極論でなくてもカジノのような形で運営すればいいじゃないかと思うのであるが、まず事実をちゃんと把握することから始めないといけないのかもしれない。
  

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2011年1月22日

キミらは強い!

今朝の目覚めは最近にないほどすっきりしたものであった。昨日の夕方に久方ぶりにプールで泳いで汗もかいたたせいもあるが、何と言ってもアジアカップ準々決勝での日本代表のあざやかな逆転勝利を味わったからである。

地元のカタールを相手に、しかも途中でDF吉田の退場もありながら勝利した力はほんとうにすごい。ザッケローニもびっくりしたんじゃないかな。前半にカタールのオフサイドぎりぎりのこれしか得点できるパターンがないのではと思わせるカウンターで先取点を取られる。

これまでの日本チームだとずるずると引きずってそのうち焦り出すというのが常であったがいまは違う。すぐに岡崎のキーパー越えのボールを香川が押し込んで同点にする。これが大きかった。同点で始まった後半、吉田の悪質ではないファウルでイエローをもらい退場をくらっているすきにフリーキックで勝ち越される。

その後が圧巻である。10人になってもひるむことなく攻め、香川の一瞬のスピードで抜けたシュートと同じような飛び出しでこぼれたボールを伊野波が決めた2得点で逆転してしまった。シリア戦も10人で勝ったし、従来のひ弱さを感じさせないチームになっている。

昨日の立役者は何と言っても香川でしょう。やっとチームになじんできたというかまわりとかみ合ってきた。かなりボールにもさわっていたし、気持ち良さそうに動けていた。それとやはり、欧州組ですね。本田、長友、長谷部がいい働きをしていた。

サウジ戦の後、どれだけダイレクトパスが通せるかがキーであると言ったが、昨日もつなぎに入ると相手のペースになって、ダイレクトが入るとこちらのリズムになっていた。現実的にはずっと自分たちのペースを維持するのは難しいので、単純な話、相手のリズムの時得点を許さないで、自分のリズムになったときに得点するというのが定石であろう。

今の日本チームはそうしたコントロールが少しずつできるようになってきたのではないでしょうか。それと、攻撃のパターンが増えたようにも思えた。みんなサイド攻撃ばかり言うが、昨日は内側からで崩したことがそれを物語っている。サウジ戦はサイドからのクロスが効いたが、昨日は全部中央突破だ。

それができたのは、香川と岡崎の個人技だったのではなく、そこへのパスフィードが光っていたからである。特に、1点目の岡崎にふわりと出した本田のダイレクトパス、3点目の香川に出した長谷部の早いグラウンダーのこれまたダイレクトパスである。このパスが勝利を呼び込んだのだ。何もサイド攻撃だけではなく、それが抑え込まれたときの中央攻撃ができるという幅ができたことがすごく大きいと思う。香川と本田がそれをもたらしている。彼らはまじすごい。

しかしながら、気になるのはディフェンスである。昨日の2失点は、いずれも吉田と川島のミスである。レフリングに惑わされてしまい、集中力を欠いたのはいただけないし、最後のシュートを股下と脇を通されている甘さは修正しないといけない。

さて、いよいよ準決勝である。おそらく相手は韓国であろうから、ぜひ破って決勝に進んでもらいたい。もし負けそうになったら誰か退場になって10人にすればいい。(笑)

2011年1月23日

ミルク

いまや、ゲイといってもそれほどの偏見もなくなって、むしろそれを売り物にする芸(ゲイ)人もいる世の中になっている。まさに隔世の感があるが、30年、40年前までは保守的な人たちから蛇蝎のごとく嫌われていた。そんな時代にゲイの人権を守る戦いを挑み暗殺されたハーヴェイ・ミルクという政治家の伝記ドラマである「ミルク」(ガス・ヴァン・サント監督)を観る。

この実在の人物であるミルクは、ニューヨークの保険業界で働いていたが、自分がゲイであることをカミングアウトして、サンフランシスコに移り住んでカメラ屋を開く。この店があるカストロ通りはゲイなどの同性愛者やヒッピーが多く、たちまちそうした人たちのたまり場になるとともに、指導者となっていくのである。

このミルクを演じているのがショー・ペンで、悩めるミルク、立ち上がるミルク、かわいらしいミルクを熱演する。暗殺されることを予期したように、録音テープに吹き込む自分の歩んできた道をなぞりながら映画は進行する。

このミルクが起こしたムーブメントは、徐々にクローゼットに隠れているひとびとを引っ張り出して、自分たちの存在と持つべき権利を主張して、その波が大きくなっていくのである。このような運動は強い共同体意識を植え付けていき、ついには保守派を破ってしまうのである。このあたりは、ショーン・ペンの抑えの利いた演技が秀逸で最後は泣いてしまった。

映画を観ていて感じたのは、偏見というものがどうして出てくるのかである。自分たちの道徳や倫理感から外れたものは異端であると思うわけで、そのとき、その違いが本人の責任あるいは犯罪的であるなら、そうした排除は仕方ないかもしれないが、そうではない場合、例えば肌の色や人種といったことなどもそうだが、それは多様性であり、マイノリティであっても認知すべきことだろう。

いまでこそ、そうした考え方も市民権の得てきたが、当時はまだまだであった。そんな時代で権利を主張し獲得するのは命がけであった。アフリカ系アメリカ人公民権運動のキング牧師と同様にすさまじい戦いを行ったのである。キング牧師が「私には夢がある」といった有名な演説があるが、この映画でミルクが録音テープに吹き込んだ最後の言葉が印象的だ。

希望がなければ、私たちはあきらめてしまう。もちろん希望だけでは生きられない。 でも、希望がなければ人生は生きる価値などない。 だから、君やあなたやあなたたちは希望を与えなくては。彼らに希望を。
  
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2011年1月24日

ビジネスエンジニア育成講座(11)

業務プロセスにはどんなものがあるのか

ここでは、具体的にどんな業務プロセスがあるのかを見ていきましょう。前回ビジネスプロセスから業務プロセスへの分解の考え方を議論しました。ビジネスモデルの構成要素とビジネスプロセスを実行するためには、どんなことをするさらに細かいプロセスが必要なのかという見方で分解していきました。

ここで注意しなくてはいけないのは、ビジネスモデルを作るためのプロセスではないということで、繰り返しますが、ビジネスモデルを実行するための受け皿となる業務プロセスの抽出ということです。そうした観点の分析で浮かび上がったものを挙げてみます。

1.顧客接点プロセス
顧客獲得プロセス/商談・営業プロセス/契約プロセス/顧客囲い込みプロセス/保守サービスなど

2.商品開発・デザインプロセス
調査・研究プロセス/新規商品開発プロセス/商品設計プロセスなど

3.リソース提供・管理プロセス
採用プロセス/人材管理/設備管理/保全プロセス/資機材調達プロセス/資金調達管理プロセス/知的財産・特許管理プロセス/ブランド管理プロセス/サプライヤ・販売代理店管理プロセスなど

4.ビジネスチェーンプロセス
生産計画プロセス/調達プロセス/生産出荷プロセスなど

5.収益プロセス
代金請求・回収プロセス/価格決定プロセスなど

とりあえずこんなところになります。これでもまだ抽象的なので実際にはもう少し詳細化する必要がありますが、ここまでくれば、そこをあまり突っ込むのではなく、プロセスの構造の方に向かった方がいいと思います。

ここをいくら詳細化したところで参照モデルを作ることになってしまいます。目的はそこではありませんので、業務プロセスがもつべきだいたいの必要機能を網羅していればいいと思います。こんなプロセス機能があればビジネスモデルが実行できるなということがわかればよいと思います。
  

2011年1月25日

ホーレンソーはもう古い!?

先日のエントリーで企業における業務システムでもオペレーションという観点を大事に考えて、仕事のしやすいシステムにする必要があるというようなことを書いた。それに関連して、「ホーレンソー」ということを考えてみた。

ご存知のように「ホーレンソー」というのは、「報・連・相」のことで、報告、連絡、相談をちゃんとやりなさいということで、よく新入社員教育だとか上司の戒めの言葉などで出てくる。仕事をするうえで大切なことだと教わるのである。

こうした戒めの言葉があるということは、それがなかなかできていないからとも言える。報告も連絡もましてや相談もしないで勝手にやるやつがいるからこそ出てきた言葉だ。ただ、この好き勝手にやってしまう輩は、時代とともに変わってきたように思える。

ぼくらの若い頃すなわち戦後の経済成長時代では、上司の言うことなんか聞かずに勝手に仕事をやってしまう豪傑のようなやつがいた。まあ、多少そんなことも許された雰囲気があった。

ところが現代では、むしろ引きこもり的な勝手があるように思える。つまり、自分だけの中で仕事をこなそうとしてしまうことである。この場合は、あとで事が発覚して困ったりする。昔の勝手はやっているのがある程度見えるのでまだましかもしれないが、現代の勝手は内にこもってしまうのでかえってやっかいかもしれない。

それはともかくとして、今でもいちいち報・連・相というのが要るのだろうか。もちろん全く不要だというのではなく、従来のような形のものが要るのだろうかということである。ITがない時代に生まれた言葉が、ITがこれだけ浸透した時代になっても通用することなのだろうかと思ったのだ。

ぼくらの若いころは、ITがなかったからどうしたかというと、電話と机の前や黒板の前でそれこそたばこを吸いながら会話をしていた。そんな時代では、確かにホーレンソーが必要であった。しかし、現代ではひとり一台のPCが机の上にあり、電子メールがある。そうした環境は以前に較べればホーレンソーがしやすいはずである。

ところがである。かえってそれが阻害要因になっていやしないだろうか。これは皮肉な話なのだが、PCが机の上に置かれたおかげで隣の人とも電子メールでやり取りするようになってしまった。あるいは、コンピュータで打ち出された帳票をただ置いていくだけなのである。

こうしたことは何を意味しているのかというと、ITがホーレンソーに対してあまり役に立っていないということなのである。もちろん、ITは“電子計算機”とか“レポート出力機”としては機能しているが、人が協力しあって仕事を進めていくことに限って言えば、言い過ぎかもしれないが、ITがなかった時代より退化しているとも言える。

従って、これからのITは、オペレーションしながらホーレンソーが自然にできるような仕組みと仕掛けを提供することが大きな使命であると思う。それはどんなものかと言うと、「仕事の場」を提供することで、つまり関係者が業務の遂行を通して、その場に集うことで自然なコミュニケーションが起こり、その会話自体が報告となり、連絡となり、相談となるというイメージです。

この考え方こそ、オペレーションを第一でみていこうというシステム作りの精神なのです。

パレード

若者というのはどうも共同生活をするのにあこがれるようだ。ぼくらが若いころ、テレビドラマで「俺たちの旅」とそのあとの「俺たちの朝」というのがあって、前者は中村雅俊、後者は勝野洋主演で悩める若者群像が描かれてよく見ていた。特に、「俺たちの朝」は鎌倉の極楽寺が舞台で、そこで共同生活を始めるという設定には親近感もありうらやましく思ったものだ。

吉田修一の同名の原作を行定勲監督がメガホンをとった「パレード」は、共同生活を行う現代の若者を描いたものである。藤原竜也、小出恵介、香里奈、貫地谷しほりが演じる男女4人が東京の2LDKマンションを借りてそこに住んでいるという設定である。

それぞれは映画会社の社員、大学生、イラストレーター志望、フリーターといったお互いにつながりがあるわけではない4人が暮らしている。だから、ぼくらがあこがれた「俺たちの朝」からはかけ離れた生活である。ウエットな世界とドライな世界の違いなのだが、やはり時代とともにずいぶんと意識が変わってきているのだろう。

だから、お互い干渉するわけでもないし、映画の中でも言っていたが、ネットの掲示板みたいなもので、たまたまその場にいるだけで、刹那的な関係なのだ。ぼくらの歳のものにとっては信じがたいのだが、それが現代なのかもしれない。そんな世界を映画では、4人の個別の素状を別々に追い上げることで描きだしている。

ところがそうした心的関係性のない生活空間にサトルという男娼が登場するとにわかにざわめきが起こる。そうなんです、一見静かに見える水面は石を投げられると一気に波紋はひろがるものなのだ。そして4人の生き方に変化が起きてくる。

しかし、この映画は恐ろしい映画だ。日常に潜む狂気があっと驚くように見ている人の前に現れてくる。その狂気を前に、その凶器を前に、正気とは何か、暴力とは何かを鋭く突いてくる。これが別に特殊なことではなく、どこにでもあるような気にさることでなおいっそうの恐怖を抱く。行定監督の狙いなのであろう。

マサルを演じた林遣都も含めた5人の若手俳優たちの演技も非常に自然体でなかなか見応えのある映画であった。
  

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2011年1月26日

たくましくなった日本代表

こんなシーンはかつてあっただろうか。昨日のサッカーアジア杯準決勝でPK戦の末韓国を破った戦いである。この宿命のライバルとの試合はこれまで逆のシーンは何回も見せつけられていたが、昨日は何と韓国の選手が試合が終わってユニーフォームで顔を覆ったのである。

日本の選手がそれだけたくましくなったのだと思う。もう彼らには韓国コンプレックスはなくなったのではないだろうか。先制されても、あるいは試合終了直前に同点にされても臆することなく戦う姿をみて感動した。

試合は、前半20分に韓国のパク・チソンに対する今野ファウルでPKを取られ先制される。まあ、これでPKはちょっと酷だ。確かに今野は正当なショルダーチャージと主張していたが、ボールを見ないで当たっていったのでファウルにはちがいないが、PKというのは点が入ることだから、その重要度は非常に高いのでやたらと取るべきではない。

点数がたくさん入るスポーツだとそうでもないがサッカーはすごく貴重なので慎重にPKを取るべきなのである。すなわち、その反則がなかったら1点入る可能性がある程度あった場合に限るべきなのである。あのシーンは、そうした見方からするとちょっと首をかしげる。それがあったのかどうかわからないが、延長で岡崎がPKを取ったシーンはペナルティエリアの外だからあれはFKにすべきものであろう。

今大会でレフリーの笛の問題が言われているが、中東のレフリーのレベルがイマイチなのは、ファウルを取る技術とかではなく、この埋め合わせ的、あるいはつじつま合わせのようなレフリングをすることがある。前半でもまたパク・チソンが倒されたが、こちらの方がPKに値しているが笛を吹かなかった。これは審判としての毅然たる態度を崩していることになるのだ。

レフリングの話が長くなってすいませんでした。そのあと36分に日本が理想的な攻撃を見せる。本田から長友にきれいなスルーパスが通り、長友が中に切れ込んで前田にパスして決めた。この素晴らしい攻撃は、本田のキープ力と長友の長い距離のオーバーラップ、前田の位置取りと各人が得意とするパフォーマンスを見せた結果である。

その後は一進一退で延長に入るが、先に日本がラッキーなPKをもらい勝ち越すが終了直前にFKから失点しPK戦となったが、川島のファインセーブと韓国選手の息切れで勝利する。ただ、この最後の失点はいただけない。まずは、最後に投入された本田拓也が入れ込み過ぎてファウルを犯して相手にフリーキックを与えてしまったことである。

相手も196Cmの選手を入れて彼の頭に充てる作戦できているということは、いい位置でのFKを与えることは絶対に避けなくてはいけないのに、本田拓也にはそれがわかっていなかった。それと、ボールが入ったあとみんなが興奮してしまったことだ。ああしたゴール前の混戦では、ゴールを守ればいいのであって、みんなが一斉にボールに行くことはないのだ。

それにしても、いい試合でいい勝利であった。いつも日韓戦で思うことは、チームが似ているようでだいぶ違うということである。その一番の違いはは何かというと、個性と非個性にあるように思う。つまり、日本は個性の集まりとしてのチームで、それに対して韓国は同じようなタイプの選手の集まりということだ。個性というのは、身体つきとか体力とかいったことではなくプレースタイルとでもいったらいいと思う。

韓国はパク・チソンになれないパク・チソンだらけと言ったら言い過ぎだろうか。だから、いっこうに誰だか名前と一致しない(そういえば名前も非個性的だ)。一方の日本では本田、香川、岡崎、長友、遠藤、松井、前田、内田、長谷部などどれをとっても特徴を持っている。そして、これまでの戦いでは、この個性が非個性集団に力づくでねじ伏せられていたのである。

このことは、韓国が世界レベルではなかなか通用しないことを意味している。なぜ通用しないかというと、簡単に言うと”意外性がない”からである。同じようなプレーを繰り返すだけになっている。世界レベルは日本の上をいく個性派チームだから、レベルが高い個性は逆にこうした弾丸チームを凌駕してしまうセンスとワザがあるのである。意外性を発揮するのはこのセンスとワザが不可欠だ。

だから、日韓はいまは拮抗した戦いをしているが、将来性あるいは伸びしろという点で、ぼくは韓国には限界があって、日本の方があるとずっと思っていたのである。やっとそれが現実になろうとしていることにいま興奮しているのである。
  

2011年1月27日

ビジネスエンジニア育成講座(12)

業務プロセス構造化

前回のエントリーで、ビジネスプロセスを分解して業務プロセスを洗い出すことを行いました。つぎは、そうした業務プロセスの構造化を行います。構造化とはいったいどういうことなのでしょうか。私は以前次のように定義しています。

(1) 全体を俯瞰した上で、構成要素に分解し
(2) それら構成要素間の関係を分かりやすく整理し
(3) 統合化されたモデルを作ること

これを思い出してほしいのですが、すでにビジネスモデルを考えたときにも同じようなことをやったのを覚えていますか。業務プロセスレベルでも同様の考えかたで構造化してみましょう。すなわち、業務プロセスというのはどういう構成要素から成り立ってその関係はどうなっているのかをみていくことです。

プロセスというものの特徴の一つは時間の要素を含んでいることがあります。ということは、始まりと終わりがあるということです。何で始まって何で終わるのかがプロセスを規定するうえでかなり大事なことになってきます。つまり、プロセスの始点と終点を定義することが構造化作業の最初になります。

そうなると、始点が先か、終点が先かといった議論になりそうですが、そこはこのあとのプロセス設計で詰めていきますので、ここでは構造上の出発点と終わりって何なのだろうかと考えることをします。

そして、それが決まると次は、この始点と終点の間に何があるのか、そういうものをどう配置すればいいのかになるわけです。プロセスが始まると何かのアクティビティを繰り返して、終点に行き着くという流れができるわけです。ここでアクティビティという表現をしましたが、タスクでもいいかもしれません。あまり言葉に拘泥しないでもいいと思っています。要は、中身がどんなものをいうかをきちんと定義できるかになります。

ここでも注意したいのは、普通の言葉で考えることです。ひょっとすると、「プロセスの始点はイベントドリブンだから、そのイベントはシステムのどこのアウトプットからきて・・・」なんて言わないで、仕事で会話している時に使っている言い方でかまいませんので無理をしないでください。

ただ、いきなり一般化された言葉で構造表現をするのは大変難しいので、何か例をもってきて帰納的なアプローチが有効かもしれません。例えば、身近なものとしてレストランで食事の注文に対して調理して出すなんてプロセスを考えてみるといったことです。

ということで、ここが構造化の最初の骨格作りになりますが、まだ個別概念でとどまっていますのでそこから抽象化、一般化していきます。
  

人はもともと保守的なのである

もっと新しいことを考えろよとか、同じことの繰り返しじゃつまらないだろうとかといった変化要求をつきつける上司がいる。現にぼくもそんなことを言った記憶がある。「出る杭は打たれるが、出ない杭は腐る」とか言って叱咤していた。つい人はいつも革新的であったほうがよいと思いこむ。

ところが、先日読んだ「ソーシャルブレインズ入門」(藤井直隆著)のなかにけっこうショックを受けた記述があった。それは、人の脳の構造はそもそも保守的なものであるということである。その辺のくだりを転記してみる。

認知コストをできるだけかけることなく、自分にとって最適な社会環境を維持することが、わたしたちのソーシャルブレインズの第一原理と考えることに無理はないと思います。これはあらゆる人が保守的傾向を持つことを、うまく説明してくれます。なぜなら、認知コスト的に見るならば、脳自体が構造的に保守的なのですから。 つまり、部下に行動を改めることを要求するということは、部下の脳内部での行動規範を更新させることであり、問題解決に必要とされる認知コストを支払わせる構造になるわけです。

ここでは、認知コストがかかるから何もしたくないというのが基本的な脳の戦略だということである。なるほどそうなんだと納得したのだが、では人を革新的な行動に向けるにはどうしたらいいのだろうか。著者は受験勉強を例に、意味のない受験勉強は認知コストの浪費で、脳は勉強したくないというのだという。ところが、勉強が好きになるとか、勉強によって得られるベネフィットが理解されると、そのコストとベネフィットのバランスで積極的な行動がもたらされるという。

これって経済学的な考えにも似たところがあって、要はコストとベネフィットで人は動くということは、インセンティブとかモチベーションといった概念にも通じる話である。ちょっと飛躍するかもしれないが、会社の中で毎日ルーティンワークばかりしている人が普通なんですね。

ただ、別の見方をすると、ルーティンで脳を使っている可能性もある。つまり、脳の認知コストを創造的なところと定型的なところにどう配分しているかの問題なのだが、人によってそんなものは定型化すればいいのに、そうしないであたかも創造的な仕事だと思っているケースがあるのではないかということである。

結局、脳は認知コストミニマムを指向するのはそうなのだが、朝起きて顔を洗い歯をみがく行動はほとんどコストがかからないように、仕事も定型パターン化できるものはそうすることによって、脳をもっと創造的な領域で働いてもらうという努力をすることが大事なことのように思うのである。
  


  

2011年1月28日

食堂かたつむり

小川糸原作の「食堂かたつむり」(富永まい監督)を観る。小川糸は女性に人気の作家なのだそうで、この本は2008年にあの噂のポプラ社から出版された。第1回ポプラ社小説大賞に応募したが最終選考にも残らなかったらしいが出版された。昨年の第5回大賞が斎藤智裕(水島ヒロ)で話題をさらったやつです。

だからといって映画には関係ないことだが、若干気になるところでもある。なぜって受賞してなくてもベストセラーになる作品とひどい出来なのに受賞してベストセラーになる作品を対比したいと思うからである。はたして、映画ではそんな評価ができないという当たり前の結論である。

ただ、映画評では原作の良さを消しているとかけっこう評判が悪い。しかし、ぼくにはそんな酷評が理解できないくらいまあまの出来に見えた。物語は、だらしのない母親から見放された少女が祖母のところで料理を教わって、料理人になり、最後はその母親とも和解するみたいなストーリーである。

ぼくには娘がいないので、母娘の関係というのがよくわからないのだが、女性にとってはいろいろな葛藤や、好悪もあって複雑なような気がする。この映画でも、自分を捨てたような奔放な母親とそりが合わないが、徐々にその内面へと入り込みながら理解できるようになる。

こうした母娘の関係という横糸ともう一方で得意な料理の腕を生かすべく食堂を開くという縦糸が織りなす世界が展開する。原作にないファンタスティックな世界を中島哲也風に見せたことも不評みたいだが、ぼくにはこれも楽しかった。

ただ、この映画を観ていてちょっと感じたのは、現代の母娘はこの映画のふたりのように修復可能な関係を維持できるのだろうかとふと思ってしまった。ぼくの持論は、幼いときの親の愛情が濃ければ濃いほど大きくなっても壊れた関係を修復できると思っているからである。つまり、この映画はぎりぎりのところで母親の愛を感じられていたからこそ再生できたという話である。
  

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2011年1月30日

ソーシャル・ネットワーク

最近、うちの社長(息子)のまわりでFacebookが盛り上がっているし、社長もそれがらみのサービスを作ったりしている。デヴィッド・フィンチャー監督「ソーシャル・ネットワーク」は、そのFacebookの創設者であるマーク・ザッカーバーグの物語である。しかし、世界で5億人ものユーザを抱えるSNSに育て上げ、億万長者となった若者の成功物語ではない。

そもそもマーク・ザッカーバーグを知的財産権の侵害で訴えた側が書いたものを原作としているから、良くは描かれていない。そして、技術者というより起業家としての側面が多く登場する。それでもフィンチャーは好意的に映し出していると思う。もう時代は変わったのであって、既成概念での評価はあたらないぞと言っているようである。

たとえば、あちら側の人間として訴えたほうの双子の兄弟や親友でCFOとして一緒に会社を立ち上げたエドゥアルドがスノブに見えてくる。彼らは今までの価値観でいうと普通なのだろうが、マークやその後パートナーとなるナップスターの創設者であるショーン・パーカーの前ではたじろがざるを得ない。

これはいいか悪いかではなく、現に起きている変化なのである。それはもちろん頭の中の理屈で考えることではなく感じることなのかもしれない。その典型的な言葉が「Cool」である。エドゥアルドがFacebookに広告を載せるモデルでお金を生み出そうと言うが、マークは、それはCoolではないと言ってはねつけるのである。逆に、ショーンが、最初はThe FacebookだったのをTheを取ったほうがいいと進言すると、すぐにそれを実行する。それはCoolだからである。

この映画で、マーク・ザッカーバーグは人のアイデアを勝手にパクリ、ガールフレンドにはカチンとくるようなことを平気で言う鼻持ちならない“子ども“として描かれる。では、マークはオタクなのだろうか。ぼくはそうには思えない。5億人もの人間が使いたがる道具を作れるやつが単なるオタクではありえない。そうしたサイトを作れるにはぼくは昔から言っているのは3つのIが必要だということである。

それは、Imagination、Idea、Intelligenceの3つのIである。豊かな想像力から生まれた斬新な着想を高い知性で実現することなのだ。マークはこれができる人間だったということである。ですから、双子の兄弟が、自分たちのアイデアをパクられたといって訴えたが、そんなものは単なる思いつきであり、それが知的財産になるわけではないのだ。

そうしたことは、Webのサービスではよくあることで、みんなアイデアと称して持っている(と思いこんでいる)。しかし、それは持っているだけでは何にもならないのであって、それを形に変える、サービス化して初めて価値が生まれるのである。そこが実は非常に難しいからこそ、天才がしのぎを削るのである。

エドゥアルドにしても、投資会社が入っていつのまにか自分の持ち株比率を大幅に減少させられて怒るわけだが、Facebookの自分のプロフィールを変えられないという、そんなイケてない人間をもはや必要ではなくなったことを理解できないのである。

おもしろかったのは、こうした精神は別に若者の特権ではなく、年寄も変化に対応できるということである。そういうシーンがあって、ハーバードの学長が双子の兄弟が倫理規定違反だと訴えたことを軽くあしらってしまったところで、どちらが若者かわからないくらい痛快であった。

それにしても、この疾走感はすごい。マークのしゃべりの早さもさることながら、テンポのある音楽も相まって現代のスピード感覚を味わうことができる。うちの会社も多少この近くで仕事しているので、ネット世界のビジネスの一端を知ることができ大変おもしろい映画であった。


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