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2010年9月 アーカイブ

2010年9月 1日

間違いだらけの業務システム開発(開発篇その1)

自動プログラミングは有効である

通常、業務システムの開発というと最終的には、プログラマーを配置してプログラム仕様書に従ってせっせとコードを書くことが行われます。このシリーズ初めの方でも、「開発プロジェクトではコードを書く」というのが間違っていると指摘していて、コードを書かないようにすることが重要だと言いました。

ところが、一方でプログラミングを自動化すればコードを書いてもいいのではないかという議論があります。というか、コードを書くという前提でその生産性をあげるために何とか自動化したいという思いがあり、現にそういうツールも出てきています。

これは正しい方向でしょうか。それを考える時に、いつ、どこの部分でコードを書くのかをみてみましょう。今の開発プロジェクトだと要件定義して仕様におとして、最後にプログラミングをします。詳細な機能レベルも記述したりします。

こうした、細かな機能レベルのものは予めコードを書いてモジュール化、部品化しておいたらどうなるでしょうか。そして、プロジェクトに入ったらそれらの部品を組み上げることにしたら、そこではコードを書かないですむことになります。

もし、こうしたことができたら、プログラムの自動生成というのはどういうことになるのでしょうか。自動化の意味がなくなるのです。なぜなら、自動化をする必要性は同じようなコードを繰り返し書くからで、言い換えると、パターン化できるから自動化が可能になるわけです。だとしたら、パターン化できるのならそれらを部品化してしまえばいいことになる。

そうなると、その部品を作るのにコードを書くことになります。ここはプログラミングしなくてはいけません。ところが、このプログラミングは一回でいいのです。ですから、ここはじっくりとスーパープログラマーにきれいなコードを書いてもらおうじゃありませんか。

いまのアプリケーションのコードを覗いてみたらいいと思いますが、ほとんどが個人の癖の入ったきたない、あとで読めないしろものではないでしょうか。たとえ、自動化したところで、自動化のアルゴリズムは汎用性を持たすために質はそう高くないと思われるので、同じような話ではないかと思います。

結局、スキルの高いプログラマーにシンプルできれいなコードで部品を作ってもらい、それを要求に従って組み上げることでアプリケーションを構築するのが、開発効率、そして保守性も向上させることができるのです。ということでプログラミングの自動化を指向するのは間違っていると思うのですがいかがでしょうか。
  

2010年9月 2日

「日本で最も人材を育成する会社」のテキスト

前著「はじめての課長の教科書」で評価が高かった酒井穣の「「日本で最も人材を育成する会社」のテキスト」(光文社新書)を読む。著者は、フリービットという会社の人事と経営企画のリーダーである。

その会社における人材育成のプログラムやノウハウを開示しているのである。非常に理路正しくまとめているので参考になる。その章立てをみればそのあたりがわかると思う。

第1章 何ために育てるのか(人材育成の目的)
第2章 誰を育てるのか(育成ターゲットの選定)
第3章 いつ育てるのか(タイミングを外さない育成)
第4章 どうやって育てるのか(育成プログラムの設計思想)
第5章 誰が育てるのか(人材育成の責任)
第6章 教育効果をどのように測定するのか
第7章 育成プログラムの具体例

簡単に言うと5章までが順番にWhy、What(Whom)、When、How、Who の4W1Hなんですね。(Whereはこれを適用する部署と考えたら5W1Hですね)

人材育成というとすぐに研修だとかOJTだとか言うのでですが、著者はもはやそう言う時代は終わったと言っています。一方的に押しこむような研修ではなく、人材の現場の放置であるOJTではなくもっと違ったアプローチが必要なのである。

では、これからはどうしたらいいのかになるが、その時大事なのどんな人に対しても同じような育成の仕方ではダメだということである。よくあるまちがいは、こうしてスキルもコンピテンシーも性格もちがう人間を一同で研修してしまうことである。

そこで、どうやったらいいかについて、著者は多く4象限で表す図を書いて説明してくれるのでこれが、理解の助けになる。例えば、横軸に受け身的な人か自発的なひとかという評価軸をもってきます。また縦軸には、座学としての知識を持っている人ともう一方で経験値が高い人がいます。これらのマトリクスをみて、それぞれの象限でその育成プログラムが違ってくるのがわかると思います。

すなわち、自発の経験、自発の座学、受身の経験、受身の座学というわけである。このうち、受身の座学というのは受験があるからという理由で勉強したというケースで、自発の経験というのは典型は部活です。自発の座学と受身の経験はどちらとも言えないようで、どちらも重要でしょうとなっている。

これは一例ですが、このようなことが多くでてきておもしろいので人材育成を考えていらっしゃる方には一読を勧めます。ところで、そんな立場とはほど遠いぼくがこんな本を読んでみたのは、日常のどんな場で人は育っていくのかということが知りたかったからである。その問いに対してはけっこうヒントになった。
  

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2010年9月 3日

オヤコ定例吞み会(9月)

7月に行こうとしたあなご屋が満員で入れなかったのでそのリベンジで日本橋室町の「玉ゐ」にする。今回は周到に予約を入れておいた。ここは建物が、築百年前後ということで趣のあるたたずまいである。

あなごの盛期は夏なのでお客さんも一杯である。あなご専門店だから、あなごずくしは当然として、“あなご酒”というものもあったのには驚いた。これは、ちょうどふぐ酒と同じように一夜干しの切り身をあぶったやつを入れ、火をつけてアルコールを飛ばしてから呑むのである。ふぐよりはおとなしいがこれがなかなかうまい。

食べたのは、煮あなごのつまみとにぎり、だし巻き玉子、あなご串揚げ、穴子かま肉串焼きである。どれもふわふあとした食感が口の中にひろがる。普段食べるあなごは寿司かせいぜい白焼きがほとんどだと思うがそれはどこかぷりぷりした感じがするが、ここのはそうではないので別の食べ物を食べている気になる。

下の息子とのここでの会話は、職場で重宝がられて使われるばかりだというため息と、夏休みに北海道に行った話が中心となる。北海道には弘前まで深夜バスで行ってそこから鉄道を使い、一日は大学のサークルの後輩にレンタカーを運転してもらい積丹まで行ったという。近頃“鉄っちゃん”の仲間に入りつつあるようだ。

さらに意外なことに来年の冬にマラソンを走ると言いだした。3月に香港のマラソン大会に出場する予定だという。どうも、村上春樹の「走ることについて語るときに僕の語ること」に刺激を受けたようだ。この本は、上の息子も気にいっていて、ぼくに読むように進めてくれたのである。そして、下の息子もこうして同じように走ることの素晴らしさをぼくに語ってくれた。

たっぷり酒と料理を堪能して、お決まりの銀座「M」へ向かうことに。そうしたら下の息子がおみやげを持っていくという。あなごの一夜干しが真空パックに入ったものを下げている。いつも、自炊している息子のために「M」のママが食べ物を差し入れしてくれるのでその御礼なのである。

そして、「M」に着くと、息子が“日本橋であなごを食べて、おみやげを持って銀座で呑む26歳はおれだけだろうな”と言って受けていた。ということで与太話に花が咲いて、いつものようにそーめんやらパスタやらをもらっていたのである。


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2010年9月 4日

それでも恋するバルセロナ

ウディ・アレンは最近マッチポイントとかタロットカード殺人事件などニューヨークではなくヨーロッパを舞台に作品を作っている。その延長なのかどうか知らないが、今度はスペインを舞台に「それでも恋するバルセロナ」を監督している。

この物語は、性格や行動パターンが違うアメリカ人の女の子二人がバルセロナにバカンスに来たところから始まる。一人は、芸術家っぽくて奔放な感じのクリスティーナ、もう一人が既に婚約者がいてまじめタイプのヴィッキーである。

その二人があるパーティで魅力的な画家である男性アントニオにめぐり合う。奔放なクリスティーナが惹かれていくのだが、実は、アントニオには別れた妻がいて、その妻が戻って来てしまい、そこから三角関係が展開される。

このスペイン人の男と女を演じるのが、ハビエル・バルデムとペネロペ・クルスというスペインを代表する俳優なのだが、何というぜいたくな布陣だ。この元夫婦がおかしいというかおもしろい。女がスペイン語でしゃべろうとすると英語でしゃべれと何回も諭すシーンは思わず笑ってしまった。

もっとおもしろかったのは、三角形の関係が成立している時には、うまくいっているのに、それが崩れたとたんに喧嘩ばかりするようになるのだ。男を取りあうのではなく、女同士でも仲良くやるのだ。

この屈折した関係性はウディ・アレンが得意とするところで、さらにこの関係にもう一人の女、ヴィッキーを絡ませるのだ。婚約者がいながら、アントニオとの一夜のアバンチュールが忘れられずに入り込んでくる。

おいおい、これじゃ4角関係、いや5角関係じゃんと突っ込みたくなるが、こうした人間模様がおふざけでもなく、さりとてシリアスでもなく繰り広げられる。そして、おもしろいのは、アメリカとヨーロッパの対比が随所にでていて、それを見ているとアメリカ人は田舎者みたいに思えてくる。アレンはあえてひねくれてみたのでは。

それにしても、74歳になろうというウディ・アレンがその歳を感じさせない演出は見事である。色気とか女好きはいくつになっても変わらないというのが男の性かもしれませんね。ウッディ・アレンらしい作品です。
   

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2010年9月 5日

~第2期  SI事業者向けBPM実践ワークショップ(3回シリーズ)

日本BPM協会主催の標記ワークショップが開かれます。前回好評だったので第2期となります。BPMが普及していくと、だいぶ開発の様相も変わってきます。従って、SI事業者もこれまでのやり方を変えていかざるを得ないと思います。

そのためには、BPMとは何ぞや、実践をどうしたらいいのかといったことを学ぶことが大事になってきます。このワークショップでは、事例の紹介とかディスカッションが取り入れられていて、実践的な研修となっていますので、ぜひ受講されることをお勧めします。申し込みは、下記サイトからです。

日本BPM協会「SI事業者向けBPM実践ワークショップ申し込み

幸先よし

昨日のサッカー日本代表のパラグアイ戦は1-0で勝利し、76日前のW杯の雪辱をとげる。最後のロスタイムには駒野も出場して、これでW杯は過去の思い出となるだろう。これからまた、4年後のブラジル大会に向けて新たなスタート切った。

昨日の1点は中村堅剛からの縦パスを香川が絶妙のトラップで放ったシュートがポストにあたってゴールインしたものである。こうしたシュートはこれまでのチームではなかなか生まれないもので、そういう意味ではこれからの代表の新たな選択肢を暗示しているのかもしれない。

サイドをえぐるか、早めのアーリークロスに活路を見出していこうとしたことから、密集した中央をパスで崩したわけだから、いささか驚いた。しかし、考えてみればこうした中央突破もできるからこそサイド攻撃が生きるのだから、攻撃の幅ができたということでは喜ばしいことだ。

実はこの伏線が試合の最初にあったのだ。堅剛が立ち上がりに続けて早い縦パスをだしたのだ。受け手の反応が悪かったのでうまくいかなかったが、その狙いにちょっと違うぞと思った。おそらく、堅剛にはW杯のスペインの試合が頭にあったはずである。

そのイメージを受け止めてくれるのは香川だったのだ。森本や本田ではない。W杯後、日本ではスペインのパスサッカースタイルをめざすべきだという声があるが、それができるためには、パスの出してと受け手の意思疎通とその俊敏さがなければできない。

昨日の堅剛と香川の間でその可能性の芽を感じた。ただし、イタリア人の新監督のザッケローニがどこまで考えているかによる。イタリア人だからというわけではなく、イタリアサッカーしか知らないというところに若干心配なところでもある。

イタリアサッカーだから守備を固めてからということになると思うが、そこは悪いことではない。やはりセンターバックをどうやって育てるかが重要なポイントだからである。カンナバロの国だから何とかしてくれるでしょう。

ということで、何はともあれW杯ベストエイトの国に勝ったのだから良しとして、まずはアジアカップをはじめとして今後に期待しようではないか。


2010年9月 6日

マニフェストのワナ

しばらくは民主党の代表選の話題でかまびすしい。しかし、これに関する一連の経過をみていると何とレベルの低い人たちだとがっかりする。それは、単に民主党の人たちだけではなく、マスメディアや大衆などの周辺の人も含めてである。この国の人たちは本当に国を憂えているのだろうか。どうも多くの言動が本質的なところから外れているように思うからである。それぞれをあげたらきりがないのだが、マニフェストを例にして考えてみてみましょう。

今回の争点の一つがマニフェストに対する考えかたのようで、昨年に政権交代したときに掲げたものに原点回帰せよというのと、実際にやってみると実現は難しいので修正せざるを得ないという対立である。この問題の根本は、マニフェストなるものを「国民との約束」さらには「国民との契約」(これは言い過ぎでしょう)なのかということである。

ここには問題があって、われわれ有権者にそういう意識があったのかどうかとマニフェストの全部が同意できているのかどうかである。前者では、有権者側はこれは約束だから守ってくれと言って投票したのかどうか。おそらく多くの人々は、まず契約とは思っていないだろうし、約束とも考えてはいないのではないだろうか。

つぎは後者の件に関係してくるが、マニフェストでは、子ども手当、公立高校無償化、年金制度の改革、医療・介護の再生、農業の戸別所得補償、暫定税率の廃止、高速道路の無料化、雇用対策といろいろ書かれているが、この全部が賛成であるという人はいるのだろうか。

おそらく、部分的には賛成のものもあるが、中には反対であるというのもあると思う。ぼくなんかだと、子ども手当、農業の戸別所得補償、高速道路の無料化なんて反対である。これが実態なのに何でもかんでもマニフェストを実行するんだというのはどうかと思う。個別の政策でアンケート調査してみたらおもしろい結果になるのではないだろうか。現に今朝の新聞では子ども手当に67%が反対だという世論調査が出ていた。

だから、マニフェストというのは気をつけなくてはいけない。ぼくは政党のマニフェストはもっと抽象度の高い、理念だとか方針ぐらいでよくて、それらを実現するには例えばこんな政策案をもっていますが、これから議論して詰めていきますくらいの感じでいいのではないでしょうか。

それと、党の代表を決めるのに政策で争うのも考えてみるとおかしな話ではないだろうか。政党間の争いはまさに政策論争だが、その党としての理念、方針、政策を国民に問うて政権党になったわけだから、そこは変えてほしくない。そういう意味ではマニフェストを変えたらいかんという小沢一郎は正論を吐いている。ただし、個別政策的には信託を得ていないというのは前述したとおりである。

だから、代表選挙は党をどんな風にしたいのかとか、政権運営のやり方をこうしたいとか、それこそこの問題はこいつにやらせたいとか、そんなことで争うのが理屈であろう。ただ、理念、方針が何だかよくわからないから変なことになっているのと、現状の問題に対する認識の違いをきちんと分かるように言って欲しい。ここが違うことが多いのと、間違っている場合がある。

菅さんの「1に雇用、2に雇用、3に雇用」と叫んでも、雇用が経済成長をもたらすのではなく、経済成長が雇用を生み出すという事実認識が間違っているのが典型である。

こうしたことの責任の一端はマスコミにあって、ワイドショー的な伝え方しかできていない。だから、小沢一郎バッシングになって、不起訴であるのにいかにも犯罪者であるかのように報道し、説明責任があるという。この説明責任はいくら悪いことはしていないと言っても、それは説明したことにはならないというのが延々と続く。私がやりました、悪うございましたといえば許してくれるのだ。

ぼくは、小沢びいきでも何でもないし、政策に賛同しているわけでもないが、この際は小沢一郎にやらせてみたらいい。もうずっと表でも裏でも小沢一郎の影がつきまとっていたのもうんざりだし、そんなに隠然たる力があるなら表に出せばいいと思う。うまく行くか、こけてしまうかどうかわからないが、何かが起こるかもしれない可能性があるからである。菅さんでは何もおこらない。いまの閉塞感を破るにはわれわれの手持ちはこの手しかないように思うのだが。
  

2010年9月 7日

青富士

酷暑がなかなか終わりそうもないが、昨夜は風があったせいか比較的すごしやすかった。その風のおかげで、今朝はほんと久しぶりに富士山が見えた。雪が何もないので「青富士」である。

富士山は、季節や時刻によって色を変える。夕映えの「赤富士」、雪に覆われた「白富士」や今日のように夏の朝の「青富士」である。まるで、カゴメの”野菜生活”みたいだが、変化を楽しめる富士山はやはり日本一の山ですね。

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間違いだらけの業務システム開発(開発篇その2)

これからはアジャイル開発だ

エンタープライズ系のシステムもウォーターフォール型の開発からアジャイル型に転換していこうという風になっているようだ。たしかに、従来のウォーターフォール型の開発では、開発期間が長く、仕様の変更に弱かったりといった問題が指摘されてはいたが、それがすんなりとアジャイルに変わるのかというとなかなか難しいように思う。

ただ、ウォーターフォールを続けるわけにもいかないので何らかの開発手法を持つ必要があるのは確かだと思う。それがいまのアジャイルかというと、そう詳しく知っているわけではないが違うような気がする。

少なくとも、ソフトウエアの開発にはアジャイルは向いていると思う。業務アプリではなくプロダクトを開発するような場合には、少ない人数で効率的なイテレーションで作り上げるというのが合っているし、実績的にも多くあると思う。

ところが、業務アプリケーションのような場合、従来型の要件仕様に従ってコードを書かなければいけない時、そんなことをやってられるのかという問題がある。おそらく、変化に対応できるのがアジャイルですよという謳い文句があだとなるのではないでしょうか。

いくらたっても決まらない、適当に切り上げるが、あとでどうしてこうなったかもわからないといった破目に陥りそうである。アジャイルは、作るものがある程度明確になっていて、メンバーが同じようなイメージを共有できてこそ有効なのではないかと思う。

ということは、今のような性格の業務アプリケーションを作る限りはアジャイルは無理だと思う。だから、この性格を変えなくてはいけない。何度も言っているように、How toはWhatに依存するということである。アジャイルの手法が使えるような構造のものにしなくては使えないということなのである。

コードを書かずに、部品あるいはモジュールをプラグインして組み上げる構造にしておいて、そこにアジャイル“的”な手法でシステム構築を行うというのがこれからのめざすところではないでしょうか。

ここで、アジャイル“的”と言ったのは、開発というイメージがあまりないやり方なのだが、ただし、精神はアジャイルだからという意味を込めてである。
  

2010年9月 8日

まだまだ

昨夜、大阪長居で行われたサッカー・キリンチャレンジカップで日本代表が2-1でグアテマラ代表に勝利した。森本が先制点と決勝点の2点をたたき出した。その前のパラグアイ戦の勝利とこの試合をみていると日本代表もやるなあと思われた方も多いと思いますが、ぼくはむしろいくばくかの危惧を抱いた。

一つは、これで香川と森本がマスコミからちやほやされることで、W杯は本田一色だったのが、今回は本田はどこにいったのかという感じで、長友を含めた3人が一躍ヒーローである。以前、オシムも苦言を呈していたが、ちょっと活躍したくらいでマスコミもそんなに興奮するなと言いたいし、選手もその気になるなということである。

たかだか、フレンドリーマッチで格下相手に対して2点入れたからといって、急にうまくなったわけでもないのだから、そんなにほめそやすなと言いたい。こういうのをほめ殺しという。もう少し、冷静に長期的な視野で論評してもらいたいものだ。

もうひとつは相変わらず基本ができていないことである。昨日なんて相手はそんなに強くないし、プレスも弱いのだから、厳しい状況でのプレーでも何でもないのにミスが多すぎる。まともにトラップできない、簡単にボールを奪われる、正確に味方にパスできないのだ。それも1度や2度ではなく繰り返すのだ。

サッカーは上級になればなるほどかっこいいことができることではなく、当たり前のことが確実にできることで差がつくのである。そうした基本がきちんと身についた選手が多いところほど強いのである。前にも何回も言ったが、W杯のスペインの勝利はここにある。

ザッケローニはすぐに昨日のビデオを選手にみさせ、一つひとつのプレーに対して、「君はこの時何を考えていたのか、どうしてミスしたのか」と問いかけたらいいと思う。いつもこういう反省をして2度と同じ失敗をしないという習慣をつけさすのも必要ではないだろうか。これは、選手個人だけではなくチームとしても同じだというのは言うまでもない。

 

2010年9月 9日

間違いだらけの業務システム開発(まとめ)

これまでの業務システム開発はいろいろな意味で限界が来ているように感じて、このようなタイトルで議論してきましたが、やはり重要なことは、技術だとかメソドロジーだとかもあるのですが、思想とかコンセプトだと思うのです。最後にそのあたりを考えてみます。

一番感じるのは、システムとは人間が使うものでありながら、それに使われている感じを変えたいということなのです。“仕事をやらされている感”を払しょくできないのかということです。ITを使って楽しく、気持ちよく仕事をしたいのです。

そうした思いから今のシステムを眺めるとどうも不十分であると思うのです。その理由は何かと、いろいろな角度からゼロベースで、どこが間違っているのか、どこを変革しなくていけないのか考えたのがこれまでのエントリーでもあったのです。

その主張のざっくりとした答えは、「重心をデータベースアプリケーションからプロセスアプリケーションへ」ということかもしれません。データベースへの出し入れが基本の仕組みももちろん大事ですが、そのデータベース間をつなぐプロセスがおろそかになっていると感じています。そこを中心に据えたらどうかという提案です。

それと、シンプルという意味も考えさせられました。シンプルにという概念は非常に重要ですが、それはへたするとすべてを単純化してしまうというワナにはまる可能性があるということです。実は、業務システムというのは非常に複雑でかつ重層的なものであるから、単純に括れないということであって、簡単にこんなものですとは言えません。

ですから、大事なのはちゃんと構造化をして、それぞれの部位での特徴や性格を見極めて、そこで定義することが大事なのです。この構造化というのは「抽象化」とういうことも含んでいます。抽象度を間違わないように設定して、それぞれの抽象度レベルで概念化することがとても重要です。

そうして、構造化、概念化された中で、それぞれの領域や要素では極力シンプルに考えることが要求されます。このシリーズでも、例えばプロセスのレベルによってその機能の性格が違うとか、ソフトウエアの開発とアプリケーションの構築は、手法も違うといったこと盛んに言ったのはこのことです。

どうもそういうことを一緒くたにして議論する人が多く、かみ合わないことがあります。こうした前提をきちんと共有して議論したいものです。いちおう。このシリーズはこれで終わりますが、またいろいろと勉強して、頭のなかが“整いました”らまた暫時エントリーしていきたいと思います。
  

2010年9月10日

トイレット

監督と常連の出演者で醸し出す特有の雰囲気というものがある。そういう映画は誰が観に行くのだろうか。やはり、“お仲間”が足をはこぶのだろうか。それは、予定調和の世界だから観る人に安心感をあたえ、相槌を打ちにくろのかもしれない。

「かもめ食堂」や「めがね」の荻上直子監督の「トイレット」を観る。この作品は、カナダで撮影されたもので、セリフも英語で日本語の字幕が付く。いつものもたいまさこだけが日本人の出演者で後は外国人である。それでも荻上ワールドは変わらない。

ひきこもりの兄とオタクの弟、そしてヘンテコリンの大学生の妹たちの母親がなくなるところから映画は始まる。ところがその家には、もたいまさこ扮する“ばあちゃん”と呼ばれる日本人の老人が同居している。“ばあちゃん”は英語もしゃべれないし、なぜそこにいるかも謎なのである。

そして、ばらばらだった兄弟たちが、徐々に“ばあちゃん”を媒介として絆を深めていくというストーリーである。言葉は通じなくとも心は通うというわけである。その間に、様々なエピソードがちりばめれていて、とくに今回も食べ物がアクセントになっている。

荻上作品では「かもめ食堂」はそのものずばりだが、「めがね」でも食べ物のシーンが楽しい。今回は、すしとギョーザである、みんで手作りのギョーザを作って食べるところなどは日本の家庭を思いださせる。

ところが、その他のちょっとした挿話がよくわからないものが多いのである。ミシンを持ち出すはまだいいかもしれないが、“ばあちゃん”がエアーギターにはまって、その影響で妹がエアーギター選手権に出場するというのは何なのだ。バスの停留所にいるサチ・パーカーはどういう意味なのだ。

それもそうだが、もっと不可解なのは、このばあちゃんはいったい何者なのかが最後まで明かされない。本当の祖母なのかもわからない。そして、毎回トイレを出るとため息が出るといってオタクの弟が職場の同僚のインド人に言うとそれは日本人だからウオシュレットがほしいからっだというといううのはどういうことだ。しかも、それがタイトルとは解せない。

やはり、ある程度説明的にやってもらわなくてはと思う。そこはお仲間だから察してでは困るのである。ぼくもそうだが、このサロンにどっぷり入れない人にとっては、仲間内だけで通じる“何となくわかる”空気感はあまり好きになれないのではないでしょうか。そういう意味でもうすこし丁寧にオーソドックスに撮ってほしかった。

2010年9月11日

金魚すくいの作法から

ちょっと前にプロセス設計はそう厳密な方法でやるものではなく、「作法」という感じの方がいいというようなことをエントリーした。そこで茶道の作法についてもふれたが、どうも世の中のいろいろなところにも作法があるなあと思ったのである。

それは、前にテレビをつけたら偶然に映し出された金魚すくいの映像にかぶって出てきた金魚すくいの作法である。夏の風物詩金魚すくいは子どものときワクワクしながらやったものでした。いつもうまくすくえずすぐにポイ(金魚をすくうための丸い枠に紙が貼ったやつをこう言うそうです)の紙が破れて、くやしい思いをしたのを覚えています。

その金魚すくいの作法です。まあ、作法と言うより極意といった方がいいかもしれないが、それは次の3つのことだという。

(1) ポイは斜めに入水させ、水中では水平に移動させる
(2) 金魚は頭から追え
(3) 尾ひれは外せ

たしかこんなことだったと思う。(1)はポイの紙面に直角に水を当てるとその抵抗で紙がすぐに破れてしまうからである。(2)は、尻尾から追うとすぐに逃げられるからで、頭からだと金魚はバックできないからすぐに捕まえられるというわけだ。(3)は、ポイに乗った後尾ひれを振って暴れて紙を破るので、その尾ひれを枠の外に出すのだ。

この作法通りにやるとおもしろいほど金魚がすくえる。ああ子どもの時に知っていればなあ。さて、これからは業務プロセス設計作法に無理やりこじつけてみる。あまり意味があるわけではないのだが、作法のレベル感をみるためにちょっとやってみる。

プロセスは依頼を受付るところから入り、その後は意思決定を連鎖させるというのはなんとなくポイを斜めから入れてに近いでしょう。金魚は頭から追えというのは、顧客接点のプロセスは始点から書いていけに似ています。最後の、尾ひれは外せは、わけのわからない非定型なものはプロセス記述から外せと同じようなことを言っています。

かなり強引な論考ですが、作法らしきところが似ていなくもないわけで、作法というのはこんな具合いの表現であるということができます。最終的には金魚がいっぱいすくえる、あるいはうまく業務が回っていくことにつながれば多少の個人差があってもいいのである。
   

2010年9月12日

家日和

ぼくのお気に入りの作家のひとり奥田英朗の最新の文庫本「家日和」を読む。この作家は推理小説からユーモア小説、家庭小説のような広いジャンルをカバーしている。もちろんぼくが大好きなのは伊良部先生シリーズである。

この「家日和」は6話からなるオムニバスで、それぞれの家族を中心にした物語が展開される。第20回柴田錬三郎掌受賞作品でもある。その6話に登場する主人公を並べてみると何となく見えてくるものがある。

・サニー・デイ 
ネットオークションにはまってしまい、夫の大事なものを出してしまうが買い戻す42歳の専業主婦
・ここが青山  
14年間勤めた会社が倒産してしまうが、妻が働きに出たので嬉々として主夫をしている36歳の男
・家においでよ
妻が出ていったあとの部屋を自分の好きなようにアレンジして仲間と楽しむ38歳の営業マン
・グレープフルーツ・モンスター
内職をもってくる若い営業マンに思いを寄せて、日夜悶える39歳の専業主婦
・夫とカーテン
夫が新しい事業を起こすたびにいい仕事ができ34歳のイラストレーターの妻
・妻と玄米ご飯
 妻がロハスに凝りだして、その様を批判的に書いが、読まれるとまずいと思い書きなおすことになった42歳の小説家

ということで、30歳半ばから40歳ちょっとすぎたという家庭の奥さんと旦那の物語である。ちょうど、微妙な時期でもある。でこれらの話の基本は、失職したり、妻に出ていかれたり、あるいは新しい商売を始めたりといったきっかけがまずあって、そうなると本当ならマイナスに振れて、落ち込むのだが、むしろそうした境遇を楽しむようなところである。

だから、読んでいても不思議な暖かさが感じられ、うんそうだねという共感をもつ。ぼくはそういう年齢からずいぶんと遠ざかってしまったが、部分的に思い出しながらニヤッとしてしまった。

別に劇的でもなく、どこにでもありそうな日常のなかでの断片をこうしてさりげなくプラス思考的に紡ぎ出す作者に癒されるのはぼくだけではないだろう。
  

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2010年9月13日

ほんとうの情報活用

情報活用というと、BI(Business Intelligence)だとかデータウエアハウスとかいったツールあるいは手法がすぐに出てくる。これはもう20年くらい前から言われているが、みんながとびついたわけでもなく、ごく先進的な企業を除いては重要なソリューションとはなっていないのではないでしょうか。

なぜそうなっているかには、大きく二つの理由があると思う。ひとつは、過去のデータを解析しても今時の変化の激しいビジネスでは不十分だということである。(リアルタイムデータを扱うBIもあるが、対象はだいたいが過去データである)もうひとつは、データそのものだけが役に立つのではなく、そのデータがどのように生成されたか、どのように使われたかという観点でもみなくてはいけないということである。

最初の例は、何回も出てきていますが、死体解剖から生体ドックへと言っているように、死んでしまってから(業務処理が終わってから)その死因(うまくいった、あるいはいかなかった原因)を分析してももう手遅れで対策の打ちようがないのである。しかも、注意すべきことは、特に失敗した時の解析は、ほとんどの場合自己弁護になる。こうなったのは予測不能な為替変動という外部要因のためだと言いわけを並べるのである。

いま必要なのは、生体ドック、すなわち、いま起こっていることをリアルタイムに近い形で監視し、そこに表れたデータを即座に解析し、必要なら対策を打つということである。病気になる前に、その兆候を察知して予防して欲しいのである。

さて、もう一方であるが、データというのはもちろんそのものに意味がある。売り上げがいくらだったから多いとか少ないとかである。しかし、それだけではなく、そのデータがどういうプロセスを経て作られたのかとか、そのデータはどのいうルールが使われて決定されたのかとかといった過程といっしょになって考えるべきだと思うのである。

言い換えれば、わけのわからない、ちゃんとしていないプロセスやルールから生成されたデータは正しい意味を表現していないかもしれない。大げさに言えば、ビジネスの実相をねじ曲げてしまう可能性だってある。あるいは、そのプロセス自体をみることでデータの隠れた意味を読みとれるかもしれない。

このブログで盛んに言っているプロセス志向というのは、こんなところにもその有効性が認められということがわかると思います。つまり、正しいプロセスから生み出されたデータこそがビジネスの実相を正しく反映されたものであり、そのプロセスの進捗に合わせてその時点のデータを取得して、それを吟味しながら修正動作を適宜行うことにより優れた事業オペレーションができるのです。
  

2010年9月14日

柔道で勝って、JUDOで負けた

日本の柔道はこんなに強かったんだっけと思わせる世界柔道2010・東京大会である。テレビはあまり見ないのだが、スポーツ中継となるとつい見てしまう。どうして、こんなに金メダルをとれるのだろうか。一昨日は、男子66キロ級の森下純平、女子48キロ級の浅見八瑠奈、女子52キロ級の西田優香の3人が金メダルで、昨日も男女無差別級で上川大樹と杉本美香が優勝した。

しかも、日本人同士の決勝戦も少なくない。やはり、地元日本での開催ということと出場選手数が多いことがこうしたメダルラッシュになっていると思う。日本は選手層が厚いからこういうことになる。それと、代表一人ではないのでプレッシャーが分散するので気楽にやれたことが大きい。オリンピックでも同じようにやれよと思うがそれはちがうようだ。

ところで、ぼくが注目したのは以前からのファンである女子52キロ級の中村美里選手である。前回の世界大会で金メダルをとって、今回はディフェンディングチャンピオンとして望んだ今大会であったが、残念ながら決勝で同じ日本人の西田優香選手に僅差の判定で敗れた。

この選手が好きなのは、その姿勢や試合態度である。何といっても試合中にほとんど道着が乱れないことである。普通の選手は道着が帯からはだけてひらひらさせて戦っている。しかも待てで再立会のときでも直さないでひらひらのまま組み合う。

ところが、中村選手は再立会では必ず相手より早く戻り、帯の中に道着をきちんとしまうのである。なんと気持ちいいのだ。道着が乱れないのは、姿勢のよさから来ているのだと思う。しかも、試合中に表情を変えないのだ。女の子に言うのも何なのだが、どこか古武士然とした風格がある。

一昨日の西田選手との決勝戦でもその堂々たる戦い方は絶対に勝ったと思った。しかし、判定は逆だったのだ。一見、かけ逃げと思われるようなワザを繰り出す西田選手に戸惑ったふうであったが、そのワザの数が勝敗を分けたのだろうか。

柔道もレスリングまがいのタックルが禁止になったのはよいことだが手数だけではない評価もあってもいいように思う。だから、中村選手は武道としての“柔道”では勝っていたが、スポーツとしての“JUDO”では負けたということなのだろう。
  

2010年9月16日

競争の作法

本を読んでいる時、たまに腑に落ちるというかはまることがある。これは、内容に合点がいくこともあるが、何より作者の思いに相槌を打つからである。そんな作者が書いた本である「競争の作法」(斎藤誠著 ちくま新書)に出会う。

何と言っても作法と言っているところがいい。いつも作法の言い回しが気にいって使っている身にとっては我が意を得たりという気がしないでもない。著者は経済学者なのだが、経済学の専門的なことがあまり出てこないで、この競争社会とどう付き合っていったらいいのかといったことが書いてある。作法とか心得といったところである。

ということで小難しいことはいっさい書いていない。門外漢のぼくでもよく理解できる。これは冒頭でも言っているように、感覚的に似たものがあるからかもしれないが、冷静に考えれば考えるほど著者の言わんとすることに賛同する。この冷静さは、きちんとした(難しくなく簡単なもの)データで語っているからである。

さて、その言わんとするところを結論的に言うと、エピローグでまとめている次のことになる。

(1) 一人一人が真正面から競争と向き合っていくことである。
(2) 株主や地主など、持てる者が当然の責任を果たしていくことである。
(3) 非効率的な生産現場に塩漬けされていた労働や資本を解き放ち、人々の豊かな幸福に結びつく活動に充てていくことである。

こうした提言のもとは、2002年から2007年までの「戦後最長の景気回復」を果たしたと言われる現象をつぶさに分析したことにある。詳細は本にゆずるとして、かいつまんで言うと、この間みかけの豊かさをもたらしたが、幸福をもたらすことはなかったということをデータで示してくれる。

経済学でいう豊かさとは、生産活動によって生み出されたものの価値の総量であり、幸福とは、その生産されたものを消費することで享受できる効用の大きさである。「戦後最長の景気回復」期におけるこの豊かさは、2つの円安がもたらしたバブルにすぎなかったのだ。

そこで著者は、人々が幸福になるにはどうしたいいのかを考えるのである。そうすると競争がない平等な社会こそ皆が幸福になれると主張する人々がいる。それに対して著者は言う。いまの状況は「競争原理を貫いたから、平等原理に抵触した」のではなく「競争原理を大きく踏み外したので、所得分配上の深刻な問題が生まれた」という。

その詳しい理由は本を読んでもらいたいが、競争原理に向きあうということは、けっして利己的で自己中心的になることではなく、経済合理性や他者への配慮をもつことで、自分自身の中にある保身と嫉妬の心情を抑え込み、新しい生き方を考える契機として競争と前向きにつきあうことだと言っている。

それにしても日本人はどうしてこうも競争がきらいなのだろうか。きっと、この保身や嫉妬をもった人間が多いということかもしれない。このことについてのおもしろいエピソードを書いている。もし貧困化がさしせまった問題であったとすれば、貧困や格差社会に関する書籍があそこまで売れることははなかったはずだという。貧者は買う余裕はなく、冨者は興味がないからである。

ということは、そうした本を買うのは普通の人々なのである。この人たちは、自己保身から自分の給与が下がるのを避け、嫉妬から優れた他人の給与を引き上げるのを嫌悪する性向があるのだ。自他の給与格差が広がることを不快に思うのである。

たしかにこういう人たちは競争を忌避する傾向が強いが、だからといって職場から、学校から、役所から追いだすわけにもいかないから、さてどうしたものか。しかし、自分たちが幸福になれるような競争社会は可能だと思うので、一人一人がそのことを真剣に考え、取り組んでいくことなのだろ。そんなことを考えさせられる良書である。ぜひご一読を。
  

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    • 5 1990年代バブル崩壊以降の日本は失われていない
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デジタルクリニックのすすめ

ちょっと前の情報活用についてのエントリーで医療になぞらえて「死体解剖から生体ドックへ」ということを書いた。ということで、システムの問題はけっこう医療と通じるようなところがあるなあと思ったのである。

例えば、システム開発のことでいうと開発が目的化してしまい、それが本当に使われて役に立っているのか、業務の改善につながっているのかといった本来の目的から逸脱しているのではないかという指摘をしている。すなわち、いくら高価でいっぱい高級機能があるものを導入しても会社がつぶれたらおしまいだということである。

それと同じように、いくら高度な最先端の治療を行っても患者が死んだらそれまでなのである。結局、いい治療をするから治癒するのではなく、治癒した治療がいい医療であるということだ。システムも同様でいいシステムを入れれば効果がだせるではなく、ビジネス上の利益をもたらした仕組みが、例え簡単なシステムであってもいい業務システムなのだ。

こうした見方は、理論的にこうだからこうなるという関係ではないということを言っている。自然科学では、因果関係がはっきりしていて1+1=2であるが(ひとによっては、自然科学もまだ決まっていないこともいっぱいあるというが、まあここでは論理的であると言っておこう)、その他の領域ではこうした法則科学では無理があることも多いような気がする。

そうなると、実際問題として有用なのは臨床学というようなものではないかと思うのである。つまり、現実に起こった事象から学びそれを体系化して次に生かすようなアプローチである。どうも、経済学でもそうだと言っている人もいるくらいだから、情報システム学なら(こういうのがあるのかどうか知らないが)なおさら臨床的にやるのがいいのだろう。

医療には臨床医というものがいるのに、業務システムの世界に臨床医のような役割のひとがいるのだろうか。システムを作るときには、じょうぶな身体を作るにはこうした処方をしたらいいとさんざん言うのだが、いざ動かしてみて病気になったらちゃんと処置してくれるわけではない。

ですから、ビジネスや事業プロセスが健全に動いているのか診断して具合が悪くなったら薬をくれ、場合によっては手術をしてくれるような「デジタルクリニック」というのをやったらどうだろう。最近、ビジネスアナリストだとかビジネスアーキテクトだとかいった名前がついた職種があるが、そういうひとは情報システムのお医者さんになったらいいのではないかと思うのである。
  

2010年9月17日

悪人

深津絵里のモントリオール映画祭女優賞受賞の影響もあってか、満席の109シネマズで李相日監督の「悪人」を観る。まずは、深津絵里は賞をもらっただけのことはあって素晴らしかった。決してとびきりの美人ではないが、魅力的な女優さんだ。

この作品はご存知のように吉田修一の同名の小説を映画化したもので、実はこの映画の脚本に作者自身が参加している。ということは、かなり脚本を煮詰めてのだと思う。ところがそれを知ってか知らずかこの映画は原作の良さを生かしていないという批評をするやつがいるからおもしろい。だから、いつも言っているように本と映画は別物と思うべきなのだ。ぼくは原作を読んでいないので何ともいえないが。

さて、ストーリーは妻夫木聡扮する長崎の港町で解体屋で働いている若者が出会い系サイトで知りあった保険外交員の女を殺してしまうところから、警察に追われるが、深津絵里の洋服店の店員と逃避行となる。

そして、その殺人の加害者と被害者の家族が登場する。さらに、被害者がつきあっていたもう一人の若者がその事件のきっかけを作った人物として、そしていいかげんな今時の大学生として描かれる。そうした人物たちの心理劇でもある。

この物語のポイントの一つが出会い系サイトであろう。主人公の殺人犯は、殺した相手も、逃避行の相手もいずれも出会い系サイトで知り合うのである。この背景には、地方で暮らす若者の息が詰まる日常の悲痛な叫びがあることを映している。

象徴的なのは、深津絵里がラブホテルで、「ここを通ったとき、靴屋があったでしょ。そこの先に私の通った高校があるの。その近くにに小学校も中学校もあるの。結局、私はずっとこの国道沿いからでていないのよね」というようなことをつぶやくのである。

一方の妻夫木聡にしても、祖父母のもとで解体の仕事に出て帰ってくると祖父を病院につれていくといった日常なのである。その日常をちょっと破るものとして、頭を金髪に染め、車を乗り回すことぐらいしかできないのだ。そして、出会いが欲しくて・・・。

だからといって、その犯罪を許すわけではないが、こうした鬱屈した心情に二人は感応して、出会ってすぐに求めあったに違いない。いずれ捕まることはわかっていても、二人でいることでおのれの存在を相対された形で確かめたのだ。被害者の父親が問いかける、あなたには大切な人がいますか?

こうした重いテーマを監督、脚本、音楽(久石譲)、そして主演の二人もさることながら、脇を固めた樹木希林、柄本明、満島ひかり、岡田将生など共演陣が忠実に表現していて秀作である。
  

2010年9月18日

あさはかの愚

これだけメディアが発達してくると、日々様々なところからいろいろな人の言動が飛び込んでくる。そんな中で、あれっと思うことがけっこうある。それはほとんどが深く考えずに発言しているものだ。そんな「あさはかの愚」を拾ってみようと思う。もっと本質を見極めろよと言いたいことである。

こういうネタは近頃は民主党関連の話の中に多い。まずは、宇宙語をしゃべる伝書鳩こと鳩山由紀夫である。何と言っても、今度の代表選で小沢一郎を推したがその言い草があさはかである。小沢先生には以前大変お世話になったので恩返ししなくてはいけないので総理になってもらいたとだと。こんな鳩の恩返しはどういう感覚なのだろうか。そんな個人的な貸し借りで一国の総理を決めてもらっても困る。多くの人があきれ返ったのは当たり前だ。

今回、菅さんが圧勝したが、その勝因が「政治とカネ」と「ころころと総理大臣を変えるのはいかがなものか」という国民の民意だそうだが、後者のことである。これまた、こんな理由で総理大臣を選んでもらっても困る。あさはかな民意なのである。

なぜって、問題はそんなことではなくて、総理にふさわしいかどうかの選択なのであって、無能なリーダをそうした理由で継続させることはあり得ないでしょう。外国に対して恥ずかしいとか言ったって、何もできない総理を戴いている方がもっと恥ずかしいと思うのだいかがでしょうか。

ここで圧勝と言ったが、実態は圧勝でもなくて、そうですね差は60対40くらいではないだろうか。これはサポーター票というのは総取り方式だから、10対9が10対0になるような話なので、死に票が出るからである。ですから、正確な民意は圧勝でもないということを知る必要がある。

まあ、菅さんの「1に雇用、2に雇用、3に雇用」発言もだいぶ叩かれているようで、最近はあまり言っていないようだから、これからはもう少しまともなことを言ってほしい。どうも、ひとからの受け売りだと中身のないのがばれて、あさはか発言になるようだ。

2010年9月19日

私の中のあなた

最近、日本でも臓器移植法の改正があって、人の臓器提供の意思が不明な場合にも、家族の承諾があれば臓器提供が可能となった。そしてこれまで15歳未満の臓器提供ができなかったのが、脳死下での臓器提供も可能になったのだ。

なぜこんなことを書いたのかというと、この問題にもろ絡むテーマの映画「私の中のあなた」を観たからである。キャメロン・ディアスが初めて母親役に挑むということで話題になったが、内容はすごく重いのである。

白血病である姉のために自分の腎臓を提供するのを拒み両親を訴える11歳のアナという少女が主人公である。このアナという少女は実は、その姉のドナーとなるべく生まれてきたという恐ろしい話である。要するに、余命いくばくかという白血病の子どもを救うには適性があるドナーとなれる子をいまから遺伝子操作で産めばいいという医師のささやきにのっかったのだ。

だから、生まれてから臍帯血移植から始まって血液を抜かれたりしたのだが、腎臓移植という段階に来てはたと拒否行動に出たのである。病気の子に対してできることは何でもして延命することが使命だと思っている母親に反旗を翻したのである。

そこから、実際に裁判になったりするのだが、それとともに病気の姉はどんどん衰弱していくわけである。その間には、同じ病気の男の子との淡い恋が挿入され、またアナと兄や父親との通じ合いが描かれていく。

そして、大団円を迎えることになるが、結果は意外なことになり、あっと声を出してしまう。ここでは、やはり家族というのがキーになるのだが、つい日本の家族の関係とはずいぶん違うなあと思ってしまう。だいいち、子供が親を訴えるなんて考えもおよばないでしょう。

しかも、最初は母親は姉のことばかり気にしていて、妹のアナのことなんて眼中にないような振舞いをする。さらに自分が姉のドナーになるために遺伝子操作で生まれてきたことまで知ってしまうわけで、そんなことを平気で話し合うことにどうしても違和感を持ってしまう。いくら個人主義のアメリカとはいえ驚かされる。

しかし、強烈ではあるがつい引き込まれて家族とその中の喪失と再生の物語に大いに涙し、考えさせられた。
   

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    • 4 愛、尊厳、倫理。意義深い言葉に彩られ真摯な内容だけれど、温かい家族愛と切ない人生が涙腺を刺激する珠玉の物語
    • 5 3回泣きました。いやもっとかもw
    • 5 答えを提案する作品ではない
    • 4 号泣しました。
    • 5 感動したな〜
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2010年9月20日

“場”という概念

Webの世界が従来とどう違うかについては、Web2.0技術をはじめとして多くのことが語られているが、最近思うのは、従来になかったものとして“場”の概念が入ってきたように思います。

従来は、場が抜けていて、線で結ぶ、あるいは点をつなげるという考え方であったように思うのです。場というのは、孤立していない、直線的でないということです。つまり、みんなの広場であり、複線的であるということです。

古来から人間が行き交うところや集まるところに場がありました。複線的で共同的な空間が世の中のダイナミズムの源泉であったのではないでしょうか。広場、市場、運動場、劇場、停車場などなど多くの場が形成されてきました。

そこでは、コミュニケーションを伴ったダイナミックな動き、あるいは協働的な活動などが行われています。この場における絶え間ない動きこそ新しいものを創りだす源泉だったのでしょう。それによって文化は生まれ、伝達されていったのではないでしょうか。

しかしながら、現代のわが国を見てもわかるように現実の社会ではこうした場が失われてしまうように映ります。都市でも地方でも共同体という意識がどんどん薄らいでいってしまっているのは皆さんが指摘するとおりでしょう。

そこで、最初に言ったようにWebの世界に場の概念が入ってきて、失われたものを代替できるかどうかは分からないが、そういう兆候が見られるようになってきたと思います。ソーシャルネットワーキングとかソーシャルメディア、ソーシャルアプリとかいったものです。そこでは、見ず知らずの人も含めて、人々が寄り合う場ができているのです。

もちろん、このことはいいことばかりではなく、悪いことも当然起こるわけですが、世の中はどこでも清濁併せてあるもので、その中で生きていくことが大切なのです。ですから、これからのITのやらなくてはいけないことの一つに“場”の提供であると思うのです。

既にWebの世界では、そのためのIT活用が進んできていますが、それと同じように企業や役所、学校の中でも場ができていくことを期待したいのです。それがITを生かす道なのです。ある意味人を阻害することで存在していたITがもっと人間と仲良くできるようになるのです。

場とは一旦立ち止まり、留まるところです。そうすることは何を意味するかというと、人々に考える時間を与えることでもあるのです。どうして、自分はここに来たのか、これからどこに行くのかを、そこで交わる人や風景との会話で自覚的に学んでいくのです。
  

2010年9月21日

ボトムアップ戦略立案―はじめに

これまでの業務システムに関するシリーズは、「ユーザ目線のBPM」(2007.2~12)から始まって、「企業情報システムのかたち」(2007.4~5)、「業務プロセス設計作法」(2008.5~6)、「ビジネスプロセスパターン研究」(2009.2~6)、「業務システムの再定義」(2009.9~2010.4)、「ビジネスモデルを実装する」(2010.5~7)、「間違いだらけの業務システム開発」(2010.8~9)がラインナップされている。

まあ、いずれも業務プロセスのところが中心で、前々回に初めてビジネスモデルのところに言及した。そうなると、その上の戦略フェーズの話はどうなっているのかという興味がわいてくる。そこで、今回からシリーズで戦略のところを考えてみようと思う。

この戦略というと、よく出てくる、SWOT、PPM、5フォース、3C分析、プロダクトライフサイクルといった有名どころの方法論がたくさんある。アンゾフとかポーター、ランチェスターとかなんて名もよく聞く。

戦略をどうやって立てるかというと、業界構造分析、競合分析や戦略ポジショニングなどの外部環境分析、そして、自社の強み弱みの分析や経営資源分析といった内部環境分析をおこなって、そこから類型化してそれに合った戦略を導き出すことが行われる。そして取るべき戦略として、拡大戦略だとか差別化戦略だとか、多角化戦略なんてものが出てくる。

ところが、いろいろ見ていくと問題があるのがわかる、一つは、企業規模や経営者の性格あるいは他の状況によって、あてはまるものとそうではないものがある。例えば、多くの製品をもった事業と単品では取るべき方法論が違う。また、経営戦略といったものもあるし、もう少し狭い範囲の事業戦略のようなものもある。それぞれどれがいいのか選択するのも面倒である。

もっと問題なのは、戦略を作って終わりだということである。戦略はそれを実現するためのビジネスモデルとビジネスプロセスとの連動性を担保されたものでないと意味がない。どうもそこのとろを教えてくれる戦略論がないのだ。

ということで、これからその戦略―ビジネスモデルービジネスプロセスの連動性、一貫性をどうもたせるかというのを検討していくが、結局、そのためにはボトムアップのアプローチが有効であることがわかる。簡単に言うと、現状のビジネスモデルから自社の強みを引き出し、それを武器にこれからどう戦うかを考えることで戦略を立てるのである。

これでできた戦略は当然ビジネスモデルから導出しているから可逆的であるし、トップダウン的にやった場合のムダな分析もない実際的なものになる。なによりも簡単にできるというわけである。こんな考え方が正しいのかどうかこれから何回かに分けて議論していこうと思います。

2010年9月22日

ボトムアップ戦略立案―戦略論概観

世の中には数多くの戦略論がある。どれも深く突っ込んだわけでもないのだが、それぞれが微妙に違っている。そこで、そうした戦略論をカテゴライズしてみようと思う。こうすることで、ケースによって使い分けた方がいいのではなかという考えを検証する意味もある。

まず、独断と偏見が入っていますが、大きく次のように分類できると考えています。
(1) 自分たちのビジネスがいまどういう“状態”であるかを分析して、その類型に応じた戦略を提示したもの
(2) 自分たちのビジネスは業界や競合との関係でどういう“位置”にいるのかを分析して、その類型に応じた戦略を提示したもの
(3) 自社の経営資源の分析から、どういう戦略をとったらいいのかを提示したもの
(4) その他

(1)の状態を分析する時に評価軸がみな違います。製品と市場だけでみるものもあれば、市場成長率と相対マーケットシェアというのもあります。また、どこまでの範囲を想定しているかがあります。つまり、大企業の全社的な経営戦略みたいなものもあるでしょうし、というかほとんどがこれですが、もっと小規模の単一製品についての戦略もあるわけです。おしなべて、世の戦略論は大きな会社を対象にしています。

(2)の戦略論では、業界全体の分析を行う場合もありますし、競合との関係で立ち位置をみる場合もありますが、自分たちの会社が、リーダー企業なのか、チャレンジャーなのか、ニッチャ―なのかといったポジショニングをします。

(3)は、手持ちの経営資源の価値を分析したり、弱み、強みの分析などもこれにあたります。戦略は弱みは関係なく、強みをどう活かすかです。要するに、どこのドメインで強いリソースをもってどう戦うかが戦略になります。弱みをみてしまうと、どうしてもプロセス改善に行ってしまって攻めを忘れてしまいます。これは別の話なのです。だから、ボトムアップアプローチなのですが、これは後で議論していきます。

(4)では、例えば、プロダクトライフサイクルみたいに、製品が成長期にあるのか、成熟期あるいは衰退期にあるかで戦略が変わるようなものもあります。(1)も状態と同じかもしれませんが時間軸なのでこちらに分けました。他にも、ブルーオーシャン戦略のようなものもあります。

そして、その結果としての打つべき戦略ですが、みなだいたい同じようなものです。よくあるのが、コストリーダーシップ戦略、差別化戦略、選択と集中戦略ですね。他には、卓越したオペレーションとか顧客との親密さなんていうのもあります。場合によっては撤退というのがあるかもしれません。

このように見ていくと、それぞれの戦略が万能ではないことがわかります。同じ事業でも顧客や製品で取るべき戦略がちがったり、あるいはもうこの製品は衰退期に入ったから撤退しようと思ったら遅咲きの売れ筋になったなんてこともあるわけです。

それと、結局実行する戦略はそんなにいっぱいなくてだいたい決まったものになるような気がします。いくら、緻密で詳細な分析をしたところでやることは一緒だなんてこともあるし、経営者の思いで一転してしまうこともあるわけです。

ですから、こうした戦略論をふりかざしてトップダウン的に分析するのはいささか抵抗があるのです。そのあたりの続きは次回から。
  

2010年9月23日

残念な人の思考法

新書ランキングで上位を占めていたので、読みたくなった「残念な人の思考法」(山崎将志著 日経プレミアムシリーズ)を手にする。正直言って、これが20万部を突破して、「残念な人.com」というWebサイトができるようなものだとは思わない。

要するに、残念な人というのは、ポテンシャルはあるんだが、仕事の段取りというか、優先順位の付け方が間違っているためにうまくいかない人なのだという。それって、そもそもポテンシャルがないってことなのじゃないのとツッコミたくなる。だから、この手の本を読んでもなおらない。

書いてあることが、あまり新鮮味がなく、しかも散漫な感じがしてあまり感動しないのだ。それと、各章のタイトルと中身の関係がよくわからない。目次の後にわざわざ「本書の構成」というのがあって、そこに各章で言いたいことが書いてある。普通、目次でだいたい済んでしまうことを、こんなことを書いたということでいま言ったことがくみ取れると思う。

各章のタイトルは、
1章 残念な人はつくられる
2章 二流は掛け算で考え、一流は割り算で考える
3章 残念なひとは「塗り絵」ができない
4章 機能だけを磨いても二階には上がれない
5章 人生を残念にしないためのプライオリティ・・・

1章はともかくとして、他の章のタイトルで意味がわかりますか?で、その「本書の構成」で書いてあるのが、

1章 残念な人に陥らないためのプライオリティの考え方
2章 身近の組織から学ぶプライオリティ思考
3章 職場で使えるプライオリティ思考づけのスキル
4章 キャリアを考えるに当たってのプライオリティの考え方
5章 社会の中でプライオリティの高い人間になるためのヒント

これって、結局「プライオリティ思考法」というのがどういうもので、どのように活用したらいいのかを書いたものだから、変な章タイトルにしなくて、後の方のタイトルの方がよっぽど何が書いてあるかがわかる。

内容も、1章では、情報システムとかITがはいりこんできてそれに任してしまった結果、思考停止になっているという話である。2章は、ひたすらマーケティングの話で、あまりプライオリティ思考とは関係ないのではないだろうか。3章も営業マンの心得だし、4章はキャリアパスにそうしたコンピタンスが必要ですねということで、最後は人生訓みたいなもので、ここではプライオリティの意味が違ってくる。こういうのが散漫といった理由である。

何か変なところにいちゃもんをつけて恐縮だが、このプライオリティというのは、“仕事の成果=プライオリティ(の正しさ)×能力×やる気“だというのだが、わかったようでわからないというか、もっと簡単に前提条件を正しくとか問題設定を適確にとか、段取りが大事だよと言えばいいだけのことじゃないかと思ってしまうのである。残念。
  

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    • 2 ネガティブ
    • 3 評価というものは読む人のレベルに影響されると思います。
    • 2 残念な人が書いた、残念な内容の本
    • 1 本書自体が残念
    • 3 参考程度に
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2010年9月24日

さまよう刃

当代の人気作家東野圭吾のベストセラーを映画化した「さまよう刃」を観る。主演が寺尾聡、監督が益子昌一。この監督は全然知らなかったが、この作品が2作目みたいで、監督だけではなく脚本や小説も書くらしい。

作品全体の印象を先に言ってしまうと、テーマは重いし、衝撃的だし、演じている役者さんたちもいいのだが、ぼくにはありきたりの映画というか、ある種のお約束映画とでもいったしろものであった。すなわち、なにもかもワンパターンのような気がしたのだ。

寺尾聡演じる自分の娘を殺された父親が警察になんか任せられないから自分でリンチをくらわすといって犯人を捜すわけだが、その設定って外国映画なんかにもみかけることがあって、確かチャールス・ブロンソンの「狼よさらば」はそんな映画ではなかったか。

そして、その娘殺しの犯人の若者ともやはや“さまよえる刃”となった被害者の娘の父親を追いかける刑事に竹内豊と伊東四朗が扮するのだが、これまた年配の物わかりのいい刑事とまだ場数を踏んでいないので正義感をもちだす若い刑事というコンビもどこかでみたような。

さらに、逃亡の途中で泊った山の中のペンションの父娘の応対ぶりもさもありなんというシーンが続く。ということでどうも重いテーマの割に軽い感じがしてしまうのだ。

この犯罪者に対する被害者の家族の気持ち、もっと直載にかつ乱暴に言うとどうやって復讐するのかはすごく大きな問題で、死刑の是非にも関係してくる。なんかそんなところに肉薄してほしかったなあ。

似たような話がある「瞳の奥の秘密」という以前紹介したアルゼンチン映画と比較してもイマイチであった。なんか批判ばかりを載せてしまったが、料理のしようではもっといい作品になっただろうと思う惜しい作品であった。
  

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2010年9月25日

呑み歩き隊-日本橋篇

昨日は、6月末以来となる「呑み歩き隊」の例会があった。今回の散策と飲食は日本橋である。雨が降りそうだったがなんとか持ちこたえていたが、風が強くそして寒い。一気に冷え込んだので寒さがしみる。橋の上を行き交う人たちもしっかりと上着を着込んでいる。中にはコートまで来ている人がいて、そうかと思うとまだTシャツ姿の若者もいるという変な光景。

メンバーのひとりのN君がシティガイドボランティアをやっているので彼の案内を受ける。ところでこのN君、先週の日刊ゲンダイの「趣味に生きる」というコラムで紹介されていました。NPO法人「東京シティガイドクラブ」というところに所属しいていて、現役サラリーマンでありながら、毎週のように東京の街を案内しに出かけている。

従って、最近では子の例会は彼に全部アレンジしてもらうことにしている。そして、日本橋である。何回も通ったことはあるが、日本橋についてはあまり知らない。昨日は、その橋の由来や近辺の歴史などを聞く。橋がかかっているのは日本橋川という川の上なのだが、実はこれは川ではなく運河なのであって、隅田川から皇居のお堀をつないである。このような橋には他に京橋、新橋があったのだという。なぜ今はないのかというと、関東大震災でつぶれた瓦礫を運河に埋めたためだという。

この橋は19代目で作られてから100年経つのだという。それから、この近くには魚河岸あったところでそれが築地に移ったのだそうだ。魚を船に積んで城のお殿様に献上するのだが、残った魚をさばいたところから魚河岸になったのだという。

まだまだ、いっぱい情報を仕込んだが、そろそろそば屋の話に変えないといけない。今回のそば屋は橋のたもとにある「御清水庵 清恵」(おしょうずあん きよえと読む)にする。越前おろしそばが売りで、ご主人が福井出身のかたで、つまみには福井名物が多くあり、サバの一本焼、へしこ、笹カレイ、かにみそ豆腐などをたべながら呑む。

ちょうど目の前に川と日本橋が眺められいい気分になる。もちろん〆はおろしそばである。おろし汁が辛いといわれていたがぼくにはそんなに辛いとは感じられず、太めの堅麺との相性もよくおいしかった。

最近酒を控えていたせいもありすっかりいい気持になり帰ろうとしたが、ちと時間があったので、銀座「M」に途中下車する。そうしたら、昨夜は普段会いたくても会えなかったNさんとR子さんと顔を合わせる。そのあとも人間国宝のF先生と柳家小里ん師匠とぞくぞくみえて楽しい夜を過ごすことができた。

2010年9月26日

ボトムアップ戦略立案―戦略とは

では戦略とはいったいどういうものなのだろうか?前回議論した世にある戦略論を眺めてこれだという決め手があるわけではないことがおわかりだと思います。こういうときにはどうしたらいいのかというと抽象度を上げて考えることだ。つまり、それぞれの戦略論にある共通項は何なのかと考えてみる。

戦略というくらいだから、戦って勝つための策略である。そういうレベルでみると、どういう戦場でどんな武器をもってどういう戦い方をして勝利するかです。その勝利のために必要なことは、勝てそうな戦場であるのか、相手を凌駕する武器なのか、相手に勝る戦い方ができるかであり、そのどれかあるいは複数もっていなければ、相手が自滅するか、天変地異が起きるしか勝ち目はない。

かの、400戦無敗の男ヒクソン・グレイシーも言っているではないか、「競争に勝つためには、自分の強みを知り、世の中を理解する能力を身につけること。」だと。

これをビジネスの世界の言葉に変えると、攻めるべき事業領域と市場を設定して、そこに強い経営資源をもって、卓越したオペレーションを行い顧客に価値を提供することで儲けられる仕組みと仕掛けを立案することだと言える。究極の言い方は、儲ける作戦だ。

前回出てきた戦略論というのは、ここでいうところのどこの事業領域あるいは市場を攻めたらいのか、強い経営資源って何なのか、卓越したオペレーションができるプロセスとは、価値という差別化・競争優位点は何かということをそれぞれどこに重きを置くかの差で表現している。ただし、卓越したオペレーションができるプロセスということに突っ込んだものはないのが悲しい。

ということで、トップダウン的にみる戦略は、このくらいの汎化モデルでいいのではないかと思う。というのは、ケースバイケースでものすごく変わるものであり、また分析も一様にはならないこともある。ここら辺はまた後述する。

さて、もうひとつ気をつけなくては行けなのが、経営戦略なのか事業戦略なのか製品戦略なのかという対象に関する問題である。このあたりもいわゆる戦略論ではごちゃごちゃになっている。例えば、事業ポートフォリオなんて話になると経営戦略であるし、業界でのポジショニングなんては事業戦略かもしれない。顧客拡大だけなら製品戦略である。

そこで、ボトムアップ戦略立案では、製品戦略が主でせいぜい事業戦略までである。すなわち、現在の製品の戦略がどうなっていて、それをさらに成長あるいは拡大していくための戦略立案が対象である。そこから、新製品開発だとか、多角化といったことになると事業戦略になっていくわけである。

なぜ経営戦略を外すかというと、経営者なれないやつが経営を語ることの滑稽さと、理論で経営ができるなんて世の経営者は誰も思っていないからである。

この方法は基本的には、既存ビジネスから分析していくアプローチを言っていますが、全くの新規事業の場合はどうしたらいいのでしょうか。実は、一般の戦略論もこうした新規事業にはあまり触れていないようである。あくまで、現状ビジネスのポジショニングからのアプローチのようである。

ボトムアップ戦略立案では、全くの新規事業でもビジネスモデルの各要素を想定レベルでいいので書き出して、それを分析することから立案できるようになっています。結局、戦略とは、かなり抽象度の高いレベルでいいので、どこでどんな武器をもってそういう戦いをするのかがわかるようにしておくことが肝心だと思うのである。
  

2010年9月27日

ボトムアップ戦略立案―なぜボトムアップなのか

これまで、トップダウンアプローチについて否定的に述べてきたが、だからボトムアップだというだけでは弱いので、もう少し積極的な意味でボトムアップをなぜ推すかを考えてみます。

それと、必ずしもボトムアップ一辺倒であるということではないということを断わっておきます。ものごとの整理のし方って様々ありますが、一方的な見方だけではなく両方からみていくやり方が有効です。演繹的なアプローチと帰納的なものとの併用とか、問題解決型と仮説検証と両方から攻めるとかいったことです。

以前にもプロセス設計でハイブリッドアプローチという表現をしましたが、ここでも同様にトップダウンとボトムアップの両方からです。ただ、ここの領域では世の大方がトップダウンアプローチなので、あえてボトムアップの必要性を説いています。

ここでボトムアップ戦略立案とはどんなやり方なのかをざっくりと述べておきましょう。ボトムアップだから、戦略立案の下位レベルから見る方法になるが、その下位レベルとは何かというとビジネスモデルであり、従ってそこから戦略を考えるというアプローチのことです。

こうした方法をとる一番の理由は、戦略は実行されてこそ意味があるということからきます。またトップダウンの限界の話になってしまうのだが、戦略を作るまでは確かに素晴らしいものもあると思うのだが、それがどういう形で実行されるかがよくわからないということと、分析疲れを起こしてしまうことを指摘したい。

いろいろな角度から詳細に分析してもその結果が全部使われることはないし、必要ではないことを検討することもあると思う。また、細かいところに行くと分析の結果が反対になったりする可能性もある。例えば、強み弱み分析である事業(製品)では強みだったのが、別の事業(製品)では弱みになることだってあるかもしれない。

その点、ボトムアップ型立案アプローチでは、ビジネスモデルやビジネスプロセスのイメージがあるので、それを実行するにあたって決めておいてもらいたいことを要求することで戦略の確定を促すことができ、より具体的かつ実際的なのである。

こういうと近視眼的で部分最適のようなことになりやしないかという指摘をされるが、最初に言ったように、トップダウンの眼でチェックすることをします。経営的見地から見るとどうなのかとか、漏れがないか、他の事業とのバランスはどうなのかといった、ちょっと目線をあげて眺めることで全体最適をめざします。

再三指摘しているように、今の業務システムは上位からの戦略やビジネスモデルを表現しているとは言い難く、そこの間の乖離が問題です。ビジネスとITの連動性、一貫性を担保することがこれからのシステム化の課題なのです、その連動性、一貫性を実現するには従来のトップダウン指向では限界があったからこそ、その反対のボトムアップでやったらどうかと提案しているわけです。
   


2010年9月28日

愛を読む人

もうこの時代になってくると戦争の傷跡を描く映画も少なくなってきているが、ドイツの戦後の断面を捉えた「愛を読む人」を観る。監督が、「めぐりあう時間たち」スティーヴン・ダルドリーで主演のヒロインを演じるのが「タイタニック」のケイト・ウィンスレットである。

物語は、戦争中にナチスの収容所の看守であった主人公ハンナが、戦後に戦犯として裁かれるというストーリーが一本の筋としてある。もう一方でそのハンナに関係する男マイケルの15歳からのの人生も絡んでくる。

もう冒頭は不謹慎だが男冥利に尽きるエピソードである。マイケルが15歳の時家に帰る途中病気で気分が悪くなり吐いてしまうが、それを助けて家まで送ってくれたのが、21歳年上のハンナである。ハンナは一人暮らしで路面電車の車掌をしている。

病気療養後、お礼にとハンナの家を訪れたマイケルはそこでハンナから情事の手ほどきを受けるのである。年上の女にあれを教えてもらう理想の展開(すいません)。それからというもの入り浸りの生活になるが、やがてハンナはマイケルに本の朗読を頼むようになる。そうして、甘い生活が続くのだが、ハンナはある日突然行方をくらますのである。

そして、法学部の学生となったマイケルは授業の一環である法廷見学でナチス戦犯として裁かれるハンナを見つけるのであった。そのときハンナは罪をかぶるような形で有罪の判決を受け服役するのである。この時の証言が、本を朗読してあげていたという事実を明らかにすれば覆ったかもしれなかったのである。

こう書くと、ハンナの戦争を引きずった苦悩が痛いのだが、それ以上に悶えたのがマイケルなのである。昔関係した女を救えるかもしれなかったのにそれができず、服役中にも朗読したテープを送り続けるのであった。

さすがにダルドリー監督で、こうした男女の苦悩を、大きな時間の流れのなかで、行きつ戻りつしながら、見事に描ききっている。こんな形で戦争を語る映画に驚きつつ、それを超越した愛が美しい。良質の映画だ。
  

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2010年9月29日

ITエンジニアの育ち方(1)

これまで、業務システムの作り方だとかプロセス設計法といった議論が主体だったのですが、非常に重要な問題として、ではいったいそれを誰が遂行してくれるのかというのが大きくたちはだかっています。要するに、そういうスキルをもったエンジニアの養成というのが課題になります。

昨日から、日本BPM協会で「情シス若手勉強会」というのを立ち上げたので、この機会にそこらあたりを考えていきたいと思います。ここでITエンジニアと言っているが、皆さん、おそらくそれぞれ勝手にイメージを抱いているので、ちゃんと定義しておかないとまずいと思うのです。

ITSSとかUISSといったスキル標準にはそれぞれの領域でのエンジニアのもつべきスキルが規定されているのでそうした区分けで見ている人もいるでしょう。しかし、これはいかにもシステム寄りでしかも細分化しすぎです。もっと大きな括りでかまわないと思っています。すなわち、ITエンジニアには、ソフトウエア開発エンジニアと業務システム構築エンジニアの2種類だけがいると考えます。

だいぶ乱暴かもしれませんが、広義にとらえてみればこうした区分けでもいいと思っています。前者のITエンジニアは、ソフトウエアというプロダクトやサービスをつくる人たちで、ソフトウエアといっても様々あって、業務パッケージのようなものから、ツールとかフレームワークのようなものまであります。別な見方をすると、顧客の依頼があってそれを受託して作るのではないということです。あるプロダクトを企画して設計してそれに従ってプログラミングするという開発です。

一方、後者の方は、業務システムを受託開発するという仕事のやり方の中のエンジニアのことです。ユーザの要求を獲得して、それにもとづく要件定義を行い、設計・開発するというスキルをもったエンジニアになります。さらに、システ運用・保守というエンジニアもここに含まれるでしょう。

プログラミングということに限っていえば、前者が自発的なコーディングであることに対して、後者は受身的なコーディングなのです。この差は大きく、よくプログラマーとひと括りで言いますが、このように性格がちがうのです。あきらかに自発的なコーディングの方がモチベーションが上がります。ですから、できるだけ、受身的なコーディングはしないというのが大事なことなのです。

別な面でみると、めざすところがちがうというか、利害の対象が違うというのがあります。システムを提案し実装し、それがビジネスに貢献することをめざす人材と、極論すればビジネスに貢献しようがしまいが関係なく、いい道具を作ることをめざす人材とは別物なのです。

世の中では結構こうした区分けと定義をしないで語る人が多く混乱してしまうことがよくあります。これから取り上げるITエンジニアの定義は、後者の業務システム構築エンジニアになります。ということで、ITエンジニアというと従来のようなシステム技術に寄った人材をイメージしがちですが、そうではなくてビジネス寄りのITエンジニアが対象になります。

ここで、タイトルが「人材の育て方」ではなく「人材の育ち方」としたのは、若手を集めて年寄が講義形式で教え込む方式はとらないということを意味しています。こうしたプッシュ型の教育はなかなか身につきません。重要なのは、自分の頭でとことん考えることです。そこの“とことん”考えるようにお手伝いし、ちょっとしたガイド役になるのが講師だと思います。しばらく、勉強会の進行に合わせてエントリーしていこうと思います。


2010年9月30日

成熟日本への進路

「成熟日本への進路」(波頭 亮著 ちくま新書)の著者は、戦略系コンサルタントである。その人が言う。「優れたコンサルとは、コンプリヘンシヴ(総括的に分かっていること)に分析し、シンプル(明快で)かつコンシステント(一貫性のある)な解決策を示すこと」であると。この本はまさにこの言通りに分かりやすい非常に優れた提言が書いてある。

国家のヴィジョンから戦略と言っても基本的には企業のものと同じなのである。だから、企業における理念、ヴィジョン、戦略、ビジネスモデルといったことを考えている身にとっては、すんなりと理解できるのである。

そして、著者の主張はほとんど同意できることばかりである。これだけ、明快に示した国家ヴィジョンと戦略がかつてあっただろうか。いままさに、いろんな人たちが民主党の政策に口をだし百家争鳴の感があるが、本でもいっているようにそれらはみなコンプリヘンシヴではなくスペシフィック(局所的であること)なものでしかない。それゆえ、混乱してしまうのである。日本人の弱いところである。

著者の主張は簡単に言うとこうである。(こうして言えてしまうのがすごい)
・ 日本はすでに成長フェーズが終わり、成熟フェーズに入ったという事実に立てば、そこから導かれる国家ヴィジョンは「国民誰もが、医・食・住を保障される国づくり」である。
・ ヴィジョンを実現するための考え方と理念としては、従来の成長戦略と景気対策一辺倒の公共財として経済政策から脱却し、分配論を軸にした経済政策に転換し、国民全員に手厚い社会保障を公共財として提供することを第一の政策目的とすべきである。
・ ヴィジョン実現のための経済政策としては、医療・介護産業を主力産業として育成・拡充し、産業構造のシフトを促進していくことが求められる。また、国民経済全体の生産性を向上させるために、教育に対する投資も拡大していくべきである。
・ その政策を実行するために、組織・制度が重要で、官僚制度改革がキーポイントである。

こうした考え方とともに具体的な施策も提示して、産業構造のシフトでは、医療・介護サービスの拡充と外貨を稼ぐ産業の育成であるとしているし、官僚機構改革のポイントは、政治=官邸/内閣が官僚の人事権を掌握することと特別会計を透明化することと言っている。非常にオーソドックスで的を射ていると思いませんか。

繰り返しますが、日本人の不得手なのは、こうして全体を俯瞰して、それを構造化・体系化し、そこから個別のコンポーネントに分解し、より具体的な策を作り出すということだと思います。これは、国家戦略みたいな大きなものから、商店の経営や個人の生き方みたいなところまで有効な思考アプローチです。

ところで、いまの政治家でここまで言える人はいるのだろうか。企業の経営者のほうがはるかに進んでいるように思う。だから、著者のようなコンサルを含めて、民間の企業でヴィジョンだとか戦略なんかを窮めた人が政治家になったほうがいいのではないだろうか。

民主党の議員さんにはぜひ読んで欲しいと思う。いや自民党の議員さんもか。(成長戦略だけじゃだめですよ)結局、著者が言っている「高福祉だからこそ自由経済」というのが正解だとぼくも思う。いまの民主も自民もここがわかっていないのだ。どちらか一方しか見るのではなく、相互のバランスが重要なのである。近頃では出色の良書である。
  

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