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対立と排除

以前、最近の若者は空気を読むようになってきたという話をした。ケータイを通して新しい村社会を形成し、そこで村八分にならないように、空気を読む術を身につけたのだという。そのためには、自分とは違ったキャラも演じるらしい。

そこに働く心理は何なのだろうか。人間関係がぎくしゃくするのがいやだから、極力争わないようにふるまうのだろうか。それは、対立というコンフリクトを嫌うということだろうが、どうもそういうことではないような気がする。

ぼくらの世代だと、この対立というのが異空間に向かっての接し方であったと思う。セクト間の争い、新旧の戦い、イデオロギー論争など、そうした対立的関係性が強かったが、それはそれで意外と仲間意識ようなものも維持されていて、村八分的な思いは少なかった。

いまの若者はこうした対立的な空気も嫌っているだろうが、むしろ“排除”されるのが恐いことが大きいのではないだろうか。ぼく自身の経験から言っても、けんかするのはどうってことがない場合が多いが、いちばん堪えられないのは排除されることのように思う。

あなたの言っていることは私とは違うと言われても何でもないが、“あなたは必要ない”と言われた時の衝撃は大きいものがある。これは、この瞬間に関係性の糸がぷつんと切れてしまうのである。この糸を切らないように空気を読みながら、排除されないようなキャラを演じ続けているのではないだろうか。

あの秋葉原の通り魔殺人の犯人もおまえは必要ないと排除されたことで疎外感をぶつけてしまったのかもしれない。いじめもこの排除の陰湿さによるのだろう。格差社会と言われるなかで、その格差を生んでいるのが「排除の論理」でないこと祈るのである。

格差がまだ対立的な概念のもとにあるのだら救いがあるように思う。もっと言えば、そうした格差があるからチャレンジができると言えないこともないのである。差をのり越えていこうという精神は大事な変革のエネルギーになる。

ところが、それが排除の概念のもとにあると、そこを打破するのは並大抵のことではない。あなたは必要ない人間だとなったとき、新たなまともなエネルギーが生まれてはこないだろう。そこは、閉じこもるか、暴発するかになってしまう。

だからぼくは、ずっと「あなたは必要ない」という言葉の暴力は絶対しまいと誓っているのである。

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2010年03月06日 11:24に投稿されたエントリーのページです。

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