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2010年3月 アーカイブ

2010年3月 1日

第19回東京スポーツ映画大賞

昨日は、東京スポーツ映画大賞の授賞式が赤坂プリンスホテルであった。例年のように招待されたので出かける。チリ地震による津波のために、一部電車が不通になっていたので心配したが、何とか電車に乗り込む。

今年は、東スポ創刊50周年記念ということもあり、その特別賞の授与もあった。これは、東スポの紙面をにぎわせたという意味でスポーツ界、芸能界から5人が選ばれた。長嶋茂雄、松井秀喜、亀田兄弟、石川遼、宮沢りえである。松井と石川は不在であったが、その他の人たちは出席していた。長嶋さんの姿には感激した。

その他、10回目となる「エンターテインメント賞」の授賞式も行われ、話題賞に石田純一、日本芸能大賞にオードリーとU字工事、特別賞がビートたけしと所ジョージ、期待賞にマキタスポーツという面々である。

さて、「第19回東京スポーツ映画大賞」では、それぞれ表彰状と盾が贈られ、たけし審査委員長のコメントと受賞者の喜びの声が聞けた。以下、写真を交えて順番にレポートしてみる。

・主演女優賞 :ペ・ドゥナ(空気人形)
あいにく本人が来れなくて、代理の人が本人からのメッセージを代読。たけしはこの映画を見ていなくて、従ってちゃんとした感想はなし。

・助演女優賞 :深田恭子(ヤッターマン)
ぼくはこの映画を観ていないので何とも言えないが、深キョンもこんな役(ドロンジョ役)もやるんだとちょっぴり驚く。この子は以前たけしの「Dolls」という映画に出演していたのでそれで選ばれたのかと思ったが、それだけでもなく、演技の幅が広くなったことが評価されてきたのではないだろうか。
たけしが、この「Dolls」という映画がロシアでロングランを続けたという話をしていた。

・助演男優賞 :三浦友和(沈まぬ太陽)
最近の三浦友和は当初の青春アイドルから脱皮し、しかも悪役の演技に存在感を増している。たけしも前から悪役をやらせたらいいと思っていたと話していた。何と言っても58歳にはみえない若々しさを目の当たりにする。
受賞の感想では、たけしの次回作に出演していて、その話ばかりしていた。

・監督賞 :西川美和(ディア・ドクター)
西川監督は2007年の第16回で同じ監督賞を「ゆれる」で取っている。たけしが、本当は作品賞も他の映画賞と同様に「デイア・ドクター」にあげるべきだと思ったが、あえて外したと言っていた。この監督には変に小さくまとまってほしくないからだという。ということで、たけしも西川監督には一目置いているのがわかる。何と言っても、オリジナル脚本で撮ることのすごさをぼくも評価しているので同感だ。たけしも、はっきりとテレビドラマの延長みたいな映画(ROOKIESを名指していた)を撮ることを批判していた。

・主演男優賞 笑福亭鶴瓶(ディア・ドクター)
今年の映画賞の多くに顔をだして今や俳優としての地位を確固のものにしてしまった鶴瓶師匠だが、芸人としての偉大な先輩たけしから授与されるということでたいそう感激していた。とはいえ、やはり芸人なので、ハプニングを演じることを計画していたらしいが(おむつをつけていて、何かの拍子にズボンを脱ぐという)、それを仕込んでいるのを所ジョージに見られたのでばれてしまい舞台ではやらなかったのだが、帰り際に舞台のそでで実行した。

しかし、たけしも似たようなことを言っていたが、もうある程度名も知られていて、芸もある人だから、そこそこのレベルの演技は保証されているわけで、そうなるとそこからどれだけの上澄みを発揮できるかになる。そこがこの作品ではできたということなのだろう。(少なくとも「おとうと」よりはいいと思う)

その他、外国作品賞に「THIS IS IT」、特別作品賞に「上島ジェーン」が輝いた。

今回は、50周年記念ということもあり、終了後、立食だが酒と食事がでる。もちろん受賞者は帰ってしまうが、関係者や招待者が集まる。何か怪しげな男女(アントキの猪木とか)がいっぱいいてさすが東スポらしい。そしてしばらく、地方の映画祭の人たちと歓談する。

今年もまた、大いに楽しめた一日であった。下に写真を載せてありますのでここをクリックしてください。

東スポ映画大賞

2010年3月 2日

Kailasの基礎理論-その3

Herbert Simonの意思決定プロセス

このサイモンの意思決定プロセスについては、本ブログでも何回も取り上げているので詳述はしないが、この意思決定プロセス以外のところについて少し見ていくことにする。

そのひとつが、限定合理性と満足化原理ということです。はじめの限定合理性ということについてですが、彼は人間を限定された合理性を有する意思決定主体と仮定しています。すなわち、人間はできるかぎり合理的に意思決定しようとするが、合理性に限界が存在するために、完全に合理的な意思決定をすることはできないということです。

これは、バーバナードも同じようなことを言っていて、多分にサイモンもそれに影響されたと思います。そして、なぜ限界が生じるのかというと、意思決定のために必要なすべての情報を収集できないという情報収集能力の限界と、意思決定に基づいた行動の結果をすべて完全に予想することはできないという計算能力の限界からきています。

従って、人間が完全に合理的な存在であるなら、最適化原理に基づく意思決定できますが、合理性に限界があるので、満足化原理に基づく意思決定をせざるを得ないということになります。このことを逆読みすると、情報収集能力と計算能力を高めれば最適な意思決定に近づけることができることを意味しています。

この限定合理性により、問題の大きさや複雑さによっては、解決が難しいことが起きます。従って、組織を階層化してことにあたる必要が出てきます。目的を階層化して、それに対応して組織も階層化することが求められるのです。

ただし、この階層化された組織で意思決定を行っていく場合、気をつけなくてはいけないのが、それぞれの階層で意思決定がばらばらにならいようにすることで、そのため、各層の意思決定が連動していくために、「価値前提」と「事実前提」ということを言っています。

価値前提というのは、何を目的とし、何を望ましいと考えるかの価値判断であり、事実前提というのは、環境や組織が持っている能力がどうなっているかという事実認識で、これらを共有しておくことが大事なのです。

つぎに、サイモンは意思決定の種類を定型的意思決定と非定型的意思決定の2つに大別しています。簡単に言うと日常反復的に発生するのかそそうでないかである。反復的であれば決まった手続きや方式でやれるが、そうでないと新たな代替案を必要とします。

結局、サイモンは人間は限定された合理性をもったものであるがゆえに、組織を意思決定のための体系と規定し、それを組織目的に合わせて階層化し、合理性の限界を乗り越えていこうと主張しているのです。
  

2010年3月 3日

Kailasの基礎理論-その4

Terry WinogradのLAP

このLAPと次のEnterprise Ontologyについては、このブログの記事でも書いたように、最近知った理論であって、ですから後付けもいいところです。しかし、これまでやってきたことと同じようなことを理論的に究明していた人がいたことに驚いたのです。

Kailasの発想はITを意識しないなかで業務の実相をそのままシステムに乗せたいところからきています。ですから、人間系の仕組みに注目するわけで、LAPやEnterprise Ontologyで言っている「ひとのつながりにも目配りするビジネスモデリング」と合通ずるのです。

さて、そのLAPですが、LAPとはLanguage/Action Perspectiveのことで、タンフォード大学のWinograd教授が唱えたものです。Winograd教授はもともと人工知能の研究で有名な先生でしたが、Fernardo Floresという人と出会ってから、このLAPにのめりこんだとのこと。

ただし、いまはそこから離れて、Human-Computer Interactionの方に行っているそうです。おそらく、LAPのようなことを研究していくと、ユーザインターフェースに行きつくような気もする。このへんはまた別途考えてみたいと思います。

前置きが長くなったが、所詮にわか勉強なので深いところが分からないが、LAPについては専修大学ネットワーク情報学部小林隆教授が詳しく説明してくれている。その肝のところは、新しい認知科学のアプローチであって、そこでは「認識を人間と環境との適合(カップリング)と考えよう」というところである。外部に適用するために行動することで、そうした行動をすることで認識が高まるというわけである。

そして、人間は言語を通じてカップリングする生き物で、うまく行くと(Happy Path)定型的な会話パターンとなる。ところが、そううまく行くことばかりではなく会話が破綻する(Breakdown)場合もあって、そこでは厳密な単語を使った話合いを行うのだが、そうしたことをできるだけ回避するように会話パターンを設計することが必要になる。

結局、「人間生活の基礎は、行為の調整であり、調整は言語によって行われ、言語は要求と約束にもとづく」ということになる。こうしたことを表現する最も分かりやすい図を下に掲げます。

LAP.bmp

この図を見ていると、Kailasでいう業務プロセスのパターン化と似ていることがわかると思います。Kailasでは依頼-依頼受付-単位意思決定(データ確定)-作業-報告・登録としていますが、これがHappy Pathで、Breakdownになると、(KailasはBreakdownに限らず)そこは関係者間のコミュニケーション(言語)によってその行為あるいはデータを確定していくことになります。

この考え方の根本は、「“人間を代行するコンピュータ”から“人間の道具としてのコンピュータ”へ方向転換する」ことにあります。」 これもかねてから、人間主体の業務システムを標榜していることにも通じることでもあります。
  

2010年3月 4日

福島正則

自分の名前がどうやって付けられたかはずっと気になっていたが、なかなか親に面と向かって聞く機会がなくてそのままになっていた。そんなわけで、この歳になって改めて聞くのも照れくさかったのだが、先日ばあちゃんに問うてみた。

そうしたら、「どうだったかなあ、福島正則からかもしれない。もう忘れたよ」というつれない返事が返ってきた。もう少し、真剣に子どもの名前を付けてくれよなあと思ったが、そういえば自分の子供の名前をどうやって付けたかと言われると、確固たる理由を述べることができないので、しょうがないかと納得する。

中学生の頃、国語の先生に君の名前は昔のえらい武将と同じだねと言われたのを覚えていて、そんなこともあって、福島正則について何となく親近感をもっていた。とはいえ、その人がどんな人だったのかは、断片的にしか知っていなかった。

そこで、そのものずばりの「福島正則」(福尾猛市郎、藤本篤著 中公新書)を手にする。歴史学の師弟である二人の先生が書いた本で、福尾教授が残した遺稿を弟子である藤本氏が補遺したという。だから、史料を丹念に調べてその足跡を追った構成になっている。

だからということかもしれないが、はっきり言って面白くない。研究書としてならかくありなんと言えるが、新書で書くなら、もう少し人間的な側面に光をあてて表現してほしかった。事象的な事実の羅列ではなく、生身の人間としての生きざまのことである。

福島正則は、安土桃山時代から江戸初期にかけて活躍した武将で、小さい時から豊臣秀吉に仕え、後に広島藩主になった。この人物については諸説あるが、よくいわれるのは、不器用で武骨な武士というのと、同じようではあるが、一方で粗暴で残酷だったという説もある。まあ、旧主の恩顧を忘れず、あまり権謀を弄さない一途な性格だったようだ。

この時代というのは、関ヶ原の戦いもそうだが、東につくのか西につくのかといったように多くの大名は変節したり、背反したりした中では、異色だったようだ。だからこそ、いまの時代になっても評価されるのかもしれない。

歴史は繰り返すというか、人間の生きざまは古今東西変わらないものかもしれない。ぼくの親が、福島正則のいいところである誠実さと一途さを願って名前を与えたとしたら、はたしてぼくは親の期待に応える子どもになったのだろうか。
  

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2010年3月 5日

のんちゃんのり弁

「いつか読書する日」の緒方明監督の作品「のんちゃんのり弁」を観る。主演は、小西真奈美で、子持ちの30歳前半の主婦がだらしない夫と別れて弁当屋を始めるまでを演じる。

題名からもそれほどシリアスさは感じないし、軽い映画かなと思っていたら、いやいやなかなか面白かった。大上段にふりかぶるわけでもなく、ごく日常的な風景の中で、しかし、なにげなく世相の問題もあぶりだすのである。

主人公の主婦は、ある日作家志望だという夫に離婚届けを置いて家を出て行ってしまう。どうにもグータラな亭主に愛想をつかしたのである。幼稚園の娘を連れて、下町の実家に戻るのだが、母親はそんな娘を甘やかすわけではないので、とりあえず働かなくてはいけない。

ところが、32歳の出戻り主婦がそう簡単に就職口がみつかるはずがなく、しかたなしに水商売にも手を染めるが、すぐに辞めてしまう。家を飛び出したはいいが、女手ひとつで育てていく大変さを実感するのである。甘いといえば甘いのだが、おおかたの人も同じように気楽に考えていて、いざその境遇にさらされるとその厳しさが分かるのではないだろうか。

そんな彼女のまわりに同級生の写真屋の息子が登場して、いいところまで行くがその男はやがて去って行ってしまう。(緒方明は「いつか読書する日」もそうだが、同級生同士の恋が好きだなあ)そして、さらにしつこくつきまとう元夫が絡んで展開する。この前の旦那とのけんかのシーンはすさまじく迫力がある。

で結局、その辺の周囲の温かい助けなどもあり、幼稚園児の娘に作った弁当が好評であったことにはたと気づいて弁当屋をはじめることになる。こうして書いていくと、どうということがない物語のようだが、何といっても小西真奈美演じる主人公が、明るくのびのびしているのが好感できる。

ぼくはこういうフツーの情景とフツーの男女がいて、ちょっと非日常的な事態になったときに、意外としっかりとしてしまう的なストーリーはわりと好きで、この作品はそんな感じに仕上がっている。
   

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2010年3月 6日

対立と排除

以前、最近の若者は空気を読むようになってきたという話をした。ケータイを通して新しい村社会を形成し、そこで村八分にならないように、空気を読む術を身につけたのだという。そのためには、自分とは違ったキャラも演じるらしい。

そこに働く心理は何なのだろうか。人間関係がぎくしゃくするのがいやだから、極力争わないようにふるまうのだろうか。それは、対立というコンフリクトを嫌うということだろうが、どうもそういうことではないような気がする。

ぼくらの世代だと、この対立というのが異空間に向かっての接し方であったと思う。セクト間の争い、新旧の戦い、イデオロギー論争など、そうした対立的関係性が強かったが、それはそれで意外と仲間意識ようなものも維持されていて、村八分的な思いは少なかった。

いまの若者はこうした対立的な空気も嫌っているだろうが、むしろ“排除”されるのが恐いことが大きいのではないだろうか。ぼく自身の経験から言っても、けんかするのはどうってことがない場合が多いが、いちばん堪えられないのは排除されることのように思う。

あなたの言っていることは私とは違うと言われても何でもないが、“あなたは必要ない”と言われた時の衝撃は大きいものがある。これは、この瞬間に関係性の糸がぷつんと切れてしまうのである。この糸を切らないように空気を読みながら、排除されないようなキャラを演じ続けているのではないだろうか。

あの秋葉原の通り魔殺人の犯人もおまえは必要ないと排除されたことで疎外感をぶつけてしまったのかもしれない。いじめもこの排除の陰湿さによるのだろう。格差社会と言われるなかで、その格差を生んでいるのが「排除の論理」でないこと祈るのである。

格差がまだ対立的な概念のもとにあるのだら救いがあるように思う。もっと言えば、そうした格差があるからチャレンジができると言えないこともないのである。差をのり越えていこうという精神は大事な変革のエネルギーになる。

ところが、それが排除の概念のもとにあると、そこを打破するのは並大抵のことではない。あなたは必要ない人間だとなったとき、新たなまともなエネルギーが生まれてはこないだろう。そこは、閉じこもるか、暴発するかになってしまう。

だからぼくは、ずっと「あなたは必要ない」という言葉の暴力は絶対しまいと誓っているのである。

2010年3月 7日

人間の器量

最近の政官業学のどれをとっても小粒な人間ばかりになっているとぼくも思っていたら、それを嘆く本が出た。「人間の器量」(福田和也著 新潮選書)がそれだ。人間の評価を器の大きさでみようというものだ。

近頃では、人間を測るのに、偏差値とか、学歴とか、資格とか、業績で見ることが多い。しかし、それも重要だがそれだけではない。そこにもちだされたのが器量ということで著者はこれについて次のように言っている。

器量とは、一つの地位とか、能力とか、資質を指しているわけではありません。 これが難しい。 とてつもなく有能であっても、それだけで器量があるとはいえない。 もっと全人格的な魅力、迫力、実力があってはじめて器量があると認められる。 器が大きいと認められるわけです。 しかも器というくらいですから、その内容は変幻自在なのですね。 水も入れば酒も入る。油だって毒だって注げるわけです。 善い人とか、悪い人とか言うような単純な区別はつけられない。 水だと思っていたら、いつの間にか、酒になっているかもしれない。 善悪、良否の敷居をこえてしまうような人間観、その物差しとして器がある。
これを別な言葉で言うと、高い低いという見方ではなく、水平的な広がりをもって評価しようというのである。そして、なぜに今の日本人はこんなに小粒になってしまったのかと著者は嘆くのである。

ということは、以前の日本人にはそういった大きな器量をもった人がいたということになる。そういう先達として、明治、大正・昭和戦前、戦後から今日までの3つの時代での器量人十傑をあげているので、それを見ると著者のいう器量人とはどんな人であるかが分かる。

 【明治】
 ①西郷隆盛 ②伊藤博文 ③勝海舟 ④大久保利通 ⑤横井小楠 ⑥渋沢栄一 ⑦山縣有朋 ⑧桂太郎 ⑨大隈重信 ⑩徳富蘇峰
 【大正・昭和戦前】
 ①原敬 ②高橋是清 ③菊池寛 ④松下幸之助 ⑤今村均 ⑥松永安左衛門 ⑦鈴木貫太郎 ⑧賀屋興宣 ⑨石原莞爾 ⑩小林一三
 【戦後から今日まで】
 ①岸信介 ②田中角栄 ③小林秀雄 ④小泉信三 ⑤山本周五郎 ⑥田島道治 ⑦本田宗一郎 ⑧吉田茂 ⑨宮本常一 ⑩石橋湛山

うーん、何となくわかるような気がしますね。清濁合わせて包みこむような大きさが感じられます。だから、中には、いまの世の中だとすぐにマスコミや世間に叩かれてすぐにつぶされてしまうかもしれないような人が入っています。器量人を育てるには器量の大きい国家・社会がいるのかもしれません。

この器量というといま並べた偉人にしかないかというとそうではなく、普通の人にももちろんそれなりの器量があった方がいい。では、なぜそれが必要なのかということに対して、著者はこんなことを言っている。究極的にはこのことだとぼくも思う。

死だけは、平等に、誰にでも到来するのです。 死んで動かなくなればすべて終わり。 その終わりにむかって、その道程の長短はあれど誰もが歩いている。であるとすれば、その道程を出来るだけ充実させるように励み、試み、考えるしかありません。動けなくなるその時を、死を、見苦しくなく、なるべく思い残すことなく、迎えるために。 そのために、器量を育てる、大きくする事が必要なのです。
  
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2010年3月 8日

インビクタス/負けざる者たち

この映画は、1994年に南アフリカ共和国の大統領に就いたネルソン・マンデラと同国のラグビー代表チームキャプテンのフランソワ・ピナールとの1995年に自国開催されたワールドカップへ向けての交流を描いたものである。

監督がクリント・イーストウッド、マンデラ役がモーガン・フリーマン、ピナール役がマット・デイモンという布陣。3者の持ち味を出した秀作に仕上がった。何と言ってもマンデラにそっくりなフリーマンの演技が光る。実際にマンデラから主演を熱望されたようだ。

このストーリーは実際にあった話なので迫力がある。主題は、アパルトヘイトに反対したため、27年間も投獄されていたマンデラが出所してすぐに初の黒人大統領になったときの彼の振る舞いにある。それは当然、獄につながれた復讐を予想されるが、彼は復讐ではなく「赦し」を選択する。

ここがすごいところで、昨日書いた「人間の器量」という意味で大きな器量をもっていると言える。自分の内部になかろうはずのない怨念を捨て、膚の色や言葉の違いを乗り越えて国民が一つになることを希求したのである。

こうした、シンボルとしてラグビーのワールドカップを活かしたのである。スポーツイベントは、ラグビーもそうだが、サッカーにしてもオリンピックにしても国威発揚の場になっているが、この南アフリカのことは、政治的な色彩が濃いのだが、混乱あるいは過渡期であったがゆえに非常に効果的であったのだ。

さて、クリント・イーストウッドである。このところ、老体にムチ打って「チェンジリング」、「グラン・トリノ」。そしてこの「インビクタス/負けざる者たち」と立て続けにいい作品を送り出している。映画を知り尽くした監督という感じがする。ただただ感服する。

ただ、ちょっと言わせてもらうと、時間の制約があったかどうか知らないが、すこしばかり雑なところが見受けられたのだ。むだなシーンがあったり、最後に試合に勝つところまでの盛り上がり方が不足していたように思う。

そんなことを言っても、作品全体はすばらしく、アカデミー賞の主演男優賞候補にもなっているモーガン・フリーマンがはまり役であるということもあり、ぜひ観てほしい映画であった。
  

2010年3月 9日

Kailasの基礎理論-その5

Jan DietzのEnterprize Ontology

さて、最後のEnterprize Ontologyについてです。これについては最近聞いたもので後付けの理論です。しかしながら、共鳴部分が多いので勝手に基礎理論であると言っているのです。もちろん、全部が同意できるかというとそうでもないところもあるが、体系化、モデル化してあるので分かりやすということは言えます。

DEMO理論のエッセンスをみていきましょう。まずは、企業活動についてオントロジカルな側面を重要視していることです。ではそうではない部分は何かというと、データ転記のような単純処理であるデータロジカル、計算や加工といった意味付与を伴う処理であるインフォロジカルな活動です。

従来の業務システムは、このデータロジカルとインフォロジカルを主体とした「情報処理システム」であったのです。ところが実際の企業活動は、そうしたものだけではなく、オントロジカルなものが重要であるわけです。

では、そのオントロジカルとは一体何のことなのでしょうか。Ontologyを辞書で引くと、存在論とか本体論という風になっています。よくわかりませんので、コンピューターの世界の話にします。ここでは「知識を共有するために、物事を体系的に分類したり、物事の間の関係性を記述する」ことを意味するとなっています。言い換えれば、「異なる語彙間の関係性を定義する」、もしくは「人間が理解している物事の関係性をコンピューターにも理解できるように表現する」ことだそうです。

それでもよくわからないところがありますが、人間のやることは表層的に現れるもの以外に深層にある文脈的なものがあって、そうしたものはこれまでのコンピューターでははじかれていたのをコンピューターに乗せようという動きです。その概念的なモデルとしてLAPにもとづく会話モデルがあるわけです。

さて、つぎにDEMOにおけるいくつかのモデルについて見ていきます。まずは階層化という概念があります。体系というのは簡単に言うと縦横の関係を整理した構造のことですので、この階層化という概念は重要です。

ここでは、プロセス-活動-行為(活動+意図)になります。例をあげて言うと、「請求から支払い」があると、その全体がプロセスになります。そして「支払い」が活動ということになり、「支払、要求」や「支払、約束」などの行為があるということになります。

そして、DEMOでは5つのモデルが提示されています。

 ■相互作用モデル:活動(行為の連鎖)、アクター、活動の結果の関係
 ■相互束縛モデル:活動、行為者、外部情報ソースの関係
 ■プロセスモデル:行為、アクター、活動間の関係
 ■行為モデル  :個々の活動の内容
 ■データモデル :オブジェクト、属性、データ型

初めの相互作用モデルと相互束縛モデルは合わせて構成モデルと呼ぶことができます。これらは分子レベル構成要素としてのモデルで、原子レベル構成要素としてプロセスモデルの中身があります。

そして、これらの関係を分かりやすく図示したのが前にも提示した次の図です。(ステートモデルはデータモデルと読み変えてください)いかがですか、これを見て従来の”情報処理システム”ではなく、人が業務を遂行(意思決定)するための活動をちゃんと記述して、そのように動く仕組みと仕掛けが必要になると思いませんか。

ただ、何となく難しそうな理論になっていますが、そんなに難しいことなのでしょうか。人間の行動って理屈ではないわけで、それを理論立ててもなかなかうまくいかないような気がします。それよりももっと簡単に考えて、人間が合理的なアクションを起こせるようITでお手伝いしますくらいでいいのではないでしょうか。

ontology.bmp

  

2010年3月10日

ハッカー

ハッカーというと、サイバー攻撃をする人みたいに思う人もいるかもしれないが、そういう人はクラッカーと言って区別する。そうではなくて、スーパープログラマーのことである。ギークと言うこともある。

先日、そんな人のすごさを目の当たりにした。いま、「Kailas」のブラッシュアップで牧大輔さんというハッカーと一緒に仕事を始めた。牧さんは、Perl技術の普及を行うJPA(Japan Perl Association)という団体の代表理事をつとめ、またendeworksという自分の会社を経営している人でまだ若いのにしっかりしています。

それで、このあいだうちの社長と一緒に渋谷の牧さんの会社にお邪魔して、現状のKailasのコードを見てもらったので、そのレビューと今後の進め方みたいなことで打ち合わせを行ったのだが、びっくり仰天した。

何が驚いたかと言うと、こちらの仕様とか要望を口でしゃべっていると、すぐそのまま擬似コードを書いてしまうのだ。それも単にそのまま書いているのではなく、設計から構成から全部即座に頭の中でやってしまっているのである。ぼくは、これにはただただ茫然とするだけであった。

どうみても、口でしゃべるよりコードでしゃべる方が早いし正確のようなのである。とんでもないことを見てしまったようで、帰りに社長と飯を食いながら、知らず知らずにすごいすごいを連発していた。このすごさは、並みのプログラマーが10人かかれば勝てるなんて次元ではない。何人かかっても届かないのだ。だって、できるものが違うから比較できないのだ。

これを見ていると以前から言っているように、コアなコンポーネントはこうしたスーパーギークにさくさくっと作ってもらい、それを使ってシステムを組み上げるのが最も効率的で質の高いものができると確信した。

社長が話していたが、若いプログラマーはこういう人をみたらきっとみな憧れるだろうと思う。そうなんですね、無条件にかっこいいから、こういう人をロールモデルにして、自分を磨いたらいいのではないだろうか。これはこの世界だけではなくどんな世界でも通用することなのだが。

ちなみに、4月に「カジュアルPaerl」のイベントとして「Perl初心者向け勉強会」で牧さんがライブコーディングをするそうですから、ぼくが感動したことを味わえますよ。
 

2010年3月11日

業務システムの再定義-まとめ(11)

Whatを効率的に構築するためのHow(技法・作法)を考える-その1

さて、だいぶ寄り道をしましたが、今回からはHowの話になります。これまでは、Whatを主体に議論してきましたが、そのWhatをどのようにして作っていったらいいのかいうことです。このHowはWhatによって大きく違ってきますので、初めにきちんとWhatを決めておいたわけです。

Howから入っていくと、似て非なるものや同じものを繰り返して作ったりすることになります。あるいは、人によって作り方も変わることにもなります。従来型のシステム開発は逆にこうしたやり方をベースにビジネスモデルができていたのです。すなわち、人を抱え、その人たちに仕事を与え、その工数で売り上げるというモデルですから、再利用性を高めたり、標準化して開発生産性を上げるインセンティブは乏しいわけです。

話をもとに戻しましょう。これまでのWhatの議論で導かれたものは、パターン化できるものはパターン化して、できないものは、その部分を謂わばブラックボックス化するという考え方です。マクロフロー部分(アクティビティの流れ、LAPでいうHappy Path)は定型的なのである程度パターンとしてもつことになります。

一方、ミクロフロー(アクティビティの中身、Ontologicalなふるまい)では、人間系の要素が入り込むので定型化できないので、情報共有の場というあいまいさを許容したものにし、そのインターフェースをきちんと定義して取り合うことにしています。

ということで、アクティビティの粒度とプロパティを定義しておけば、業務システムは、そのアクティビティの置き方(構成や順序)とその機能とUIを作っていけばいいことになります。

もちろんこれだけの簡単なことではありません。アクティビティの機能といっても様々ですから、それをどうやって作っていくかも問題になります。ただし、このときでも要件に対していちいちコードを書くのではなく、コンポーネントという考え方をとることが重要です。

アクティビティもコンポーネントの一種で、ビジネス機能コンポーネントと呼べるものになります。それ以外にも、システム機能コンポーネントがあります。例えば、バリデーション、検索、印刷、アカウント管理、メール送信とかいったものがそれです。

そう言うとおわかりだと思いますが、こうしたコンポーネントは一度作ったら使い回しができそうだ、あるいはどこからか持ってくればいいといったことが思いつくことでしょう。ですから、究極的にはレゴ細工のように組み立てていけばいいのです。

結局、以前に提示した4つの道具を使ってどういう業務システムを作るのかというのとその道具をどうやって作るかになります。

さて、前置きが長くなりましたが、次回からそのあたりの具体的なHowのことを議論していきます。

2010年3月12日

しあわせの隠れ場所

この作品で第82回アカデミー賞主演女優賞をサンドラ・ブロックが受賞した。「しあわせの隠れ場所」である。サンドラ・ブロックといえば、「スピード」の印象しかないのだが、そういえば初受賞である。

作品は、実話に基づいたもので、ホームレス同然だった黒人少年を助け、プロフットボール選手にまで育てた家庭とその黒人少年の物語である。サンドラ・ブロックはその家庭の母親役を演じて、その優しさ、明るさ、強さなどを見事に表現した。

この黒人少年こそ、全米で誰でも知っているスター選手マイケル・オア―である。といってもぼくは知らなかったけど。フットボール派でもなく、ラグビー派でもなく、サッカー派だから。しかし、映画はこのフットボール選手の出世物語のようであるが、実はそうではなく、彼の後見人となった家族の物語であると思う。

もちろんその家族の中でもサンドラ・ブロックの母親が主役なのだが、ぼくはむしろその夫と二人の子供のほうに興味を持った。この家族は、いくつものレストランチェーンを所有する金持ちで、大邸宅に暮らしている。そんなところに黒人でしかも戻る家もないような少年を迎え入れたときにどう反応するかである。

最初はどうしても偽善的な臭いがするわけで、特権意識的な感覚で接しているうちに徐々に本当の“家族愛”に目覚めていく。その過程で、妻の気まぐれ的な行動ともとれることに対して、ティム・マッグロウ(このひとカントリーミュージックのスーパースターなんですね)演じる夫が実に寛容で包容力を発揮するのである。

また、リリー・コリンズ演じるその黒人少年と同級生となる娘は、学校での変な目線をはねかえすこの母親にしてこの娘ありといった勝気な女の子なのである。男の子は、おしゃまで可愛く、それをジェイ・ヘッドが見事に演じている。すごい子役である。

ということで、もう完璧な家族すぎて、かえって違和感を覚えてしまうが、アメリカの田舎の倫理観のある裕福な家庭というのも実際にあるのかなあと思える。家族というものを深く考えさせられるいい作品であった。

2010年3月13日

3月定例吞み会

一昨日は、下の息子(こう書くと何で下の息子なんだ、もう少しまともな言い方があるだろうと文句を言われるが、適当なものが見つからないのでそのままにする)と月例の吞み会をする。今回は、前回に引き続き新橋界隈にする。この子も入社2年ですっかりサラリーマンになった。

まずは、立ち飲みの「根室食堂」です。ここは少し前にテレビで紹介されていたので、うに好きの息子のために立ち寄った。JR新橋駅東口(汐留口)のロータリーの脇にあるのだが、3階までが海鮮で4階が焼き肉である。いずれも、根室から取り寄せた食材だという。

生ビール、うに、焼きカキ、ハラス、シシャモを頼み、北海道の酒をコップで追加して、小1時間で店を出る。立ち飲みなので立っているのが疲れるのである。考えてみれば客を立たせているんだったらもう少し安くせよと思ってしまった。

ここで息子から重大発表があると言う。何だろうと思いきやたばこを吸っているという話である。いままで、そんなそぶりがなかったので兄貴とちがっててっきり吸わない子かと思っていたら、灰皿をさがしだした。しかし、ぼくも45歳まで25年近く吸っていたので吸うなとも言えないし困ってしまう。ただ、45歳のある日、毎日30本くらい吸っていたのをスパッとやめた。いまもその時のたばこが残っているが、このやめ方を見ているので、そのうちスパッとやめてくれるだろう。

次は、餃子の「玲玲」である。息子が就活で疲れたときにつれていったところでよく覚えていた。特にママにお世辞だと思うが男前と言われたことがうれしかったみたいでまた言われて喜んでいた。

ここの餃子はうまい。大連出身のママが手作りで始めたもので、家庭的な味が売りだ。ぼくは、昔中国で仕事をした時に宿舎でいつも食べていた餃子の思い出が強く、日本の餃子は家で以外はあまり食べない。特に、ここの蒸し餃子と水餃子はお薦めです。これこそ本場の餃子というものです。

餃子を食べながら二人で紹興酒を1本空けて、締めの「M」に向かう。ちょっと早いがホワイトデイのクッキーを手渡す。「レザンジュ」の焼き菓子を買っていったら、息子が共同で買ったことにしてよと虫のいいことを言う。いつものEarlyTimesのソーダ割り(ハイボールとは言わない)と息子はラムでしばし歓談。

どこの店も結構なにぎわいで、ひょっとすると金曜なんかより木曜日のほうが込み合うのではないだろうか。金曜日に飲みすぎて土曜日をつぶすより、木曜日に飲んでも金曜日1日がんばれば休みだという方が心理的にいいらしい。(と息子も言っていた)

今回は、定番コースに近かったのだが、さて次回はどこにいこうかな。
  

2010年3月14日

政策論争のデタラメ

以前から、さまざまな議論において論点がずれていたり、論理的な意見より情緒的な意見が優先してしまうといった現象を苦々しく思っていたが、そこを的確に突いた本がある。「政策論争のデタラメ」(市川眞一著 新潮新書)である。

この本でとりあげられている論点は、環境・エネルギー、医療、教育、郵政改革、政治・行政についてである。

その問題提起は、まず、環境・エネルギーでは、いまの日本は温暖化対策に代表されるが、これは外交問題であるのに単なる精神論で対処している。こんな能天気なことを言っているうちに孤立してしまう。だいいち、欲しがりません勝つまではという風に国民に強いる環境対策はいかがなものでしょう。

ちょっと前にも、渋谷の駅で東急バスの人たちが赤い腕章を巻いて何かを配っていて、てっきりストでも打つのかなと思ったら、何と道行くひとにエコバックを配っていたのだ。気持ち悪いと感じたのはぼくだけだろうか。

医療では、医師不足と言われるが、確かに数だけでみればそうかもしれないが、勤務医と開業医のアンバランス、産婦人科、小児科の少なさ、患者のフリーアクセスなどの問題点が浮き彫りになると、本当に医師が不足しているのかは疑問となるという。

教育は、文科省の無策や中教審のいい加減さなどもあるが、何といってもこどものしつけまで学校に求める家庭の問題が大きいようだ。学習指導要領についても達成目標がないという根本的な問題をかかえているのに一向に改められない。

あと、郵政改革や政治・行政についても、深く掘り下げないで議論しているから、不思議な論争になっている面が強いことがわかる。誰かが、きちんと論点を整理して、それについて考えるようにしないとまともな結論にならないのである。

そのために重要なのは事実前提と価値前提を共有することだと思う。すなわち、データに基づいてきちんとした事実認識をすることと、そして、何が重要で、どういう方針に基づいて判断するのかといった基準のようなものが必要なのだ。

このように考えたならば、著者のいうことが至極まっとうであることがわかるし、ちゃんと提言もしていることも、ぼくも同感することばかりである。それができていない、日本の政治やマスコミのレベルの低さを嘆かざるをえない。なかなか面白いので、ぜひ常識を疑うためにも一読を。
  

政策論争のデタラメ (新潮新書)
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  • 市川 眞一
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    • 5 興味深く読みました
    • 4 現状を手っ取り早く知る
    • 2 「デタラメ」と書くなら,もっときちんとした議論が必要
    • 5 温暖化抑制には原子力発電しかない?
    • 5 「提言」が優れている
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2010年3月15日

業務システムの再定義-閑話休題(12)

コンポーネントについて

システム構築でコンポーネントを組み合わせることを提案しているが、最近ではSOAもそうだがこうした傾向が出てきている。そこで、以前にも紹介した「イノベーションの新時代」(C・K・プラハラード著 日本経済新聞出版社)でも取り上げられているので少し見ていくことにする。

この本では、イノベーションを起こすためには、これからは「顧客経験の共創」と「グローバル資源の利用」を強く訴えているのだが、これを軸とした競争環境において、革新性を発揮するために、ICT基盤に最低限求められる要件を4つ挙げている。

要件1 業務プロセスをコンポーネント化する。
要件2 イントラネットとインターネットを介して、時間と場所を問わない利用を実現する。
要件3 データや外部システムとのオープンインターフェース。
要件4 総合的な分析力。

このように真っ先にコンポーネント化を提案している。これは、“融通の効く“業務システムには不可欠なことなのである。そして著者は、その実現のためには次のような3つのフェーズを踏むのがよいと言っている。

フェーズ1はいわゆるレガシーシステムで、業務アプリケーションごとに、データ、業務ロジック、ユーザインターフェースが独立している状態です。この状態を出発点として、フェーズ2は、ERPのようなエンタープライズソフトウエアの導入である。データ、業務ロジック、ユーザインターフェースが互いに切り離された状態で、とくにデータの一元管理が達成された。

ところが、このパッケージの導入は今言った統合化とか標準化という意味では効果があったが、まだ硬直的な構造のため柔軟性が欠け変化に弱いのだ。そこで、フェーズ3として、コンポーネントベースの業務プロセスを築く必要があると言っている。

そのコンポーネントの定義として、「業務コンポーネントとは、業務プロセスのうち何度も繰り返し実行されるサブプロセスどうしの関係性やルール、それらルールにまつわるデータ、ルールやデータを利用者に見えやすくするためのユーザインターフェースなどを指す」としている。

そして、「業務コンポーネントを合理的な順序でつなぎ合わせると、業務プロセスができる。例えば、顧客や注文などいくつものコンポーネントを用いた作業を、理屈に沿って並べれば、受注プロセスができあがる。」としている。

ただし、このコンポーネントやデータをどれくらい細かく分けるべきかについては、ソフトウエア設計者の力を借りろと言っていて、抽象論としては素晴らしいが、存外そこの設計が難しく、逆に言うとそこをうまくやれるかどうかが技術レベルを決めるような気がする。

いずれにしろ、アメリカで最も影響力のある戦略論の思想家の1人と見なされているプラハラードがこんなことを言っていて、しかもそれを実践している企業が出てきていることに感動するとともに、日本の企業(特にIT産業)もこうしたトレンドをしっかりと受け止めるべきだと強く思うのである。
  

イノベーションの新時代
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  • M S クリシュナン C K プラハラード
  • 単行本 / 日本経済新聞出版社
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    • 4 「個客経験の共創」と「グローバル資源の利用」の価値創造戦略
    • 3 世界的なダイナミズムの潮流、多数の企業事例はおもしろい
    • 2 事例がイマイチ
    • 1 肩すかし
    • 1 主張に新規性なし
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ちょっと気になったので付記しておく。このAmazonの書評を見て評価が低いことを意外に思う人がいるかもいれないが、実はそこにこそ日本の問題があるように思える。そのレビューの一部を引用すると、こう書いてある。

業務プロセスの強調についても、市場の分析や戦略策定に熱心で日常の業務プロセスに無頓着な米国企業の経営者には、インパクトのある主張かもしれないが、ミドルマネジャーが日々工夫しながら業務プロセスを精緻化している日本企業にとっては、「何をいまさら」といった印象である。
あのー、“ミドルマネジャーが日々工夫しながら業務プロセスを精緻化している”からダメなのですよ。これでは、トップマネジメントがビジネスが見えない、精緻になっているがゆえに一部の人にしかわかっていない、環境が変化してもそれに対応できないのだ。そんなことだから日本の企業でイノベーションが起きないし、相変わらず生産性も低いのである。わかるかなあ。   

2010年3月16日

人間失格

これは、生田斗真の映画である。何しろ、本の累計売り上げが夏目漱石の「こころ」と最高記録を争っているらしいから、いまでも非常に多くの人に読まれているわけで、そうなるとストーリー性とか言うことではなく、誰がどう演じるかになるからである。

「人間失格」は監督が荒戸源次郎、その主演に生田斗真が起用された。この俳優さんはぜんぜん知らなかったが、テレビの「情熱大陸」でこの映画の撮影を中心に放送されたので、実際の映画を観てみたかったのだ。

ポイントは、あの堕ちていく中でニヒルに笑う表情なのだが、その点では生田斗真はよく演じていたと思う。雪の日に喀血して仰向けになってにやっとするシーンや病院のホールで立ちながら薄笑いを浮かべるシーンなどはなかなかのものだ。

それと何と言っても彼を取り巻く女優陣だろう。こういうある意味ふしだらな男はなぜか女にもてるのだ。これは太宰治の自伝的な色合いが濃いので、太宰自身も女にもてた。さて、その女優陣は、寺島しのぶ、石原さとみ、小池栄子、坂井真紀、室井滋、大楠道代、三田佳子という豪華というかバラエティに富んだ面々である。

主人公と入水自殺を図るが自分だけ死んでしまう未亡人を演じる寺島しのぶは、ベルリン国際映画賞の最優秀女優賞を受賞しただけのことがある演技で彩りを添える。中でも出色は三田佳子であのお歳で色気むんむん発揮して、息子よりも若い主人公を抱いて寝るなんて、まるで実生活を彷彿とさせてくれる。

なぜこう深刻な小説がいまだに人気を保っているのだろうか。あの戦争前後の時代という背景では生きることへの懐疑に悶えることもあるかもしれないのだが、現代でもそうした気分があるのだろうか。

映画館では、結構若いひとも多く、学校帰りの女子高生もいた。生田人気や太宰の生誕100年ということもあるかもしれないが、小説そのものあるいは太宰治の生き方みたいなところに共感するのだろうか。ここのところ太宰治の作品が「斜陽」「パンドラの匣(はこ)」「ヴィヨンの妻」と立て続けに映画化されているので、いくぶんはそうなのかもしれない。

ただ、ぼくとしては今の時代にあんな男があんな生活をしたら誰も見向きもしてくれないと思うのだけど。

2010年3月17日

業務システムの再定義-まとめ(12)

Whatを効率的に構築するためのHow(技法・作法)を考える-その2

前回、どうやって業務システムを作るのかについて、4つの道具を使って作る方法とその道具そのものをどう作るかになると書いた。この後者については、かなりシステム寄りになりここで説明するのも難しいので、それができたという前提で話を進める。

その道具はスーパープログラマに作ってもらうわけですけど、道具のもつべき機能はちゃんと定義してあげなくてはいけないので、そこについては設計のところでおいおい説明をしていく。

4つの道具をおさらいします。それはつぎのようなものでした。

1. Process Designer  ・・・アクティビティの定義とフロー設定
2. Activity Setup   ・・・案件ごとのアクティビティの要素パラメータの設定
3. Process Overview ・・・プロセスの稼働状況一覧
4. Decision Workspace・・・コラボレーションによる意思決定とデータ入力

Howの大きな流れは、プロセス設計、データ定義、アクティビティ詳細設定といったところになります。ですから、1と2の道具を使って作っていきます。3と4はオペレーションのための道具になります。

すなわち、Process Designerでプロセス設計とデータ定義を行い、Activity Setupでアクティビティ詳細設定を行うわけです。そして、原則コードは書きません。

ではそのプロセス設計のところから入っていきます。業務プロセスをどういう単位で捉えるかは重要なことですが、以前議論したように、ここでは依頼があってそれに応えるまでを一つの単位としています。またヒト・モノ・カネの出入りがあった場合はそこで切るようにしまう。例えば、注文をもらってそれに応じた商品を出荷して納品するというプロセスと代金を請求して回収するプロセスは分けて別プロセスとします。

従って、最初にやることはプロセスの始点と終点を決めることです。どんな依頼があって、それに対してどんな返し方をすればいいのか、あるいはこのデータを作るために何をどうやって決めていくのかといったことを特定することをします。

それが決まると、その間を埋めていくことになります。そのとき、すぐに詳細を詰めるのではなく、全体を俯瞰することが大事になってきます。そこで「コンテ」の作成を行います。「コンテ」というのは映画を作るときに使う絵コンテをメージしてください。映画には脚本があって、シーンがあってカットがありますが、このカットを並べたものをいいます。

Kailasでいうコンテは、業務・仕事のあらすじを表したもので、業務プロセスの構造で見てきたように依頼(起)、依頼受付(承)、意思決定(転)、報告(結)で構成されています。そして、それらを記述するためのシートがあり、そこに記載していきますが、その作法は次のようになります。

1.プロセスの始点と終点を先に決めます。
  ・顧客接点のプロセスの場合は始点を先に決めます。お客さんの要求が最優先となります。
  ・内部プロセスの場合は終点を先に決めます。最終的に決算書(BS/PL)に繋がることを意識します。
2.依頼の内容から、何を決めて、何を答えればいいのかという見方で、意思決定することを決めます。
3.その時、どんな情報を参考にして意思決定するのかを書き出します。
4.最終の報告は、依頼に対する答えを揃えることになります。

次回からは、アクティビティの詳細設定についてみていきます。


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2010年3月18日

数式を使わないデータマイニング入門

本を出版するときには必ず想定読者というものを考える。というのも万人に受けるものなんかなかなか書けるものではないから、ターゲットを絞った方がいい。そこを見たときこの本はどん読者を想定しているのだろうか。

岡嶋裕史著の「数式を使わないデータマイニング入門」(光文社新書)である。内容は、データマイニングといって、多くの情報の中から有用な法則を見つけ出すことを、難しい数式を使わずに解説しようというものである。

といういことは、専門家向けというより、一般の人たちに分かりやすく説明しましょうということなのだが、そうだとすると一般の人たちはこんなことに興味があるのだろうかと思ってしまう。だから、どうしても中途半端になってしまう。

データマイニングで有名な話は、紙おむつとビールの関係で、紙おむつを買う人が一緒にビールを買う確率が高いという相関が分かったので、紙おむつ売り場の横にビールを並べたら売上が伸びたという話である。

まあこの話が何度も出てくるのだが、手法として、回帰分析、決定木、クラスタ分析、自己組織化マップ、連関規則、ニューラルネットがあって、それぞれについて簡単に説明される。この程度だとああそういうものがあるんだなくらいしか分からないのではないだろうか。

どうもこの著者の本は以前にも「ウチのシステムはなぜ使えない」を読んだときにも思ったのだが、やさしく説明しようとする意識が強く、きちんと本質的なところをやさしく書いているならいいが、簡単にしてしまっているように思う。簡単にというのとやさしいというのは同じではない。

この本の冒頭でデータマイニングと統計分析とは異なると書いてあって、従来よくやられていた統計分析は小さい情報量から世界を知ろうとする試みなのだが、現在は逆に非常に多くの情報を対象にしているところが違うということなのだが、それだけかと思ってしまう。そこはあまり本質的ではないように思う。

ぼくの理解は、統計分析も普通のデータマイニング“後付け”の方法で、起こったことの分析であると思う。このブログでも何回か言ったが、「死体解剖」なのである。ところがこの時代に求められるのは「生体ドッグ」で、今何が起きていて、どういう対処をすべきかを即刻提示できるダイナミックなデータマイニングであろう。
  

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2010年3月19日

恋愛小説

なぜこの映画を観ようと思ったのか忘れてしまったという変な話である。というのもDMMで旧い映画をウィッシュリストに載せたのが届いたというわけである。森淳一監督の「恋愛小説」はそんな映画である。金城一紀の原作を映画化したものである。

そんなわけで、大したことはないかもしれないと思いつつ観ると、意外とと言ったら失礼だがこれがおもしろかった。主演は、自分が好きになったり愛するとその人が死んでしまうという運命をもった大学生を玉木宏、その彼を愛した女子学生を小西真奈美、その狂言回し的な役の池内博之である。

その変わった運命を持つ青年は、子どもの時から死神と呼ばれて、結局両親も自動車事故で亡くなってしまい、そんな子だったので親戚中をたらいまわしにされる。やっと、高校生になって、親が残してくれた大邸宅に一人で住むようになるが、相変わらず他人との接触を避け、孤独な生活を送っている。

そんな時に語学クラスで一緒だった池内博之扮する学生に遺産相続のための目録作りと遺言作成を依頼するところから物語が始まる。そんな奇妙なやり取りから、自閉的だったら恋愛なんかしたことはないだろうと聞かれて、いや恋愛をしたことがあると昔を語り出すのである。

それが、小西真奈美扮する女子学生との出会いから別れまでなのである。この別れは、結局死なのだが、この恋愛によって自分の運命を乗り越えていく葛藤が描かれる。

こんな設定なんかありそうもないと思いつつ観ているとだんだんひきこまれていく。閉じた心を一生懸命開かせようとする女子学生とそれに応えようと徐々に変わっていく青年が撮しだされる。こういうのって、どこかヨーロッパ映画的な雰囲気でよかったですね。

まあ、小西真奈美の「のんちゃんのり弁」もいいけど、こちらの可愛さはまた別のよさがあります。
  

2010年3月20日

お彼岸

今は春のお彼岸の真っ最中である。そんな折、昨日はお墓参りに行く。ほんとうはもっと先にしようかと思っていたら、ばあちゃんが急に今から行こうと言い出した。今日はいい天気だから、明日、明後日になるとわからないからということらしい。急きょ、ばあちゃんと嫁さんと3人で昼近くに家をでる。

家の近くのいつもの花屋で花を買って、まずはぼくの父親の墓にいく。昨日は、ぼくの嫁さんの父親の墓と、ばあちゃんのお姉さん、ぼくにとってはおばさんの墓参りも一緒にするという墓参りのハシゴである。

実は、うちの嫁さんの父親の墓は、ぼくの父親の墓と同じ寺にあって、ほんと斜め向かい同士なのである。その墓がある、鎌倉の材木座の妙長寺へ向かう。中日や休日の前だったので空いている。

そのあとは、おばさんの墓がある逗子の延命寺に行く。おばさんは2005年に92歳で亡くなっている。ばあちゃんにここでお参りしたので、命が延びるよといったらすごく喜んでいた。同じように墓参りに来ていた84歳のおじいさんと話込んでいて、いまおいくつですかと言われもうすぐ89歳ですといったらお元気ですねと言われ喜んでいた。

そのあと、せっかく逗子まできたのでということで小坪漁港で新鮮な魚を買う。ここは獲れたての魚が安く買えるので遠くから多くの人が買いに来る。ただ、そこのお兄さんやおばさんがこわいのでさっさと買うこと。

そのころはもう昼をだいぶ過ぎたので昼飯を食べるところを探さないといけない。急に飛び出してきたので、あてがないので帰り道になる鎌倉プリンスホテルに行くことにする。土日は詰まってしまう134号も比較的空いていて海を眺めながらのドライブ。

鎌プリで江の島を見ながら食事して、途中さらに野菜を買って帰る。結構しんどかった。案の定、今朝のばあちゃんはああ疲れた今日は一日じっとしていようと言っていた。

2010年3月21日

棚の隅

いろいろな意味でかなり渋い映画だ。ぼくの高校のサッカー部の後輩のS君が製作陣のひとりに名を連ねている映画「棚の隅」は、もの静かでじわっと心にくる小品である。ここで一幅の絵のたとえでも言えばいいのだがそこまで素養がないので陳腐な表現ですいません。

監督は門井肇でこの人は、「休暇」というこれまたじわっと系の佳作を作ったひとで、派手さはないがいい感じです。主演は大杉連で脇役が多い俳優さんですが、この作品では主役で、別れた女と現在の妻との間で揺れ動く男を好演している。

原作が連城三紀彦で、ストーリーはおもちゃ屋を営む親子三人のところにいわくありげに女が登場するところから始まる。何となく昔関係したなというのが臭いつつ進行し、徐々にその過去があぶりだされる。

ここに登場する夫婦と子供の三人家族、昔関係した女とその女に思いを寄せる職場の同僚という人々のそれぞれの距離感がこの映画の真髄なのだろう。その距離感は全部、いわゆる普通ではないわけで、しかし、一人ひとりが異常でもない。不思議な関係性が描かれる。

秀逸は、ラストの遊園地に行って観覧車に乗るところで、その関係性を確認するとともにゆがんだ距離感を修正しようとするのである。こうしたことができるのはおそらく時間というものが必要なのだと思う。観覧車に乗っているときその時間の力を思ったに違いない。

とかく男と女の距離はむずかしい、というか人それぞれで感じるものなのだろう。そして、そこに時間というファクターが絡み合って気持ちの交換が形成されるわけで、そんな微妙な世界が落ち着いた雰囲気で表れてくる。

ということで、こういう映画って案外映画館で観るより、DVDで自分の部屋にとじこもりひとり酒をちびりちびりやりながら観るというのがいいと思う。

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2010年3月22日

重層構造から見えるもの

企業のシステムをみていくと、幾重もの層があることが分かります。すなわち、戦略のようなものから、ビジネスモデル、ビジネスプロセス、ビジネスアクティビティ、アクションといったことになります。

ところで、そうした各層の特質をみていくと、定型的なものと非定型的なものとに分けられます。さらに定型と言っても、形なのか動きなのかに分けることができます。すなわち静的な定型と動的な定型です。

冒頭の話のなかのビジネスプロセスをとって見ても、プロセスの要素と順序が決まり切っているのか、それが定型的でもそのオペレーションがいつも変わるような非定型なのかといったことである。ですから、4つのタイプに分かれることがわかります。

 1. 型が定型的で、動きも定型的      →アクション、トランザクション処理
 2. 型は定型的だが、動きが非定型的   →ビジネスプロセス、アクティビティ
 3. 型が非定型的だが、動作が定型的   →ビジネスモデル
 4. 型が非定型的で、動作も非定型的   →経営戦略

ちょっと強引なところがあるので、こういう区分で合っているのか不安ですが、定型を反復的というみかたをすると少しはわかるかもしれない、それよりもなぜこんな分類をしたかというと、これによってシステムのコンセプトあるいは構造が変わるし、変えなくてはいけないと思うからです。

例えば、非定型ということは多分に人間の心理的な要素が入り込んだものであると言えます。合理的、機械的にはいかない部分で自動化が難しいところになります。ですから、重要なのはシステムがいかに人間と対峙するかということなのです。

ここのところを、従来の情報システムは混同していて、全部定型化の方向へと向かったように思える。情報システムというのは、そのプラットフォームは自然科学かもしれないが、それを使っている領域は自然科学ではなく人文科学の分野であるでしょう。

それこそ行動経済学だとか心理学、あるいは認知科学、デザイン学などの人間を扱う学問の上に築かれるべきだと思うのである。そういったことについて、いつもよく理解していて示唆的な発言をされている鈴木雄介さんの先日のエントリーが参考になります。

そこで言っている。“ソフトウェアは人と仕事をインターフェースすること”で、それはどういうことかというと、“人間がやろうとしている課題を的確に表現し、解決までのプロセスを導き、たどり着けるように支援し続ける。”ことだと言っています。まさにここがポイントなのです。
  

2010年3月23日

業務システムの再定義-まとめ(13)

Whatを効率的に構築するためのHow(技法・作法)を考える-その3

前回はプロセス全体を俯瞰することをしましたが、それができると次にデータ管理票を作成します。コンテを書いていくときに、確定するべきデータを記入しました。依頼された内容に対する答えをひとつずつ決めていくわけですが、その単位意思決定に伴うデータ確定を定義することです。

この段階で定義する内容は、データ項目とデータ型で、各アクティビティで設定していきます。データ型には、文字列、数値、日付などになります。特殊なものとして、テキストフィールドやURLなどもあります。

この表を見ていくと、プロセスの進行に応じて徐々にデータが確定していくことが分かります。簡単に言うと、依頼票がきて、そこに何も書いていない依頼項目があり、その依頼票の項目ひとつひとつを転記して完成させるイメージです。

こうして書き込まれたデータは、このあと実際のプロセス設計において、この票を見ながら、アクティビティの属性値として、バリデーション(桁数や文字数などの制限)とともに設定されます。実際の修理プロセスの例を下記に示します。

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2010年3月24日

業務システムの再定義-まとめ(14)

Whatを効率的に構築するためのHow(技法・作法)を考える-その4

続いて、それぞれのアクティビティについて、そのプロパティを詳細に設定していきます。具体的には、これもコンテに従って、それぞれの「アクティビティシート」に記入していくことで設計できます。

ここで、前もって気をつけておくべきことについて触れておきます。

 1.分岐の取り扱い
  ・分岐が最初から静的に存在する場合は、原則、別プロセスとして記述する。
  ・動的な分岐、すなわち前のアクティビティの処理結果で次のアクティビティが変わる場合は分岐として記述する。
  ・表現のし方は、つぎのアクティビティの何を取捨選択かを定義することである。
 2.ロール設定
  ・権限は、起案/確認/確定/承認とする。基本的に、起案と確定は同じ人が行う。
  ・確認という役割は、関係者が複数参画し、必要関連情報、アドバイス、知見やノウハウの提供を行い、起案/確定者をサポートする。
 3.アラート
  ・デフォルトとしては、処理時間は測定し、それがある時間を超えた場合と設定期を超えた場合にアラートをだします。

では、記入すべきアクティビティシートにはどんなものがあるのでしょうか。つぎの6つがあげられます。

 1. 依頼受付アクティビティシート
 2. 意思決定アクティビティシート(固定・分岐なし)
 3. 意思決定アクティビティシート(分岐あり)
 4. 意思決定アクティビティシート(選択)
 5. 作業指示アクティビティシート
 6. 報告・登録アクティビティシート

このシートに記載する項目は共通的な基本項目は次のようになっています。
 ・アクティビティID
 ・アクティビティ名
 ・内容
 ・データ(受付データ、確定データ、報告データ)
 ・ロール
 ・受け渡し書類
 ・参照情報

このほか、各シートで固有の項目を持ちます。

 ・意思決定アクティビティシート全般・・・アラート(項目と閾値)
 ・意思決定アクティビティシート(分岐あり)・・・分岐条件とデータ、選択アクティビティ
 ・意思決定アクティビティシート(選択)・・・選択元アクティビティ
 ・報告・登録アクティビティシート・・・登録先

例として、意思決定アクティビティシート(分岐あり)のシートを下記に示す。

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2010年3月25日

行動経済学

近頃、経済学の本を読むようになった。ぼくは、理工学部出身なので経済学というものをほとんど知らなかったのだが、生活が政治や経済と密接につながってきた昨今では避けられなくなってきた。さらに、意思決定論なんてに少し首を突っ込んだおかげで興味がわいたのである。

ところが、経済学ってどんな領域のものがあって、何よりもその成り立ちについてはよく知らないというのが正直なところである。そんな疑問にわりとよく答えてくれるのが、「行動経済学」(佐田高典著 中公新書)である。

そもそも古典的な経済学いうのが、ホモエコノミクスといって、超合理的な人間を前提にしているわけで、ところが現実はそんな人間もいないし、いつもいつも合理的な行動をとるのかというとそうでもない。

そんな不確実で人間臭いものを想定した行動経済学が注目されるようになったのである。サイモンの限定合理性を持ち出すまでもなく、人間の合理性には限界があって、その中で最適ではないが満足のいく解を見つけるしかないという考え方である。

この本ではそうした流れを歴史的にわかりやすく教えてくれる。けっこう難しい経済用語や理論がでてくるが、読み飛ばしても面白さはそのままである。わからないなりに期待効用理論とかプロスペクト理論、またアディクションとかゲーム理論などを読むと何となくわかった気になる。

たばこの例で行動経済学を論じていて、喫煙者と非喫煙者の行動特性の違い、すなわち喫煙者の方が非喫煙者に比べて時間選好率が高い(将来の大きな利得よりも現在の小さな利得を選考する)とかいったことをデータで示してくれる。

こうした人間が経済活動をするわけだから、どうしても心理的な要因にも左右される。だから、この本を読んでいると、経済学というのは、数理的な学問というより心理学に近づいているように思えてくる。

驚いたことに、いまはさらに進んでいて脳科学と融合したニューロエコノミクスという新しい学問分野も登場してきているのだそうだ。でも、なんか気持ちが悪くなりそうですね。脳波を測って個人の行動特性を把握しますなんていわれたくないですよね。

ただ、経済学もまだまだ発展過程であり、確立できていないようで、だからこそ民主党の政策についても経済学者の評価や意見がばらばらだったりする。これからは、実世界を意識した役に立つ経済学として行動経済学は面白そうだ。

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2010年3月26日

ランキングのワナ

最近はランキングばやりであると思う。何でも順番に並べてみることが、ネットの世界もマスメディアの世界でも盛んに行われている。価格.comでは、それが売れ行きの生命線になったりする。企業も就職人気企業ランキングに一喜一憂する。

ところがこのランキングが曲者で、ランキングが正しい順番を示しているかというのには前提が正しくなくてはいけない。この常識を忘れたランキングを平気でだしているものがある。その代表が、テレビの視聴率ランキングである。

このランキングでは二つの過ちを犯している。ひとつは、実際にそのとき見ている人ではないということ、たとえ録画していた場合も見ていたことになる。もうひとつは、一度に複数の番組を見るわけではないので比較してよいものを見ているわけではないところである。まあ、面白くなかったら途中でチャンネルを変えるからそれが反映できているからいいのだという意見もあるかもしれない。

ただ、問題は基本的にその番組を見てよかったのかそうではなかったのかが反映できないことだ。事前の番組表や他番組での宣伝につられて見るわけで、それはいいことばかり連ねていて、その評価は事後に出てくる。だから、ランキングは正確に言うと、”事前に見たいと思った”番組ランキングなのだ。

実は、それと同じようなランキングを発表しているITのコンファレンスがある。先月行われたデブサミである。正式には、Developer’s Summitでプログラマー向けの一大イベントである。ぼくも数年前に参加したことがある。熱気のあるイベントである。

そこで、そのコンファレンスが終わったあとの、ベストスピーカーランキングとセッションアンケート満足度ランキングとかを決めるだが、これがさっき言ったようにおかしいのである。ITの専門家が集うイベントでこんな間違いをするとはどうなっているのだろう。

ランキングの重要な前提条件は、対象物に対して公平な評価機会を与えられた場合の評価結果であるべきというのは、常識中の常識のはずである。ところが、この例では、評価する人は、そのセッションを聞いた人が良かったか、そうでなかったかで点数を決めているわけで、全部のセッションを聞いた中でどれがよかったかというのではないからランキングにならない。

これじゃあ、事前人気の高い、あるいは著名なスピーカーが有利になるに決まっている。例えば、まったく無名のスピーカーが画期的なプレゼンテーションを行ったというケースを考えたらいい。

ぼくは、こんな常識を知らない人がITに携わっていると思うとぞっとするのである。かなりきつい言い方なのだが、単に面白ければいいというのは内輪ではいいかもしれないが、パブリックに近くなったときは心すべきだと思うのである。

2010年3月27日

電車が止まる

昨日は、大学時代のサッカー部の同期とその一つ下の世代と一緒の飲み会に行く。大学は現役と浪人が混在しているから、学年が即年齢にならないこともあって、還暦祝いも兼ねて合同したのである。

会場は、ぼくの高校の同級生がオーナーの代々木にあるタイ料理屋「KAOTIP」で、12人が集まった。タイ料理なのになぜか鹿児島のうまーい麦焼酎を振舞われる。ありがとうございました。中には、卒業以来初めて会うという組合わせもあり、大いに楽しんだである。

ところが、近くの焼肉屋で2次会を終えて帰途についたのだが、品川駅で異様な雰囲気になっていて、まずはトイレが長蛇の列。それはいいのだが、東海道線が人身事故の影響でストップしてしまった。

ぼくは、横須賀線でもだいじょうぶなのでそちらに向かう。そうしたら、もう終電だったのであるが、ホームにいくとこれまた長蛇の列である。そうしたら、次から次へと人がやってきてホームにあふれんばかりの人となる。これじゃ、電車に乗り込めないかもしれないと心配になったが、やっとの思いで乗ったが、とんでもないこみ方で久しぶりにすし詰めを味わう。

多分、全部乗り切れなかったと思うので、終電に乗り損なった人たちはいったいどうしたのだろうか。心配になってしまった。

だいぶ遅れて大船にやっと着いて、さあタクシーに乗ろうとしたらこれまた長蛇の列である。だんだん寒くなってきて、ふるえながら待つこと1時間半、やっとの思いで2時半に家にたどり着く。ああー疲れた。

そういえば、23日も架線トラブルで山手線と湘南新宿ラインが止まって、ちょうどそこに出くわした。毎日通勤しているわけでないのに1週間に2回も電車が止まるのに遭遇したわけで、よく止まるよなと思う。

けっこう人身事故が多いように感じるのだが、どういう事故なのだろうか。ホームに柵を設けるのが始まっているみたいで、山手線の恵比寿駅のホームにできていた。多くの駅で作ってほしいですよね。
  

2010年3月28日

マイレージ、マイライフ

ジョージ・クルーニーが素晴らしい。ぼくはポール・ニューマンからこのかた、この手の役者が大好きだ。ただこの作品ではかっこいいだけではなく、情けないところやだらしないところも見せてくれる。

マイレージ、マイライフ」はまさにジョージ・クルーニーのための映画のようだ。監督は、まだ30代の若いジェイソン・ライトマン、共演がヴェラ・ファーミガ、アナ・ケンドリックである。

ジョージ・クルーニー演じるのは、リストラをするために北米中の会社を駆け回る男で、バックパック一つで年間322日も出張という仕事で、飛行機で空港間を軽やかに移動する生活を送っている。だから、この男の目標はマイレージを1000マイルためることなのだ。

ところが、その会社に若い優秀な女性社員が入ってきて、首切りを言い渡すのを直接面談するのではなく、ネットを使ってやれば出張費が浮くという提案をする。自分の役割がなくなってしまう危機である。で、そうしたシステムに移行する前に、その提案者を実際の現場に同行させて経験させることになる。

新旧の考え方の対立や泥臭いやりかたと今様の技術を使ったやりかた、あるいはマニュアルどおりと経験に基づく融通性といった対比を見せてくれる。そこに、旅先で出会う同じように出張ばかりのキャリアウーマンとの恋愛や妹の結婚式が絡むという味付けである。

中年の男前で仕事ができ、しかも一人で気楽にふるまうのをみていると、家族やもろもろのしがらみを持った身を振り返ると、自分もこんな身分になりたいなと思うのである。しかし、人生そんなお気軽にはいかないもので、やはり、孤独も抱えているし、家族のぬくもりもほしいしといった悲哀がすこしづつ襲ってくるのである。

だから、象徴であるマイレージを貯めることに生きがいを求めたが実際に成し遂げてしまうと、多分当初想定した喜びとは違ったものになったのではないだろうか。彼の人生の価値が、徐々に変化していっているのである。若い監督のくせに大人の演出である。

ところで、このリストラで首を宣告するシーンが数多く出てくるのだが、よくアメリカの会社はドライで契約社会だから普通に首を言い渡して、はいわかりましたとなるのかと思いきやわが国と同じような感じで面白かった。この機会にいままで忘れていた夢を実現してみたらというくだりなんかしびれますよ。

いやー、ジョージ・クルーニーをみるのもいいし、ストーリーを楽しむのもいいし、しかもユーモアやウィットもあってなかなかいい映画であった。

2010年3月29日

業務システムの再定義-閑話休題(13)

参照情報

この方法論で特徴的なものとして、意思決定に必要な参照情報をちゃんとそこで見せてあげようというのがある。H・A・サイモンは、意思決定を行う場合の前提として、「事実前提」と「価値前提」があると言っています。

すなわち、置かれた環境や能力に関する事実認識と、何を目的として何を望ましいと考えるかの価値判断である。こうした情報をもとに意思決定を行うのです。

意思決定プロセスからいうと、情報収集や代替案の探索といった段階では、事実前提としての情報を取得する。次の代替案の評価、選択では、価値前提にもとづく情報を参照しながら判断を行うわけである。

ではこうした参照すべき情報にはどんなものがあるのでしょうか。その情報の性格によっていくつかに分類することができます。参照情報は大きくは次の3つになると考えます。
 
 1. 事実情報
 2. 判断情報
 3. 制約情報

さらに、それぞれの情報についてみていきましょう。事実情報も次のように分けることができます。その具体的な情報名もみていきます。

 1. マスタデータ    :商品リスト、取引先リスト、従業員データなど
 2. 履歴情報      :販売実績、トラブル履歴、工事履歴など
 3. 計画情報      :予算、中期計画、工事予定など
 4. 外部環境情報   :競合他社情報、為替レート、地図など

要するに事実として存在するデータなどで、ヒト・モノ・カネ・情報などの時間的な要素(過去、現在、未来)に対するものである。つぎに、判断情報ですが、同様にみていきます。

 1.業務ルール(判断基準) :与信限度額決定基準、担当者決定ルール、自動発注ルールなど
 2.リソース状況       :要員管理表、設備稼働状況、配車繰り表など
 3.シミュレーション・計算  :参考見積、スケジューリング、コスト計算など
 4.外部サービス       :与信チェック、特許検索サービス、各調査など

ここは意思決定をする際に参照するもので、そういう意味では重要な情報となります。前にも言ったように、ここに戦略的あるいは差別的な要素を反映させることが往々にしてあります。例えば、与信限度額について言えば、この限度額の多寡でリスクテイクの方針が現れます。

最後の制約情報も最近の企業経営では、コンプライアンスやリスクマネジメントといった観点から重要性が増してきていると思います。その分類と具体的な例をみていきましょう。

 1.契約・規約  :法規、販売契約、品質管理規定、チェックシートなど
 2.制約条件   :休日不可、キャンペーン、地域限定など

こうしてみると、企業における意思決定には多くの情報を参照していることがわかります。しかしながら、従来はこれらの情報が分散、偏在していて十分に参照できていなかったのではないでしょうか。現在のITの威力はこうした情報の収集および処理能力にあるわけなので大いに活用したいものです。

2010年3月30日

日本語は亡びない

ちょっと前にベストセラーになった水村美苗の「日本語が亡びるとき」に反論しようとする本である。だからタイトルが反対の「日本語は亡びない」(金谷武洋著 ちくま新書)である。作者の金谷武洋はカナダのケベック州で日本語を教えていたという立場から発言している。

確かに、自国語のことは自国にいると客観的に見れないということもあり、どういう位置づけにあるのか、あるいは第三者から見るとどうなのかがよくわからないところがある。だから、外国人が日本語を学ぶときに抱く日本語観が興味がある。

「日本語が亡びるとき」では、日本語がやがて亡びていくといことに警鐘を鳴らしているのだが、現実には、海外で外国語として学習される日本語は未曽有のブームだという。2006年度のデータによれば、外国語としての日本語学習者は133カ国・地域で300万人近くにのぼるという。これは過去最高なのだそうだ。

なぜ、このように日本語が人気なのかは、日本文化や日本人の優しさや日本の自然が評価されているからという。だから、世界20カ国の好感度ベステンでは日本がトップなのである。もちろん言葉は文化だからこういう結果なのだと思う。

つい、例えばインターネットの共通言語が英語になってしまったとか、日本人は英語が話せないから世界から取り残されてしまうといった議論になると、日本語を捨てた方がいいのかといった話になってしまう。

しかし、著者は日本語はそんなヤワイものであないと断言する。そこで面白い話が英語と日本語との比較で、よく出てくるように英語はきちんと主語がある構文になっているが、日本語には主語がないという差である。

この主語がないという言語は日本語特有のものであるのかというとそうではなく、むしろ主語がある言葉の方が稀少なのだそうだ。さらにもともと英語も主語がなかったのだという。この主語のあるなしが何を意味しているのかというと、著者は主語があるS+V+Oという構文の問題点は「S(主語)のO(目的語)に対する支配」にあると主張する。

そうすると、Sには必然的に「力」とともに「正義」がしばしば与えられるのである。それに対して、主語のない日本語は、主体がないので共存・共生を前提とするというわけである。このあたりは、言語からみた比較文化人類学というところである。

こうした、論考はとても面白いのだが、残念ながら後半の宮部みゆきと中島みゆきの「二人のみゆき-日本的始点の表現者」の章あたりから、日本語というのではなく、日本人論みたいな話になってしまい、はては「国家の品格」への賛辞という、本題とずれた議論になっている。もっと徹底的に言語論で押してほしかった。
 

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    • 3 内容がやや薄いが、近年の新書ではこれが標準か。
    • 5 日本人が失ってはいけないものを確認させてくれた
    • 4 日本語を再認識させてくれた良書
    • 3 水村美苗の『日本語が亡びるとき』への違和感を表明した本としては賛成だが・・・
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2010年3月31日

業務システムの再定義-まとめ(15)

成長するオペレーションの重要性を認識する-その1

さて、今回からは最後のテーマであるオペレーションについてです。ここで「成長するオペレーションの重要性を認識する」という表現にしたのは意味があることなのです。ではその“成長する”ということを考えてみましょう。

その前に、業務システムのライフサイクルのようなことをみると、最初はこんな仕組みを作りたいという要求定義のところから入って、それを設計し、開発していくわけですが、よくあるのは、ここで止まってしまうことです。作って終わりということです。

作る人と使う人が違うからといえばそうなのですが、大事なのは両者がお互いの領域に入り込むことが必要です。(究極は使う人が全部自分でやってしまうことですが)すなわち、ユーザは設計や開発にも加わること、ベンダーは業務運用まで考えた設計・開発を行うことでしょう。

ここでは、誤解をおそれず言うと、作ることより、使う方が重要であると言っているのです。そして、システムというのは、当然のように使ってみて効果を出すことで価値があるわけですが、実際問題として、使ってからでないと分からないことがあるので最初から完璧なものはできません。

ということで、使いながら、運用しながら改修、改良しながらより良いものにしていくという精神が大切になってきます。言いかえれば、現代は非常に外部環境の変化が激しいから、そうせざるを得ないとも言えるのです。

そうしたことができる業務システムを志向しなくてはいけないし、たえず学習し、成長していくための仕組みと仕掛けをどうするのかが大きな課題となります。

そして、何よりも基本的にやらなければいけないこととして、オペレーションプラットフォームという場を提供することです。サイモンにしてもバーナードにしても、個人の合理性には限界があるから、企業活動は組織的行動であるべきだと言っている。

ということは、複数の人間が協働してより良い意思決定を行うことができるプラットフォームこそが、これから必要となるシステムなのではないでしょうか。動けばいい、正しい計算をしてくれればいい、きれいに帳票を出してくれればいいということではないということがお分かりになったと思います。

次回から、この協働(コラボレーション)する仕組みと実際にそれをどうオペレーションしていくのか、さらに学習と成長という仕掛けを施していくのかについてみていきます。

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