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2010年1月 アーカイブ

2010年1月 1日

新年を迎えて

新年明けましておめでとうございます。

2010年という新しい年を迎えましたが、今年はどんな年になるのだろうか。

昨年は、政権交代という政治的には大きな変化があり、また経済でも一昨年のリーマンショックからの立ち直りの兆しも見えてきたが、少なくとも日本では、デフレが続き、一向に出口が見えない状態です。

どうも日本の一人負けになる可能性もあり、困ったものですが、その原因は、多くの人が指摘するように、目先の経済対策ばかりで、長期的な成長戦略がないことに起因しているのではないでしょうか。一昨日、政府もやっと経済成長戦略を出してきたが、単なる目標だけであって、これではどうにもならない。

ワディットとしては、社長マターのWebサービスは、新しいサービスを投入していることもあり、徐々にではあるが、アクセス数も伸びてきていて、収益に貢献しだしている。

もう一方の「Kailas」は、これから基本部分をブラッシュアップして、それをベースに営業活動を行っていこうと思っています。何とかものにしようとがんばっています。

こんな時代では、あまり大きな目標を掲げずに一歩ずつ前進できたらと思っています。

今年もよろしくお願いいたします。


今年も初富士を拝むことができました。いい年になりますように。
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2010年1月 2日

経済成長戦略

昨年の12月30日に、経済成長戦略が発表された。要点はつぎのようなこと。

企業など供給側の育成を重視する自公政権時代の成長戦略を「公共事業依存型」「市場原理主義的」と批判し、国民や生活者の「需要創造」を重視する 「第三の道」を目指す内容。100兆円超の需要と470万人超の雇用を創出し、国内総生産(GDP)を09年度の473兆円(見込み)から20年度に 650兆円へ引き上げる目標を掲げた。毎年のGDP成長率は名目で3%、物価上昇率を差し引いた実質で2%以上を見込む。  10年6月までに具体的な工程表を作成する。鳩山由紀夫首相は会見で「人間のための経済でなければならない。供給サイドに偏っていた発想を改め、 需要を創出する」と強調した。基本方針では、「環境・エネルギー」「健康(医療・介護)」「アジア」「観光・地域活性化」の4分野で、国民生活向上に主眼 をおいた需要や雇用の創出を進める。

これを読んでいると、素直に評価することができない。挙げ足を取るわけではないが、すこし批判めいたことを書いてみる。

まずは、この「第三の道」という表現で「需要創造」を重視するということだが、これだと、第一(公共事業依存型)、第ニ(市場原理主義的)の道を放棄するというふうに聞こえるが、経済はそんな単線的なものではなくて、もっと複合的で、動的なものであるように思う。情況によってそれぞれの道を選択したり、いいとこどりをするようなことが現実的でかつ合理的であると思う。

例えば、需要というけど、そこには必ず供給と一体となって考えなくてはいけないはずで、生産性の低い供給サイドだったら、いくら需要を生んでも効率性が保たれず、結局保護されるだけのような気がする。

だから、今回のものは需要を強調するあまり、単なる景気対策にしか映らないのだ。このグローバル化した世界にどう処していくかが問われている中で、そんな目先のことだけでいいのだろうか。

それと、ここに掲げられている重点分野である「環境・エネルギー」「健康(医療・介護)」「アジア」「観光・地域活性化」であるが、重点産業という意味では、「アジア」というのはちょっとちがうのではずすと、残りの3つがそうなのかと思うと首をひねってしまう。

「環境・エネルギー」は、ぼくは前から“コバンザメ”産業だと言っているように、基幹の産業があってこそ成り立つわけで、極端な話、産業が衰退したらそんなものはいらなくなるわけだからである。ということは、基幹産業とセットで考えればいいだけなのだ。

「健康(医療・介護)」は、根源的にこれを重点産業にすること、需要を拡大することは無理があると思っている。すなわち、このビジネスの顧客獲得マーケティングは、みなさん病気になってください、介護を受けてくださいということに他ならない。これって、実におかしい話ですよね。

環境も同じような話があって、環境が悪くなるほど儲かるっていうのは変だと思いませんか。要するに、人の不幸を願って儲けようとするわけだから、ビジネスとして”筋がよくない”のである。そんな需要増大を柱にすること自体に問題がるように思う。

ですから、「健康(医療・介護)」というのは、需要を増大させることではなく、病気にならないため、介護を受けないですむようにするほうがメリットがあるというインセンティブを患者側にも医療側にも与える政策が必要なのである。例えば、薬が減ったら報償するとかである。

3つ目の「観光・地域活性化」はいい。海外から観光客をどんどん呼べばいい。それこそ、国が大いにやることだと思う。新潟県村上市のような活動が各地に広がるような施策を打てばいいのだ。

さらに言わせてもらうと、これを戦略と言っているのがちょいとツッコミたくなる。いくら数値を出しても(ないよりはましだが)、それはあくまで戦略目標であって戦略そのものではない。このことを、一般の企業の場合で考えてみると、中期計画を立てて、5年後の売り上げを20%増やしますとか、経常利益率を10%にしますとか書くわけですが、それだけでは単なる目標ですから、それをどうやって実現するのかが必ず伴います。

そのために競争戦略をどう変えていくのか、事業ポートフォリオをどうするのか、どの経営資源をどの事業に傾斜するのか、M&Aをやるのか、人材をどう確保していくのかといったことがなくては、絵に描いた餅になってしまいます。

ですから、むしろ目標数値よりもそういった戦略・戦術の方が重要で、経営者によってはあえて数値を出さない人もいます。弊害もあるからで、数値達成が目的化してしまい、例えば、もっと高い値が得られるかもしれないのに、目標に達したからもうやめるとか、その逆で無理やり数字合わせをするために、かえって効率性をおとしてしまったりということです。

新年早々、悲観的なことを言いたくないが、この民主党の成長戦略をみているとしばらくは日本も浮かび上がれないと思ってしまう。こんな戦略しか立てられない政治主導はかえってマイナスなので、そこに早く気がついて、もっと政府は民間の知恵を活用しながら社会インフラの整備をやって、そのうえで民間の人たちが自由にイノベーションを起こせるように支援だけをするという仕掛けにしてほしいものだ。
  

2010年1月 3日

スポーツ三昧

スポーツといっても、実際にやるのではなく、スポーツ観戦のことである。それもテレビの視聴である。毎年の正月は、元旦のニューイヤー駅伝とサッカー天皇杯があって、2日からは箱根駅伝が行われ、そのあと高校サッカーやラグビーがあるという具合だ。

このところ、正月に出かけることも少なくなって家でごろごろするから、テレビにかじりつくことになる。しかし、ばあちゃんも嘆いていたが、正月のテレビ番組のひどいこと。くだらないお笑い芸人のオンパレードや良く分からない特番で見るものがないという。だから、ばあちゃんはDVDで「三丁目の夕日」を観ていた。ぼくはスポーツ番組というわけである。

さて、天皇杯であるが、ガンバ大阪と名古屋グランパスという対決。関東のチームが残っていないので、どちらを応援するかというのがあるが、ここはグランパスでしょう。以前、四日市に居たときにときどき瑞穂まで足を運んだことがあったからである。

試合は、ガンバのペースで始まり、得意のパス回しで先取点をとる。その後予想通りケネディの頭に合わせるポストプレーでグランパスがペースをつかみ同点に。しかし最後はガンバ遠藤の個人技で突き放されてしまった。

遠藤のどこがいいのか、別に華麗なフェイントがあるわけではなく、強いシュートがあるわけではない。ぼくは、地味にちゃんと止められて、タイミングよくパスがだせるからからだと思う。要するに、次に何をするかがあって、そのためのトラップができるということである。これはやさしそうで非常に難しいのである。

スペインのシャビやイニエスタを見ているとわかると思うが、彼らの真骨頂はここである。日本でこの技術がちゃんと備わっている数少ない選手の一人が遠藤なのである。彼にやられた。

箱根駅伝は、昨年映画で「風が強く吹いている」を観たおかげで、すこしばかり力の入れ方が違う。年々人気が出てきているようだ。何がそんなに人を引き付けるのだろうか。学生たちのひたむきな走りだろうか、ごぼう抜きのだいご味だろうか、学校関係者のくすぐられる愛校心だろうか。

一つは、単純だから老若男女が楽しめることだろう。というのも、昨日駅伝が終わってから大学ラグビーを見たが、いまだにルールがわからない。どうして反則をとられるのかがさっぱりわからないのだ。これでは、ばあちゃんのような年寄は見ることができない。

ついでに、ラグビーのちょっと気になったのは、あのレフリーの存在で、どうしてあんなに“指導”するのだろうか。最近はマイクをつけているから、試合中にああしろとか、早く離せとか、プレー中に注意するんだけど変だとは思いませんか。ルールを知らない子供に対しているようで大人のプレーヤーに言うことではないと思うのだが。

あと箱根駅伝なんだけど、もうひとつの“楽しみ”がアクシデントじゃないかと思う。ちょっと意地悪で怒られるかもしれませんが、選手がふらふらになったり、走れなくなったりするのを心の奥で期待しているのではないだろうか。昨日も、最終区で意識朦朧としてはいってきた選手にみな異常に興奮していた。特にアナウンサーの絶叫はここぞとばかり響き渡る。

そういう意味では、あまり面白くなかった今年、東洋大学の2連覇で終わった。たった一人で4分も5分も貯金しちゃうのだから強いわけだ。

これからは、高校サッカー選手権で、早々と神奈川県代表の武相高校が敗退してしまったけど、熱戦がくりひろげられるので楽しみにしている。

2010年1月 4日

映画三昧

昨日も書いたとおり、正月はもちろん仕事もする気にはなれなくて、さりとてテレビはスポーツ番組だけだし、要するに時間があるのだ。なのでこれまで見落としてきていて、そんなに強く観たいわけではないが気になっている作品をひろってみる。そんな作品のいくつかについてまとめて書いておくことにする。

【アキレスと亀】

北野武監督作品はなぜかあまり好きになれない。なぜかと言われてなかなかこうだからとは答えられない。「アキレスと亀」もそうしたあまり好きになれなかった作品であった。

アキレスと亀というタイトルはゼノンのパラドックスで有名な話から取っているだろうから、映画では、子供の時からずっと絵ばかり描いてきたが、一向に芽が出ない芸術家が主人公なので、どうもその絵描きがアキレスで、いくらがんばっても追いつけないということを言っているのだろうか。

じゃあ、亀って何なのだろうか。そうよく分からないのだ。あまりくどくどと説明されてもこまるのだが、逆にどういうことかちっとは説明してくれないとわからないということもある。そうなんだ、北野武はそこが問題なのではないだろうか。

どうも、この“ぶっきらぼう”なところがいけないように思える。それは、彼のテレビやなにかの発言を聞いているとわかる。言っていることがはっきり全部を言わないのだ。途中でぼそっと言って最後までちゃんと語らないのだ。自分ではわかっているかもしれないが、聞いている人は“感じ”でしか理解できない。

これと同じように、映画もちゃんと語っていないで、監督だけが“そんな感じ”のものを映し出しているように思える。この映画でも、こども時代から青年期を経て中年に到るまでそれぞれの物語をつないでいるが、全体のストーリーが見えてこない。

こうしたちぎるような映画は若い時にはそれなりのパワーがあるのでおもしろいが、やはり歳を食ってくるとその力がなくなってくるので、丁寧にしぶく作ることも大切なのではないだろうか。だいぶ監督批判になってしまったが、同じ年代なので自分にも言い聞かせているのである。

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【陰日向に咲く】

劇団ひとりの原作を映画化した「陰日向に咲く」(平川雄一朗監督)は、その原作がベストセラーになったこともあり幾分の期待を持って観る。だが、ものの見事に裏切られた。

ぼくは原作を読んでいないので、原作との比較でどうのこうのとは言えないが、前から言っているように、映画になったとたん原作は関係なく、映画のできを評価すればいい。だから言うのだ。これは映画になっていない。

そもそも、何がどうなっているのか、誰と誰がどういう関係なのか、何を言いたいのかが全くわからない。観終わってからDVDを何回か見直してもわからない。しょうがないから、映画評を見て、ああそういうことだったのかと気がつく。もうこれだけで失格だ。

どうも、東京で暮らす陽のあたらない9人が登場し(と書いてあったが、それがだれなのかもわからない)、それぞれ一生懸命生きている姿を描いたらしいのだが、ぜんぜん関係ないアキバのオタクが何人かでてきたりするが、これがまた主ストーリーとは全く関係しない。なんじゃこりゃあ。

そして、きわめつけは、岡田準一扮するギャンブルにはまって借金地獄に陥っている観光バスの運転手と母親と漫才コンビを組んでいた父親を探す女性弁護士が、偶然浅草で出会うのだが、そのあとの展開がこれまたあり得ない偶然を積み重ねていくわけで、全くリアリティもないし、観客をバカにするなと言いたくなる。

いいですか、ネタバレなのですが、これは言っておいた方がいいので言っておくと、その借金男と女弁護士が女の芸人であった父親を一緒に探すことになるのだが、なんと、その父親がホームレスになっている。ところが、その借金男の父親が街で偶然見つけたそのホームレスにあこがれて、そのホームレスのところで一緒に暮らすのである。ありえねえー。

さらに、借金男が困ってオレオレ詐欺をするんだけど(これも映画では何をしているのかさっぱりわからなかった)、その相手の老女がなんとそのホームレスになっている父親が弁護士女の母親と上がっていた舞台で踊っていた踊り子で、その父親があこがれた女だったのだ。ありえねー。

これだけでも、いくら作りごとだといっても、トンデモナイでしょ。
 

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【西の魔女が死んだ】

前2作をあまり評価しなかったので、よかった作品も加えた方がいいと思ったわけではないが、長崎俊一監督の「西の魔女が死んだ」は、予想以上に面白くいい映画であった。

イギリス人の祖母と登校拒否の孫娘とのひと夏の暮らしを描いた作品である。その祖母は、清里高原とおぼしき森の中で、自然とともとに一人で暮らしている。中学生になる孫娘は、その感受性の強さから、学校や友達となじめず登校拒否を続ける。そこで母親が夏にその子を連れていって、一緒に生活させることで立ち直らせたいと考えるのである。

そこから、祖母と孫の生活が始まるのだが、二人で会話する中で少しずつ少女は成長していく。この祖母が日本人のおばあちゃんではないところが、肝のような気がする。だから、魔女と呼ばれたおばあちゃんに私も魔女になりたいから、どうしたらいいか教えてという場面で、それはちゃんと朝早く起きて、規則正しい生活をして、それで大事なのは自分で決めることだと諭す。

これは当たり前のことなのだが、どこか乾いた対応で西洋的な感じなのだ。そして、おばあさんは、この娘をやたらほめるのである。結局、自然の中でごくごく日常的な毎日をきちんとこなし、自分の存在の意味を悟っていくというオーソドックスな営為を異国の祖母が教えているのである。

そして、死を迎えて、さらにまたそこでもメッセージを発信していく。今の子供たちの足りないことは、こうした人生を生き抜いた老人たちとの交流とその人の死を見送るという経験ではないかと思う。そんな忘れられた関係性を喚起しているように思えた映画であった。

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    • 3 原作を先に読んでいると… 残念な気分
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    • 4 「まずは早寝早起き」からの魔女修業
    • 5 ゼッタイ見ておく映画です。じーまも魔女なので・・・
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2010年1月 5日

戦後世界経済史

スポーツ三昧と映画三昧ときたので、次は読書三昧といきたいのですが、そうはいかない中で、少しばかり堅い本を読んだ。「戦後世界経済史」(猪木武徳著 中公新書)である。

現代は、経済というものの重要性がすごく高くなってきていて、しかも政治とも密接に関係するようになった。その割には、わが国だけがそうなのかどうかわからないが、経済学という学問がきちんとしていないように思える。

例えば、政府で行う経済対策や成長戦略などはまさに経済学をベースにした理論的な裏付けも必要ではないかと思うのだが、そんな議論があるようには思えない。テレビのエセ経済学者のようなアホな理屈で決めているように思える。

というのは、ぼくがおかしいと痛感するのは事実認定の欠如のことである。すなわち、過去の起こった事実がどういう原因で起こったのかという共通理解である。これは全部が全部ちゃんとした因果関係が証明できないが、ある程度の共通理解というものはできるはずだ。少なくとも実績として出てきた数字の捉え方はそれができるはずである。

この間、亀井静香と竹中平蔵の議論がテレビであったが、みんな小泉・竹中が進めた市場原理主義で経済がガタガタになったというが、それに対して竹中平蔵が反論しているように、彼らがやった2003年~2007年で株価も上がり、失業率も下がっているという事実を知らないで言っている。皮相的な見方の感情論はやめてほしいのだ。

この本は、戦後の世界で起こった経済の動きを俯瞰している。これだけ様々な国や地方について、比較的わかりやすく説明してくれていることは称賛できる。こうした、実際に起こったことを客観的な目で検証して、それを今に生かしていこうという姿勢が大事なのである。民主党の先生方も是非読んでほしいものだ。

内容が広範で内容も濃いのでいちいち紹介はできないので、最初に書かれている筆者の関心と本の5つの視点、それと主テーマでもある「自由と平等の相克」について記す。

基本的な5つの視点というのは次のようなものである。
1.「市場化の動きと公共部門の拡大」あるいは「経済の政治化と脱政治化のせめぎ合い」
2.グローバリゼーションの進展によって起こった経済的な変化はどのようなものであったか
3.平等や公正にかかわる経済状況は、戦後世界ではどのように変わってきたのか
4.世界的な統治機構の問題、別の表現を用いると、さまざまな経済的な困難、摩擦や対立を裁定する「清算所」が世界経済の中で機能してきたか
5.市場システムを支える制度がどのようにデザインされ、それがいかなる変容を受けてきたか

これらの問いかけに対して、戦後の復興から始まって、冷戦を経て、発展・停滞・転換を繰り返し、あるところでは破綻を経験し、現在に至っている姿が描かれる。多くの事実や資料をもとに議論が展開されていて、非常に参考になるし、こうしたことを学習することの大切さを痛感する。

例えば、社会主義がなぜ破局したのか、その経済はどうだったのかなどを見れば、今どうした経済の方向にもっていくべきかがわかると思う。いまの民主党の政策にある計画経済的な動きに対して危機感を抱くのはこうした歴史的な事実なのである。

そして、東アジア共同体構想にしても、EUがどうであったかということも非常に参考になると思うし、そう簡単なものではないことがよくわかるはずだ。

最後に、自由と平等の問題である。平等化(特に機会の均等)が進むと、ある時点で、「自由」が侵蝕され始める、という平等の深刻な弊害をどうとらえればいいのか(トクヴィル)である。

「平等」への情熱は「自由」へのそれよりもはるかに強い。そして、平等は自由の犠牲において実現する。平等を徹底した究極が社会主義独裁であり、自由の喪失が、経済発展を阻害するということである。この兼合いなのだが、今の政策は少し平等化に傾いているように思えるのだ。

もちろん、この平等化と自由を両立させるのがいいのだが、その問題を解く鍵のひとつは、経済成長、人的・物的資本、デモクラシーの相互の関係をどう捉えるかになるという。どうも、人的資本、すなわち人間の知的・道徳的質が、成長にも民主化にも一番重要な要因と考えられているようだ。

これは、経済的に遅れた国の問題のように思えるがそうではなく日本でもあてはまる。著者の最後の言葉が重い。

日本のような経済の先進国でも、市民文化や国民の教育内容が劣化してゆけば、経済のパフォーマンス自体も瞬く間に貧弱になる危険性を示唆していると考えると、知育・徳育を中心にした教育問題こそこれからの世界経済の最大の課題であることは否定すべくもない。

だいぶ長くなったが、現代は経済が非常に重要になってきていると冒頭でも言ったが、時間的にあるいは地域的に俯瞰することはとても有意義であり、現在の日本での経済と政治を考える上でもぜひご一読を薦めたい好著である。
  

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2010年1月 6日

業務システムの再定義-まとめ(1)

表題のようなタイトルで書いてきたが、最初にきちんとした構成があったわけではなく、行き当たりばったり的なノリで始めた。従って、脈略がなかったり、くどい表現があったりしたと思う。そこで、これまで書いてきたことを中心にまとめてみることにする。

今、情報システムが置かれている状況といえば、ビジネスの方の停滞で元気がでないのはしかたがないのだが、ここで立ち止まって、情報システムのあり方やそのかたちがどうあるべきかといったことを考えようではないかというのがそもそもの出発点であった。

何度も言ってきているように、情報システムはその時々のビジネスの状況に左右されるのは当然である。なぜならビジネスありき、そしてビジネスに貢献してこそ情報システムの存在意義があるからである。

そう考えたとき、高度経済成長の時代から謳歌した日本経済もとっくに曲がり角を通過し、今や停滞あるいは衰退の時にきている。ということは、そんな時代に適応したビジネスであり、それと対となった情報システムでなければいけないはずである。

ところがどうであろうか。旧来型のいわば右肩上がりの経済成長ありきの情報システム(=業務システム)であり、その延長でしか考えていないという旧態のままになっていやしないかということを指摘しているのである。

ビジネスのほうは生き残りをかけて変化するためにそのビジネスの再定義を始めているわけで、ならば業務システム、情報システムも同じように再定義していかなくてはいけないのは自明のことである。そうでなくては、ビジネスの足を引っ張る不良資産と化してしまう。

それ以上に、ITエンジニアは手をこまねいていないで、ビジネス側の変革を待つのではなく、変革を促す道具を提供するぐらいの意気込みをもってもいいと思うのである。そういう意味ではITの進展はすさまじいものがあり、これまでできなかったことがかなりのレベルまで可能になったという現状は後押ししてくれるはずである。

そういう気持ちをこめてこれまで書いてきた。ということで、最後にまとめとして要点を簡潔に説明しておこうと思う。そして、文章だけでわかりにくいと思うので図も入れながら書いていきます。下記のような課題設定のもとにまとめていけたらと思います。

1.従来のどこを変えなくてはいけないのか
2.これからの業務システムに求められる要件は何か
3.ビジネスとITを結ぶためのポイント
4.What(構造・道具)を先に構想する
5.Whatを効率的に構築するためのHow(技法・作法)を考える
6.成長するオペレーションの重要性を認識する

2010年1月 7日

業務システムの再定義-まとめ(2)

従来のどこを変えなくてはいけないのか

1. 業務システムに影響を及ぼすビジネスの変化とは

(1)プッシュ型からプル型へ
いいものを作れば売れる時代から、顧客ニーズにあった「モノ+サービス」を提供することが求められてきた。

(2)俊敏な変化対応力
ユーザニーズの多様化やビジネスのグローバル化にともなって、状況変化に対するスピードとアジリティがなければ生き残れないようになってきた。

(3)オープン化
すべての領域で隠すことから開示する方向へ流れているが、実はオープンになっているのは、「要素」のところが主で、それぞれの要素を組み合わせるところが差別化要因となってきている。

2.これまでの業務システムとは

(1)業務システムの基本は変わっていない
情報技術(IT)そのものは大きく変わってきているが、ITを使って行う業務遂行は昔もいまも基本的には同じようなやり方である。

(2)決算システムがベース
もともと経理計算から始まっている(経理部電算課などと言っていた)から、販売・、生産・調達・購買などのモノとカネの実績、給与計算などのヒトの実績、詰まりはお金をいくら使って、いくら売って、いくら儲かったかを計算するためであった。

(3)データ入力・帳票出力システム
決算システムは、“バックヤード起点”だから、そこへ向かって(決算をするために)データを登録し、その結果やチェックリストを紙で出力するというのが、基本のシステム機能であった。これは、最初の電算システムでも現代のERPでも基本的には同じ考え方でできている。

3.どこを変えるのか

(1)日常の業務をシステム化する
これからのシステムは、経理計算のための電子計算機から組織のメンバーが共同目的のために意思疎通を図りながら協働する場へと軸足を移す必要がある。

(2)顧客接点プロセスの組み込み
決算システムに登録するまでのデータを確定するプロセスをシステムの中に組み入れる。

(3)柔軟な構造
ビジネスが変化したとき、すぐさま変えられるような業務システムにする。

ざっくりと、従来のシステムの問題点と課題について書いたが、ここの根本的な認識がないと、新しい仕組みを考えたところで、現状の延長でしかなく、革新的なものは生まれてこないと思う。ほとんどの人が認めると思うが、今のビジネスがドラスティックに変化しているわけだから、業務システムも同じように変革していかなくてならないのだ。


2010年1月 8日

CIRO(サイロ)

CIROっていったい何のこと?というは一般的な疑問であろう。 Cabinet Intelligence and Research Officeの略で、日本語では内閣情報調査室のことである。そのことを本にしたのが、「CIRO(サイロ) 内閣情報調査室 香月喬」(浜田文人著 朝日文庫)である。

これは、もちろんCIROの解説本ではなく、CIROで働く香月喬という調査官を主人公とした小説である。浜田さんは、前にも言ったが、ぼくがよくいく店の常連で、ときどき顔をあわせる人で、「捌き屋」や「公安捜査」のシリーズを書いた作家です。

この小説は、テーマが内閣情報調査室なので、現在の政治にまつわる裏の話が随所に出てくる。この政権交代もそうだし、それ以前の自民党の小泉構造改革派とそれに反対する勢力との争いが描かれる。だから、すごく生々しくて、具体的にこれはあの人だなとかいった想像をついしてしまう。

ここらあたりは、あまり本当のことでもいかんだろうし、さりとていかにも作り話でもリアリティに欠けるだろうから難しいところだ。しかし、浜田さんは、豊富な資料と情報からうまく“捌いて”いる。そして、何と言っても、登場人物の人間味を大事にして書いているので、スキャンダラスな読み方ではなく人間ドラマとして読ましてくれる。

ところで、実はこの本にその行きつけの銀座の「M」が、登場するのである。だいぶ後半になってからではあるが、警視庁刑事部の警部補として出てくる別府という人物の行きつけの店がそれである。

ほどよい空間と、神経が凪ぐ仄暗さ。数寄屋通の脇道を入ったところのバー・モンジュールは、一見の客でもやさしく包む雰囲気がある。
と紹介されている。確かにいい表現だ。そして、丸顔の女性バーテンダーとマスターも登場する。この間その店でこの話になったとき、バーテンダーのKちゃんは実際にも丸顔なんだけど、わたしのこと丸顔とそれだけしか書いてくれないのに、マスターはすごくカッコよく書かれていていいなあと嘆いていた。

この浜田本は、ハードボイルドなんだけど、繰り返すがそこに出てくる人物がそれぞれに個性があり、情があるので、あったかいクールさとでもいった趣で面白いですよ。

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2010年1月 9日

青空のゆくえ

こんな映画を観るおじさんも少ないと思うが、最近の中学生の青春グラフィティを描いた作品「青空のゆくえ」は、自分の昔を思い出して大いに楽しめた。監督が長澤雅彦で、この人の最新作「天国はまだ遠く」を観て気に入ったので、同じ監督の作品であるこの映画を観たというわけである。

物語は、ある中学校でバスケット部の主将をつとめる男の子が急にアメリカに引っ越すために転校することになるところから始まる。そこに、この男の子に好意を持つ女の子たちが、普段潜在的に何気なくいいなあと思っている感情が、そうした事態で顕在化していく展開である。

女子バスケ部の主将、幼なじみ、男の友達のような女の子、ガリ勉タイプ、帰国子女という5人もの女子が登場する。なんとまあモテモテである。確かに昔も、うらやむようなモテ男がいたけど(残念ながらぼくではない)、ここまでのヤツはいなかったなあ。

こうした多感な、そして初々しい姿は、理屈抜きで感激する。自分のそのころを思い出すわけで、それはほとんどの場合ほろ苦さとともにやってくる。しかし、そのほろ苦さも後悔という思いではなく、ああそんなこともあったなあという思い出になってくるのだ。そういう楽しみ方をおじさんはする。

この映画は、こうした恋のさやあてみたいなことだけではなく、主人公の男の子の“過去の何か”が暗示される。それが徐々に、結局友達を見捨てた行為がその男の子の胸にわだかまっていることが分かってくる。そうなんですね、「逃げたこと」の後悔がずっと忘れられないのだ。

実は、この「逃げた少年」と「遅れてきた青年」という慙愧は、青春の共通のテーマなのである。ちょっと前に紹介した「美しい夏キリシマ」に出てくる康夫という少年も同じような感情を抱いていたことが描かれている。

ところで、これまでの初恋青春ものとくらべると、男女が逆のような気がする。すなわち、昔はマドンナがいて、それに恋する男の子たちという構図だったように思うのだが、世の中変わったのだ。

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    • 4 出来そうでできない、丁寧で真面目な青春映画
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2010年1月10日

不自然な自然保護

こんな変なタイトルをつけて恐縮だが、前に「マグネシウム文明論」という本について書いた時、太陽光エネルギーを使うトータルシステムは地球の資源も使わないし、温室効果ガスも出さない理想的なエネルギーであるかのように言ったことについて、確かにそうなのだが、何となくひっかかっていて、そのことを考えるとそんなタイトルになってしまった。

単純に太陽エネルギーを使うことは地球環境に影響がないのだろうかと思ったのである。理屈的には、大きさはともかくな何らかの影響があるはずだ。いままで、地面に降り注いでいた太陽の光がよそにもっていかれるわけだから、地表にとっては今よりはエネルギー不足になる。宇宙で光を集める研究をしているが当分先なので、地球上での話にすると自然を変えている。

いまのエネルギーの使い方は、地球にある化石燃料を燃やすことで発生する温室効果ガスで地球を温暖化させていると言われている。(これも本当かどうかわからないが、ここではこうしておく)ということは、その化石燃料が太陽光に替わると、温室効果ガスも無くなるし、太陽光エネルギーも動力にとられてしまうということになり、地球は寒冷化するのである。もしそうなったら温暖化反対のひとはどうするのだろうか。

ここで考えることが二つあって、ひとつは人間の使っているエネルギーが地球の気候に及ぼす影響力がそんなにあるのかという問題である。もしあるとしたら、化石燃料をやめて太陽光発電に切り替えても影響があって、その方向が違うだけのような気がする。

すなわち、今は化石資源を使っているので、太陽光エネルギーとの総和エネルギー使用量は増加させているが、それをやめて太陽光エネルギーを消費し出すとエネルギー使用総和は減少するのだから地球は寒冷化に向かうという理屈になると言っているである。

もうひとつは、もっと長い歴史で考えたたとき、エネルギーをぜんぜん使わなかったときでも、氷河期があったように、地球は寒暖を繰り返していたわけで、あるスパンで平衡関係があるということである。少なくともわれわれの想像の範囲では、行きいすぎるとそれを戻す力があってバランスするのが自然であるように思うのである。

話は変わって、だいぶ前にテレビを見ていたら、農地が荒廃しているから、それを再生するために環境保護を唱えているひとたちが畑にしたというような話があったのだが、少しばかりの違和感があった。あるいは、同じように森の間伐も一見自然のためというけど、もともと何もされなかったはずで、そこに人間が手を入れて自然を守るっておかしい気がする。

単に都会にいるから土をいじりたいとか森に入りたいとかいうことかもしれないが、これって、ペットを飼う心理と似てやしないだろうか。人間が勝手に自然を定義してそれから外れると保護するという。しかしよく考えてみると、人間が何もしないのが自然なのではないでしょうか。保護される自然や動物は何も言わないからわからないが、それで喜んでいるのだろうか。

だから何を言いたいのかというと、結局人間が文明といわれるものを作り出すのは、自然を破壊することと同義なのである。もっと言えば人間らしい生活をするというのは自然とけんかすることなのだ。(某大臣がけんかすると仲良くなると言ったが、そんな生やさしいもではないと思うが)ということだから、まずはそこを考えて謙虚になり、ひかえ目に生活していればいいのだ。声高に自然を守るなんて言わないでもいいと思うのである。
  

2010年1月11日

創立90周年記念

昨日は、ぼくの高校時代のサッカー部創立90周年記念懇親会があった。大正10年に当時はまだ旧制中学としての学校創立とともに蹴球部としてスタートしている。さすがにその時の先輩はいらっしゃらないが、昭和3年卒の大先輩が記念誌に投稿してくれている。歴史を感じる。

懇親会には100名近くの人が参加してくれて盛況であった。久しぶりに会う先輩や後輩がいて、そして歴代の監督も出席していて懐かしさいっぱいである。ぼくらの代は8名の出席で一番多かったのではないだろうか。

こういうときって、やはり強かった代のメンバーが羽振りをきかせる。その最たるものは全国制覇したときの人たちで、昭和21年の国体で優勝している。その時のメンバーが登場して思い出を語ってくれるのだが、皆さん80歳くらいなのに、当時のことをよく覚えていて、決勝ではタイムアップ1分まえに劇的なゴールで勝利したという話をこと細かく説明する。

そのほかにも、今日決勝戦がある全国サッカー高校選手権の第67回大会に23年ぶりに出場(その23年前に出場したのがぼくらの世代である)した連中もしゃべった。彼らは、ベスト16まで勝ち進んだのだが、残念ながら3回戦で盛岡商業に負けてしまった。

そのほかにも先生方やサッカージャーナリストとか参議院議員とかいった“著名人”もいて多士済々のスピーチがおもしろい。社長(息子)も同じ学校のサッカー部の後輩なので案内がきていたが出席していない。そのくらいの年代はほとんど来ていなかった。まあ、そんなものだろう。ただ、社長が在籍したその時の監督の先生に挨拶したら、ちょうど赴任したその年の子たちだったので、よく覚えていると言っていた。

その後は、同期の連中と2次会でいつもの昔話に花を咲かせ、そのあと顧問の先生を囲んで飲んでいるいつものところへ合流する。すごく楽しい夜であった。

2010年1月12日

おめでとう!山梨学院

第88回全国高校サッカー選手権は、山梨県代表の山梨学院大学付属高校が青森県代表の青森山田高校を1-0で破って、初出場初優勝という快挙を達成した。しかも、山梨県勢としても初のタイトルである。まずはおめでとうと言いたい。

今回は、このようにこれまでの名門といわれていた学校ではなく、それ以外の地域からの出場校が勝ち残ってきた。まさに群雄割拠の戦国時代だ。もはや、サッカー先進県とかいった形容詞が通用しなくなってきている。ただ、両校とも地元出身の生徒が非常に少ないので、あながちそうとも言えない。だから、地域ではなく学校単位で考えた方がいいかもしれない。

さて、試合はなかなか白熱した好試合であった。個々人の技術もしっかりしていて、戦術的にもレベルが高くびっくりした。お互いの攻守がかみ合っていて見応えがあった。勝敗は、ほんのちょっとした差で決まった。ゴールを決めた碓井君の枠を外さないシュート力だ。

どうしてこうした試合ができるのかというと、似たようなタイプのチーム同士だったので、両方の持ち味が発揮できたことと、中盤がしっかりしていたことだろう。だから、攻守の切り替えが頻繁で、動きが早かったにもかかわらず、落ち着いた感じの試合になった。

中盤にいい選手がいて、一旦そこに収まると組織的な連動ができるというわけだ。山梨はトップに小柄なスピードある選手を揃え、サイドやバックスの裏へ仕掛けていく攻撃が特徴で、一方の青森山田は、センターにポストができる子がいて、そこを起点で落ちたところからパス力のある子がスルーパスを通すという戦法だ。

ただ、こういういい試合ができる山梨学院も準決勝であたった矢板中央高校の中央突破攻撃には手を焼いた。(シャレです)矢板中央の荒削りの単純浮きだま縦パスに苦戦したのである。きれいなアウトボクシングがやたら大ぶりのフックを繰り出す選手に負けたりするのと同じで、相性みたいなものがある。

結局、みな同じサッカーをするのではなく、そのチーム個性にあった戦術を持つのがいいということになるが、より高い確率で勝てるにはどうするのかという問題である。得てしてトーナメントだと調子に乗って粗野な戦法でも勝ち上がってしまうことがある。そんなことがあるとそこに戦術を求めてしまうことがあるが、中長期的にみたらやめた方がいいと思う。

そうした意味で、質の高いサッカーを志向していた両校が決勝に勝ち上がったのは喜ばしいことのように思う。一昨日のOB会ではないが、いつの日かわが母校が予選を突破して、さらに国立競技場で試合をすることを夢見ている。

2010年1月13日

業務システムの再定義-閑話休題(8)

オープン化時代の処し方

オープン化の流れが加速している。ITが先鞭をつけたのかもしれないが、あらゆる分野で情報開示の動きが増えてきている。文学や音楽などでは著作権保護の観点から異議を唱えているだろうが、そのうちこの流れに抗しきれなくなると思う。

だから、もはや隠すことで価値を高めることが困難になってくる。そうであれば、逆に積極的にオープンにすることで対応したほうがいいような気がする。前回にも書いたが、オープンにするといっても基本的に「要素」の部分なのである。そして一方、オープンということとは別に今日では、お客さんはその要素だけを欲しているわけではなく、それらを組み合わせたものを評価するようになってきている。

従って、オープンにしても失われないものを作り出すことが求められているのです。それはどんなことかというと、文化・風土に裏打ちされた組織力、経験・ノウハウをもった技術力、仕事や生活のスタイルを提案できるサービス力といったものではないでしょうか。

ここで挙げたことは、すぐにまねることができないもので、長年の積み重ねであり、人の精神や心の中に備わったものであるわけです。そういったものを競争力として企業価値を高めることができるのです。

ただ、気をつけなくてはいけないのは、こうした暗黙知的な技能は時として反オープン的な傾向になることがあることで、それに対しても新陳代謝としてのオープン化を促していく必要があるということだ。

かっこいいことを少し言うと、オープン化するということは必然であると思っている。なぜかというと、たとえば、非常に素晴らしいものを発明しました、あるいはみんなが喜ぶようなものを開発しましたとなったとき、それを秘密にして、ある特定の人にだけ高く提供するということがいいことなのだろうか。

優れたものができたら、できるだけ早くみなに与えて喜んでもらえることが、その作られたものの願いでもあるはずだ。使ってもらう人、喜んでもらえる人が多ければ多いほど研究者・開発者冥利に尽きるというものではないだろうか。

ITのオープンソース精神はここにあると思う。お金を儲けるために研究し、開発している人はもちろんいるかもしれないが、たいていの人は自分の夢を実現することを欲しているはずだ。だって、こんないいものができたからみんなに見てもらいたいというのは素直な人情というものである。

ということで、人々の暮らしや仕事が楽しくなるように、オープンな要素を使って新しい価値を提供するようにしたいものだ。これこそ、日本のこれまでの「ものつくり神話」からの脱却ということかもしれない。
  

2010年1月14日

業務システムの再定義-まとめ(3)

これからの業務システムに求められる要件は何か-その1

前回、ビジネスと呼応した業務システムの変革の必要性を強調した。では、そうした業務システムに求められる要件について考えてみましょう。そのとき、まずはわかりやすい次の図をみてください。

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この図は、日本BPM協会のコモンセンス部会で今盛んに議論されているプロセス改革モデルで、企業がビジネスを行うときにもつべき能力として、組織能力(ケーパビリティ)と価値提供力(子ンピテンシー)をあげ、縦軸と横軸の関係であると位置づけています。

ここですごく重要なのは、その交差点に“プロセス”を置いてあることです。BPM協会だからそうしたということではなく、まさにこれがいまのビジネスにとって必要な構造なのです。この構造こそ、多様化する顧客ニーズやめまぐるしく変化するビジネス環境などへの素早く、そして柔軟な対応が可能になるのです。

すなわち、顧客からの要求に対して、事業組織としてプロセス活動を行い、顧客に価値を提供し、収益を得るという横軸の活動がある。一方、そのプロセス活動では、戦略目標や計画に基づき、自分たちの資源を有効に使って、最大限の能力を発揮するということである。

こうしてみると、どんな業務システムが望まれているかが浮かんでくるのではないでしょうか。情報システムというのは、実際のビジネスモデル、事業活動、組織の写像であらねばなりません。ですから、上図のようなプロセス改革モデルを実現してみせるプラットフォームを提供することなのです。

これまでの業務システムはともすれば、ITからの発想になっているように思います。ITシステム(例えば、会計システム、販売管理システム、グループウエア、メールシステム、BIなどなど)がまずあって、それをビジネスの一部の機能に当て込むことだったのではないでしょうか。

そうではなくて、ビジネス活動全体を設計して、それをできるだけ乖離しないような形でシステム化する。そういった発想で見ていくと、業務システムのイメージを書くと次のようになる。

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2010年1月15日

独学の精神

本のタイトルから受けるイメージでは、ひとりでやる勉学のしかたみたいな感じを受けるがそうではない。「独学の精神」(前田英樹著 ちくま新書)は、まさに精神論である。だから、独学の士として登場する人物が、二宮金次郎、本居宣長、内村鑑三、中江藤樹らであり、そして職人さんなのである。

その精神について、まえがきに書いてあることがよく言い表していると思う。

ほんとうに大事なことは、何ひとつ教えることができない。この自覚のないところに、教育があるだろうか。学ぶということが成り立つだろうか。学ぶのは、この自分が学ぶのである。生まれてから死ぬまで、身ひとつで生きる自分が学ぶ。この身を通さないことには、何ひとつ、それこそ箸の持ち方ひとつからして覚えられない。体を使わない勉強だって、それと全く同じである。この身がたったひとつであるように、私の心も、気持ちもただひとつのものだ。

この謂いだから、独創性が大事なんて言うなとなる。人は初めから独創的である以外何があるのだと喝破する。そして、時代や集団のなかで通念化した知識をえたところでそんなものは役に立たない、そんな知識は増やすのではなく減らすべきだと主張する。

要するにひとそれぞれみな違いのだから一様な教え方なんてあるわけない。ということは、各人がおのれの肉体と精神とで独学する以外ないのだという。それを、著者は職人の中に求めている。この本に大工職人が登場する。考えることは、鉋(かんな)をかけることだという。自分でやってみることなのだ。

こうしたこととともに、食の自給自足にも言い及んでいて、米を作ってそれを腹いっぱい食べようと提案する。いささか唐突な感じと若干の違和感を持つのだが、この狩猟生活から農耕への流れは、機械文明の西洋社会への欠別も意味するようなことを言うのである。

じゃあ、みんな職人みたいになるのか、グローバル化をやめてスローライフで生きていくのかとなると、もはやそんなことはあり得ないと思う。現実的にはそうした生活もしたい人はするればいいだけで、みんながそうなったらその国は成立しないと思うのだが。

ただ、独学の精神というものは、非常に大事な態度だと思うので、そこは大いに参考になった。
 

独学の精神 (ちくま新書)
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    • 4 しっかり生きよう、と思える本
    • 5 学問は、独立独歩の環境=生活を支えること、に通ずるために行う
    • 5 白飯が食いたくなる。
    • 5 独学でないと習得できない領域がある
    • 1 極論の連続、現代社会に対するグチ
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2010年1月16日

チェンジリング

この映画のモチーフが事実であるということに驚愕する。クリント・イーストウッド監督、アンジェリーナ・ジョリー主演の「チェンジリング」は何とも重たく心に突き刺さる。

これは、1920年代にアメリカで起きた連続少年殺人事件である「ゴードン・ノースコット事件」を題材にしている。どうも、ほとんど脚色なしに実際に起こったことをトレースしているようだ。ただし、視点として被害者の母親を中心に描いている。

こうした映画はストーリーをなぞるより、ここではクリント・イーストウッドの演出とアンジェリーナ・ジョリーの演技について語ったほうがいいと思う。

クリント・イーストウッドのストーリーテリングの手腕は見事で、最近でも「グラントリノ」で見せたやくざ映画物語もそうだし、古くは「ミスティック・リバー」や「ミリオンダラー・ベイビー」を観ても、緻密でオーソドックスな演出は称賛に値する。

イーストウッドの作品は、従来のハリウッド映画とは一線を画しているように思う。ストーリがちゃんとあり、人物がきちんと描かれているので日本人が好むものができるのではないでしょうか。

アンジェリーナ・ジョリーは、女性には脂の乗り切ったという表現は適切ではないかもしれないが、今や押しも押されぬ大女優になったようだ。父親がジョン・ヴォイトであるのを知らなかった。あの「真夜中のカーボーイ」のジョン・ヴォイトである。

子供を失った悲しみの母親とロサンゼルス警察を糾弾する強い女性を見事に演じている。そこには、芯の強さと涙にくれる両方の顔を観客に見せてくれる。アカデミー主演女優賞を受賞してもおかしくないと思ったが、ケイト・ウィンスレットの取られてしまった。

いずれにしても、いい監督といい女優の映画は、いいできばえになる可能性が高いということだ。

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    • 3 警察内部による怠慢捜査と隠蔽。日本でも十分に起こりえる事件。
    • 5 文句なし☆5つ
    • 5 本当に素晴らしかったです
    • 4 当時のロサンゼルスの社会背景を描く深い作品
    • 4 最初から最後まで
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2010年1月17日

たまには世情のことも

今、世の中の関心事は民主党小沢幹事長の疑惑のようだが、冷静にみると少々首をかしげたくなることもある。この話題がどんなものであるかを判断するのがマスメディアだけだから、普通のひとたちはそうした新聞やテレビで知ったことがあたかも真実であるような錯覚に陥る。まだ、罪を犯したかどうかわからないのに予断を与えている。

特に、ゼネコンからの収賄の容疑というのも本当かもしれないが、現時点では不明なことであり、それを煽ることは問題だ。それと、説明責任というけど、自分でやってないと言っている人に向かってそれを要求するのもおかしい。なぜなら、やってないという説明をマスコミは期待しているのではないからである。矛盾があるのだ。

ことほど左様に、別に小沢一郎の肩を持つわけでもないが、この検察とマスメディアと庶民のトライアングルが恐いのである。言い過ぎかもしれないが、このトライアングルはやろうと思えば何でもできてしまう、いつぼくらも捕まるかもしれないのである。いやホント。

話が変わって、最近寒くて大変だ。先日も九州で大雪が降ったし、海外でも寒さにふるえているという。そのおかげで原油の需要が増えて値上がりしていて、物価にも影響が出て高くなっているそうだ。

象徴的なのは、コペンハーゲンのCOP15で温暖化を議論しているご当地で寒波で苦しんでいたという事実である。これまで、暖かくなると、みながこれは温室効果ガスによる地球温暖化の影響ですねとしたり顔で解説していた人たちが、何も言っていないように思う。そして物価の低下を嘆くデフレ嫌者は物価が上がってきたからいいじゃないかと皮肉ってみたくもなる。

どうも、われわれは思考停止することなく、冷静に自らの頭で本質的なところを考えてみる必要があると思う。そして、一人ひとりが変なマスコミに踊らされることなく、自らまっとうに生きていくことが大切なのだ。

そんなことを考えていたら、つい先日東京で会合があってでかけた時のうれしかったことを思い出した。会合の後呑んで、タクシーで品川まで出た時、その吞み会のお釣りを握りしめていて、料金支払いの時それをそのまま出して、小銭のお釣りをもらって降りた。そして、もう駅のエスカレータに乗ろうとした瞬間、後ろから方をたたく人がいた。振り返ると、先ほどのタクシーの運転手で、千円札が一枚多かったのでといって返してくれたのだ。

これには、びっくりしたが、あとでじわっとうれしくなった。この世知辛い世の中でもこんないい話もあるんだと心温まったのである。
  

2010年1月18日

インスタント沼

まさに三木聡ワールドである。この奇妙なタイトルである「インスタント沼」を観る。三木監督作品で観たのは、「インザ・プール」「亀は意外と速く泳ぐ」「たみおのしあわせ」「図鑑に載っていない虫」「転々」につぐもので、いずれの作品もぼく好みのナンセンスな感じがおもしろい。

こうした映画を「脱力系」というらしいが、どういう意味かよくわからないが、気軽に肩の力を抜いてというくらいのことなのだろう。だからといって不真面目なものではなくて、よく観ていくと、シリアスなところもあって、そういう意味ではある種の正統派の映画であると思う。

映画は、麻生久美子扮する出版社に勤めるOLが自分が担当する雑誌が不調で休刊になりそれを機に退社するところから始まる。それをきっかけにじり貧生活にはいるが、偶然に見つけた古い手紙に実の父親のことがあり、その父親に会いに行く。

その父親は、“電球”という変な名前の骨董屋のおやじで、そこから奇妙なことが起きて、という展開で、それが予想外でおもしろおかしく、でもペーソスもある。それを、おなじみの俳優陣が演じるのだからたまらない。このおやじなんか今は化石になったヒッピーなんですよね。それが足を洗えなくなって骨董屋もやめてまた放浪しちゃうわけです。笑ってしまいます。

出演者は三木監督の作品ではよく出てくる、ふせえり(実はこのひと三木聡の奥さんなのだ)、松重豊、岩松了、それに笹野高史、温水洋一、村松利史とくる。そしてこの作品にはまたまた個性的な俳優さんが出演している。“電球”役の風間杜夫、パンクロッカー“ガス”役の加瀬亮、麻生久美子の母親役の松坂慶子、相田翔子、クドカンと、もうこの人たちを見るだけでも楽しくなる。

前に言ったように、物語は確かに奇想天外で、ディテールではおかしなセリフ回しがあったり、へんな小道具がでてきたり、そして圧巻はあっと驚くラストシーンなのだが、全体をきちんと見ていくとしっかりとした構成でできているのがわかる。

三木ワールドからますます目が離せなくなった。

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    • 5 三木ワールドの住民登録ができるかどうかがカギ
    • 5 まるで奇跡のような作品です
    • 3 おもしろいですが
    • 5 「時効警察」好きにオススメ☆
    • 4 相も変わらぬ確信的なその作家性、バカバカしいけど可笑しい。
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2010年1月19日

業務システムの再定義-まとめ(4)

これからの業務システムに求められる要件は何か-その2

前回、業務システムの構造イメージを書いてみましたが、今回は現状の業務システムはどこにマッピングされているのだろうかという話です。今の多くのパッケージや手組システムが全体をカバーしているとは到底思えないので、どこがカバーされていて、どこが抜けているかということである。

そこを検討するにあたって、前回使用した構造図に既存のシステムをかぶせてみます。
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統合的な業務パッケージではERPが代表的ですが、それは図のようにバックヤードのところをカバーしています。ERPの持つ基本的な機能は、生産計画/管理、出荷管理、販売管理、在庫/購買管理、財務会計、管理会計といったところです。

これは簡単に言うと、何をどれだけ作って、それをどれだけ売った、そのときにいくらの費用をかけたのか、そしてどれだけの収益をあげたのかを登録して、管理する仕組みです。

しかしながら、企業活動、ビジネスはそれだけではありません。特に顧客や取引先との関係のなかの業務プロセスが抜けているように思います。そこを考えるとき、図のプロセス活動をフロントエンドとバックエンドに分けてあるところを注目してください。

プロセス活動はひとくくりで言えないという意味ですが、プロセスの性格をみていくと分かると思います。それを端的に示すのが、プロセスの起点という見方で、そのプロセスは何がトリガーになって始まるのかということです。ERPのような場合、あまりプロセスという意識はないのですが、そこには決算のためのプロセス、BS/PLに反映したいためにその実績データを取得するプロセスになります。これがバックエンドプロセスです。

一方、実際のビジネスは顧客や取引先があって成立します。そこのプロセスはどうやって始まるのでしょうか。顧客や取引先の要求というのがあって、それに応える形でプロセスが形成されます。これが顧客起点のフロントエンドプロセスということになります。

その他では、個別あるいは部門単位の業務システムが存在していて、それらは主にヒト、モノ、カネのリソース管理になっています。また、SalesForceのような営業管理あるいはLandingPageのような顧客獲得のためのWebサイトなどが作られていますが、そこからエスカレーションするためのプロセスの概念が乏しいように思います。

ですから、今問題なのはこのフロントエンドプロセス、言い換えれば「顧客接点サービスプロセス」の領域のシステムが弱いことではないでしょうか。いろいろなパッケージやソフトウエアがありますが、こうしてビジネス構造との対比の中で、そのビジネスをシステムが支援しているのかという観点でみると、やるべきことも見えてくるように思います。
  

2010年1月20日

業務システムの再定義-閑話休題(9)

“管理”システムを作るのはやめよう

ごく普通にシステムを開発するとき、「○○管理システム」という風にすることが多くある。営業管理システム、人事管理システム、購買管理システムとかあらゆるものに管理という言葉がつく。設備とか商品、取引先とかいったリソース系のものに対して管理システムというのはまだわかるが、プロセス系のものに対して、管理という言葉はあまりそぐわないような気がする。

例えば、営業管理システムなんてものがあったとすると、だいたいが営業マンの人を管理するイメージになってしまいます。ですから、システムの作りはどうなるかというと、管理している人のためにそのシステムをどうするかが主体になります。管理側の観点です。

そうなると、営業マンの日常業務、例えば見込み顧客訪問だとか、商談内容などを逐次記録させるわけです。それを一覧表にして進捗管理をするということになります。まあ、それはそれとして大切なことではありますが、システムのもつ本来の目的とちょっとずれるような気がします。では本来の目的は何でしょうか。

それは当たり前のこととして、顧客の獲得、オーダーの受領であるわけです。そこに向けて、ケーパビリティとコンピテンシーが発揮できるようにしなくてはいけないのはずですが、そうなっているでしょうか。単なる管理システムでは、プロセスという概念が希薄であるため、実績の管理でしかないという限界があるように思えます。

一方、リソース系のものについては管理というワーディングもおかしくはないが、その中味として、プロセス改革モデルのケーパビリティとして、リソースをどう管理するのかという視点を強く意識する必要があると思う。すなわち、事業成果を上げるためのリソース管理になっているのかということである。

そうした意味で、ERPは文字通り企業資源計画であり、リソース管理システムなのである。ただ、不足しているのが、コンピテンシーの方で特に顧客との間のプロセスが弱いと言える。

いずれにしろ、管理という事後処理的なふるまいではなく、業務プロセスの進捗にそって即時的に適解を見つけ出す“新たな管理”の仕組みが望まれるのではないでしょうか。

2010年1月21日

扉をたたく人

この渋い映画はまぎれもない傑作である。トーマス・マッカーシー監督、リチャード・ジェンキンス主演の「扉をたたく人」は、味わい深い余韻をぼくの心に残してくれた。

最初は注目されたわけではなかったが、徐々に口コミで広がって、主演のリチャード・ジェンキンスが、アカデミー賞主演男優賞にノミネートされるまでになった。確かに、リチャード・ジェンキンスは素晴らしい演技で、孤独でさびしい大学教授役を見事に演じきった。

その大学教授は、妻に先立たれ、やる気もなく学校でもずっと同じ講義録で教壇にたっている。そんな彼が、行きたくもなかった学会出席のためにニューヨークの別宅のアパートに入ったら、そこにアラブ人の男とアフリカ娘のカップルが暮らしていたというハプニングが起こる。

そこで一旦は追い出すのだが、何かあったのか行くあてもない二人を呼び戻して、同居することになる。そして、そのアラブの若い男はジャンベという打楽器の奏者で、亡くなったピアニストの妻の影響でピアノを習っていた教授が上達の見込みのないピアノから、その打楽器を演奏するようになる。

この単純な3ビートの音楽に目覚めていくのである。それとともに、徐々にこの移民のカップルと心を通じ合うようになるのである。まるで鼓をたたくのと同じように自分の閉ざされた心を開くようにたたいていく。

ところが、そのシリアから移民の若い男が逮捕されて、収容所に入れられてしまう。それを何とか助け出そうとするが、不法滞在という壁が越えられない。そんなときにその男の母親が訪ねてくる。そして、この母親と教授の間にも情が流れていき、二人で協力しながら行動するのである。

結果は言わないが、こうしてアメリカという国のある意味上層に暮らす大学教授と下層に暮らす移民との対比でアメリカという国の悩みや病巣が暗示される。そして、9.11以降のあの寛容だったアメリカが、外への扉を閉じようとしている現実のやるせなさが残っていく。

決して、饒舌でもなく派手さもなく、むしろ内向きの陰気なトーンであるにもかかわらず、強く心にしみる印象的な秀作であった。
  

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    • 5 孤独な大学教授の閉ざした心の扉を開いたのは、移民の青年との出会いと“ジャンベ”の響だった。必見の秀作!
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    • 5 ぜひ見てほしい映画
    • 4 9.11ですべてが変った
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2010年1月22日

テレビ番外地-東京12チャンネルの奇跡

いつもテレビの劣化を嘆いているが、唯一健闘しているチャンネルにテレビ東京がある。NHKも含めて、その他の民放がおしなべて、陳腐な、そして横並びの番組しか作っていない中にあって、異彩を放っているのは、最近では多くの人が認めているのではないかと密かに思っている。

例えば、得意の経済もさることながら、年寄向けの歌や旅番組とかお宝鑑定団みたいなもの、スポーツ、ハレンチ番組、意表を突く特集とか、枚挙のいとまもないといったら言い過ぎだろうか。

そんなテレビ東京の裏側をずっと見続けていた石光勝さんという方が書いた「テレビ番外地」(新潮新書)を読む。この石光さんは文化放送から東京12チャンネル(テレ東は最初はこういう名前だった)に入り常務常務取締役まで行ったひとで、数々のユニークな番組を手がけた。

東京12チャンネルは1964年に開局したが、当時は科学技術教育を柱としていた。だから、ぼくも覚えているが、また変なテレビ局ができたものだと思った。何しろ、通信工業高校講座とか数学、電気とかそんな番組があったのだ。

そんな番組ばかりでは続くわけがなくて、様々なジャンルへ進出していったのである。この局は後発であるが、その後発であるがゆえに多くのチャレンジができたと思う。そして、その当時初めてやった番組がいまの番組の原型になったものも少なくない。

例えば、「私の昭和史」「人に歴史あり」「なつかしの歌声」「題名のない音楽界」「ハレンチ学園」「クイズ地球まるかじり」「「モンティ・パイソン」「女子プロレス」「ローラーゲーム」「ダイヤモンド・サッカー」などなど。すごいですね。

でこの本を読んで真っ先に浮かんだのは「ベンチャー精神」ということである。このベンチャー精神というのは、全く新しいことをするということもあるかしれないが、現実的なところでは、既得権者のすき間をねらう、すなわち組織やあるいは慣例とか自主規制などの壁があるのでできないことを少々リスクがあってもやってしまおうという精神でもあるわけです。

そういう点で、テレビ東京は、そこをうまく取り入れたような気がする。だから、そのDNAが今でも残っていて、他局とは一線を画すユニークな番組を提供しているように思う。

しかし、それはけっして順風満帆であるはずがなく、様々なトラブルを抱えながら乗り越えていこうとする意気込みだったことがこの本から伝わってくる。これは、プロジェクトX的な感覚だから、今の若い人たちは眉をひそめるかもしれないが、多少なりともこうした高揚感を味わうことも必要ではないかと思うのだがいかがだろうか。

ちょっと脱線するかもしれないが、テレビ東京を信用するのは、あのワールドビジネスサテライトに登場する男も女のアナウンサーも決してかわい子ちゃんではないというところである。失礼。

テレビ番外地―東京12チャンネルの奇跡 (新潮新書)
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2010年1月23日

既存メディア情報の非対称性

ちょっと前に書いた小沢幹事長の問題で議論が盛んに行われている。今日も任意聴取が始まったが、あのときに書いたような検察とマスコミに対する批判がにぎやかだ。と言っても当然のようにネットの上だけである。マスコミは自分たちやお仲間の批判は絶対にしないからである。

ですから、ネットで情報を得ることがないひとたち、例えば年寄や主婦などは、新聞とテレビからの情報だけだから、小沢一郎はなんて悪いやつなんだろう、きっとゼネコンからお金をもらっているに違いない、そんなヤツは早く捕まえた方がいいと思っている。

現にうちのばあちゃんなんか、あいつは水戸黄門に出てくる悪代官と同じで、顔も悪いしやっていることも汚いと信じている。民主党の若手が検察のリークがおかしいとか、推定無罪であるべき精神が踏みにじられているとか言ったって、新聞やテレビは否定的でしかない。

どこか、そういう意見もあるといった記事を書くところもあってもいいがどこも書かない。新聞が中立なんてことはないことが証明された。いつも両論を載せるのにこの件に関しては、識者の意見と言っても自分たちに賛成している人だけが登場することになる。

そして、昨日の菅谷さんの再審公判で担当検事は謝罪をしなかった。確かに、その当時の状況から間違った判断をしたわけではないと思うので、気持ちは分からなくはないが、結果として冤罪だったわけだから、一生懸命調べたが結果的に間違っていたので至らなかったことをお詫びしますとなぜ言えないのだろうか。すぐに言ったことを撤回してしまうどこやらの首相は強く非難するなら、頑なに非を認めない検察官もどっちもどっちだから、同じようにマスコミも非難したらどうだろう。

結局、マスコミはえらそうに言ったところで、しょせん勝手に事件を作ってそれで注目を集め、部数と視聴率を稼ぐことが使命だと思っているのだ。情けない。

そういった意味では、ネットはいろいろな意見がある、というか錯綜して存在する。だからといって、諸手を挙げて素晴らしいというわけではもちろんないが、自分とは反対の意見を知ることができるだけでもマスコミにはないよさがある。

このブログを読んでくれている人は、ネットリテラシーが高いのでいいのだけど、そうではない人たちが、マスコミだけから偏った一方的な情報しか得ていないという変形の情報の非対称性に浸かっていることが恐ろしいのである。そうした意味でも、既存のマスコミは解体すべきであり、またこのままであれば自滅していくのではないだろうか。さて小沢問題の出口は?
  

2010年1月24日

IT産業と規模の経済学

一昨日のITproの「針路IT」の記事でソランがITホールディング(ITHD)の傘下に、またエヌジェーケーがNTTデータの傘下に入ったことに関することが書いてあり、そうした動きは、中国やインドの攻勢に対する生き残りのために規模が重要だという認識から来ているとしている。

この記事を書いた編集委員の田中克己さんは、一度お会いして話をしたことがあるが、その時にもそのITHDがインドの対抗として成立したというようなことをおっしゃっていた。多くのITベンダーのトップと会っている方なので、実感として日本のIT企業の危機を訴えています。

ただ、この規模の追求というのは正しいのだろうか。この場合の規模って何のことを言っているのだろうか。会社の大きさ、顧客の数、製品の多さ、従業員の数、いったい何をもって規模といっているのだろうか。

製造業などのような産業では、よく規模の経済学が指向される。特に装置産業のようなところでは、コストにおける設備の大きさと稼働率が支配的であるわけで、単純に言うと総固定費はあまり変わらないので、製品単位当たりの固定費は規模によって変わるから規模が大きければそれが強みになるのである。

ところが、IT産業で同じような理屈があるだろうか。その前に、議論が混乱しないようにIT産業と言ってもカテゴライズをした方がいいのでそうすると、ざっくり3つあって、すなわちソフトウエアプロダクト製造・販売、プラットフォーム・インフラ運用、システム構築・サービスといったところではないでしょうか。

このうち、プラットフォーム・インフラ運用については、先ほど言った装置産業と同じだから同様な規模の経済があてはまる。しかし、現在はネットによるプロダクトのデファクト化やクラウド化により、ワールドワイドでもほんの一握りの企業が主導権を握ってしまった。

では残りの2つのビジネスについてみてみましょう。最初のソフトウエアプロダクト製造・販売は規模が関係ないのはわかりますよね。グローバル規模で使われている商品があるじゃないかと言われますが、これは順序が逆なのです。規模があるから強かったのではなく、強くなれば規模がついてくるということなのです。

さて、システム構築・サービスですが、日本ではこれをSIerと呼んでいて、大小合わせてかなりの数の会社だが存在しています。そこで規模を追求して合従連衡がおきてくるでしょうか。この領域で規模がビジネスを強くできるでしょうか。

ぼくは、この規模拡大という発想ではいま日本のSIerが抱えている問題は解決できないと思います。もし、規模が優位性をもたらすなら、NTTデータがそして他の大手ベンダーが中小規模の会社を淘汰していなくてはいけないはずです。だから、規模ではなくビジネスモデルと業界構造を変えていかなくてはいけないのではないでしょうか。

構造については、この記事にも書かれているように、「大手ITベンダーや一部の大手ソフト会社ばかりに集中する多重下請け構造のために、ユーザー企業から直接案件を受注できるわけではない」という問題を指摘されています。こうした、硬直化した構造を解体して、優れたサービスとビジネスモデルもった“山椒は小粒でもぴりりと辛い”会社が公平に戦っていけるような世界が求められているように思います。

2010年1月25日

業務システムの再定義-まとめ(5)

ビジセスとITを結ぶためのポイント-その1

前回までに、ビジネスとシンクロした業務システム構造イメージと現状の課題を提示したが、これからはどういうコンセプトでシステム構築を検討するのかということを議論しようと思います。その時のキーポイントはプロセスを中心に据えた構造であるということである。

ここが非常に重要であるが、もう少し、他のポイントも含めて、なぜ重要なのか、あるいはどんな点で従来と違っているのかといった切り口で整理していきます。

なお、最初にサブタイトルを「それを実現するためのビジネスアーキテクチャとは」としていましたが、ビジネスアーキテクチャとという言葉もなじみが薄く、定義もあいまいなので、もっと直載に標記のような表現にしました(前のエントリーも修正しました)ので、それについて考えてみたいと思います。

重要な3つのコンセプトは下図のようなものになりますが、それぞれについて掘り下げてみようと思います。
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1.プロセス中心で設計する(Process Oriented)
ビジネスと情報システム(IT)の結びつきを考えるとき、一番大事なことはビジネス構造の“へそ”にあたる業務プロセスを中心に考えていこうということである。この辺りは、もう何回も言っているので、ここでは“どんなことをしたいがため”にプロセスを中心にしたかという視点でみてみる。それはつぎの二つではないだろうか。
(1) 経営とITを同期させたい
(2) ビジネスを可視化したい

ここで経営とITという言い方をしているが、現実的には事業とITという表現の方が適確なよう気がする。事業成果を上げるためのITといったイメージだ。では同期とはいったいどういうことなのか。これは文字通り、ビジネスの動きと同じようにシステムも連動して動くことで、これは可視化や他のこととも関連するのですが、事業、ビジネスとITの間に途切れがないことを言います。

ちょっと分かりにくいと思いますが、逆に今は途切れてしまっていると言った方がいいかもしれません。事業やビジネス活動からの要求をそのまま実装できていないのが実状です。だから、その乖離のために同期がとれていないと言わざるを得ないのです。

2番目の「ビジネスを可視化したい」というのは、いま盛んに言われていることです。ここでも、逆に今見えているものは何かという捉え方をしてみましょう。そのとき重要なのは、時間の考え方で、要するに過去、現在、未来の見え方がどうなのかです。

過去のことしか見えていないように思えるのです。ビジネスの結果でしか事業成果が見えていないことで、これでは“後の祭り”になってしまいます。それよりも今日では、現在のこと、そして未来のことを見える化したいのではないでしょうか。未来のことは、現在と過去のことを前提として、予測するわけだから、重要なのは現在の姿がちゃんと見えていることになると思います。

そして、この現在を見るには、プロセスがなければいけませんし、そのプロセスがどう動いているのかが見えていなくてはなりません。従って、プロセスを中心に置くというは、現在の姿から過去や未来が導かれるという意味で一番重要だからです。

2010年1月26日

自殺する種子

もう半年くらい前に「いのちの食べかた」という映画を観てショックを受けたことがある。この映画では、延々と人工的な食糧生産の風景を映し出していて、ナレーションもセリフもないので恐ろしくなった覚えがある。

「自殺する種子」(安田節子著 平凡社新書)という本を読んで真っ先にその映画のことが浮かんだのである。著者は、市民団体「遺伝子組み換え食品いらない!キャンペーン」を立ち上げた人である。

タイトルの自殺する種子というのは、その遺伝子組み換え技術を使って、その種から育つ作物に結実する第ニ世代の種は自殺してしまうというのである。この技術の名が「ターミネーター・テクノロジー」というのだそうだ。それだけでも恐ろしくなりますね。

なぜこんな技術が登場したかというと、農家が次の季節に備えて種を取り置いても、その種は自殺してしまうので、農家は毎年種を買わなくてはいけないのです。そうなんですね、大企業がそうして自分たちから毎年種を買わせるために開発されたのです。そういう企業をアグロバイオ企業という。代表的なのが、モンサント(米)、デュポン(米)、シンジェンタ(スイス)です。

この話が象徴的ですが、そのほか穀物でもおおくの遺伝子組み換え(GM)品種が出ています。米国から輸入している大豆なんかは多くがGMです。これは、エネルギーに変わる世界的な市場で大もうけをたくらんでいる大企業とアメリカ政府の思惑が絡んでいます。

ぼくは多少科学の力を使って、人々が豊かになるための人工物は認めるのですが、こと食糧に限っては許されないと思っています。なぜかというと、やめるわけにはいかないからです。人間は高いからあるいは危険だからといって食べないでいるわけにはいきません。

そこの弱みを突いて、ビジネスをするというのがたちが悪いと思う。じゃあ、自給自足で対抗すればいいじゃないかと言われるかもしれないが、もはや作り方も知らなくなったり、やろうとすると大量の農薬が必要だったりと自営農業は崩壊しそうなのである。

ただ、狂牛病や鳥インフルエンザの問題などで、ずいぶんと見直し気分がでてきたように思う。少なくとも、日本ではあまりGM食品は受け入れられていないのが幸いだ。豆腐は国産の農家の大豆で作ったやつを食べたいのである。

農業の近代化と称して、それが開発途上国の食糧難を救うがごとく喧伝されてきたが、ほんとうに救ったのだろうか。単に、グローバルアグロバイオ企業を潤わせてきただけではないだろうか。

繰り返すが、食糧についてだけは投機目的で産業化してはいけないと思う。人類共同の資源という観点で捉えてほしいと、この本を読んで改めて感じたのである。ご一読を薦める。
  

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2010年1月27日

Enterprise Ontology

こんなにしびれたセミナーはいつ以来だろうか。昨日、サプライチェーンカウンシル(SCC)のメンバーズミーティングがあった。今回は、「BPM-DAY:BPM実践の課題を探る」と題して開かれ、SCCの他に日本BPM協会、「IT価値と組織」研究会、ビジネスプロセス革新協議会などが連携したイベントでした。

午前の講演はいつも議論していることでもあり、講師も普段会っている人たちなので、午後から参加する。午後は、「IT価値と組織」研究会が主催する「「ひとのつながり」にも目配りするビジネスモデリング」でメインスピーカーは、オランダのデルフト工科大学名誉教授のJan Dietz氏である。彼が確立したDEMO(Design&Engineering Methodology for Organization)について2時間にわたって紹介された。

この方法論は、Ontologyという概念に基づいて開発されたもので、オントロジーというのは、企業活動を捉えるとき、従来のような仕事のつながりを重視することから人間的な側面を見ていこうというもので、観測可能な表層の下に隠れた深層構造がり、もっとそこに焦点をあてる考え方である。

そうした理論と実践について説明してもらったのである。これがまたしびれた。こんなに目をかっとなって聞いた講演はほんと久しぶりだ。セミナーなどでのしびれ方は2通りあって、ひとつは“目からうろこ”でもうひとつが“共感の嵐”である。この講演は後者のケースでぼくがこれまで言ってきたことやってきたこととほぼ軌を同じくした方法論だったのだ。

第一部の理論編は最初が哲学的な話なのでついていくのに苦労したが、実践論に入るとわかるわかる、いちいちうなずいてしまった。これまで、このブログのIT関連の記事を読んでくれている方は認めてくれると思うが、以前から主唱していることを裏付けてくれているように感じているのである。その概念を表している図(ぼくが勝手にコンパクトにまとめた)を次に示す。
ontology.bmp
これをみるとおわかりだと思いますが、Infological(計算や加工といった意味を付与を行う処理)やDatalogical(データ転記のような単純処理)のような活動ではなく、その上流(というかビジネス寄り)にあるOntologicalのレベルでもモデリングが大事であり、そこをきちんとやろうよということを言っています。ぼくが言っているマクロプロセス(フロー)のところです。

長くなるので、ここで一旦切ります。つづきはまたアップします。

2010年1月28日

Enterprise Ontology(つづき)

昨日、モデルの構造を書いた図でDEMO(Design&Engineering Methodology for Organization)の概要がつかめたかと思います。Dietz教授によれば、B-Organizationのレベルで企業活動を記述するとほとんど変わらないプロセスができると言っていました。

そのことも以前から指摘していましたが、その下のレベルでは様々な非定型的な動き、すなわち“調整”活動があるのです。こうして、一段上のレベルで見ていくことによって、従来のフローの複雑さの9割を減らすことができるそうです。9割は大げさかもしれませんが、6,7割は減らせるというのがぼくの実感です。

また、BPMNやUML、ER図による記述についても言及していて、人間系のところが書けないので限界があるとも言っていました。このあたりのことは同じように既存メソッドの限界を指摘していた身にとっては十分理解できるのです。

ここで、前回のOntological aspect modelの三角形をもとに実際のモデリングの方法について、どんな成果物を作ればいいのかという見方で図示したものを掲げる。より具体的でわかりやすいと思います。
ontology2.bmp
ただ、Dietz教授の前に発表していた専修大学の小林教授によれば、DEMOの骨の理論であるLAP(Language/Action Perspective)を作った有名なTerry Winograd スタンフォード大学教授の言として、Ontolpgyを活用したモデリングは現在けっして主流ではないが、そのうち認知されるようになるだろうと予想していると言っていました。

さて、こうしてDietz教授の話をききながら思ったのは、こうした発想あるいは体系化はヨーロッパから生まれてくるのではないかということです。どうもアメリカから生まれるようには思えない。

ステレオタイプ的に言えば、アメリカのITは、自動化や効率化という観点であるから、あの三角形のInfologicalとDatalogicalの領域は得意かもしれないが、Ontologyのところは弱いように思う。人間を無視した「モダンタイムズ」のイメージである。

ですから、これまでの日本のITもアメリカ型の合理化ツールという捉え方ではなく、“人間のつながり”という面を重視したヨーロッパ型の考え方を採り入れた方がいいように思うのである。このヨーロッパ型の考え方は日本に合っているのではないでしょうか。

ですから、この機会にぜひこの考え方を注入した日本発のシステム開発方法論とそれを表現するオペレーションプラットフォーム(DEMOはまだ実装方法ができていないのだ)を創っていくべきなのだが、もうお気づきだと思いますがKailasがそこを実現することをめざした方法論であり実装技術なのです。

オントロジーのオの字も知らなかったのですが、同じようなことをしていたことに自分でも驚いていると同時に意を強くしています。かたや学問的に理論的におさえてきて作られたものでありますが、Kailasは単純で仕事の実相に近付けるモデルを考えた末にたどりついたものです。ただ、目的は同じですからこうなるのは必然のような気もします。
  

2010年1月29日

業務システムの再定義-まとめ(6)

ビジセスとITを結ぶためのポイント-その2

2.オペレーションで成果を出す(Operation Excellence)

オペレーションが大事であるということを言ってもなかなかわかってもらえないところがある。そのことはビジネスとITの乖離を意味していると思う。どういうことかと言うと、使う側の人にとって、システムが威力を発揮するのは、当たり前のようにビジネスとしての結果を残すことであるが、それは優れたオペレーションによってもたらされる比重が高いということである。

作ったシステムがいいか悪いかもあるが、いくらいいシステムでもうまくオペレーションできなかったら何にもならない。クルマの話で言えば、いくらいいクルマを買ったとしても、そのクルマで事故を起こしたらと考えたら何もならないのと同じことだ。クルマを事故なくスムーズに運転するように、システムを動かして成果を上げることが非常に重要なのである。

こうした意味において、ほんとうにオペレーションを考えている人が少ないように思う。SIerと呼ばれる人たちは、基本的に作ってナンボのビジネスをやっているわけで、それなら頼んだ側のユーザに自分たちがオペレーションしていくのだという意識があるだろうか。どうも希薄なような気がするのです。

さて、ここでもなぜオペレーションが重要かという話になります。前と同様に“どんなことをしたいがため”にちゃんとオペレーションしようよと言っているのかである。それは次の二つではないだろうか。

(1) 変化に対する俊敏な対応
(2) プロセスへの責任

今や変化対応力は非常に重要な差別化要因にもなってきています。それを実現するにはITを駆使してプロセスをオペレーションできる環境が必須です。また、従来は受注量だとか売上高のようにビジネスの結果についての責任を議論しがちですが、その途中のなぜそうした結果がでたのかというプロセスに対する責任を見ていくことが求められているのです。

ですから、システムは作っただけでは、変化対応力やプロセス責任といったことまで踏み込めません。従って、システムも誕生してからどう使われて、どう成長していくかというライフサイクルが重要になってくるのです。次に、そのライフサイクルを図示しておきます。
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今の開発というのはそのライフサイクルのごく一部を占めるだけであるにもかかわらず、どうもそこだけに多くのリソースを投入しているように思えます。ここはユーザが早く気がついて、もっと声を大きくして言うべきだと思います。
  

2010年1月30日

マルタのやさしい刺繍

この題名から皆さんはどんな映画を想像しますか?2007年度アカデミー賞外国語賞のスイス代表作品である「マルタのやさしい刺繍」(ベティナ・オベルリ監督)は、スイスの小さな山村に住む80歳のマルタという名の老女が主人公の映画である。

こういう設定だと、やさしいおばあちゃんの心あたたまる物語と思うでしょう。ところが、そんなありきたりのものからかなりかけ離れた非常にユニークで楽しいストーリーなのである。

マルタは、最愛の夫に先立たれて9カ月、元気なく過ごしていたが、ある時かつて持っていた刺繍の腕を見込まれその村の団旗の繕いを頼まれる。そこで、若かりし頃のことを思い出し、その時抱いていた夢を実現しようと発起するのである。

その夢はなんとランジェリー・ショップを開くことだった。ところが、旧い体質が染みついた山村では、異端扱いで、牧師の息子からも恥だとののしられる。そこであきらめないのがこのおばあちゃんのすごいところで、3人の友達と一緒になって店をオープンしてしまう。

このマルタの夢へのチャレンジがその女友達をも目覚めさせて、一人は体が不自由な夫を病院に送迎するために自動車免許をとり、もう一人は、老人ホームで男の友達をつくり、インターネットに挑戦するのである。

こうして、老人たちが既成概念を壊すように新しいことをしているの対し、その子供世代の若い男たちの保守的で伝統を守ることを第一義とする姿とを対比させている。通常は逆に年寄が若者の変革意欲の壁になっているのがよくあるパターンであるが、この話は反対なのである。

この痛快な展開はほほえましく、思わずスクリーンの向こうの老女たちにガンバレと叫んでしまう。それとともに、美しいスイスの山々や花、そして民族衣装とそこに縫い付けら得た刺繍、アップルパイとキルッシュ酒をたしなむ生活と多くのシーンでほっとする気分を味わうことができる。

日本も高齢化社会の先進国だが、老いても夢を失わないで生きることがどんなに楽しいのかと思い知らせれ、日本の田舎でもこんな生活をする人たちが増えてくればいいなあと思ってしまう、そんないい映画である。

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2010年1月31日

ジャック・当たり

ジャック・アタリというフランスの経済学者がいる。これまでの、ソ連崩壊、金融バブル、新たなテロの脅威、インターネットによる世界変化を予測し、見事に的中させてきたという。初代欧州復興開発銀行総裁をつとめた人である。

別にこの人を信奉しているわけではないが、先日、新聞に記事が出ていて、もし彼が言っていることが“当たり”だったら、日本の進むべき道もそう暗いこともないのではないかと思ったのである。

これからの重要な技術力を4つ提示していた。
①ナノテクノロジー、②脳科学、④バイオテクノロジー、④IT

これを見ると、ITを除いて日本の得意とする技術である。これらはかなり先端を行っていると思う。残念ながらITについては、日本は先進ではない。

そして同時に経済成長をするにはどういった要素が必要かについても言っていて、次の5つをあげている。
①技術、②貯蓄、③人口、④起業家、⑤欠乏

でこれらを日本の現状に当てはめてみると、技術は最初に言った通り、日本にはいいものがあるし、貯蓄は国家があてにするほど豊富にある。(まてよ、それは個人貯蓄だから、国家は借金なのでどうなんだろう?)

さて、それから先になると心もとなくなってくる。少子化は止まらないし、起業家は育たないし、現状肯定派が増えている現状は困ったものだ。ということは、日本の停滞は当然の帰結なのだろうか。

でこうしてみると、何となく日本経済の病に対する処方箋が浮かんできませんか。
・IT技術の振興
・労働生産性の向上と60歳以上の人たちの労働人口への参加
・ある程度の失敗を許容する起業家育成風土の醸成
・上昇志向の芽をつまない雇用の流動性の確保

これはりっぱな「成長戦略」になりそうですが、「労働なき富」はいかんと言っておきながら、働かなくても子ども手当をもらえる政策を打つ民主党では、考えられないかもしれませんね。
  

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