情報システムの世界は、最近のSOAとかモジュール化みたいに分けて考えるというのがはやっている。境界をひいて、それぞれを独立させて、それらをつなぎ合わせるといったことである。
そんな意見とは対立するようなことを言っている福岡伸一ハカセの「世界は分けてもわからない」(講談社現代新書)を読む。最初は、視線とは何かとか、ランゲルハンス島とか、「ラグーンハンティング」の謎とか、ES細胞の話だとかがでてくるのだが、なんだかよくわからない。
ただ、福岡ハカセの類まれなる文章力で、徐々に福岡ワールドに引き込まれていく。その序章で言っていることは、「今見ている視野の一歩外の世界は、視野内部の世界と均一に連続している保証はどこにもないのである」ということ。
そしてさらに、面白い話で、鼻はどこまでが鼻かと問いかけて、もし外科医のメスが鼻を取り出そうとしたとき、どこまで切ったら終わるのだろうか。結局、嗅覚という機能を切り出すために、身体全体を取り出してくるしかないことに気づかされるという。
部分とは部分の幻想であるということである。人間の身体というのは、たった一個の受精卵から出発した細胞の連続的なバリエーションだけであって、ここで存在と呼ばれるものは、部品という物質そのものではなく、動的な平衡とその効果でしかないのだという。
ここから、がんウィルスは細胞に何をもたらすかの研究で画期的な発見をしたといわれた、スペクターとラッカーの仕事が実はねつ造であったという話に続く。見えることと見えないこと。見たいことと見えたと思いこむこと、そんなことを考えさせられた。
つぎに掲げるこの本の最後の文章がすべてを言い表しているように思う。
この世界のあらゆる因子は、互いに他を律し、あるいは相補している。物質・エネルギー・情報をやりとりしている。そのやりとりには、ある瞬間だけを捉えてみると、供し手と受け手があるように見える。しかし、その微分を解き、次の瞬間を見ると、原因と結果は逆転している。あるいは、また別の平衡を求めて動いている。つまり、この世界には、ほんとうの意味での因果関係と呼ぶべきものは存在しない。 世界は分けないことにはわからない。しかし、世界は分けてもわからないのである。そして、ぼくは最初の情報システムのことを思う。そこで対立的なことを言っていると書いたが、実はそうではないことがわかる。情報システムというのは、実世界を写像しているわけだし、組織は人間の身体と同じようにも考えられる。となると、福岡ハカセが言っている“動的平衡”ということに触発されずにはいられない。
どうもこれまでの情報システムは、“静的平衡”でできているように思える。SOAにしても分けただけで、動的に動かすという意識が希薄に思える。このあたりはまた別の機会に書くとして、さすが福岡ハカセの本はおもしろいものばかりだ。
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「人は自分が見たいと思ったものしか見ない」とカエサルは言った
本質を伝えることは難しい
神話を紡ぐ詩人のように
科学系読み物として面白かった
スキャンダルがお好き!
