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2009年10月 アーカイブ

2009年10月 1日

夜の浅草

一昨日は、2か月ぶりのオヤコ例会で下の息子と吞み会。場所は浅草の「飯田屋」でどぜう料理である。息子はどじょうがどんなものであるかは知っていると思うが、初めて食べるという。

ぼくらの世代だと田んぼでどじょうと取ってきて、一晩泥を吐かせて柳川にして食べたなんていう経験はあると思うが、近頃は都会では田んぼも少なくなってきて、どじょうも見かける機会がないのだろう。

このあいだぼくの弟と一緒に呑んだ時、このどじょう取りの話が出て、夜中にカンテラを下げて、どじょうが寝ているところを竿の先につけた細い針のくしで刺して捕まえたというのを鮮明に覚えていて、二人で盛り上がったのです。

さて、そのどぜうの方は、息子が初めてということだったので”まる”はきついかと思い、骨抜きのどじょう鍋と柳川、それとから揚げ、おさけのつまみに鮪ぬたを頼む。ビールと日本酒でほろ酔いながら江戸情緒を楽しむ。

そのあとは、雷門の方に行き、そこから仲見世通りをとおり浅草寺へ。もう夜の9時を過ぎていたので人はほとんどいない。いつも、参拝客でにぎわった時しか行ったことがなかったので、こんな静かな浅草寺は違った所にきてしまった感じである。もちろん、こんな浅草寺もいいものだ。

そのあとは、恒例の銀座「M」でハイボール。ここでの面白話をひとつ。女性バーテンダーのKちゃんが、うちの息子に男と女を見分けて便座カバーをあげたりあげなかったりできるのってあるんだってと聞く。息子は某便器メーカーに勤めているのでそういう質問をした。

そんなものがあるわけないじゃんということに収まったのだが、そのあと次回の例会をどうしようかということになり、そうだニューハーフのショーを見ながら呑むというのがいいということになった。で、そのときすかさず、ニューハーフが便器の前にたったら、便座は半分あがって止まるのかなあ。みんなで大笑いである。

あと、帰ろうと思ったら「公安捜査」シリーズの著者の浜田文人さんが登場。もう席を立ったところだったので、ひとこと声をかけただけで帰る。息子はまたもやママから翌日の朝ごはんをもらっていた。

ということで、息子はどぜうと夜の浅草寺と便座と浜田さんと朝飯でたいそう感激した夜であったようだ。

2009年10月 2日

巨視眼

ちょっと前に「日本人はどこまで減るか」(古田隆彦著 幻冬舎新書)で人口増減を非常に長いスパンでみてみると、大きな波があって今もその中にいるというような話を書いた。

この論拠は巨視的な眼で概観することと統計的な手法をもってはじき出している。実証的ではないためにこうした手法を嫌う人もいるが、必ずしも論理で割り切れる世界ではないというか、むしろそんなことはごくまれだ。

ご承知のように経済学だって、法学だって、医学だってみな臨床的にやるしかないのだ。経営学なんてその最たるもので、「ビジネスインサイト」を書いた石井教授が面白いことを言っていた。

経営学者も、「実際の経営に役に立ちたい」という気持ちはある。だが、ここのところであえて言わせてもらえば、私を含めて多くの学者は、自分の所説が経営の実務に直接的にすぐに役に立つとは思っていないというのが正直なところである。良きにつけ悪しきにつけ、学者のクライアントは実務家ではなく学者なのである。

ですから、マクロ視点で統計的に見ていくというのは、仮説を提示してくれているわけで、それが正しいとかということではなく、そういう見方もあるんだという態度であたることだと思う。

この巨視眼というものを持っていると、いわゆる近視眼的な見方とどこが違ってくるのだろうか。僕はそれは、“捨てることができること“と“ブレないこと”だと思う。そのために一旦引いて俯瞰したらいいのだと言いたいのだ。

大きくみると何を捨てて何を得るのかということがわかってくる。そうでないとつまらないことや必要ないことにこだわってしまう。そして、先までのことを考えているからブレることがないのだ。

ぼくはサッカーが好きなのでサッカーのたとえでいうと、サッカー監督の必要な能力に「ゲ―ムプランニング力」があると思う。これのことである。捨てることとブレないことが大事だとわかるのですが、試合中ずっとがむしゃらに突っ込むわけにはいかない。どこかで何かを捨てないと勝てないのだ。もちろんブレたら選手はついてこない。

囲碁の布石と四隅の死活の話はしつこいのでしないが、鳥の眼でものごとを見ることは絶対必要なのである。
 

 

2009年10月 3日

学校で学ぶこと

いま、若い子が経営しているベンチャー企業と一緒にビジネスをやることで検討を行っている。彼らのサービス提供プロセスを弊社が開発した「Kailas」というフレームワークを使ってシステム化すると同時に、新規サービスの創出や運用などを一緒になってやろうということにしている。

このあたりの話はまた改めて書きますが、ここで言いたいのは、彼らのビジネスに対する構えや思考プロセスのことである。先日も、ぼくとうちの社長(息子)と相手の社長および共同創業者の4人でブレインストーミングを行ったのですが、頭が柔らかいし、一方で押さえるべきところはきちんと押さえているのには感心した。

ぼく以外の3人は、同じ大学でほぼ歳が一緒なのでまだ27,8歳なのだが、おそらく大きな会社に入って、上から指示されたことをやっているだけの同年輩の子たちとはだいぶ違うように思う。

よくそうは言っても、経験を積むことが大事だという。だから「10年は泥のように働け」というような経営者もいたりする。今や将来の希望もなくなりつつある大企業で泥のように働こうと思っている人は少ないのではないでしょうか。

これまでは、泥のように働くことが将来のポストや処遇を約束されていたが、もはやそんなことはないし、だいいちその泥のように働いたことは、その会社にとってだけ生かされる固有なものでスタンダードとはかけ離れてしまっていたりする。

ですから、別に学生からいきなり起業するのもぜんぜん問題ないと思っている。ただ、やみくもに会社を作ったってだめなことは当然で、それができるための基礎的な心構えとスキルが必要だ。そこを間違わないようにしないといけない。意欲と体力だけあっても無理だし、いい技術があるからだけでも難しい。

では、そうした基礎的な心構えとスキルって何なのだろうか。それは、無知の自覚というか、いつも何かを知ることに貪欲で、それを入れ込むひきだしをもっていることと、何かを生み出すための思考プロセスをからだで知っていることではないかと思う。

そうした知のストックとフローのスキルをバランスよく持っていれば、どんどん起業したらいいと思う。しかしながらそこで思うのは、こうしたことを学校で教えてくれているのだろうかということである。

上で言っていることは、知識を詰め込むだけではないというのはお分かりだと思う。少なくとも、受動的ではなく能動的だし、固定的ではなく機動的ですよね。そしていつも進化し成長していくイメージです。こうしたことは学校では教えてくれない。

しかしながら、中にはこのあたりをきちんと教えてくれるところもある。それが、いま付き合っている子たちが学んだところで、何を知ったらいいのか、それを知るためにあるいは生み出すためにどういうプロセスでやったらいいかを教えてもらっている。

今の大学でありがちなのは、ノーベル賞学者を育てるわけでもないのに、ただ単にアカデミックなことを教えているとか、産学協同といってビジネス実務やモノつくりを教えたりする。そうしたものは必要ではあるが、それよりも、世の中で生きていくために必要なコアコンピテンシーであるコンセプトの作り方とか思考プロセス、デザイン発想などをきちんと教えた方がいいと思うのである。
 


2009年10月 4日

ジャーマン+雨

先週、ぼくの映画の友達S君と横浜で呑んだ。S君は高校のサッカー部で一緒だったが、3年くらい前に会って話していたら、映画好きだということが判明し、それから時々映画談義をする。ただ、S君は半端でないほどよく観ているので、いつも面白そうな作品を推奨してもらっている。

そして、先週の話で、彼が最近単館系というか、名画座みたいなところでやる作品にのめっていると言っていた。ぼくは、だいたい日比谷シャンテには行くが、横浜「ジャック&ベティ」や渋谷「UPLINK」、はたまた中野「ポレポレ」まで出てきてびっくりする。

そんなこと思い出しながら「ジャーマン+雨」を観る。監督が女流の横浜聡子で、これが劇場初公開作だそうだ。自主映画の世界で認められてということらしい。だから低予算でまだまだ自主映画っぽい作品だ。松本人志の「しんぼる」もこうやってでてくればいいのだ。

で、こうした映画を観てどうなんだということなのだが、うーん正直言ってついていくのが大変だ。ストーリーは、不細工で学校にもいかず、植木職人になっている16歳の少女が主人公で、コピーに「トラウマなんてクソくらえ!」とあるように、バイタリティある生き方を描いている。

若い人には受けているようだが、ぼくも若かったら多分評価しているし、面白がったと思う。でも今はなかなか受け付けないところがある。これが老いるということなんだろうと思う。たぶん、尖ったところを同じ立ち位置で感じられなくなるからだろう。

しかし、それでいいと思う。尖ったまま歳をとるのもいいけど滑稽になることもある。むしろ、若いころ尖ってなかったらうまく丸くなれないよくらいの気持ちで若い人を見るのが老人の役回りだろう。

映画から離れて老人論になってしまったが、ついていけないと言いながらもところどころに面白いところがあって、憂歌団と一緒のステージで唄いたいとか、くみ取りやのオヤジが出てきたり、マンホールに落ちる瞬間とかは楽しませてくれる。
 

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2009年10月 5日

業務システムの再定義-会社を動かすための仕組みと仕掛け(1)

業務システムはITだけではない

前回までは、「会社は何をしているのか」ということで、会社の組織や機能について議論してきた。そのとき、PDCを回すための構造ということと、意思決定を行うためのプロセスというような話をした。

この構造とプロセスというのは人間の体にたとえると骨格と血流のようなものだと考えている。形は骨で作られていて、活動は血流により行われている。臓器や脳は機能であり、会社では組織というふうに考えられる。

こうした会社としてやろうとしていることを実現してあげるのが業務システムである。そう会社を動かす仕組みと仕掛けこそ業務システムと呼ばれるものでしょう。この場合、業務システムは別にコンピュータを使うことを意味していない。むしろ、全部をコンピュータでやれるということはあり得ないのである。

そうであれば、まずはその仕組みと仕掛けはどうなっているのだろうか、あるいはどういう風に作ったらいいのだろうかというアプローチが正しいことがわかると思います。それを、この時点ですぐにコンピュータシステムはどうするのかというところに持って行ってしまう。これがいま開発者側の最大の誤謬であると思う。

そして、おわかりのようにそのシステムというのは、人間とITが融合した形でできています。この融合ということを考えたとき、どちらが主役であるかということが重要なポイントになります。言うまでもなく、人間が主役であるのですが、意外とそこがわかっていない人がいます。

人間が主役ということは、組織や人間が仕事がしやすいように、いい仕事ができるように、早く仕事ができるように、気持ちよく仕事ができるように、時にはITも使いながらできる仕組みと仕掛けを提供することです。

繰り返すが、この視点を忘れないようにしなくてはいけない。IT導入が仕事がしにくくなったり、ITに使われてしまうようなことにならないことに留意することが大事です。ですから、場合によっては、IT化しない方が効率的であるということもありえるわけです。



2009年10月 6日

戦争の日本近現代史

「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」という本が売れているそうだ。買おうと思ったが近所の本屋になかったので同じ著者の「戦争の日本近現代史」(加藤陽子著 講談社現代新書)を買って読む。

この本でも同じような切り口だと思うが、為政者や国民が、どうして「だから戦争にうったえなければならなかったか」、あるいは「戦争はやむをえなかった」という感覚になったのかを問うている。

この設定はかなり面白く期待を抱かせる。その対象となる戦争は、10年ごとに行われた日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦、そして、満州事変、日中戦争、太平洋戦争である。こうして並べてみると、日本という国はよく戦争をしてきたものだ。

これらの戦争で最も関係したのは中国である。直接対決した日清、満州事変、日中戦争ももちろんそうだが、日露も第1次世界大戦も太平洋戦争も中国抜きには考えられない。中国での権益を得るためにロシアや米国と戦った一面がある。

そして、最初のどうして為政者も国民も戦争に走ったのだろうかという問いかけに戻るが、その答えがなかなかつかめない。もうちょっとわかりやすく整理してくれるといいのだが。日清戦争のころのことだと、まだ、「日清戦争」(佐谷眞木人著 講談社現代新書)のほうが、メディアを持ち込んで論説してわかりやすい。

しかし、いずれにしても戦争遂行のある種の熱狂がもたらす恐ろしさは今でも続いているのではないかと思ってしまう。いまだから、そんな論理はおかしいじゃないかと言えるのだが、その時点ではだれも声高に異をとなえられなかったのだろう。

結局、どうも日清戦争により誕生した「国民国家システム」がその後の戦争へつながっていったと考えられる。近代的な国民国家に生まれ変わった日本の国民であることが意識され、そこへ奉仕することに誇りを抱く人々が誕生したときに長い戦争時代への突入を約束してしまったかのようだ。

さて、それから半世紀以上もたって、10年ごとに繰り返した戦争もなくなり、中国との関係も劇的に変わった現在、戦争という事象は起こりえるのだろうか。
 

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2009年10月 7日

学びたいから教えてもらう

ちょっと前に、「学校で学ぶこと」という記事を書いたが、そこではどんなことを教えるべきだという内容であった。でそれを書いていて思ったのは、学校で教えるというが、それは先生側あるいは社会の論理であるが、教えられる方はどうなんだという視点でも見た方がいい。

教えてもらうということは学びたいからそうしたいという関係性で成り立っているはずである。しかし、このことがなかなか実現されていないのではないかということと、逆に学びたいと思ったときに教えてもらうことの有効性を思うのである。実例を二つ。

前者ははずかしいが自分の例である。ぼくは中学・高校では上の学校にあがるために勉強したし、大学では勉強をしなかった。

むしろ、小学校の時が本当の勉強をしたのかもしれない。ぼくは理科少年だったから、右手にファーブル昆虫記、左手に牧野富太郎の植物図鑑を持って野山を歩き回っていた。それは純粋に見るモノ触るモノが初めてで一体これは何なのかを知るという行為だったのだ。それが楽しい。

一方、大学は正直ほとんど勉強をしなかった。それは、ぼくだけではなかったように思う。偏見が入っているかもしれないが、当時の気分は大学を卒業すると会社に入らなくてはいけないので、それまでは遊んでいたいだったのではないだろうか。

もちろん学生運動という嵐のあとの空虚さもあったのだが、たとえは飛躍するが、軍隊に入るまえに思いっきり遊んでおこうといった心情に近い。でも、それはそれで安定した生活を保障してくれたから許したことなのかもしれない。

こんな学ぼうともしない学生に教えてもむだと思ったのかどうかしらないが、授業は面白くなかった。ずいぶんと無為な時間の使い方でもったいなかったと今でも思う。

次の話はまたもや以前に紹介した「ビジネスインサイト」という中ででてくる話である。そこに著者の同僚であった加護野忠男から聞いたという「松下幸之助と本田宗一郎と中内功の共通点は何か」の答えである「実業に就いてから、学校に通った」ということについてである。

三人とも社会に出て自分の仕事に一生懸命に励んでいる時期に学校に通ったという。それはなぜかというと、トーヨーサッシの創業者の潮田健次郎が言った「普通のひとは、大学の先生は実務を知らないから、空理空論で役に立たないというが、それは逆で、学者は普遍的に話すから、私にとって応用が利きやすい」ということではないでしょうか。

この例は、実務に秀でるほど学びたくなり、学ぶほど実務も秀でてくるのだろう。このように学びたいから教えてくださいという関係がすごく大事だし、本当に学問がしみこんでいくのだろう。

こんなことを朝飯を食べながら社長と話していたら、社長も高校の時は部活とバンドと学校行事であまり勉強してなかったようで、いまなら数学と歴史を勉強したいと言いだした。たしかに対極的な学問だけど両方ともすごく重要だと思う。
 

2009年10月 8日

業務システムの再定義-会社を動かすための仕組みと仕掛け(2)

業務システムはストックとフロー

前回は、業務システムはITだけでできるわけではなく、ITをうまく使い人間が主役の仕組みと仕掛けをつくらなくていけないということを議論した。

今回は、その業務システムはどんなかたちになっているのだろうかという話です。前回、会社は骨格と血流でできていると書いたが、ちょっとこれでは抽象的なのでもう少し具体的に見ていこうということです。

ここで、まだ抽象的で恐縮ですが、“ストックとフロー”という話をします。どうも「仕組み=システム」は、ストックとフローから成り立っているように思うのです。人間もシステムとすれば、骨格(+筋肉+細胞)がストックで血流(+神経+リンパ)がフローという風にいえないこともない。

会社のヒト・モノ・カネ・情報だが、それもストックとフローという面をもっている。人材、設備、資金、データベースなどがストックと呼ばれるもので、それらを動かす、人事、運転、販売、購買、売上、情報共有などがフローとなります。

こうなると、だいぶイメージがわいてくると思いますが、ストックというのは、まずはマスタデータが浮かんでくると思います。このマスタは、会社がビジネス活動を行うために必要な資源、すなわち駆動源です。商品、取引先、従業員、設備などのデータをいいます。

ところで、ビジネス活動をするためのものではなく、ビジネス活動を行った結果もストックと呼んでもいいのです。この結果を蓄積してデータベース化し、次の活動に生かすというのは、前に言ったPDCのCの部分、あるいはCからAへの重要な機能です。

次はフローですが、これはストックを使って、あるいはストックを動かしてビジネス上の成果をあげることです。ここが業務プロセスと呼ばれるものです。人を適正に配置することでプロセスを管理し、設備を効率的に動かすことで早く安く製品を作り、優良顧客を開拓して販売するといった活動です。

もうひとつ、フローという観点から見落とされがちなのは、ストックの管理プロセスです。近頃マスタ管理システムのようなものが出てくるようになりましたが、それに限らず、他の駆動源としてのストック、活動実績としてのストック、さらに暗黙知のような非ITのデータも含めて、これらの情報管理プロセスもきちんと整備しておくことが大事です。
 

2009年10月 9日

南極料理人

以前、テレビの情熱大陸に堺雅人が出ていて、南極料理人という映画の撮影をしていたことと、そのあと実際の南極料理人の篠原洋一さんが出演していたのが記憶にあって、映画「南極料理人」を観たいと思ってでかける。

この映画は、原作が西村淳の「面白南極料理人」というエッセーで監督が沖田修一。そんなに期待しないで行ったら、これが予想外に面白かった。題名ですぐにわかるように南極観測隊に付いていく料理人の目を通して隊員たちとその生活を描いたものである。

南極基地といっても昭和基地ではなく「ドームふじ基地」というところで、そこに8人の男たちが放り込まれる。平均気温マイナス57度Cという極寒での生活である。その中で繰り広げられる主に食についてのエピソードが笑える。

隣で観ていたオバちゃんがゲラゲラ笑うものだからこちらも思わずもらい笑いをする。出演している個性的な8人の俳優さんがそれぞれの役柄を見事に演じている。演出もなかなかのもので、エンドロールのところの映像なんて洒落ていて感心した。こういう映画は好きだなあ。

人によっては、劇的なこともなく普通のことを描いていてどこがおもしろいのかと言うかもしれないが、その閉鎖空間の中は普通の感覚での劇的なことなんておこらないが、ちょっとしたことが彼らにとっては劇的なのである。

なぜ、こんなことを言うかというと、ぼくもこれと似たような生活をしたことがあるからである。そりゃあスケールがぜんぜん違うけど、30数年前に中国に石油化学プラントの技術指導に行ったときに味わった生活がこんな感じだったのだ。

当時の中国は、やっと日本と国交が成立したばかりで、まだ文化大革命が終わっていなかった。そんな情勢だから、ぼくたち10数人の日本人たちは招待所という宿舎に閉じ込められて、その招待所の周囲1kmの外には出ることができなかったのだ。

正確にいえば、2週間に1回マイクロバスで北京市内につれて行ってくれたが、それ以外はやることがない。だから映画でも出てきたが、仲間同士で麻雀をやって、ピンポンやビリヤードで時たまソフトボールで汗を流した。

で、やはり楽しみは食べることになる。3食とも招待所で食事をするのだが、もちろん基本は中国料理である。ところがさすが中国の料理人で、日本人の好みの味に合わせてくれておいしいのだ。メニューもいつも3種類くらい用意してくれるので好きなものが選べる。

ところが、さすがに毎日だとあきるので、たまにすき焼きをしたりそれこそ映画じゃないがラーメンを食べたりした。そして、これも映画にも登場するように、いつの間にかみんが集まるバーができて、毎夜そこで酒宴である。

だから、ぼくたちは、3か月と少しだけだったが、もうまったくもって映画に出てくるシーンがすごくよくわかる。ずいぶん昔のことを懐かしく思い出させてくれた映画であった。

2009年10月10日

天才は冬に生まれる

脳神経学の専門医で物理工学でも著名な中田力が書いた「天才は冬に生まれる」(光文社新書)を読む。このタイトルだけだと、天才というものは冬に生まれていて、その他の季節に生まれたものはいない、そしてそれがなぜかを脳科学的に解きほぐしてくれるような誤解をする。

そうではない。歴史を塗り変えるような大天才たちをたどっていくと、偶然にもみな冬に生まれていた。しかし、多少は理屈をつけてみたというお話である。だって、その理屈というのは、

大脳チップがきちんと作られているかは、その構造が作られていく環境が、どれだけ適切な熱対流を起こす環境として整えられているかで決定される。 冬に生まれる人達の胎生期の脳は、より良い熱対流の環境に置かれているのかもしれない。

このくらいしか書いていないのだ。これもおかしくて、北半球で生まれたひとと南半球で生まれた人の違いはどうなっちゃうのだろう。でもそれだからといって、中身がどうのということではない。中身には関係ないのであって、そうなるとタイトルにつけ方が悪い。

この本に登場する天才は、ニュートン、コペルニクス、ガリレオ、アインシュタイン、ハイゼンベルク、ラマヌジャン、ノイマン、ホーキングらである。どれをとっても大天才であることはだれもが認めるだろう。

それでも、これら大天才の中でも違いがあるのだ。それこそ及びもしなことを思いつく「コペルニクス的転回」思考の持ち主コペルニクスに対して、ガリレオやニュートンは実証的だという。そして、数学の真の天才は、ラマヌジャンだという。このひと、ちゃんと数学の勉強をしたことがなく、ほんとうに直感だけで公式を発見している。

さて、天才は冬に生まれるのかと考えると、わが家では、おもしろいことに家族4人の誕生日は春夏秋冬に分かれているが、上の息子(社長)が12月生まれで冬なのだ。そうか、やはり社長は天才なのだ。

しかし、ぼくは理系で疑い深いので、ノーベル賞の受賞者の生年月日を調べてみた。天才ということだと、ノーベル物理学賞だろうと思い、1901年のレントゲンから2008年の南部、益川、小林までの182名の誕生月を書き出した。どうなったと思いますか?

12月~2月までを冬としてみると、実はいちばん少ないのだ。少ないといっても、いちばん多い夏が50人に対して39人だから、有意差はないといえる。なーんだ、天才は冬に生まれない。いや普通の天才はそうかもしれないが、大天才は冬に生まれるのかもしれない。


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2009年10月11日

楽しくないサッカー

昨日のキリンカップのスコットランド戦は2-0で日本代表が勝利したが、どう評しようかと思ったら“楽しくないなあ”という言葉がでてきた。いい試合とか面白い試合とかいう表現はよくでてくるのだが、昨日の試合はどうもそうではなかった。

おそらく、試合をやっていた選手も楽しくなかったのではないだろうか。相手のスコットランドの選手も同じような思いだと思う。最初の点がオウンゴールだったから言っているわけではない。

サッカーの試合って勝ち負けの前に楽しくできるかどうかというのがある。イメージ通りにできたというのもあるし、リズムやテンポが合っていたり、“いいノリ”でサッカーができることだ。これが楽しいのである。

どうも昨日の試合は見ている方もやっている選手もその点で物足りなかったのではないだろうか。これは相手によることがあって、スコットランドができが悪かったことも一因かもしれない。本来なら日本より上だから、もっと攻めてもいいのに主力がいなかったせいか、全然迫力がないし、ミスも目立ったひどいサッカーをしていた。それにつられたのかもしれない。

この試合では、ほとんどが普段出ていない控え中心だったの仕方がないのかもしれないが、連携と、一体感がない。パスを受けてから、次の出し先を考えるから、スピードがまるで感じられない。

昨日出た中での注目は、森本、本田、石川、岩政あたりだろうが、本田はやっぱり今の日本代表には不向きだ。岩政はセンターバックの控えでいけるし、石川は先発ではなくて、点を取りに行く後半に出てきての、その独特のリズムとスピードは武器になりそうだ。

森本はきっとマスコミにちやほやされると思うが、どうだろうか。これまでも何人かの“すごい”ストライカーが登場したけど、いつのまにか”日本のストライカー”になってしまうので、そうならないように願っている。まだまだ評価がかたまっていなし、若いので伸びしろがあるので見守っていきたいと思う。
 

2009年10月12日

女の子ものがたり

そういえば、アメリカングラフィティとかスタンドバイミーのような旅立ちの映画で描かれるのは男の子の場合が多い。この映画はその女の子版ということになる。森岡利行監督作品「女の子ものがたり」は、漫画家西原理恵子の自伝を映画化したものである。

愛媛県とおぼしき田舎で育った今や女流漫画家となった主人公が、二人の女友達と過ごした日々を振り返りながら物語は進む。ただ単に田舎でそれぞれが夢をみて、それを実現すべく旅立っていくという展開ではなく、それなりの地位を獲得した漫画家がスランプに陥っているところから始まるのだ。

その少女時代を振り返ることでスランプからぬけだしてゆくのだが、これは男でも女でも一緒だと思うが、苦いけどせつなく、何よりも純な気持ちを思い出すと背筋がしゃんとなってくるのだろう。

映画を観ながら自分の少年時代をどうしてもかぶせてしまう。ぼくらの少年時代は今は都会になってしまったが、その当時は田舎だったので、その雰囲気は似たところがあって、貧乏な子もいて、でもみんな一生懸命であった。

最初は女の子の映画だからということでちょっと躊躇したが観てよかった。けっこう感動した。深津絵里がラストのバスの中で見せる表情がなんともいえぬいい顔をしていた。他の子役の女の子も含めて女優さんたちもよかったですよ。

2009年10月13日

新聞休刊日という奇怪

今日は、新聞休刊日である。ぼくは、朝飯を食べながらざっと眺める程度の見方なのでそれほど影響はないのだが、うちのばあちゃんは毎日舐めるように見るので困った顔をしていた。

しかし、昔から思っていたのはなぜ新聞休刊日があるのだろうかということである。ところが、最近はそんなことより、新聞社の都合でしゃあしゃあと休むことに腹がたつ。コンビニをはじめ、年中無休のサービスが常識になっているのに、ある程度の即時性を求められている新聞が休んでどうするんだ。

テレビやラジオ、はたまたインターネットが祝日の翌日は休みますとなったらどうなると思いますか。やっぱ、どう考えてもおかしいし、読者をばかにしている。しかもみな足並みをそろえて休むなんて気持ち悪い。

昔は独占的だったからみんながまんしてきたが、いまやネットでニュースや多くの情報に触れることができるようになったのだから、これだけをとっても、新聞の衰退が加速されていくように思う。新聞には顧客満足度の向上という言葉がないのだろう。

久しぶりの「はらたち日記」です。
 

業務システムの再定義-会社を動かすための仕組みと仕掛け(3)

構造化された業務システム

さて、業務システムの概観をいくぶん抽象的な表現で見てきましたが、ここではシステム的な観点を中心に考えてみます。

システムは大きくどういうものからなりたっているのでしょうか。前回にも少しふれていますが、プロセス・データ・機能・ルールから構成されていると考えています。この中で機能というがわかりにくいかもしれませんが、簡単にユーザインターフェースと思ってもらっていいかと思います。何かアクションを行うための仕掛けですね。

そして、重要なのはこれらを独立させることです。従来はこれらが一体になって作られたりしています。従って、データやルールが重複し、保守地獄に陥ったりしていました。最近のようなビジネス環境の早い変化に対する変更が大変だということはすぐおわかりだと思います。

ですから、独立したプロセス・データ・機能・ルールをコンポーネント化して、標準的なAPIで取り合うことが大事です。これをSOAというのかどうか知りませんが、必要に応じて、あるいは変化に対応して、すぐに取り換えるイメージになります。こうした構造化が大事なのです。

こうしておくと、システムはどんな作りになるでしょうか。まず、何を中心に考えていったらよいでしょうか。今はプロセスを中心に考えてみたらどうかということを提案しています。データ中心や機能中心(パッケージや手組はこれだと思う)はもう限界ではないかと思っています。

ただし、プロセス中心というと全部プロセスがあればできてしまうというような話ではもちろんありません。まず最初にプロセスを定義したらと言っているのです。仕事はどういう流れで成り立っているのかをプロセスを書くことで把握します。

そして、このプロセスを回すために何が必要かと考えるわけです。そのためには、データを参照します、ルールが要ります、機能を使いますということです。そのプロセスを回した結果としてデータを生成するのです。

ですから、みな大事な要素なのですが、どういう順序でシステムを考えていったらいいのかという話です。次回から、その中心となる業務プロセスについて議論していきます。
 

2009年10月15日

パススピード

昨日のサッカーキリンカップのトーゴ戦はやる気のない相手に5点とった。強い相手になったらこんなことにはならないが、かなり形が見えてきたように思う。それはアーリークロスと言っていたが、相手陣深くえぐるまでいかないでも早めに斜め前でもクロスをあげるというプレーだ。

これは日本のようなチームには武器になる。それには、動き出しの早さをもったフォワードがいて、そことの息の合った連係ができるパサーがいることで成立するが、日本代表はそういった選手を集めているからである。

岡田監督は、このプレーを指向したかったはずだ。それがやっと浸透してきたのではないだろうか。それは今回のように合宿で徹底的に磨くことができたからだろう。ただ同じことが、世界の一流国相手にやれるかというのが課題だ。

ここで、すごく重要な点がある。それは、点を入れた岡崎の動きとか、そこにパスを出した遠藤、両中村、長友などのパスは素晴らしかったが、そのパススピードのことである。

パスというのは、精度を言われることが多いが、それもさることながら、現代サッカーではパスのスピードが問われる。特に、日本のようなスピード重視のゲームを行うチームにとっては、非常に大事なことになる。

そのことについて、中田英寿が語った言葉が印象的だ。昨日の試合のことで言ったのではなく、スペインのバルセロナのことである。初めて生でバルサの試合を見て、このチームのやり方は、日本代表が目指すことと同じだと言ったのである。

そのときの、キープレイヤーとして中盤のシャビとイニエスタをあげ、彼らが素晴らしいのは、インサイドキックの多用と正確さだと言ったのである。さすが、ヒデの慧眼である。ほんとヒデはサッカーのことをよく分かっている。インサイドキックは基本中の基本である。ぼくは高校時代に顧問の先生から徹底的の教えられたのはこのことである。

今はこのインサイドキックの重要さを知らない選手が多いように思う。なぜ重要かというと、早くて正確なパスはインサイドキックでしかできないからだ。いやインステップの方が早いボールが蹴れるといわれるかもしれないが、早いというのは単にボールスピードだけではない。

蹴る動作のスピードも必要なのである。足もとに収まったらすぐに、あるいはダイレクトで蹴るには、インサイドキックなのである。これが、できることが、日本の目指すサッカーができる前提となる。それができるようになってきたということなのだ。

森本や本田が注目されるが、大事なポイントはそんなところにあるのではなく、インサイドキックで早くて低いパスが出せる、そしてそれを受けられるプレーがキーポイントなのであり、来年の本番までにどれだけグレードアップが図れるかである。
 

2009年10月16日

業務システムの再定義-業務プロセス(1)

業務プロセスの定義

ここからはフローに焦点をあて業務プロセスについて考えていきます。まずは、業務プロセスの定義になるが、ここはまだ定まったものがない。だから、人によってその解釈もまちまちである。ここは「イノベーションの新時代」(C・K・プラハラード著)に出てくる定義を載せます。

①業務プロセスをできるかぎり広く定義すると、「一連のステップを実行して、特定の成果、あるいは互いに関連するいくつかの成果を生み出す活動」となる。

②業務プロセスとは、特定の顧客あるいは顧客層に向けて、具体的な製品やサービスを提供するための、互いに関連する体系的な活動の集まり、あるいは連続するいくつもの事象を指す。

③商売上の成果をあげるための手法を、業務プロセスと呼ぶ。業務プロセスはみな、投入と産出、手順の実行に先立って投入を用意し、決まった手順に沿ってそれに手を加えると、一定の算出が得られる。

④関係者が力を合わせながら、顧客に価値をもたらすために活発に展開する、さまざまな処理や取引など一揃いの活動。

⑤特定の顧客や市場に向けて具体的な成果を生み出すための、きまりに沿った体系的な諸活動である。つまり、順番に沿いながら、さまざまな場所で時間をかけて行われる一連の仕事を意味する。

みな微妙に違っている。それはこの本にも書いてあるが、人によって関心の対象が異なるからだ。業務運営の立場の人、BPRから見る人、コンピュータからの見方、組織行動として考える人など、それぞれで定義も変わってくる。

ということは、ケースバイケースで考えていいということであり、これでなくてはいけないという一義的なものではないということである。ただ、上の例でもわかるように③を除いて共通の言葉があって、それは「ビジネス上の成果をあげるための一連の活動」ということである。一方、③は手法と言っている。

おそらくこのようにビジネス活動とそれを実行する手法に大きく分かれるような気がする。さらに、その中でも、ビジネス活動といっても、戦略やビジネスモデルを含んだものから、単に決まった手順で行う業務処理まで広くある。

手法といっても、業務を行うためのプロセスの形そのものを指したり、プラットフォームのようなとらえ方もある。

結局、両方を加味したようなとらえ方が現実的であろう。ただし、ビジネス活動では、戦略やビジネスモデルまでを包含すると広げすぎで、手法では詳細なワークフローのようなものまで入れるとこれまた広げすぎのような気がする。

少し狭めた形で定義して、業務運営をしている人にとっては、「柔軟で効率的な業務プロセスを使って、ビジネスの成果を生み出す活動を行うこと」であり、システムサイドからみると「ビジネスの成果を生み出す活動を行うために、柔軟で効率的な業務プロセスを動かすこと」でいいのではないでしょうか。

まずはこの違いを認識してください。たとえばBPMの議論などでここを混同することがよくあるので、ときどきかみ合わないことがあるのですが、往々にしてあるのはこの相違によるものです。

2009年10月17日

007/慰めの報酬

ジェームス・ボンドは昔から好きでよく見ていた。ダニエル・クレイグの前作「カジノ・ロワイヤル」がよかったので、「007/慰めの報酬」も期待して観た。

監督がチョコレートのマーク・フォスターで前作と替っている。結果は、期待通りとはいかない普通のできになっていた。

アクションは陸海空の乗り物を使って派手にやっているのだが、ただそれだけで終わってしまった。緊迫したかけひきとか、謎解きとか、心理戦とかそんなものはどうでもよくて、ひたすら暴れまわるし、人を殺すのだ。こんなやたらに人を殺すジェームス・ボンドはやめてくれと叫びたくなった。だから後味が悪い。

このシリーズも第1作の「ドクター・ノウ」が1962年だから、それから50年近くたつわけで、時代もずいぶんと変わってしまい、当時はまだ東西冷戦の盛りだから、イギリス秘密情報部といっても存在感があったが、今は何してるの?という感じになってしまう。

だから物語も、ボリビアの地で資源の利権争いのような設定で迫力がない。しかし、この設定は皮肉になっている。環境保護を隠れ蓑に暗躍するブローカーが出てくる。いまや、環境が金になるのかもしれない。ここは現代的なのだ。

ボンドガールにしても存在感が薄い。昔はもっとワクワクして観ていたように思うが、何もかもが小粒になったように感じる。あっと驚くようなことがない。アストンマーチンから何が飛び出すかと胸躍らせたのに、いまや暴走族まがいの運転だけだ。

ちょっと辛口になったが、ダニエル・クレイグのボンド役もショーン・コネリーから数えて6代目だが、何かもう少しひねらないとどんどんじり貧になってしまうように思えてくる。

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    • 3 前作を超えられず
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2009年10月18日

世界は分けてもわからない

情報システムの世界は、最近のSOAとかモジュール化みたいに分けて考えるというのがはやっている。境界をひいて、それぞれを独立させて、それらをつなぎ合わせるといったことである。

そんな意見とは対立するようなことを言っている福岡伸一ハカセの「世界は分けてもわからない」(講談社現代新書)を読む。最初は、視線とは何かとか、ランゲルハンス島とか、「ラグーンハンティング」の謎とか、ES細胞の話だとかがでてくるのだが、なんだかよくわからない。

ただ、福岡ハカセの類まれなる文章力で、徐々に福岡ワールドに引き込まれていく。その序章で言っていることは、「今見ている視野の一歩外の世界は、視野内部の世界と均一に連続している保証はどこにもないのである」ということ。

そしてさらに、面白い話で、鼻はどこまでが鼻かと問いかけて、もし外科医のメスが鼻を取り出そうとしたとき、どこまで切ったら終わるのだろうか。結局、嗅覚という機能を切り出すために、身体全体を取り出してくるしかないことに気づかされるという。

部分とは部分の幻想であるということである。人間の身体というのは、たった一個の受精卵から出発した細胞の連続的なバリエーションだけであって、ここで存在と呼ばれるものは、部品という物質そのものではなく、動的な平衡とその効果でしかないのだという。

ここから、がんウィルスは細胞に何をもたらすかの研究で画期的な発見をしたといわれた、スペクターとラッカーの仕事が実はねつ造であったという話に続く。見えることと見えないこと。見たいことと見えたと思いこむこと、そんなことを考えさせられた。

つぎに掲げるこの本の最後の文章がすべてを言い表しているように思う。

この世界のあらゆる因子は、互いに他を律し、あるいは相補している。物質・エネルギー・情報をやりとりしている。そのやりとりには、ある瞬間だけを捉えてみると、供し手と受け手があるように見える。しかし、その微分を解き、次の瞬間を見ると、原因と結果は逆転している。あるいは、また別の平衡を求めて動いている。つまり、この世界には、ほんとうの意味での因果関係と呼ぶべきものは存在しない。 世界は分けないことにはわからない。しかし、世界は分けてもわからないのである。
そして、ぼくは最初の情報システムのことを思う。そこで対立的なことを言っていると書いたが、実はそうではないことがわかる。情報システムというのは、実世界を写像しているわけだし、組織は人間の身体と同じようにも考えられる。となると、福岡ハカセが言っている“動的平衡”ということに触発されずにはいられない。

どうもこれまでの情報システムは、“静的平衡”でできているように思える。SOAにしても分けただけで、動的に動かすという意識が希薄に思える。このあたりはまた別の機会に書くとして、さすが福岡ハカセの本はおもしろいものばかりだ。
 

世界は分けてもわからない (講談社現代新書)
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2009年10月19日

セミナーに出ます

先日、マジカジャパンの羽生さんのところに行ったら、今度セミナーをやるのでそこで「Kailas」の紹介をしてくれということになった。羽生さんの会社は、以前はスターロジックという名前だったが、今年の7月に社名もマジカジャパンに変えて、業務フローに特化することになった。

マジカというのは、自分の仕事を紙のカードに書いて貼ったりしながら業務フローを作成するためのツールです。世の中に小難しく高価なソフトウエアはありますが、そうしたものを使えばちゃんと業務フローが書けるというわけではありません。その点、マジカは実践的で、業務を簡単に整理でき、見える化できるものです。

弊社ワディットで開発した「Kailas」は、業務フローが書ければ、それをできるだけそのままで実装し、動かしてしまおうというフレームワークですから、マジカで書いたものをベースに業務アプリケーションを構築するという技法を提示しようと思っています。

もし興味のある方がいらっしゃいましたら、ぜひ参加してみてください。福岡県大野城市の事例などもあっておもしろいですよ。

日時    :2009年11月9日(月) 開場10:00 開演10:30 終了16:00
参加費   :5,000円(税込)
定員    :50名(先着順)
場所    :すみだ産業会館 会議室4 (丸井錦糸町店と同じビルの9階です)
詳細    :セミナー案内

 

2009年10月20日

業務システムの再定義-業務プロセス(2)

業務プロセスの二面

前回、業務プロセスの定義を行ったとき、ビジネス側からの見方とシステム側の見方で定義のポイントの置き方が違うということを議論した。すなわち、ビジネス活動と捉えるか、業務プロセスシステムと捉えるかである。

このことは、別段業務プロセスに限ったことではなく、ビジネスとITについて回る問題である。そして、これは対立する概念でも何ともなく、融合させるべきことなのだが、時として、争点になったりする。

こうした議論がなぜ生じるかは、既成の業務システムにおいて、ビジネス側とシステム側の意図と合致したものが必ずしもできていないことに起因している。だから、業務システムとはこういうものだという定義が相反しているわけでもないのに、結果的に対立してしまう。

ここで、原点に帰って考えてみると、何のために業務システムがあるのかという問題設定に対して、あたりまえにビジネスありきですと答えているのだろうか。そうであれば、これはまた、あたりまえにビジネス要求、業務機能をそのまま実装してあげなくてはいけない。

ビジネス側が、ビジネス上の成果をあげるためにこういう活動をしたいという要求があったら、システム側が、それを実現するための業務システム(業務プロセスより広い)はこうしましょうという関係ができていなくてはいけない。

どうもそこで相互不信がおきているようにも思える。システム屋は思ったようなものを作ってくれない、ビジネス屋はちゃんと要求を定義してくれないというわけである。本来は行き着くところは同じでそこを別のアプローチで到達するという協力的関係性を必要とするはずだ。

結局、業務プロセスは要求サイドからの定義と構築サイドからの定義という二面性があるが、それらは対立概念ではなく、お互いに乗り入れしながら、協同的プロジェクトとして作られていかなくてはならない。それをトップダウンアプローチとボトムアップアプローチと呼んでもいいが、どこかで出会うことが重要なことである。
 

2009年10月21日

何もしなくていい怖さ

ちょっと前に、衝突しない自動車を開発しているという話を聞いた。これは自動運転ということなので、人間が余計なことをしない方がいいことになる。機械がちゃんと安全に運転してあげるから、それに身を任せればいいのだと言っているようだ。

それを聞いていて気持ち悪くなった。それって、行き着くところ電車じゃんと思える。だから、そんなことを研究して何になるのだと思ってしまう。

それとともに、車が自動的に何でもしてくれるということがはたして安全なことなのだろうか。このことに関して社長が、オートマとマニュアルの違いのことを言っていた。社長はマニュアル車が好きで、そればかり乗っていたが、いまの車はぼくと共用だからオートマにしている。それでも、全くのオートマではなくてシフトチェンジも付いているやつだ。

それで、オートマで運転する方がマニュアル車より危険だというのだ。オートマだと何もしないから眠くなるし、集中力が欠けるというのだ。確かに、マニュアルで運転しているときは自分が車を操っているという感覚がある。

要は、そこのところの限界を超えていけないのではないだろうか。自分が操っていることから逆に乗せられている、あるいは運ばれているという感じになったらまずいだろう。

これはひろくシステムのオペレーションの問題にも通じる。システム化するのもいいが、どんどん自動化が進み、そこで何が起こっているのかわからない、わかってもどうコントロールしていいのかわからないということが起こっていやしないだろうか。

あくまで、システムは人間が使いこなすという位置関係は守らなくてはいけない。だから、もっと反自動化という観点でシステムを眺めてみることも必要ではないだろうか。
 

2009年10月22日

業務システムの再定義-業務プロセス(3)

業務プロセスの種類

ここからは、業務プロセスの種類について考えてみます。以前にこのブログでも書いたことがあるので、かなり重複しますが、流れ上必要なのでご容赦のほどを。

業務プロセスにはどんなものがあるのかを考えるには、企業におけるビジネス活動のタイプという見方で分けたらいいと思います。その3つは次のようなものです。

1)マネジメントプロセス(経営プロセス)
2)クリエーションプロセス(創造プロセス)
3)オペレーションプロセス(作業プロセス)

1)のプロセスは経営判断やリソース配分を行うものです。リソース配分というのは主に人材配置や事業ポートフォリオを指しています。経営者の重要な職務はこれで、乱暴に言うと、将棋指しが戦法を考え、それに従って駒を動かすようなものです。

このプロセスは、プロセスと言ってもかなりアドホックなもので定型化しにくい。ですから、システムに求められる機能はフローよりも意志決定に必要な情報をいかに選別して鮮度よく提供できるかになります。

クリエーションプロセスは文字通り創造的な活動を行うプロセスです。わかりやすいのは研究開発における新製品や技術の開発プロセスです。それ以外にも戦略立案なんかもこちらに含まれますし、顧客開発やプロモーション、あるいは建設などもこれにあたります。

システム的には、ターゲット決め、それを達成するためのプロセスをどうするかというアプローチになります。仮説検証型のプロセスですね。多くは、プロジェクト的な動きになりますが、だからといってプロセスがなくなるわけではありません。時間的なスパンが長くなるだけで基本的な考え方は同じでいいと思います。

一方、オペレーションプロセスは、ターゲットが設定されているのではなく、主として依頼があってそれに応える形でプロセスが動くというふうに考えられます。ですから、問題解決型ということになります。

よく言われる業務プロセスはほとんどがこのタイプです。このプロセスは、効率性と顧客満足度が重要な評価指標になります。お客さん(この場合、外部の顧客だけではなく、内部も含めて)の要望をよく吟味して、それに対する的確な答えを迅速に返してあげることが大事になります。

ただ、このオペレーションプロセスのシステムはそれだけではなくもっと重要な役目があります。それは、ビジネスの変化によってそのプロセスを素早く変更できるかどうかです。これについてはまた後述していきます。
 

2009年10月23日

ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~

太宰治の生誕100年だそうだ。その太宰の作品「ヴィヨンの妻」が根岸吉太郎の手によって映画化された。モントリオール映画祭で最優秀監督賞を受賞したそうだが、何しろ太宰なのだから日本的な雰囲気の映画だと思っていたから、受賞は意外な感じがした。

ところが、映画はそうした日本の固有性はそう感じられなかったのである。浅野忠信演じる太宰と思わせる詩人の太田は、嫉妬深く、最低の男に描かれる。一方、松たか子のその妻佐知は、そんな夫に愛想を尽かすこともなく献身的に尽す。そして、何といってもそんな男と女でありながら、なぜか二人ともよくもてるのだ。

この映画は、題名のように妻が主人公だ。佐知は夫以外の2人の違った男から愛される。しかし、どうしようもなくだらしがない夫なのに他の男に変えるわけではなく、けなげに寄り添う。

そこで、この佐知を演じた松たか子について書く。佐知という女は、非常に貧乏な家の子で、あるとき好きな男のために万引きをしてしまう。そこにちょうど居合わせた太田に、その時の警官に対する応対ぶりを気に入られ結婚する。

ぼくは、かつてから松たか子は貧乏人を演じるのに不適な女優のひとりと思っていたから、似つかわしくないと単純に思ったが、この映画ではそうではなかったのだ。

なぜかと言うと、この佐知という女性はどんなひどい仕打ちをされようが、旦那が他の女と寝ようが、温かいまなざしを失わない“聖母”みたいな存在だからである。そうです、聖母は貧乏とかそういった次元を超えているわけです。

あの終戦直後にあんなふっくらした血色のいい貧乏くさくない女がいたとは思えないというツッコミもこれまた的外れなのである。だって、聖母だからである。ということで松たか子のヴィヨンの妻ははまり役であったと思うのである。

それにしても、もうどうにもならないような男がよくもてることがある。ぼくみたいに完璧な男(笑)がもてなくて、どうして女の敵のような男がもてるのだろうか。男と女の関係はいつの時代もどこの国も変わらないし、よくわからないということなのだろう。
 

2009年10月24日

使える!経済学の考え方

巷では経済学者と称する輩が、さもわかったような口ぶりで経済を論じている。そういう論旨を聞くにつけ、経済学が本当に役に立っているのかという疑問がわいてくることが多い。

そうした思いに到る多くの場合に感じるのは、個人的な思いやこうあるべきだというある種イデオロギー的な言説である。だから、そうした人たちの論争は終わることなしに不毛なわめきに聞こえてきて、何のために経済学があるのかという根源的な問題から遠ざかってしまうように思える。

そんな気持ちを抱いていた時に、「使える!経済学の考え方」(小島寛之著 ちくま新書)に出会った。この本の副題が、「みんなをより幸せにする論理」であることからわかるように、みんなの幸せを探る経済学であることと、情緒的でない論理的なものとして考えようという趣旨で非常に興味を抱かせるものであった。

そして、その幸せへのアプローチとして次のようなことが提示されている。

・幸福をどう考えるか
・公平をどう考えるか
・自由をどう考えるか
・平等をどう考えるか
・正義をどう考えるか

そしてこれらを数学的な論理で解明していくことに著者の真骨頂があり、本書の特徴である。数学という究極の“乾いた”論理性を使って、経済を分析していくという手法には感心させられる。昔、経済学部に入るには数学が必要だと聞いていたが、金融工学みたいな分野ではわかるのだが、ほかではどのように使われるのかがあまりよくわかっていなかったのがやっとわかった。

「幸福」、「平等」、「公正」、「自由」、「安定」といったものがすべて成立するのがいちばん望ましいが、そんなことは絶対にありえない。ところが、そのすべてを望む人たちがいたり、できるという幻想を抱いている能天気な人たちがいたりする。

これをトレードオフというが、こちらを立てればあちらが立たずである。自由と平等、公正と自由がぶつかり合うなんてことはしょっちゅうあるのであり、その中でより幸せに近いものを合理的に選択するという態度が重要なのである。

数学的な論理をもってして経済を考えるという説得性のあるアプローチを知ることができ、大変に有用な本であった。ぜひご一読を薦めます。
 

使える!経済学の考え方―みんなをより幸せにするための論理 (ちくま新書 807)
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2009年10月25日

居酒屋にて

こんな風なタイトルだと、何にやらおつな記事でも書くのかと思われるがそうではない。またもや「はらたち日記」なのである。怒りの光景がこれだ。

先週、東京に出たが、夜の約束が急にキャンセルになってしまったので、しかたなしにちょっと呑んで帰ろうと思いすぐそばにあった居酒屋に入った。ひとりだったのでカウンターに陣取ったのだが、その前に大きな水槽があった。中にアジが10匹くらい、タイが5匹、カレイが1匹泳いでいる。

よくある光景であるが、それをながめつつ酒を呑んでいたのだが、驚いたのは、そう15分くらいしたら、一匹のアジが苦しそうに腹を上にしだした。そうしたら、徐々に他の魚もそんな状態になってくる。もう何匹もあえぎだしている。

水槽はもちろんエアーが吹き込まれてぶくぶくやっている。それをずっと眺めているぼくもぼくだが、結局1時間くらいいた間にアジ5匹、タイが1匹ほとんど死んだ状態になってしまって水面近くに浮いてしまった。カレイは底に沈んでいるので、しかも背も腹もわからないので、生死は不明だ。

これはどういうことなのだ。もう死にかかった状態で水槽に入れたのか、ずっと入れっぱなしだったのだろうか。この死んだ魚を活き造りといって出すのだろうか。それより、お客さんの前でこんな光景を見せてどう思っているのだろうか。

その横で、注文をもらった店員が大きな、しかし誠意のない声で「はい!喜んで」とやたら叫んでいる。そんなことを見ていたら、だいぶ前に同じ居酒屋チェーンの別の店でこれまた不愉快な思いをさせられたことを思い出した。

それは同じようにカウンターに座ったとき、前にいる板前さんと、ぼくが座っているところの後ろにあったレジにいる男の店員がぼくの頭越しに会話を始めたのだ。それが、業務上のことであればまだ許せるが、今度の休みに遊びにいこうよというような私的な話が頭の上を飛び交う。すぐに終わるかと思っていたらなかなかやめない。ほんと腹が立ったので「ヤメロ!」と怒鳴ったことがある。

どうして、この居酒屋チェーンはつぶれないのだろうか。謎だ。
 

2009年10月26日

業務システムの再定義-業務プロセス(4)

業務プロセスと組織

業務システムは組織を表現しているともいえると考えています。特にその中の業務プロセスは最も組織と密接な関係にあります。ここで少し注意しなくてはいけないのは、そう言うと、組織に合わせてあるいは組織が活動しやすいように業務プロセスを配備するというふうに考える人がいますが、それは逆です。

業務プロセスありきから出発すべきだと思っています。企業のビジネス活動を行うためにはまずはその業務プロセスをデザインし、その業務プロセスが効率的に回るためのITの仕組みや組織や関係先とのネットワークなどを配備します。ですから、業務プロセスというものが非常に重要な位置を占めるのです。

そして、業務プロセスをデザインしたら、どのプロセスをどこの組織でオペレーションさせるか、その結果の責任を誰に担わせるのかということを考えることが必要になってきます。ですから、プロセスの切り方と組織の対応付けがちゃんとできていることが大事なのです。

実はここのところの考え方についての議論が乏しいように感じています。業務プロセスを書いたはいいが、それがあちこちの組織をまたがったものになり、いったいこのプロセス全体を誰が責任を持っているのかがあいまいになってしまう可能性があります。

なぜそういうことがおきるのかというとプロセスのレベルが細かくなっているか、粗いものと混在しているかです。BPMではスイムレーンというものを書きますが、いくつものレーンがあって、それを行き来するフローを書くことがあります。これでは、プロセスの責任の所在がはっきりしないということになりかねません。

とうことは、組織の階層化と対になったような業務プロセスの階層化が非常に重要な要件になると考えています。すなわち、管理する対象が階層化されているわけで、たとえばマクロレベルのプロセスについては、事業部長や部長が責任を負うが、その下のミクロレベルのプロセスについては、課長やグループリーダが責任をもつというイメージです。

冒頭に業務システムは組織を表現しているというのはこういうことを言っています。表裏一体となった関係です。見える化しなくてはいけないとか簡単にいう人がいますが、単にプロセスが書けただけではだめで、そのプロセスの責任も伴った見える化ということが必要なのです。

このプロセスの階層化と切り方という縦横の定義がキーになることがおわかりになったでしょうか。逆に、上述のような考え方に従って定義していけば比較的簡単にできそうだとは思いませんか。具体的には、後で議論していきます。
 

2009年10月27日

秋の富士山

今朝の富士山はくっきりと見えて美しい。
山の上の方はもうすっかり雪化粧だ。秋本番といったところである。

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チェ 39歳 別れの手紙

「CHEチェ 28歳の革命」に続く「チェ 39歳 別れの手紙」を観る。前作は、カストロと一緒に成就したキューバ革命を描いているが、この作品はその後のゲバラを追ったものである。

活動の場所は南米ボリビアである。そこで、革命運動を指揮する姿を撮った映画である。ゲバラのゲリラ戦術は山の中に入り込み、少人数で奇襲を仕掛けるというもので、そのとき農民を味方にして、戦闘を展開するのである。このゲリラ戦というのをぼくらは新鮮なことばとして聞いた記憶がある。

ただ、この戦法もその当時のボリビアでは、農民の参画もなく孤立していき、捕えられて銃殺されてしまう。キューバで成功を収め、一躍世界の寵児になったのだから、キューバで安穏と暮らせばいいのに、やはり根っからの革命家だったのだろう。

映画は、その山の中でのゲリラの組織化や訓練を映し出しながら、徐々に死へ到るまでを物静かに描いている。前作もそうだったが、この戦闘までに至る部分の単調さは、人によっては退屈になってしまうだろう。だが、ぼくにとっては、そういえばチェ・ゲバラという革命家がかつていたなあという確認作業であったので、それほど退屈ではなかった。

やはり、最後の銃殺されるシーンは、胸にジーンとくるものであった。今言ったようにぼくらの年代のものにとっては、ゲバラはある意味英雄であったわけで、ぼくは、このボリビアでの活動を記した「ゲバラ日記」(いろいろな出版社から出ていたが、ぼくはみすず書房のものを)をむさぼるようにして読んだ記憶がある。

だから、映画がどうのというより、その当時の自分との対比で感動をくれた映画であった。ゲバラの遺体がヘリコプターで運ばれるのを見ながら思わず涙が止まらなかった。
 

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2009年10月28日

業務システムの再定義-閑話休題(1)

バーナードの組織論

これから、このシリーズで論旨と直接関係ないが、ちょっと横道にそれてみたいということについて、「閑話休題」として書くことにする。

古今東西で経営論や組織論について議論が戦わされているが、それと企業の情報システムとの関連性についてはあまり論じられていないように感じる。なぜなのかはよく分からないが、組織とシステムは表裏一体の関係であるといったとき、そうした組織論をシステムに反映することは大事なことのように思う。

これから、業務プロセスの本質は何かという話として、サイモンの意思決定プロセスが出てくるが、そのサイモンに影響を与えたバーナードの経営理論についても言及しておこう。

チェスター・バーナードは、アメリカの電話会社の社長だった人で、彼の理論では、組織を「孤立した人間の集団ではなく相互に影響を及ぼし合いながら成立する体系(システム)」ととらえている。そのために必要な組織の3要素を、「共通目的」、「協働意欲(貢献意欲)」、「コミュニケーション(伝達)」であると規定している。

すなわち、メンバー間で相互に協力しあいながら活動するための共通の目的が存在しなくてはいけなくて、それがメンバーの合意が得られたものであることである。

そして、この共通目的を達成しようとする意欲が協働意欲(貢献意欲)である。これを維持するために、組織は、金銭的・物的誘因とともに社会的あるいは心理的誘因を、メンバーに対して十分に供与することが必要となる

最後のコミュニケーションは、前の共通目的と協同意欲とを統合する役割がある。意志決定や命令の伝達を適切に行い、個々人の意欲を共通目的を達成するための活動と結び付けなければいけない。

この3要素がうまく均衡がとれた状態であることが組織の成立条件なのである。そう考えてみると、これらの要件を満足させるための情報システムでなければならないと思うのである。

共通目的というのは経営方針や戦略から導き出されるとしても、協同意欲、コミュニケーションという要件では、そうしたことが実現できる場として情報システムを提示できているのだろうか。

単に、計算機の延長、データ登録・レポート出力のためのシステムにとどまってやしないだろうか。コンピュータそのものから発想していくとそうなってしまうと思う。

もっと、経営論、組織論からみて、いい経営をする、いいビジネス成果をあげる、いい組織を維持するにはどういった体系(システム)が適正なのかを考え、それを具現するための情報システムを構築するこということが求められているのではないだろうか。
 

2009年10月29日

囲碁と馬刺しと血液型

何の関連もない三題話である。この間ひとり「M」で呑んでいたら、すごく久しぶりに囲碁の女流棋士のミーちゃんに遭遇する。ミーちゃんはもう亡くなってしまった作家のドクター永井明につれてこられた子で、今は30代半ばだが、永井先生に囲碁を教えていたのだ。

大会に優勝したといって、トロフィーを持ってきた。みんなでおめでとうと乾杯である。これがまず囲碁の話である。

そうしたら突然馬のレバー刺しを食べてことがあるかと聞かれる。何でも、数日前に熊本に囲碁の大会があって行ったときに、それを食べたという。でうまかったという話から、その店で出会った無粋な社長とおぼしきおじさんの話題に移る。

ミーちゃんが馬刺しを食べていたら、よく食べられるねえといちゃもんをつける。どうしてそんなことを言うかと食ってかかると、あんなかわいい目をした生き物を食べるかときた。それには、ミーちゃんぶち切れて女のことは思えない啖呵を切った。東京ならいざ知らず熊本でそんなことを言うやつはトンデモナイと怒ったのである。

最後は血液型の話であるが、ミーちゃんが来る前に常連のSさんと、ちょうど血液型のことを話していたので、その延長でミーちゃんに囲碁の強い人はA型で将棋の強いのはB型であるという自説を披露して、それでミーちゃんは何型と聞いたらA型であると返ってくるではないか。

ところが、ミーちゃん曰く、私はA型だけど強いのはO型の人が多いと言われてしまった。ありゃあ。そしたら、ついでに言った定住型のインディアンはみなA型で放浪型のジプシーがみなB型であるというこれまた自説を言ったら、マスタにインディアンはみなO型だよと軽く言われてしまった。ありゃあ。というわけで、血液型ネタはこれから使わないことにする。

さて、付録の面白い話を。囲碁がアフリカで、将棋が欧米で普及しない理由はなんでしょう。答えは、囲碁は白と黒だからです。強い方が白ということが嫌われるのです。

では将棋はどうでしょう。チェスがあるからとも言われますが、そのチェスとの違いに答えがあります。その違いはみなさん知っていると思いますが、チェスは捕った駒は2度と使えないのに将棋はまた使えることです。これがいかんのだ。戦争でたたきのめしてもまた生き返る日本の姿を思い浮かべるのだそうだ。

それ以外にも面白ばなし満載で、これまたすごく楽しい夜であった。
 

2009年10月30日

業務システムの再定義-業務プロセス(5)

業務プロセスのライフサイクル

業務プロセスにはライフサイクルがあります。ただし、業務プロセス開発のライフサイクルではありませんし、システムそのもののライフサイクルとも違います。ライフサイクルというと生まれてから死ぬまでといった短絡的なとらえ方をすることがありますが、もう少し、途中経過を注目したいと思います。

往々にして、情報システムを作るというと、システム開発を主眼に置くのが常のような気がします。システム開発プロジェクトを編成して大々的に始め、システムを構築したらはい終了ですということになっていないだろうか。

特にSIベンダーを入れてやるとこうした傾向が強いでしょう。SIベンダーはシステムを作ることがミッションですから、それが最大の関心事で、作られたあとどういうふうに使われているかは極端な話どうでもいいわけで、とりあえず動いてくれればいいということになります。

ユーザから見れば、最終的にはその仕組みでビジネス上の成果をあげることですから、作ったあとが問題なのです。どうもそのあたりの軸足の置き方がまだまだおかしいような気がします。これは、SIベンダーの問題ではなくユーザ側の意識の問題だと思います。

さて、業務プロセスのライフサイクルはどういう形態なのでしょうか。生まれるのは、もちろんビジネス上の要求からです。経営戦略を実行したい、こういう改革をしたい、競争に勝ちたいとかいった様々な要求を実現する仕組みと仕掛けを考えるわけです。それが出発点です。

そして、そのための設計を行い、その設計に従って開発していきますが、この開発という言葉が曲者で、ビジネスを開発するわけではありませんし、では業務プロセスを開発するのかというと、むしろそれは設計の問題であって、開発段階の話ではありません。ですから、システム開発というより、システム構築といったほうが的確なように思います。

いや、新しいプログラムを開発しますと言う人がいますが、そこをはき違えてはいけません。ビジネス上の要請でプロジェクト段階でプログラム開発してくれとは言っていません。

ちょっと話がそれたので元に戻すと、業務プロセスのライフサイクルで重要なのは、構築後のことで、出来上がったシステムを運用していかなくてはいけません。これも誤解しないようにしてもらいたいのですが、システムの運用ではなく、業務アプリケーションの運用です。このプロセス制御を伴った運用(オペレーション)が非常に重要になります。

このオペレーションのイメージは、プロセスがアクティビティという要素のつながりであるとして、そのアクティビティを早く適正に処理しするよう制御し、効率的プロセス活動を行うことです。そして、その進捗管理や成果の評価を行い、プロセスの改善を行っていくことになります。これが、継続的なスパイラルアップを実現していくわけです。

従来、ついついシステム開発に目が行きがちですが、そこは単なる序章ですから、そのあとの業務オペレーションを優れたものにするという取組が必要になるのです。
 

2009年10月31日

沈まぬ太陽

3時間22分という長尺で途中に休憩があるという作品「沈まぬ太陽」(若松節朗監督)は、退屈はしなかったが、感動もしなかった。

原作は同名の山崎豊子の小説である。山崎本は「大地の子」「不毛地帯」「二つの祖国」とこの「沈まぬ太陽」を読んだが、評価の順もこの順番で「沈まぬ太陽」は、本でもそれほど感動したわけではない。むしろ、他の作品と較べてもあまり評価していない。

これらの作品は、フィクションではあるが、実際の人物やできごとをなぞっているので、読者はンノンフィクションであるかのような錯覚をもたらす。「沈まぬ太陽」の主人公恩地元のモデルとなったのは元日本航空の労働組合委員長で望まない海外勤務という仕打ちを受けた小倉寛太郎で、日航ジャンボ機墜落事故での遺族への対応や会長に送り込まれた鐘紡の伊藤淳二社長との社内改革の話などが展開される。

ところが恐ろしいのは、主人公を美化するために事実を曲げてしまい、人物も単純な正邪の設定にすることで、そこでリアリティがなくなってしまい、作り話の世界になる。だから、映画も観ていてだんだんああ作り話だと思えてしらけてくる。

例えば、御巣鷹山の遺族に対するやさしい心を持った男が、アフリカ象を撃ち殺す。1社員が日航の会長に直接会いに行くとか、主人公のまわりの人間は、時代劇じゃないが、みな悪代官よろしく悪だくみばかりしている。

だいいち、この恩地元という人物がわからない。みんな渡辺謙の熱演もあってか素晴らしい人物だと思っているようだが、左遷させられて勤務に追いやられていやだったら会社辞めればいいじゃんと思ってしまう。というか、こいつ何しに会社に入ったのだろうか。

まあ今のご時世とは違って、滅私奉公的な会社観があったので、簡単に会社を辞めることは憚られる風潮はあったにしても、彼の会社に入って目指したものは何だったのだ。まさか、労働組合でストをして会社を困らせることではないだろう。その会社に経営者になって立派な会社にしたかったのか、単に給料をもらいたかったのか。その志がさっぱりわからない。

そんなことを考えていたら、どうもこのモデルになった人物は、プロの活動家だったようだ。だから、そんな人物が会社へ入って、その会社をいい会社にしたいなんか思っていないわけで、組合運動をしかっただけなのだ。そういう人物をモデルにして小説にしているから、相当な無理があるのだ。

折しも、問題の日航がらみの映画だから注目されるだろうが、その懸案の一つに8つもある労働組合がある。そして、それは時の経営者の思惑と絡み合った結果であるが、そのために過度の労働条件の引き上げを招き、なぜ結果的に高労務コストを招いたかがよくわかる。労使ともに問題だったのだ。

これをいまだに引きずっているとしたら、日航という会社はひどいものだ。ということで、映画からずいぶんと離れてしまったが、いかにも作り話っぽくて感動も何も生まれてこなかったということ。テレビドラマにして(山崎豊子の作品はテレビの連ドラ向きだ)、ワイドショー好きの視聴者を泣かせたらいいと思う。

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