« 2009年7月 | メイン | 2009年9月 »

2009年8月 アーカイブ

2009年8月 1日

極私的ノマド生活

昨日「仕事するのにオフィスはいらない」(光文社新書)という本を紹介して、そのなかにフリーランス的な働き方をノマドワークスタイルと言うと書いたが、僕自身もかなりこのスタイルに近いのでそのことについて書く。

ぼくのオフィスは自宅と同じ敷地内にあるばあちゃんの家の応接室をちょっと手入れしたものである。基本的にはそこで仕事をするのだが、自宅の自分の部屋で仕事をしている社長(息子)との共同作業や外部の人たちとの仕事をどうやっているかである。

社長とは以前はSkypeを使って会話をしているが、相対で話し合った方がいい場合は、ぼくの事務所に顔を出してもらうことにしている。ただ、かなりの頻度で昼飯を一緒に食べているので、そのときに業務連絡や懸案事項について会話しているのでそれで情報は共有できる。

最近は、共同のプロジェクトが走りだしたので、少しスタイルを変えて、Subversion、Trac、Googleトークという組み合わせで仕事をしている。それでお互いの成果物の状況やタスクの進捗をチェックして、チャットで意思疎通を図り進めている。まあうまく行っている。

外出は最近減ってきたが週2~3回東京へ出かける。それこそ佐々木俊尚さんじゃないが持ち物は、ネットブック(PCは3台持っていて、ほかには事務所にあるデユアルディスプレイのデスクトップとデモ用のThinkPadである)、Emobile、ケータイ、カード入れ(財布は持たない)、読書中の書籍1冊、自宅のカギとぼくは佐々木さんと違ってペンとノートは持つことにしている。

ノマドの人たちの問題は外のどこで仕事をするかである。よくあるのが、スターバックスやドトールとかのカフェあるいはマックやジョナサンといったファーストフードの店などであろう。

ぼくがよく利用するのは、「ルノアール」である。この喫茶店は少々値がはるのだが一番だ。その理由は、静かで落ち着くこと、電源がそばにあり使い放題であることであろう。前述したカフェやファーストフード店だと下手すると隣に高校生かなんかの集団が来たらたまったものではない。下の息子はそのために耳栓をもっていくのだそうだ。(なるほど)

さらにいいのは、ビジネス席というのがあるところがあって、そこだとパーティションで区切られているので快適である。あの本にも書いてあったが、アテンションコントロールが大事だといっていたが、これは注意力、集中力のことで、ここでは自宅にいるよりはるかに集中して仕事ができる。

こんな生活をしているから、どこにいいスペースがあるというような情報も蓄積されてくる。たとえば、三軒茶屋のキャロットタワーの展望ロビーとかアトレ大井町の休憩所とか京王百貨店のエレベータ前とかレアーな場所が定位置になったりする。

そして、ぼくのお気に入りは夜ひとりで呑みながら仕事をすることである。仕事を終えて、そのまとめや課題をメモしたり、提案を修正したりする。そして、少し酔いが回っていい気持ちになるとブログの原稿を書くのである。

そこは、決まった呑み屋で決まった席で決まったつまみと酒なのである。そういう店が何軒かあって、そばと日本酒、魚と焼酎、ソーセージとワイン、ギネスとフィッシュ&チップス、餃子に紹興酒といった具合にその日の気分で変えていく。

もちろん、通勤ラッシュは避けたいから午後しか東京では仕事をしない。困るのは帰りであるが、混みそうなときは、東京駅から並んで座るか、グリーン車で帰ってくることにしている。何ともはや昔の会社勤めのときと比較するとものすごく楽だし楽しい。ただし、これでお金が稼げればという話だが、ぜいたく言わなきゃなんとかなるものですよ。
 

2009年8月 2日

俺たちに明日はないッス

「百万円と苦虫女」で注目していたタナダユキ監督の「俺たちに明日はないッス」を観る。高校生の性と恋を描いた作品でさそうあきらという漫画家の作品が原作なのだそうだ。

ここに登場するのは高校三年生の男女3組で、同級生の女の子が先生とできたのを知って、その子にやらせてくれと付きまとう子、生理になった女の子を助けて、その女の子に好きになられてセックスして子どもができてしまう子、デブ専(?)の女の子に言い寄られ、それを知って痩せてしまうデブの子という三人の男子が中心である。

こうして書くとありそうでもないことと思うかもしれないが、映画では当然デフォルメして強調するからそう思うのであって、実はある意味典型的な高校生なのだ。それは自分のことを振り返ってもそう感じるのである。

「おっぱいバレー」でも書いたが、そのころの男の子の関心ごとは性と恋で、それで頭は一杯になるのだ。それをタナダユキ監督は女でありながら、漫画的な誇張を入れて、しかし根っこは普遍的な大人になりきれない危うさを見事に描いている。

出演している若手の男女優がなかなかの好演である。主役級の柄本時生(あの柄本明の子だそうだ)をはじめ、とびきりの美男美女ではないところがいい。それによりリアリティが出ていたように思う。
 

俺たちに明日はないッス デラックス版 [DVD]
posted with yusukebe.com::AmazonSearch on 2009.7.26
  • DVD / ジェネオン エンタテインメント (2009-05-22)
  • Amazon 売り上げランキング: 26570
  • Amazon おすすめ度の平均: 3.5
    • 5 まっすぐな青春映画
    • 2 ん〜?
    • 4 17才!!
    • 3 うちの高3生にも観せたい。
Amazon.co.jpで詳細を見る


 

2009年8月 3日

創造はシステムである

以前、「デザイン思考の道具箱」(奥出直人著 早川書房)という本で創造のプロセスとプラクティスということを紹介したが、その本で「創造性は個人の才能ではなく、方法の問題である」と述べている。

それと同じようなことを、失敗学の中尾政之さんが「創造はシステムである」(角川oneテーマ21)で書いている。創造は、発明とか作曲とかいった独創的で新規性のあることを作り出すだけをさすのではなく、「自分で目的を設定して、自分にとって新しい作品や作業を、新たに造ること」と定義されると、だれでも少しはこんなことをやっているように思う。

そんな創造のプロセスを著者は大きくつぎのように説明している。
1. 目的を列挙して、それを定量的に設定する
2. どうしたら独自の設計解が得られるか、パターン化された思考方法で考える
3. 干渉が生じる要求機能を整理し、互いに独立で最少の要求機能を設定する
4. モジュラーとインテグレイテッドが混在するハイブリッド型の組織・設計にする

1の目的が正確に設定できたら創造の仕事の半分は終わったようなものだと言っている。ここはすご大事なところで、日本は特に製造業では要求機能も設計解も一緒に輸入してきたから、目的設定あるいは要求機能設定が弱いのである。そんなことをする前にとりあえず欧米のまねをすればよかったのだ。

だから、ソリューション主体、すなわち職人文化である。何を作るかではなく、どうやって作るかに長けたものが評価されたわけである。

2の思考方法は、TRIZという方法が紹介されている。TRIZというのは、旧ソ連でアルトシュラーという人が、「特許のアイデアのエッセンスには、似たパターンがしばしば現れる。もしそのパターンを抽出して学べば、誰でも発明家になれるだろう」と考えたのがきっかけでできた「発明問題解決の理論」のことです。

これは思考の上下運動、すなわち概念の下位から上位へ抽象化し、または上位から下位へと具体化するように、「思考を上下運動させる」ことを出そうです。

3は、干渉という問題で、「あちらを叩けばこちらが立たず」ということがよくおこると思いますが、それを極力減らして独立的にすることである。簡単に言えば、複雑な設計はやめてシンプルにしようよということなのだが、日本人はこれを「摺り合わせ」と称して干渉を取り入れようとする。これが以前は強みだったが、今では問題であるように思う。

4についてはまた別途改めて議論したいと思う。この本に書いてあるのは普段ぼくが考えていることにかなり関係していて非常に興味深く読んだ。

そして、つい関わっているIT業界のことを考えてしまう。中尾さんも言っているのだが、それでも日本の製造業などもこうして時代とともに創造のプロセスも少しずつ変化しているという。なのにIT業界はいっこうに変わっていないと改めて思うのである。

創造はシステムである 「失敗学」から「創造学」へ (角川oneテーマ21)
posted with yusukebe.com::AmazonSearch on 2009.8.3
  • 中尾 政之
  • 新書 / 角川グループパブリッシング
  • Amazon 売り上げランキング: 10235
  • Amazon おすすめ度の平均: 3.0
    • 2 創造を履き違えてる。
    • 4 普段から思考することが大切
    • 3 文章を直せば、面白いと思う
    • 3 発想法の俗本
Amazon.co.jpで詳細を見る


2009年8月 4日

裁判員裁判

昨日、新たな制度である裁判員裁判が始まった。あまり時事問題に突っ込むのは本意ではないが、ちょっとひとこと言いたくなった。

その前にぼくが裁判員に選ばれたどうするかであるが、実際のところあまり深く考えてはいない。もし選ばれたらそのとき考えればいいやと思っている。そんなに使命感を持っているわけではなくむしろ迷惑だと思っているから、いまからそのときに備えてどうのという気はない。

そもそもの目的やいままでの報道などを見聞きすると、どうも司法に普通の市民の社会常識を持ち込むことだというようなことが言われているが、これがまったくぼくには分からない。だいいち、社会常識もない裁判官ばかりなのかと茶々を入れたくなる。

それと裁くのが殺人事件で量刑判断もするという。そこからして、絶対おかしい。いいですか。殺人事件の有罪・無罪そして量刑判断ができる社会常識って何ですか?そんな常識を持っている人がどこにいるんだ。

よく考えてみてください、量刑判断をどうしますか? 計画性があったから、残虐だから懲役15年だ。突発的だから、被害者にも落ち度があるから10年でいいやなんていう“社会常識”がありますか。

じゃあ、有罪・無罪の判断はできるのかというと、これこそプロでなくては判断なんかつくわけない。犯人がウソを言っているかもしれないとか、複数の証拠の整合性をチェックするとかいったことって長年の経験や知識がなければできっこないのは誰でもわかるでしょう。

逆に言えば、そうしたプロがやっているようなことに近いところまで真剣に思慮できないなら、それこそ被告や裁判そのものに対して冒涜だし、やってはいけないことではないでしょうか。そんなことができますか?

社会常識がないのが裁判官だったら、そんな輩は裁判官にしないことだし、社会常識を持ていなかったら、持てるようにオープンにするとか、社会常識が養われた社会人から選抜するとかすればいい。

素人をただ座らせておいて、開かれた裁判になったと言うのはどこかおかしいと思うのだが、皆さんはいかがですか?
 

2009年8月 5日

システム構築方法が問題?

こういう時代だから業務システムを早く作らなければいけない、あるいは安いコストで作ってほしいと言われる。そうすると、いかに開発生産性を高めるかという議論になる。どれだけコーディングの自動化ができるかとか、アジャイルだとかスパイラルとかいう話になる。

それはそれとして希求すべきことではあるが、今のシステム作りの延長線でいくら一生懸命早く安く作っても限界があるように思える。

だいいち既存SIerの経営者が絶対に考えないことである。なぜなら当たり前のように儲からないからである。抱えている社員のクビをドラスティックに切るわけにはいかないだろう。ビジネスモデルを変えられない限り、作り手側からの開発生産性の向上は望むべくもない。

しかしながらユーザの短納期・低コストの要求は続くだろうから、抜本的に作り方を変えていかなくてはいけないのだが、作り方だけを変えても先ほど言ったように限界なのだ。そうであれば、“作るもの”も従来のものと違ったものにしなくてはいけない。

Whatを変えずにHowを変えてももう無理だから、Whatを変えていくという発想の転換が必要なのである。そこの議論ができていない。戦艦大和を作ったのはすごいが、戦艦大和をどう作るかは一生懸命だったが、そういうものを作るべきだったのかどうかの議論がなかったのではないだろうか。

これまで挑戦してきた自動化だとかアジャイルがなぜ陽の目をみないのかをよく考えることが大事だ。そして、どんなシステムを作ればいいのかを再定義して、それに合った作り方を議論しないことには、現状の課題をクリアーできないだろう。

この問題は、単に開発技法だけの話ではなく、プロジェクト体制、人材のスキルセット、ユーザとベンダーの関係などなどあらゆるところに影響を与えるのだ。それをだれが考えるのかが問題だ。

先ほど指摘したようにSIerは自分の首を絞めることになるから考えないし、パッケージやツールで儲けようという話でもないからそうしたベンダーも考えようともしない。そうなると残るはユーザ自身が自分のビジネスをデザインしてそれを高い能力のシステム技術者に作らせてしまうという姿が浮かんでくる。

一旦こうしたパラダイムシフトを起こしたほうがいいように思う。そうなるとずいぶんとIT業界の景色が変わってくるわけで、そこから新たなビジネスを構築すればいいと思うのである。
 

2009年8月 6日

ビジネスモデル

昨日は、慶応大学の日吉キャンパスにある協生館に社長と行く。最初は電車で行くことになっていたが、朝顔をあわせて話をしていたら急に車で行こうとなった。二人とも電車が好きではなく、特にラッシュのときなど嫌になってしまうので、何となくそうなってしまった。

用件は、そこにある大学院のメディアデザイン研究科の奥出教授に会いに行ったのである。先生は社長の大学院時代の指導教授だったこともあり、いま二人でやっていることについてご意見をいただきに伺ったのである。

ぼくは初めて日吉キャンパスに行ったのだが、その協生館というのにびっくりした。昨年にできたばかりだそうで、新しいこともあるが、中の施設がすばらしい。50mのプールやフィットネスクラブといったスポーツ施設、バーやコンビにさらになんと保育園まであるのだ。開放型のキャンパスというコンセプトである。

ミーティングのあとにも研究施設を見せていただいたが、もう研究室というものがないそうで、かなり混然と横断的な研究活動になっているようだ。そして、そうした研究から生まれた成果を事業化すべくインキュベーション展開できる場も用意してある。そして海外との連携も行っている。すばらしいのだ。

さて、その先生からもらったアドバイスは、やっていること自体については特にコメントはなくて賛同してもらえた。ただ問題はそれをだれに売るのか、だれに売ってもらうのか、どんな売り方をするのか、価格をどうするのかということで、そうしたビジネスモデルを描く段階になっているというご指摘をいただいた。

次回、そのビジネスモデルについて議論することになった。やはり、どんないいものを作ってもそれを買ってもらえる、使ってもらえなくてはいけないのであって、そこがすごく大事であるということを強調された。大学の先生でこうしたマインドを持っておられることに敬意を表さざるを得ない。

終わってから、社長と別れて新橋のルノアールで仕事をして、夕方に映画を観て、ビアホールで腹ごしらえをして、いつものように銀座の「M」で締めるという「ノマド生活」で一日を終える。
 

2009年8月 7日

twib

最近、Twitterが日本でも人気になっているらしい。アメリカなんかではかなり浸透していて、例のハドソン川緊急着陸や大統領選なんかでも話題になっていた。

このTwitterというのは、140文字以内で「つぶやく」だけというものだがそれが受けている。つい先日もうちの社長が公開した「@eacon」のことを記事にしたが、今度は「twib(ツイブ!)」というサービスをリリースしたので紹介する。

これは、「Twitterホットエントリー」という機能で、Twitter上でつぶやかれたホームページのURLを集めて、人気順に並べるものです。一見して「はてなブックマーク」に似ていますが、利用者層や使い方など微妙に違っていて面白いです。

公開して、すぐにアクセスが始まりかなり注目されています。Japan internet.comcodezineなどのにも掲載されています。

これはまだベータ版だからみんなの意見を聞いてどんどん機能を追加していくようだ。このあたりのユーザの反応を見ていると、こうしたプラットフォームがマーケティングのようなところで使われていくような予感がする。いわゆるアンケートとかモニタリングなんかにくらべリアル的にそして真に実態を表した答えとして返ってくるので有用であると思う。

皆さんも一度使ってみてはいかがですか?
 

2009年8月 8日

真夏の夜の夢

ずっと前に「ナビィの恋」を観たとき、沖縄の風景とそこに住む朴訥とした人々が営む明るさにすがすがしさを覚えたので、中江裕司監督の最新作「真夏の夜の夢」を期待して観る。

あのシェイクスピアの戯曲をなぞったもので、舞台はやはり沖縄の離島である。東京でOL生活をしていた主人公の若い女性が故郷の島に帰ってくるところから物語が始まる。そこで繰り広げられる島民や島の精霊たちの騒動が描かれる。

こういう映画をまじめに考えてしまうと何だかよくわからなくなってしまう。素直に笑って楽しめばいい。島の精霊が出てきて、媚薬をたらしちゃうんだから、そしてドタバタである。

まあ、沖縄の青い海、強い太陽、深い緑があってこそだと思うが、風景そのものが媚薬になっているかもしれない。きっと南の島の人たちを性格付けている要素は景色、気候ではないかと思える。

この風景の前で深刻な恋愛劇をやられてもどうにも困るわけで、そういう意味でもこの映画は気分をあげて観ればおもしろいのである。

ところで、この原稿を書きながら、大原麗子の訃報にふれている。彼女はぼくの大好きな女優さんで、あのかわいらしい顔と何と言っても少し鼻にかかったハスキーな声がとても魅力的であった。

映画やテレビで多く出演していたが、これこそ大原麗子という作品は何だろうかと考えてみたが、なかなか思い浮かばない。むしろ、「男はつらいよ」のマドンナ役の方が印象が深い。

まあ何よりも「すこし愛して、なが~く愛して」のサントリーのCMで有名になってしまった。難病と戦っての死であり、早過ぎる死でもある。冥福を祈る。
 

2009年8月 9日

ロマンポルノと実録やくざ映画

ぼくら団塊の世代の70年代というのは20歳ちょっとから30歳ちょっとまでの間だから、多感で揺れ動いていたときにあたり、そのころの体験は深く残っている。

そんな70年代の日本映画について書いた本「ロマンポルノと実録やくざ映画」(樋口尚文著 平凡社新書)を懐かしさをもって読む。著者は若いときから映画評論を書いてCMなんかも手がけた人ですが、1962年生まれというから1970年は8歳、1969年でも17歳なので、ほんとにリアルに観たのだろうか。ロマンポルノのことがたくさん出てくるのだがそれを観ていたのだろうか。

まあ、それはそれとして、この本にはセックスとバイオレンスがふんだんに登場してくる。ただ、名の知れたものだけではなく、著者の思い入れのあるレアものも含んでいるが、ぼくは当時年間100本近く観ていたころでもあり、かなりの作品を観ているので知っている。

しかし、こうして並べられるといかにいかがわしい映画が量産されていたかがわかる。今日の映画と比べて信じがたいほど、下品で残忍でおどろおどろしいものばかりである。

この時期はちょうど日活がつぶれたりして邦画が危機となり、その中で低予算の映画を乱発するしか能がなかったのだ。逆にそういう状況で各映画監督が知恵をしぼり、あるいは会社をだましながら佳作を撮り続けたのである。涙ぐましい努力の跡が感じられる。

このあたりについては別途書いてみたいと思うが、まずはこの本に登場するひどい作品名と監督を列挙することで、この時代の映画がどんなものであったかが推量できると思う。ぼくらと同じ世代はなつかしく、その時代を知らない人はびっくりして眺めてください。

「人斬り与太 狂犬三兄弟」「仁義なき戦い 代理戦争」「実録・私設銀座警察」「仁義の墓場」「濡れた欲情 特出し21人」「丸秘 色情めす市場」「犯す!」「人妻集団暴行致死事件」「さすらいの恋人 眩暈」「昼下がりの女 挑発!!」「女地獄 森は濡れた」「やくざ観音 情女仁義」「やさぐれ姐御伝 総括リンチ」「レイプ25時 暴姦」「ポルノの女王 にっぽんSEX旅行」「トルコ110番 悶絶くらげ」「徳川セックス禁止令 色情大名」「怪猫トルコ風呂」「濡れた欲情 ひらけ!チューリップ」など

とこれだけ書くと驚いてしまう。でもこれはほんの一部だからもっとエゲツないタイトルもたくさんあったのだ。こうした作品でがんばっていた監督はつぎのような人たちである。

深作欽二、神代辰巳、田中登、長谷部安春、石井輝男、藤田敏矢、曽根中生、西村潔、鈴木則文、野田幸男など

このひとたちは決して恵まれていない状況下で開き直ったようにエログロナンセンスを前面に押し出しながら、その奥にキラリと光る何かを残していったのである。

何とこの本には110本の作品が登場する、これだけの作品を観て論評する著者に感心させられる。ぼくは最近あの頃のように映画をよく観るようになったが、途中あまり観なかったせいもあるかもしれないが、大きな差があるように思える。それを肉食系から草食系というような表現で言えるかもしれないが、いまの映画には当時の“ギラギラ感”がないような気がするのはぼくだけだろうか。
 

ロマンポルノと実録やくざ映画―禁じられた70年代日本映画 (平凡社新書)
posted with yusukebe.com::AmazonSearch on 2009.8.8
  • 樋口 尚文
  • 新書 / 平凡社
  • Amazon 売り上げランキング: 2084
  • Amazon おすすめ度の平均: 5.0
    • 5 “あの時代”でしか生まれなかった傑作たちの記録。涙モノです。
    • 5 名画座にいるようなワクワク感!
    • 5 まるで名画座の企画を思わせる70年代のプログラム・ピクチャー
Amazon.co.jpで詳細を見る


 

2009年8月10日

企業におけるプロセスの種類

ビジネスプロセスと一括りで言っているが、実はいくつかの種類があることがわかる。大きくは次の3つになると思っている。

1) マネジメントプロセス(経営プロセス)
2) クリエーションプロセス(創造プロセス)
3) オペレーションプロセス(作業プロセス)

それぞれプロセスの持つ機能や形態が違う。

マネジメントプロセスというのは、経営判断や事業運営のプロセスになるが、あとの二つに比べるとフロー的な意味合いが薄い。これは、個人の意思決定が大きなウエートを占めることになる。すなわち、社長や事業部長が判断を下すプロセスである。

このプロセスで重要なのは、データ分析とプロフェッショナルサービスである。重要な決定では起こったこと、今起こっていることの事実をどう読むかということが大事である。恣意ではなく客観的な判断はデータをきちんと分析できるところから発せられる。

同時にその時、専門家にチェックしてもらうことも大切なことである。専門家というのは、法務や財務、最近では環境なんかもそうかもしれないし、コンプライアンス委員会のような組織かもしれない。

2)のクリエーションプロセスというのは、ちょっと前にも書評でも書いてあるように、創造のためのプロセスがある。このプロセスは大まかに言うと、ビジョンやコンセプトを考え、デザインする上流と実証してビジネスモデルをつくりオペレーションするという下流からなる。

このプロセスはあとのオペレーションプロセスと違って、課題が設定されているわけではないので、仮説検証型のプロセスになる。従って、ここで求められるスキルはコンセプト形成能力や仮説設定能力のように創造性のある力が必要になる。

最後のオペレーションプロセスすなわち作業を実行していくプロセスは問題解決型のプロセスで、課題が与えられ、それに応えるようなプロセスである。このプロセスが意思決定の連鎖で成り立つのである。

こうしてみるとタイプの違うプロセスがあって、それぞれに大事な役目があり、バランスよく機能させることが企業運営の要諦である。会社によっては、各プロセスで強弱があると思うので一度点検してみるとよいかもしれません。

2009年8月11日

重力ピエロ

またまた伊坂幸太郎原作の映画である、森淳一監督の「重力ピエロ」を観る。主演がこの映画でキーとなる兄弟を演じる加瀬亮と岡田将生。岡田将生は「天然コケッコー」で夏帆ちゃんの相手役をした子で、イケメンで将来性ありそうだな。

先にキャストのことを言うと、そのほかに父親役の小日向文世と母親役の鈴木京香もなかなかよかった。それと狂言回し的に登場する吉高由里子がまたいい味だ。

伊坂幸太郎の作品は物語性とその構成力が出色だから、映画にしたくなるのだろう。多くの作品が次からつぎへと出てくる。この「重力ピエロ」はかなり重いテーマで扱いが大変であると思うが、父と兄弟のトライアングルをうまく関係付けることでよさを発揮していた。

ぼくは子どもが男ふたりの兄弟ということで小日向文世演じる親と同じ立場となるのだが、もし自分が映画のような状況になったらどういう決定と行動をとったのだろうかと考えさせられた。

おそらく違ったと思うので理解しづらいところもあるのだが、それはそれとして、家族とそこのなかに秘められた事実といったことは、ことの大きさはともかく何らかの形であるように思う。

そうしたことを抱えながら家族が成り立っているわけで、そう考えると、この映画でいう「おれたち最強の家族だよな」という確認作業をやりながらつながっているとも言える。

非現実的なシチュエーションを設定していながら、実は根源的な家族のあり方みたいなところに踏み込んでいて好感が持てる作品であった。
 

2009年8月12日

YAPC::Asia 2009 で「BPM Framework”Kailas”」について話します

このところBPMとSOA関連のエントリーをいろいろ書いていますが、それは業務プロセスのパターン化が可能で、かつ、実装が容易なアプリケーションフレームワークを、今まさに作っている、という理由からです。

ただ、ブログエントリだとどうしても細切れになるので、どうやって業務プロセスを設計するのかということと一連のモジュールやプログラムを組み合わせて、どうやってフレームワークを作るのかという話を YAPC::Asia 2009 でさせていただくことにしました。

YAPC::Asia 2009 は9月10日(木)と11日(金)の2日間、東京工業大学大岡山キャンパスで開催されます。すでにチケット販売も始まったので、興味のある方はお越しいただければ、と思います。

YAPC::Asia 2009
Yet Another BPM Framework”Kailas”
  

2009年8月13日

モジュールとインテグレイテッド

先日のエントリーで「創造はシステムである」(中尾政之著 角川one テーマ21)という本を紹介したが、その中にタイトルにあるような議論があった。アメリカ人は独立が好きで日本人は干渉が好きだという話から、モジュラーとインテグレイテッドの戦いがあるというようなところに展開した。

モジュラーは、基本単位や基本構成(つまりモジュール)が配置された組織や構造を意味し、インテグレイテッドとは、個々の単位が互いに絡んで、融合している組織や構造を意味する。日本の得意な「摺り合わせ」はこのインテグレイテッドのことである。

ただ、この議論はどちらかが良くてどちらかが悪いという問題ではない。どちらも必要であり、バランスさせることが大事だと思う。その切り分けに関して中尾政之さんは、小規模の組織や設計ではインテグレイテッドが有効だが、それ以上の大規模の組織や設計ではモジュールが有効であるとして、その規模として組織では200人、設計・生産エンジニアでは10人がその境界であると言っている。

確かに規模的な問題はあることはある。多くの人がいる場合は摺り合わせも難しいと思うし、少人数だと構成要素に分解されるものでもないからである。ただ、ぼくは規模だけでの問題ではないと思うのである。

規模だけではないとすると何なのだろうか。ぼくはその組織なり、構造のもつ性格であるような気がする。言い方を変えると、業務プロセスを実行するのにどちらに向いているのかが大切ではないかということである。

ある要素を標準化してモジュラーとして扱ったほうがいい場合と、もう少しあいまいにして人間系が入り込んでそれらを連結(インテグレイション)させるほうがいい場合がある。それを使い分けるのが有効であると思う。

中尾さんも言っているように、モジュラーとインテグレイテッドを混ぜたハイブリッドな組織や設計が好ましいであろう。そのとき、規模で分けるのではなく、性格で分けることをお勧めする。

業務システムの話に敷衍していくと、以前から指摘しているように、モジュラー型で設計する業務プロセスレベルとインテグレイテッド型で設計すべき業務プロセスレベルがあるということである。
より具体的に言うと、単位意思決定の連鎖プロセスはモジュラー型であり、その意思決定の中のアクティビティはインテグレイテッド型である。

ここで少し話しは日本製造業に行くが、巷間ではまだ摺り合わせ型で垂直分業型で遅れているような言い方をされているが、確かにそういう面は否めないし、特にグローバルでは水平分業型に移行しているにもかかわらず相変わらず多重下請け構造が足かせになっているだろう。

しかしながら、デジタル技術の導入や情報の共有の迅速化などでずいぶんと干渉を軽減したモジュラーな加工手段を用いるようになったとのこと。

製造業でさえそうした変化がおきているわけで、そうした意味でまた繰り返すが、ITの世界もこの変化に対応していかなくてはいけない。この対応というのは、ユーザ企業の変化にすばやく追随できる業務システムを提供できるかということと、自らがモジュール型の開発スタイルも取り入れてより高い生産性を発揮できるかということである。

ところがまだ、業務システムそのものの構造が相変わらずインテグレイテッドでしかないことと、その設計過程や業界そのものの組織構造がインテグレイテッド型であるように思える。ここが早くハイブリッド型に生まれ変わることを切に望むのである。
  

創造はシステムである 「失敗学」から「創造学」へ (角川oneテーマ21)
posted with yusukebe.com::AmazonSearch on 2009.8.13
  • 中尾 政之
  • 新書 / 角川グループパブリッシング
  • Amazon 売り上げランキング: 9850
  • Amazon おすすめ度の平均: 3.5
    • 5 「創造」のマニュアル化の試み
    • 2 創造を履き違えてる。
    • 4 普段から思考することが大切
    • 3 文章を直せば、面白いと思う
    • 3 発想法の俗本
Amazon.co.jpで詳細を見る


 

2009年8月14日

不毛な討論

もう全くよくわからないというか、ばかにするなと言いたい。今の自民対民主の党首討論である。マニフェスト対決も同じだ。議論がかみ合っていない。

なぜかみ合わないかというと、言っていることがお互いに定性的で情緒的なのである。何々したい、できるといいなあの類ばかりである。財源問題にしても、鳩山さんがムダを省いて捻出するんだと言ったところで、どこにどの程度のムダがあるのか、定量的に示さなくては意味がない。

だいいち、官僚以外でもそのムダで給料もらっているやつがいるわけでそいつらを失業させるわけ。そうした問題も含めてお金の再配分を言ってくれないと困る。要するに、全体のパイを大きくするのか、そのままなのか、そのパイの配分を変えるのか変えないのか、変えるならどこに傾斜させるのかという簡単な話だと思うのだが。

誰かが、家計を考えたらわかるが、いくら切り詰めて子どものお小遣いが増えても、結局父ちゃんの給料が増えなくちゃどうしようもないと言ったのと一緒で、国も収入が増えるような成長戦略を立てないことにはどうしようもないのではないだろうか。

話は戻って、今のいいかげんな議論を例えば企業でやったらどうなるのであろうか。例えば事業計画を作って社長に説明する場合、常識的には、まずは過去の実績を見て、結果に至った経緯と何が問題だったのかを総括します。

そして、いまの内外部の環境を分析し、これからの事業の方針を説明し、どこを強くして、どこを縮小してといった戦略を提示し、そのための経済的、人的、設備的なリソースの配分を計画するわけです。

それもすべて数字の裏づけをもったデータを必ず付けておきます。そして、そのデータも変に加工していない、さりとてまったくの生でない、適切な加工度で鮮度のあるものにする必要があります。

ここが難しいところで、自分たちの都合のいいようにバイアスをかけてデータを作ってしまうことがあります。そこを気をつけなくてはいけないのですが、企業の場合だと、経営者は賢いので(そういう人が経営者になれるのですが)お見通しなので、小細工するとわかってしまいます。

これが、国政になると、官僚にいいように加工され、それを全く読み解けないアホな総理大臣がいるという構図は情けなくなります。

だから、裁判員制度もモニターにデータを映してプレゼンするようになったのでわかりやすくなったそうなので、党首討論もモニターに数字やグラフを出して、それを説明しながらやってくれないだろうか。それには、現状の事実認識が非常に重要なので、そこの違いを鮮明にすることでマニフェストが自然と評価されてしまうというふうにしたらいいと思う。

例えば、「ラーメン屋vs.マクドナルド」でも述べたが、格差が拡大していると各党が言っているけど、どこの格差が拡大したかを共通化させていない中で議論するから全くかみ合わないのだ。

都市部と農村部の経済格差なのか、正規雇用と非正規雇用の給与格差なのか、家計の所得格差なのか、世代間の経済格差なのか、そのどこにどれだけの格差があるのか、どこを是正したいのかが混乱しているように思えるのである。

要するに、普通の会社でどこでもやっているような経営計画や事業計画の立案のしかたや確定・承認のプロシージャを国家レベルでもやってもらいたいと思うのである。
 

2009年8月15日

ラーメン屋vs.マクドナルド

このタイトルからだと、薄手の比較文化人類学かと思ってしまうが、中身は非常に濃いまっとうな経済論なのである。「ラーメン屋vs.マクドナルド」(竹中正治著 新潮新書)はそんな本である。

著者は、(財)国際通貨研究所経済調査部長・チーフエコノミストであるが、銀行のワシントン事務所長などで経験した日米の差異からその比較を試みている。

表題のラーメン屋とマックの比較は、職人芸として究める日本のラーメン屋とパターン化して大量に作り出すマックを並べているわけで、そのほか、希望を語る大統領vs.危機を語る総理大臣、ディベートするアメリカ人vs.ブログする日本人、「ビル・ゲイツ」vs.「小金持ち父さん」、一神教vs.アミニズム、消費者の選別vs.公平な不平等とくる。

すごくわかりやすでしょ。希望を語る大統領vs.危機を語る総理大臣なんて、いまの党首討論でも100年に一回の危機を強調する日本とオバマの希望を語る姿とずいぶんと違いますね。著者はエコノミストなので、金融と経済における比較がぼくには非常に勉強になった。

日本の金融市場でよく言われるのが、「日本人は文化的にリスクヘッジ回避志向だから」というのがあって、従ってリスク性金融資産比率が低いというのがあるが、ちゃんと調査すると必ずしもそうではないらしい。そうならざるを得ない事情があるという。

1つは、小泉改革での構造改革の対象となった公的金融と郵貯制度の存在をあげている。要するに、日本人は郵貯を選択しているのでどんどん膨張しているが、それはリスクヘッジというより、金融製品としては合理性を欠いた、言い換えれば政府が税がリスクヘッジしてくれるというものがあったら、そちらを選択するほうが合理的だからなのだ。

そうしたことから、家計の資産格差分布がずいぶんと違ってくる。米国は日本に比べて金融資産残高もはるかに格差の大きな分布をしている。簡単に言うと、ビル・ゲイツのような大金持ちがいる米国と小金持ちが多くいる日本というわけである。

そのため、ちょっとした金持ちは貯蓄にいそしむが投資に向かわないのである。逆に言えば、今回の金融危機でも日本の投資家と金融機関の損失が小さかったのはこのせいなのだ。これを変えてほしいのだが、米国と同じようにするのはどうかと思うので日本型の変革を行う必要があるのだろう。

それから面白かったのは、日米比較というより、日本の格差についてである。本当に格差は拡大しているのかと問いかけていて、ちゃんとデータを正確に読むと、同一世代での格差の拡大ではなく、人口構成の老齢化と単身世帯の比率増加によるものだそうだ。

このように、筆者も言っているように、またぼくも何回か書いているのだが、政策論争でもきちんとデータを解析して正しい現状認識から出発した議論にしないと、事実誤認をベースに政策を作ってもしょがないと思うのである。

この本はおおよそ1年前に書かれたものであるが、言っていることは今もそのまま当てはまる。こうした正論をはく人の意見を政治家は勉強するといい。お勧めの一冊である。

ラーメン屋vs.マクドナルド―エコノミストが読み解く日米の深層 (新潮新書)
posted with yusukebe.com::AmazonSearch on 2009.8.13
  • 竹中 正治
  • 新書 / 新潮社
  • Amazon 売り上げランキング: 7230
  • Amazon おすすめ度の平均: 4.5
    • 2 良いところもある
    • 4 なるほどと思う日米間の違い
    • 5 今まで見た中で最も深い日米比較文化論です。
    • 5 タイトルだけで忌避しないほうが良いですよ
    • 5 America vs. Japan or why risk-averse Japanese cannot become Bill Gates
Amazon.co.jpで詳細を見る


2009年8月16日

久々の夏の日

今日はよく晴れた真夏の日よりである。土日が続けて晴れたのは3ヶ月ぶりだそうだ。やっと夏らしい日がやってきた。

ばあちゃんの家に先週から入った塗装屋さんも、さすがに今日はお休みで家の回りも静かで、あのペンキの臭いもなくのんびりとしている。ぼくも、まったりと本をめくりながらぼうっとしている。

今朝早く送り火を焚いて、仏様を帰してわが家の盆が終わった。あとは、昼から材木座の妙長寺のお施餓鬼に行って、墓に塔婆をさしてくることになる。

毎年、同じことの繰り返しであるが、これをやらないと何となく落ち着かないものである。この一週間どこにもでかけず家にいたので、盆が終わると急に忙しくなるように感じる。盆と正月の厭なところはそこだ。

ともあれ、2009年のハーフタイムが終わりいよいよ後半戦もホイッスルが鳴ろうとしている。さあまた、がんばっていこおっと。

2009年8月17日

蛇にピアス

芥川賞の季節だからというわけでもなく、「重力ピエロ」に出ていた吉高由里子が主演している「蛇にピアス」が観たくなったのだ。

これは、2003年の芥川賞を受賞した金原ひとみの同名の小説の映画化である。監督が親子より歳の差がある蜷川幸雄ということで、若者の風俗をどこまで消化できるのか興味があった。

この小説は、実際に読んだが、その時近いうちに映画化されると思っていたが、それが蜷川監督だとは予想がつかなかった。小説自体は正直言ってぼくにはよく分からないもので、何か痛いなあという思いだけ残った。

だから、少なくともぼくには映画の方がいいのではないかとさえ思った。ただ、残念ながら蜷川監督は切込みが浅くもてあましたように感じられる。ピアスと刺青とセックスシーンだけをつなぎ合わせただけのように思え、どうも登場人物の心象に対する洞察がゆるいようだ。

なぜ、スプリットタンにあこがれ、刺青を彫ろうとしたのか、痛みを感じることが唯一自分の存在を確認できることだといったことが映像で伝わってこなかった。

映画でも主人公が、一緒に暮らしていた「アマ」という男の子の本名も年齢も知らなかったし、それ以外のことも何も知らなかったと述懐するシーンがあるが、映画ももう少し、出てきた人物のことを教えてよと思ってしまった。

吉高由里子は大胆な演技も披露して大奮闘だが、その割には評価が高くないように思うのだが、それは主人公の中沢ルイの存在感が弱かったからではないだろうか。

ただ、ぼくにはそれなりに楽しめる映画であった。それはどうしてかというと、映画のセオリーを踏んでいるからである。何回か言っていることだが、基本的に女一人に男二人の映画はおもしろい。この三角関係のシチュエーションで映画を撮ればほとんど外れないのだ。
 

蛇にピアス [DVD]
posted with yusukebe.com::AmazonSearch on 2009.8.17
  • DVD / アミューズソフトエンタテインメント (2009-01-23)
  • Amazon 売り上げランキング: 909
  • Amazon おすすめ度の平均: 3.0
    • 1 愚作
    • 2 これはちょっと。。。
    • 2 「チョコレート・ファイター」の方が良かった
    • 3 カルチャーショック
    • 1 最悪…
Amazon.co.jpで詳細を見る


2009年8月18日

アンチライセンス

自慢じゃないがぼくは資格というものをほとんど持っていない。ただ、生産現場で働いていたころ、なかば強制的に取らされた、エネルギー管理士、危険物取扱主任者、ボイラー技士といったところは持っている。働き口がなくなったらビル管理かなんかの仕事で食っていけるかもしれない。

ITの仕事をやり始めてもIT関連の資格はいっさい持っていない。本当は独立するのなら資格の一つやふたつ持っていないと格好がつかないのもわかる。もちろん、取ろうかと思って勉強したことはあるが、すべて途中で挫折した。なんか意味ねえじゃんと思ってしまう。

最近若い人たちはけっこう資格をとることに熱心なようで、お隣の韓国なんてすさまじいばかりだそうだ。まあ、就職が非常に難しいので、ひとつでも多くの資格を持つことが就職に有利だと思っているのでしょう。

しかし、資格をとることにどれだけの意義があるのだろうか。医者、弁護士とか調理師とかはそれがなくては職業としてなりたたなくなるから必要だが、会社勤めの場合はどうなのだろうか。

ところがその医者のことなのだが、この間観た映画「ディア・ドクター」で考えてしまった。医師免許を持っていないニセ医者でも立派に勤まってしまうという物語で、ライセンスをもっているからできるあるいは立派な医者であるという既成概念を壊されてしまったからである。

結局、資格をとるために勉強するのか、資格を生かせるように勉強するかの違いであるような気がする。その資格に恥じない、その資格のもつ使命をまっとうできるように知識やスキルを身につけることが大事なのである。だから逆に言えばこのスキルがあればライセンスがなくても勤まるということである。

ところがITの資格なんかも多いのだが、この資格をどんな形で生かしていくのかが定まらないというか、認知されていない面がある。だから、単に資格取得が目的化してしまっているのではないだろうか。

こういうことを書いて自己弁護しているわけではないが、本当はちゃんとその資格で飯が食えるようになってほしいと思うのである。
 

2009年8月19日

終の住処

近頃の芥川賞は若い人が多く、そして女性の受賞が目立っている。そんな中で今年の第141回芥川賞は、44歳の磯崎憲一郎が「終の住処」で受賞した。

このひとは、現在三井物産の人事総務部次長という立派なサラリーマンである。40歳頃から小説を書き出したというから、会社で要職にありながらよく小説が書けるなあと感心してしまう。

さて、この「終の住処」だが、最近の若者風俗や生活を題材にしたものではなく、ぼくらに近いところの話なので受け入れやすかった。ところが、それと同時になんだか怖くなったのだ。

その怖さというのは、ぼく自身のことに重ねあわせられるからである。もちろんここに書かれていることと同じことがあったわけではないし、同じような環境でもなかったのだが、それでも共有できるのだ。

この主人公は、11年間妻と一言も話さなかったり、行き当たり的な不倫に浸ってしまうとか、かなり突飛な行動を起こすのだが、それが徐々におかしくないのではと思わされる。その行為の特異さではなく、そうした行動の裏にある心情は変わらないのではないかということである。

この作者は、時間の出し入れがうまいように思う。結局、ある時間を経て、様々な時の過ごしかたにより、あることは消えていき、あるものは鮮明になっていく様がよく書けているのではないだろうか。それで、ふと気がつくと終の住処を見ることになるのである。

文章も難解な言葉もなく平易で、これまでの芥川賞とはちょっと趣が違うように思えるが、ぼくには読みごたえのある小説であった。
 

終の住処
posted with yusukebe.com::AmazonSearch on 2009.8.16
  • 磯崎 憲一郎
  • 単行本 / 新潮社
  • Amazon 売り上げランキング: 83
  • Amazon おすすめ度の平均: 3.0
    • 4 ふあーっと読むべき本
    • 2 “感じる”というよりは“学ぶ”作品。
    • 1 読後第一感想としては評価できません
    • 2 文体模倣
    • 4 晩年の夫婦
Amazon.co.jpで詳細を見る


 

2009年8月20日

70年代日本映画へのオマージュ

少し前に70年代日本映画の本を紹介し、多くの作品と監督を懐かしんだのであるが、そんな中でぼくの気になったものをピックアップしてみるのと、その時代のことを書いてみようと思う。

作品で言うと「仁義の墓場」「0課の女 赤い手錠(ワッパ)」「HOUSE」である。この3作品はそれほど評価されたものではないが、なぜかぼくにとっては印象の強いものになっていた。ところがこの3作品とも本に取り上げられていたのにはびっくりした。

「仁義の墓場」は渡哲也が骨壷から死でしまった自分の女の骨をつかみ出しポリポリ齧りだすという場面が戦慄するすごさを見せる。

「0課の女 赤い手錠(ワッパ)」は杉本美樹主演の映画で野田幸男が監督している。杉本美樹は赤いコートに赤い手錠といういでたちでクールな女刑事を演じて、何と言っても最後の紙くずが舞う中での銃撃戦や室田日出男の怪演ぶりなどすさまじい映画なのである。

でもこんな映画評価している人がいるのかと思っていたら、本にも紹介されていたし、杉本美樹のWikipediaにはこんな記述もあった。

1974年に は現在でも国内外でカルト的な人気を誇るB級バイオレンス・アクションの傑作、『0課の女 赤い手錠(ワッパ)』で主役のクールな女刑事を好演。棒読みに聞こえるとして指摘されることもあった抑揚のない台詞の発声もハードボイルドな主人公のキャ ラクターに嵌っており、彼女の主演映画では最高傑作という声も高い。

「HOUSE」は大林宣彦監督の作品で、美少女たちが屋敷に食われてしまうという奇想天外な物語だが、何と言っても、ここに登場した美少女たちである。池上季実子、神保美喜、
松原愛、大場久美子らの面々が繰り広げる世界はエログロとは全く別世界の初めて経験する雰囲気のものであった。そこから、ぼくは大場久美子のファンになったのである。

そして杉本美樹や大場久美子以外にも多くの女優たちとの出会いがあった。そしてお気に入りは、本にもとりあげられている女優では、秋吉久美子、梶芽衣子、桃井かおり、山科ゆり、高沢順子たちであるが、ぼくは、ロマンポルノの宮下順子、芹明香、東てる美、片桐夕子、永島暎子あたりがリストアップできる。

さて最後に監督のことである。ぼくは映画が好きでその当時勤めていた三重県四日市の会社で仲間たちと映画同好会を作った。名前を「シネマディクト77」とした。このシネマディクトというのは、植草甚一の「シネマディクトJの映画散歩」から採ったもので、映画中毒者とでも言ったらいいと思う。

そこで毎月映画評や食べる記や雑記を書いて回し読みをした。当時はパソコンもネットももちろんないから、みなトレース用紙に手書きで書いて、それをアンモニア臭の強い“青焼き”で刷って配ったのである。

今だったら、SNSでいとも簡単にやれたのに、その頃はそんな苦労をしながら楽しんだのである。そうしたとき、大きなエポックとしてあの藤田敏矢と座談会をやることになったのだ。ぼくにとっての70年代映画は「八月の濡れた砂」から始まる藤田作品とともにあったようなところがある。

実は藤田敏矢は四日市の出身でかれの弟と同級のひとがぼくらの会の主要メンバーであったので、その機会が訪れたのである。そのとき何をしゃべったかは忘れてしまったが、写真があるのでご覧になってください。映画に浸った青春のひとコマです。
 
%E8%97%A4%E7%94%B0%E6%95%8F%E5%85%AB%E3%81%A8%E5%BC%95%E6%89%8B%E7%94%98%E5%A4%AA%E3%83%91%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3.jpg
 

2009年8月21日

エンジン再始動

盆が明けて今週から仕事モードに入った。月曜日にはBPM協会のコモンセンス部会で「SCORとBPMの接点を定義する」と題してプレゼンを行う。上流の戦略から落としてくるトップダウンアプローチであるSCORモデルとプロセスを設計していくボトムアップアプローチであるBPMをどこ出会わせたらいいのか、そこのつなぎ目をどう定義したらいいかというとで私案を提示した。

水曜日には、SCCの要求開発手順コンソーシアムの部会のメンバーでこれからの進め方を議論する。システム開発の構想・企画・基本設計を行うときに戦略的なことや事業などに求める要件は何かというようなことがテーマである。

そのあとは、前述の部会がそのメンバーの会社の事務所で行われたが、その会社には以前かなり深い付き合いをしていたので、誘われてそこの役員の二人と会食をする。ほんとうは業務プロセス勉強会の予定だったが、非常にお世話になったので断れずに勉強会をキャンセルした。ごめんなさい。

その会食した人たちの会社は中堅のSIや自社開発パッケージ販売など手がける会社であるが、昨今の景気はかなり効いてきているようで渋い顔をしていた。ただ、IT業界は変革時なのだから、逆にビジネスチャンスが大いにあると励ます。

そのうちのひとり専務のOさんは、ブルースハープを演奏する人で、いつもハーモニカを持ち歩いている。ぼくもブルースが好きだったので、そうした話でもりあがったり、前には南青山の「Blue Note Tokyo」で一緒にブルースのライブを聴きにいったりした。この日も、銀座の「M」で帰り際に久しぶりにブルースハープを演奏してくれた。

昨日は、昼に慶応大学の奥出教授のところに行って、いま社長(息子)と一緒に開発しているBPM Framework「Kailas」のビジネスモデルについてアドバイスをもらう。製品コンセプトや機能についてはお墨付きをもらったので、それをどう売っていくかの相談である。非常に面白いアイディアをいただいたので、それをどう具体化するか検討を始めた。

そのあとは、M&ERPの渡辺さんのプロジェクト会議で社長にまだできかけなのだが、「Kailas」のデモをしてもらう。基本的なところだけだったが、要望だとかいくつかのサジェスチョンをもらう。二人だけでやっていると見方が狭くなったりするので、こうした機会で幅広く意見をもらうのは大事だ。

そして、いつもの呑み屋でおじさん三人組の小宴会である。いつも熱い会話でNさんは終電にぎりぎりだといってあわてて店を出て行った。さあ、忙しくなるぞ。

2009年8月22日

東南角部屋二階の女

この「トウナンカドベヤニカイノオンナ」というなんとも語呂のいい題名の「東南角部屋二階の女」は1980年生まれという弱冠の女流監督池田千尋の作品だ。

この映画は、親父の借金を返すために、じいちゃんの土地を売ろうとしている若者が、会社を辞めてしまうのだが、その会社の後輩とお見合い相手の女が、その土地に建っているアパートに住むところから物語が始まる。

その男子の二人に西島秀俊と加瀬亮、女の子に竹花梓という布陣。この三人が三様のよさが出ていて好感がもてる。今様のやさしいというか、草食系男子なのだろうが、そんな雰囲気があって、そこに男の子的な女の子が加わる乾いた三角関係である。

またまた、男2人に女1人の関係である。加瀬亮はちょっと前まで一緒に暮らしていた女の子がいて、別に竹花梓が好きではようだが、というか三人の間は男と女の関係が感じられないのである。これ今の世俗なのかもしれない。

映画では、もう一方、高橋昌也演じるじいちゃんとその弟のいいなずけであった香川京子の小料理屋のおかみ、それと塩見三省の小料理屋の常連の畳屋が織り成す物語がある。ぼくには、こちらの方がぐっときて、むしろこの物語がメインであるとさえ思えた。

この設定となった、いいなずけが戦死してしまった女が、いいなずけの兄が妻をなくしてから、その兄の面倒をずっとみているというのは、ぼくには身近に同じような話があったので印象的なのである。

そういう意味で、この映画は世代間の男と女の関係を対比してみると面白い。一言もしゃべらないでも存在感を発揮している高橋昌也、二階から若いときからもらった着物を着てみせる香川京子、本当は違うことをやりたかったがしかたなく畳屋をやっているとしみじみつぶやく塩見三省は生き様を生々しく体現しているようにみえる。

一方で、若者三人が無味な感じで生きている様が対比され、そうした若者がこれからどろどろした経験を積むことでどう変わっていくのだろうかと思わせる。この映画は、どうも単なる癒し系ではなくもう少し深いのであって、池田監督の今後が期待できると思う。
 
ところで、このDVDは近くのTSUTAYAで借りてきたのだが、家に電話がかかってきて、どうも返却したのはいいが中身が入っていなかったということらしい。それを嫁さんが取ったものだから、もうバカ呼ばわりされてしまった。おかげで、追加料金も取られトホホでした。

東南角部屋二階の女 (プレミアム・エディション) [DVD]
posted with yusukebe.com::AmazonSearch on 2009.8.16
  • DVD / トランスフォーマー (2009-05-02)
  • Amazon 売り上げランキング: 18807
  • Amazon おすすめ度の平均: 1.0
    • 1 信じられないほど画質、悪すぎ!
Amazon.co.jpで詳細を見る

 

2009年8月23日

サービス業の労働生産性向上

日本の労働生産性が低いといわれている。OECDのランク(2005年)では先進7ヶ国の最下位だという。この労働生産性というのは、GDPを就業者数で割ったものであるから、分子のGDPが小さいか、分母の就業者数が多いかであるが、結局同じ仕事を多くの人やっているとか、たいした付加価値を生んでいないという非効率な形態が続いているということであろう。

しかし製造業だけを見ると先進7ヶ国では米国についで2位なのである。ということはサービス産業の労働生産性が非常に低いことがわかる。

そこで考えられるのが、このサービス産業にITを導入して生産性をあげていくというがターゲットになりえるということだろう。ITが得意とする業務の効率化による省力化である。

今選挙でなぜか急に取り上げるようになった「成長戦略」においても、政党が言っていることはナンセンスなのだが、最大の問題はこのサービス産業の労働生産性を上げて、そこから生まれた就業者を医療や介護に振り向けることだ。

そして、ただ、振り分けただけで、人件費アップ分を介護保険を上げて対応せざるを得なかったら何もならないので、その分野でも徹底的に生産性をあげることだろう。

ぼくは、ITの有効活用がすごく重要であると思うのである。だから、優秀なエンジニアは是非サービス産業特に医療・介護の労働生産性向上に力を注いでほしいものだ。

ただ、そこで従来型の延長でIT化してもおそらく生産性の向上は大して期待できないように思える。その従来型という意味には、「ものつくり」へのこだわりということも含まれていて、それはきっぱりと捨て去ってほしいのである。

最近、バカなやつが「モノつくり日本の復活だ」とか「匠の技術を活用」だとか言っているが、全くの時代遅れである。いまや、グローバルな水平分業の時代にモノつくりにこだわっていては取り残されてしまう。このあたりはブログにも書いたとおりである。


従って、サービス産業へのITの適用も摺りあわせでインテグレイテッド型のモノを作るのではなく、モジュラー型の発想でサービスをつくることをやっていかなくてはいけない。

さらに、サービスというものの捉え方も考える必要がある。サービスというとどうしても人の嫌がることを替わりにやってあげますという奉仕のような考え方をしてしまい、ロボットにやらせるとかということになる。どうもそうではないような気がする。どちらかというとコンテンツビジネスのようなものになるのではないでしょうか。

ユーザがコンテンツを見て、触って、使って快適になる、そんなことがサービスという概念ではないかと思うのである。逆に言うとそういうことができるいいコンテンツをそろえることがビジネスになるということでもある。

ということで、サービス産業へのITの適用により効率性を向上させるだけではなく、広い意味のいいコンテンツを提供することで、それを受けて人々が幸せになれるような仕組み、仕掛けがポイントになると思う。

フサイン・ボルトの走りはすごいコンテンツでそれをテレビで見られる喜びは価値のあるサービスを受けたということに他ならないのである。
 

2009年8月24日

世界陸上雑感

ベルリンで開かれていた世界陸上が幕を閉じた。フサイン・ボルトという超ど級のアスリートのパフォーマンスに驚かされて始まったが、日本選手も予想外に健闘したのではないでしょうか。

最終日に、女子マラソンで尾崎が銀、男子やり投げで村上が銅という結果は戦前にはそう大きな期待があったわけではないのでよくやったということだろう。特にやり投げははじめてのメダルだそうで、室伏だけじゃないのを見せつけた。

しかし、いつも思うのだが、国によって強い競技が限られてきてるようで、長距離はアフリカ、短距離は中北米、投てきは北欧とか、細かくは、跳躍のキューバ、リレーの日本、競歩のロシアとかの色分けができている。

これは人種によって向き不向きがあるのだろうかと思うが、陸上競技は、走る、跳ぶ、投げるの単純なものだから、黒人の持って生まれた身体能力の高さがすごいのだ。ほんと、足の遅い黒人がいたら教えてもらいたいものだ。(笑)

日本はメダルをとったのが上記二人だが、男子400mで4位に入ったし、男子マラソンの佐藤が6位入賞をはたしている。それと、ワールドカップのマラソン団体で男子3位、女子2位という好成績である。まあ、上位3人の成績だから多くの選手を送り出せるところが有利で5人も出場している国が少ないこともあると思う。

ところで、以前にも書いたのだが、この団体戦のメダルが上位3人以外にも贈られて、表彰台にも上がるのだが、その残りの2人(日本は1人)の表情がなんとも照れくさいというのか、手放しで喜べない感じがして、いつも3人だけ表彰すればいいのではと思ってしまう。

最後に、男子マラソンで6位入賞をはたした佐藤敦之のゴール後のコメントを

北京ですごい屈辱を味わったが、屈辱を受けて這い上がるのが会津の人間だと、会津の人に言われたので、がんばりました。

いやー、これにはびっくりした。こんなところにまだ白虎隊が生きていたんだ。皆さんお疲れさまでした。
 

2009年8月25日

理系バカと文系バカ

いつも新聞やテレビのニュースに接していて思うことは、もう少し理系の頭で発信しろよということである。どうしても、雰囲気的な理解で言うから、こちらとしては事実というデータの裏づけを示してくれと言いたくなる。

例えば、ガソリン車とハイブリッドカーと電気自動車のエネルギー効率とCO2排出量を数字で示してくれと思う。要するに1Km走るのにいったいどういう種類のエネルギーを消費して、どれだだけのCO2を排出するのかである。

これを言うと、電気自動車は電気を使うからクリーンなエネルギーでCO2排出量もゼロですというバカな解説までしかやれない。じゃあ、その電気はどうやって作るのかという視点まで届かない。ハイブリッド車と電気自動車の効率差はどのくらいあるのかにも言及できない。

だいぶ前置きが長くなったが、竹内薫の「理系バカと文系バカ」(PHP新書)という本には、こうしたことと似たようなことが書かれている。まあ、あっと驚くようなことは載っていないが、常識的な比較を整理してある。

ただ、この本の趣旨はもちろんどちらがいいか悪いかということではなく、どちらもバランスよく備えた「理文両道」を推奨している。

日本という国はそういう意味ではいびつなところがあって、最初に書いたメディアもそうだし、官僚にいたっては法学部出身の文系で固められているという構造である。政治の世界だって歴代の総理大臣で理系はほとんどいない。中国の首脳は反対に理系が多いという。

その「理文両道」をかなえるために必要なことを“文理融合センスを磨くための5か条”言い換えれば“理系バカ、文系バカにならないための5か条”が書いてあるので紹介します。

その① まずは聞き上手になる
その② 文系なのに科学書漬けになってみる
その③ 理系なのにフィクションを楽しむ
その④ どんな情報も、まずは疑ってかかる
その⑤ 気になったものは人に話してみる

ぼくは理系なのだが、理系バカではないと思っている。ただ、理系バカになれなかったからという側面もあるわけで、そうだと何となく負け惜しみみたいに聞こえてくるのでビミョーな感じですね。だから、声高に理系バカとか文系バカとは言わないで論理と情緒のバランスが必要だぐらいでいいんじゃないかと思うのである。

理系バカと文系バカ (PHP新書)
posted with yusukebe.com::AmazonSearch on 2009.8.24
  • 竹内 薫
  • 新書 / PHP研究所
  • Amazon 売り上げランキング: 15187
  • Amazon おすすめ度の平均: 3.5
    • 4 読みやすいかと
    • 3 文系向けの啓蒙書としては良い本だが、理系人には物足りないか?
    • 3 文系の人には良書かもしれない
    • 2 はじめに のみで充分
    • 5 これは興味深い!!
Amazon.co.jpで詳細を見る

 

2009年8月26日

粒度と抽象度

プロセスを考えていると、粒度という言葉に出くわすし、自分でも使っている。そして、粒度の対象となっているのも、プロセスであったりアクティビティであったりタスクであったりする。

一方で、抽象度という言い方もされる。これらは同じものでしょうか。よく混同して使われているが、そうではないですね。となると、使い分けていかなくてはいけない。

まあ、素直に粒度は大きさすなわちスケールを表していて、抽象度というのは、あいまいさの程度とか、堅さと緩さみたいなことでいいと思う。

ですから、大きな粒度でも抽象度の高いものもあったり、小さな粒度で抽象度の低いものもあることになる。そのあたりの使い分けをうまくやらないと、ここはやけに細かいけど、こっちにいくと何てラフなんだろうというようなことが起きる。

そう考えると粒度というのはむしろ管理単位という括りでみるのがいいかもしれない。ある組織体またはある役割の人が管理する単位として、このプロセスの単位は、事業部で管理するとか、このアクティビティはこのグループで管理するといった感じである。

既存の業務システムを眺めると、ずいぶんとそうしたアンバランスな構成で作られているように思う。あまりリジッドに決め付ける必要はないが、ある程度の均一感を持たせた方がいいのではないだろうか。

ぼくはこれまで、粒度という表現を多く使ってきたが、どうも抽象度との組み合わせでみていくのがより適正な表し方ではないかと最近思うようになった。というのも、SOAのような概念が提示されてくると、サービスという括りを意識してきます。そのとき、サービスはスケールというより、機能というのが重要であり、あるサービスを依頼して、それに応えるサービスを返してくれれば、サービスの大きさは関係ないと思うからである。

ですから、業務プロセスを設計するとき、まずはプロセスの粒度ということを考えますが、そのときプロセスの抽象度も同時にみるほうがいいように思え、また、アクティビティの粒度という場合も同様で、そのアクティビティがかなり複雑で長いプロセスを内在したものでもINとOUTで取り合いだけでプロセスを形成していければ、ブラックボックスでもかまわないといえます。

ただ、呼び方もあるが大事なことは、プロセスやアクティビティをどういう考え方、どういう法則で定義していくかである。ここがはっきりしないからいつまでたっても属人性の強いプロセスが作られるのである。
 
さらに、こうしたことで気になるのは、プロセスの自動化のことである。すぐに自動化というのだが、それは上述した抽象度に関わってくる問題であって、抽象度のレベルで自動化してもいいか悪いかを見定める必要があると思う。

すなわち、抽象度の低いところでは自動化は有効かもしれないが、抽象化レベルが高いところで自動化してしまうといったいそこで何が起こっているのかわけがわからないとなるような気がするからである。コンポーネントをどういう粒度と抽象度に最適化するかがシステムの質を決定する非常に重要な要素であるといえる。
 


2009年8月27日

ロールについて

モデラーなどでプロセスを設計していくときプールとスイムレーンというものを書いていくのが普通である。ではそのスイムレーンは組織を表しているか、人を表しているのかどちらなのだろうか。あるいはロールなのだろうか。

それについては、アクティビティの粒度(抽象度)問題と関連してくるが、その前にロールの定義もしておく必要がある。ロールは役割だから、そのアクティビティを回す役回りのことを指すのか、そのアクティビティを実行する主体を指しているのか。人によっては能力みたいなものを言う場合もあります。

こういうと混乱してきますよね。具体的にみていきましょう。やはり、アクティビティの中身から考えた方が分かりやすいと思います。

細かい粒度、抽象度の低い場合、アクティビティは“申請”、“確認”、“連絡”、“調整”、“入力”、“承認”といったものになります。このときのロールってしょうか。このアクティビティそのものがロールと言えないこともないのがわかると思います。そのアクションをする権限を付与されていることがこれにあたるわけです。承認権限なんてはわかりやすですよね。

そうすると、スイムレーンでは、その権限を持っている人の単位でレーンを書くことになります。ところが、それだとかなり入り組んだフローになってしまいます。長いプロセスや関係者が多くいたりすると複雑さになってしまいます。

一方、ぼくが推奨しているような一段抽象度を上げた「単位意思決定」というアクティビティにすると、その単位意思決定をするためのロールという言い方もおかしく、むしろ組織といったほうがしっくりきます。

そうした場合、プロセス設計でその組織を設定することはどういうことなのかということになります。もちろん、意味がないということではないが、書く意味が薄くなると思う。そして、書いたところで組織変更があったらそれに伴いプロセス変更になったりしてしまう。

従って、ロールという概念は単位意思決定の中の役割を指すことになります。単位意思決定は、だれかが起案しそれを確定し、承認することですから、だいたい、三層くらいのロール設定をすればよいことになります。

このようにプロセスの抽象度の低いアクションレベルでロールの設定が行われます。そこでは、あとからユーザを割り当てる形にしておけば、組織が変わろうと人が異動しようがシステムの変更をしないで設定だけを変えることになるわけです。
 
結局、今のビジネスは組織をどんどんいじっていったり、突然アウトソースしたり、ネットワーク型になったりといったように、組織やロールは非常にフレキシブルであることが望まれています。それをITが阻害しないようにする必要があるのです。
 

2009年8月28日

プロジェクト管理とプロセス管理

業務プロセスというとおおかたはフローがあってそれを順番に流していくというイメージがあると思います。そして、それもわりと短時間で進めていくと思われています。

それとは違った仕事のやり方として、プロジェクト業務があります。フローというよりあっち行ったりこっち行ったりしながら、わりと長い時間をかけて終わらせるというものです。こうしたプロジェクト業務の管理はプロセスとは異質のものなのでしょうか。

いま、ぼくが提案している「単位意思決定の連鎖がプロセスである」という概念からいうと、実はプロジェクト管理もプロセスであると考えられます。すなわち、プロジェクトはもちろんスケジュールがあり、マイルストーンがあり、そしてWBSが設定されるわけです。

ということは、様々なタスクでひとつ一つ意思決定を積み重ねてマイルストーンにたどり着き、最終的にプロジェクトを完遂させるというプロセスであるといえるのではないでしょうか。

ですから、今開発しているBPM Framework「Kailas」はプロジェクト管理ツールにもなると思っています。プロジェクトというものはコラボレイティブな仕事を通して進捗を管理していくことが必要ですから、コミュニケーションの場、進行が追える場、成果物を格納する場、履歴を参照できる場といったものを用意することが有効であると思うからです。

このように業務、いや会社の仕事だけではなく私的なものでもそうだと思うのだが、すべからく意思決定とその連鎖で成り立っているように思う。その意思決定の大きさや範囲が違ったり、連鎖が短期なのか長期なのかだったりするだけで、本質的には同じものであると思うのです。

だって、そこで活動している人って、業務プロセスだから、プロジェクトだからという意識もないし、やっていることを変えているわけではないと思うのです。働き方のスタイルも同じなわけだから、そこが基本の仕組みを用意するということが大事なことなのである。

世の中には、いろいろなシステムや業務パッケージ、ソフトウエアが出回っていますが、そこの視点が欠如していて、それぞれ固有のワークスペースであり、そもそも一部の機能しか提供されないから、異なったワークスペースを行き来しなくてはならない。

少し話はそれたが、プロジェクト管理も結局はプロセス管理と同じであるということを言いたかったのである。
 

2009年8月29日

“kailas”お披露目

昨日は、社長(息子)と二人でCalifornia State Polytechnic University, Pomonaの一色浩一郎教授とお会いする。先生は東京プリンスホテルで開かれているITCカンファレンスに登壇することになっていて、昨日からそのホテルに投宿しているので、そこで待ち合わせて、ITCカンファレンスのレセプションまでの1時間半でお話することができた。

趣旨はわれわれが今作っている新しいBPMフレームワーク“Kailas”を見てもらうことでした。まだ全部はできていないのですが、骨格のところがだいたいできたのでご意見をいただこうと思ったのです。

それを説明する前に、社長がやっている「CDTube」や「ListPOD」、「Twib」などのWebサービスも見てもらい、AmazonのEC2の話も飛び出し、そして、先生の教え子のアルゼンチン人がミリオネアになったことなど面白いことになる。

さて、その“Kailas”なのだが、予想以上に評価していただきうれしくなる。先生の専門は要求工学なのだが、そこでは要求を定義してそれを実装するためのよいツールがないのだそうだ。そこに”Kailas”は使えるという言葉をもらえたのである。

要するにシンプルで柔軟性に富んだものがほしいと思っていたのに合致するという評価なのだ。そして、もっとデザイン的に改良して“高級感”を出して、そしてマーケティングを良く考えることというアドバイスをいただいた。

やはり米国で教鞭をとっていて、しかも実際のビジネスに関わっている先生なので非常に感覚が鋭い。また、オランダでも教えていたり、各国を回ったりしていることもあって、米国だけにとどまらず、欧州、ロシア、南米、東南アジアなどの事情に詳しい。

ですから、世界の市場で10%しかない日本ではなく、40%ある米国で売りなさいと言われた。そうすれば欧州は米国で使われたらすぐに買うからということだそうだ。そして、大きな会社に買ってもらうことと言っていた。米国では、日本と違って、いいものであればどんな小さな会社が作ったものでも買ってくれる文化があるとのこと。

もし、もっと磨きをかけていいものになったら米国で売るのを手伝ってくれると言ってもらえた。だから、YAPCまでにもう少し、それが終わってからも手入れしていい商品にしようと、社長と二人で誓ったのである。

2009年8月30日

日本を壊すな?

今日は選挙だ。いまから投票に行くところだが、今朝の新聞に1面ぶち抜きで自民党の意見広告が載っていた。その見出しが「日本を壊すな」である。書いてある内容といえば、

あなたのために、この国のために、景気を後退させ日本経済を壊してはいけない
バラマキ政策で、子供たちにツケを残してはいけない
偏った教育の日教組に子供たちの未来を任せてはいけない
特定の労働組合の思想に従う“偏った政策”を許してはいけない
信念なき安保政策で、国民の生命を危機にさらしてはいけない

書いてあることがいちいちまともなんですけど。で、それが「日本を壊すな」ということになぜなるのだろうか。上のことは多かれ少なかれこれまでの自民党政治も同じようなことをやってきたのだ。日教組や労働組合のことだって、今みたいな存在を助長させたのもそうだが、適当に利用していたのかもしれない。

だから、こうした政治に嫌気がさしているからこそ政権交代を叫んでいるわけで、それが分かっていたらもっと早く自浄作用として、日本を壊して作りなおすことをしていけばよかったのだ。”壊すな”ではなく、”壊す”のだ。

それをやりかけたのが小泉政権であったように思うのだが、壊すことが嫌いな国民に立ち向かう継続性がなかった。もはや、日本をスクラップアンドビルドしなくてはどうにも立ち行かなくなっていると思うのだが、そこまでの危機感がないから、結局自民も民主も同じようなことを言っているに過ぎない。

さて、誰に入れようかな。
 

2009年8月31日

衆議院選挙

やはり、選挙の結果について書いておこう。戦前からある程度予想された民主党の圧勝だった。それにしても改めてその勝ちっぷりに驚かされる。まあ、小選挙区ではありえる現象で、前回の郵政選挙でも同じだからそうびっくりすることでもないのかもしれない。

これで自民党は解党的な出直しが必要となったわけだが、これはわかりきったことであったのだが、ここまで打ちのめされなければ本当に自覚できないのだ。

自民党重鎮たちの敗戦の弁がおもしろい。みんな一様に、これだけ負けて国民の皆さんに申し訳がないと言う。こういう感覚だから負けたのだ。どうして国民にあやまらなければいけないのか。国民はお前らが負けてよろこんでいるのだよ。

日本人というのは、ほんと徹底的に落ちないと改革ができない民族のようで、今回の自民党も立て直す機会はいくらでもあったはずなのにそれができなかったのだ。

これは自民党が象徴的であるが、恐ろしいのは日本という国も同じで、いくら政権が替って民主党になっても、日本という国の衰退は止まらないと思う。しかし、為政者よりまだ国民のほうが賢いから、ほっとくと危ないというシグナルを送ったわけだ。

さて、その民主党だが、とりあえずはお手並み拝見といきたいが、そんな悠長なことは言っていられなくて、すぐにでも手を打ってほしい。何といっても自民党と違って、前例を踏襲する必要がないわけだから、そんなことを言ったって政権が変わったんだからと言える。大胆なことをやってほしいと思うができるだろうか。

そのとき、連立を組むと言っている社民党と国民新党とは縁を切ったらいいと思う。これだけ圧勝したのだから数的には必要ないのだから、思い切って選挙前の約束を反故にしたってかまわない。そうでないと政策の中途半端さが残るような気がするからである。

いずれにしろ、民主党はこれだけの期待を受けたから、その成果がでなかったときの反動も大きいことを覚悟する必要がある。だからといって、聞きざわりのいいことを言うだけのポピュリズムだけは避けてほしい。

ここは、大きな支持を背景にあるべき国の姿をおおいに議論してほしいと本当に思う。

About 2009年8月

2009年8月にブログ「mark-wada blog」に投稿されたすべてのエントリーです。新しい順に並んでいます。

前のアーカイブは2009年7月です。

次のアーカイブは2009年9月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type