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2008年12月 アーカイブ

2008年12月 1日

IT革命を身体で感じた世代

いま、この間のスタロジのセミナーでの羽生さんの話に刺激されて、業務システムの変遷を考えている。そこで見えてきたのは、ぼくらの生きてきた時代がもろ変化のときであったなあと思ったのである。

ITの登場による変化はここ30年で起こってきて、この10年がすごい勢いで動いている。最初のころのITは企業や研究機関での電子計算機としてあったので子供では触れることがなかった。しかし、誰でも使えるようになるにはそう長い時間はいらなかった。

そう考えると、その30年をずっと見てきたのは、どの年代のひとたちなのだろうかと考えてみる。そうです、50歳から60歳くらいの人なんですね。われわれ団塊の世代なんぞは、日々変化するITを肌で感じた世代なのである。

この経験は、いったいどういうことなのだろうか。変化を実感するということは、変化をしていない時代を知っているから、それとの比較でああ今は大きく変っているのだなあとわかるような気がする。最初から変化の只中にいるいまの若い子たちはこの実感がないと思う。

これは、何もITだけではなく、多くものに大きな変化をもたらしている。例えば、1989年にベルリンの壁が崩壊して、東西冷戦の構図、社会主義体制の終焉を迎えたが、それからたった20年しかたっていないのに、米国の金融危機からはじまった消費型資本主義も終わろうとしている。この激動もぼくらの世代は目の当たりにしてきた。

それは単に変化を体感したということではなく、自分たちの価値観が大きく揺らぐ経験をすることの方がインパクトがあった。そりゃあ、敗戦による変化の方がはるかに大きいかもしれないが、それは一回きりのものであるが、ぼくらはいつも変化の風にさらされているような気がする。そのたびに立ち位置を確かめざるを得なかった。

さて、ITのことである。ハードウエア、ソフトウエア、プラットフォーム、インフラ、開発メソッドなどなどあらゆる領域で目を見張る“Change”があった。

例えば、ハードウエアだけをとってみても、よく語られるように、部屋いっぱいに鎮座していた汎用機が、今では一台のパソコンで事足りるのである。

ところが、羽生さんが鋭く指摘したように「業務システム」が変わっていない。少なくともここ10年は、画期的なツールやデバイスが現れているにもかかわらず旧態依然のままなのである。それは、何度も言っているように役所やレガシー企業内では、既得権益を守ることが第一であり、“変革は悪”だからである。

だからそこを動かしてみたいし、ぜひとも、ぼくらの目の黒いうちに、この業務システムの変革を見てみたいのである。

2008年12月 2日

経済成長しかないのですか?

どうもいろいろな論調を聞いていると、今のような景気後退局面をみな嘆き、経済成長に戻すために何をしたらいいのかといった議論になる。

すなわち、経済が停滞することは悪いことで、いつも経済成長していなくてはいけないという大合唱である。

そうなのだろうか。

地球温暖化をなげく人は喜べばいいじゃないですか。経済成長がにぶれば当然温室効果ガスは削減されるので願ったりですよね。

少子化を嘆く人は、喜べばいいじゃないですか。経済規模が小さくなれば、少ない人口でもやっていけますよ。

格差社会を嘆く人は、喜べばいいじゃないですか。貧乏になれば格差は狭まりますよ。

どうも皆はなから経済は成長するものだ、そうでなければ困ったことになると思っている節がある。ぜんぜん困らないですよ。30年40年前の生活をすればいい。

若い人は、それは困るという。車がなくなったら、とかコンビニがなくなったら、シャワートイレがなくなったら、とかとか思うのだろうが、それをなくすことでもない。

そういう普通の生活に入り込んだものは、効率的に使えばいいのであって、簡単にいえば、ぜいたく品は要らないし、まだ使えるものを使えば今の生活とそう変わらないでいられると思う。

だから、テレビで消費を煽るCMはやめてもらい、無駄の上に成り立つ通販や100円ショップもやめてもらえばいい。ファーストフードも家で作って食べればいい。

要するに、必要なものを我慢するということではなく、必要なものしか買わないで、それを大切に長く使うということなのだ。

そして、何よりインターネットがあれば、お金がなくても楽しく遊べるでしょう。そういう走り続けるばかりではなく、ふと立ち止まって、大きく息を吐くことも大事ではないだろうか。
 

2008年12月 3日

カーテンコール

佐々部清監督の下関ワールドである「カーテンコール」は、昭和のノスタルジーのような紹介に乗せられて見ると、なんだこれはとなる。まぎれもない「父と娘」の映画である。

昭和30年から40年くらいにかけて、映画の幕間に芸を披露する芸人とその娘の話と、それを取材するタウン誌の女性記者とその父親の話が交錯して展開される。

この幕間芸人というのがいたんですね。ぼくはその時代よく映画館にいったが、ぼくの街にはそんな芸人はいなかった。

映画は、この父と娘の綾に、在日の問題や斜陽化する映画などが描かれていく。佐々部監督は、土地柄か「チルソクの夏」もそうだが、韓国を絡ませてくるのが得意だ。そして、みんないい人なのである。だから、こんなことあるのかと思ってもつい涙を流してしまう。

冒頭にも言ったように、昭和の懐かしさは、もちろん映画館の雰囲気や上映されている座頭市や網走番外地、下町の太陽など、吉永小百合と橋幸夫の「いつでも夢を」に表れてはいるが、むしろそれだけで、当時の生活や情景はあまり昭和のにおいが感じられず、やはり、子を捨てた父親と父親から離れた娘の心理劇になっている。

結局、懐かしさは自分が育った土地をベースに湧いてくるもので、従って、遠くの下関だと懐かしさがなかなか感じられないということもあるような気がする。

まあでも、この監督の描く日本人はだんだんいなくなろうとしているので、こういう映画でもってその大切さを訴え続けてほしいと思う。

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2008年12月 4日

「型」と日本人

副題が、品性ある国の作法と美意識である「「型」と日本人(武光誠著 PHP新書)を読む。

この間「Web+DBPress」にも書いたように“業務プロセス設計作法”というように、作法という言葉をあえて使っているので、題名を見たとたん買いたくなったのである。

その雑誌の記事にも、“作法は「型」であり、基本的な「型」を決めておくということです。”と書いているように、この本でも、日本的な作法の基本は「型」であり、その「型」を学び、身につけることで日本人として品性ある振る舞いができると言っている。

ここは非常に大事なことで、何でも勝手にやればいいというわけではない。例えば、「型破り」という言葉がある。「型破り」な行動をとるとか、あのひとは「型破り」な人だとか、いい意味でも悪い意味でも使われるが、このときの型を破るということの言っていることは、まずは型があって、それを身につけて、それからその型を破るということを示唆している。

そうした、基本的なものをマスタしてこそ斬新なことや革新的なことができる。それを最初から突拍子もないことをやって独創ですといってもそれは付け焼刃でしかない。

著者は、日本の作法は古代の自然を崇拝する祭りの場から生まれ、武士道のなかでの武士としての作法につながっていく。武士道というのは平安なかば以後に作られたが、決して闘うため教えではなく、「正直」「武勇」[質素]「慈愛」といったことが武士道の道徳となった。

そして、室町時代になると「わび」「さび」「幽玄」といった思想が現れてくる。その代表的なものとして、「茶道」や「能」といったものに結実していく。これらはお分かりのように「型」が基本である。

そして、江戸時代の後半になると「粋」という言葉がはやってくる。その対語として「野暮」という言葉をみればわかるように、きっぷのいい江戸っ子の姿を思い描くことができるだろう。この「粋」という中には、実は他人への思いやりのようなことがちりばめらえていて、日本人のよさが現れているのだ。

翻って、現代の日本あるいは日本人の振る舞いを見るにつけ、こうした伝統的な「日本的合理性」が薄れていくことに危惧を感じているのはぼくだけじゃないと思うが、いかがでしょうか。

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2008年12月 5日

私家版業務システム変遷史 ― 1994年

これから、企業における業務システムについて年を追うことで書いていこうと思う。これはぼくのITとの関わりという偏見の入ったものであるので、一般的な変遷史とかけ離れているかもしれないが、それはご容赦いただく。ただし、その時点で業務システムはどうあるべきかを真剣に考えていたし、フロントランナーにも意見を求めたし、そう的はずれにはなっていないと思う。

ぼくが、情報システム部門に配属されたのは、1994年の6月末であった。いきなり、余談で恐縮ですが、配属前は、東京の社長室というところで技術企画の仕事をしていたのだが、突然工場のシステム部門に転勤になったのだ。しかも、その年の3月末に家を新築したばかりであった。格言どおり、家を新築すると転勤になった。

この格言はあながちいい加減なものではなく、ある程度論理的であると思っている。要するに、この部署に落ち着いたのでそろそろ家を建てようかなと思うのと、この部署にも長いこと経ったのでそろそろ転勤させようかなという思惑がだいたい同じタイミングになるからである。

それはさておき、ITのことである。1994年に情報システム部門に来たが、業務システムという面では、5年くらい経った汎用機のシステムがやっと軌道に乗って動いているというところで、何しろ基幹系のほぼ全体をカバーしている大がかりの仕組みなので、末端のひとたちまで浸透するのは大変であった。しかも、企業合併もあり、そしてグループ会社への展開もあって、かなりきついことのなっていた。

ただし、事業所では、ホストは本社が管理しているので、むしろ工場のシステムや部門システムをどうするのかが課題であった。すなわち、生産管理、設備保全、物流管理、環境管理といったサプライチェーンをサポートするようなシステムを整備することが求められていた。

一方、この年ぐらいからインターネットが登場してくる。赴任してすぐに人事から海外駐在員あるいは出張者のための安全情報をインターネットから取りたいのだがどうしたらよいのかという相談を受けたのを今でもよく覚えている。この年ネットスケープが会社設立した。直感的にこれはいつかきっと企業の中にも入ってくるなと思った。もちろん、これほどまでになるとはその当時は考えられなかった。

そのころは、徐々にではあるが大型汎用機で何でもやってしまうことに疑問が出始めたときでもあった。ひとつにはパソコンというものが出てきていたからである。爆発的に売れたWindows95は次の年にでるが、Windows3.1もけっこう浸透してきていた。

そして、ローカルなシステムは、オフコンと呼ばれるコンパクトなシステムでソフト込みのようなかたちで普及していた。当時は、IBMがSystem38とSystem36を統合したAS400をだしてきたときでそれを使った。このAS400という機種は今でもPower Systemsのいう名に変わっていますが健在です。これは名機ですね、何しろ運用がメチャ楽ですから。

というわけで、この年は初めての情シス体験で勉強することが主になっていました。しかし、勉強すればするほど面白くなり、もはや自分はこの道でメシを食っていこうかと思い出したのもこの年である。

2008年12月 6日

相撲と野球

ぼくが小学校4年生の時に家にテレビが来た。昭和34年の3月に今の天皇陛下が皇太子の時の結婚式がテレビ中継されて、ぼくの家には近所の人がその番組を見に来て、雨戸を締めて暗くしてみた記憶が残っている。

ぼくも家にテレビが来る前は、よそのうちにテレビをよく見に行った。特にプロレス中継は近くの親戚の家に必ず見に行った。

家にテレビが来たときに最初に見たのが相撲であった。時は、栃若時代で、栃錦、若乃花の両横綱が全盛であった。忘れもしない最初にみたのは栃錦のお尻であった。

当時の相撲は非常に人気があって、個性的な力士もたくさんいて、ぼくのお気に入りは「潜航艇」というあだなの岩風である。筋骨隆々のからだで下からもぐりこむ戦術で幾多の名勝負を展開した。その他にも、水入り相撲の出羽錦、技能派の信夫山、成山、大量の塩を撒く若秩父、ちょこんと仕切る鳴門海とか、今の高見盛のような個性派ぞろいであった。ぼくらはそれを真似て相撲をとった。

今は相撲を見ることはないが、当時はテレビにしがみついて見ていたが、それがちょうどテレビ的であったということは確かだ。

もう一方の野球も燃えた。昭和33年に長島茂雄が巨人に入団し、翌年の天覧試合で村山からさよならホームランを打ったのをテレビで見ている。

このころのプロ野球もまた個性的な選手がいっぱいいてぼくらを楽しませてくれた。金田対長島とか、西鉄の野武士軍団、40勝投手の「神様、仏様、稲生様」や杉浦、権藤。打者では、まだ川上がいた。あげたらきりがないので、ぼくが応援していた大洋ホエールズの話を少し。

当時の大洋ホエールズの本拠地は川崎球場であった。1978年に今の横浜スタジアムに移るまでこの狭い球場で試合が行なわれ、子どものころはここに見に行ったのである。

そのころは、秋山、土井のコンビが活躍していたが、万年最下位であった。そしてあるとき忘れもしないことが起きた。試合が終わって球場をあとにしようとしたとき、ちょうど選手が球場から出てくるところにでくわしたのである。そしてそばに行って握手でもしてもらおうとしたと思ったのだが、いきなり知らない若い選手に抱きかかえられてぼうや大きくなったら野球の選手になれやというようなことを言われ、頭をなでてくれたのである。

もう頭が真っ白でボーっとしていたら、何という選手に抱かれたかわからないままでいた。一緒にいた親父に今の選手は誰と聞いたら、今の選手は「島田源太郎」だと教えてくれた。

おそらく、入団したばかりであったと思うが、それからはもちろん島田源太郎のファンになって応援した。
そして、1960年に奇跡が起こった。三原監督を迎えたわが大洋ホエールズは万年最下位の汚名を返上すべく、あれよあれよで優勝してしまったのだ。日本史シリーズでも大毎オリオンズを破っている。その年、島田源太郎は完全試合を達成し、18勝をあげ優勝に大いに貢献したのである。

ぼくは、小学校時代はもうずっと野球少年であった。実は何を隠そう、南海ホークスの野村克也のファンでもあった。ユニフォームらしきものを作ったときに付けた背番号はもちろん“19”であった。しかし、中学の後半になってサッカーを知ってしまってからは、野球から遠ざかったのである。
 

2008年12月 7日

冬本番

今日は寒い。
富士山もすっかり雪化粧で冬本番といったところ。
先週から風邪をひいてしまい調子が悪いが、午後から高校のクラス会だ。

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こんなクラス会もある

昨日は、高校卒業以来初めてのクラス会があった。なんと、高校1年生の時のクラスのやつだ。ぼくらの高校は1年生が終わるとクラス替えがあって、その後2年、3年は持ち上がりでそのままである。ですから、普通クラス会というと3年生の時のことをいう。

この3年のときのクラス会は、今年の9月にやった。ところが、1年生の時のクラス会をやろうと誰が言い出したか知らないが、もうだいぶ前に通知があった。最初は、自分が何クラスか忘れているひとも多く、しかも印象がそんなに強くないので集まるのかなあと思ったが、幹事の執念のおかげか21人もの出席があった。

でもやはり最初に会ったときのには分からなかった。しばらくして名簿と照らし合わせながらああおまえかという風になる。3年の時同じクラスだったやつとサッカー部のやつくらいしか卒業後会っていないので、ほとんどがこんな状態だ。

しかし、時間が経つにつれて、高校生活が蘇り、みな当時のにきびづらの顔に戻っていったのである。21人が高校卒業してからどんなことをしてきたかをしゃべるから、一人平均10分くらいかかり、全部が終わるのに3時間半もかかってしまった。

しかし、それぞれの話が皆面白いのだ。とくに仕事の話ではなく、私生活のことがすごい。若いとき登山で遭難して、仲間が死んでしまい自分も九死に一生を得たという話がでたら、自動車でがけから落ちてちょうど木があってそこで宙吊りになって助かったとか、自転車で脱輪してこれまたがけから転落したとかそんな話が飛び出してくる。

そうかと思うと、高校のころからずっとひきこもりだったやつが延々30分くらい話出したり、築地の魚河岸で仲買人をやっていたやつとか、来年高校時代組んでいたバンドを復活させてコンサートをやるやつとかほんと面白かった。

どうして、1年生の時のクラス会をやることになったかというとそのときの担任の先生の影響が大きい。その先生は国語の先生でI先生といったが、ぼくらを担任したときはまだ34歳である。非常に優しくて厳しくてすばらしい先生で、昨日も異句同音に多感なぼくらの高校生活の最初にこういう先生とめぐりあえたのは非常に幸運だったということを言っていた。

その先生は、不幸にも55歳のとき家の直前で酔払い運転の車にはねられ帰らぬひととなってしまった。そんないい先生だったので、今でもぼくらだけではなく、何代もの教え子たちが先生を偲んでクラス会をやっているそうだ。I先生は歌人でもあり、漢文の権威でもあったので、もう少し長生きをして、そちらで業績を残してもらいたかった。

昨日も墓誌に刻まれた先生の作品「流動を 深き心に 蔵(かく)しゐる 坂東太郎を 思ひて眠る」という歌を聞き、みな感慨に浸ったのでした。

もっといろいろなエピソードが披露されたが、幹事の一人がいみじくも言っていたが、みんなに会うこと、みんなの話を聞くことで元気をもらえると言ったことが印象に残った。そしてまた来年もやることになった。
 

 

2008年12月 8日

鹿島アントラーズは常勝軍団になれるか

Jリーグは今年も最終節に優勝が決まった。まあ、鹿島が断然有利であったので順当な結果であったが、昨年は同じような位置にいた浦和が横浜FCにまさかの敗戦でひっくりかえったから、ひょっとしたらと思ったがそうはいかなかった。

200年、2001年の連覇に続く2回目の連覇で、それはたいしたものだといわざるを得ない。その最初の連覇のころの一番のライバルが磐田で、その磐田が入れ替え戦にまわるという。ベルディも降格ということで、栄枯盛衰の悲哀が現出した昨日であった。

鹿島の強さは、なんと言ってもチーム力で穴がないというか、全員が組織的に動けるところではないかと思う。だから、小笠原が抜けても戦力ダウンにならず、むしろ結束力が高まっていいゲームをする。

そうした戦術理解度はおそらく普段の練習で培ったものであると察せられ、そういう厳しい練習があるからこそ試合で発揮できるのだと思う。試合中に監督がああしろこうしろと言ったってできるものではなく、からだで覚えているかどうかが大きい。

しかしだ。磐田やベルディの例を出すまでもなく、どれだけその強さを継続できるかとなると、必ずどこかで落ちるわけで、そこをどこまで食い止めてまた這い上がってこれるかになる。

日本では、ヨーロッパのようにまだ常勝チームはできないだろう。それは選手だけの問題ではなく、スタッフ、フロントも含めて、継続的なかつ革新的なビジョン形成やマネージメントができるかということになる。

鹿島にはその可能性があるのか。地方都市ががんばる構図はうれしいし、そういうモデルになってほしいと思うのである。
 

2008年12月 9日

遊びを工夫した

ぼくたちの子どもころというのは、もちろんテレビゲームもなかったし、家の中でするのはトランプか花札、ダイアモンドゲーム、かるたといった類で、もっぱら外で遊ぶことが多かった。

外といっても遊園地みたいなものがあるわけではなく、遊び道具は自分たちで工夫する。そのときの必需品は、「肥後の守」のナイフである。折りたたみ式の小さなナイフなのだが、これが万能でいつもポケットに収まっていた。本当は、もっと大きなサバイバルナイフのようなものがほしかったのだが、それは、大きなお兄さんしかもてなかった。

それを使って、竹とんぼややつでの実を玉にした鉄砲とか、ゴムパチンコや木刀や弓矢などなどいろいろなものを作って遊んだ。

一番すごくて危険だったのが、「2B」を使った鉄砲だ。2Bというのを知っている人は少ないと思う。ただぼくらの年代ではそれで遊んだ人も多いのではないだろうか。爆竹のような花火で、短い鉛筆のような先っちょい火薬が塗ってあって、それをマッチ箱でこすると発火し、いずれ爆発する。これでいろんなことをする。かえるの腹に入れるなんて残酷なこともした。

その2Bを片方をふさいだ細いパイプ(テレビのアンテナをよく使った)に入れ、筒先にパチンコ玉を入れて爆発させると鉄砲になる。これは危なかった。やけどしてやめた。

めんこ、駒、ビー玉、けんだま、じっくい、缶けり、竹馬などなど道具を使った遊びも数多くある。これらもいろいろな工夫をしながら遊んだ。工夫しなかったのは、フラフープとホッピングくらいかもしれない。

紙飛行機や凧もよく作ったものだ。紙飛行機は簡単に作れる小さなグライダーから、ゴムで動くプロペラ機までいっぱい作った。プロペラ機はあまりにうまく作りすぎたので、作って最初にとばしたとき遠くに行く過ぎて見失ったこともある。

船も作った。これもゴムで動く潜水艦やろうそくで動くぽんぽん船だ。

スポーツ系の遊びもよくやった。野球は人が集まらないと三角ベースである。ボールやバットもないと布を丸めて糸でぐるぐる巻きにしてボールにし、バットはその辺に落ちていた木を削ってつくった。そして、当時はそんなことができる空き地があったのだ。

家の庭でやったのは、ピンポンで卓球台なんかないので母親が洗い張りに使う張り板を2枚並べてやるのである。これはけっこうはまって、中学の最初の部活は卓球部だった。この張り板はいろいろなところに使った。筏にして川を探検したこともあった。

近所にお兄さんがいて、その人と一緒にいろいろなことをやった。リレーのバトンを作るのだ。何色にも色を塗ってきれいに仕上げ、たすきも作ってみんなでリレー大会をする。場所は普通の道路だからおもしろい。もちろん自動車がくると中止だが、めったに通らなかった。そのお兄さんは中学を卒業すると床屋さんの学校にいき、丁寧な仕事をする職人さんとなった。

当時は路上で遊ぶのが普通だったが、徐々に車の通行量が増えてきていた。そんなとき、近所の床屋の息子のかっちゃんが自動車に引かれて死んでしまった。庭でキャッチボールをしていて、ボールが道路に転がったのを注意もせずに飛び出して、ちょうど運悪く車と衝突してしまったのだ。ものすごいショックだったが、それから路上で遊ぶことがだんだん少なくなった。

まだまだいくらでも当時の遊びが出てくる。書きながら、ずいぶんといろいろなことを工夫しながらやったなあという感慨が深い。人間は、何もなくても、親から与えられなくても自然と自由に飛びまわれる遊び場と少しの道具があれば楽しく過ごせると思う。

今はそれがない。ゲームはあるがそれだけのような気がする。これじゃあ、遊ばされているようで主体性がないのではないだろうか。
 

2008年12月10日

「粋」ということ

数日前に「「型」と日本人」という本を紹介したが、そのなかに江戸時代における「粋」ということに言及した。「野暮」との対比で江戸っ子の心意気を「粋」という言葉が代表していると書いた。

ぼくはこの「粋」という言葉が気に入っていて、自分も粋な男になりたいと思っている。

この間何か教育についてのテレビ番組でビートたけしが、これからは粋に行こうと思っているとか言ったら、同席していた石原慎太郎にたけしから毒を抜いたら面白くもなんともないとひやかされていた。

たけしのように、そろそろ老境に入ろうかという時期と江戸っ子であることが重なるとどうもそういう心境になるようだ。ぼくも最近とみに思うようになった。

ではこの粋という概念はどういうことなのだろうか。一番有名なのは、九鬼周造の「いきの構造」だろう。ここで言っている中で、「いき」の内包的構造として、媚態、意気地、諦めの3つをあげている。

媚態というのは色気である。これがなければ粋ではない。ぼくが、最近一番うれしかったほめ言葉はなんだと思いますか。よく、「男前だね」とか「笑顔がステキ」だとか「いい人ですね」とか言われるが(笑)、ある呑み屋のおばさんに「色気があるねえ」と言われたときには、飛び上がって喜んだ。だって、歳はとっていてもいちおう女のひとからそう言われればうれいいものだ。

意気地はわかりやすいが、諦めというのはどういうことなのだろうか。その中では、あっさり、すっきり、瀟洒たる心持ということだと書いてある。しつこいヤツはダメというわけである。

ぼくの個人的な定義は、何か一方的な心持だけを言うのではなく、バランスだと思う。清濁あわせ持つということでもないが、対立する概念をうまくコントロールできることのように思える。具体的にはちょっと似ていますが次のことだと考えている。

情熱と冷静
矜持と諦観
自信と謙虚

このバランスが崩れて、熱いだけのやつとか、何もする気のないやつとか、自信過剰なヤツとかいますよね。そこを、バランスよくコントロールできるひとが「粋」な人と思っている。早くそうなれるといいのだが。

2008年12月11日

ドキュメントはブレーキになる

自分で言うのもなんだが、何やらわけのわからないタイトルである。最初は、ウオーターフォール開発とアジャイル開発の比較みたいのことを書き出したら、いつの間にかドキュメントのことがひっかかってきて、それは、開発方法のことだけではなく、生産システムや業務プロセスのところにも関係すると思われてきて、じゃあいっそのことそのドキュメントについて書いてみることにしようと思ったのである。

しかし、出だしは開発のところからになる。情報システムの開発方法で昔からのウオーターフォール開発とアジャイル開発というのがある。この2つを比較する場合、字句をあげつらうようだが、この2つは対立軸が違う言葉であるので、そのまま対比させるのもおかしい。

アジャイルの反対は、SlowとかDullとなるし、ウオーターフォールに対比させるならイテレーションということになる。そうなると、“俊敏”な開発はイテレーションだけかという話になってしまう。

だから、そんな比較をしてもしょうがなくて、どんなやり方でもいいから、“俊敏”な開発ができればいい。
これと似たようなことが生産ラインにもある。ベルトコンベアー方式とセル生産方式がそれにあたるかもしれない。

仕事でも、逐次的に流すものとプロジェクト的に完結させるようなタイプがある。要するに、定型化されたフロー型と非定型のストック(情報共有)型にわけることができると思っている。

それで、これまでの世界では、どうも前者の定型化されたフローで処理していくやり方が主流であったといえる。前の処理が終わると次の処理に回してという流れ作業である。これは、前述したように、システム開発のみならず工場の生産方式、会社の中の業務処理もみな共通しているやりかたである。

それは、もともと分業という考え方で、各自の役割をきちんと決めて、ひとつづつ着実に歩むことが、よい結果を生み出すと考えられた。しかも、それが効率的だとみなされていたのだ。

それは、環境変化のスピードが遅い時代であれば、そう言えたかもしれないが、現代のようにめまぐるしく変化する時代では足手まといになりかねない。

なぜ非効率なのでしょうか。ここでその象徴的なものとして「ドキュメント」(ここでは紙のドキュメントを言います)の存在について考えてみましょう。

流れ作業や逐次フロー型の処理では、各々の工程間をつなぐものとして、仕様書とか手順書、伝票といったドキュメントがある。そこに情報を埋め込んで次の工程に伝達する。それが問題になっているように思えるのだ。

このドキュメントを作る手間もけっこう大変なことは誰しも経験することではないでしょうか。しかも、どんどん変化していくので、その都度変更をかけていかなくてはいけないのだが、そのうちメンテできなくなり、いつの間にかインフォーマルなメモが横行したりする。

さらに、情報伝達が正確にいくかという問題もついてまわる。書き物ではその行間を伝えきれないのである。こうしたドキュメントが俊敏性や効率性を損なっているように思えませんか。

一般的には、ドキュメントをきちんと書くことが大事だと教えられる。そうなのだろうかと思うのである。もちろんそれは正しい意見であるが、ドキュメントがちゃんと機能するための労力とその効果が見合うかどうかということだ。一生懸命作ってもあまり使われなくてがっかりすることも多いのである。

それと、ここで言っているドキュメントは情報伝達のためでしかないのであって、最終成果物ではないということにも起因していると思う。例えば、システム開発の最終成果物はプログラムであり、プログラムというドキュメントが重要でそれが実相をあらわしている。ですから、そういうものは本当にきちんと間違いのないものを作るのである。

こうしたことを考えると、ドキュメントを媒介にした定型逐次型では、システム開発も生産システム、業務プロセスも限界があるように思える。

個人プレーのつながりでは、スピードと変化対応力が担保できないのだ。個人ではなく組織とかチームとして機能させるほうが効果を生むことができる。その場合、紙としてのドキュメントではない違った情報伝達の媒体をもつ必要がある。もちろんそれは電子化されていて、スピード感がある情報伝達、情報共有ができるようにすることだ。それが、例えばWebサイト上のコンテンツでもいいのである。

さて、ここまできておわかりのように、紙のドキュメントを使う処理では、ドキュメントが“ブレーキ”になってしまうということなのだ。ドキュメントを介した情報伝達のところでスピードが鈍ってしまうのだ。

ただし、だからといって全面的にやめろと言っているわけではない。早く走るにはアクセルだけあればいいというものではない。ブレーキがあってこそアクセルを踏めるのである。紙のドキュメントに立ち戻ることもあるからである。ですから、いざという時のためにドキュメントがあるという意味である。

日本のある有名な会社では電子化システムと平行して紙の伝票を走らせるそうだ。もし何かあっても紙で仕事ができるようにとのことだそうだ。

確かに、ブレーキとしてのドキュメントは必要かもしれないが、紙は業務処理のスピードを抑えるわけだから、アクセルを踏みながらブレーキをかけたり、何度もブレーキを踏むようなことはやめたいのである。
 

2008年12月12日

私家版業務システム変遷史 ― 1995年

ここにぼくが当時あるレポートに書いたキーワードがある。

・オ-プン化/マルチベンダー
・クライアントサ-バ-
・マルチメディア
・インターネット/イントラネット

上の二つと下の二つを括ってもいいと思う。

オープン系/マルチベンダー化の先にクアラントサーバーがあった。オープン系/マルチベンダーの反対語は、クローズド化/シングルベンダーということになるわけで、これまでは、IBMと大手国産メーカーが自社のマシンに何もかも詰め込んでそれを一社だけでユーザに提供していたのであるSystem/370 、ACOS、FACOM、HITAC、TOSBACといった汎用機がよく知られている。

ぼくは、汎用機のことはよく分からないので詳しいことは書かないが、囲い込みという状況は感じられて、メインフレーマーの手厚いサポートを受けることが当然のようにやられていた。これが悪いと言っているわけではなく、両者にとって都合のよい関係だったのだ。すなわち、ベンダーは定期的に保守料をもらうことで安定した売上を得られること、ユーザは少々高くても専門家に任せれば安心できるということが暗黙の了解事項であった。

しかも、それを覆す選択肢もなかったし、まだまだ技術的にも未完成な部分ものこっていたためそうせざるを得なかったのである。

そこに、登場したのがWndowsPCであり、UNIX系ミッドレンジサーバーであった。1993年にスピルバーグにより映画化された「ジェラシックパーク」でUNIXのコマンドを打つシーンが出てきた記憶がある。

いわゆるダウンサイジングの波である。そして、単なるダウンサイジングではなく、形態そのものを変えてしまおうというクライアントサーバーの流れもやってきた。

実は最初この二つを混同する人がけっこういた。すなわちダウンサイジングでUNIXにマイグレーションして、端末にPCを使って、はいこれがクライアントサーバーですと言っていたひともいた。

ホストー端末とCSSの違いを理解していない結果である。要するにPCが高機能化してクライアント側で処理がある程度できるようになった結果として、こうした形態をとるようになった。サーバーとクライアントは違ったベンダーでもいいということでもあった。

このマルチベンダー化でコストもどんどん下がっていった。しかしながら、クライアントサーバー型のメリットは何なのかとか、そこでの開発方法は何かといったところがまだ議論があって、上述のように混乱していた。ぼくは、このクライアントサーバー型への変化よりもこのころ実は影響が大きかったのRDBMSではなかったかと思う。

1969年にE.F.コッド博士が提唱した関係モデルをベースにしたデータベースで、90年代初めくらいから従来の階層型のDBに変わって普及していったと思う。当時、RDMSはORACLEよりもIngresの方が有名でこれが後のPostgreSQLになっているんですね。

一方、Windows95はちょうどインターネットの登場と合わさるかたちで出てきて爆発的に売れた。ただ当時は、WindowsPCが企業システムの中のクライアントとしてやっと使われだしていたころだったので、まだすぐに導入とはいかなかった。まだ、Windows3.1の時代である。そこではその安定性や信頼性を問題視され、本当はWindowsNTにした方がいいというような議論もあった。しかし、このWindows95はその後どんどん企業システムのクライアントとして普及していったのである。

マルチメディアやインターネットはまだ研究しているという段階で、まずはイントラネットから入った方がいいという意見であった。要するに、セキュリティということが気持ち悪かったのである。そして、当時はこれほどまでになるとは予想していなかったので隔世の感があるのである。
 
こうして、徐々にメインフレームの閉じた世界から、オープンな仕組みへと変化していく曲がり角を感じていた。パソコンのクライアント化やインターネットがそうした変化を後押しした。

そしてまた、IT産業はハード主体のビジネスからソフトウエア主体へとこれまた変化していくのである。最初、情報システム部門に来たとき、それまでコンピュータシステムの値段が、ハードウエア一式いくらということで、ええーソフトはどこに入っているの、みたいなことでびっくりしたことがある。
 

2008年12月13日

行商人

今のようにスーパーマーケットがあって、コンビニがあってという時代ではなかったので、どんな店屋があったのかを言っておく。家のまわりにあったのは、八百屋(酒屋、米屋を兼ねていた)、さかな屋、肉屋、パン屋、豆腐屋、文房具屋、駄菓子屋、クリーニング屋、床屋、牛乳屋ぐらいだったと記憶している。その当時は冷蔵庫というものがなかったので、毎日夕方になるとそれぞれの店に買いにいく。買出しは多くの子どもたちの仕事でもあった。

しかし、そうした店とともに行商する人たちがいた。商品を自分の背中でかつだり、自転車やリヤカーに積んで、家々を回って歩くのである。

パン屋のこまさんは、いつもリヤカーの後ろの大きな箱にパンをいっぱいつめて、鐘をならしながらやってくる。そのころはパンの種類も限られていて、ジャムパン、ピーナッツバターパン、メロンパン、チョコレートパン、そしてぼくのお気に入りの甘食パンといったところである。それでも甘いものはことのほか欲しかったのでよく食べた。

さかな屋のもう名前は忘れたがおじさんが時々くる。金沢八景から自転車を操ってはるばるやってくる。とくにあさり、蛤の類をよく調達した。おじさんが来た日はアサリの味噌汁である。

夏は、アイスキャンデー屋さんである。自転車に幟をつけて、棒についた一本5円のミルクとチョコレートのアイスキャンデーは夏の暑い日になるとあの鐘の音と一緒に思い出す。

まあ、極めつけは越中富山の薬売りだろう。近くに薬屋がないので重宝した。毎年1回やってきては、補充してくれるのである。そのとき必ず、紙風船かゴム風船をくれる。それが楽しみで薬売りの人が来るのが待ちどおしかった。

モノがない時代だからこそ、特に食べ物を買うことは大事なことで、なけなしの金をもって本当に欲しいものを待ちに待って買うのである。だからまた美味しかったように思う。

2008年12月14日

パチューカのルチャリブレサッカーは面白すぎる

なんちゅーか、パチューカはすごい。昨日の「FIFA クラブワールドカップ ジャパン 2008」の準々決勝でアフリカ代表のアルアハリに延長で4-2と下した北中南米代表のパチューカである。パチューカはメキシコの名門クラブで昨年に引き続いての出場で、昨年の初戦敗退の屈辱を晴らした。

このチームのサッカーがまた面白いのだ。まるでメキシカンプロレスのルチャリブレを見るようで小柄な選手がもう独楽鼠のようにくるくる動く、すごく軽快なサッカーをする。

それも徹底的に自分たちのパスサッカーを崩さない。やたらに確率論的な放り込みもしないし、いざゴールをねらうときはみなが一つになって向かっていく。そして最後はバズーカ砲ならぬ“パチューカ砲”を打ち込む。

こうしたサッカーができ、屈強なからだをもったチームに勝てるにはそうしたパステクニックだけで可能なのだろうか。

いやそれだけでは勝てない。ぼくは昨日の試合を見ていて2つの要素が備わっているからこそできるような気がした。

まず一つは、単なるパス回しがうまいのではないということで、それはたえず攻撃的なパス回しであるということなのだ。パスがいつもゴールに向かうように出される。パスの受け手がトラップした瞬間に前を向き、相手をかわせるように出すのだ。だから、あえて相手とぎりぎりになるよう出したりする。それを出すほうももらうほうも同じ意思でやっているからパスがつながるのだ。

もう一つはディフェンスである。特に前線の連中の運動量が半端ではない。この高い位置での執拗に相手のディフェンスにプレッシャをかけることがすばらしい。パスのうまい選手はディフェンスをやりたがらないのがよくあるパターンだが、このチームは彼らパサーが精力的にディフェンスを行なう。だから、ボールを奪ったら早く正確に攻撃に移れるわけである。こうして点も取ったシーンもある。

この二つを具現化している選手の代表が、アルバレスとヒメネスで、特にアルバレスは165cmの小さなからだだが、そのテクニックとキレで相手を翻弄していた。この選手はやばい、ミル・マスカラスだ。日本で言うと羽生選手だが、お手本にしたらいいと思うが、そこまではなかなか難しいかもしれない。

いよいよ、次戦は南米代表のエクアドルのリガ・デ・キトとの対戦になるが、ひょっとするかもしれないのですごい楽しみだ。
 

2008年12月15日

薄氷の勝利

昨日のガンバ大阪は文字通り薄氷を踏むような勝利だった。運が味方したというか、アデレードの入ってもおかしくないシュートがことごとく外れてしまった。

別に油断したわけではないと思うが、チームのキレがなかった。何かかみ合わない感じで一体感もなかった。たぶんACLの2戦に勝利しているので、受けて立つ意識になってしまったことが原因だと思う。こういうときもあるのだがそれでも勝ったのはたいしたものだ。

ガンバはパスサッカーを標榜しているので、ついその前のパチューカと比較してしまう。同じようにパスを回しながら、自分たちのリズムを作り、チャンスとみるやかさになって攻めあがるというスタイルだが、きのうのガンバは、何度もそのパスをインターセプトされて、一気に逆襲をくらっていた。パスサッカーがパスをインターセプトされると最悪だ。

ではなぜそうなるか、パチューカとの差はなんなのかである。それは、パススピードの違いだと思う。パスをまわしてくるチームに対しては当然いつもそのパスミスをねらっていく。そのときゆるい横パスが一番ねらいやすいのだ。だから、それを避けるためには味方へ強いパスを出すのが鉄則である。

もちろん、その強いパスをうまくトラップできる技術があるというのが前提である。パスサッカーはトラップの技術の上になりたっていることを忘れてはいけない。

さて、いよいよマンUとの戦いになるが、ひとあわ吹かせることができるかどうか。二川が痛んだのは大きいが、替わりの選手にがんばってもらっていい試合をしてほしい。
 

2008年12月16日

私家版業務システム変遷史 ― 1996年

この年は、工場のある製品の生産管理システムの構築プロジェクトをはじめた。生産管理というと、製造、試験、出荷という3つのジャンルにまたがるシステムである。基幹システムからオーダーをもらって、そのオーダーに従ってユーザ規格にあった製品を出荷していくというごくオーソドックスな生産管理システムである。

世はちょうどメインフレームのホストー端末からクライアントサーバーへ移行しつつあったので、われわれもその方式を採用することにした。しかし、問題があって、そのとき工場システムとしてAS400を使った設備保全などの部門システムが稼動していて、当初UNIXを使おうとしたが、まだ信頼できないと言われて、そのAS400を使えとなったのである。AS400をサーバにしたクライアントサーバーは世界でも珍しかった。CSBuilderというミドルウエアをかましてやったのである。

そして、開発方法をどうするかが非常に頭の痛い話であった。クライアントサーバーという新しい仕組みを使うなら、従来の方法ではなくその新しいプラットフォームに合った形のメソッドが必要だと考えたのだ。

ただ、CASEなるものもあったのだが、どうもしっくりいかない。RDBMSにORACLEを使うにしても肝心のDB設計をどうするのか。言語はCOBOLじゃなく4GL(第4世代言語)なら何を使ったらよいのか、バッチはどうするのかなどである。

まず、DB設計のことである。そのとき出合ったのが「T字計ER手法」である。これはSDIの佐藤正美さんが考案したDOAの手法で、ER図におけるエンティティの表現をT字型に記述することからそう名づけられた。

佐藤さんは元アシストだったので、当時のアシストの営業に教えてもらって、自分で佐藤さんのセミナーに行き、直接話も聞きながらこれでいこうと決めたのである。ぼくは、自分で開発も設計もしたことがなかったが、佐藤さんの話は強烈だった。分からないなりにいいものだと感じたのである。

そこでどういう風にコンサルを受けるかであった。お金もなかったので、「赤ペン先生」方式にすることにした。要するに、こちらでER図を書いてそれを添削してもらうという方式である。もちろんそのための講習を受けてだが、最初にビックリしたのは、こちらのプロジェクトの概要や仕様について説明しようとなって、名古屋で会ったときのことだ。

一生懸命計画書の説明をしていたら、途中でもういいからすぐにER図を書いてもって来いと言う。それを見れば、そんな説明を聞かなくても何を作ろうとしているのかすぐにわかるときた。で書き出したわけであるが、そう簡単な話ではない。かなり苦労したが、なんと設計することができ、その図を壁に張って開発を行なったのである。よくER図を見ながらユーザと会話してというけど無理ですね。やはりむずかしい。

次に苦労したのは、コーディングに入ってからである。結局、業務フロー図作成にXupper、RDBMSにORACLE、データモデラーにERwin、4GLにSQLWindows(のちにCentura)という組合せにした。ですから、SQLWindowsでコーディングするのだが、開発していくうちに、こりゃ期限までに終わらないという声が出てきたのだ。

そこで、急遽専門家を呼んでレビューしてもらったら、こんなふうにゼロから作りこんでいたのでは時間がかかってしまってしょうがないという指摘である。そして、クラスの利用を薦められて、それを購入してしのいだ。それでもかなり工期が後ろに倒れていった。そのクラスで助けてもらったのが、クラステクノロジーの四倉社長で、今もECObjectでがんばっているので陰ながら応援している。

さて、そんなわけで、新しいプラットフォーム、開発方法論で始まったプロジェクトはかなりの苦戦を強いられながら、進んでいったのである。
 

2008年12月17日

食い物の話

生まれたときが終戦直後であるということもあって、まず最初に浮かぶのは食料難ということだろう。いつも腹が減っていた。そしていつも芋を食べていた。サツマイモである。

サツマイモは実にいろいろな食べ方がある。煮ても焼いても蒸かしてもてんぷらでも、いもけんぴでも乾燥いも、何でもOKだ。じゃいまでも好きかと言われるとそれが今は全く食べないうちの嫁さんから人間一生で食べられる量がきまっているから、お父さんはそれを超えてしまったのねと冷やかされる。

ついでに少し意地汚い話だけど、食べ物の話を続ける。夕飯の風景を言ったほうがいいのかも知れない。まるで三丁目の夕日であるがご容赦の程を。

まだぼくの家にはかまどがあった。べつに特別ではなく、どこのうちもそうだった。当たり前の話、かまどは薪で火をおこす。ということはまず薪作りから始まる。そのころは薪が売っているわけではないから、自分たちで薪割りをする。当然風呂も薪だからその分も割るから重労働である。

こんなことばかりやっているから、その当時の大人はやわいヤツはいなかった。もちろん腹いっぱい食べられないのでふとっているやつはいなかったが、やせていてもたくましかった。

ほんとに何もなかった。でもいろいろな工夫をした。野性のものも食べたりした。せりやよもぎ、つくし、野蒜、ふきなどなどである。

家の食卓とはいかないが、こどもたちは、あけび、栗、椎のみ、桑のみ、キイチゴ、グミ、さくらんぼなどおやつがわりによく食べた。極めつけは、ニッキだろう。みな知らないだろうが、この木の根っこが売っていたのだ。その木の根っこをかじる。買うのがいやだから盗みに行く。この間本家の法事でその盗みにいったうちの子が来ていたので、50年ぶりにあやまっておいた。

ぼくは、こういうのもなんなのだがもともと甘党である。だから楽しみはもうぼたもちとお汁粉なのである。お彼岸や何か特別なことがあると出てくる。昔は、甘いものに飢えていたから、それこそギブミーチョコレートである。

明治の板チョコと森永のミルクキャラメル、ハリスのフーセンガム、くじであたるとまたもらえる5円の紅梅キャラメルである。マーブルチョコはもう少しあとだ。たまに、親父が横浜中華街から買ってきてくれた月餅とあぶら餡の中華まんを目の前にしたときはひっくり返るほど喜んだ。

でも食卓に並ぶものは貧弱でもみんなで一緒にちゃぶ台を囲むときは楽しかったななあ。

このころのこどもたちは、家の手伝いをした。ぼくらは巻き割りもそうだし、いつも夕方にかえってこいと声がかかると。一斉に帰るがそのあとはみんな買い物に行かされる。ぼくがいやだったのは、おやじの酒を買いに行かされることで、だからいまでも自分の酒は自分で会に行く、あまり自慢にはならないが。

鎌倉の長谷にコロッケで人気の肉屋「宮代商店」があるが、その昔はぼくらの家の近くにある唯一の肉屋であった。そういえば、八百屋も魚屋も牛乳屋もクリーニング屋も床屋もみんなひとつしかなかったなあ。競争がない。でも満足する。そんな世界である。

話はそれるが、そうした店屋の子どもたちともよく遊んだ。八百屋のカズちゃん、自動車にひかれて死んでしまった床屋のかっちゃん、クリーニング屋のカズミちゃん、豆腐やのけんちゃん、わーセピア色の世界だ。今の子がじいさんになったら何色になるのだろう。すくなくともデジタルは、色があせないから、セピア色ではない。

食べ物は本当に少なかった。ぜいたくなものはなかった。同じくらいの年代のひとが、スキヤキは豚肉だと思ったという話をしていたが、豚肉ではなかったが、脂身の方が多い牛肉であって、そのおかげでぼくはしばらく牛肉が食べられなかった。

そしておかすがないと工夫したものだ。となりのおばさんがいいものができたから食べさせてあげるよといってくれた。これは「磯辺ライス」というんだといっておもむろに出してくれたのをみたら、何のことはないご飯に海苔を細かくきざんで醤油をかけたっだけであった。そんなたくましさもあった。

食い物の話はきりがない。ここではこんなところにとどめまた給食のことやら別のタイトルで書いていきます。
 


2008年12月18日

本と映画と「70年」を語ろう

いま「極私的年代記」を書いているが、昭和の時代のことが懐かしく思い出されるわけで、そんなときに「本と映画と「70年」を語ろう」(鈴木邦夫、川本三郎著 朝日新書)を手にする。

この二人は、ぼくより若干年上であるが、ほぼ同時代を生きてきた人たちである。鈴木邦夫は一水会という右翼団体を創設した人で、一方の川本三郎は元朝日新聞の記者で全共闘シンパの左翼である。この二人が語っているのである。

右翼と左翼が仲良く対談というのも変だが、ぼくらは意外と違和感がない。例えば、全共闘とヤクザ映画とか三島由紀夫を評価する左翼活動家とかけっこう反体制という根っこで共感している部分があることを皮膚感覚で知っているからである。

前半はお互いが事件にまきこまれて逮捕される話が中心で右翼のところはよく分からないが、川本三郎が「赤衛軍」のリーダであった菊井良治が朝霞の自衛官を刺殺した事件に関連して逮捕されたのは覚えている。

川本は当時朝日ジャーナルの記者で証拠を隠滅したという罪だった。朝日ジャーナルとアサヒグラフは左翼のシンパと見られ、ぼくら学生はよく左手に朝日ジャーナル、右手に少年サンデーという言われ方をした。

後半は、どちらかというと映画からみた昭和の時代について語っている。おもしろいなと思ったのはそのころの特徴的なこととして戦争の影がつきまとっていて、だから、映画でも戦争未亡人とか戦争で家族を失ったことがよく出てくるという話である。「三丁目の夕日」にもそういう人物が登場する。実はぼくらの周りにもそういう未亡人がいて、その戦死した弟と再婚したなんてことも起こっていた。

そして、昭和30年代をこう評価している。

鈴木:たしかに、トイレもそうだし、クーラーもなかったし、とてもじゃないけど住めない。でもなんか懐かしいな、あの頃はよかったなって思っちゃう。何なんでしょうね。あと子ども部屋ってなかったですよね。みんなが同じところで生活してた。

川本:私はどちらかというと、国家という大きなものよりも、街とか個人とか、なるべく小さな単位でものを考えようとしている人間なんですが、昭和30年代って、わりと小さなものが大事にされていた時代じゃないかなっていう気がする。駄菓子やとか紙芝居に象徴されるように、小さいものが大事にされていた。国という単位でものを考えると、「悠久の大義」だとか、大きな歴史というものが出てくる。でも個人単位、街単位で考えると、記憶なんですね。私は歴史より記憶を大事にしたいのです。

なるほど、記憶ですか。それならぼくはばっちり覚えていますよ。それとぼくらの子ども頃は世界が小さいなかにいた。だからその中でいきていたことがすごく心地よいのである。

いまのようにグローバル化ということかもしれないが、大きな世界の中にいると、嫌なことだとか耐えられないことが知りたくもないのに土足で入ってくるのである。例えば前にも書いたが、知りたくもない犯罪のニュースが入ってくる。この本にも書いてあったが、昔も同じように凶悪な犯罪もあったが、それが伝わってこなかっただけなわけで、昔は安全な社会だったと単純には言えないのである。

でそうした要らない情報まで入ってくるような大きな世界に嫌気がさすと昭和はよく見えてくる。あの頃は良かったと言い出す。でもあの頃だっていいことばかりではないが、そんなことは忘れてしまうのですね。まあ、久しぶりのクラス会で思い出を語っているような本である。
 

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2008年12月19日

打ち合い

昨日の「FIFA クラブワールドカップ ジャパン 2008」の準決勝であのマンUに挑んだガンバは3-5で敗戦。しかし、賞賛の声が。マンUから3点も奪った、今季のプレミアリーグでマンUから3点奪ったチームはない、ガンバのスタイルを貫き通した、日本のサッカーが世界に通用したなどなど。

まあ、3点取ったのは5点取られたからであって、3-2とか3-3ならまだしも、3-5というのは大きな差があるわけで、手放しで3得点を喜ぶわけにはいかない。

こういう試合を乱打戦という。ガードを下げた打ち合いである。そうなると格下でも得点のチャンスが生まれる。しかも。初めての対戦となると、格下に有利になる。よくいう「失うものは何もない」からである。(実はこの言い方はぼくは好かないが)

昨日も、5-1になった時、いつも戦っているチームはそれで終わりだ。ところが、マンUもびっくりしたと思うが、もうふらふらになっているのに起き上がって殴りかかってきたのである。

昨日はそんなゲームであった。ぼくは、みんながほめるのとは逆に彼我の差を感じたのである。
 

2008年12月20日

BPM-J交流会

先週の木曜日に、日本BPM協会のBPM-J交流会に出席する。今回で7回目ということで年2回開催だから始めてから3年半経ったことになる。今回のプログラムは下記の」とおりで、今回はじめてパネルディスカッション形式を採用。ただ時間が少なかったせいで、活発な議論とはいかなかったがこれからもやったらいいと思う。

1.キーノート
(1)BPMの基礎知識          :織田新一氏 SAPジャパン株式会社
(2)BPM市場の米国状況と普及課題 :宇野澤庸弘氏 日商エレクトロニクス株式会社
(3)SIの抱えるジレンマと解決方向  :岩田アキラ氏 日揮情報ソフトウエア株式会社
2.パネルディスカッション
(1)株式会社アイヴィスソリューションズ   代表取締役社長 横田 元 氏
(2)株式会社ビズモ               代表取締役 鈴木 高弘 氏
(3)株式会社アイ・ティ・フロンティア     執行役員 大三川 越朗 氏
(4)ニュートラル株式会社           取締役 渡辺 博和 氏
(5)岩田 アキラ氏
(6)織田 新一氏
 モデレータ 宇野澤 庸弘氏

さて、もう7回目ともなると、宇野澤さんも言っていたとおり、当初のBPMとはといった議論はかげをひそめ、どう実践していくかというフェーズになってきたように思う。それだけ認知され、興味を持った人が増えてきたことでもある。

今回のテーマが「BPM/SOA時代にITビジネスはどうあるべきか」であるので、そのことについて少しふれておく。

BPMをもってどういうビジネスがあるのか、やっていくべきかという議論である。そう考えたときに、BPMはどういう分野、どういうビジネスエリアをターゲットにすべきかということになる。

セミナーの報告でも、SAPなどのERPとの関係で語られたものがあったように、まずBPMはいままでシステム化されていない領域をねらうのか、ERPがやっているような領域を切り崩していくのかということがある。乱暴に言えばERPあるいはレガシーの基幹システムとよべるようなものに喧嘩を売るのか、すみ分けるのかである。

現実的には、今の段階ではERP切り崩しは難しく、そのフロントエンドシステムとして機能させるか、ERPの苦手な顧客接点のところに存在感をおくのであろうが、いずれは侵食していくものとぼくは思っている。

以前から言っているようにERPはエンタープライズデータベースとして、決算システム化すべきだと思う。そこへつなぐための骨格としてBPMが重要な位置を占めていくと考えている。

そこへいかないとビジネス規模も大きくならない。それよりも何よりもユーザにとってコストパフォーマンスに優れたシステムにはならないからである。

先週のBPM-J交流会はそんなことを考えさせられたセミナーであった。
 

2008年12月21日

力道山

今年の夏にある若い経営者と一緒に呑んだことがあった。そのときの様子はこのブログでも紹介したが、彼がそのときあの伝説のプロレスラー力道山の本を書いたという話をしていて、びっくりしたことがあった。何がびっくりしたかというとリアルの力道山を知らない子が本を書いてしまうことにだ。それで今度その本を送りますからということで別れた。

そしてしばらくそんなことがあったのも忘れていたら、この間、本が届いたのである。それが「力道山」(中村祐介著 ヴィレッジブックス)である。

これは、映画と同時に小説ができるというスタイルで、だから映画のストーリーと同じである。2年前の今頃のブログ記事にDVDで観た映画のことを書いてあったので、読み返してみた。そうしたら、あまりほめていなかったのだ。

こりゃまずいなと思いつつページをめくっていった。そうなると、映画と小説の比較みたいなことになってしまう。おそらく、ねらいは小説を読んで映像が見たくなるということだろうと思うがいかがなものだろうか。

映画を観ていたせいか、もう半日で読了した。でその感想だが、映画より小説のほうが少しはいいかなという感じである。結局映画でも言ったのだが、力道山の相撲界に入ってから刺されて死ぬまでをなぞっているわけで、そうなるとあの偉大なヒーローを文庫本一冊程度、あるいは149分の映画の中で表現するのは無理があるように思えるのだ。

もうある断片をとっただけでも立派な小説が書けると思う。従って、そういう断片をつなぎ合わせて展開してもどうしても深くえぐっていないので物足りなさが残るのである。

それでも、ぼくらの世代にとっての力道山はヒーローのなかのヒーローだから、もちろん感動して読むのは当然で、若い子にあの空手チョップを知っているかいと思わず言いたくなってしまう。

中村君は「大統領の理髪師」というこれまた韓国映画の小説を書いているのでそちらも読んでみたくなった。
 

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2008年12月22日

マンUの強さ

マンチェスター・ユナイテッドがクラブワールドカップの決勝でリガ・デ・キドを1-0で破って世界一の座に登りつめた。

それも後半早々退場者を出しながら、10人で勝った。堂々たる王者の戦いぶりだった。マンUの強さはどこか、それは選手個々の能力の高さもさることながら、勝つための戦い方を知っていることだと思う。

つい、C・ロナウドやルーニー、テベスといったスター選手のプレーに目がいきがちだが、その選手たちが個人プレーに走らない規律ある組織になっていることにある。それが、どうしたらチームとして勝利を得られるかを追求する姿勢になっていくと思う。

昨日の試合でぼくがすごく感心したのは、ビディッチが退場になってからである。まず、センターバックが抜けたのでフォワードのテベスを下げてエバンスを投入したのは当然の策であるが、ワントップにC・ロナウドをもってきたことである。

ルーニーをトップにすると思っていたらそうではなかった。そのコンビが得点を生んだのだからたいしたものだ。逆のポジションだったらわからなかったのではないだろうか。ルーニーが守備にも貢献していたし、C・ロナウドはバックスの注意をひきつける役割を担ったし、そんなチームプレーが功を奏したわけで、こんなところにもチーム力の高さがうかがえる。

ところで、ガンバがパチューカを破ったのがすごい。遠藤はファーガソンが絶賛していたように今回の大会で注目されたので、ビッククラブからオファーが来るんじゃないかな。もはや、ガンバは日本代表より強い?

2008年12月23日

文七元結

おととい池袋演芸場で開かれた柳家小里んの独演会に行く。もう37回目になる。今回の演目は珍しく人情噺の「文七元結」である。

小里ん師匠もまくらで自分は人情噺は好きでないと言っていたが、林家正蔵(前のこぶ平)にあるとき何気なしに「文七元結」でもやるかと言ってしまったらしい。そうなると、言ってしまった手前引っ込めるわけにはいかない(これは、文七元結の長兵衛の心持ちと同じだ)のでやることになって稽古をしたらしい。

ところがそれを披露する落語会が中止になってしまって、そのまま止めるわけにはいかなかったので今回の独演会でやることになったらしい。

この落語は三遊亭圓朝作の大ネタでこれまでも大物が演じた題目で、そんなところも小里ん師匠が敬遠していたのかもしれない。

おとといは日曜日であったので、銀座の「M」(ここは小里ん師匠も常連客のひとりである)ご一行様がすでに一画を陣取っていた。時々顔を合わせる落語好きのMさんも来ていた。暗いところの隣に座ってくれないとわかからないなあと冷やかされてしまった。

いつものようにマスタからビールとつまみの差し入れがあって、それを飲みながら開演を待つ。

始まる時間が夕方6時からであったが、これがまたポスターは6時になっているが、前売り券は6時半になっていた。それを金曜日にマスタから間違えないように電話が入ったので、てっきりたっぷり時間をとってやるのかと思ったら、そうではなくて単に間違えたみたいで、急遽前座の女性落語家の噺をいれたみたいだ。これまた落語みたいなな話である。

柳家小里んの人情噺もいい。人柄の良さを出すには、かえって滑稽噺よりこうした人情噺のようが合っているのかもしれないと思ってしまった。

「文七元結」はご存知のように、バクチばかりで借金だらけの左官の長兵衛だが、その江戸っ子としての気概を面白おかしく演じるものだが、その前に演じた麟太郎も借金の取立ての噺がでてくるように、この今の世知辛い世の中を反映しているような気がして、身につまされる思いがする。

それこそ、こんな時期だからこそ落語を聞いてそんな気分を吹っ飛ばしたいものだ。落語の登場人物というのは貧乏を楽しんでしまうようなキャラクターが多いのできっと勇気をもらえると思いますよ。
 

SOA開発方法論

SOAやBPMについてブログで書いている人に“悲喜子”さんがいる。以前BPMオフ会で会ったこともある。彼のちょっと前のエントリーに「SOA開発方法論」というのがあった。それを読んでいてSOAについて悩んでいるようなのでコメントを返そうかと思ったが長くなりそうなので、このブログで書くことにした。

SOAの開発方法論について簡潔かつ明快に述べた資料は、容易に見つけることができません。まず単純に量が少なく、見つかっても英語であったり、英語の直訳調の文章であったりします。内容も抽象的なものが多く、苦労して英語を解読したにも関わらず、理解が進んだようには思えないこともしばしばです。ボンヤ リとして見つけにくく、見つけたものを読んでみてもボンヤリしてしまう…まるで蜃気楼です。

私はSOAはバズワードだと思っています。最近SOAという言葉もあまり聞こえてこないような気がします。もうクラウドに行っています。

SOAというのはまずサービスの定義もちゃんとされていないのに一人歩きしていったのではないでしょうか。それよりも何よりもSOAは具体的なシステムや技術をいうのではなく、あくまで概念であり、考え方です。ですから、会社の大きさだとか業種業態、あるいは経営方針でも違ってきます。これをすればSOAだというものがないのです。だから蜃気楼なのです。

従って、それを目的化してはいけないのであって、柔軟でアダプティブな仕組みであればそれはSOAであると思えばいいということです。

ですから、SOAを先に作ってそれからBPMだとか、SOAの開発方法論というのはナンセンスであると思っています。

だから、「SOA開発方法論」はありません。DOAやOOと並べられないのです。さらに言うと、開発方法論というと業務システムをどう作るかが書いてあるものでなくてはいけません。SOAで業務システムは作れません。あくまで、SOAという考え方の基盤の上にアプリケーションを作ったとなります。

私は、このSOAという考え方に基づく基盤というものを「機能・プロセス・データを分離独立して、それらを疎結合すること」と定義し、そこで初めて柔軟な構造が作られると思っています。

この機能のところを狭義のサービスとして捉え、その粒度を機能の性格や特性に応じて適切に決めていくことが大切になってきます。

例えば、SalesForceのような大きなアプリケーションをサービスと言う場合もありますし、単に承認するというのもサービスでもあるのです。このサービスを論理的に定義してこそ方法論へとつながっていくのです。そこがあいまいなままだと方法論にはなりません。

また私は、業務システムというのは、「リソースデータを参照して、単位業務(情報)処理(=機能)をフローで流して(=プロセス)、イベントデータを生成すること」だと規定しています。

プロセスのところは、BPMSが登場してだいぶわかりやすくなってきました。データも以前からのDOAで特にリソースデータはモデリングできます。後は機能のところを論理化することだと思います。

そこで単位業務処理とはなんなのかをはっきりさせることで方法論に辿り着くことができます。それが、このブログでももう2年ほど前から提案している「ビジネスコンポーネント指向開発」という方法論です。

まだ、データのところが弱いのでいま補強していますが、それができたら、この機能、プロセス、データの設計から実装までの全体を論じたものでなるはずです。

SOAの開発方法論が蜃気楼のように捉えどころがないのは、企業秘密に属するような隠蔽されたノウハウだからでしょうか。筆者はそうは思いません。同じ開 発方法論であるDOAやOOA、OOD、OOPは広く知られているからです。もちろん、SOAの開発方法論にも、それぞれ機密に属する部分もあると思いま す。しかし、それ以前に一般的な記述があって然るべきかと思います。

最近、業務プロセスそのものに企業秘密があるのだろうかと考えている。いまでは、それはないのじゃないかというふうに思うようになっています。だって、仕事を進めていくこと、そして、勘定科目データを生成することはそんな秘密なことでもないように思う。じゃあどこに秘密が隠されているのだろうか。

それを考えるときに、「業務プロセスのパフォーマンスは何をもって測るか」を考えたらいい。このパフォーマンスの違いが差別化や競争力を生み出しているなら、そのパフォーマンスを生み出している要素こそ企業秘密ではないのでしょうか。

それは、「意思決定の質と速さ」と私は思っています。もちろん会社の競争力はそれだけではなく、事業ポートフォリオだとか人材だとかもっと違ったものがありますが、ここでは事業オペレーションの領域のことをいっています。

この意思決定の質と速さはプロセスの違いからくるものではありません。サイモンは意思決定プロセスを、Intelligence、Design、Choiceの3つのActivityであるとしていますが、それをもう少し具体的に言うと効果的な情報取得と競争優位性のある合理的な業務ルールにあると思っています。それによりいい意思決定(手戻りがないと言い換えてもよい)と迅速な判断ができるということだと考えています。

この効果的な情報取得と合理的な業務ルールがそれぞれの会社のノウハウであり、それをを持っているか、そして絶えず進化させているかが重要であるのです。

ということで、業務プロセスだけなら一般的な記述があるのです。それをある作法に則って作って、そこに情報収集の仕組みと業務ルールの進化サイクルを盛り込めばそこの会社のより高次の業務プロセスができると思うのですがいかがでしょうか。
 


2008年12月25日

オーバーシュート

いまから言っておくがみんなぶれるなということである。これから、多分経済危機を煽り立てるようなマスメディアの喧騒や、第一次産業への回帰の大合唱が始まると思うが(もう始まっているか)、よく注意しなくてはならない。

昔エネルギー危機のとき、クーラーを止めて団扇にして、昼休みは蛍光灯を消して真っ暗という状況が出現した。それと同じようなことがおきるかもしれない。それはそれとして、いいのだけれど、日本人の悪い癖はオーバーシュートすることである。

要するに振れすぎるのである。だから、マスコミが全くアホだからということもあるが、これからそんなてのひらを返したような話が新聞紙面やテレビにどんどん出てくると思うので注意したほうがいい。

そこをぶれたらいけない。ぶれないためにも金がないという状態がべつにそう悪いことではないという視点が必要である。遠藤実は小学校しか出ないから高校三年生が作れたのである。そんな流れは悪くないのじゃないかと思うのである。

いま、こどもの時のことを「極私的年代記」で書いているが、別にこういう状況になったから書いたわけではなく、ただ単に遺言であるのだけれど、どうもいまの世の中の昔ははよかった風の論調が気持ち悪いのである。

普通に行こうよというのがぼくのメッセージで、王道って言葉があるけど王さまの道ではなく、庶民の道を貫くことじゃないだろうか。本当の庶民って、自分だけよければいいと思うのではなく、周りのの人が幸せになることが自分の幸せになると思うことでなないだろうか。

シンプルに考えればいいのであって、「あなたのやっていることはあなたたちのまわりにいる人々の幸せに貢献しているのだろうか」と問うことだ。そういう心根を持ち続けたら、ぶれることはないと思うのである。

そしてまた、オーバーシュートしないためにも、もっとマスメディアに対して懐疑的になったほうがいい。劣化したマスメディアはゴシップ雑誌とかわらない。

だから、こういうときにから元気でもいいから元気をだす天邪鬼になるのがいい。いまがチャンスだと思うバランス感覚を持とうじゃないですか。
 

2008年12月26日

街場の小経済学その2

うなぎやの話である。毎週出かけるときに通る地下の新橋駅改札を出てすぐのところに、斜め前同士でうなぎ屋がある。そのあたりでよく昼飯を食べるので、時にはうなぎを食べることがある。

すこし前までは、両店ともうな丼が900円であった。まあ、900円でうなぎが食えればいい。同じ値段だが、美味しさはこれがちと違うのである。そうしたら、うまい方のうなぎ屋が1000円に値上げしたのである。

さて、この100円の差がもたらしたものはなんだったのか。うまさの差が100円、すなわち10%をそこに価値付加したわけである。これはかなり自信がないとできないことである。

そのままのお客さんの数であれば10%の売り上げ増である。ところがそうはいかないはずで、値上げしたとたんお客さんが減ったようにみえた。もちろん、いちいち数えたわけではないので、前を通ったときの込み具合から、そうじゃないかと想像しているだけだが。10%以上減ったように思えた。

ところが徐々にお客さんが戻ったような気がするのである。ぼくにしても、100円多く払ってもうまい方がいいやとなってくる。

だが、最近はまた900円の方が多そうな気配である。どうもこの景気の悪さが反映しているようなのだ。この100円をめぐる攻防が面白く、いつもどちらにお客さんが入っているのか見てしまう。

単純に、うまさの差=値段の差だけではなく、世の経済環境にも左右されるようなのである。やっぱり、経済は心理要因のインパクトが大きいという街場の小経済学でした。
 

2008年12月27日

直ちゃんの家出

いまは近所付き合いというものが少なくなった。というよりむしろ怖くて避けているところがあると思う。昔は、近所同士でこどもたちは一緒に遊んだし、親同士も助け合いながら生活していたものだ。

ぼくの家の近くに直ちゃんという男の子がいた。男の子といってもぼくの2つ年上で、お姉さんもいて、この姉と弟とはよく遊んだ。

ところが、直ちゃんが小学校高学年になった時に、お父さんの仕事の関係で引っ越してしまった。ただ、引越し先は遠くなく同じ市内で、バスだと15分くらいでいけるところである。

そして、しばらくしたある冬の寒い日のことだった。家の庭に男の子がひとりさびしそうに佇んでいた。直ちゃんである。「どうしたの」とぼくの母親が聞くと、「家を出てきた」という。すぐに家の中に招じ入れ、話を聞くことにした。

当時の家にはどこにでもあった火鉢に手をかざしながら、直ちゃんがぼそぼそ話しだしたところ、どうもお母さんに激しく怒られ、そのまま家をでてきてしまったらしい。どうして怒られたかは覚えていないが、なんとも悲しそうな表情を浮かべていた。

それから、しばらくいろいろな話を聞いてあげていると、徐々にほっとしたような顔になり、ときおり笑顔も見せるようになった。

結局、夕方になりお腹もすいてきたので、夕食のカレーを(ここでもカレーだ)一緒に食べさせて、ぼくの父親が家まで送っていってあげた。

それから、直ちゃんのおかあさんが御礼に来て、いい子にしていると言って帰った。この話はここまでである。

というのは、今だったら、それほど遠くないところなら、家族ぐるみで行き来して、お母さん同士が近くのファミレスでときどきおしゃべりということかもしれない。だから、今昔の感があるのはここのところで、昔は近所のおばさんのところに家出してくる子がいるが、そんなに密にはなっていない、というかできなかったのだ。

なぜなら、そのころのお母さんは、何しろ忙しかった。生活するのに忙しかった。家事だって今のよううに電動化されていないから、全部手でやった。そして、よく働いた。家も少しばかりの畑があったので自分のところで食べる野菜を自家栽培していたので、その仕事も母親が一部手伝っていた。

だから、休む暇なんてないから、いまの主婦のように子どもを幼稚園や学校に送ったら、ロイヤルホストやガストやジョナサンでぺちゃぺちゃするわけではない。せいぜい豆腐屋の店先で立ち話をするくらいなものだ。

直ちゃんは今どうしているかわからないが、きっとあのことを覚えていてくれると思う。
 

2008年12月28日

白川静

白川静の偉大さにもびっくりするがそれを書いた松岡正剛のすごさにも敬服する。「白川静」(松岡正剛著 平凡社新書)は今年読んだ本の中でも出色のものだ。

実は最初はこの本を読もうとは思ってはいなかったのである。池袋の旭屋書店で、その前日に朝日新聞に載った書評担当の人たちの今年のべスト3を見て、その中から軽い読み物を5点(だいたいが新書になってしまいますが)メモして、その中から良さそうなものを選ぼうと思っていたら、みんな置いてなかったのだ。おおどういうことだ。結局、いい本と売れる本は違うということなのだろう。

そのとき、何気なしに手にとったとき、これは面白そうだとピンときた。読んでみたらこれまたその通りすばらしい本だ。

白川静というのは、2年前に96歳で亡くなった漢字学者で、何といってもその歳まで現役で研究や執筆を続けていたことである。何しろ集大成である「字統」、「字訓」、「字通」を73歳から86歳で完成させている。それをみるとぼくなんかまだまだ子どもみたいなもので、老け込む歳ではないと激励されているようだ。

本当は、白川静が書いたものを読めばいいのだろうが、そうでなくても著者が白川静という人物もその研究成果もかなりわかりやすく書いてくれているので、初めてでもおおかたの理解ができる。

“知の巨人”を描くには、“知の達人”をもってできたことなのかもしれない。

そして、この本で漢字のこと、国字のこと、東洋史のこと、民族学のことやらで、いっぱいしらないことがあったのを知らされ、ものすごく新鮮な思いで読んだのである。

白川静は単に字を研究したのではなく、そこに潜んでいる歴史や世界観を探っていったのである。古代において原初は文字はなかったのであって、そのしゃべることから書くことへ成長し、文字が生まれてきたわけで、それは文字がある「力」をもつことで登場したのだという。

その「力」とは、「呪能」というものを想定している。呪うことに限らず祝うこと、念じること、どこかへいくこと、何かを探すこと、出来事がおこるだろうということなどを文字の力ではたそうとするものである。

文字には表音文字と表意文字があるが、漢字はまさに表意文字であり、世界にも表意文字はあったそうだが、こうして残っているのは漢字だけのようである。

それも単に意味を表わしているのではなく「力」もあること、それは絶対王や巫祝王(ふしゅくおう)の存在があると解き明かしてくれる。こういう話を書いたら止まらなくなる。

また、日本の万葉集の歌の話にも関連づけていて、この件も驚くばかりである。著者も衝撃を受けたというのが、有名な柿本人麻呂の歌に「東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」というのがありますが、この歌の斉藤茂吉の解釈は、「阿騎野にやどった翌朝、日出前の東天に既に暁の光がみなぎり、それが雪の降った阿騎野にも映って見える。その時西のほうをふりかえると、もう月が落ちかかっている」というものです。

ところが、白川静の解釈はびっくりするものです。それは、皇子と人麻呂の一行はある特別の日をわざわざ選んで一夜をそこで過ごしたというのです。その日は、東に燭光が輝きはじめたときに、ちょうど西に月がかたぶく払暁の光景が出現する日ですが、そんな日はほんと特別な日でなんと東京天文台が調査した結果、その日は西暦で言うと692年12月31日の午前5時50分だというのです。これは持統6年にあたりその一行が出かけた日なのです。

結局、意味なしにそこにいてそういう景色をみたのではなく、すごい深い意味が合ったのです。詳しくは読んでもらえばいいのですが、要するに王権授霊という儀式であったわけです。そんなことを白川静は独自の迫り方で解いていったのである。

そうして民俗学的あるいは歴史的な視点も入れながら見ていくと、なぜいま日本に漢字があって、それを使う文化があるのかがよくわかるし、そもそも漢字をそのまま移入したのではなくジャパナイズした日本人のすばらしい知恵を発見します。

さて、そういう白川ではあるが、はじめから認められていたわけではない。むしろ異端児あつかいされたのです。ですから、晩年になってやっと名も知られるようになり、白川学のシンパも増えていったのです。その孤高の生き方におおいに学んでいきたいと思うのである。最後に白川本人の言葉を引用します。

私が、学会の少数派であるという批評については、私から何も申すことはありません。多数派だとか少数派だとかいうのは、頭数で決める政党の派閥の考え方で、大臣の椅子でも争うときにいうことです。学術には何の関係もないことです。学会にはほとんど出ませんから、その意味では少数派ですが、そもそも私には派はないのです。詩においては「弧絶」を尊び、学問においては「弧詣独往」を尊ぶのです。弧絶、独往を少数派などというのは、文学も学術をもまったく解しない人のいうことです。(中略)学問の道は、あくまでも「弧詣独往」、雲山万畳の奥までも、道を極めてひとり楽しむべきものであろうと思います。

白川静のことばかりを書いたが、あらためてこの本を書いた松岡正剛にも感謝です。
 

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2008年12月29日

唖然

今朝の新聞のテレビ版をみて唖然とした。NHK教育テレビが午前中の番組放送がないのと午後9時半で放送打ち切りとなっていたことである。

そして、そこには「教育テレビの今日の放送時間短縮では普段の日と比べ約9・4トンのCO2を削減したことになり、これは1700世帯が1日に使用する電力に相当」というような書き込みがあった。

なんか変ですよね。そんなふうに環境問題をいうのならいっそのことテレビ放送やめちゃえばいいじゃないかと思う。それと聴取料払っている側からみたら勝手にサービスをカットしやがって、これは契約違反だとなる。

なにかこう密かに進む集団ヒステリーのようで“厭な感じ”がしてしょうがない。大げさに言えば大政翼賛会ふうで困ってしまう。環境という名のもとでそれに反対するやつは非国民であるという雰囲気が気持ち悪いのだ。

例えば、現在のような景気後退が続けば、自動車の台数だって減るし、工場の稼働率だって落ちるし、それこそテレビも放送時間を短くせざるを得なくなるか放送局が減るかもしれないし、そうなればCO2は大幅に削減でき、京都議定書の約束も実現できるから、大いに歓迎すべきことなのである。

そうなら喜んでいればいいじゃないかと言いたくもなるが、誰もそんなことを言わない。だから前にも言ったが「マッチポンプ」ということなのかもしれない。経済が発展して環境を破壊するからこそエコ運動が成り立つという“変”な話なのである。
 

2008年12月30日

結婚しようよ

熱烈な吉田拓郎ファンの佐々部清監督の「結婚しようよ」を観る。全編拓郎の曲が18流れる中、物語が進行する。

家庭を持って以来、夕食は家族全員で食べるというルールを守り続けるという三宅裕司演じる52歳の親父が主人公である。

この父親の年齢が微妙で、52歳というと団塊の世代に入るかどうかということなのだが、どっぷり団塊のぼくとしては、ちと違うよなと思う。彼らの次は「新人類」と言われた世代だから、団塊と新人類のはざまの世代である。だから、よくも悪くも一緒にするなという意識が働く。(こういった時点でお前はやはり団塊だと言われてしまうが)

まあ、そういうことはどうでもいいのだが、この映画はぼくらの世代の人以外に若い人も観るのかと思ってしまう。

ぼくらは、多少年代がずれるけどもう懐かしくて、それぞれの若かった時代を思い出し、涙にくれるのは当たり前なのだが、こういうのを観て若い人が観てどう思うのだろうか。

でも言えるのは、これは1975年の物語だから、いまの若い人たちが33年前の今を33年後に熱く語れるかということである。

さて映画のことである。もうそこには吉田拓郎がいて、青春があった。ぼくらはそういう映画とみるのである。そんな映画を撮ってしまう佐々部清監督に脱帽 である。

多分こういう話をするといやがられるかもしれないが、Gibsonのギターだとか、映画のシーンに出てくるライブハウスの名前が「マークⅡ」だとか、キャンディーズだとか、岩城晃一がつぶやく「俺たちの旅ごっこをやったよね」とか、鉄棒のシーンとかもうそれだけで涙が出てきてしまう。

もう、べたでもなんでもいい、こんな映画があってもいいのかもしれないと思った。だって、妻恋コンサートであんなに人が集まるのだから。
 

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2008年12月31日

今年をふり返って

いよいよ今年最後の日になった。これで一年間毎日ブログを更新したことになる。われながらよく書いたと感心する。

時にはネタがなくてどうしようかとか、忙しくて時間がとれないとか、妻の入院先の病院からエントリーしたとか、そんなときもあったが何とか書き通すことができた。

そんな記事の総集編をまとめてみた。
カテゴリー別の記事数です。

・BPM( 58)
・業務プロセス設計作法( 23)
・オヤジの本棚(42)
・シネマディクトの禁断症状(56)
・スポーツ“感”戦記(43)
・ビジネス奮闘記(29)
・経営とIT(9)
・親子で紐解くWeb2.0(12)
・極私的年代記(12)
・乱調亭日乗他(107)
・全記事数(396)

こうしてみると、BPMを中心としたITの話と「シネマと書店とスタジアム」関連、そして日常の話がだいたい3分の1ずつといったところになる。

シリーズものでは、「チャイナ話」と「業務プロセス設計作法」が終わって、「極私的年代記」と「私家版業務システム変遷史」が始まった。

BPMについては、最近いろいろなメディアで取り上げられてきて、いよいよ主流に迫ろうとしている感じである。今年は、Web+DBPressにもBPMの記事を書いたし、日経BPにも少しだけ載ったが、来年はもっと注目されていこうと思っている。

今年は還暦であったので、映画館のシニア割引が効くので映画館で観る回数を増やしたいと思ったが、TSUTAYAのDVDレンタルもシニア割引が効くのでついDVDに行ってしまう。

本は、手軽な新書に偏ってしまうが、数多く読みたいとそうなってしまう。じっくり読むことも大事なのだが、つい持ち歩いて読むことを考えるなかなかそうはいかない。

スポーツは、サッカー中心だが、来年はW杯予選が続くし、目が離せない。

さて、皆さんはいかがでしたか。急に景気が悪くなり暗い年末になってしまいましたが、そんなときこそ元気を出していきましょう。ではよいお年を!
 

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