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2008年11月 アーカイブ

2008年11月 1日

イーグル・アイ

ついちょっと前に銀座の「M」で久しぶりにミュージカル、映画好きのIさんと隣り合わせになる。そうしたら、最近見た映画ですごく良かったのが「最後の初恋」だという話になった。そうしたら、逆どなりにいたMさんがマスターとまったく同じ話をしだした。ぼくらのような中高年にとってはすばらしい映画でぜひ観るようにいわれてしまった。

というわけで、一昨日に時間がとれたので有楽町へ行ったが、上映しているはずだと思っていた映画館へ行ったら「ICHI」とかいう映画をやっていた。劇場のひとに「最後の初恋」じゃないのですかと言ったら、それは先週の金曜日に終わりましたという冷たい返事。ああがっくり。インターネットは終わったら消しとけよ。

でしょうがないので、シャンテに行こうかと思ったが、時間が合わないかもしれないと、近くで別の映画を捜したら、ちょうどいい時間で「イーグル・アイ」をやっていたのでそこにする。

何も予備知識がなかったが、製作総指揮がスピルバーグで「全人類に警告  誰も逃げられない」という惹句に引かれて期待してしまった。

最初は、知らない男女が“あの女“に導かれて出会い、その声に踊らされていく。さてどんなことが起きるのかとワクワクさせるよくある筋立て。そこに、まあすごいカーチェイスがあって、これでもこれでもかと車を壊していくシーンの連続である。

よころが、だんだん真相がわかってくるのだが、首をかしげることが多くなってくる。例えば、けっこうポイントになると思うのだが、双子の兄弟であって、その兄の生体認証を弟がなりすますのだが、アクセスするシステムがものすごい高度なものなのに、ええ簡単に破れちゃうみたいなのだ。最後はどうなっちゃたのかわけが分からない。

久しぶりにハリウッドのお金かかってます映画を観たが、面白いところはないとは言えないが、もういい加減いやになった。つい、今のアメリカの混乱に結び付けてしまいたくなるが、もはやアメリカのハリウッドこそ映画であるという時代は終わったのじゃないだろうか。車が壊れるアクションシーンを見ていうるとこんなに浪費していいのと叫びかけてしまった。

終わってから「M」に行ったら、「最後の初恋」とは正反対の映画を観てきたんだねと言われてしまった。そうか、「最後の初恋」を観たら、ハリウッドも捨てたものじゃないなと言うのかしれない。

誰が出ているのかも知らないで観たが、何とあの「チョコレート」で看守役のビリー・ボブ・ソーントンを見つける。またまたいい味を出していた。
 

2008年11月 2日

情シスの逆襲

先日、情シスオフ会というのがあって、当初ぼくも参加することにしていたが、急遽所用で欠席した。ぼくは元々情シスにいたので、このオフ会に興味があってぜひとも参加したかったので残念であった。

参加していろいろと議論してみたかったので、ここで情シスの課題だとか、あるべき姿などについて書いてみることにする。

そもそも、情シスがどうしてできただとかといったことはぼくも知らないし、あまり意味がないように思うので、現状について考えてみる方がよい。

では今の情シスが抱えている問題は何なのであろうかという問いに対する答えはおおかた次のような答えになるのではないでしょうか。“ビジネスのことにもITのことにもそれほど強くないが、両方のことを考えなくてはいけない中途半端な存在ということ”。

日本には伝統的にSIerという存在があり、彼らがビジネスのところに関してもある部分入ってきてやってくれているので、情シスはエンドユーザとSIerの橋渡しをするだけでよかった。

しかし、これは限界があって、SIerはもちろんビジネスの深いところはわからないから、結局そこでギャップが生じる。そのギャップはシステムそのものの構造もそうなってしまうのは必然で、経営や事業とITとの乖離が一向に解消されないという事態になっているのだ。

それを招いている要因は、経営の情シスに対する価値観という外的なものと、情シスの人間の目的意識やモチベーションという内的なものが相まっていると思う。

わが国の多くの経営者は残念ながら情報システムに対する評価はあまり高くない。ITを経営や事業に生かすという考え方が希薄である。仕事というものはシステマチックにできなないもので、人間力が大事で、最後は気合で乗り切れみたいな気分がまだ残っているのかもしれない。

それでは、情シス部門に経営者自らがミッションを与え、しかるべき人材を投入するというコミットメントはしないということになる。もちろん、どこの会社もそうだといっているわけではなく、最近はITを重視する経営も増えてきてはいるが、製造業を中心にまだまだなような気がする。

一方、内部の問題は、そこにいる人たちのアイデンティティは何かということにつきる。いったい何を目標にして、学習しスキルを獲得し、それが会社に貢献でき、自分も成長していけるというキャリアパスを描けるのかということである。

相対的に評価の低い部門でずっと生きていくのか、それはITの専門家になることなのか、ITの経験を生かして事業部門に戻って活躍したいのか、こういったもやもやがいつもあって、いつのまにかモチベーションも失せ、何となく日常を過ごせばいいやとなってルーティンワークにいそしむようになる。

これを、解消する目的で分社化すなわち情報子会社を立ち上げるという策がある。しかし、それが必ずしもうまくいく解決策とは限らないことが悩ましいのである。ここのところは別の機会に書く。

では、こうした問題点を抱えているのであきらめるしかないのだろうか。でここで強く言いたいのは、そんなことで嘆くな、これからチャンスがあると。

今のような経済情勢では、GoTheDistanceさんの言うように内製化に向かうのは必然であるが、じゃあ、従来SIerがやっていたことを情シスができるのかという問題がある。それは、できるまでに時間がかかったり、質がおちたりするわけで、やってはいけないことなのだ。

だから、情シスでもできる、あるいは情シスこそやるべきだというやり方に変えていくことが非常に重要なことなのである。従来の延長線上ではだめで方向を変えなくてはいけない。

では、どうしたらいいのだろうか。その答えが「BPM」にあると思っている。企業のシステム構造がBPMの登場により、経営あるいは事業とITのギャップを埋めて同期しようとしています。それと同時にユーザとベンダーの関係、もっと言えばIT業界の構造をも変えようとしています。この構造変化に情シスも呼応するべきだと言いたいのだ。

BPMというのは、経営・事業とITの間に位置しているとすると、もうおわかりと思いますが、その位置そのものが情シスの存在に対応しているのです。すなわち、経営や事業における戦略やユーザ要求を理解し、それをプロセスに落とし込み、ITの部分はSIerにやってもらうように要件を提示するという姿である。

これこそ、情シス(情報子会社)がやるべきエリアであり、ビジネスやITに詳しくなくても務まるはずだ。極論すると、経営とITをつなげる接着剤の使い方を知っていればできる。

変な言い方だが、冒頭に言った“中途半端な存在”だからこそやれると考えるポジティブ発想をもってもらいたいのである。これができれば、情シスのステータスは格段に向上するはずだ。非常に期待している。

ということで、wkzkさんとGoTheDistanceさんには、「情シスオフ会」と「BPMオフ会」には密接な関係があるということで、合同オフ会をやってもらえたらいいなあと思っている。
 

2008年11月 3日

ギョイゾー!はヤバイ!!

先日の情シスオフ会でスタロジの羽生さんが「ブリスタ」を惜しげもなく公開して、そのすごさにびっくりしたとwkzkさんのブログに記事が出ていて、その中にこんな記述があった。

そうそう、それはmark-wadaさんのいう対面式で開発を行うというあのお話と一緒だなぁと。mark-wadaさん強敵ですよ、これは。正確にはmark-wadaさんだけにいうことじゃないんだけど、ま、そこまでは書かない(^^;

それで、こりゃ一言おうかと思ったのだが、具体的に分からなかったのでやめておいた。いつか羽生さんに聞こうかなと思っていたら、羽生さんが、そのあとブログで「ギョイゾー!の裏側」というタイトルで記事を書いていた。びっくりした。ここまで書いていいのかということとここまでやっているんだという驚きである。

読んですぐに分かった。分かったといっても、ぼくは中味のことはまったくといっていいほど理解できないと思うが、そうではなく「ブリスタ」のコンセプトと設計内容、機能のことである。

羽生さんがぼくの強敵だとはぜんぜん思わない、というより羽生さんの方がはるかに先に行っているし、実践でがんがんやっているのには正直言って脱帽です。

しかしながら、wkzkさんも言っているように、ぼくが考えていることとまったくと言っていいほど一緒なんです。羽生さんに一緒にするなと言われるかもしれないが、図々しくそう書かせてもらっています。

もはや、システム開発は製造工程が律速でも何でもなく、要求定義(要件定義じゃないですよ)が大きなウエートを占めています。要求定義がきちんとできたら、その成果物が一貫で実装まで行ってしまうというのがめざすところです。

このことに関して羽生さんのエントリーではこう書かれています。

このようにスタロジは、基本的にはお客様とフェイスするチームと仕組み作りチームに分かれています。そして相対的にですが圧倒的に時間がかかっているのがお客様との打ち合わせです。この打ち合わせの時間も、ブリスタのおかげで恐らくは一般的なプロトタイピングなどと比較すると随分と短い時間でやれていると思いますが、結局はお客様の「うん、こういう業務でいいんだよ」という確信にたどり着くまでの時間次第ということになっています。業務上の確信という点ではマジカ!を使ったりもしていますが、何にせよ意志決定ということがテーマなわけですから越えるべきテーマは色々とあります。

この意思決定をしやすくする仕組みというのが重要で、自分たちの業務を分かりやすく整理してやる必要がある。それも含めて課題として、

今のところ、お客様と打ち合わせをして作るものを固めるところの時間短縮が課題です。またそれと連動する形で、打ち合わせ通りになっているかを検証する時間の短縮も課題です。開発については手書きの業務ルールを出来るだけ打ち合わせ段階の資料からそのまま落とせるようにするということを考えていますが、これはあと2年ほどはかかるかと思います。

と言っています。これらの課題をどう解決していくのか。難しいのは、いいツールを作ったらできるのかという問題でもなく、その気にさせるファシリテーションみたいなことが要求されるのだろう。

それと、業務ルールというのは、必ずしもいつもきっちり決まったものがあるわけではないので、なんとなくあるものから徐々に固まってルールに昇格するようなところがあるので、ある種の成長あるいは進化プロセスとして組み入れることが要るのではないでしょうか。

ここはぼくも一生懸命考えているのですが、羽生さん、2年なんて言ってないでもっと早く作らないと、ぼくが作っちゃうよ。(笑)

羽生さん、もうこれはヤバイですよ。これはイノベーションです。イノベーションというのは、優れたことをすることではありません、方向を変えることを言います。これは情報システムの作り方の方向を明らかに変えることです。(ぼくはBPMベースで同じことを主張しています)

それと、「スタロジはいわゆるウォーターフォール型というスタイルで仕事をしています」と言われますが、行き着くところは違うんじゃないかと思う。だって、仕組み作りチームは、案件ごとに動く必要がなくなるわけで、お客様とフェイスするチームだけで開発が終わってしまうのではないかと思うのです。これもすごい。

いずれにしろ、スタロジの仕事に敬意を表さざるをえません。と同時にうらやましくてしょうがありません。羽生さん、いいですよね仲間がいてああじゃないこうじゃないと議論しながらやっているのでしょうね。ぼくも入りたいな。

ぼくは基本的にひとりなので、しかもコード書けないし、システム設計もできないし、けっこうつらいものがあります。でもがんばります。
 

2008年11月 4日

プロヴァンスの贈りもの

原題が「A Good Year」という「プロヴァンスの贈りもの」を観る。非常にいい映画というか、ぼく好みの洒落た映画だ。良質のワインの味だ。

まずは、この原題を、「プロヴァンスの贈りもの」という風にしたのもいい。「A Good Year」というのは、いいぶどうが取れた当たり年という意味なのだそうだ。

やり手のイギリスの証券マンが高い報酬を約束されている共同経営者の座を捨て、おじさんから相続したフランスのぶどう畑でワイン作りをする道を選ぶというストーリーなのだが、そうした生活を始めた年がいい年であったということなのだろうか。

というのは、今の金融危機を思うと、まだトレーダなんて続けていたら今頃どうなっているのだろうと思ってしまったからである。別な言い方をすると、今はこういう映画は作れない。

さて、この映画はいたるところで、粋でしゃれの聞いた会話が飛び出してくる。それも魅力の一つである。それと、そこには比較文化人類学的な趣があって楽しめる。いくつか紹介してみよう。

・テニスのシーンで、“フレッドペリーだ”“おれはラコステ”
・まずいワインを造っているので売れないので、ワイナリーを売るにはどうしたらよいかに対して、“ワインをわからないやつに売るのか、それじゃあアメリカ人だ”
・ 回想シーンでテニスに負けた少年に、“勝者をたたえて踊れ、イタリア人のように”
・ 約束事とは、“フランス人は握手だ。イギリス人は証券だ”
・ “われわれイギリス人は支配と労働が大好きだ”

他にもいろいろあるが、けっこうぐさっと来たセリフ、男が“プロヴァンスはぼくには合わないよ”、女が“あなたの人生がここに向かないのよ”。

ラッセル・クロウのコミカルな演技もみものだし、エンドロールの「ビキニスタイルのお嬢さん」には思わずのけぞった。

ということで、こんな映画をいつになったら日本映画で観ることができるのだろうか。
 

2008年11月 5日

システムの科学

知の巨人、1978年度のノーベル経済学賞の受賞者でもあるハーバート・A・サイモンが、1967年に書いた"The Science of the Artificial"という論文をベースにした本「システムの科学」を読む。社長がぼくがサイモンに興味があることを知って、学生の時に読んだと言って貸してくれたのである。

テーマは原題のように、「自然物とは異なる「人工物」の科学はいかにして可能であるか?」となる。

これが、今から30年前に書かれたものであるとは驚きである。さらに、経済学や経営学にとどまらず、物理、化学からコンピュータまで非常に広範な領域に言及していて、その偉大さに敬服させられる。

全部を追いかけるわけには行かないので、その中でもいまぼくがやっていることに関連していることが出てくる部分について記す。自慢するわけではないが、ぼくはサイモンという名前だけは知っていたが、この本で彼の論理の一端を知って、結果的に同じようなことを言ってるじゃんとあつかましくも思ったのである。

全体の内容については目次を提示する。
1. 自然的世界と人工的世界の理解
2. 経済合理性:適応機構
3. 思考の心理学:自然と人口の結合
4. 記憶と学習:思考に対する環境としての記憶
5. デザイン科学:人工物の創造
6. 社会計画:進化する人工物のデザイン
7. 複雑性に関する諸見解
8. 複雑性の構造:階層システム
付.企業組織における合理的意思決定

このなかで、最後の2項目である8.複雑性の構造:階層システムと付.企業組織における合理的意思決定についてみていく。

まずは、複雑性についてであるが、

複雑なシステムとは、多様に関連し合う多数の部分から成り立つシステムである。 そのようなシステムにおいては、全体は部分の合計以上のものである。

と定義して、つぎの4つの側面について述べている。
1. 複雑性がしばしば階層的な形態をとること
2. 階層的なシステムの方が、同規模の非階層的システムに比べて、はるかに短時間に形成されること
3. 階層的に組織化されたシステムの動態的な特性を検討し、そのシステムを下位システムに分解することで、行動を分析できること
4. 複雑なシステムとその記述の関係

すなわち、中心テーマは、“複雑性がしばしば階層的な形態をとること。そして階層的システムは、それぞれのシステムの個別的内容から独立した共通の特性をもつことであり、階層こそ、複雑性の構築に使用される構造的仕組みの中心的なものの1つである”ということである。

ではそれぞれに見ていくが、各側面での議論の要約をとりあげることにする。

【階層的システム】 安定した中間形態がある場合には、それがない場合に比べて 単純なシステムから複雑なシステムへの発展がずっと迅速に行なわれる。階層的なシステムだけが、発展に必要な時間を持つ。
【準分解可能性】 構成要素内の結合は、一般に、構成要素間の結合より強い。この事実は、結局、構成要素間の内部構造の高頻度のダイナミックスを、構成要素間の相互作用にみられる低頻度のダイナミックスから区別することになる。
【複雑性の記述】 構造が複雑であるとか単純であるとかということは、記述の仕方によって決まってくる。この世界にみられる複雑な構造のほとんどは、非常に重複的であり、われわれにはこの重複性を利用して、その記述を単純化できる。 複雑なシステムの記述は多くの形態をとるが、なかでも、われわれは、状態記述を持つことができるし、またその処方を書くこと(筆者注:過程記述)ができるのである。

こうしてみると、企業情報システムも実は複雑系であり、階層的システムになっていることがわかる。
そして、それがある構成要素に分解でき、強く結合された構成要素とその要素間の関係性から成り立つこともわかる。組織でもシステムでも構成要素である小グループや単位業務処理をつなぎ合わせて上位階層ができるという姿が浮かんでくる。

そして、こうした複雑なシステムを記述するのには、状態記述、すなわちどうなりたいか、望ましい状態はといったことと、そのためには何をすることなのか、どう動くのかという過程記述を描くことになる。

ぼくはこのこと前から「構造化」と呼んでいるが、いまのSOAやBPMの思想はこのことに他ならないのである。そうした意味で、非常に共感し勉強になった本である。

つぎに、この本の最後の付記でサイモンがいっている意思決定プロセスについては次回に書く。
 

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2008年11月 6日

サイモンの意思決定プロセス

以前の記事で少しばかりH・A・サイモンの意思決定プロセスのことを書いた。これについて、彼の著書である「システムの科学」も参考にしながらみていくことにする。

サイモンの意思決定のプロセスというのは、
1. Intelligence Activity(情報活動)
2. Design Activity(設計活動)
3. Choice Activity(選択活動)
ということになる。

すなわち、情報活動で意思決定のための情報を収集し、問題点を明らかにし、設計活動で、問題解決のための代替案を提示し、選択活動でそれらを評価し、満足解(最適解ではない)を得るというプロセスのことである。

これは、業務プロセスそのものではないかと思うのである。サイモンも「意志決定は管理(Management)とほぼ同義である」と言っているように、経営は意思決定であり、組織は意思決定の分業化されたシステムのことでもある。

こうしたサイモンの意思決定論は記述的意思決定論とよばれるが、他にも規範的意志決定論と呼ばれるものがある。これは「意志決定者に対して、いかなる決定を下すべきかの規範ないしは処方箋を提供することを主目的とする」ものである。

一方の、記述的意思決定論というのは、「現実の意思決定行動の記述を目的とする」もので、実際に、人や組織はどのように意思決定を行なっているのかを実証的に説明することである。

この理論を乱暴にBPMにこじつけていくと、規範的意思決定はトップダウンアプローチであり、リファレンスモデルやベストプラクティスに基づき、より近い解を提示することと言えないこともない。そうなると、記述的意志決定論はボトムアップアプローチでAsIsを描いて、そこからToBeへいくという姿勢である。

サイモンは、規範的意思決定論と相違するのは、人間はそんなに合理的にはできていないといういところであると述べている。

古典的な経済学や決定論では、いつも合理的にふるまう「経済人」や「経営人」がいるという前提にたつ。そうした人間は合理的な行動をとるから、最適基準を提示できるという理屈になるが、そんな人間なんてどこにもいないというのがサイモンの主張である。人間は限られた状況においてのみしか合理的な決定、判断ができないというあの有名な「限定された合理性」である。

話はちょっと飛ぶが、これは今の金融危機あるいは経済学の破綻も似たようなところがあって、経済は必ずしも経済学的には動かないもので、心理的な行動による面もかなり大きいことが今回の状況で証明されている。サイモンは昔からそういうことを指摘していたのである。

日常的なビジネス活動の局面においても必ずしも皆が合理的な意思決定をするとは思えないのであって、そこをどうやるかが問題となる。

また、サイモンは意思決定のタイプとして、「定型的意思決定」と「非定型意思決定」があると述べている。前者は反復的、ルーティン的で、モデルに依存でき、プログラム化される意思決定である。それに対して後者は、問題の本質と構造が複雑で不明確、アドホックな非構造的意志決定である。

さあーて、これはまさに定型業務プロセスと非定型業務プロセス(機能)と同じことを言っている。こうした分解は、解決する技術が違ってくるので大事なことだと思う。

では、人間はこうした限定的な合理性しか持ち合わせていないとなると、どうしたら“より合理的な”意志決定ができるのだろうかということになる。その答えの一つが、組織による意思決定の分業化なのである。合理的な意思決定をするための装置としての組織である。

これは、具体的には、意思決定の前提を伝達するコミュニケーションシステムを機能させ、組織の分業により、より合理的な意思決定をおこなう仕組みを確保することである。

限定合理性あるいは不確実性という前提のもとでとりうるシステムは、最初に述べた意思決定プロセスを実行できる環境のことであり、それはとりもなおさずこれからのBPMがめざすところなのである。
 
その具体的な仕組みとして、ぼくはWebサイトによる「情報共有の場」を提供することで、”納得あるいは満足できる”意思決定を行なうことを提案しているのである。
 

2008年11月 7日

図鑑に載ってない虫

またまた三木聡監督の「図鑑に載っていない虫」を観る。彼の作品を観るのは「インザプール」「亀は意外に速く泳ぐ」「転々」に続き4作目となる。

うーん、この作品はちと行き過ぎた感じである。小ネタ満載、ナンセンスコメディの三木ワールドであるが、少し外しすぎた気味。

“死にモドキ”というわけのわかんない虫を探しに、最初は伊勢谷友介演じるルポライターが友人やらリストカッターの元SM嬢ややくざなどが一緒になるというストーリー。そうした仲間や出会う変なひとたちを相変わらずの脇役が固める。

松尾スズキ、若松了、ふせえり、松重豊、村松利史、笹野高志らが縦横に個性を発揮して暴れまくる。もう個性派脇役オールスターみたいでそこがひとつやりすぎのところかもしれない。

どうも、三木ワールドは落語の世界に通じるように思えて、登場人物からして落語的な雰囲気である。だから繰り返しの笑いがあり、りっぱなオチもあって、枝雀の言う「どんでん」というさげである。

最初に言ったようにあまりやりすぎると食傷を起こす可能性がある。こういうものは、控えめぐらいがちょうどいいような気がするので、三木監督にはちょっと抑えていこうぜと言いたい。

まあ、そうは言っても楽しくくすっと笑える映画はいいものだ。
 

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2008年11月 8日

はちまんさま

ぼくら子供のときのお正月の過ごし方は、定番の羽子板と駒回し、凧揚げである。そしてお年玉を抱えて、「はちまんさま」に行く。「はちまんさま」というのは、鶴岡八幡宮のことである。

そこには、いろいろな店が並んでいて、変なお菓子やお面を売っていたり、ヨーヨー、金魚すくいとかいった屋台がぎっしり出ている。時にはひよこを買っていって怒られたりする。

そこで、今でも忘れられないテキヤのおじさんのだましのテクニックの話をする。ルーレットみたいので当たると景品がもらえたり、紐で引っ張ると商品が釣れるようなものもあったが、だまされたのは万年筆のことである。

当時、ぼくのあこがれは万年筆をもつことだった。スポイトでインク瓶からインクを吸い上げ、すらすらと書くのが夢であった。でもまだこどもが買うには高いので中学生になったら買おうと思っていた。中学生になって買おうと思ったのはもう一つあって、それは腕時計である。でも腕時計は中学入学の時、オヤジがお祝いに買ってくれたのである。無茶苦茶うれしかった。

さて、万年筆である。境内から少し外れた空き地で人だかりがしているので行ってみると、テキヤのおじさんが口上を述べながら万年筆を売っていたのだ。思わず買いてーなあとながめていたので、言っていること、やっていることに魅入ってしまった。

何やら液体を皿に入れて置いてある。おそらく塩酸だったのではないかと思うのだが、数本の万年筆を取り出しては、その液体につけるのだ。ほとんどシューと音を出して溶けてしまうが、中の1本だけが溶けない。

おじさんは、これは本物の金だからだと大きな声で言った。その後はお決まりのように、“今日ここにいる人は運のいいひとだ。この正真正銘の金の万年筆を格安でおわけしましょう”となる。それがいくらだったか忘れてしまったが、おそらく数百円だったと思う。おお、ぼくも買えると思ったと同時にそれくださいと言っていた。

ところがである。すぐさまおじさんが言った言葉が、“さて今買ってくれたお客さんはさらに運のいいかたです。実はこちらにいま買っていただいたものより値段が何倍もする高級万年筆があります。それを、たった300円追加するだけで手に入るんですよ”だったのだ。

周りのひとが、おそらくサクラどもだろうが、こぞってお金を出してアップグレードしたのである。言うまでもなく素直なこどもは負けじと取り替えたのである。

いさんで家に返って、件の万年筆をとり出しすらすらっと書こうとしたら書けないのである。どこか引っかかった感じでなめらかではないのだ。そのうちインクの出も悪くなった。

そしてじっとその万年筆を眺めながら思い出していたら、はっと気がついた。まてよ、本物の金のペン先といったのは、最初に手にしたやつであとから買ったやつはそんなことは一切言わなかったなと膝をたたいた。後の祭りである。

もちろん、翌日もまた次の年もまた同じ場所に行ったのは言うまでもない。当然居るはずもなくリベンジは果たせないでいる。
 

家の前で

機能の深夜、突然大きな音と人の声が。どうもモノレールから発せられているようだ。

ぼくは歯を磨いて寝ようかと思っていたら、社長も部屋からとび出してきて、「モノレールで事故だ」と叫んでいる。自分部屋から見えたらしい。

一緒になって外に飛び出してみると、モノレールが本当に家の目の前で停車している。よくみると、フロントエンドガラスが割れていて、近くに作業車が止まっていた。

いま、ちょうどモノレールの柱や梁の塗装をやっていて、うちの車もビニールシートをかぶせられた。たぶん、まだ走っているのを知らないで作業開始したのかもしれない。

そうしたら、今朝の湘南モノレールのホームページに次のような文章が載っていた。

○お詫び
昨日(11月7日)23時53分、上り回送列車が西鎌倉駅~湘南深沢駅間で高所作業車と接触し運行不能となり、下り江の島駅最終列車が湘南深沢駅で運休いたしました。
お客様には大変ご迷惑をお掛けいたしましたことを、お詫び申し上げます。
                 平成20年11月8日
                 湘南モノレール株式会社
なお、モノレールは、現在ダイヤ通り運行しております。

しかし、やっと以前の衝突寸前トラブルから、この年末にはダイヤが正常に戻るというのに、こんな初歩的なトラブルを起こすようじゃいかんなあ。モノレールは事故がないのが売りの一つだと思うので。

下は立ち往生したモノレール。
 
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2008年11月 9日

5世代のOB


ずっと前から計画していた、高校時代サッカー部だった同期の還暦を祝う会を昨日行なった。それをぼくらの世代だけではなく上下の世代の人たちも交えてやった。

実は昨年、一つ上の年代の還暦を祝う会に招かれていったとき、顧問だった先生に来年はもっと範囲を広げて盛大にやろうと言われていた。

それでぼくが幹事をやると宣言してしまったので、さてどんな風にやろうかと思案していたが、まずはどこまでの範囲にしようかが問題だった。それで、夏になって先生に会って相談したのである。結局、そのときあまり広げてもいけないのでせいぜい上下2世代だねというところに落ち着いた。すなわち、ぼくらが1年生のときの3年生、3年生のときの1年生ということにしたのだ。

それで、昨日は5世代にわたるメンバーが集合したのである。40名弱が出席したが、ぼくは5分の一のひとが高校卒業以来であった。ひとによっては、ほとんどがそうであったと言っていた。

最初は、誰だか分からなくてもちょっと話しただけですぐに昔の姿がよみがえってくる。そして皆その昔のことをよく覚えている。

今回は、顧問のS先生が描いた水彩画をぼくらの世代のひとりひとりに贈ってくれたのである。全部で14名だったので、14枚の絵を額に入れてくれて飾っておき、抽選で当たった絵を持ち帰ったのである。これはすごいいい記念になる。これこそ、母校の伝統である文武両道ということになる。

ということで、先輩、後輩からお祝いやら、楽しい話やらたくさんもらって感激です。そのときにも言ったのだが、こういう会をきっかけにして、名刺の要らない付き合いを先輩後輩を越えてやれたらと思う。

幹事としてけっこう気を使ったが、皆さんが喜んでくれたのでほっとしているところである。
 

2008年11月10日

Acerはえーさー

AcerのAspire oneが家にやってきた。やってきたというより買ってきたのだけど、今日藤沢に行ったついでにビックカメラで今話題のネットブックPCをゲットです。

だいぶ前に、そば屋で呑みながら、ThinkPadのX60を開いてブログを書いていたら、落としてしまったのだ。ThinkPadは丈夫だから平気だと思い込んで使っていたら、ちょっと前に、ヒンジのところでちぎれてしまった。ゆがんだまま開閉を繰り返したから、カバーが破れてしまったということだ。

さて、どうするか。保証期間も過ぎているし、修理にけっこうなお金がかかるし、たとえ修理に出したとしても2週間もPCなしもつらいし、さりとて、このまま使い続けるのも問題だし、ということではたと困ってしまった。

そこで、急浮上したのが、ネットブックPCである。今のPCはそこそこ重いのでいつも東京まで背負っていくのもえらいと思っていたので、軽い持ち運びの負担の少ないものがほしかったということもあって、速攻で決めた。

今のヤツは出先の事務所に常駐させて、このネットブックPCを持ち歩くことにした。ただ、問題はemobileで、今度のヤツはUSB対応しかしていないので、今持っているPCカードタイプが使えない。

ところが、ビックカメラだとemobile加入と抱き合わせで54,800円が9,980円なのだ。でとりあえずこの抱き合わせで購入し、現在のemobileの契約を解除するのか、ダウングレードするのかとかをあとから考えることにした。

さて、まだ触っただけだけど、キーボードがたたきにくいのかと思ったが、ノートPCとそう変わらない感じで、“Aserはえーさー”と言ったら社長から、“それって、おやじギャグ?”と冷やかされてしまった。
 
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2008年11月11日

プライドと偏見

原作がジェーン・オースティンの小説「自負と偏見」である「プライドと偏見」を観る。イギリスのオールロケだそうで、その田園風景が美しい。

物語は、ある5人の娘を持っている一家の近所にお金持ちの独身男性が引っ越してくることから始まる。その当時のイギリスでは女に相続権がなかったんですね。ですから、女たちの関心はいい男を早く見つけて結婚することなのだ。

そんな娘が5人もいたら大変なことになる。そんな大変な親をドナルド・サザーランドとブレンダ・ブレッシンが巧みに演じている。特にドナルド・サザーランドの父親がみせる愛情溢れる娘への言葉に味があって好感が持てた。

さて、その5人の娘の中でキーラ・ナイトレイ演じる次女であるエリザベスが主役である。他の娘たちもそれぞれ違った性格で、対比してみていくと面白い。エリザベスは勝気な性格でその当時としてはもっとおとなしくしろといわれたのではないでしょうか。

しかし、「プライド」をもった男にとってこういう女は魅力的なんですね。普通はまわりからちやほやされるのに、ずたずたにされる。そんな女はめったにいないから余計離れられなくなる。

まあ、実際の映画では、「プライド」というより「はにかみ」、偏見というより「誤解」といった方がいいような展開なのだが、お決まりのそうしたわだかまりが解けてめでたしとあいなる。

ただ風景の美しさも相まって、素直にいい映画だと思わせる作品であった。
 

プライドと偏見
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  • Amazon おすすめ度の平均: 4.0
    • 4 プライドや偏見を乗り越えてこそ
    • 3 親しみやすさと低俗
    • 5 本当にキレイな映像
    • 5 美しい!大好き!
    • 5 ダーシーが素晴らしい
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2008年11月12日

またまた、オヤコラボ

昨日は、社長が最近一緒に仕事をした渋谷の若い人が経営している会社に社長と一緒に行く。Endeworksという会社で社長はPerl界隈では有名な牧大輔さん。1977年生まれだから31歳である。うちの息子よりも上だが親子ほどの年齢の開きである。

何しに行ったかというと、ぼくがいまやっていることを聞いてもらい意見をもらいたいということなのだが。ひょっとしたら、何か関連するものがあるのか、一緒にやれるようなことがあるのかということである。

こういう人は、理解が早いし、すぐに頭がこうやってコードを書いてみたいなところに持って行ってしまう。それで、少しは興味を持ってもらえたのかなあというのと、そんな難しいことではないと言ってくれた。

ただ、問題は誰がやるのか、やるにしてもビジネス的な観点ではどうなのかといった点が議論になる。これは、昨日だけの話ではなく、いつもついて回っていることである、すなわち、資金的な裏づけとその後のビジネスの展望が確保されたなかでプロジェクトに落とせるかという課題である。

ぼくのアイディアがそれに相当するかどうかは別として、日本でもシリコンバレーのようにベンチャーキャピタルが資金返済を条件としない投資をしてくれるような仕組みが欲しいということなのだ。そういうリスクを冒せる風土になってほしいと思うのである。ただ、今のような状況だと難しいだろうが。

ぼくが説明した中で、牧さんに指摘されたのは、やりたいことやろうとしていることはだいたいわかるが、それが既存のものとどこがどう違うかがよくわからないと言われてしまった。

確かに、ぼくはエンタープライズ系のシステムばかり見てきているので、従来型のシステムは最初から頭に入っているが、そこにいない人にとっては、従来型といわれてもどういうものなのかは分からないのだ。

つい、自分の常識が他人でも常識だという思い込みに陥ってしまっていた。ということで、その差異をしっかり説明できるような資料を作り始めた。

打ち合わせの後、牧さんの会社の若いエンジニアの人2人も交えて、近くの店で呑む。皆さん非常に仲がいいのが、その会話ぶりで伝わってくる。牧さんの会社は5人の会社なのだが、いわゆる普通の会社の形態ともちがい、一緒の事務所にいるんだけれど個人がネットワーク的やり方で仕事をしているといった感じなのである。こういうやり方も面白い。

まあ、牧さんのばかでかい“あら煮”と格闘している姿を見ていると、このエネルギッシュさがいいのだと感心してしまった。他の二人の貧乏話に大笑いをし、楽しい夜を過ごしたのであります。
 

2008年11月13日

すっきりした

今朝起きたら、富士山がくっきり浮かんでいた。最近、天気がよくなかったので、くっきりと見えたと思ったら、もうすっかり雪化粧だ。これからの季節はこうして晴れた日には富士山が眺められるので気分がいい。

昨日、妻の入院先の病院にいったら、退院が決まっていた。やっと、帰ってこれることになった。

アジア・チャンピオンズリーグ決勝第2戦でガンバ大阪が2-0で豪州のアデレード・ユナイテッドを破り、2試合合計5-0という圧勝で、クラブ史上初のアジア制覇を達成した。ガンバの攻撃的サッカーが実を結んだ瞬間でもあった。

このチームは、なんと言っても、中盤の明神、橋本、遠藤、二川の4人のコンビネーションのよさが特徴で、相手の出かたや、試合の流れに応じて柔軟にその役割、ポジショニング、戦術を変えられるというのが強さの秘訣だと思う。これは、西野監督も含めて、皆ガンバ在籍年数が長いことがそうした特徴を発揮できる素地になっているのだろう。

さて、こうしてすっきりしたのはいいが、仕事の方がすっきりしないのはどうしたことか。何もかもすっきりというわけにはいかないものだ。

きれいに映える富士山です。
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2008年11月14日

怒号うずまく社会保険事務所

ここのところずうっとバタバタしていたので、すっかり、年金の請求を忘れていた。請求するための書類は誕生日の2ヶ月くらい前に来て、請求は60歳になってからにしてくださいとなっている。これでは忘れるのも無理はない。気がつくのに1ヶ月遅れて、忙しくて行くのに1ヶ月遅れたというわけである。

やっと時間がとれたので、今日近くの社会保険事務所に行ってきた。銀行の窓口と一緒で番号札を取って待つのだが、130番でぼくの前に32人もいた。一瞬帰ろうかと思ったが、まあ我慢して待つかと覚悟を決める。そんなに混んでないと思って本を持っていくのを忘れたので、手持ち無沙汰で居眠りと考え事で時間をつぶす。ところが、面白いことがつぎつぎ起こる。

「あんたらひどい」「お前らが改ざんしたんだろうが」「おれは生活がかかっているんだ、いい加減にするな」「ちゃんと調べろ」「お前は知っているくせに隠してるな」「でるとこでようぜ」てな調子の言葉が乱れ飛ぶ。

すごいですよ。事務所の人はといえば、「書類に書いてないものはどうにもならないので」「どうしたらいいんでしょう」「これは規則ですので」と平身低頭である。

ははあ、新聞やテレビで言っているのは本当なんだと改めて感心してみる。でも、言っていることは堂々めぐりもいいとこで、そりゃそうですよね、記録にないのをあるという立場とないと言う人が言い争っているのだから、おさまるわけがない。最初のおじさんなんて「おれはもう15回も通っているんだ」と言っていたが埒があかないようだ。

ところが面白いことを発見。おじさんたちがつっかかって行く先は、どうも事務所のえらい人のようで、そういう問題があるケースではそれなりの立場の人が応対することになっているのだろう。そこで争いが起こる。

だが、たまりかねて隣にいた女性担当員の人が助けに入った途端静かになってしまう。不思議なことに時折笑い声も起きる。やっぱり、こういう仕事は女性の方が向いているのではと本当に思った。

そんなわけで待たされること3時間でやっとぼくの番になった。呼ばれた番号のところにいくと、残念ながら、ぼくと同い年のおじさんだったが、「いらっしゃいませ、大変お待たせして申し訳ありません」ときた。年が同じだからすいすいと処理してくれてやっと手続きが終わる。

いよいよ、年金生活がスタートするが、年金なんて要らないというくらい今の仕事で成果を出したいなと思う今日このごろである。 
 

2008年11月15日

ビジネスの品格

品格ばやりでまたこんなタイトルで書くのはいやなのだが、むしろこの言葉が一番合っているようで使ってみた。

先日、日商エレクトロニクスのビジネスソリューションフェアの基調講演でジャーナリストの嶌信彦が言っていたことがすごく気になった。これからの日本の生きる道は環境ビジネスだというようなことを言ったからである。嶌さんだけではなく、日本の得意技は環境技術だから、それを生かすビジネスだ、そういう話をよく聞く。

おそらく、それに異を唱える人はいないのじゃないかと思うのだが、ぼくは天邪鬼なので、みんなが諸手をあげてこれがいいと言われると、ちょっと待てよと思うたちである。でこの環境ビジネスであるが、すぐに浮かんだのが、こばんざめ商法かよである。他にもいろいろ浮かんでくる。

人のふんどしで相撲をとる、さしみのつま、グリコのおまけ、マッチポンプ、衛星ビジネスなどなど。もうお分かりですよね。まず、コアあるいはメインのビジネスがあって、その周辺のビジネスですよね。言い方をかえれば、そのビジネスだけでは成立しない、コアやメインビジネスがあってこそ成立するものなのである。

そんなビジネスを救世主のように言うのはやめてくれといいうことなのだ。さらに、このこばんざめ商法にもポジティブなものとネガティブなものがある。ここもよくみると意外なことがわかってくる。

ここでポジティブかネガティブかの岐路は、人間、組織、会社などにとって幸福を願うものなのか、そうでないのかということである。ここはかなり怖ろしい話になるが、あえて考えてみることにする。

どういうことかと言うと、環境問題を例にとればわかりやすいと思うが、環境ビジネスが成立するということは、環境破壊あるいは環境に悪いことをするから、それを防ぐ、直す、対応策をとるといったことがビジネスのネタになる。ということは、ビジネスを繁栄させようとすると、コアビジネスで環境に悪いことをどんどんやってもらうことが、そのビジネスの利益をもたらしてくれるというわけである。

やっぱおかしいでしょ。CO2をいっぱい出して、それを改修するビジネスって、マッチポンプですよね。
だから、みん環境という美辞でだまされていると思う。ということは、もっとコアあるいはメインビジネスのありかたに目をむけるべきなのだ。

人のあるいは組織の不幸あるいは不具合、間違い、そんなことを願うことで成り立つビジネスの品格をどう保つのかという問題が横たわっているのだ。

たとえば、あえて医師のことを言うが、人間が病気になったほうがビジネス的にいいというのはどうなのかということである。製薬会社の心理も一緒であるが、自分たちの顧客は不幸な人たちである。ということは、人が不幸になることがビジネスチャンスであるということになる。これは、おそろしいことなのだ。
だから、ビジネスの品格というものがあるような気がするのだ。

その基準は人あるいは組織の不幸を願うビジネスではないというものか、例えそうであっても幸せを願う姿勢を失わないことではないかと思うのである。

でもビジネスということをぼくは言っている。ビジネスはお金儲けをしなくてはいけない。それは単純にモノやサービスを買ってくれるひとを増やすことなのだ。ここで言っているのが、それが人や組織の幸せに単純につながっているかどうかなのだと思うのである。

話を環境の問題に戻ると、一番単純に考えれば、環境問題を引起してもコアあるいはメインビジネスは必要であったのである。生活を楽にしたい、面白いことをしたいといって、多少のネガティブ効果を無視してもいいのだと眼をつぶったのだ。

それはそういうトレードオフを選択したのである。それは鬼っ子であって、けっしてメインのビジネスに躍り出ることはありえないのである。そういう議論が必要なのであって、ファッションの環境はいらない。

でタイトルのビジネスの品格を考えたとき、面白いことになる、それは評価基準として、幸せを願うことがビジネスのインセンティブになるのか、不幸になることをビジネスチャンスととらえるかということになる。

おそらく、こういう切り口で職業の品格のようなことを見たことがないと思うが、いちどこうした見方をすると面白いと思う。

そうなると、会社のトラブルが多いほうが儲かる弁護士や保険会社、人が病気になったほうが儲かる医者や製薬会社、ごみやCO2をいっぱい出してほしい環境ビジネスって少しおかいしような気がするのです。

でもぼくは全面的に否定する気まったくなくて、というか自分自身が石油化会社にいていやというほど味わったジレンマである

結局、うまく折り合いをつける、バランスシートを成立させることだと思う。極端に2極に持っていくことではなく、落着くところは結局釣り合ったところである。だから、少し資本主義というのがいいのじゃないだろうか。


2008年11月16日

いつか読書する日

好きな映画です。何がって、一生懸命生きている人の映画だから。映画には、若者が登場しない。いや正確に言うと、児童虐待の若い夫婦とスーパーの店長と不倫ごっこをする女が登場するが、それは大した存在感はない。

どうも一生懸命に生きているのが、年寄りと子供なのかとつい思ってしまう。この映画は、特に前半では、ここらあたりの情景が頻繁に登場してくる。痴呆の問題、児童虐待、介護、地方、役所、地方商店といった題材が描かれる。日本の縮図的な絵柄が表れてくる。そのなかで、50歳の男女の恋物語を出してくるという監督の眼にはまいったのだ。

若い人には、50歳の恋と性はわからないと思うが、この映画の表現のとおりのような気がする。この歳に同窓会やったら、いくつかのカップルが誕生するというのもうなづける。

この映画で描かれているのも似たようなことで、高校の同級生の男女が、かたや奥さんに死にわかれ、かたやずっと独身でいる二人が、その歳になってやっとお互いが近づいたら、いくところはそこだみたいな映画だ。「プライドと偏見」にも似たところがある。

しかし、これがこの映画の少し不満なところである。そんなに風になるのだろうかというのが素直な感想である。それとすぐに主人公を死なせてしまうのはよくない。たぶん、30年も前に抱いた思いをそのまま、いまの身に変えられるれるかというと絶対ないというのがぼくの思いである。

言い方を変えると、少年少女の関係と全然違うと思うのだ。どういうことかというと、“生活”がどう蓄積されたという裏づけが人生にとって必要であって、それを入れていくと違う結果になる。だから、死んでいく奥さんのの“勘”は当たってもそれがそのとおりいかないのが人生なのである。

ここらあたりは、小僧っ子にはわからないはずだ。

そして田中裕子が光る。いい映画に出会った。
 

いつか読書する日
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    • 4 胸の底に眠る熱情
    • 4 美しくてハレンチでセクシー
    • 5 牛乳配達の瓶の音
    • 4 幸福の基準
    • 5 坂道
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2008年11月17日

妻の退院

昨日、やっと妻が退院した。当初の予想よりだいぶ長く、1ヶ月近く入院したことになる。ただし、退院したといっても手放しで喜べない。というのは、まだ腸の具合がよくなく、昨日も休日だというのに検査してくれて、その結果は、入院継続であったが、無理やり退院させてもらったのである。

妻が言うのには、病院にいなくてはできない治療というのではなく、基本的には食事制限と薬なので、それだったら家でもできるということらしい。むしろ、病院にいるときのストレスのほうが大きく、直るものも直らないと言っていた。

これは、半年前にばあちゃんが入院したときも同じような話があって、特に複数部屋で同室の人の相性や周囲への気づかいで結構ストレスがあるようで、そういうことを考えると、家に帰って、ストレス除去をするほうがよいという選択肢はあると思う。

ということで、医師の制止を振り切って(大げさか)、退院してきた。どうも、最初は知らなかったのだが、子宮ガンの手術は思ったより大変だということがわかってきた。

まあ、気長に療養していくというか、そういう気持ちが大事であるとつくづく思う。結局、おそらくのところ、まったく健康で過ごせる人はいないような気がする。

昔と違って、これだけ医学が発達すると、なかなか簡単に死ねない時代になったということは、別ない言い方をすると、何らかの持病を抱えながら生きることを強いる時でもあるということを自覚していくことだと思うのである。

2008年11月18日

テーブルの出来事

いい短編小説というのは、オー・ヘンリーをもち出すまでもなく、“ほっと大きく息をはく”という感じがある。心温まるというか、いい気持ちにさせてくる。

「テーブルの出来事」(幻冬社)は、そんな短編集である。著者は、ぼくの高校の時の1年先輩で、同じサッカー部にいた植松二郎さんである。先週、ぼくらの世代の還暦を祝う会にも出席してくれて、そのとき、この本を紹介してもらった。

本は、食あるいはレストランに関する物語が10編収められている。登場人物は、そういうお店に勤めている料理人だったり、サービスするひとだったりするが、その職人気質、見習いの心意気、お客さんとのやり取りといった、いろいろな立場でのエピソードを中心に作者の暖かいまなざしで淡々と描いてみせる。まるでサッカーのプレーぶりを思い起こすのである。

本の中に書いてあるのと同じように、とてもいい味です。おいしいお酒を呑んだときのような後味のよい感覚になります。

なかでも、本の帯にも書いてある「シンゴの父親」は父と子、親方と弟子の関係を見事に描いていて気持ちいい。こうしたことは、レストランという場ではなく、あらゆる職場に通じることだと思うのである。

植松さんは手前味噌ではなく、「陽春のベリーロール」や「人々の走路」にしても、こうした肩の力が抜けた、しかし奥深いものを提供してくれる数少ない作家であるように思う。

聞いたこともない言葉や難解な文体で、いかにも高尚な文学ですみたいなものより、平易な言葉で、ふだん着の語り口で、実は重要なことを表現していることが好感をもてるし、好きになれる。

ここらあたりは、少々脱線するが、ぼくがやっているITの世界もしかりで、むずかしいことをするより、やさしくシンプルにするほうが何倍もむずかしいことなのである。この本はそういうことも教えてくれるのだ。ぜひ、みなさんに読んでもらいたい本だ。

本人は、最年長の芥川賞を狙うと冗談を言っていたが、これからも素晴らしい小説を書き続けていってもらいたいものだ。
 

テーブルの出来事―レストラン短編集
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  • 植松 二郎
  • 単行本 / 幻冬舎メディアコンサルティング
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2008年11月19日

マクロSOAとミクロSOA

最近、HA・サイモンの影響か、階層化ということをすぐにしてしまう癖がついた。階層化ということは、マクロとミクロに分けることでもある。ぼくは経済学には疎いので何もいえないが、経済学にもマクロ経済学とミクロ経済学というものがあるらしい。その伝で、マクロとミクロで分解していくと面白い。

で今から、SOAを眺めていくことにする。ちょっと前にSOAは終ったとか書いている手前、こんな記事を書きたくないのだが、まだまだSOAといている人がいるのであえて書く。SOAもマクロのSOAとミクロのSOAがあるということである。

ぼくがやっているなかで、BPM on SOAと標榜しているので、SOAについて言っておく必要があると思うので、あえて、そのSOAをミクロとマクロに分解してみる。

そうすると、どうも世の中で多くの人が言っているサービスの単位が、マクロであるような気がするのである。IBMというような大手ベンダーがそういっている、ぼくのようにBPMをやっているものにとっては大きすぎる粒度なのだ。その粒度でシステム間連携をできるの大きなグローバル企業でしか必要としないな気がするのである。

だから、もっとミクロ的な場面で有効に使うべきであり、それはBPMの先っちょの仕組みをサービスとして規定することが必要であると思う。

この低レベル階層でのサービス化が重要なのであって、マクロで必要な企業なんてほんの一握りであり、それを追いかけるより、泥臭く、しかし実効のあがることが基本なのです。どうも本に書いてあるような格好いいことは必要なくて、ほんとうに現場で泥まみれになることが必要だと思う。

ここで、ちょっと前にSAPの人が、サービスの定義をしていたので、それをみてみる。クラウドコンピューティング時代に対してアプリケーションのサービス化を進め、2008年度中に2800個のサービスがそろう予定だそうだ。

サービスとは例えば「製品IDで在庫を検索する」「従業員番号で上司を検索する」「お客さんIDで請求伝票を検索する」といった粒度のものだ。

そうなのだが、ええーと思いません。こんなこととっくの昔にやっていることだと思うのですが、何かもっと深い意味があるのでしょうか。

もっと、業務処理、機能といった色合いの強いものがサービスだと思うのですが、まあ、定義はいろいろ合ってもしょうがないので、あまり目くじらたてずに自分流の定義でやっていくことにする。
 

2008年11月20日

ギョイゾー!はイイゾー!

昨日は、スタロジの「ぶり祭り2008」に行く。「Buri」や「ギョイゾー!」のことは、多少知っている程度だったので、実際に聞いて、見てみてかなり分かった。この間、羽生さんが、ギョイゾーの裏側というエントリーで書いていたことを読むだけでは理解できなかったことが明らかになった。

プログラムは、
1.どうしてBuriが必要になったのか
2.Buriの基礎
3.Buriエディタ自慢
4.Buriを使う場合の設計の勘所
5.ギョイゾー!生Live

よかったのは、最初にここに至った歴史的背景について1時間以上も羽生さんがしゃべってくれたことである。何か新しいことができるためには、背景というか、状況を冷静に分析することが不可欠で、その認識が的確であれば必然の結果として出てくる。

そういう意味では、業務システムの観点から見ると、ここ10年間、アーキテクチャ、インフラなど情報技術の領域ではめまぐるしく進展しているにもかかわらず、何も影響されていない、そして何も変わっていないという言葉は重い。

それと、昔の環境だったからあった機能みたいなものも、今だったら必要ないのにいまだにそれにしがみついていることをやめなくてはいけない。遺物となったコード体系、肥大化した変換プログラムなどなど。

だから、これまでの延長線上で考えるのではなく、不連続線としての変革のアプローチが必要なのである。そうしたビヘイビアをスタロジは持っている。

さて、羽生さんは終わってから、もっとみんな感動してくれるかと思ったらそうでもなかったのでがっかりしたというようなことを言っていたが、ぼくは、声を大にしては言わないが、けっこう感動している。

こういうことって、その場ですぐわあすごいとなかなかなれないことがある。白鳥の水かきじゃないけど、上から泳いでいる姿だけ見ていると、水面下で一生懸命水をかいているのがわからないのと同じように、出来上がったものだけをみると、なかなかその裏ですごいことをやっているのを忘れてしまうもので、実際に同じことを自分でやってみて初めてそのすごさに気がつくということなのだろう。

設計の方法などいろいろ議論したいが、おいおい書いていくことにして、プロセスの切り方についてだけ書く。この辺は以前ちらっと羽生さんと話したことがあったが今回でBuriにおけるプロセスの切り方がわかった。

エンティティレベルで切って、それらのステータスを管理するというのが基本で、長いプロセスになる場合はそれらをつないで構成する。エンティティというのは、例えば申請プロセスであれば、「申請書」でそうした書類というオブジェクトを状態遷移させることと定義できる。この書類の状態遷移が業務処理を表わしていることは同意見でぼくもそういうことを提案している。

しかし、UIを含めてこの開発がほぼ二人でやっているというのは驚きだ。そして、この二人がいい距離感なんだな。お互いに干渉しないというか手を出さないというか、ぼくは人間疎結合だといったのだが、その結果、システム構造的にも、シンプルな疎結合ができあがる。UIからは、何でもtoNextStatusをなげるだけでいいということになる。

Buriとギョイゾー!がIT業界の変革をもたらす起爆剤にならないかとひそかに願っている。それには、少しずつでもいいから実績を積み重ねていってほしいと思う。
 

2008年11月21日

ナカムーラのチーム

サッカーW杯最終予選で見事にアウエーでカタールを粉砕した。ホームよりアウエーのほうが強い外弁慶日本代表だ。

この試合の勝因は、ゴールに向かうアグレッシブさだが、田中達也が入るとこれが活性化される。中盤での絞り込むディフェンスもよかった。ちょっとカタールの厳しくないディフェンスを割り引いても人とボールが動くサッカーができていたのではないだろうか。

なにより、光っていたのは中村俊輔で、左足のけがの影響も感じられたにもかかわらず圧倒的な存在感があった。

3点目のあのボールフィードの精度は圧巻だ。あのプレー、すなわちショートコーナーから、リターンしてファーサイドでヘディングというパターンはすごく有効だ。しかし、何度も使えないからここぞというところでこれからも威力を発揮してほしい。

俊輔は確実に代表チームの柱になった。リーダとしての自覚もでてきたし、以前は寡黙だったが、いまでは突っ込んだ発言をするようにもなった。

昨日の試合後のインタビューで、「けがの調子は?」と聞かれて、一瞬こいつアホじゃないか、けがの調子ってどういうこと?という感じで、「けがしているから調子は悪いですよ」と答えていた。聞くほうももう少し考えろよなあとぼくも思った。

それはそれとして、前回のバーレン戦で「交替選手がどういうことで入ったのか考えないと」という発言をしていたが、今回は「交替で入った選手がよくやっていた」ということを言っていた。また中沢の替わりに入った寺田のこともほめていた。この気配りこそリーダを自覚したものの言葉なのだろう。

おお、いい方向に向かっているぞ。
 

2008年11月22日

30Daysの軽さ

先日、高校のサッカー部の還暦を祝う会をしたのだが、そのとき、写真を撮ってそれをどうやって参加者に見せようかと思ったのである。

恩師の先生は、撮った写真を絵葉書にして、すぐぼくのところに送ってきて、同期の出席者に配れとのこと、それはそれでいいのだけれど、デジカメで一杯撮った写真はどうすればいいのだ。

メールに添付して送るにはでかすぎるし、ということでこういうときには社長に聞くのが一番早い。そうしたら、一押しが「30DAYS」というサービスだと教えてくれた。今年の4月にPaperboyから提供されたサービスである。

これが超簡単で便利だ。ファイルごと一発でアップロードでき、あとは、みんなが見られるための合言葉を決めて登録すればそれで終わり、こりゃ楽だわ。

これから、クラス会だとかいろいろな会合で写真を撮ってこうした形で開示するのが多くなりそうな気がする。

2008年11月23日

幼稚園

ぼくには、2つ上の姉と3つ下の弟がいる。当時としては珍しいほうかもしれないが、家の近くに幼稚園があった。3人ともその幼稚園に通った。ぼくは、姉の手を握りしめながら通園したのを今でもはっきり覚えている。

幼稚園生活は楽しかった。みんなで砂場や遊具で遊ぶのも面白かったし、お弁当の時間がまた楽しかった。冬になるとダルマストーブの上にお弁当箱をのせて暖めてから食べる。お昼近くになると、そこから立ちのぼる湯気と匂いでお腹が鳴った。

今では弁当箱はアルマイトではなくプラスヒックだし、ダルマストーブはなくエアコンだから、電子レンジでチンということになる。ずいぶんとスタイルも変わるものだ。

そして、なんと言っても一番の楽しみは、クリスマスである。クリスマスの日にはスプーンとお皿を持参していく。昼時になると、坂の上からサンタクロースが大きな袋を提げてやってくる。何をもらったかは忘れたが、小物のプレゼントをもらう。

そのあと、みんなでカレーライス(いやライスカレーといった)を食べるのだ。なぜクリスマスにカレーなのかはわからないが、これが無茶苦茶おいしい。世の中にこんなうまいものがあったのかと思った。

そして、サンタクロースは実在すると思い続けたわけである。そのサンタクロースは先生が扮装していたということは後年知ることとなる。

この幼稚園というか、ここだけではなく、このころの幼稚園はおしなべてけっこう厳しかった。いたずらをするとビシッと叱られる。あるとき、友達5,6人で女の子をからかっているのが見つかったことがあって、このときぼくらはみっちり怒られて、倉庫に閉じ込められてしまった。

かなり長い時間、真っ暗な部屋に入れられ、もう泣きべそかきそうになりながら、はげましながらじっと我慢していた。もう耐えられないと思ったとき、がらっと戸があいて光が差し込んだときはほんとほっとした。

この時代、こうして子どもを叱るのは当たり前で、それで善悪をからだで覚えさせたのである。今でも記憶にあるということはそういうことだと思う。


2008年11月24日

カポーティ

作家を映画の主人公にするのはおきて破りだ。「カポーティ」はそんな映画である。忙しくて、TSUTAYAへの返却日を忘れていて、延滞金を払っても見た映画がこれだったのでちょっとすねてみる。

最初からわかっていただろうと言われるかもしらないが、ひょっとしたら作家という立場とはあまり密接な関係がないものかもしれないという気があった。

ところが、この作品は、トルーマン・カポーティが「冷血」を書くために殺人犯に取材して作品にしていく過程を描いているわけで、それはおきて破りだって。その過程はその作家の文学作品で結実させればいいだけであって、読者はそんなネタ晴らしみたいな映画は見たくもないのではないだろうか。

例えて言えば、ちょっと飛躍するが、イチローが隠れて素振りをしているのを見せるのと同じではないかと思うのである。

だから、作家を主人公にその作品を作る過程を映画にすることはあまりないような気がするのだが。以前バージニアウルフを主人公にした「めぐりあう時間たち」という映画もあるがそれだって、作品を書く過程というより、そのひとの人生を描いているわけで、それはわかると思う。

トルーマン・カポーティを演じたフィリップ・シーモア・ホフマンの素晴らしさや作品自体の評価も高くてもなお、なんとなくしっくりいかないのである。

ということで、かなりはしょった批評で申し訳ありません。
 

カポーティ
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2008年11月25日

できそこないの男たち

この本は、女に読ませてはいけない。この本とは、あの「生物と無生物のあいだ」の著者福岡伸一が書いた「できそこないの男たち」(光文社新書)である。

面白い。この著者はほんとうに文章がうまいし、物語性を持った学術書というか、推理小説のような展開である。

ここでもまず、男を男たらしめているY染色体の発見競争の話から始まる。しかし、何よりも驚かされるのは、生物学的に男は、そもそものデフォルト(基本仕様)である女をカスタマイズした生き物であるということである。

そして、カスタマイズしたばかりにそこに不具合が発生したりするため、男は女に比べて弱いのである。だから、女よりも早く死ぬというのだ。よく男は外に出て多くのストレスを受けたり、喫煙、飲酒による影響が大きいとかいった理由で語られることが多いが、どうもそれだけでは、説明がつかないものらしい。そうなんだバグを抱えているのだ。そこを、本書ではこう書かれている。

Y染色体という貧乏くじを引いたばかりに、基本仕様である女性の路線からはずれ、遺伝子の使い走り役に作り変えられた男たち。このプロセスで負荷がかかり、急場しのぎの変更が男性の生物学的仕様に不整合が生じさせたのである。ちょうど、カスタマイズされたPCの内部で、カスタマイズされたがゆえに、思いがけないソフト同士の衝突や設定の不整合が発生して、PC自体がフリーズしてしまうように。弱きもの、汝の名は男なり。

こりゃショックだ。そうかわれわれ男は“女のできそこない”だったのか。だから、原初的には、男は子どもの遺伝子の半分を運ぶためだけであった。そして、少しずつ女が男に役目を与え、命じていったのである。ここらあたりは現代もアッシー君を持ち出すまでもなく同じ様相をみることもできる。

では、今のように男が世界を支配しているように見えるのはどうしてだろうか。それに対して著者は、“余剰”という概念を持ち出している。

男たちは、薪や食糧、珍しいもの、美しいもの、面白いものを求めて野外に出た。そして、それらを持ち帰って女たちを喜ばせた。しかし、まもなく今度は男たちが気がついたのだ。薪や食糧も、珍しいものも美しいものも面白いものも、それらが余分に得られたときには、こっそりどこか女たちの知らない場所に隠しておけばいいことを。余剰である。 余剰は徐々に蓄積されていった。蓄積されただけでなく、男たちの間で交換された。あるいは、貸し借りされた。それを記録する方法が編み出された。時に、余剰は略奪され、蓄積をめぐって闘争が起きた。秩序を守るために男たちの間で取り決めがなされ、それが破られたときの罰則が定められた。余剰を支配するものが世界を支配するものとなるのに時間はそれほど必要ではなかった。

なるほど面白いでしょ。他にも出アフリカの話とかチンギス・ハーンの痕跡とか万世一系の話とか、いろいろ驚く話が満載でぜひ読んでみてください。オスはかわいそうな生き物であることを知って愕然となるのか、メスのために尽くそうと思うのか、いやー複雑だなあ。

2008年11月26日

K先生

小学校の時の先生で一番印象に残っているのは、3~5年の受け持ちだったK先生である。1年と2年は女の先生で、6年は年寄りの男の先生であった。その3人の先生もすごくいい先生で、よく覚えているが、やはり期間も長かったこともあってK先生のことを語ろうと思う。

K先生の専門は理科で、僕はこの3年間で理科系の道を歩むことが決まったのだ。植物や昆虫のこと、いろいろな実験を通して理科の面白さを知ったのだ。

このころのぼくの必携は、植物図鑑に昆虫図鑑である。牧野富太郎監修の折りたたみ式の植物図鑑はお気に入りで、野山を走り回るときも持ち歩いていた。そして、ファーブル昆虫記とシートン動物記がそばにあった。

4年生のとき、K先生に連れられてNHKテレビに出演したことがる。「はてな劇場」という理科の番組で、先生の知り合いが番組のスタッフであったようだ。ぼくたちのクラス全員が出演して、理科の実験や観察をしながら問題が出て、それに答えるという趣向である。

何とそのときの司会が黒柳徹子だったのである。問題が二つ出るのだが、ひとつは蛙の卵を見せられてこれはなんという蛙の卵でしょうという問題であった。これは、クラスのほとんどが手を挙げて、そりゃそうですよねいつも捕まえて遊んでいたんだから、S君という男の子がトノサマガエルと答えた。

もうひとつは、ジェットコースターみたいな仕掛けにビー球をころがせた実験で、答えは加速度だったのだが、誰も答えられなかった。理科少年のぼくとしては、すごくくやしい思いをした。

K先生はこうして、ぼくたち子どもたちにすごい愛情を注いでくれた。そこでは、勉強ができる子もできない子も、体の強い子も弱い子も分け隔てなく接してくれて、クラスはファミリーのような雰囲気が作られていた。

M君という子がいた。山の中の一軒家に父親と暮らしていたので学校を休みがちであった。先生はぼくたちに給食のパンを持ってその子の家に行けという。そここで、ぼくたちは何回かに分け数人ずつで訪ねていった。それからしばらくするとM君もやっと心を開いてくれて学校に来るよううになった、そんなこともあった。

そして、K先生はぼくらの憧れだった保健のS先生と結婚したのだ。その結びつきを作ったのはぼくらだと思っている。

ある夏の日、そんな素敵な先生同士の新婚家庭に招かれたのである。家が鎌倉の材木座だったので海水浴をして、お風呂に入れてもらい、夕食にカレーをごちそうになったのだ。ここでもカレーだ。

今でもあのころの教室や校庭の情景が浮かんでくるが、のびのびとそして自然のすばらしさに驚き、学び、成長したからこそ今があるような気がするのである。

2008年11月27日

発生点入力

リアルタイムシステムという。以前、SAPはリアルタイムのシステムだからと言われていた。いったいこれは何のことだろうか。バッチではないという意味でもない。その場で入力したデータが即会計システムに行って、決算ができるということなのだろうか。

リアルタイム経営とも言われる。目の前の事象にすぐに反応することがリアルタイムなのだろうか。どうも違うような気がする。

じゃあ、経営はどうやるのか。ぼくはあまり語る資格はないのだろうが、目先のことに右往左往することではないような気がする。むしろ事業やプロジェクトの責任者がリアルタイム性を望んでいるのではないだろうか。

最初の設問に戻ってリアルタイムシステムって何だろう。リアルタイム性は必要なのだろうか。たぶん、リアルタイムなんて言わないで、簡単に業務処理をいかに早く行うことだと言えばいいと思う。そして、そのための要件のひとつに「発生点入力」があるということを強調したい。

これまでのシステムでは、これがなかなか出来ていない。発生したデータをつかむ人とそれをシステムに投入する人が違うというのが、そもそもリアルタイム性を損なっている。

事業責任者やマネージャーはすぐに最新の情報を得たいのは当たり前のことだ。ただ、それは必要条件であって、それがあれば的確な判断ができることとは別問題だが。

それはそれとして、データが発生したらその場で入力されるのが、適切な判断をするために必要だということはわかると思う。

しかし、それがなかなかできない。どうしてできないのかである。それは、システムそのものの形態がそうなっていることである。今のシステムはデータ入力マシンになっているから、登録オペレータにデータを入力させることで事足りてしまうからである。

だからなおさら、データを入れる人のメリットとそれを使う人のメリットがつながらないということである。

自分が入れたデータがどう使われているか知らない、自分のためにならないことだったら、いいかげんでいいやとなるのは仕方ないけど人情である。だから、自分が入れるデータは自分の仕事に役立つこと、それができなくても、せめて自分が自分の仕事として入れてるデータがその場でそれを使う人に見られているというふうにすることだと思う。

発生点入力というのは、こうして組織としての業務の処理スピードを上げるためには必須なのである。そのためには、繰り返すが、データ発生したそこにいる人が入力するか、人が違ってもその人の参加意識を醸成することがポイントのような気がする。

それと大事なのは、そういうことができる仕組みに変えていかなくてはいけない。すなわち、システムはデータ登録マシンではなく、組織的に仕事をやっていくための情報処理マシンであるという形態にするということなのである。それが、BPMのめざしていることであるのは言うまでもない。
 


2008年11月28日

開発体制が変わる

先日、スタロジの「ぶり祭り2008」でギョイゾー!を見てて、こりゃこれからの開発プロジェクトの進め方や体制がずいぶんと変わるなと改めて実感した。

羽生さんはスタロジの開発はウオーターフォール型だと言っていたが、いわゆる従来のような形とはぜんぜん違う。これまでは、ユーザのひとからヒアリングして、それを持ち帰ってコーディングする。

そのヒアリングする人とコーディングする人は違っていて、設計書を書いては、プログラマーに流す。その結果を持ってユーザに持っていってレビューする。そうすると、必ず仕様変更や手戻りが発生し、設計からやり直すと大変なことになる。

なぜこういうことがおこるのであろうか。まず、ヒアリングした相手が、すべて“正しい“仕様を提示できるわけではない。そのひとがこうだと思っていることに過ぎない。

だから、よくあることは、Aさんから聞いて開発して持っていったら、Bさんが現れてそんなことではないと否定されてしまう。やり直しということになる。開発現場ではこれがくりかえされる。

それを打破するには、ヒアリング-レビュースタイルはもうやめて、その場で要求をすぐに動くものにして見せてしまうことである。上述の例でも、キーパーソンは忙しいからすぐに出てきてくれないのだ。

だから、最初は担当に適当にまかせ、自分は最後に確定するときに出てくればいいと思っている。ということは、最初がすぐに最後になれば、決定権のある人が最初からその気になってくれるというわけだ。

そして何より、少人数で開発できてしまう。ぼくは、これからの開発に必要なスキル人材は、まずは、プロセス設計ができる「ビジネスプロセスデザイナー」、システムインフラを設計(特にセキュリティ)、運用する「ITアーキテクト」、フレームワークやインターフェースを開発する「スーパークリエータ」である。あとデータを管理する「データアドミニストレータ」であろう。

そして、ビジネスプロセスデザイナーがユーザと対話しながらプロセス設計を行い、それができれば、ほぼ自動的に動くものができるというイメージである。

先日のスタロジでも、その役目を羽生さんが演じていて、要求を聞きながらフローを作ってしまった。あとは、二人のスーパークリエータが作ったエンジンとUIですぐに動かして見せた。それでいいのである。

そういう開発こそが、本来的には“アジャイル”であると思う。これをギョイゾー!がやっているのだ。これはすごいことだと思うが、いままで何回も言っているように、SIerの死活問題だから、役所が公務員改革をやらないように、SIerからは出てこない発想でもある。

国内だけを考えていればいいかもしれないが、グローバルに目をむけたとき、BPMが標榜しているコードレス開発は欧米では進んでいるだろうし、インド・中国がやりだしたらどうなるのかおわかりだと思う。

2008年11月29日

R-1グランプリ?

「NHK新人演芸大賞」の落語部門の大賞を三遊亭王楽が受賞した。この賞は、東京でいう二つ目の落語家(関西にはない)が対象ということで、王楽は来年真打になることが決まっているので今年が最後のチャンスだったのを見事大賞を射止めたことになる。

下記が最終審査に残った5人とそれぞれの最終演目である。

桂まん我『野ざらし』
古今亭菊六『やかん』
三遊亭王楽『鼓ヶ滝』
笑福亭喬若『青菜』
立川志らら『壺算』

さすがに最終審査に残っただけあり、力のある若手ばかりである。M-1グランプリならぬR-1グランプリといった趣であるが、敗者復活から這い上がるということはないようだ。

これを見ていてふと思ったのは、漫才との違いである。演者が一人と二人という当たり前の違いはもちろんあるのだが、個性の出方の差がある。落語の方が多様なタイプがあるが、漫才は比較的同じタイプになってしまうように思える。ぼけと突っ込みというスタイルがすでに2つの個性を生んでしまうためで、その点落語は、ぼけタイプもありだし、突っ込みタイプの落語もある。

今回の大賞候補の5人もみな違ったタイプである。だから、それぞれを比較してどれが一番なのかが決めずらいのだ。

またまた、サッカーの例で恐縮だが、泥臭いストライカー、技巧派のミッドフィルダー、屈強なディフェンダー、汗かきのボランチを比較して、誰が一番優秀な選手かと問われているようなもので、答えがでないのと同じである。

ぼくは、古今亭菊六、笑福亭喬若、三遊亭王楽の順だと思ったのだ。王楽の落語は玄人受けするかもしれないが、はたして面白いのかというと首をかしげるかもしれない。

だから、評価基準ごとに3つくらいの賞にしたらいいのじゃないのかと思うが、やっぱり一番を決めたいのでしょうね。

2008年11月30日

運動会

ここのところ学校話が続いているが、運動会は小学校の時のメインイベントである。運動会の前日は興奮でよく眠れない。当日は、家が学校に近かったおかげで、朝早く起きて、場所を取りにいく。ござを持っていいところに置いておく。

それから儀式が始まる。まずはロッキーじゃないけど生卵とマムシの粉を飲む。そして、ふくらはぎに入念に“からすうり”を塗る。さて、いよいよ出陣である。はちまきをしっかり締め、はだし足袋をはき、気合を入れて家を出る。

もちろん運動会の花形は徒競走とリレーである。ぼくはこのころはまだ足が速くクラス代表も務めたくらいだ。徒競走もほとんど一番であった。(実は高校時代に自分の足が遅いのに気がついた、進歩がなかったのだ)

賞品はノートと鉛筆に決まっている。それでもそれをもらえるとすごくうれしかった。

運動会は小学生までで中学、高校は少ししらけていた。そう運動会ではなく体育祭といった。ここのメインは仮装行列でそれだけしか記憶に残っていない。

特に高校の場合は、もう1年前くらいから準備していて、仮装といっても行列するというわけではなく、演技をするのでそのテーマ設定から振り付けなど時間と手間がかかる。

しかし、ぼくはサッカー部の部活が優先だったので、ほとんど参加していなくて、当日はほとんど何もしなくていい“一兵士”みたいな役回りを与えられた。

しかし、大人になっても運動会と聞くとからだがうずうずしてくる。ところが、もう40歳くらいで会社の運動があってそのリレーメンバーになって走ったのだが、もう予想どおり、頭で描いているイメージと足の運びが合わず、ものの見事にこけてから、運動会とは疎遠いなっていった。
 

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