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2008年8月 アーカイブ

2008年8月 1日

米国-日本IT事情

昨日は、「SCC日本支部メンバーズ・ミーティング」に参加。このメンバーではないが、バイスチェアマンの渡辺さんから紹介され、いつものITC協会の小林さん、井上さん、BPM協会の宇野澤さんと出席する。

講演では、カリフォルニア州立工科大学の一色浩一郎教授の「米国における「経営とITの同期」の実態」とUMLモデリング協議会副会長の堀内一東京国際大学教授の「モデルとモデリングにおける海外最新動向」を聞く。

一色先生は20代で渡ってからもう米国生活が40年になるそうで、日本語より英語の方が堪能でときどきあやしい日本語が出てくる。しかし、中味はアカデミックではなく実践的な話を中心にすごくわかりやすい。日本の大学の先生の場合だと、小難しい言葉で翻弄されてしまうが、一色先生は平易な言葉で丁寧に説明してくれて、しかし中味は濃いというものであった。こういうところも日米差がある。

実は、一昨日小林さんを除く上記のメンバーと渡辺さんと一色先生とで夜会食しながらお話をする機会をもらった。そのときの話も交えて日米の「経営とIT」の比較についてふれてみる。

経営とITに関しての体系を見せてもらいながら話をしたのだが、その中で経営に近いところでCIOは単にITだけではなく、経営にタッチしていなくてはいけないということで米国のCIOの肩書きで多いのが、SeniorVP&CIOとかExcectiveVP&CIOなのだそうだ。

そして面白いことを言っていて、米国のCIOは24・7といって24時間7日はいつも経営とITの同期ということを考えているが、日本では週に10時間だそうだ。そして、失敗すれば首になるし、成功すれば膨大な報酬がある。ここでも大きな違いがある。

また日本ではCIOというとぽつんと一人いるようなイメージですが、彼らは必ず「PMO」(Project Management Office)といって何人かのProgramManagerとProjectManagerをスタッフとして抱える。このPMOに入るやつは、要求工学をきちんと勉強した人たちである。先生の教え子はこういうところで働いている。

ちなみに、先生の行っている大学は90%以上の学生は企業で働いているのだそうだ。日本の学生はアルバイトこそすれただ学校へ通っているだけだ。しかも、教授もただ教えるだけでなく、彼らも企業のコンサルをしたりしている。そうでなければ教授になれないらしい。そしてつまらないカリキュラムだったり、授業が面白くなかったらやめさせられる。ここでも日米の差がでてくる。

さて、PMOの人たちが戦略を練って、SOW(Statement of works)として目標を作り、RFPに落としていく。ここまでは当然ユーザがつくるのである。そのあと要求仕様書に落としていくが、それまでのところが非常に重要で、これが日本はぜんぜんできていないところである。へたすると、ベンダーにSOWやRFPを書いてもらうところさえある。

ここはインドもまだまだなので、今のうちにこの領域をやれる人材を育てておかないとみんなもっていかれると強く警告していた。

それともう一つはEnterprise2.0のところで、これはどんどん新しい技術やサービスがでてきていてそれが企業にも入ってきている。もうEmail は使わなくなってきて、Podcastに変わっているらしい。ここでも米国の若者の活躍はすごいと言っていた。何よりもかれらには“Passion”があると言われたのが印象的であった。

聞けば聞くほど日米格差を感じてしまうが、あきらめるのは早い、単純な開発のところから上流の要求工学のところやEnterprise2.0へのシフトを早めれば何とかなると思う。そのためにもいま自虐的になっているIT業界を3Kから3Tに変えなくてはいけないと言って、一色先生は「日本IT維新会」というのを立ち上げました。

先生曰く、3Tとは、「楽しいIT、高い報酬、定時に帰宅」なのだそうです。米国の真ん中から日本を見ると歯がゆいのでしょう。でもそういう人がいてくれてすごくうれしいと思いませんか。ぼくもこの動きに連動して何か貢献できたらと思っています。
 


2008年8月 2日

サイドウエイ

男二人のロードムービーである。縦糸が結婚を一週間後に控えた売れない俳優の男と学生時代にルームメイトだった作家になれない教師のその一週間の行動である。

横糸がワインなのだ。やたらワインの名前がでてくるがさっぱりわからない。そのうだつのあがらない教師がワインのオタクで飲むたびに能書きをたれるのである。

途中ユーモアもあり、面白い展開でなかなか楽しめた。アカデミー賞の脚色賞をもらったみたいで、本場でも評価が高かったようだ。

ついちょっと前に見た日本映画の「転々」と比較してしまう。男二人の物語だからである。そして、シリアスなのだがユーモアでそこを消しながら展開するのも同じである。

「サイドウエイ」のほうはどうもハッピーエンドのようだが、「転々」は尻切れトンボの感じで終わってしまった。まあ、どっちがいいというわけではないが、男二人のロードムービーはいつでもどこでも作られる定番なのだろうと思う。

主演の二人であるポール・ジアマッティとトーマス・ヘイデン・チャーチは両者ともいい味を出していて好演である。

ハリウッドのどんぱちもいいけれど、こうした渋い映画もいいものだ。

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2008年8月 3日

レベルが低い

今年のJOMOカップは、日本のJリーグ選抜と韓国Kリーグ選抜のガチンコ対決になった。結果は、3-1でKリーグ選抜の快勝であった。ただ、得点差はあったが内容的にはJリーグのほうが上回っていたと思う。

しかし見ていてこりゃひどいと思った、どちらのチームもレベルが低いのだ。ガチンコ勝負だと言ったって、代表戦やタイトルがかかっている試合でもないので、その分ゆるい。そんななかで一つひとつのプレーの質が悪すぎる。

実はこういうお遊びが入ったような試合でこそ個人の技術力や判断力が如実に現れる。プレッシャーがないのだから、わがままなアイディアだって許されるし、気楽にトリッキーなプレーだってありなのに、それができない。

こういう試合で自由に楽しいサッカーができて初めて緊迫した試合ではそれに真剣味を加えることで質の高いプレーになるような気がする。海外の一流選手はこれができるのだ。

ということで、オールスター戦で奇しくも両者のレベルの低さ(負けたJリーグよりKリーグの方がレベルが低い)が露呈したという皮肉な結果であった。
 

2008年8月 4日

会社の品格

何でもかんでも品格というのをつければいいというもんではないが、この「会社の品格」(小笹芳央著 幻冬舎新書)という本での品格という言葉に違和感はない。

著者の小笹氏は元リクルートの人で今は独立してリンクアンドモチベーションという会社を設立した。モチベーションエンジアリングという手法で注目を浴びている人でもある。

昨今、会社の品格を問われるような不祥事が多く発生し、思わず“お前らホント品がねえなあ”と叫びたくなる。会社というのは生来経済合理性で動くものであるので、少しくらい汚いことでも合理性があればやってしまうものなのである。

まあ、それを止めるのは、あるいは品位を保てるように行動するのは人なのである。そういう意味では、この本の最後に書かれているように、社員自身の統制で「会社の品格」を守らざるを得ないのだろう。

さて、この本に書かれていることはぼくにとって目新しいものでもないのだが、非常によく整理されているので、わかりやすくなっている。少しその整理されたことを紹介すると。

まずは会社の品格を社員の視点でつぎの4つに分類、
・ 組織の品格
・ 上司の品格
・ 仕事の品格
・ 処遇の品格

このなかで、それぞれのポイントが整理されているが全部を書くことはできないが、「仕事の品格」を左右する6つのポイントを見てみる。

(1)「納得感」のある仕事
(2)「使命感」のある仕事
(3)「効力感」のある仕事
(4)「普遍性」のある仕事
(5)「貢献感」のある仕事
(6)「季節感」のある仕事

効力感とか季節感とか若干わかりずらいものもありますが、おおむねなるほどと思うでしょう。ここで「仕事の品格」を取り上げたのは、昔から比べるとずいぶんと変わってきている領域であると同時に、ITの使いかたのようなところとも関連しそうなのであげてみたのである。

この本で会社と人の関係の変化が理解できるのだが、最後は人間になってしまうところは変わらないのかもしれない。

ところで今から怖しい記述をそのまま書く。

会社は利潤の最大化を目指し、経済合理軸一辺倒で動く存在です。独自の規範も、そのために生まれた。たとえ、その規範が社会的に歪んだものであったとしても、会社の中では、その規範を守ることが大切であり、利潤の最大化につながると信じているわけです。そうなれば、規範を守れない人は弾かれざるをえない。したがって、社会的品格を持っていたからこそ、歪んだ規範に過剰適応できなかった人は、組織の中では出世できなくなってしまうこともあるのである。 一方で、出世競争に勝ち残った人は、社会から見ればある意味、歪んでいる可能性がある。

おっとっと、オレは歪んでいないってこと?
 

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2008年8月 5日

BPMの正しい理解のために-期待は何か

BPMへの期待は何かを考える前に、いまの仕組みで何が問題なのかということを考えていることにする。こういうときはだいたい使い手側と作り手側の両面から考えることが必要だ。ニーズの問題とシーズの問題である。それぞれにもつ問題点もあるし、相互の関係における問題も存在する。

ここで一番の問題は相互の関係性にあるような気がする。それはこのブログでも何回か取り上げている「情報の非対称性によるインセンティブの歪み」である。ユーザはITのことがよくわかっていない、ベンダーはユーザの業務のことがよくわかっていない、しかし作るのはコンピュータシステムであることからくるものである。

だからできたものの情報はベンダー側に偏ってしまう。いいですかここが非常に重要なところですが、“コンピュータシステム”を作るからこういうことが起きるのです。“動く業務プロセス”を作ってくれればいいのです。そうすれば、この情報の非対称性は解消されるのです。

こうした仕組みを提供してくれるのがBPMなのかもしれないと期待しているのです。喩えは少し無理があるかもしれないが、テレビゲームにある自分で好きなようにチームを作り選手を動かせるサッカーゲームのようなものがほしいのです。決してふざけて言っているわけではなく、おおかたの業務は結局こういうことではないのかと思う。

少々脱線したが、今の問題は事業を預かるマネジメントがその業務プロセスがどんな風にできているかがわかっていないことにある。そんな状態だから、いま何が起こって、これから何が起こりそうなのか、過去に何があったのか、という現在、未来、過去の事業の状況をつかめないでいるから不正や不祥事がおこるのである。

冒頭に設定したユーザおよびベンダーの個別の期待はどうなのだろうか。ユーザの期待は上述の説明で事足りそうだが、問題はベンダーサイドの期待である。ベンダーの最大の関心事が当然こういうことをやって儲かるのかということである。ここが非常に難しいところで、仕組みや仕掛けが革新的であれば、ビジネスモデルや収益モデルも従来とは違ってくるのは言うまでもない。

ここでは人月ビジネスの終焉だとかはあまり叫ばないが、ひとつだけ言っておきたいのは、IT業界ってこういうことが過去にもありましたよね。古くはハードウエア売りで添え物としてのソフトウエアからソフトウエア主体のビジネスへの転換、さらにサービスウやソリューションビジネスへの移行など、その都度対応してきたわけです。ですから、これからもきっとできると思いますがプレーヤーが変わっているかもしれませんね。
 

2008年8月 6日

BPMの正しい理解のために-IT化の余地はまだまだたくさんある

前々回にビジネスモデルが変わるというようなことを言ったが、おそらく今のようなソリューションがもつターゲット領域だけのビジネスを想定すると、かなりの生産性向上でコストも下がるのでパイが縮少して現状のベンダー数を食わせることができなくなるはずだ。それ以外でもオープンソースの使用割合の増加などチープ革命もあるので収益モデルが立ちにくくなる。

だからといって、嘆くなと言いたいのだ。実は、企業ではIT化の度合いはまだまだ低いのである。中堅・中小企業だけではなく、大企業においてもしかりである。ということは、いままでIT化されていない領域に拡大することによって収益を確保できる可能性は十分あると考えている。もちろん、そういうふうに事業構造を変えた企業が生き残っていくということは言うまでもない。

現状の会社業務をITを意識しないで書き出してみてください。いかに手作業が多いかに気がつくはずです。手作業でデータを固めて、それをシステムに投入するとか、いわゆる、調整、確認、連絡などの業務が多いことわかります。

しかも、そういうところで重要な意思決定をしていたり、手間がかかっていたりします。そこをIT化するのです。いっぱいありますよ。これまでのITはそれらを拾ってきていなかったのです。ですから、ここをIT化していけばまだまだ仕事はあるのです。それによりユーザにとってもウエブの顧客接点からバックヤードまでがつながるメリットがあります。
 
おそらく、この空白地帯を埋めるのにBPMが威力を発揮すると考えている。バックヤードの仕組みでは重たいし、ウエブでは業務のところが弱いということだから、そこの橋渡しをBPMでやるということなのだ。さて、それを誰がやるのか。
 

2008年8月 7日

やはりサイド攻撃だ

ついにオリンピックが始まった。

オリンピックの女子サッカーの一次リーグ緒戦で、格下のニュージーランドと引き分け。下手なレフェリングのもとに2-0から追いつたことは評価するが、引き分けるような相手ではないはずだ。

なぜこうなったかというと、サイド攻撃の質が悪いことにある。確かにサイド攻撃を仕掛けてはいた。特に右の安藤のところはフリーになる機会多く攻撃の起点にはなっていた。しかし、点に結びつくようなところへの切り込みは少なかった。

この攻撃は、主として安藤と宮間の2列目の選手がやっていて、その後ろの近賀と柳田の上がりが少なかったし、縦へ持ち込めていない。ここが、課題なのだ。2列目の選手のサイド攻撃はどうしても横に流れる感じになり、スピード感がないのと、よしんば中に折り返しても中央の人数が少ないことになる。

その点、バックからの上がりの場合は縦へのスピードがでることとゴール前に人数をかけられるということになる。だから、2列目がボールをキープしたら、すぐさまそれを追い越すプレーが求められるのである。

それがまだ不十分であった。もしそれができていたらあのレフリーでも軽く勝てたと思う。サイド攻撃をはきちがえてはいけない、サイドは縦のスピードがあってこそ活きるということを。

これから強豪とあたるが、勝負はやってみないとわからないからがんばってほしいと願っている。

でもほんと沢のボールの奪い方のうまさとヘディングの強さは驚く。
 

2008年8月 8日

リスクを避けた

男子サッカー日本代表が緒戦のアメリカ戦に負けた。敗因をそれぞれの評論家が言うだろうが、おそらくオーバーエージを使えなかったからなんてバカなことを言うやつもいそうなので気をつけなくてはいけない。それは昨日の試合とはまったく関係ない話で、昨日の敗戦はリスクから逃げたことだ。

多分選手には不完全燃焼感があると思う。もっと思い切ってやれたのにとか、力を出し切っていないという感覚が残っていると思う。それは、あの時もっと攻めておけばよかったのにという悔いがあると思う。

なぜなのか。試合の入り方は慎重に、そして守備的にいこうと思ったはずだ。ところが相手のアメリカも同じような入り方だった。だから、お互いに腰をひいて組み合ったようなもので、これが前半だった。

この前半の入り方のミスと修正しようとしなかったことで、そういうとベテランがいなかったからとかすぐ言うが、これはベンチワークと日ごろの練習で戦術感を養っているかどうかになる。

アメリカが腰を引いたらそこを攻めなくてはいけなかったのだ。リスク覚悟で攻める。暑さやグランドコンディション、さらにまだ前半だということもあるが、勝負どころは何も終了間近にだけあるのではなく最初のころにもやってくるのだ。

メンバー構成もこうしたことを予想していなくてはいけない。最初にワントップでいくことにしたからといってそれでずっとやることはないわけだし、メンバー交代しなくてもすぐに攻撃的になる布陣に変えられなくてはいけない。これは戦略である。

そんなわけで昨日は戦略、戦術的に対応力がなかったということだ。ああ、サッカーは奥が深い。
 

ITの品格

以前、書評で「会社の品格」のことを書いた。そして、その中に書いてある「仕事の品格」にも触れた。仕事とITは密接だから、その仕事をITに置き換えて考えてみた。

そこでも紹介した6つのポイントを内容も含めて仕事という単語をITに変えて提示する。

(1)「納得感」のあるIT
・ 自分が顧客であるなら、喜んで自社の商品を買える
・ 自分のITを親しい知人に勧められる
(2)「使命感」のあるIT
・ ITによる「自己実現」「社会との接点を持つ」ことができる
・ 自分のITに、「命」を「使う」ほどの価値を、一人ひとりが求め、実感している
(3)「効力感」のあるIT
・ 自分の個性や創造性が発揮できるITであること
・ 個人に選択の余地があるIT
(4)「普遍性」のあるIT

・ その組織の中でしか通用しない特殊スキルではなく、社外でも通用する「普遍スキル」を身につけらえる
・ ITで、スペシャリティやプロフェッショナリティの向上を感じられる
(5)「貢献感」のあるIT
・ 自分のITが、どんなふうに会社の役に立ち、それが社会につながっているかがわかる
・ 誰かに貢献している実感、相手からありがとう!と言われる喜びがある
(6)「季節感」のあるIT
・ 心機一転、心が改まる機会がある
・ 「おかしいことを正そう」「挑戦しよう」などの積極的な変革姿勢が生じる

ということになる。何となく収まっているように思えます。ここでの“自分”はITを作る人と、ITを使う人が混ざっているが、かなり言いえていますよね。

これまでのITは上述のようなことまで考えてはいなかったような気がします。ということは、仕事のことをあまり意識しない作り方、提供の仕方だったようです。

作って渡して、それがどんな使われ方をされようが、かかった費用を請求するという「品のない」ビジネスだったのではないでしょうか。

そうです、これから品格のあるITを考えていこうではありませんか。品格があるITに携わる職場なら3Kにはなりませんよね。


2008年8月 9日

犯人に告ぐ

映画フリークの友達からこれはお薦めだと言って教えてくれた瀧本智行監督作品の「犯人に告ぐ」を見る。雫井脩介の同名の原作をWOWOWが映画化したものである。

予想通り大変面白かった。久しぶりにみるサスペンス映画は上々のできばえである。多少の構成上の詰めは残ったきらいはあったが、初めから終わりまで息を抜けない。

この作品の評価を高めたひとつの要因はなんと言っても豊川悦司だろう。過去の失敗を背負いながら、その心の傷を新たな事件解決のエネルギーに変えていく刑事役を好演。同じころに封切られた「サウスバウンド」の元過激派より数段はまった役どころであった。この役を演じられるのはトヨエツしかいないだろうと言わしめるものを感じた。

こうした映画の批評でよく原作がいいのに映画になるとねえという人がいるが、ちょっと待ってくれと言いたい。小説と映画とは別物ですよ。原作はこうだけど映画ではそこが描かれていないとかという批判は全くの的はずれで、映画は原作があろうと、オリジナル脚本であろうが、映画だけで評価してほしい。

だから原作とか関係なしに観ると、いまの邦画が“ソフトボイルド”化しているせいか、この映画はなかなか良かったですね。

ただ、笹野高史の味が出きっていなかったことがイマイチで、もう少し絡ませても良かったんじゃないかと思う。それと、小沢征悦という役者が小沢征爾と入江美樹の子だったって知らなかった。「隠し剣 鬼の爪」のも出ていたが、素人臭い硬い演技で、顔もバレーボール選手おように古いし、親の七光りだけのように思えるのだが。

ちょっとコネタなんだけど、舞台が神奈川県で最後に犯人が追い込まれるのが市ヶ尾周辺で実はその近くに3年くらい住んでいたことがあって、掌紋をとられたかもしれないなあと変なところで親近感をもったりした。

テレビを利用した劇場型の事件なんだが、こんなことが現実におきてくるのかどうかを考えてしまった。今のテレビは犯罪を助長するのは熱心だが抑止には働いていなから、この映画のように刑事が犯人にテレビで語りかけるというのもあってもいいかもしれない。ただテレビで、「今晩は震えて眠れ」なんて言える刑事はいないよな。ねえ、青島刑事さん。
 

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2008年8月10日

記念写真

前に大学時代の部活のOB会で昔の写真を見ながら話に花が咲いたことを書いた。もう40年も前のことだから、本当に写真が好きでまめな人がいて、その人のおかげで写真を見ることができているのである。

いまだと、デジカメや携帯で誰でもが気楽に写真をとる。デジタルだからセピア色にもならないし、場合によっては動画で残すこともできる。これから40年後はそうして今と同じ写真や動画が再現できることになる。そうなったときなつかしさとか時の流れを感じることができるのだろうか。

写真に限らず、そのOB会でも文集がでてきたのだが、わら半紙に書かれていて、ホチキスをはずそうとすると紙が崩れそうになるくらいぼろぼろなのだ。だが、そういうものだからなのか、過去の情景がその紙のぼろぼろさとともに甦るよう気がした。

先週、高校時代の友だちと桜木町で呑んだ。こいつは映画好きで今年に入ってもう50本近く観ている。さすがのぼくもかなわないフリークです。もちろん、映画の話が主な話題になるが、映画以外の話で面白いことがあった。

彼は、ほぼ定年で関連団体に移ってそこで仕事をしているのだが、まえのところを辞めるときのことである。退社するときってたいていは餞別として記念品をもらったりしますよね。その記念品を何にするかというとき、そいつはいつも記念写真をとってもらうのだそうだ。

しかも、ちゃんとプロの写真屋を頼んで一緒に働いた人たちときちんとした服装で撮るそうだ。できた写真を皆に配ってもっていてもらうのだという。これには感心した。もうぼくは残念ながらそういう機会はないと思うが、そうやって残しておけばよかったと思った。

節目の写真は写真屋に撮ってもらうというのはなかなかいいもののようだ。ぼくにはまあ、結婚式と子供の七五三のときのものはあるのだが。

「転々」という映画のワンシーンで三浦友和が、街の時計屋さんがでてきて、その主人にどうやって食っているのかと聞いたら、大きなお世話だと言われて蹴りを入れられる。

きっと街の写真屋さんは、節目の記念写真がいいというお客さんがいる限り続いていくのだろう。
 

2008年8月11日

BPMの正しい理解のために-戦略の実行エンジン

BPMにおいて従来との違いでかなり大きなところは、BPMは事業戦略、IT戦略を実現するエンジンであることです。そんなことはすでに、ERPなんかで実現しているじゃないかという反論がきそうですが、ほうとうにできているでしょうか。

“戦略の実行”ということを考えてみて下さい。単にシステムを作ることではないということですよね。システム開発だけで戦略が実行できたとは思わないでしょう。意外とみなさんシステムを作りましたで終わってやしませんか。

そうなんですね、構築したシステムを日々動かしてこそできるのです。業務プロセスのオペレーションということです。目標との乖離を修正するためにオペレーションを変えるとか、BSCで設置したKPIを監視して所定値に収めるとかをすることが必要になってきます。

これまででも、こうしたことができるという人もいましたが、かなり難しかったのではないでしょうか。なぜなら、コントロールが効くシステムになっていないのにできませんよね。せいぜい死体解剖的に起こったことを解析することぐらいではなかったのではないでしょうか。

この概念こそがBPMが大きなインパクトを与えるものです。ですから、このことのために業務プロセスを可視化するのであり、責任をもっている人の掌中にプロセスをつかませてあげることなのです。

経営とITという言われ方で、戦略をITに落としこんでいくのだと意気込んでやりますが、つながっていたでしょうか。必要機能をアドオン、カスタマイズすることには熱心ですが、戦略は最初にえらいコンサルが入ってSWOTやBSCなどいろいろな手法を使って作るのだが、システムの開発が進むとそんなものはどこかに吹っ飛んでしまい、ただ動けばいいやというものができあがる。

繰り返しますが、これが従来のERPではなしえなかったことです。もちろんワークフローではいうまでもなくできっこありません。
 

2008年8月12日

BPMの正しい理解のために-プロセスだけではない

BPMというとプロセスだけのようにとらえられる節がありますが、そうではなくて機能もデータも重要です。企業の情報システムは基本的には「機能」と「プロセス」と「データ」からなりたっています。

「機能」というのは何かというと、業務処理だったり情報処理でもいいのですが、インプットされた情報を加工して新たな情報をつくることとも言えます。ただこれだとかなり細かいことまで含まれてくる可能性があるので、ここでは“単位意思決定”という定義にしたいと思います。

そうなると、誰が意思決定するのかということでそれぞれの機能が変わってきます。システムを使うひとは大きく、顧客、オペレータ、スタッフ・マネジメントにわけることができます。

依頼・問合せ・苦情などをしてくる顧客、オペレーショナルなデータを生成するオペレータおよびその責任者、経営視点で戦略的な意思決定を行うスタッフや事業部長・部門長といった人たちです。

彼らに対する機能は違うことはおわかりになると思います。機能の主なものはユーザインターフェースになりますからわかりますよね。ですから一律ではなくそれぞれの立場にあった機能を提供していかなくてなりません。これ以上は本論を外れるのでここまでにしておきます。

さて、データですが、データにも種類があります。リソース系のデータ、すなわちマスタデータとイベント系のデータ、トランザクションデータでしょうか。ただ、もう少し広義に解釈して、これにビジネスルールを加えたらどうかと思います。

ビジネス活動の糧となるデータ、あるいは参照情報、それとそうしたリソースを使っておこなったビジネス活動で生まれたデータ、それと意思決定で従うべき業務ルールである。業務ルールはリソース系のデータと言えないこともないのでそちらに含めて考えてもよいでしょう。

ということでBPMアプリケーションを構築するとなると、必ずプロセス以外の要素である、機能とデータはきちんと設計していかなくてはいけない。そのなかでも上述したようにいくつかに分解できるので、適正に分解し、それぞれに適した設計、ツール選定などが必要になります。
 

2008年8月13日

ジェネラルパーパス・テクノロジー

「ジェネラルパーパス・テクノロジー」(野口悠紀雄、遠藤諭著 アスキー新書)という聞きなれない言葉の本を読む。ジェネラルパーパス・テクノロジー(GPT)というのは一般目的技術とか汎用技術と訳されるが、産業横断的に使用され、さまざまな用途に使用しうる技術のことである。

具体例では、電力・電気とか内燃機関といったようなものをさす。そしてこうした技術は不連続的な大変化をおこすが、その効果があらわれるまでに時間がかかるという特徴がある。この本では、ITがそういうGPTになったという論旨である。

いくつかのポイントがあって、いずれも共感できる指摘でうなずくことが多かった。その中から何点か挙げてみる。

まず、「日本型組織が新しい情報通信技術であるITに適合できない」という指摘である。特に年功序列という日本型組織はITと相容れないところがある。

このあたりの話ですごく面白いのは、イギリスとの対比である。1980年代というのは日本は飛ぶ鳥を落とす勢いであったが、イギリスは経済不調であった。そのとき、「イギリスでは、蒸気機関車の罐炊き手が、用もないのに電気機関車に乗務している」と言われた。日本の場合だと、組織内移動で対処していたわけで、生産性が高く保てた。

ところがその当時は強みであった日本型組織がいまや障害でしかなくなってしまい、いまの日本の不調をもたらしているというのだ。要するに年寄りはITに対する抵抗感が強い。そんな連中がいる限りITの導入や活用が進まないというわけだ。

先日のカリフォルニア州立工科大学の一色教授の話じゃないが、日本の経営者のITに対する理解もぜんぜんだから、遅れをとるのに十分な環境である。

そして、経営とITとの関係について本書では、「日本の情報システムが古いままなのは、日本の企業が変わらなかったから」なのか「日本の企業が変わらなかったから、日本の情報システムがふるいままなの」って問いかけている。これは多分誤植で、本当は最初の文章は、「日本の情報システムが変わらなかったから、日本の企業が古いままなの」ではないでしょうか。そして新生銀行の例を引いて後者面のほうが強いと主張している。

ということは、経営が変わらないと最新のITを使ってもらえないということなのだろうか。むしろ、ITで経営を変えられないかと思うが無理なのだろうか。

それから、電子政府についてもぼろくそである。「日本の電子政府は「おもちゃ」である」とまで言っている。しかし、それは事実だから反論のしようもないのではないでしょうか。

これからの方向性として、グーグルとNTTとの対比の中でユーザ中心主義を徹底した企業しか生き残れないと言っていた。

いろいろいっぱいか書きたいことがあるのだが、最後に、著者が本についてのインタビューに答えていたことを書く。


ITに対して敵対心を持つかどうか。これが重要です。私は、それを「側理論」と呼んでいるのですが、ITは「自分の味方」なのか、それとも「敵」なのか?  どちらと考える人が多いかで、日本社会がITに適応できるかどうかが決まります。私自身は「ITは私の味方」だと思っています。大組織にいる人に比べ て、私は、いままで情報処理において圧倒的に不利だった。それは、有能な部下を使えないとか、大型コンピューターを自由に使えないとかいうことのためです。しかし、そうした格差が、ITの進歩によって、まことに有り難いことに縮小した。いまは、大組織内にいる人に比べてあまり差がない。だからこそ、ITの進歩を有り難いと思っています。

野口悠紀雄のような影響力のある人がこういうことを発信してくれることは非常に大事なことだ。日本の経営者にこそこの本に書いてあることをよく理解してもらいたいものだ。 
 

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2008年8月14日

五輪ばなしその1

普段自宅で仕事をしているのに夏休みもないが、一応今日から17日まで夏休みということにする。休みといってもお盆なので本家の新盆に招かれたり、御施餓鬼に行ったりとけっこう忙しい。

そんな中で北京五輪の真っ最中ということで、少しばかりオリンピックについての話を書くことにする。

まずは、ちょっと遅くなったが北京五輪の開会式について、ちょっとやぶにらみ的なことを書く。

今回の開会式が良かったという人が多いのか評価はよく知らないが、ぼくはよくぞここまでやれるなという感じがあるが、大いに感動したというわけではない。もちろん一糸乱れぬ演技や、歴史絵巻はすばらしいと思う。

ただ、素直に感動はしなかった。あれを演出したのが「初恋の来た道」を監督したチャンイーモウだとは知らなかったから余計にもうちょっと何とかなったのではと思ったのだが、今回の中国における五輪の意義としては十分役目を果たしたのではないかと思う。

ところがぼくがもっとも感じたことは、入場行進のことである。2百数十カ国の選手団が入場してくる。その中にはぼくが全く知らない国がたくさんあって、特に中米やアフリカに多いののだが、かれらは人口では日本のひとつの県の人口ぐらいしかいない国でもオリンピックに出場してくるのだ。

それもあたりまえだが、堂々と自国の国旗を掲げてと登場なのだ。そこでぼくは思ったのだ。中国の少数民族の人々がそれをどう思ったかである。

開会式の式典での中国国旗入場で、50いくつかの少数民族の何も知らない子供たちがつくられた笑いを振りまいていたが、これはぼくの40年まえのシーンとダブってくるのだ。

その当時、中国当局の人たちは、なにかにつけ私たちは少数民族とうまくやっていますよというアピールを随所で展開していて、ぼくら招待所にも少数民族の音楽団が来て演奏していった。裏を返せば、そうした懐柔策を弄さなければあぶないという状況は昔からあったということだ。

で今回の開会式の話に戻ると、ぼくが少数民族の一員であったらあの開会式はすごくうらやましかったに違いない.

自分たちの国を認めてもらいオリンピックに出場したいという気持ちがすごい強くなったのではないだろうか。

チベットや新疆ウィグルの問題をみたら、はるかに少数の民族が自分の国の国旗を誇らしげにかざしながら行進する姿はいずれわれわれもと思ったことだろう。こうした事実を、目の当たりにした今、中国でさらに独立運動が高まっていくように思える。

あのすばらしい開会式に感動するよりも、国威発揚が少数民族には裏目に出るかもしれないなあとふとそんなことを考えてしまった。
 

2008年8月15日

やじきた道中 てれすこ

弥次喜多道中とくりゃあ、男二人のロードムービーである。そこに女が一人加わることで、男二人、女一人という映画における定番設定である。もうこの設定だけで面白いことがわかる。平山秀幸監督作品「てれすこ」は案の定面白かった。

落語ネタがいっぱい入っていたり、勘三郎と柄本明の掛け合い漫才もあったりして庶民的な笑いとペーソスもふんだんにちりばめられて楽しい映画となった。

ぼくはこの二人もすばらしいがもっと良かったのは小泉今日子である。少し薹が立った品川の花魁を演じていたが、その乾いた色気ときっぷのよさがなんとも魅力的だ。「空中庭園」の主婦役も見事だったけど、この作品でもすばらしく大女優の道に進んでいるように思える。

もちろん男優二人も負けず劣らずたいしたものだ。平山監督がNHKテレビの取材で、中村勘三郎は稀代の名優、柄本明は稀代の怪優であると言っていたが、まさにそのとおりで、二人の演技は、いやキョンキョンを含めた三人の演技はみものである。

そのテレビで柄本明が演技について語っていたことも印象的である。この映画にも重要な役どころで子役が出演しているが、こどもが何も考えないで演技しているように自分も演技できたらといいのにと言っていた。「こどもの学芸会の芝居ができたら」ということである。それは中村勘三郎も同じように思っている。これは、名優と怪優が言うのだから説得力がある。

平山監督の前作「しゃべれどもしゃべれでも」もそうなのだが、庶民目線の日常的な世界を描いたものに面白い物が出てきている。派手に喜怒哀楽を表現するよりじわったとした泣き笑いが受ける時代なのかもしれない。
 

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2008年8月16日

五輪ばなしその2

ところで「五輪ばなしその1で開会式の国旗入場のときに旗のまわりにいたこともたちが少数民族のこどもたちではなく、みんな漢民族の子だったらしい。こりゃひどい捏造だ。確かに、本当のウィグル族やチベット族の子だったら、その子らは同族からいじめにあってしまうかもしれない。どうも他にもやらせみたいなことがあったようだが、このあたりは昔とかわっていない。

さて今回は簡単に負けてしまった男子サッカーのことについて書く。

グループリーグの相手は皆強敵でやすやすとは勝てないのはわかっていたが、それにしても欲求不満の残る結果となった。なぜそうなったかというと緒戦のアメリカ戦の敗戦が大きい。あそこでもう少し違った戦い方をしていたら結果は違ったものになったかもしれない。

だからといって、ナイジェリアにやったサッカーをなぜ緒戦のアメリカ戦でやらなかったのかと言う人もいるがこれも難しい。大きな大会での緒戦の戦い方と言うのはほんとうに難しい。

それこそ甲子園でもそうだと思うが、強豪といわれながら力を出し切れなくて緒戦で去っていったチーム、選手が多いこと。それは精神的なコンディションの問題が大きくて、結局、普段どおりにやらなくてはいけない冷静さと熱く燃えなくてはいけない情熱との両方を持ち合わせなくてはいけないというかなり高度な精神コントロール力が要るということなのだ。

どちらか一方ならできないことがないが、両方をバランスよくできるかが非常にむずかしいのである。だから、そこのバランスがちょっと崩れ、その崩れが逆に作用したら、いくらでも番狂わせはおきる。

結果論ではあるが、ナイジェリアとの戦い方をすれば勝ったか引き分けであったと思うがそううまくいかないのがオリンピックである。

いま緒戦の話をしたが、さらにそれぞれの試合の選評をしてもおもしろくないので、「本田圭介的な存在」について考えてみる。

最終のオランダ戦のあと、監督批判ともとれる発言をして少しばかり物議をかもしたようだが、ああいう存在の良否についてである。ああいう存在とはどういうものかだが、歯に衣着せぬ物言いと遠慮しない直截的な批判、しかし、力があるから、まわりは文句が言えない。

こういう存在はどこの世界にもあって、会社でもありますよね。ぎゃあぎゃあうるさいけどできるやつだからそいつの言うことを聞かざるをえない。

こうした場合はどんな影響がでるかだ。単純に監督批判となり監督が嫌気をさすということも考えられるが、これが一匹狼のようであれば切ればすむ。しかし、やっかいなのはけっこうシンパがいたりすることで内紛になるからである。

かなり、勝手な推量で言っているので当たっているかどうかわからないが、今回のチームの問題点はここにあったように思う。ずばり、本田圭介をチームに残したことである。

別に彼に恨みがあるわけではないが、日本のチームであること、サッカーという競技を考えたとき個人の能力以前の問題として、反町は切るべきであったのだ。平山を切ったのになぜ本田を切らなかったのか?こういう選手を使いこなせるのはカリスマか外国人監督だけである。

だいぶ前のブログでも指摘したのだが、平山の体を生かせない甘い精神力と本田のスピードのないちんたらプレーは日本サッカーの目指すものと違ったはずだ。だから、かく乱要素としての存在とチーム戦略に合わないプレースタイルの彼を使い続けたことがぼくには理解できなかった。

ひょっとしたら反町は水本のキャプテンシーより本田圭介の影響力を使ってチームを掌握しようとしたのかもしれない。
 

2008年8月17日

五輪ばなしその3

お盆も忙しい。昨日送り火をしてお施餓鬼に行ってやっと終わった。それから、高校のサッカー部のOB会があって出かける。もちろん今やボールを蹴れないし、こんな暑いなかに試合をしたら倒れてしまうので、恩師の先生に会いに行くだけである。今年はぼくらの年代が還暦を迎えるので、先生に祝ってもらおうと思っていて(笑)、その話をしにいったら、あいにく来られないとのこと。同期の3人と会えたのそれでよし。

ちょうど下の息子が帰ってきていたので運転手をしてもらう。そうでもしてもらわないとこれだけの動きはできない。

高校野球も慶応高校が負けたが、横浜高校が残っているので楽しみだ。

さて、前置きが長くなったがこちらも熱戦が続く北京五輪だが、柔道ニッポンが最後の男子100キロ超級で石井慧が金メダルでやっと面目を保った。石井の柔道はけっこうこすっからいスタイルであまり好きではないが、それでも勝ってなんぼの勝負の世界ではそれでもありなのかもしれない。

最近の柔道はあまりおもしろくないが、なぜかというと、まあレスリングまがいのタックルは影を潜めたのはいいが、まともに組み合わないし、ちょっと相手の出方をみると指導が来て点数をとられる。

この戦い方をみて、ボクシングを思い出した。いま柔道で勝とうと思ったら、ファイティング原田式の戦いでなければいけない。すなわち、間断なく手数を出し相手を圧倒するというスタイルだ。だから、沼田義明のように相手に打たしておいて、一発のアッパーカットでしとめるという戦いはできないのだ。

面白くないですよね。ちゃんと組みあって、じっとスキをねらいあるときスパッと投げるなんてすかっとするのに、そんな柔道が消えて久しい。まあ、世界中でやるスポーツになったのでしかたないのかもしれない。

ところで、コネタをちょっと。金メダルをとった石井慧のインタビューで、「お前が勝たなくては日本の柔道は終わりだと、斉藤さんから“耳にたこができるくらい”言われましたから」と言って、ぽっと彼の耳をみたら、本当にすごいたこができていた。
 

2008年8月18日

時が滲む朝

第139回芥川賞受賞作は、楊逸(ヤン・イー)の「時が滲む朝」に決まった。外国人作家の初めての受賞である。日本語の壁がありながらそれを越えて受賞ということで立派なものである。おめでとうと言いたい。

どうも、この受賞には賛否両論あるようだ。賛のほうは、いまの日本にはないようなまじめな青春、そして挫折といった世界を描き、そこに対するどうしても書かなくてはいけないという強い思いが感じられるというようなことだ。

否のほうは、まだ日本語が稚拙なところがあったり、荒削りで風俗小説の域をでていないとかいった論調である。

たしかに、取り上げられたテーマが中国民主化運動に参加した若者がやがて挫折していくというかなり大きなもので、最近の芥川賞では日常的で私的なテーマが多いのとはずいぶん異質である。それゆえ、そうしたテーマをどう料理したかということでの評価のちがいなのだろう。

それと選考委員の誰かが言っていたが、これは長編で書くべきものだということで、ぼくも読みながらそう思った。というのは、物語としては長いスパンでそれぞれにエピソードもあるので、短い中では追いきれない、書ききれないという結果になっているように思えたからである。

とはいえ、ぼくはこの作品は割りと評価している。日本語が稚拙だといっても、最近の受賞作の中には、これが日本語化というものもあったし、ぼくの低い読解力ではちょうどよかった。

さらに、この小説のなかに登場してくる昔の中国の姿が懐かしく思えて、感情移入が強かったこともある。ぼくが中国に初めて行ったときは、まだ文化大革命が終わっていなくて、下放ということがよく言われていて、右派と決め付けられると遠くの寒村に追いやられていくという話しをよく耳にした。

そして、1988年の天安門事件である。もう20年も前のことになるんですね。あの民主化運動は一瞬にして消えていったが、その内状がわからなかったが、この小説でほんの少しだけわかった。

ただ、まだまだいろいろなことがあるはずなのでこの作家には書き続けてほしい。中国人が日本語で中国の民主化運動のことを書くなんて信じられないことなのだが、この20年ですさまじい勢いで変化している中国社会であるからといえる。それは違った意味である種の民主化がおきているのではないのだろうか。

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2008年8月19日

BPMの正しい理解のために-システム化範囲

いまの開発方法論ではどうしても上流設計とシステムに落とすところで結びつきが薄くなる。例えば、一生懸命業務フローを書いたのに、それがそのまま実装されることはなく、画面と帳票の設計にすりかわっていく。ええ業務フローはどこへ行っちゃったのということになる。

こうしたやり方では“システム化業務”といって、システム化できる部分だけをIT化して終わりである。IT化できるところがシステム化範囲となっているわけです。

ということは何のことはない、自動化できるところだけシステム化すればいいのだから、極端な話、上流設計はいらない。もっと簡単なのはパッケージやソフトウエアにある機能を使うだけでいい。

このブログを読んでくださっているみなさんはもうお気づきだと思うのですが、従来型の限界がここにあります。ですからここの発想の転換、逆の視点が今求められているのです。

ビジネスをオペレーションするには、IT化されていようが、そうでなくても業務プロセスとして一貫化されていなくてはいけません。そしてそれが見えていなくてはなりません。これが何度も繰り返しますがプロセス中心の考え方です。

そして、従来システム化されなかった部分であるコラボレイティブな業務がウエブサイトの情報共有空間で実現できるようになったので、そこと従来のトランザクション型の処理と一体化させることで一貫化された業務プロセスの構築が可能になったのです。

これが見える化でもあるのです。

もうひとつ大事なことは、設計と実装の乖離がなくなったことです。設計と実装が連続技としてできるということは、開発の手戻りとか仕様変更を回避できるようになります。

BPMの登場はここがポイントで、要求定義と要件定義がつながるのです。

ところで、どうして設計と実装の乖離がないかを説明しなくてはいけませんね。それは次回にします。
 

五輪ばなしその4

女子サッカーの準決勝でアメリカに負けた。まあ、力の差はいかんともしがたかった。

それにしても男子に較べてよくやった。勝てば官軍みたいなところがあるので、あまりはしゃいでもいかんのだが、世界に伍して戦える技術と戦術があったということなのだ。なかなかいいサッカーをやっていた。

その中心にいたのが、澤穂希であることは誰もが認めるだろう。従来のトップ下からボランチに下がってよりクレバーなサッカーができるようになった。そのパサーとしての視野の広さ、ディフェンダーとしてのボール奪取のうまさが彼女を攻守の要として機能させている。

ではそれを生み出しているものはいったいなんなのだろうか。強靭な体格でもなければ、スピードでもない。また、テクニックが格段に優れているわけでもない。ただ、どれもが平均より少しいいといった感じなのである。

ぼくは、それこそが澤の真骨頂のような気がする。どういうことかというと、何もかもが力が抜けていてとても自然なのだ。だから、相手と競ってもふあっとしている。人間って力を入れるのはできるのだが、力を抜くことは存外難しい。澤はそれができる。

風に吹かれる柳のようでもあるが、ぼくはなぜか出前用のオートバイにつけた出前機の岡持ちを思い出している。カーブを曲がったり、発進・停止を繰り返しても中味の丼は何事もないというあれである。クッションで吸収するからぶれないのだ。そういうプレーを彼女がしている。

まあ、いささか飛躍して言っているが、これは何か日本の古武道のようでいいですよね。日本が強くなる、いい選手が輩出されるヒントになるかもしれない。必ずしも体力測定をしていい成績の子がいい選手になるわけではないので、「出前機力」も評価してほしいものだ。
 

2008年8月20日

BPMの正しい理解のために-設計と実装の連続性

システム開発で設計というとこれまではシステム機能に寄っていってしまいます。どうしても、システム化あるいはコーディングするための設計になります。

ところがユーザが見ているのは自分たちのビジネスがどう実現できているかです。ですから、極端な話システム機能はどうでもいいのであって、自分たちの仕事の流れ、事業の実態が追えるかどうか、コントロールできるかです。

ですから、ビジネスを設計したらそれがそのとおり動く仕組みを提供する必要があって、以前“動く業務プロセス”というい方をしましたが、それがBPMでもあるのです。ただし、このときのアクティビティの定義が問題であまり細かすぎてもいけないし、大雑把でもいけないということです。

そして、上流の戦略から落ちてきたプロセスモデルがそのまま実装されるのが望ましいのです。従来はここに断絶がありました。システム化できる業務を抜き出してそこを実装するための設計・開発にはいるというわけです。

そうなると、ビジネスの連続した動きが見えなくなってしまい、そのシステムを動かすために人が動作するという逆転がおこるのです。

さて、この連続性を可能にするにはどうしたらよいのでしょうか。トップダウンアプローチとして上流から分解してくるプロセス粒度とボトムアップアプローチである実装を意識したプロセス粒度が合致することです。この設計と実装の交差点が定義できることが重要になります。

こうしたことができると上流から下流まで、戦略からIT実装までがシームレスにつながり、ビジネス側の要求がどう実現されるのか、ITの持つ機能がビジネスにどう生かされるのかが見通せるのである。

これがBPMの非常に大きな特徴である。言い方を変えると、こうした良さを引き出せるBPMを志向しないと意味がないのである。何度も言いますが、単なるワークフローでもなければ、プログラミングの自動化でもないのです。
 


2008年8月21日

黎明期を語れるヤツになれ!

アグレッシブに生きようよと言っている。じゃあどうしていること、どうすることがそれに当たるのだろうかと考えてみる。やたらバカみたいに前のめりで行きゃいいってもんじゃない。

それが、このブログを書いていて気がついてきたことなのだが、どれだけ黎明期を語れるものを持っていることではないだろうかと思ったのである。

マニアとかオタクでもその対象となっているものが誕生してから認知されるまでの期間のことは案外知らないということがある。ブログを書いていると何かについてその始まりのところを書いてみたくなるのだ。ちょっと自慢げに“おまえら知らねえだろ”という感じである。それが黎明期を語るといことなのだ。

ぼくの場合だと、日本の石油化学とか中国の工業化とかPC、インターネット、Jリーグ、日活ロマンポルノ、グループサウンズ、今ならBPMなどなどである。

いつの時代のものでもその黎明期について語れるということがアグレッシブに生きている証左ではないかと思うのである。その意味することは、まだどうなるかわからないときに興味を持ち、身を置き、それが成長するとともに歩み、それがある地位を確保していくのを見届けることができてこそ語れるというものだ。

その反対は、成熟したことあるいはものにしか興味がなく安心できることを心地よいと思うことである。そういう人は何を語れるのだろうか。

さて、あなたは何を語ってくれますか?

2008年8月22日

五輪ばなしその5

女子ソフトボールで日本が金メダルを獲得した。独特のトーナメント方式だから、銀メダルのアメリカはたった1回負けただけなのに、そのアメリカに2回負けた日本が優勝した。きっとアメリカの選手はさぞやくやしかったにちがいない。

日本の金メダルの立役者は何と言っても上野投手である。賛辞を贈るとしたらこうなる。

「神様、仏様、上野様」である。

これは1958年の日本シリーズで7試合中6試合に登板し、うち5試合に先発して4試合完投という獅子奮迅の活躍で巨人を破って日本一になった西鉄ライオンズの稲尾和久投手のに対して新聞の見出しで書かれた「神様、仏様、稲尾様」になぞって言っている。

まさにその活躍を彷彿とさせる上野の投球であったような気がする。ただ、これだけ熱狂して金メダルをとっても次回から正式種目から外されてしまうようだから残念である。

今回の五輪での日本選手はどうも女性上位のような気がする。そこで、これまでのメダル獲得の内訳を見てみた。

すると、男女とも総獲得数は12個で同じなのですね。(団体競技はメダル1個として)金銀銅の分布もほぼ同じである。ただ、少ないのは団体競技のメダルだ。体操団体とか水泳のリレーは厳密な意味で団体ではないので外すと、女子ソフトボールだけだ。

そうしてみると、なでしこジャパンは惜しいことをした。3位決定戦は前半を見ていたらこりゃ勝ったぞと思ったが、残念ながら後半のドイツの攻勢にやられてしまった。もうちょっとのところだったが、そのもうちょっとが大きな壁なのだが、男子に較べれべかなり低くなった。

日本の技術とスピードが世界で通用するのが証明されたのだから、これからも自信をもってやってもらいたい。男子も少しは見習った方がいい。

ただし今回の大会で弱いところも明らかになった。それはあえて言うとキーパーである。福元選手には悪いが、165cmの上背だとかなり厳しいのだ。そこだけは外国チームのように大きくて動けるキーパーが欲しい。今回もそれで失点のいくつかは防げたように思うがいかがでしょうか。
 

2008年8月23日

原作がある映画とそうでない映画

小説やマンガを映画化することがよく行われる。今は映画界が安易にベストセラーを映画化する方向に行っている。オリジナル脚本というのが少ない。残念なことである。

オリジナルでは「ゆれる」の西川美和、「殯の森」の河瀬直美とかがいる。そう今年のキネマ旬報ベストテン作品のなかで唯一のオリジナル脚本である「それでもボクはやってない」の周防正行といったところがあげられる。

さて小説を映画化するといっても、元になる小説の形態も違う。端的に言えば、長編と短編ということになる。だいたいが長編が多い。短編では芥川の「藪の中」を黒澤明が映画化した羅生門が有名である。

映画化は長編が多いのはなぜかというと、長編では登場人物の性格描写だとか、サブストーリーなどを書くことでかかなり説明的にできる。それを映画は短い時間でその説明的なことを映像という手段で表現する。だからその文章あるいは行間をいかに映像化できるかにかかっている。

一方、短編はそこから想像力をどれだけ発揮して、新たな世界をつくれるかにかかっている。これは難しい。しかし、原作のことをちゃんと反映していないなんて批判されることを考えれば、短編のほうがいいように思うがどうだろう。

いずれにしろ、映画と小説はぜんぜん違う表現形式だから同列に比較しないでほしい。というより最大の問題は、映画がリスクをとらなくなったことだと思う。原作で一応評価されたものを映画化すればそこそこのお客さんを呼べると思っている節がある。どうも危険な感じだ。

映画用のきちんとしたシナリオを書いてそれを映画にするという最も大事な工程を借り物にしているように思うのはぼくだけだろうか。
 

2008年8月24日

五輪ばなしその6

男子サッカーの決勝は、2連覇をねらうアルゼンチンにアフリカの雄ナイジェリアの対決であった。これは大変見ごたえのある試合でさすが世界の一流はちがうと唸ってしまった。真昼の炎天下でピッチ状況もよくなく、そんな悪条件もものともせずに素晴らしい試合を見せてくれた。

勝ったアルゼンチンは金メダルをもらうのにふさわしいチームであろう。何よりもバランスがよく、そして非常にクレバーな試合運びで“大人”のチームであった。オーバーエージが3人いたが、残りの選手が23歳以下だとは到底思えない。得点したディマリアが20歳でそこに必殺パスを出したメッシも21歳になったばかりという、こんな世代の子達が躍動するんだからすごいものだ。

アルゼンチンの強さはどこにあるのだろうか。大きなフォワードがいるわけではない。いや逆にみんな背が低い。上記の二人ともう一人アグエロにしても170cm前後だ。それでも屈強なバックスを翻弄する技術と速さがあるといういことなのだ。

もう見ていてワクワクさせられる。ゴール前に近づくと急にスピードアップされた球回しが始まり、ゴールに向かって全員が仕掛けていくという感じで驚いてしまう。単純なクロスなんてあげない。みんなの意思があったときスピードで崩していくのだ。

もう一つこの速さとともにパスの質が高いことがあげられる。パスに緩急があることと実に優しいパスを出すことである。優しいという意味はパスの受け手のことを考えたパスであることで、もらった選手が次のプレーがしやすい、あるいは流れを阻害しないようにコースと強さをコントロールできるのだ。だから、戻りながらパスをもらうことがほとんどないのでスムースにゴールへ向かえるということになる。

アルゼンチンのことばかりを書いたが、ナイジェリアも素晴らしいチームだ。あのリーチとスピードは一級品でこれから確実に伸びていく国であろう。

話は戻るが、前にも書いたことがあるが、アルゼンチンの戦い方は日本のサッカーの目指すべき方向に非常に参考になる。

日本が標榜している「人もボールも動くサッカー」は、ただ動く、動かすだけではだめなのであって、当然のように最終的にはゴールすることなのだから、そこへ向かってどうやって動くのか、動かすのかということが大事になる。今回のアルゼンチンの戦い方はいいヒントを与えてくれたと思うので、よく研究して日本のサッカーを進歩させてほしいと思う。

日本ならそういうことができると思うのであるが、なぜかというと陸上男子400mリレーの銅メダルに通じると思ったからである。個々の力は劣ってもバトン渡しのテクニックがあれば勝てるということを証明してくれたのだ。

バトンというのはもらうほうがスムースに走り出せるように優しく渡すことなので、これはアルゼンチンのパス出しと同じテクニックである。リレーでやったことをサッカーでもやって欲しいのである。
 

2008年8月25日

BPMを正しく理解するために-経営とITの同期

いま、ぼくの周りで「経営とITの同期」ということが盛んに議論されている。先日もカリフォルニア州立工科大学の一色教授とのディスカッションでもこの言葉がでてきた。

ところでよくいわれるのが「経営とITとの融合」ですが、どうもよく考えると経営とITが融合するという状態がイメージできない。それよりも経営とITが同期するというほうがしっくりくる。したがって、これからは「経営とITの同期」ということにする。

ではその経営がITと同期するというのはどういうことなのだろうか。同期というからには経営側から見てもIT側から見ても整合的に同じように動くことを意味している。すなわち、

・経営に役立つITになっていること
・ITを使いこなす経営になっていること

だと言える。

これだと抽象的なのでもう少しわかりやすくすると、どういう状態のことをいうのかとなる。それは、

1.業務プロセスを可視化しコントロールしている
2.戦略を実現するために事業全体の適正なオペレーションができている
3.業務パフォーマンスの把握と戦略へのフィードバックがなされている

ではないでしょうか。

まずは、自分たちの経営や事業運営の核となる業務プロセスをコントロールできていることが大事です。何をやっているのかがわからないで結果だけ見せられた、成績はこうでしたといわれても手の打ちようがありません。いまのプロセスの状態を見えることで制御が働きます。

さらに経営方針や事業戦略が狙い通りに実現できるように事業全体をオペレーションすることがもっと大切なことになります。

こうして動いた業務プロセスのパフォーマンスや事業の結果をきちんとモニタリングして、評価して最初の戦略立案へフィードバックさせます。

要するに大きなPDCAサイクルを回すことなのです。しかしながら、これまでの問題点は、この戦略から実際に動く業務プロセスへのつなぎが不十分であるということなのです。

この問題を解決するツールとしてBPMSがあります。すなわち、経営とITを同期させるフレームワークがBPMSなのです。
 

2008年8月26日

BPMを正しく理解するために-日経SYSTEMSの特集から

今日発売になる「日経SYSTEMS」9月号は「SOAアプリの開発基盤BPMツール」というタイトルでBPMSの特集を組んでいる。

ぼくもこの記事に関する取材を受け、ひとことだけ載っていたが、この記事について考えてみる。

まずは率直な感想は今のBPMの課題が浮かび上がったということである。どういうことかというと、事例として出ているものをよくみると2つのタイプがあることがわかる。

ひとつは佐世保重工の例にあるように機能とプロセスを分離して、機能をサービスとして外部化することでプロセスに組み上げるモデリングである。一方、他の事例では申請・登録系などを対象としたワークフローツールとしてのBPMSである。コードレス志向で開発生産性を高める方向に重きを置いたものである。

この二つの間で大きく違うのは、サービスの粒度である。前者は比較的大きな機能という捉え方ですすが、後者はそれよりも小さな粒度であるアクションレベルのものをBPMSでつなげている。

この二つでどちらが良くてどちらが悪いというわけではない。もちろん両方ともありだが、両方とも何かが足りない。

大きな粒度でプロセスを作ったときは、実装にどう落とすかという問題が残る。一方、ワークフローだとコアに近いところの業務プロセスへ展開した場合、膨大なアクティビティ数になってしまい、プロセスの可視化が難しくなる。

ということは、両者の課題をうまく解決すればいい。ビジネスモデルから業務プロセスへ落としこみ、それを動く仕組みとして実装していかなくてはいけないわけで、まずはビジネスモデルから業務プロセスへ連結性を維持するには大きな粒度がいる。それはそれで大きな流れのプロセスを作るのだ。これはマクロワークフローでもある。

次にその“粒”=アクティビティ・機能の中を細分化されたフローに分解するのである。これはミクロワークフローで、申請・登録などはこれにあたる。

こうしたレベル化がポイントである。マクロワークフローとミクロワークフローに分けたが、言い方を変えると、固定的(静的)プロセスと変動的(動的)プロセス、あるいは戦略的プロセスと戦術的プロセスともいえるのではないでしょうか。

この記事からうかがえるようにまだまだBPMについての定義や体系が定まっていなく、人によって語っていることが違っていることも多い。

これから、いろいろな議論や実績の評価により、輪郭がはっきりしてくると思うが、単なる新しい個別のソフトウエアだとかアーキテクチャというだけではなく、業界構造やIT人材像なども変えていくほどの影響力があるということだけは確かだと言えそうだ。
 

2008年8月27日

歴史と出会う

いつだったか、もうだいぶ前の話だが、ぼくの友達が最近網野善彦にはまっているというようなことを言って、本を読んでみろと言われた。もちろん名前は聞いたこともあり、中沢新一のおじさんということも知っていたのだが、近所の本屋に置いてなかったこともあり、なかなかその著作を読む機会がなかった。

このところ東京へ出かけるとOAZOの丸善に寄るのが楽しみでそこで検索して捜してみた。で何から読もうかと思ったのだが、最初から論文みたいなものを読むのもなんなので、「歴史と出会う」(洋泉社新書)を手にする。

この本は網野善彦の履歴だったり、対談や追悼文などが収められている。なので、ちゃんとした論文を読んでおいたほうがいいに決まっているのだが、初めて読んでも大変面白い。なにが面白いかというと、歴史に対する視点が常識にとらわれないというか、従来の学問を無批判に取り入れるのではなく、角度を変えて検証し、実相をえぐりだそうとする態度である。

その典型が、農業を中心にみる歴史を否定しているところです。もっと海を場としたダイナミックな海民の存在を重要視している。定着農耕ではなく移動型漁民を考えていくと日本という国自体の捉え方も変わってくるのだという。

他にもいろいろ面白い話が詰まっている。ぜひ、ほかの本も読んでみたいと思った。

そして何よりも著者の人となりのすばらしさがにじみ出ていることだ。師や同僚に対する追悼文や対話のなかに非常に謙虚でかつ尊敬の気持ちが随所にみられ、こういう人こそ本当の学問を極めた人というのだろう。ほんのちょっとだけ網野史学に触れたのに大きな感銘を受けたのである。
 

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2008年8月28日

充実の一日?

今回のエントリーはちょっと日記風になる。

昨日の一日はいろんなことがあった(をした)日であった。午後から溜池山王のアークヒルズでセミナーを受講する。アークヒルズは懐かしい場所で、かれこれ8~10年前にその近くの事務所で仕事をしていたからである。そのビルが現在構想ビルに立て替わってしまっている。

で昼飯は溜池山王d食べることにしていたので、どこに使用かと思案したら、そうだ昔よく行っていた定食屋にしようと思って行ったらまだあったのである。いつも食べていた鯖みそ定食を頼む。味も値段もむかしのままでうれしくなった。

アークヒルズはしょっちゅう利用していたところでサントリーホールやテレビ朝日があった。そこでセミナーがあった。ところがこのセミナーが最悪だったのだ。始まって30分くらいで、さあみなさん実習をしましょうとなって、みな個々にPCを起動させたのはいいのだが、その環境にいっこうにアクセスできない。それでなんだかんだと皆が使えるようになるのになんと2時間かかったのである。いくら無料のセミナーだからといえ、オレの貴重2時間を返してくれと言いたくなる。

これは大げさかもしれないが危機管理がなっていない。当然そういう事態を想定して、次善策を考えて臨むべきである。ぼくらだってプレゼンでデモする場合、それが動かなくなったときのことを予想して別のプレゼン形態を用意するのがあたりまえだ。

その後は、川崎へ。なぜ川崎かと言うと映画を観たかったからだ。お目当ては8時15分からのレイトショーである。その前に時間があったし、お腹がすくので、そば屋で8時まで酒を呑んでそばを食べる。

そのうち酔っ払ってきて、映画だいじょうぶかなあと思ったが、初志貫徹で映画館へ。三谷幸喜の「マジックアワー」を観る。面白かったので眠気はまったく起きず。終わったときは酔いも醒めそのまま家路につく。

こんな日はうれしいのである。ちょっとこけたけど仕事をし、酒を呑み、映画も観れ、満足したのである。
 

2008年8月29日

BPMを正しく理解するために-要求定義と要件定義

経営とITの同期を議論していくと、経営の要求をどうITに反映させていくのかとう問題が出てくる。ここの議論での焦点は、「要求定義」と「要件定義」の違いである。

米国ではこの前者の「要求定義」のための「要求工学」というのがしっかりとあるというのは一色教授の話にもあった。「要求工学」というのは要求獲得―要求仕様化―要求検証―要求管理というサイクルを工学的にやろうという動きである。

日本にも要求工学はあることはあるし、要求開発というコンソーシアムもあるのだが、概して、「要件定義」に寄っている。どういうことかと言うと、システム化するための要件、システムとして備える要件に持っていってしまうということである。

そうなると端的にいえば、システム化できる業務だけに限った要求になってしまう。この時点で、経営とITの乖離が起きる。経営戦略の達成は何もIT化できる業務だけでできるわけではなく、手作業やコラボレーションなども重要な手段であるからである。

ここが従来の上流設計と言われるところの不備である。ですから、いつのまにかビジネス上の要求がとんでいってしまい、単なるコンピュータシステムを作ることになってしまうのである。

ですから、要求工学に則ってきちんと要求を定義し、それは崩さすIT化するという連続性を担保した要件定義にならなければいけない。

もう少し詳細化していうと、経営戦略たとえばバランススコアカードで設定したKPIなどを実現するための業務プロセスを大きな流れから徐々に分解していきます。このときは、人間系でやろうがITでやろうが関係無しに、業務のアクティビティとして定義します。そこで定義したアクティビティを定型ITとともに不定型なコラボレイティブな場とで実装していくのです。このあたりは、設計と実装の連続性のところで書いたとおりです。

こうしたレベルになってくるとオペレーショナルな観点で決めていくので、より柔軟に考えていけばいいのです。すなわち、使う人の使い勝手で変えてもいいし、新しい技術ができたら乗り換えてもいいのです。それは戦略的な要求を損なうものではありません。

ですからここでの議論である、「要求定義」と「要件定義」の違いを正しく理解することが非常に重要なことといえます。


2008年8月30日

ザ・マジックアワー

三谷幸喜はぼくのお気に入りの監督の一人で、日本で数少ないコメディを書ける脚本家であり、撮れる監督である。久藤官九郎もそうだが演劇から入ってくる人に面白い人がいる。

久しぶりに劇場で観たせいでもないが、映画の面白さを満喫した。声を出して笑ったのも久しぶりだ。何といっても佐藤浩市の怪演は見ものであるが、それに答える西田敏行や妻夫木聡などの共演者もうまく演じていた。

さらに、他の出演者もすごい顔ぶれで市川昆とか柳澤愼一、榎木兵衛といった懐かしい人たち、そして渋い脇役の寺島進、小日向文世、戸田恵子、香川照之ときたらたまんない。女優陣も深津絵里と綾瀬はるかだ。特に深津絵里がいい。こりゃ豪華だ。

三谷幸喜は舞台出身だが、映画に対する愛情もあり、そのためにいくつもの楽しい仕掛けを施している。セットもそうだし、劇中劇の映画シーンもそうだし、こういうものを見るとそれだけでうれしくなってしまう。

この映画の宣伝のためにテレビに出まくっていたそうだが(ぼくはテレビを見ないのでよくわからないが)、それを批判する人もいるようだが、別に営業活動の一環で当たり前じゃないのかなあ。

脚本もよくできていると思う。単なるおふざけ映画でもなく、佐藤浩市の売れないが役者へのこだわりだとか、妻夫木君の軽いまじめさだとか、深津絵里の気まぐれぶり、寺島進の凄みと間抜けさとかいった、何となく人間ってどこか抜けているところがあるんだというところも感じさせてくる。

ストーリーだって、うまく練られていて、いいテンポの展開になっていると思う。お薦めの映画です。
 

2008年8月31日

遅まきながら五輪ばなし

もう終わってからずいぶん経つが忘れていたことを思い出したので書いておく。女子マラソンのことである。

日本の選手のことではない。ヌレデバのこと、いやレースの流れのことである。このレースでルーマニアのトメスクが金メダルで、ケニアのヌレデバは終盤追い込んだが銀メダルに終わった。20キロ過ぎでトメスクが飛び出しそのまま独走で一度もトップを譲らずゴールした。だが、最初はかなり離れていたが、最終的には22秒の差であった。

ここでヌレデバの走り方を振り返ると最初は先頭集団から遅れて走っていて、30キロ過ぎたあたりから徐々に追いついてきたのだが、そのときはすでにトメスクがスパートしたあとで、先頭集団に追いつたと思ったらそれは実は2位集団だったのである。

きっと、ゴール真近になってまだひとりいたと気がついたときはしまったと思ったにちがいない。もし、ヌレデバがトメスクが飛び出したことを早めに知っていたら彼女が金メダルをとったのは間違いない。

でこのシーンをみて思ったことがあって、絶えず先頭集団にいて、トップランナーがどこにいるのかを確認しておくことが大事であるということだ。多少無理してでも先頭に食らいついていくことが必要で、そうしていくうちに自分が先頭に立つにはどうしたらいいのか、いつがチャンスなのかがわかってくる。

この話はなにもマラソンに限ったことではなく、仕事や実生活の上でも考えさせられるシーンである。自分を磨くあるいは仕事で業績を残そうと考えたとき、まずは自分の立ち位置を確認するところから始めなくてはいけない。

やみくもにやってもダメで。自分の力、世の中の進み具合、ロールモデルの存在等々をきちんと把握する必要がある。それさえできればかなり前進で、そこから方向やスピード感を設定していけばいい。ヌレデバのようにまあこのくらいにいてのんびりやればいいと思っていたら、世の中ははるか先に行っていたなんてことにならないように気をつけなくてはならない。

ところでさらに大事なことは、そうした先頭集団にくらいつくためにどういうトレーニングをするかである。

それは、普段自分より優れたひとと一緒に走ることなのだ。つねに肌でトップ集団の走りを感じることだ。最初は力の差があったとしても日々のトレーニングでだんだん近づけていけばいい。

ところが残念ながらこのトレーニングが会社の中や実共同体でできるところが少なくなってきている。そうなると会社から離れたところでそうした環境を作る必要があって、その一つがインターネットのコミュニティだったりする。

そこではトップランナーが惜しげもなく走る姿を見せてくれるから、その力を実感できると思う。そうやって自分を鍛えていくことが大切なことだと思うのである。
 

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