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2008年7月 アーカイブ

2008年7月 1日

BPMオフ会

昨日は第4回BPMオフ会。3つのセッションがあって、iknowの紹介、YAWLとOpen-WFEるの説明というラインアップ。いずれも外国人の方たちがプレゼン。

iknowは知る人ぞ知るSNS型無料英語学習サイトのこことで、楽しく英語が学べる仕掛けがほどこしてあって面白かった。

YAWLというのはYet Another Workflow Languageのことで、これをストックホルム大学の美しい女性教授Dr.Petia Wohedが解説してくれた。これはどうもワークフローパターンに基づいた言語のようなのだが、何となく雰囲気がわかるくらいで、全部英語ということもありさっぱりわからない。でも、WorkletとかDynamicWorkflowとか興味が湧くものがあったので少し勉強しようかと思った。

最後はJohnMettrauxさんによるRubyベースのオープンソースワークフローOpen-WFEるの紹介。この名前が「ruote」(るおてと読む)といってイタリア語で車という意味なのだそうだ。飲み会でOpenWFEというとOpenWifeと間違える人がいるのでそういう名前をつけたといって笑っていた。

そのときブランディングとしては、ちょっとひねった方がよくて、もしググッったとき車が出てきてしまうから、Googleのトップに出るような名前の方がいいんじゃないてなことを言った。まだ、コミッターが2~3人なのでこれからなのだが会社の仕事以外でこういうことをやっていること自体えらいと思ってしまう。

メインの飲み会は近くの居酒屋で前回よりかなり広い(笑)のでゆったりと会話を楽しむ。となりのとなりでは相変わらずの羽生節が聞こえる。始まるのが遅かったのですぐに帰る時間になってしまった。もう少し、Dr.Wohedと話したかったのだが、「wadaさん家に帰れなくなりますよ」という声で店をあとにする。遠いと終電を気にしなくてはいけないのでなんとならんかと思うのだが平日開催ではしょうがない。

ということで、今回もまた楽しいオフ会であった。wkzkさん、GoTheDistanceさん毎度のことながらご苦労様でした。
 

2008年7月 2日

ユーロが終わった

続けて仕事で出ていたのでユーロ決勝の録画を昨晩遅く見る。44年ぶりにスペインの優勝で幕を閉じた。

今大会のスペインのサッカーは非常に魅惑的であった。4-1-4-1という布陣で2列目の4人、シャビ、イニエスタ、セスク、シルバが躍動した。いずれも170cm台の小柄な選手たちであるが、テクニック、スピードは申し分なく、それにそれぞれの連携がかみ合うという、非常にうまくチームがまとまったようだ。中盤でのパスが面白いようにつながり、大男のドイツ選手を翻弄していた。

この4人を支えるボランチのセナやバックス陣、キーパーのカシージャス、そしてストライカーとしてのフェルナンド・トーレスとすべてがバランスがとれていた。

中盤の4人の攻め上がりとディフェンスは素晴らしい。あまり大きくポジションチェンジをしないで、むしろ横一直線に並んだような布陣で、それゆえにこの横幕が攻撃でも守備でも相手の砦になったり、網になったりしている。

そして何より、攻守の切り替えが素晴らしいのだ。誰かが「ボールを奪われたときがチャンスだ」と言ったが、まさにこれを実行したのがスペインではなかったか。相手がボールをもって前がかりになったときさっとボールを奪い、素早くゴールに向かうことで数的有利を作り出すことがしばしばあった。

こうしてみると、日本のめざすところも今回のスペインと似たような形であるという声が出てきそうだ。身体つきだって日本人並みだし、最近の日本選手もテクニックがあるのでそう思うが、はたして同じようなチームにできるのだろうか。

ぼくはかなり難しいような気がする。スペインはたまたまこの4人がいたからこそできたのであって、こうしたスキルが4人揃うかというとそう簡単な話ではない。わりとよく似たタイプで前へのスピードがあってパスも出せるということで、じゃあ日本代表はどうなの、となってしまう。アルゼンチンだったらできるかもしれないが。

結局、戦術とタレントがうまく合致するか、させるのかが問題なのであって、今回はそこがうまくかみ合ったということに尽きるような気がする。
 

2008年7月 3日

企業における人とIT ~ITはせっぱつまらないと使わない~

よくせっかくシステムを作ったのに利用してくれないとか、いいツールを与えたのに以前と同じやりかたでしかやらないとかいう声を聞きます。それはいつも情報リテラシーが低いとか意識が変わらなくて困るという話になります。

先日ある記事を読んだときもそんなことが書いてあったので紹介します。

6月11日に米国ボストンで開催された「Enterprise 2.0」イベントで、ブログやwiki、RSSフィードといったユーザー生成コンテンツツールを企業で利用する際には、中間管理職の存在が1つの大きな壁になっていると、パネリストらが論じ合った。 これは、懸念すべき事態といえる。一般に企業は、ビジネスプロセスを円滑に進める役割を中間管理職に求めている。彼らがブログやwikiを使用した情報発信に参加しなければ、仕事が滞ってしまうのではないだろうか。中間管理職が本当にそうしたツールを受け入れなかった場合、ワークグループのコラボレーションが散発的になったり、効果が薄れたりすると思われる。

これは米国の話だから、日本ではもっと大きな壁がありそうです。

ではどうしたらよいのだろうか。上の記事でもそうだが、ブログやWikiなどを対象としているが、こうした使い方では個人差も出るし、だいいちそれを使わなくても仕事ができることのように思えます。

今だって、電子メールより電話の方が早いし、ちゃんと伝わると思っている人がいるわけで、単なるコミュニケーション手段が今様なものを使えというのではインセンティブたり得ないのです。いくら嘆いても普及するのは難しい。

この解決策は、“それを使わないと仕事にならない”状況を作り出すことではないでしょうか。

この米国の例でもワークグループのコラボレーションと言っていますが、業務システムをオペレーションするのに使っていない、あるいは業務システムの機能に組み入れられていないのです。ですから、使わなくても支障がないやとなって使わない人も出てくるわけです。

ですから今提示しているようにフロントエンドにCMSをもってきて、その場のコラボレーションにより、ワークフローを回していくことにすれば、自ずとそのツールを使わないと業務の進行を妨げることになるので必然的に使わざるを得なくなります。

システムというのは自然と使わざるを得ないものになってこそ生きたものになると思っています。このような自律的な姿をどう実現させるのかが重要なポイントになるのです。
 

2008年7月 4日

企業における人とIT ~生産方式から見ると~

業務プロセスが化学プロセスと似ているという話をしたが、もう少し範囲を広げて考えてみることにします。前の話では連続プロセスのイメージがつよかったと思いますが、製造工場には上流の原料受け入れから、製造、保管、最下流の出荷まで各種の製造プロセスがあって、各工程のプロセスは連続プロセス、バッチプロセス、ディスクリートプロセスと混在した形でいりこんでいます。

連続プロセスは化学プロセスに多く、液やガスが一旦投入されると連続的に流れて製品が出てくるといったものです。バッチプロセスというのは、化学でいうと反応釜のようなものに原料を仕込んでそこで生成された製品をそこから抜き出して、また次の原料を仕込むようなものです。ディスクリートプロセスというのは半連続的に流れていくが機械的に搬送しながら流すようなものです。自動車の生産ラインもこれにあたります。

ですからわれわれ化学屋はこの自動車の組み立て型のプロセスがなかなかなじめないところがあります。プロセスの違いもそうですが、化学プロセスは基本的には組み立て型と違って展開型なのでそこもあります。化学ではレシピ(配合表)といいますが、組み立て系ではBOM(部品表)です。

もうひとつ、ベルトコンベアーのような流れ作業型のラインに対して、キャノンがやったようなセル生産方式というのもある。システム開発でいうとウオーターホールとアジャイルみたいなものです。

なぜこんなことを書いているかというと、生産プロセスのほうが業務プロセスよりもっといろいろなかたちがあったり、高度化されているから、そういうところを研究、学習し、活用することが必要であると思うからです。

さらに、そのシステム自体もはるかにすごいことをやっていて、例えば制御ステーションの考えなんかブレードサーバーと同じだし、冗長性なんかかなり高度な仕組みになっているし、EBSなんてプラント制御では最初からバス接続の方式である。また、データ活用なんかでも、データウエアハウスとかBIなんて言っているけど、プラント系ではリアルタイムデータを解析していたり、高度なシミュレーションをやったり、最適化制御もやられたりとすごい差があるように思える。だから、こうしたことをうまく転用することも考えた方がいいと思う。

でなぜ人とITなのかというと、生産プロセスはそれをきちんとコントロールしていることと、そのプロセス全体をオペレーションしている人がいるということなのです。ここのところが業務システムの弱いところではないかと思っているのです。
 

2008年7月 5日

今大阪です。

今あるユーザ系情報会社とフィージビリティスタディをやっている。その会社がASPで提供している販売あるいは財務会計システムの再構築について、ぼくのいまやり方が適用できるかどうかという検討である。

昨日はその大阪本社に行ってミーティングを行った。メールでそちらに行くのでよろしくと書いたら、みんな気合がはいっているのでそのつもりで来てみたいな返事が返ってきた。

議論の中心はBPM(Busness Process Management)を使うとどう変わるのか、どういういいことが待っているのか、どうやって開発したらいいのかといった基本的かつ根幹にかかわる議論になる。

すぐにツールの使い方や機能の話になることが多いが、ここの会社での議論は考え方だとかコンセプトから入って、そこをみんなで腹に入れようよというスタイルなので気に入っている。

BPMを検討するときの大事なところはここのところで、従来型の延長ではなく、新たな考え方で見ていかないとなかなか理解できない。

こうした詳細についてまた違った記事で紹介しますが、論点を少し書いてみると、今あるパッケージはスクラッチの手組み開発でスタートし、その後カスタマイズやアドオンをしているうちにスパゲッティ化してきたので、それを再構築するというプランである。
そこでは、あくまで今の延長でプログラムを整理し、部品化をして保守性を向上させるというやり方もあるし、まったく新たな基盤に開発コンセプトも変えてしまう、例えばBPMを採りいれるなどをするという選択肢がある。

そういう中でBPMの有効性を検証しているわけだが、BPMはプロセスオリエンテッドだから、もちろんプロセス設計から入る。そこでプロセスを書くのだが、いま動かしているシステムをベースにプロセスを書くと画面中心になるのだ。しかも、画面と画面をつなぐところに手作業のプロセスが入る。さらに、画面の中も実はプロセスになっていることがわかってくる。

いま、内部統制やら業務の可視化の必要性が謳われているが、このときプロセスを書けるかどうかがかなり重要な要素となる。そこで昨日は、ITを使おうが使うまいが、またシステムの作り方をどうするにしても、まずは業務プロセスを整理することをしませんかという提案を行なった。

BPMを実行する場合、一番の肝になるところであり難しいところは、「シンプルで一貫化されたきれいなプロセス」を書けるかどうかです。これができさえすれば、そしてその構造を崩さないかぎり、実現方法はどうやってもかまわないのである。

今度のディスカッションの論点は、まず一度プロセスを書いてみて、それをどう料理していくのかになる。面白くなってきたぞ。

昨日参加した人たちは皆熱心で、よく考えている方ばかりなのでついこっちも熱が入る。久しぶりの“ライブ感”を味わった。

終わって、近くの店で懇親会をしてもらう。そこでもITに限らずサッカーの話だとか大いに盛り上がる。

飲んだとき一緒だったY田クンからこのブログに自分のことを載せてよと脅されたので書かなきゃいけないのだが(笑)、Y田クンが何かいけるかもしれない感じがしたと言ってくれたときはうれしかった。

お互いに違った角度から見て、意見を言い合うという機会は非常に大事で、そこで違う見方をすぐ拒絶するのではなく、一旦受け入れて吟味してみるという姿勢が大事で、昨日はそういった議論ができたように思える。もちろんぼくの方もすごく勉強になった。

しかし、大阪は暑い。それに梅田の駅回りはわけがわからないし、エスカレータで左側に立っていたらどつかれるし、それよりも何よりも周りがみんな大阪弁だし、ああ疲れた。
 

2008年7月 6日

忙しい!

7月に入りかなり忙しくなった。できるだけ休みを取るようにしているのだがなかなか休めなくなった。

雑誌に載せる原稿を書かなくてはいけない。セミナーの資料を作る。コンサルの提案と解析が2件。プライベートでは、大学のサッカー部の50年記念誌発行の会議、サッカー部同期との呑み会のセット、そして1年先輩との呑み会。呑み歩き隊の例会。さらに法事。これらをこの2週間で片付けなくてはいけない。おお、もうちょっとのんびりしたい。

そんな折、今日は、ばあちゃんの87歳の誕生日。何かお祝いをしようかと言ったら、もうそんなに欲しいものはないからいいよと言って、来年米寿だからそのときには盛大に祝ってくれという。もしそれまで生きていたらといって笑っていた。まだまだ元気だからだいじょうぶだろう。

外をみたら七夕の飾りが出ていた。ばあちゃんが裏から竹をとってきて願い事を書いた短冊をぶらせげたらしい。人間って歳をとるとだんだんこどもに還っていくのですね。短冊に長生きできますようにと書いてあったのは言うまでもない。
 
明日はまた、ぼくが尊敬してやまない作家の永井明の命日がやってくる。
 

血と骨

ぼくはビートたけしはそんなには好きではない。監督としても俳優としても。ほぼ同年代なのでそこからくる反発なのかもしれないが、なんとなくぼくらの代表みたいに言われるのも抵抗がある。

そんなたけしが主演し絶賛された崔洋一監督の「血と骨」を見る。まあ、賛否が極端に割れるような作品ではないだろうか。エロ、グロ、バイオレンスが嫌いな人はとんでもない作品に写るし、一方強烈な個性を発揮する人物から時代を感じ取れるような人は傑作と思うのではないだろうか。それだけ強烈な映画だ。

ぼくはこの映画の背景となった時代を少しはわかる。映画の中のシーンにもあの昭和が登場してくるので、三丁目の夕日のように懐かしい思いで見たが、内容はまったく違い、片方は暖かさやほのぼのさであるが、こちらは荒々しさと冷酷さである。

ぼくが子供のとき、家の近くに在日が住んでいたので雰囲気は知っているが、あまり特別な感情はない。迫害したとか、差別したということではなく、異質な何かがゲットーとして存在しただけに思えた。そして中学生になって在日の子と友達になり、何だ異質でもなんでもないじゃないかと感じた、そんな経験からこの映画をみると、どうもあの主人公金俊平の行動がよく理解できないところがある。

原作を読んでいないのでわからないが、おそらく、日本の社会の中で様々な屈辱があって、そういう中で凶暴な性格も形成されたはずなのだが、そこが描かれていないのでいきなり暴れまわる。これでは単なるハチャメチャ親父である。

最初に斉州島から船で夢を膨らませて日本にやってくるシーンがあるが、この手のシーンはよくあって、そこからその夢を実現するためにいろいろあってというストーリーとなるのが普通なのだが、そこが薄いのである。

途中に脈略のないシーンがあって、こんなエピソードはいらねえんじゃないのと思えるので、そこを外して船のシーンとのつながりを描いた方がよかったと思う。

まあ、ぼくにはまあ気持ちがよくない、後味のよくないほうの映画であった。
 

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2008年7月 7日

リスクとは

以前自分でコントロールできないことはリスクであると言ったが、逆もあるのかと思う。すなわち、自分でコントロールしない、誰かにコントロールされることが、そうでないことよりリスクが少ないと感じる人がいるのではないだろうか。たとえばお役所に勤める人とか、大企業の人たちにいるような気がする。

リスクを冒してでも何かすることをとるのか、それとも何かすることはリスクがあるので何もしないことをとるかでずいぶんと生き方が変わってくると思う。

ぼくは単純に何もしないことは退屈で面白くもなんともないと思うたちなので、前者のように多少リスクがあっても自分でコントロールしたいという気持ちが強い。

だからといって、みんながみんなそうしろとは言うつもりはない。だから、うまく棲み分けることと文句をいわないことですね。コントロールされる側にいるのに規制するなと文句を言う。自分の好きなようにコントロールしてくれ、いい上司の下で仕事がしたいなど言うなということである。

どこがその差を生んでいるのだろうかと考えてみる。それは、「クリエータとして生き続けるか、あきらめるか」だとぼくは思う。自分でコントロールすることができなければクリエータであることはできない。そして、それは新しいこと、人と違ったことをやるのだから当然リスクが伴う。

クリエータというのは文字通り何かを創造している人で、それが物理的なものなくても、経営でもいいし、考え方だとか、生活スタイルでもいい、常にささいなことでもいいから、自らの頭で考え、実行していくことが大切ではないでしょうか。それを続けられるのがクリエータであると思う。

ぼくは今年還暦なので、周りにはもうクリエータを降りてしまっているひとが多いと思うが、やめるつもりはない。

広い世にはぼくと同じような人もいて、いま新ITによる業務プロセス構築のための体系作りをしているが、その仲間は59~63歳の人たちなのである。このひとたちの活躍をみているとぼくなんかまだまだ修業が足らんと思ってしまう。

ということで、この歳になってもまだまだクリエータで居続けることで自分でコントロールできるようにしてリスクを回避していきたいと思うのである。
 

2008年7月 8日

もういいかげんにして

環境問題はセンシティブだから言わないことにしているが、サミットの話題でもあるので、メディアでも大きく採り上げられていて、ちょっと前にもテレビ朝日で地球温暖化の特集をやっていた。ぼくはテレビをほとんど見ないので断片的に、というか最後の某キャスターのわめきを聞いただけなのだが、かなりの違和感を持った。

武田邦彦さんがNHKにかみつくほど熱くはならないがやっぱり何か言いたくなる。なぜあんなに目くじらをたてられるのかなのだ。

基本的に温暖化が悪いことだと思っていないこともあるし、そうでしょ、単純に言っても寒冷化よりましでしょう。温暖化になったほうが農作物がいっぱいとれるんじゃないのと思ってしまう。

それと違和感の一番のところは、みんなでCO2の排出量を減らしましょうよと言ったすぐあとに車のコマーシャルが流れる。さまざまな商品のCMが買え買えと大合唱する。大量消費こそぼくらに幸せを提供すると叫んでいるように聞こえてくる。

いやあ、ハイブリッド車です、省エネタイプのエアコンですっておかしくないですか。一番のCO2削減策は車に乗らないこと、エアコンより団扇であるはずですよね。

それに今の喫緊の問題は地球温暖化でもなんでもなくて、貧困や食料危機なのである。だから、もっと謙虚になれっていうこと、他人に強制することでもなく、もっと慎ましやかにやればいいじゃんといつも思うのである。
 

2008年7月 9日

40年ぶり

大学のサッカー部の同期4人と渋谷で呑む。そのうち一人は何と40年ぶりである。もう一人もそれに近い年数が空いている。

同期は、ほんとうにすぐにやめたヤツを除くと15人いる。そのうちの2人が亡くなっている。一人は若いときにイラクかイランだったか仕事で中東にいたとき車の事故で死んだ。

もう一人は6年前に多発性骨髄腫で亡くなってしまった。その6年前に死んだヤツの葬式の帰りから、同期会がスタートした。毎年そいつの命日近くに皆集まって呑むのだ。だがそのときに連絡がついたのは8人で、そのあと東京に転勤になったやつが加わって9人になった。

ところが、ひと月ほどまえから、サッカー部50年誌をつくろうという声があがり、各年代で名簿をそろえることになった。ぼくはその名簿委員になったこともあって、消息が途絶えていたやつを必死に探したのだ。何とか残りの4人のうち3人までを探し当てたのである。

そして昨日はそのうちの一人がたまたま仕事で広島から上京してくるというので空いているヤツを誘って会ったのである。この広島から来たヤツはいまだにサッカーを続けていて何と広島県サッカー協会の理事をやっていた。

最初に見たときは、いったいこいつは誰だと思ったのだが、それもすぐに学生時代の面影とダブリながら。おおあのときのやつだとなる。40年の歳月がいっきに隔たりを亡くした瞬間である。

それからは、あのころの話で大いに盛り上がったのである。ぼくらは全共闘時代の子だから、学校でろくに授業がなかったので、学校に行かないでバイトと仕送りで優雅な生活をしてたなんて話になる。まあ、新規参入組の二人はともに留年しているのであまり勉強の話はしない。

いまや、ぼくらは定年か定年をまじかに控えているせいか、ギラギラ感が失せ、ひとのいいおっさんになっているようだ。

いよいよこれからは名刺の関係性から違ったお友達との交流が始まっていくのだろう。

2008年7月10日

整理をしないという整理のしかた

有名なアマゾンの倉庫には、800万種類の本が保管されていて、注文が来るとその中から目的の本をアルバイトの子が即座に抜き出し配送していく。

そんなことができるためには、さぞきれいに整理されて棚に収まっていると誰でも思うでしょう。ところが、全く逆で整理しないでランダムに並べてあるだけなのです。これはあえてそうしているのです。要するに、最初に整理する手間(=コスト)とピッキングの手間(=コスト)のトレードオフなのである。アマゾンでは、はじめにきちんと整理して保管するコストの方が高くつくというのである。

実際にどうやっているのかというと、入荷した本は、ジャンルとか作者だとか無関係にならべていく。ただし、そのときバーコードで本の識別と棚番をマッチングさせるのである。そこで記憶したデータに基づき鉄砲のようなリーダが所定の本のありかをナビゲートしてくれるというものである。

なるほど、この逆転の発想はすごい。つい常識にとらわれて、モノは整理しておいておくものだ、そのほうが見つけるのも早く効率的だ、こんなことは当たり前だと思われている。そのためのハウツー本も売られている。ところが、逆のことをやるほうが簡単だし、効率的で低コスト化を実現する。

なんでもっと前からやればいいじゃんと言われるかも知れないが、そうは簡単なものではない。こういうことができる背景は、一番には高い機能を備えたデバイスのおかげだと思う。アマゾンでもバーコードリーダとピッキングするためのインテリジェントガンができたからこそ、こうした逆転発想の仕掛けができたのだ。

ここで、三つのことに思い至る。ひとつは、デバイスによってシステムが変わることがあるということだ。もう少し敷衍すると、新しい技術が業務システムもプロセスも変えうるということだ。ですから、技術はどんどん新しくなっているのに、エンタープライズ系の仕組みに技術オリエンテッドな考え方、なぜ出てこないのだろうかと思う。

もうひとつは、整理しないという発想である。システムを作るときって、データの正規化とか情報ディレクトリーなどきちんと整理しておこうという態度が普通である。しかし、ここもアマゾン倉庫的な発想ができないだろうか。もちろん大福帳型のデータ整理はあるのだが、抜き出すためにデータマートで整理している。

そういう意味ではGoogleの世界である。エンタープライズにも検索という概念がもっと入り込んできてもいいような気がする。本も情報だと考えると、アマゾン倉庫発想のビジネスインテリジェンス(BI)もありかなと考えている。
 
最後は、やはりシステムの限界ということでこのアマゾンの倉庫のような世界だと何でもITで自動化した方がいいように感じると思うが、ITは結局柔軟性に欠けるのであって、現実の世界はより”しなやかさ”が必要になるのだろう。この”しなやかさ”を発揮するのは人間が介在することで実現する。そうです、人間がITを使いこなしてこそ、トータルとして”しなやか”なシステムになるのです。
 

2008年7月11日

どぜう

久しぶりの呑み歩き隊の例会。今回の幹事は最近東京のご当地検定をパスして東京シティガイドクラブに入会したN君である。ついちょっと前にも丸の内検定3級をとったと言っていた。

だから、彼がいろいろなコースを考えてくれる。今回は彼のいくつかのプランの中から、浅草ほおづき市を見て、そのあと飯田屋で「どぜう」というコースを選択。しかしほおづき市に行ったのは一人だけでぼくを含めて残り3人は直接飯田屋へ。隊長のKさんなんてだいぶ遅れて到着。

どぜう鍋を汗をかきながら食べるのもいいものだということで出かけたのに、店内はけっこう冷房が効いていて、燗酒をたのんでしまった。

3種類の鍋を頼む。最初はほねぬき鍋、ついでまるごとのどぜう鍋、最後は柳川鍋というフルコースだ。つまみもどぜうのから揚げと竜田揚げというどぜう尽くし。みんなうまかった。

皆さん、こどものときに家でどじょうを食べたことがありますか?呑み歩き隊のメンバーでは、ぼくと隊長の2人が食べたことがあったのです。

さて、どじょうをどうやって獲るか知っていますか?うちの周りは田んぼだったので夜になるとカンテラと釣竿の先に櫛状の針をつけたものをもってでかけていく。そうすると、どじょうが田んぼのなかで寝ているんです。ほんとですよ。それをその竿で突いてつかまえるのである。そして、泥を吐かせて柳川にして食べるのである。これは貴重な蛋白源になった。

そんな話をしながら食べて呑んで楽しい夜であった。
 

2008年7月12日

街場の小経済学

このあいだいつも行っていた居酒屋にもう行くのはまずい状況をつくってしまった。

というのは、ぼくは閉店まじかまで飲むことが多いが、そうしたとき決まってまだ閉店ではないのに厨房のあと片付けを始めるのだ。それも、静かにやればいいのにガチャガチャ音はさせるわ、バイトの子同士で大声で話すのである。まるで早く帰れよと言わんばかりである。

こういうことが何回かあったので、ついにこの間はキレてしまい。店のひとにやめてくれんか、まだ時間内なのだから気持ちよく呑ませてよと言ってしまった。そのあと何となく気分が悪くなって、そそくさと帰っていった。

そして、少し頭が冷えてみて考えたら、そんなところで腹を立ててもしょうがないなと思ったのである。クレームをつけていいことあったのだろうか。なんかむなしくなってきた。

だって、“市場原理”ってやつがちゃんと始末をつけてくれるはずなのだ。

飲食店に限らず、ある店で客のあしらいが悪いとか、あたまにくることがあったりすると、それに対して怒ってもしょうがないのだ。だって、それがいやならその店に行かなきゃいいだけのこと。

ところが世の中ぼくみたいな正義の味方がいっぱいいて、それじゃだめだとか、従業員教育がなっていないだとか、営業方針はどうだとか、批判し出す。でもそれって変ですよね。別にそんなところに教育的指導をしてもしょうがない。いやだったらいかなきゃいい。

そしてお客がいかなくなった店はつぶれるだけで、そのつぶれたあとに、その学習効果を持った店が現れるかどうか別問題として違う店が登場する。そういうサイクルで結局そこに定着する店ができたりする。これは紛れもない事実であり落ち着く先である。

どうもそういうことのようだ。この論をおかみに適用してみると、ああじゃねえこうじゃねえと教育的指導をしたがるのがお役所というものだ。

少し飛躍があるかもしれないが、サービスが悪かったらお客さんが来なくなって店がつぶれるから、つぶれないようにサービス向上に努めるというインセンティブがあれば、ほっておけばいいだけだ。

どうも、おかみがやっていることでそういうものがけっこうあるよう気がして、それは市場原理にまかせれば小さな政府ができると思うのだが。
 

2008年7月13日

50周年

ぼくが大学時代に所属していたサッカー部がもうすぐ50周年を迎える。だが、50周年というからには、いつから数えて50年なのかが問題になる。

ことしのOB戦に集まった超超々OBの人からそろそろ50年になるのではという話から始まったらしい。それで創部当時の人たちに集まってもらい、当時の話や資料から創部を1961年6月28日となったそうだ。だから3年後の2011年6月28日が50周年記念日となるのである。

というわけでそれに向かって50周年記念行事や正式なOB会の発足などが計画され、まずは幹事になるような人を集めた会合が昨日あったのでかけた。全部で19人のメンバーが出席。上は昭和41年卒の先輩で下は現役の学生という構成。先輩連中が多くぼくでも11番目である。ほとんどの人が何十年ぶりという出会いで、もちろんだいぶ上の人や若い連中は初対面となる。

母校のラウンジで昼食をとりながら会議を行なって、そのあと軽く呑みながら懇親会を行なったが、このときに古い写真を見ながら、あれはだれだとか、これは俺だとかすごく盛り上がる。しかし、古いところでは誰だか判明しない人物が多数登場する。忘れてしまうんですね。さすがぼくらの年代の写真では全員わかった。そのとき着ていたユニフォームやスパイクとか使っていたボール南下も写っていてすごくなつかしかった。

さらに、創部から3年間の文集が出てきた。1年下のやつが、ガリ版刷りで古文書状態をスキャナーで読んでくれてみんなに見せてくれた。みんなまじめだったんですね。

そんな中で本当にびっくりしたのは、いま仕事でお付き合いさせていただいているある協会の会長の方がその当時のメンバーだったことが分かったのだ。まったく知らなかったし、そんな話もしたことがなかった。近々にお会いするので驚かせてあげようと思う。

この会合の後は、そこに参加していたぼくの2年上と1年上の先輩と1つ下の後輩と一緒に2次会にいく。そこにさらに1年先輩の4人が加わって夜遅くまで語り明かす。昔の無茶苦茶話やらこどもことやら話し足りないくらいだ。ここでもある先輩が自分住んでいる地区の少年サッカーの指導をしていたとき一緒だった人が、なんとぼくの高校の1年先輩だったという話も飛び出し、驚きの日であった。

先日のミニ同期会もそうだったが、あらかた40年ぶりであったが、もう時間の長さはすぐに消えて学生時代の先輩後輩に戻ったのであります。
 

2008年7月14日

逆立ち日本論

当代きっての売れっ子の養老孟司先生と内田樹先生の対談集「逆立ち日本論」(新潮選書)を読む。二人とも博覧強記のひとだから、話題があっちにいったりこっちにいったりする。

ユダヤ人の話から全共闘、それぞれの得意である武道や虫の話と広範な話題が満載である。タイトルに逆立ちとあるようにちょっと常識破りで、斜に構えたスタンスが楽しいのだ。まあ教養があるので、そうした変則なところから出てくるにもかかわらず、正鵠を射るのですごいもんだ。

なぜこういった視点になるのかというと、二人ともいつも、より本質的な、根源的なところまで掘り下げて見る態度が身についているからだ。そしてちょっぴりいたずら心を混ぜる。

この視点を変えてとか見方をずらしてとか言うが、ことはそう簡単ではなくて、それができるということは主論がどこにあるかがわかっていなくてはいけない。それでこそ外すことができる。外道しか知らないやつは変えたらとんでもないところにいってしまうのだ。

ぼくが養老先生と似ているのは唯一、定年前にやめて好きなことやったということぐらいだが、養老先生は東大を辞めたときの朝、空の色が青くきれいに見えたといったが、そこは大いに共感できる。

一つひとつ取り上げたらきりがないのでぜひ読んでもらいたいと思う。

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2008年7月15日

IBMのジレンマ

ずっと前にIBMのカンファレンスの記事を書いて、IBMのBPM/SOAへの取り組みを評価した。確かに全社的な動きとして今後注目のところだが、ビジネスモデルとの兼ね合いでどうなるのかといったことが興味深い。

どういうことかというと、このBPM/SOAというアーキテクチャあるいはトレンドはこれまでのビジネスモデルを大きく変えるドライビングフォースになりえるからだ。少なくとも、従来型のシステムインテグレーションは消えていくだろうし、あきらかにチープ革命とまで行かなくとも、低コスト開発に向かっているわけで、開発のところだけのビジネスは成立しなくなる。

だから、思うのである、BPM/SOAを進めれば進めるほど売上が落ちていくのである。ここの折り合いをどうつけていくかになると。単純には、他社のシェアーをとっていくか、新しい収益モデルを作ることになる。

IBMはこれまで、ハードウエアからソフトウエア、さらにサービスへの変貌、アウトソーシング化、オープンソース技術の取り込などその節目節目で戦略的に手を打って来ているので、いまの動向の中でそうした変革をどのように実現させていくのかが見ものである。

一方、国産のベンダーはどうやって立ち向かっていくのだろうか。少なくとも従来の延長ではどんどん先細りしていくのは目に見ているのだから、手をこまねいていては大変なことになる。

しかし、巨躯を素早く動かすのは大変なエネルギーが要る。だから、ひょっとすると身動きの早い、スピード感のある中小の会社がIBMの対抗軸として現れてくる可能性が十分あるような気がする。

巨象はシマウマは倒せるが蟻は踏みつぶせないのだ。

2008年7月16日

業務プロセスの自動化

BPMのめざすところのひとつにプロセスの自動化というのがある。BPA(Business Process Automation)なんて言われかたもしている。さて自動化というのはどういうことなのだろうか。自動の対語は手動だから、手作業をITでやることが自動化なのだろうか。全自動洗濯機のように業務プロセスのStartからEndまで自動的に流すことなのだろうか。

まず、この自動化をしましょうということは現在は自動化できていないということで、それではどこがどう自動化できていないのかをみつけることが自動化を考える第一歩であろう。

企業情報システムやグループウエアなどの導入が多くの会社でなされているが、業務プロセスが自動化されているとは到底思えない。ひとつの目安は帳票があるかないかです。前にも書きましたが、帳票の使われ方として、まずは電子化されている業務と電子化されていない業務の橋渡しです。ですから、帳票があるうちは自動化できていないということです。はっきりいうと入力画面や検索画面と帳票や伝票を中心に業務システムを動かしているうちは無理です。

例えば、出金処理ひとつをとっても、よくやられるのはシステムにデータを入力し、そこから出金伝票を出し、押印して領収書を添付して上長の承認を得る。それが経理に行ってまたそこで承認して終わるみたいなことになる。その間は紙が回ってその流れにしたがって業務プロセスが回る。さて、これを自動化しようと思ったらどうしたらよいのでしょうか。

お気づきだと思いますが、情報を紙に乗せて動かすのではなく、情報はシステムで回さないといけないのです。業務フローに従って情報が遷移していくというようにしないと自動化はできません。紙が要るなら伝票にしても領収書にしてもスキャナーで読んで電子情報化して参照情報として一緒に回っていくということにするのです。

ただし、それだからといって全自動化ができるのかどうかという問題は残ります。それには、化学プラントなんかでもそうですが、センサーが信頼でき外乱を素早くキャッチできることと、変化を制御できるロジックができていること、最終的な安全弁があることなどである。

そう言われると業務プロセスの場合はちょっと難しそうですね。業務プロセスってかなり複雑で混沌としているし、何よりも相手がいることなので感知は大変そうですね。金融なんては金融工学なんて言葉もあるくらいだからできそうだが、一般的な業務では難しいようだ。

そうなるとまずは先ほど例にあげたように、画面や帳票主体ではなく、プロセスをまず作って、そのプロセスをITを使ってどう自動化するのかというアプローチでやるのが正解ではないでしょうか。

そのときたびたび言っているように自動化できるレベルとできないレベルがあるということで、BPMで描くフローは自動化できるのある。そこに乗せるまでのミクロワークフローは自動化というよりコラボレーションで実行せざるをえないのである。

だから、何でもBPMで自動化するというのには抵抗がある。化学プロセスでもどうしても御しきれないところは人間の手でやるのである。


2008年7月17日

アマゾンモデルの意味すること

以前アマゾンの倉庫の話を記事にしたことがある。そのとき、示唆的なことが多く含まれたモデルであるとコメントした。

あの記事では、3つの特徴を言った。技術オリエンテッドということ、整理しない整理のしかた、人間がITを使いこなす“しなやかさ”である。

どれもこれもこれからのITを考えたときに非常に大事な要素であると思う。さすが、アマゾンだとも思う。昔アマゾンは登場したとき、物流のところがネックでビジネスがうまくいかないのではないかと言われていた。しかし、今のアマゾンを見ているとすごいなあと感心する。ボトルネックをどんどん外しながら成長しているようだ。

最初の技術オリエンテッドあるいはデバイス志向のようなことについてだが、特にネットの世界ではこうしたシーズ発想の動きは普通であろう。いま話題のiPhoneだって、これまでの携帯電話のようにキャリアを使うための端末という発想から、デバイスができてそれをどのキャリアに乗せようかという逆転が起きている。

翻って、ビジネスシステムへそうした新技術や新規機能デバイスなどがなかななか浸透していかない。RFIDなどは使われているかもしれないが、携帯端末なんもっと使われてもいいと思うが遅く感じられる。

整理しない整理ということでは、コード体系のことを想起する。ぼくは実際に開発作業もしたこともないので少し乱暴かもしれませんが、コードって要るのでしょうか。これまでみんな桁数の問題だとかですごく苦労しているがそうした呪縛から開放できないのだろうか。ばかなことを言うな、本にはISBNコードという立派なものがあるじゃないかと言われてもちょっと違うような気がして、ということでこれ以上は言わないが、考える余地もなのだろうか。

最後の“しなやかさ”ということでは、アマゾンもシステムに全部任すと柔軟性に欠けるといっているように人間とITの共存が大事なことである。自転車に乗るにしても、車を運転するにしても自分で乗りこなさないと怖くてしょうがないですよね。化学プラントでもOut of Controlになった時の怖さは尋常ではない、すぐに手動に切り替えて“なだめる”のである。ですから、人間がシステムを使いこなすという位置関係は絶対に崩してはいけないのである。
 


2008年7月18日

道具

しょせん道具じゃないかという人がいる。道具なんて職人さんの世界の話でホワイトカラーは関係ないよと思っている人がいる。

しかし、人は自分以外の世界と関わるときは存外多くの道具を使う。他者とのインターフェースとして機能させる。

そうであれば、使い勝手のいいもの、使いやすいものがほしくなるのは人情というものだ。道具というと、趣味の世界を思い浮かべる人が多い。つり道具しかり、ゴルフのクラブしかりである。それもあるが、家事でも道具が大切である。昔は、箒やはたき、雑巾、鍋釜包丁まで、道具をもって主婦は割烹着にあねさんかぶりで立ち振る舞うものであった。

最近は、リモコン付きでやたら機能満載の電動製品がそれに変わってでてきている。しかし、いまの電動機のように味気のないものより、昔のような道具を使うと何となくやわらかさだとか暖かさのようなものを感じるのはぼくだけだろうか。

だから思うのである。会社の仕事もいい道具でやりたなと。システムの開発もいい道具を使いたいなと。

ところが、後者のシステム開発の世界では道具が命みたいなところがあって、多少のこだわりもあるが、その探求は深いものがある。でもこの世界は自分の仕事の質を上げてくれる道具を自分で探せるし、自分で作ってしまうこともできるのだ。

ところが、企業で働く人たち、特にホワイトカラーの人たちは、それができない。自分の仕事の道具をよそから与えられているのである。

主婦が自分の仕事をやりやすくするために箒を遠くまで買いに行くようにできればいいが、そんなことはできない。それじゃあ、昔の職人のように道具の使い方を親方が教えてくれることがるのかというとそんな職場も少なくなっている。

そういうことをビジネスの世界でできないのだろうかと思う。ビジネスには職人さんは要らないということなのかもしれない。ただ従順に与えられたもので言われたようにやればいいと言っているようだ。鶏小屋の鶏には道具が要らないのだ。黙って卵を産めばいい。

そこでだ、自分が仕事をするために自分の好きな道具を選べるぐらいにならないといい仕事ができないという主張をしたらどうか。そして、それを提供できるIT業界になるべきだと思う。

まあ、好き勝手に変な道具を使われてもいけないのである程度の制限は要るとしても、仕事をするのに道具は重要であることをもう少し認識してもいいような気がする。
 


2008年7月19日

甘くて柔らかい

最近はテレビを見ないのだが、テレビの番組で多いのがグルメ番組で、料理を作るところから、食べ歩きまでいろいろなパターンの食に関するテーマで放送される。

だいたいがタレントが食べる。うまいものを食べてギャラがもらえるなんていい商売だなと思ってしまう。そのタレントの価値はいかにもおいしそうに食べて、そのあと気の利いたリアクションとコメントをすればいい。

そんなコメントのなかで圧倒的に多いのは、「これや柔らかくておいしい」と「これ甘くて、うめえー」である。見ているときチェックしてみてください。このせりふ多いですよ。

昨晩の「未来創造堂」でも国生さゆりのこだわりで野菜の芯の柔らかいところが好きだという話をしたら、一緒に出ていた民主党の前原誠司(この人は本物の鉄っちゃんです)が、みなさん柔らかくて甘いのが好きなんですねというようなことを言っていた。

だけど、おいおいちょっと待ってくれ、硬くて、辛いやつは失格なのと突っ込みたくなる。アメリカ行くと炭のようなステーキが出るがうまいですよ。坦々麺はだめなのということになる。これは多分日本人だけだと思う。日本人は柔らかくて甘いものがすきなんですね。

おおそうか、これは人間についても同じなのではないだろうか。日本人は柔らかで甘い人間が好きなように思えますがいかがでしょうか。待てよ、それは言い方を変えると優柔不断で責任をとらないってことでしょ。辛口で硬派の日本人よ出でよですね。


2008年7月20日

お疲れさまの一週間

今週は、毎日何だかんだと忙しかった。週休3日くらいでやっている身にはけっこうこたえた。

雑誌の原稿をやっと書いて何とかいけそうになり、研究会のキックオフがあり、ある勉強会でプレゼンテーション、日経BPの記者とBPMについての意見交換、その他もろもろいっぱいあって、しかもプライベートではばあちゃん(ぼくの母親)が感染性単核症というわけのわからない病気にかかって入院するし、昨日はあの暑さの中で伯母の49日の法要があった。

亡くなった伯母は本家のお嫁さんだったので本家の菩提寺で行った。江ノ島に近い法華経の寺ですぐ近くのお墓からは海が見える。暑かった。本堂でお経をあげてくれるのでそこでお焼香もしたのだが、冷房もなく、開け放ってはいたが風がぜんぜん通らないし、着ている喪服は冬物だし、じっと座っているだけで汗が流れ落ちた。

亡くなった伯母の弟の奥さんが途中で気分が悪くなって家に帰ってしまった。久しぶりにいとこたちと昔話に花が咲いたのだが、真夏の法事はつらいですね。幸い新盆は自宅でやることになったのでほっとしている。

だいぶ話がそれたが、休む暇なしの日々であったが、去年だったらひっくりかえってしまったかもしれないが、今年はクーラーがあるので助かっている。クールダウンしておかないともたない。

さて、いまからばあちゃんが退院するので迎えに行くとするか。


2008年7月21日

日本の10大新宗教

ちょっと前にばあちゃんが入院した話を書いたが、そのとき違和感を感じたことがあった。それは、入院することが決まって部屋に入ったときに看護士さんがきて問診を行なったときである。

今かかっている病気だとか生活習慣だとかを聞くのは、まあこれからの治療に役立つからいいとしても、どういう性格ですかまでは許せるが、宗教はなんですかと聞かれたのにはびっくりした。おいおい治療とどういう関係があるのだ。直らないようなら教祖様を呼んでもらえとでも言うのかい。

病気と宗教は微妙な問題だから個人情報保護の観点からも簡単に曝すものではないはずなのに、その両方がいとも簡単に問診表に書かれてしまった。

ちょっと前置きが長くなったが、「日本の10大新宗教」(島田裕巳著 幻冬舎新書)の書評を書こうとしている。

なぜこんな本を読もうとしたかと言うと、家の近くにある新宗教の会館が建設されときから、新宗教に対して多少興味が湧いてきたことと、何より、いまの格差社会だとか、ワーキングプアーだとか言われているが、こうした宗教がある種の社会からはじきとばされた人間を救っているのかどうかが知りたかったのだ。

この本で取り上げられているのは、天理教、大本、生長の家、天照皇大神宮教と璽宇、立正佼成会と霊友会、創価学会、世界救世主教・神慈秀明会と真光系教団、PL教団、真如苑、GLAである。ぼくは、どの教義がいいだとか、教祖がどうだとかはどうでもいいのだが、本はそれぞれ宗派の生い立ちだとか系列だとかが中心に語られていて、神道系なのか、仏教系なのかや分派のしかたなどが分かる。

その中で面白かったのは、創価学会が特殊であるという指摘だ。日本の宗教の多くは神仏混交、神仏習合が特徴でそこに祖先崇拝的な要素が入る。ところが創価学会は、修験や霊的な信仰、祖先崇拝の要素がないのだという。こういう宗教が信者を一番多く抱えているということは何を意味するのだろうか。

それはそれとして最初に設定した疑問に答えてくれたのだろうか。答えは否で。結局「おわりに」でちょっとだけふれていて、“最近では、格差社会ということが言われ、社会に新たな貧困層が生み出されていると指摘されているが、新宗教がそうした人間たちを信者として取り込むようにはなっていない”とこれだけ書かれている。

どうも著者は、宗教が信者を増やせるのは経済が拡大しているときで、そういう状況だと、貧困層の勤労意欲を高めることによって貧困から脱却させることができるからなのだと言っていた。

ええーそうなのだろうか。経済的なインセンティブだけで入信するのだろうか。どうもよくわからない。宗教は何よりも死のうとする人間(無差別に人を殺そうとする人間)を最後に助けられるものではないかとぼくは思っているので、現在のような状況での存在感はどこにいったのだろうか。
 

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2008年7月22日

入院すると病気が悪化する?

ばあちゃんが変な病気で入院した話を書いた。入院に際して変な質問をされたことも書いた。これから変な患者の話をする。一粒で三度おいしい入院話です。

入院するとき、どういう病室に入るかの選択がある。どのレベルの差額ベッドにするか決めることになる。個室から4人部屋まであるので、その設備や人数と金額で好きなところを選ぶのだが、ばあちゃんは個室はさびしいし、あまり大人数もいやだと言って2人部屋にした。

このときぼくは一瞬隣に入っている人が変だったらどうするのかと思ったが、まあいいかといって言うことをきいた。さて、最初に入ったときは幸いにも誰もいなくて、個室のように使えたので喜んでいた。

ところが、3日くらいたって、となりにおばあさんが入院してきたのだ。歳は83歳と言っていたが痩せた人だから、割と立ち振る舞いも軽いのでどこが悪いのだろうと思っていたら、どうも2日くらいご飯がたべられなくなったらしい。それで入院して点滴をしながら体力の回復を図るらしかった。

ところがである、このおばあさん尋常じゃなくおしゃべりなのだ。最初はうちのばあちゃんも話し相手ができたと思ったらしく、二人で点滴をぶらさげながら話込んでいた。それとともに、だんだんそのおばあさんの見舞いに来る人が増えてきて、毎日4、5人の人が来て、しかも長時間ぺちゃくちゃ大きな声でしゃべっていくのだという。見舞い客が途絶えるとその間にはばあちゃんのところに話にくる。

これにはばあちゃんすっかりまいってしまって、その入院の原因となった病気は日増しによくなってきているのに、血圧が上がったり、頻尿になったりとすっかり体調をくずす始末。早く退院して家に帰りたいと言い出してそそくさと退院したのである。家に帰ったら変なストレスがなくなったとみえて元気になっている。

この隣のおしゃべりばあさんはいったいどこが悪かったのだろうか。普通、入院患者はしゃべる元気もないから入院するのである。また、見舞いに行って長時間話しこむのは病人に対して迷惑であると言うのが常識であるが、あきれてしまう。

どうも今の年寄りは病院をスポーツジムだとか、社交場と勘ちがいしてやしないだろうか。そのおばあさんもいつもはひとり暮らしなのだそうで、寂しくなって話し相手を求めて拒食して入院してきたのではないのかと疑いたくなる。

病院での変な話は無しにしてもらいたいものだ。

プログラミングファーストでもまだ中途半端

ひがやすをblogで「プログラミングファースト開発の必要性」が書かれている。このひがさんのプログラミングファーストは以前あるセミナーでプレゼンを直接聞いたことがあるのでだいたいの考え方や内容も理解しているが、ぼくの感想はまだ中途半端のような気がする。まずはそのブログから。

プログラミングファースト開発とは、ドキュメントを書いてからソースコードを書くのではなく、動くソースコードを書いてユーザに実際に触ってもらうということを何度も繰り返して、仕様を固める開発手法。ドキュメントは仕様が固まった後に書く。

プロトタイプ開発との違いは、最初に作ったものを捨てずに、本番で動かすものとして開発し続けること。アジャイルとの違いは、全工程をテレーション(筆者注:イテレーション?)でまわすのではなく、顧客と仕様をつめるところのみを何度も繰り返し仕様が固まるまで行なうこと。

これは、現在のような人月ビジネス化した開発における顧客とのコンフリクトを解消するための方策を考えた結果だ。ひがさんの必死さに頭が下がる思いだ。

ぼくは以前から2つの開発のジレンマということを言ってきている。すなわち、「結局アプリケーション仕様のほとんどが、ユーザの恣意でしか決まらない」ということ、もうひとつは、「実業務の様々な例外をコンピュータ上に乗せるか否か」です。ひがさんの方法論もここの対策だと思う。

これらジレンマを乗り越えるべくSIerやその開発者は日夜闘っているわけです。そして、それができないが故に最終局面での手戻り、頻繁な仕様変更などが起きています。こうした状態では一括請負のようなリスクはとれず、準委任契約のもと、かかった人月分の費用を請求することになるわけです。

この悪弊を打破すべくひがさんのような方が声高に叫んでいます。ほかの皆さんも現状に甘えることなく一緒に考えてほしいと思います。ただし、この問題は非常に重大かつ危険な問題をはらんでいます。自らの首を絞めることになるからです。

開発生産性が低い方が収入が多い(人月がかかるほどお金がとれる)というビジネスモデルを根底から覆す可能性があります。開発生産性をあげればあげるほど収入が減ってきます。SIビジネスが立ち行かなくなる方向に向かうのです。

だから、今のままのほうがいいとどれだけの人が思っているのでしょうか。今までのビジネスモデルはいいわけありません。きつい言い方をすると、「情報の非対称性」を悪用してユーザをだましてきたのです。ユーザはだんだんと気がついてきています。

ぼくは、ユーザに長くいた経験でいうと、わけのわからないテクニカルタームで翻弄され、なぜこれだけのコストがかかるのか、あるいはかかったのか、分かるような説明ももらえず、仕方ないかといって経営トップから怒られながら費用を払った。

重要なことはこのユーザとベンダーとの間の「情報の非対称性」を是正していくことなのだ。その試みの一つが、ひがさんの言う「プログラミングファースト開発」である。お客さんに早い段階でシステムの出来上がりイメージを見せることができ、ユーザが得る開発プロジェクトに関する情報が格段に向上する。

だが、あえて言う。ひがさんの方法論ではまだ中途半端だ。

ぼくは、お客さんの前に出たらコードを直してはいけないと思う。その段階ではコードを書かずにコンポーネントの並べ替え、組合せでアプリケーションを表現できるようにすべきだと思う。

そうなれば、システム寄りの会話ではなくビジネス寄りの会話へとシフトできるはずだ。お客さんとはどういう業務プロセスにしたいのか、どういう業務機能を付帯させるのかといった議論になる。だから最初から請負契約ができる可能性がある。

そのための必要条件は、業務機能のコンポーネント化と業務プロセスのモデリングとデプロイである。ひがさんは確か以前からコードレスとうことを言っていて、コードの再利用やモジュール化といったプログラミングの効率化という観点だったように思います。

その考え方を業務プロセスや業務機能の領域まで拡げてほしいのです。業務をヒアリングしていちいちコーディングするのではなく、業務コンポーネントを予めコードも含めて用意しておき、それをつなぎ合わせて業務プロセスを構築するというふうにすることである。

そして、前述した二つのジレンマはそれを乗り越えるのではなく、受容してしまったらどうか。ユーザなんてわがままなものだ、例外業務はあって当たり前だと思うことである。そうしたら、わがままができる、例外を吸収できる場を提供してあげることなのだ。

いまかなり理想論的なことを言っているが、この件はみなさんおおいに議論して欲しいと思う。このブログでも再三言ってきているように、欧米からパッケージやソフトウエアを買ってきて、人月作業は中国・インドにもっていくなんていうモデルはくやしいと思いませんか。

ぜひ日本発の方法論を作って海外にもっていってもらいたのです。若いヤツがやらないんだったら、オジサンたちがやるぞ。
 

2008年7月23日

サウスバウンド

奥田英朗の同名小説の映画化。奥田英朗はぼくの好きな作家の一人なので期待したが、外れてしまったようだ。森田芳光監督の角川映画「サウスバウンド」はイマイチ感動しない映画であった。

元過激派のアナーキストの豊川悦司扮する父親とこれまた学生時代はジャンヌダルクといわれた女闘士であった天海祐希扮する母親が昔のままに暮らしていて、権力に歯向かう姿をコミカルに描いている。

前半は東京浅草での生活があって、なぜか突然父親の出身地である沖縄の西表島に引っ越してしまう。そこで開拓しようとするデベロッパーといさかいをおこして大立ち回りの結果、どこかへいってしまう。

ところが、何か軽いんだな。昔の過激派ってあんなじゃないと思うのだが。子供がそのまま大人になったようにという言い方もあるかもしれないが、学生のときも子供だったってことだから、そんな無邪気でもなかったはずだ。

天海祐希の母親だってもう少し政治的だし、あれじゃミーハー妻みたいである。

ぼくらは学生運動を身近で見てきた世代だから、ああしていまだに転向を許さない化石のような人がいることも想像がつくのだが、もう少しまじめで律儀な感じだと思うが。

ところで話は変わるが、なぜ学生運動家はみな自然農園とか環境保護運動に向かっていくのだろうか?

まあ救いは、久しぶりの吉田日出子の姿を見ることができたことと、沖縄編で巡査役だった松山ケンイチの出色の演技力である。

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2008年7月24日

知りたくもないこと

八王子の書店でアルバイトの女子大生が刺されて死亡した。またもや通り魔殺人事件である。犯人の声で「大きな事件を起こせば自分の名前がマスコミに出ると思ってやった」というような発言があったということだが、毎度同じような言葉ででてくる。

ぼくは、こうした言葉を耳にするたびに何かおかしな感覚にとらわれる。犯人の“自分の名前をマスコミに取り上げてもらいたいという言葉をマスコミを通して知る”からである。だからいつも思うのだが、こうした報道はやめたらどうかと思うのだ。事件そのものを記事にしたり、放送したりしないことだ。

それにより、少なくとも動機の一部は取り除くことができる。だいいち、こうした不愉快な事件を報道することはいったいだれのためになるのだということである。これから犯罪を起こそうとしているやつに対する抑止力になる?一般のひとに犯罪にあわないために注意を促す?加害者や被害者が誰であったかを知らせる?

2度と同じような犯罪がおきないように報道は役にたっているのだろうか。ぼくはこんな事件のことは知りたくもない。たとえ身近なところで起きたとしてもそんなことを知って何になるのだと思う。このての報道はほとんど意味のないことだと思う。

だから、もうやめてくれないかなあ、マスコミの視聴率稼ぎの野次馬根性は。

2008年7月25日

経験と情熱、意欲とセンス

昨日、おとといと猛暑の中、東京まで出かける。そこは気楽な身なので半袖シャツ一枚で行く。勤め人のときは、真夏でもきちんと長袖シャツに上着、ネクタイ着用で過ごしたものであるが、さすがにそのスタイルはきついのでラフな姿に切り替えたのだ。

しかし、これがちと失敗だったのである。まずは駅まではもちろん暑いからいいのだが、電車に乗るとこれがけっこう冷えているのだ。横須賀線は昔からよく冷えていたが今もあまり変わらない。電車を降りるとまた暑い。それで会議が始まる。ところが2日ともなぜかエアコンの空気の出口のすぐ下に座ってしまった。こりゃ寒い。冷たいお茶が出るから内から外から冷やされる。

このアップダウンが歳とったからだにきくのである。マラソンではないが、スピードの上げ下げでスタミナを失うのと同じように温度の上げ下げで体力を弱らせる。今度からは、長袖のシャツかジャケットを持っていくことにする。

さて、この二日間はすごく面白いことになりそうな気配である。最初の日は、ぼくと同じくらいの歳の人ばかりで、これからお国を巻き込んで革命を起こそうという話(なんせ全共闘・安保世代だから元気がいい)。

昨日はうって変わって30代の若い経営者とビジネスプロセスの話。ブランディング戦略を中心にした事業を起こした元雑誌記者の子なのだが、いまや単なるブランディングのことだけではなく、そのベースにあるべきビジネスプロセスをどうするかという課題がどんどん出てくるとのこと。

だからこういう局面でも旧来型のモデルが通用しなくなってきている。ITを前面に押し出した営業は通用しないことや、社内IS部門の弱体化がエンドユーザの不満のぶつけ先をこうした若い子に持っていったりしている実態がよくわかった。

この年齢のアップダウンは体力的な影響はないが、かなりインパクトがあった。しかし、これは会議室のクーラーとはわけが違って心地よいものである。

経験と情熱をもった年寄りと意欲とセンスを持った若者のコラボレーションが日本のITを変えていく。
 

2008年7月26日

デッドライン仕事術

元トリンプ社長の吉越浩一郎氏が書いた「デッドライン仕事術」(詳伝社新書)を読む。

もう会社勤めをしているわけではないので、こんな本を読んでもしょうがないと思われるかもしれませんが、意外に今の生活のも当てはまることがある。要するに、この本で言っていることは、すべての仕事に締め切り日を設けて必ず守るようにしなさいということである。効率的にやれば残業せずに仕事はできるということなのである。

ぼくは、自宅で仕事をしているとだいたいだらだらとなってしまい、区切りが明確にならないので、この本で言わんとすることがすごく分かるし、実行しなくてはいけないなあと反省した。

確かに、日本の会社の悪弊は定時にさっと帰らないで何となく残って仕事をしていることで、ぼくの経験でも早く帰りづらいといつも感じていた。どうしても外せない用事があると躊躇なく帰れるわけだから、いつもいつもそういう仕事以外の用事をつくればいい。

というようなことを著者も言っている。彼は、ライフとワークという言い方なのだが、ライフがあってそのライフを充実させるためにワークがあると。この場合のライフというのは私生活といったニュアンスで決してサラリーマンライフのライフではない。だから、ライフ優先に考えればワークをさっさと片付けてライフを楽しめということらしい。

この本は常識を覆すようなことが書かれているという書評であるが、ぼくには多分に常識的である思う。むしろ、ちょっと気になるようなことがいくつかある。

まずは、この仕事術はビジネスマン全部に当てはまるわけではない。仕事のやり方を変えなくてはいけないビジネスマンのタイプを分類すると、能力があるがやる気のないやつと能力がないがやる気があっても稼動率が低いやつの二つがある。この本では後者のタイプに対して言っていて、能力のあるやつをどうやってやる気をおこさせていいアウトプットを出させるかは別の話である。

普通のやつのけつをたたくにはいいかもしれないが、できるやつにクリエイティブな仕事をやらせるにはこうしたやり方は無理があるような気がする。

また、前述したライフとワークの話だが、ワークのためにライフがあってはいけないと言っているのだが、ぼくは必ずしもそうは思わない。その逆にライフワークという言葉があるようにワークを中心だっていいと思うし、それは人それぞれのような気がする。

ただ、19年連続増収増益を果たした凄腕社長の実践したことであるからさすがに説得力がある。
 

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2008年7月27日

転々

三木聡監督作品「転々」は面白い。オダギリージョーと三浦友和の二人が東京の街を歩きながら展開する物語をコメディタッチで、しかしせつなさも加味して仕上げた映画である。

三木聡の映画は「インザプール」しか見ていないが、彼の映画を“脱力系コメディ”というらしい。なるほど肩の力が抜ける感じはありますね。

物語は留年を続ける学生であるオダジョーのところに借金取りの三浦友和がやってきて、100万円あげるから東京散歩に付き合えというところから始まる。

これはある種のロードムービーだが、最初はお互いにどんな人間なのか、何があったのかは分からないが、だんだんと家族のこととかが明らかになる。最後は連帯感のようなものが生まれ、あるいは擬似家族としてふるまいが一瞬の心地よさを生む。

随所随所にネタが散りばめてあってくすくす笑ってしまう。また、いくつかの知っている東京の街が現れて、これまた感情移入していく。三木監督のこうした仕掛けのうまさにうなってしまう。

主演の二人のほかに、小泉今日子、岩松了、ふせえり、松重豊、吉高由里子とかみんないい味を出している。傑作なのは、岸部一徳役を岸部一徳が演じていることである。

ぼくは、こういう軽いけど奥にしんみり感がる映画は好きだなあ。辛いことや嫌なことがあっても肩肘はらずに楽しく生きようじゃん。
 

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2008年7月28日

BPMの正しい理解のためにーはじめに

 いま、BPMが話題になっている。雑誌でも取り上げる回数や誌面が増えてきて、BPMを冠したセミナーも多く開催されているように思える。

ところがその中味は一律ではなく、百花繚乱とまではいかなくとも様々な切り口の提示がなされている。
もちろん、それぞれ特徴があるのだから、違いがあってもいいのだが、基本的なところで外れていたりするものもあるような気がする。

あまり変な方向に行ってしまうとバズワードにもなりかねないので、早めにゆずれないコアのコンセプト、技術、アーキテクチャ、技法などを整理しておいたほうがいいと思う。

このBPMは、事業運営からシステム開発あるいは開発後の運用まで含めた広範囲の概念である。それゆえ、その一部をもってしてBPMと言ってもらっても困る。まずはこの全体感がきちんと背景にあって語っている人が少ないことを指摘したい。

広範囲であるという意味は、ビジネスとITという昔から言い古されたフレーズかもしれないが、今度こそ本当に融合されるべきものだという意識がもてるかということでもある。

常々思うのだが、企業でITが導入されて以来、人間とITの位置関係は多少の変化はあったにしろ基本的に変わっていないのではないかと思っている。すなわち、ITが主で人間はそのITに使われていることです。

そこが今変わろうとしている。人間主体のシステムに変貌させるときが来たのである。そこを理解しないと意味がない。それができないと、単に業務フロー図作成ツール、もしくはIF文を書かなくて済むツールで終わってしまうのである。

そこで、BPMを正しく理解し、正しい導入の仕方を議論するために、なぜ変わろうとしているのか?どう変えたいのか?誰が望んでいるのか?どうしてできるのか?といったことを考えていきたいと思う。

2008年7月29日

BPMの正しい理解のために-変わること

前回、人間とITの位置関係が変わろうとしていると書いた。そのことについてもう少し言及する。まずこれまで変わってこなかったのだろうかという疑問がわく。

最初はホスト-端末の関係だったけど、クライアント-サーバー型になってITは奉仕する側になったじゃないかという人もいるかもしれません。でも本質的な変化だったのでしょうか。それは単にシステム的な役割分担が変わっただけで、人間とITの関係は変わってないのではないでしょうか。

ITの最初の登場は大きな電子計算機であり、そのときは順番待ちで使っていた。そういう状況ではコンピュータを使わせてもらっているという感覚でしょうか。そしてPCが登場して、パーソナル業務では自由に使えるようになりましたが、企業システムでは端末がPCに置き換わっただけでした。

そして前述したようにオープンシステム化しても基本となる位置関係は変わらないままだったように思います。すなわち、コンピュータシステムに命令されているかのように、決まったデータを決まったやり方で決まった時間までに打ち込むことであったのです。

しかし、よーく考えてみてください。会社の仕事というのは、組織としてやるべきことをその一員である個人が処理していくことです。それは自分たちが決めたルールに従って、自分たちのペースでやるべきもののはずです。そこに必要ならITを道具として使うというスタンスになるべきです。

そういう位置関係がこれから求められるのではないでしょうか。実はこうしたことはウエブの世界ではとうにやられていることなのです。ウエブの世界の主役は個人です。個人は好きなようにアクセスし、好きなサービスを選んで使います。そして、面白くなかったら消えていきます。ここでは徹底した顧客志向です。企業情報システムの顧客は従業員であるという意識はもっとあってもいいと思うのですがいかがでしょうか。

また機能的なことで言うと、ネットやウエブの最大の特徴はなんでしょう。別な言い方をすると、従来のコンピュータシステムと違う点はどこかということです。それは、「双方向コミュニケーション」、「オンデマンド」、「ハイパーリンク」ではないかと思っています。こうした機能の登場により、人間とITの関係もずいぶんと変わったものになりました。

逆の表現だと、「一方通行コミュニケーション」、「オンサプライ」、「ノンリンク」といったところでしょうか。これって、今の企業システムそのものでしょう。

ウエブでネットで普通にやっていることを企業システムに持ちこむだけでいいのです。だから、すごく難しい話というわけでは決してありませんが、最大の壁は既成概念にとらわれたシステム屋さんと今の仕事のやり方を変えたくないエンドユーザではないでしょうか。
 

2008年7月30日

もうちょっとが縮まらない

昨日は、東京で2件の打ち合わせを行なう。両方ともわりとユニークな会社を経営している社長で30代と40代の二人とミーティング。こういう人はビジネスプロセスの重要性やそれをどうビジネス化したらよいいかについてよくわかっている。SIerの人たちと話しているのとわけが違う。要するに話が早い。

それが終わって、つけを払いに銀座のMに久しぶりに行く。昨日はサッカーの試合を観たかったので早く帰りたかったから、どこにも寄らずに行くことにして、有楽町の駅に降りたったのだが、のどがからからになっていたので思わず有名なガード下の自動販売機で缶ビールを2本ぐいっと空けてしまった。もうのん兵衛オヤジだ。

Mで腹ごしらえの上海焼そばといつものハイボールで早めに帰ろうとしたら雨だ。仕方がないので雨宿りでまたしばらく呑む。多少雨が降っているけど10時前に店を出た。ところが有楽町の駅に入ったとたん、山手線も京浜東北線もストップしてしまった。いつもなら、新橋まで歩くのだが雨が降っていたので有楽町にしたおかげで、そこから東京駅まで歩くはめに。

ようやく家についたのが11時半でそれから録画しておいたアルゼンチン戦を見る。そうしたら、この試合でもあとの残り時間が6分というところで大雨と雷で終わってしまったではないか。なんか2度大雨に会ったような変な感じであった。

さて、試合のほうは強豪アルゼンチン相手にほんとよくやった。ぜんぜん臆することなく自分たちのプレーができたんじゃないだろうか。パスだってけっこうつなげていたし、サイド攻撃もとくに内田の右から崩していた。

しかしである。一瞬の間隙を捉えられてゴールされた。この差なのだ。こうした点の取り方が日本はできない。この差はわずかではないかと思われる方もいるかもしれないが、実はかなり大きな差なのだ。

というのは、すぐに修正が効くとか、チーム練習で補強できるとかいうものではないからである。個人の能力に依拠するプレーだからである。ほんのわずかなチャンスを逃さず、そこにおのれの力を結集できることは一朝一夕ではできない。ただ、こうした世界の一流を体が知ることで少しずつ近づいていくのだろう。

オリンピックでの問題は、アルゼンチンタイプではないナイジェリア、オランダ、アメリカが相手なので昨日の戦い方が通用しないかもしれないことだ。さてどういう戦術で予選リーグ突破をしてくれるのだろうか、反町さん。

それで見終わったのが2時くらいになってしまい、その次の朝はばあちゃんの病院の順番とりで早く起きなくてはいけなかったのでつらい。

しかし、老人はみなさんなんて朝が早いのでしょうか。朝7時に整理券をもらいにいき、8時に診察受付を行い、9時に診察を受けるという。ぼくは知らないで診察受付に行ったらもう15人が先にきていた。

病院も驚いたが、そのあと10時10分くらいにすぐ近くのスーパーに寄ったら、なんと駐車場が満車である。これも驚いた。年寄りが多く、その人たちが午前中の病院とスーパーを占拠しているのである。
 

2008年7月31日

BPMの正しい理解のために-プロセス中心で考える

人間が主役になって自分の導線あるいは組織のルールに従って仕事を進めるとなるとプロセス中心に考えざるを得ないことになります。

これまでにもデータ中心だとかオブジェクト指向といったやり方が提示されてきていますが、どうしてもコンピュータでハンドリングするデータはとか、プログラムモジュールに落とし込むためのオブジェクトはとかだったりして、いまいち現実のビジネスプロセスの表現という意味では物足りなかったのではないでしょうか。

いやちゃんとやればできるという声がDOA+コンソーシアムあたりから聞こえてきそうですが、少なくともユーザが見てすぐにわかるようなものになっていないのではないでしょうか。

やはり、いまユーザが実際に回しているプロセスの実相をそのまま表現し、それをあまり変えずに実装していくというのが必要なのだと思っています。ここの意識改革というか、発想の転換が大事になります。

少し話しは変わりますが、前回ウエブの世界と対比しましたが、いやあ、企業システムはクリティカルだから、ネットのシステムなんかと一緒にするなというようなお叱りをうけそうですが、そうですかねえ。これも考え方を改めたほうがいいのではないでしょうか。いまやウエブサービスの方がクリティカルであるし、パフォーマンスやキャパシティ要求も企業なんかとくらべると格段に厳しいように思う。

誤解されているかもしれないので整理をする。たぶん反論として、銀行のATMやそれこそ先日トラブルがあった東証のシステム、あるいはJRの発券システム、コンビニのPOS、宅急便のトラッキングシステムのようなものがあるという指摘があるかもしれない。いま議論しているのはこうしたその会社の本当の根幹をなすシステムは対象外です。

これらは、製造業でいったら製造設備であったり、生産ラインであったりするものだから、この議論でいっている企業情報システムとは一線を画しているので注意してください。

ですから、生産、出荷、販売、購買、会計、人事といった一般的な企業システムにウエブで行われていることを適用するのはそんなに難しいことではないと思いますがいかがでしょうか。

話は戻ると、ここではプロセス中心に考えることの重要性を言っているのです。顧客があるいは社員やマネジメントが一番わかりやすい考え方だからです。人が使いやすい、動かしやすいプロセスをつくり、コントロール&オペレーションするというのがめざすところになります。

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