子供は親父の背中を見て育つという。ぼくも親父の端くれだから自分の背中はどうなっているのだろうかと思う。どうしてこんなことを思ったのかというと、下の息子がこの4月からいよいよ社会人となるからである。
上の息子(うちの社長)はよくわからいうちに社会人になだれ込んだ感があるが、下の子はちゃんと入社式をやって勤め人になるので、ああこれでやっと一人前になるんだというような感慨がある。もうこうなると親の背中なんぞ見ずにいくのか、それともずっと見続けるものなのかなどと考えてしまう。
じゃあ、自分のときはどうだったのかと思い出しているが、あまり意識した記憶がない。ただぼくの親父はただただ一生懸命働いていただけのような気がする。気のきいたことを言うわけでもなく、すごいことをしたわけでもない。むしろ、何事もないように望んでいたようでもある。あの頃はひたすら働くことしかない、そんな時代だったのかもしれない。
翻って、自分のことである。ぼくは、信念みたいなものがあって、こどもには10歳までは背中を見せるのではなく、抱きしめることが大事だと思っている。それこそいつもぎゅっと抱きしめてやるのだ。オマエにはオレがついていてやるぞということを体で示してやるのである。
それが過ぎたら、ほったらかしでいい。何でも好きなようにやれである。それで、もし何かがあっても抱きしめてくれた親がいるから、そこに帰れる安心感がある。だから何も言わなくても自分で何でもやるようになる。これが親父の背中の見せ方のような気がする。
事実、うちの二人の子には中学から全く何も言わなかった。勉強しろとも言わなかったし、どこの高校、大学に行くかも自分で決めてきたし、塾にいくかも本人の判断だった。親からああしろ、こうしろと言われたことがないと言うと、珍しがられるそうだ。
ただ小学生の時は、二人とも3つの習い事をやらせた。3つとは、水泳、ピアノ、習字だ。これは親が強制した。溺れて死なないように、音感を育てる、落ち着いた姿勢と集中力の涵養は必須と考えたからである。少しは役に立っていると思う。それが最後の親の強制力だった。
下の子の面白いエピソードがある。かれは中学生のとき真剣に競馬の騎手になろうとした。ゲームでダビスタにはまって以来、中学生のくせに競馬にのめり込んでいく。そして、競馬場にも何回か通った。もちろんぼくがついていくわけだが、電車のなかで赤鉛筆を耳にはさみ、競馬エイトを読む中学生を想像してみてくください。
競馬場では、彼が予想をしてぼくが馬券を買いにいくという算段で、最初のビギナーズラックでいくらか儲かったが、それからはなかなか当たらないのでピクニックに行くという感じであった。
ある日、マスクに帽子を目深にかぶってきて、「ぼく、ハタチにみえるかな」と言うのである。ひとりで競馬場にいけないかということらしい。これにはたまげたが、だんだん背が伸びるとともに、騎手になる夢もしぼんできた。何とこの子はいま184cmあるんですよ。
でも真剣に騎手になるにはどうしたらいいのかとか、学校は千葉県の白井ということころにあるらしいとか、近眼だとなれないんだとか、ぼくも調べたりした。
つい学校を卒業するということでこんなことを思い出してしまった。この子の目にぼくの背中はどんな風に映っているのだろうか、そして、本人は社会人になるということで、これからは自分の背中にも責任を持たなくてはいけないようになるわけでがんばってほしいと思う。
ところで今はぼく自身としては背中をみせるというより肩を並べるというほうがいいような気がする。そうなんですね、「胸を開いて、背中を見せて、肩を並べる」、これが親父と息子の年代を追ったつき合い方なのではないだろうか。