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書評の評

この日曜日の読売新聞の書評に、映画監督の西川美和は書評を書いている。最近評者になったようだ。その本を読んだわけではないが、評がすばらしいので、そのことを書きたくなった。

書評の対象の本は、ねじめ正一著の「荒地の恋」という本である。この本は、戦後の代表的な詩人である田村隆一と彼の親友で詩誌「荒地」の同人であった北村太郎の二人の間で起きた田村の妻の奪い合いの物語である。以下、西川美和の書評の抜粋を書く。

北村太郎は、妻子に恵まれ、新聞社の校閲部で地道に勤める傍ら、合間に細々と詩を書く生活だった。詩人としての実りの乏しさを思うとつい漏れそうになる溜息を、目の前の平凡な幸せを慈しむことで飲み下していた。 その北村が53歳の時、かつて事故で失った初めの妻と同じ名の、田村の妻<明子>と恋に落ちる。定年目前で家庭と仕事を棄てた男は、突然燃えるような情熱と「言葉」をとり戻す。 田村は敏感に自体を察知しながらも、常識的な道義などおくびにも出さず、それでいて異様な情念を燃やし、明子に甘え、北村に甘え、真綿で首を絞めるように二人を壊していく。その奇怪さ、エゴの強さ、不恰好な孤独の深さがいかにも天才然として魅惑的であり、また哀しい。 夫を生かしているのは自分の支える「生活」であるという自負が、妻たちを生かしている。毒々しいまでのその自負が蔑ろにされることで、既に壊れていた明子に続き、北村の妻も壊れた。北村は赤貧を十字架のように背負い、田村は酒で身を持ち崩し、体を張って妻を手繰り寄せる。「生活」を舐めたことで二人とも生活に復讐されたが、代わりに「生きた言葉」の湧き出す、血の通った人生も手にした。しかし、妻たちは、舐められても自ら裏切っても、なおも夫の帰る気配に耳をそばだてるのである。生活とは、自由とは何か。夫婦とは何なのか。その問いが、詩人に限らず、人生を歩む者に等しく迫る。

うーん、これだけの短い文章の中に、的確に本の主題を表現しているとともに、本を読まなくても、そこに書かれてあること単体でも十分意味が通る迫力である。ここで述べられている「生活」と「言葉」の問題をここまで言ったひとも少ないのであり、そこの視点がすばらしいと思う。

さすが、映画「ゆれる」の脚本を書いて監督したひとである。改めて、次回作を期待してみたくなった。
 

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2007年11月28日 12:09に投稿されたエントリーのページです。

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