もう2週間くらい前になるが、梅田望夫さんのブログに次のような記事が出ていた。
最近私が痛切に感ずるのは、特に英語圏のネット空間が「パブリックな意識」にドライブされて進化していることである。むろんネット空間は言語圏を問わず玉石混淆の世界なので何から何まですべて良いということはあり得ない。しかし英語圏では、大学や図書館や博物館や学者コミュニティなど、知の最高峰に位置する人々や組織が「人類の公共財産たる知を広く誰にも利用可能にすることは善なのだ」という「パブリックな意識」を色濃く持ち、そこにネットの真の可能性を見出しているように思えるのだ。その感覚が日本語圏のネット空間には薄い。 ・・・ 最近の私の深い危惧は、このまま十年が経過すると、ありとあらゆる分野の「学習の高速道路」が英語圏にのみ敷設され、英語圏に生まれ育つことの優位性が今以上に増幅されてしまうのではないかということだ。 ・・・
新潮社「フォーサイト」誌に載ったものを転載している。相変わらずの梅田さんのオープンマインド志向で相槌を打つのだけれど、ぼくも同じような危惧を抱いている。ただ、ITの世界は比較的英語に対する抵抗感がない。むしろ、全部英語で発信されたものがもっとも先端を走っているわけだから、英語でウォッチしていないと乗り遅れてしまう。
先日も、ある海外のソフトウエアの日本語マニュアルを読んでいて、うーんよくわかんねーやと言ったら、そばにいた社長(息子)に英語のやつを読めばと軽く言われてしまった。まあ、確かにオープンソースのものなどは英語で見なくてはいけないし、「パブリックな意識」にもなっているから、ここの領域では心配はないかもしれないが、学問の領域などは日本はまだまだ遅れているようだ。
この言葉の問題もさることながら、「日本人の行動規範」の方にも問題があるような気がする。以前ブログに山岸俊男の「安心社会から信頼社会へ」という本について書いた中でも触れたように、ネット社会の到来で日本型システムが崩れてきているが、それがいい方向に進んでいるとは思えない。このことについては、梅田さんのブログに対するコメントにうまく書かれていたのがあったので引用する。
私も梅田さんと全く同じ事を考えていました。一言で言うと、「もったいないなぁ」と。意識的にか無意識的にか、日本人はネットを、言うなれば、歩いていて襲われても仕方ない「暗い夜道」、ないし、アンダーグラウンドな世界として使うことを今のところは選択したと思います。 そこでは、どんなことも好き勝手に言える「自由」はありますが、「規律」や「公共」という要素はほとんどありません。そして、知の最高峰に属する人達は、むしろネットとの距離を強め、以前にもまして、専門家の世界に閉じこもり、アメリカのように講義を公開するといった動きはほとんど見られません。私はネットに一つの夢を見ていました。それは、ネットを通じて最高峰の知性に誰もが低コストで触れる事ができ、自らを高めていく事ができる、そんな世界でした。文章よりも人の話というのは、敷居が高くなく、また、誤解される可能性も小さくなります。例えば、歴史に興味を持っている人が、一流の学者の講義に無償で触れることができ、自らの世界を広めることができる。そして、聴講者の側からも真摯なフィードバックがあり、時には、専門家の側が目を開かされることもある。そんな、知のアリーナ(空間)、対話のアリーナがネットにできる可能性があると私は思っていました。現に、英語圏ではそういう世界ができつつあります。
それに対して、日本では、使い方によっては多くの人に成長の機会を極めて低コストでもたらせるネットという壮大な知的装置を、ネガティブな空間として使う事を今のところは選択してしまったように見えます。日本人の行動規範は自らの内にあるのではなく、「人から見られているかどうか」、「周囲からどう見られるか」で決まるということが社会心理学の世界で知られています。自らの中に行動規範がある訳ではない日本人の負の側面をネットは引き出し、ネットはリアルとは全く異質の空間になり、両者は英語圏と異なり、分断されている側面が非常に強いままです。
少し長くなりましたが、ここで言っている意見がぼくが思っていることを的確に表現してくれている。ぼくの友達でブログを書いている人がいるが、その人が「ぼくはブログには悪口を書かないことにしている」と言われ、はっとしたことがある。誹謗中傷的なことを書いて何になるんだ、どんな意味があるんだ、ということだ。
ぼくの経験でも自分のブログに変な書き込みがあって気持ちが落ち込んだこともあったし、いろいろなサイトで読むに耐えない誹謗中傷があったりして嫌な気分になることもある。どうしてこうネガティブな方向に行くのかとがっかりする。
いずれにしろ、日本が英語圏から取り残されてしまうリスクを何とかしなくてはいけない。これはどの分野においても、いまやたやすく最高峰の知性にアクセスできることを若い人たちに早く体験させ、訓練することではないでしょうか。ただし、それには、最高峰の知性を知りたい、感じたいと思う強い気持ちがなければできないことを教えなくてはいけない。