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2007年6月 アーカイブ

2007年6月 1日

技術伝承 - 働きたくなるIT(3)

2007年問題とやらで、団塊の世代の持つ技術やノウハウが消えていってしまうと危ぶまれている。もう定年を迎える人が出てくるのでもはや遅いのであろうか。いや、現実には、能力のある人やノウハウの蓄積のある人は65歳くらいまで働くだろうから、それまでに何とか技術伝承をしておかなくてはいけない。

これは、どういう業界で起きているのだろうか、実はIT業界はこういう問題はないのだ。昔の技術を持っていても役に立たないのだから。製造業や建設業などで問題となるのだろうか。

筆者は、最初に入った会社が化学メーカーだったので、この現場の技術やノウハウの大切さとか伝承の難しさなどがある程度理解できる。ちょっと話がそれるが、この問題がおきた原因について考えてみたい。

われわれが入社したころは、現場にはバリバリのたたき上げの人がたくさんいてものすごく恐かった。それぞれがその道の高い技能をもって、自信ももっていた。しかし、それを後輩にオープンに開示するかというとそうではなくて、われわれは盗むようにして技術を習得したものだ。今だとISOなどで基準書だとかマニュアルだとか整備するようになったが、当時は肝心なところはベテランの頭の中にあった。

でいつごろから技術・技能が継承されなくなったのだろうか。筆者は詳しく調べたわけではないので、独断と偏見かもしれないが、大学進学率と関係があるとみている。

どういうことかというと、昔の現場の技術を支えていたのは、地元の工業高校や商業高校をでた人たちだった。かれらは、優秀でしっかりとした専門知識も身につけ、何よりもその道のプロになろうという意欲があった。また、それが会社のためにもなったし、自分たちの生活を確保することにつながったのだ。それが、日本が豊かになるに従ってそうした実業高校に行っていた子たちが、みな大学に進学し出したのだ。

彼らは、大学に行って一体何をしたのか?おそらく、これも推測の域を脱していませんが、都会で遊ぶことと簡単にかっこよくお金儲けができそうな幻想を身につけたのではないだろうか。本来、こうした子が社会の基盤をしっかりと支える労働者として機能することが大事であったが、その層が消えてなくなってしまったということだ。確かに、雇用状況も悪く、そうした人材育成がままにならなかったのはよく分かるが、そういうときこそ国や地方が施策として社会構造を維持し充実させることが必要だったと思う。

この空洞により、日本の特に製造業を中心にしたモノつくり産業における技術継承は大きく遅れたのではないだろうか。いまこそ、工業高校とか商業高校を復活させるか、大学でその役割を担うかすべきであると思う。格差社会のなかで中間層を埋める存在として、こうした技術、技能をもったひとたちを育て、評価することが非常に重要であると考える。

話をもとに戻すと、この技術伝承とITの関係を考える。ふつうには、やめていく人たちに頭の中にある知識、ノウハウを紙に書いて残してくださいと言うか、インタビューして聞き出してそれをドキュメント化するという方法がとられる。それで、出てきますかねえ。おそらく、そんなやりかただと限界があって、顕在化するのは一部で多くのノウハウは隠れたままになってしまうのではないだろうか。

さて、それをどうやって引き出していったらいいのだろうか。そこで強調したいのは、「ビジネスコンポーネント指向開発」がその答えであると言いたい。

いったいなぜ技術伝承に有効なのか。もう何度も言っているが、「ビジネスコンポーネント指向開発」では情報やデータの確定前のプロセスとその後のプロセスでは性格も違うし、作りも違ってくる。すなわち、確定前プロセスは不安定で不定形であり、一方確定後プロセスは安定で定型的である。そこで、経験やノウハウが発揮される、あるいは必要とされるのどちらかというと、前者のあいまいななかからみんなの知恵を出しながら固めていく作業プロセスであろう。

そうした、情報共有型の仕事の進め方は、そのメンバーにベテランの人を入れるようにして、ただし、そのひとがリーダシップを採るのではなく、若いひとが引っ張っていくようにし、ベテランのひとはアドバイザーとして位置させ、何か行き詰まったときや問題が生じたときなどに助言をもらいながら進めるイメージだ。

そうすれば、いろいろなケースを想像しながらノウハウを吐き出す作業とは違い、実際のビジネスの局面で意見を言ってもらうわけだから、非常に実務的だし、その場で若い人の教育にもなるという効果もある。また、そのベテランのコメントがカテゴライズされ、アーカイブされるから、あとで検索して活用も容易になるというものだ。

だから、繰り返すが単に聞き書きしてデータベース化するのもいいが、こうした実践の場で自然に経験やノウハウが引き出せる仕掛けが非常に効果的であると思う。

2007年6月 2日

昔からの動物が消えた

このあいだテレビで都会のなかで珍しい動物の捕獲劇を放送していた。その動物の名は「ハクビシン」という。皆さんご存知ですか?日本語で「白鼻心」と書く。字のごとく鼻から頭にかけて白い毛を持ったジャコウネコ科の動物で東南アジアから中国に分布している。例のSARSの伝染媒体と騒がれたやつです。どうも日本には外から入った移入種らしいのです。

なぜこんな話をするかというと、もうかれこれ3年ほど前になるが、そのハクビシンがいま僕が事務所代わりに使っているばあちゃんの家の屋根裏に住みついたことがあったからだ。あるとき、玄関の下駄箱の上に水がたれてきて、雨漏りでもないのに何なのだろうと思っていたら、ちょうどそのとき家の修理に来ていた大工さんが“これは、ハクビシンのおしっこ”だと言うのである。

その大工さんはときどき市内の神社の修理なんかにいくらしいのだが、よく神社の屋根裏にハクビシンが住んでいることがあって、だからわかったらしい。それで、大工さんに見てもらうことになった。天井を外して懐中電灯で屋根裏を点検してもらったわけだ。

としばらくして、おおーという声で飛び降りてきた。何と、ハクビシンと目が合ったのだ。あぶなく転げ落ちるところだった。さて、こいつを追い出さなくてはいけない。天井をがたがたやったらどこから逃げたと思いますか。基礎の外周部分に風穴が開いているのをご存知だと思いますが、そこからすごい勢いで抜け出てきた。

その他にも、タイワンリスはしょっちゅう来るし、アライグマまで遊びに来るのです。ところが一方、昔よくいたのにいなくなってしまった動物が多くいます。その代表的なのは、ヘビだと思うのだが、とんと見かけなくなった。そういえば、蛙の鳴き声やねずみも見ることが極端に減ってしまったからかもしれない。スズメやイナゴ、ホタルも見なくなった。

そんな中でしぶといやつがいた。ムカデだ。こいつはすさまじい生命力で毎年今頃の時期になるとどこからともなく現れてくる。時には咬まれることもあるという、超やっかいなのだが、わが家も強くなりました。以前は嫁はんなんて、大きな声でキャーと叫んで固まってしまっていたが、最近は、「おとうさん、ムカデはやっぱりガムテープに限る」と言って平気な顔でムカデをつかまえている。下の息子も「寝ていたら体の上を這っていきやがった」とか言っていた。まあ、人間慣れればジャングルの生活も平気なんじゃないかな。ちと大げさか。

というわけで、最近は、昔からの動物がいなくなり、外来種の動物が増えてきたようだ。ずいぶんと生態系が崩れていくのを実感する今日この頃です。

2007年6月 3日

もうすぐ梅雨ですね

庭の梅の木に実がなった。
毎年この時期になると枝が折れんばかりに実がなってくる。梅はリスはあまり食べないので人間に回ってくる。以前は梅酒や梅ジャムを作ったり、ばあちゃんは梅干も作るのだが、最近はちょっと飽きたみたいで少量の梅を加工している。
この梅が実ってくるといよいよ梅雨に入る。

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2007年6月 4日

敏感力 VS 鈍感力

べストセラーとなっている渡辺淳一の「鈍感力」を読む。何となく内容が想像できたので買うのをためらっていたら、下の息子が買ってきたので借りて読んだ。

そんなにボリュームがないのですぐに読めるが、内容もやはりたいしたことがなく想像どおりだった。蚊にさされていても平然としているのが鈍感力があり、そのほうが上だという話から入ってきた。えーと思ってしまう。だいいち「鈍感力」なんて力があるもんですかねえ。意識して鈍感になれるのかなあ。できるなら、例えば鈍感力を磨いて力をつけるということも言えないこともないが、ふつうは鈍感なやつは無意識に鈍いだけじゃないのかなあ。やっぱ、感度が鈍いやつはだめですよ。

それで、ずっと読んでいくと何のことはない、鈍感でいることがいいと言っているわけではないような気がする。確かに過敏になることはいけないけど、ぼくはある程度敏感になったほうがいいのではないかと思う。

それで結局何が「鈍感力」かというと、まず何かを感じた後の対応力のことではないだろうか。すなわち、過敏に反応しないようにして、自分に都合が悪いことは適当に流しておくとか、いやな事があっても前向きにポジティブに考えた方がいいとか、細かいことは言わずにいつも大局をみつめているだとか、包容力や人間の器の大きさだとかを言っているだけだ。まあ、環境適応能力とでも言ったらいいかもしれない。

ただし、身体的なものには「鈍感力」があった方がいいだろう。だから、肉体的なものと精神的なものは違うのではないでしょうか。

だから、この本では、感じるところの鈍感さとその対応としての鈍感さの混同、肉体と精神における鈍感さの混同が両方起きていて、全部無理やり鈍感力に結びつけている。

それと、敏感と鈍感の重要性は時代で変わるのではないだろうか、ひところはむしろ「敏感力」のようなものが求められた時代もあったわけで、その時の気分でどちらを強調するかみたいなところがある。今は、良くも悪しくも情報が溢れていて、あまり敏感に反応していたらまいってしまうから、こういう本が売れるのかもしれない。まあ、何でもかんでも「○○力」とつければいいというわけではないと思うが、ベストセラーになったのは、題名のつけ方が大きいようですね。

鈍感力
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2007年6月 5日

敏感な渡辺淳一

昨日、「鈍感力」という本について書いたが、実は渡辺淳一は敏感だったという話を思い出した。

もうだいぶ前になるが、彼があるテレビ番組に出たとき、「渡辺さんはなぜ日経新聞ばかりに連載小説を書くのですか?」と聞かれた。確かに、化身、失楽園、愛の流刑地はみな日経新聞の連載であった。で、その答えが「最初、毎日新聞に載せたのだが、そのとき変な読者がいてボロクソに言われたことがあった。その点、日経新聞は読者のレベルが高く、そんな変なやつがいないので、好意的な反応が多いので、もう新聞小説は日経だけにした。」というようなものであった。

おいおい、あなたの鈍感力はどこにいったの。いちいち読者の批評に敏感に反応しちゃいけないんじゃなかったの、渡辺さん。

2007年6月 6日

日本強い

キリンカップでコロンビアと引き分けて優勝したが、日本もなかなか強くなってきた。コロンビアというチームはけっこう強く、これまでなら軽くやられていたかもしれない。前半は攻められっぱなしだったけど、後半はいい線いっていた。

前半の布陣では稲本、中田のコンディションが悪いせいもあってすぐには機能しない感じだった。それでも、俊輔はコンディションはよくなさそうで、ミスもあったが光るものがあり、たいしたものだ。高原は2戦目なのでいい出来だった。当たり負けない身体になったのでびっくりした。やはり、ブンデスリーガで鍛えられてすごくたくましくなった。

また、オシムのめざす“日本化サッカー”の姿が垣間見られた試合でもあった。中村堅剛や羽生のように身体が小さくてもスピードがあれば、大きな選手に当たり負けないプレーができることも証明された。羽生は動きの早さ、堅剛は判断の早さでそれが可能になっている。俊輔、堅剛、遠藤の3人のコンビネーションがうまく取れるようになったら、さらにチーム力が上がるので楽しみだ。

ちょっと話はそれるが、試合のあとのインタビューの話。あのオシムの通訳はいいかげんですね。オシムが、カミカゼチームがどうのこうのと言っていたのにぜんぜん訳さないであたりさわりのない言葉で濁していた。気になって仕方がなかったが、今朝の新聞にはオシムの話にちゃんと書いてあった。

もうひとつは、俊輔の言葉で、オシムのめざしているやり方がだいたい分かったのでこれからはよくなるでしょうというようなことを言ったあとに、シンプルにやれというが、シンプルにやることくらい難しいことはないと言っていた。これすごく分かるんですね。シンプル伊豆ビューティフルです。

2007年6月 7日

食卓にも外来種

この間、外来種の動物の話をしたが、魚についてのことを思い出した。ぼくは観ていないが「ダーウィンの悪夢」という映画があった。内容は、アフリカのタンザニアのムワンザを舞台にしたドキュメンタリー映画で、ビクトリア湖に放たれた外来魚「ナイルパーチ」により、在来種が駆逐され、生態系が壊滅的な打撃を受けたという話だが、逆にその魚は食用に日本などに輸出され、周辺の経済的繁栄ももたらした。ただ、この繁栄は一部の人を潤しただけで多くの住民の貧困は続いているという。

実際に観ていないので映画の論評はできないが、どうもこの監督の扇動的な演出は問題になったらしい。結局、ドキュメンタリーといったって事実を伝えているわけではなく、演出されたものであることを忘れないことだ。

さて、このナイルパーチという魚は、日本にも来て「スズキ」としてスーパーの店頭にも並んでいたり、ファミレスあたりの白身魚フライはこれらしい。

この外来種の魚が日本で食卓にのぼることについて面白い話がある。もうだいぶ前になるが、オイルショックのあとで省エネが叫ばれたころだったと思うが、工場の温排水の熱を利用して、いろいろな食用魚などを養殖するのがはやったことがある。

ぼくの以前勤めていた会社でもごたぶんにもれずやることになったのです。最初は何にするかといろいろ検討した結果ティラピアの養殖を始めた。いくつか生簀を作りそこに温排水で暖められた水を供給してそこで育てる。ティラピアは淡水魚だからそれでいいわけです。この魚は味と見かけが鯛に似ていたので、「いずみ鯛」という名でスーパーにも出荷してけっこう売れていました。

ところが、ある日パタっと売れなくなった。なぜだと思いますか。真鯛の値がぐっと下がったのです。そうです、真鯛の養殖が可能になったのです。そうなると、本家にはかないませんから、すぐに撤退となったのです。近畿大学の水産研究所はすごい、不可能と言われた真鯛の養殖を可能にしてしまうんだから。

それで、ティラピアの後がなんと「エスカルゴ」の養殖です。これもけっこうホテルなんかに出回ったみたいです。いまどうしているのかな?

2007年6月 8日

プレッシャーはどこに

いま、旬な人気者は何と言ってもふたりの王子でしょう。「ハンカチ王子」の斉藤祐樹君は早稲田をリーグ優勝に導いて、しかもベストナインにも選ばれた。「ハニカミ王子」の石川遼君は、関東アマで8位だったが、日本アマ出場が決まった。まあ、ふたりともあれだけ騒がれているにもかかわらず、好成績を残すあたりさすがだと思う。

かれらには、プレッシャーというものがないのだろうか。自分たちが騒がれることがかえってバネになっているような気さえする。最近のスポーツ選手全般にも言えるのだが、強いプレッシャーに負けて成績がでないということもあまりないようだ。大きな大会でも普段の力、いやそれ以上の力をだす選手も多くなった。

いつ頃からかと考えてみたのだが、何年前というのは定かではないが、おそらく試合後のインタビューで最後に「応援よろしくお願いします」と言いだした頃からじゃないかと思う。あの、判を押したように若い子は言うが、ぼくらの年代だとちと違和感がある。なんとなく、スポーツ選手というものは芸能人じゃあるまいし、もう少しストイックなものであるべきと密かに思っている。

そうです、ぼくたちの年代は、試合はすごく緊張するのが当たり前で、しかも、周囲の期待が異常にたかまるのでなおさらガチガチになる。まあ、有名な円谷幸吉の例をだすまでもなく、オリンピックでは極度のプレッシャーがのしかかり、それで自分の実力を発揮できず、死んでお詫びしますというくらいに打ちひしがれたわけです。

そのころの面白い話がある。テレビ番組のインタビューであるいなかのおばさんに、「今回のオリンピックでいちばん強いと思う選手の名前を教えてください」というのがあった。なんて答えたと思いますか。

「それは、プレッシャーさんです」と答えたのだ。いつもテレビのオリンピック中継でアナウンサーが、日本の選手は「プレッシャーに負けた」とか「プレッシャーに弱い」とか連呼していたので、プレッシャーという名の外国選手がいると思っていたらしい。

まあ、冗談はさておき、最近はお国のためにとかいった期待はないし、いい意味での自分の売り込みの場所のような感覚なのでプレッシャーを感じなくなったのかなあとそんなことを思ってみた。

2007年6月 9日

問題解決型か仮説検証型か - 働きたくなるIT(4)

日常の業務処理のなかで、情報活用というのが重要な作業となる。最近は、社内外のいろいろなデータベースからの情報やインターネットを介した情報交換などで、非常に多くの情報に接するようになった。多いということは逆に玉石混交で、そのなかから有用な情報を見つけ出すことはすごく大変である。

また、その情報をどう活かすかが重要で、小売業などはPOSデータを品揃えにどう反映させるかが生命線みたいなところがある。まあ、小売業ではなくても一般の会社における、しかも個人の事務処理のようなところでも、この情報を取捨して、それをどう活かすかは労働生産性を高めるためにもよく考えておく必要がある。

その情報処理プロセスでよく言われるのは、もはや問題解決型のやり方には限界があって、仮説検証型に変えていかなくては創造的な仕事はできないというようことである。そしてさらに、この仮説を立てるのはコンピュータにはできないから、人間がやらなくてはいけない。ここが人間が能力を発揮する唯一のプロセスだから、みんなその能力を鍛えよみたいになってくる。

確かに、そうかと思ってしまうところもあるが、待てよちょっとちがうんじゃないかと思ってみる。まずは、問題解決型というとなんだか言われたことを決められた手順でこなしていくイメージをもってしまうが、本当にそうだろうか。じゃあ、いったいだれがいろんな情報あるいは起こった事象から、問題であるところを見つけ出すのだろうか、問題として設定するのだろうか。実はこの問題設定(発見)能力は大事な能力で、これをおろそかにするとトンチンカンな方向に行ってしまうケースはよくある。

一方、仮説検証能力も、収集した情報を分析してそこから未来を予測するというのが情報処理プロセスの大きな目的と考えれば、非常に重要な能力であるといえる。

ですから、情報のさばき方は二つの方向性があって、ひとつは情報の中から問題点を見つけそれを解決するようにもっていく方向、もうひとつは、情報を分析し、その関係性から予測モデル化する方向である。だから、どちらか一方ということではなく、問題解決型アプローチと仮説検証型アプローチをバランスよく使い分けることが必要である。

場合によっては、ひとの役割もそういう体制にしてしまうこともありえるのではないでしょうか。その最も典型はお役所でしょう。キャリアは仮説検証型能力を生かす役割であり、ノンキャリアは問題解決の専門家でしょう。

ところが、一般の企業においてはどうなっているのかというと、総合職と一般職があるが、どうもそのへんが曖昧になっていて、すなわち、乱暴にいうと何でも求められていて、みんなが類型化された立派な社員になれと言っているような気がする。

ここでちょっと矛盾したようなことをいう。これまで書いてきたことと関連すると思ったのは、サッカーのことである。サッカーチームというのも、仮説検証型のフォワードと問題解決型のバックスとで成り立っていると言えないこともない。いま、その代表チームでオシム監督が盛んに言っている“ポリバレント”ということが注目されている。“ポリバレント”というのは多様性ということで、ひとりが複数のポジションをこなせるようにすること、また、攻撃だけではなく守備もできる、あるいはその逆ができることでる。だから、あまり役割を固定化せずに多様性をもってやろうよ、それにより様々な局面における対応力をチーム全体で高めていこうよということである。

どうも、この考え方というのは会社でも役所でも通用するものではないかと思われる。その前提は、あくまでどちらか一方できちんとできてこそ、別の能力を持つほうにいけるのであって、最初からなんでもやるのではなく自分のホームグランドを持ってからであることは言うまでもない。

今回は、ITのことはあまり出てこないが、いまは溢れる情報を社員それぞれが多様性をもったアプローチで処理していくことが大事であると言いたかったのである。次回にこの情報あるいはデータをどう読むのかという若干ITに近づけた話をする。

2007年6月10日

年金問題

年金問題がゆれている。僕は昨年退職したので、そのとき年金記録を確認しているので問題がないことがわかっている。しかし、そうでないひとは不安であろうし、もし記録に残っていなかったらそれを証明してもらうのもすごく大変だろうと同情してしまう。政府の対応もおろおろするばかりで、いつの厚生大臣がこの制度を導入したかなんてどうでもよくて、要は何としてでも多少の疑わしさは救ってやってきちんと記録するしかない。

この問題に関して、ぼくの知り合い(呑み友達)で日本医療総合研究所社長の中村十念さんが「先見創意の会」というところのホームページに「年金問題は松下電器に見習え」というタイトルで非常に的確なコメントを載せていた。少し長くなるが引用する。

いわゆる「消えた年金問題」の原因は名寄せの失敗にある。  年金には1997年に、国民一人一人にひとつの番号を割り振る「基礎年金番号制度」が導入された。それまでは、複数の年金番号を持つ国民も珍しくなかった。  会社を変わるとその度に違う年金番号が付与され、厚生年金と国民年金間の移動があっても違う番号になったからである。何億もあったであろう年金番号を一気に国民に背番号をつけ名寄せして、約一億に縮めようとした訳だから、壮大な仕事だったに違いない。  しかし、壮大な割には、方法論はお粗末で、国民の自己申告に頼ったのである。広報が不十分だったのか、私の不注意だったのかわからぬが、わずか10年前の話なのに、そのことの記憶は、ない。  これでは、きちんと名寄せできるはずがなく、名寄せしきれずに残った番号が5,000万件という訳である。(その意味では「消えた年金」という言い方は正しくない。逆に消せなかった年金番号と言った方がより正確であろう。)  問題の一つは、この問題が、10年もの間放置され続けてきたことにある。一部のマスコミやジャーナリストが取り上げたこともあったが、社会保険庁や社会保険事務所は頬被りを決め込んだ。  この無責任さは追求されてしかるべきである。政府は損保や生保の不払い追及に熱心ではあるが、国自体のチョンボが見逃されるようではコメディである。  もう一つの問題は、解決策が的外れなことである。消せなかった年金番号の方を一年間で潰していこうということらしいが、過去に出来なかったこと が、今出来るとは思えない。誤字、脱字、読み間違い、姓名変更、同姓同名など名寄せが一筋縄ではいかないことは、多くの企業が体験してきたことだからである。  ここは松下電器の欠陥商品のクレーム処理に見習うべきである。逆から遡るのである。会社を変わったことのある人、厚生年金から国民年金に変わった人(その逆も)等にひとり残らず、自分の年金の照会を呼びかけることである。  それも、これでもかこれでもかというぐらい繰り返し呼びかけるのである。呼びかけに応じて問い合わせた人に対しては、適切に対応しなければならないのは言うまでもない。松下電器は、この方法によって企業のブランドを守り、信用を増したのである。

 松下方式の難点は、費用がかかることである。しかし、その費用は国民への給付費を削って賄われるべきではない。年金積立金からこっそり持って来るのもいけない。国の通常経費をやり繰りして調達されるべきであることは言うまでもない。
 肝心なことは、官僚の焼け太りを見逃してはいけないということである。また、OBのボランティアによる役務提供があれば、社会保険庁の名誉回復にも繋がるし、人件費の節約にもなると思うが、そのような声はあがらないのだろうか。
 安倍政権は、この年金問題によって、新たな国家責任の果たし方をためすチャンスをもらった。首相の若さと正義感で正面から堂々と取り組めば、おのずと道は開けるのではないか。

全く正しく論じていて大賛成だ。
ぼくは、企業のコンピュータシステムを面倒見てきた身なので、入力作業というのはおそろしく大変な作業であることと、必ず入力ミスが起こることを身にしみて知っている。しかし、われわれは、それを前提で繰り返しテストを行なって、何段階でチェックして万全を期すわけです。あの2000年問題のときでも、入力作業とはちょっと違うが、はしからはしまでプログラムを調べて不具合が起こらないように徹底的に検証したのだ。

だから、今回のような出来事が信じられない。おそらく、この場合、通常のコンピュータ処理と違うのは、入力した結果がすぐに出力されないわけで、遠い先に支払が生じたときに始めてわかるということが大きく影響したと思われる。担当者、管理者の頭のなかには、どうせ今打ったデータが間違ってたとしても、実際出力されるときは誰が打ったかわからないのだから適当に打っておけばいいや、たいしたチェックもしなくてもだいじょうぶだときっと思ったに違いない。だからこそ、よけいに注意を払う必要があるのに全くの怠慢と言わざるを得ない。こんなことを他の役所もやっていないでしょうね。

2007年6月11日

「戦後レジームからの脱却」って何のこと

安倍総理の横文字好きは困ったものだが、この戦後レジームなんて言葉をどうして使うのだろう。ぼくだってわからないのだから、おばさんはさっぱり理解できないんじゃないの。単に戦後体制って言えばいいじゃん。

それに、脱却って言うからには戦後の体制はどうであって、結果何が悪かったので、そこから脱却するのかということをちゃんとわかりやすく説明してくれないと困る。また、全部が悪いのではなくいいことと悪いことがあって総合判断として、変えていかざるを得ないということでないと国民は納得いかないと思う。

ぼくは、この「戦後レジームからの脱却」と聞いたとき、直感的に危うさ(ナイーブ)を感じた。それがどうしてか自分の中で考えがまとまらなかったのだが、それを非常にわかりやすく解説してくれた人がいた。まだ若い気鋭の政治哲学者である津田塾大准教授の萱野稔人だ。

彼は、「国家と国民は一体か」というタイトルで、まず安倍政権の国家と国民の一体性を自明視する国家観はナイーブであると論じている。なぜかというと、国家というものはそもそも、唯一社会のなかで合法的に暴力を持つことができる特殊な存在なのである。そうした特殊性を認識することが政治家にとって重要なことなのであって、あたかも一体的なものであるとみる安倍政権の国家観はナイーブなのである。従軍慰安婦の問題なんかもこの文脈で理解できる。

その国家観は、「戦後レジームの脱却」と言っていることについても懸念を表している。そもそも戦後体制とは、第二次世界大戦の戦勝国が、敗戦国に対し、二度と暴走しないように管理するために作られたわけで、戦後体制から脱却するということは、“管理される立場から管理する側へ移行すること”なのである。で、管理する側に回ったときの安倍政権の国家観がすごく気になるというわけだ。なるほどすっきりした。

2007年6月12日

データを読むということ - 働きたくなるIT(5)

玉石混交の情報の集まりから“玉”を抜き出すことはむずかしい。データが何を語っているのかを見つけることが最終的にめざすところであるが、その前に多くのデータのなかから、冷静に客観的に必要な事実を選び出すことが至難の業だからだ。どうしても、こうなってほしいからとか、こうあるべきだからといった予断が入り込む。無意識のうちに結果に合わせた事実選びが始まるのだ。効した恣意的なデータ解析を行なっていながら、あたかも客観的な解析結果であるという主張にだまされることが往々にしてある。

例えば、粉飾決算なんていうのは最たるもので、利益という指標は事実ではなく単なる意思表示に過ぎない。黒字倒産が起こるというのも、データを読み間違えると会社をつぶしてしまう例である。

また、よくあるのは事業の収益が悪化してその説明を経営から求められたとき、ネガティブな事実はどこかにいってしまい、いまから市場はよくなるから収益は改善されるという、あらかじめそういう結果がでるようなデータを並べることがある。経営者はこれに鵜呑みにしてはいけないのだ。逆にこういった恣意性を見抜く力があるひとが立派な経営者になる。

この見抜く力とは何なのだろうか。それは、科学的、論理的というよりある種の勘ではないかと思う。勘とは、経験に裏打ちされたセンスではないだろうか。また、センスはものごとの本質と構造を理解し、おのれを客観視できる俯瞰力によってもたらされると思う。

ですから、データを見たとき、いったいこの情報の本質は何なのか、どこに位置するのかを考える癖をつけることが、正しいデータを選び出すのに重要な態度ではないでしょうか。

また、こうした恣意性を排除するために客観的なデータに頼った経営を行なう経営者もいる。様々な数値化された経営指標に基づき、その打つ手も予測モデルによっておこなっていくというもので、いわゆる「計器飛行」経営というわけだ。この意図は、人間が自分の目でみたものを頼りに行なう「有視界飛行」だと、たえず目先の天候に右往左往してしまい安定した経営ができないからということなのだ。

まあ、どちらがいいかというのは難しいが、「計器飛行」といえども危機的状況では「有視界飛行」にならざるを得ないわけで、その切り替え方を柔軟にそして適正にするとういうことが大切なのではないでしょうか。

少しオペレーショナルな話からそれてしまったので元に戻すと、データには数値データとテキストデータがあるが、数値データについては、データマイニングなどのシステムによりよくなってきていると思われる。小売業などで行なわれるクラスター分析など統計的手法は有効であり、だから一般の会社でも缶ビールとオムツの関係までいかないにしても、もう少し統計的な手法を取り入れてもいいような気がする。

一方、テキストデータについては最近のキーワード検索技術、コンセプトサーチ技術などが充実していて、これらを活用した情報収集は高度化してきている。このあたりの話はまた後で議論しいていくことにする。

2007年6月13日

天才?松本人志

うわー、「大日本人」がこけたー。昨日、松本人志の第一回監督作品で、カンヌにも出品したという映画「大日本人」を観に行く。いやー、あのまっちゃんだからという期待を込めて観たがひどかった。ぼくは、めったに映画を酷評しないが、さすがにこの映画ばかりは。

ただ、映画の批判によく期待はずれだったという言い方をする人がいるが、これはおかしくて、別に期待の度合いや期待どおりかそうではなかったということが映画の良し悪しを決めているわけでもなく、期待はずれだったから良くない映画というわけではない。まっちゃんだって期待外れだったなんて言えば、オマエらがまだオレの域に達して居ないのだなんて言いそうだ。

だから、ぼくは、期待はずれだったからひどい映画だと言っているわけではなく、そもそも映画になっていない。内容もそうだし、カメラワーク、カット割り、音楽などどれをとっても低いレベルなのだ。そうなんです、単なるテレビのバラエティの寄せ集めなのである。それなら、「オレたちひょうきん族」のほうがよっぽどおもしろい。だから、入場料を払って見るものではない。

なにしろ、昨日は平日だから観客も若い男が10人くらいしかいなかったが、いいですか、だれ一人笑わなかったのです。くすりともしない。お笑い芸人が笑えない映画を作ってどうするんですか。
まあ、これ以上は言わないが久しぶりに“金返せー”である。

と書いたが、あんまり酷評するのもかわいそうなので、若干フォローしておくと、喜劇映画を作るのってすごい難しいと思う。泣かす映画はやさしいし、開き直ったおバカ映画もそう難しくはない。でも、映画で笑わすのは非常に難しいのだ。

なぜだろう、まずは、舞台や寄席で笑わすのってその場の空気をお客さんと一体化するから比較的笑いととりやすい。それに比べると、お客さんが目の前にいない時に笑わせるかということがあって、これはテレビも同じなのだが、最近はスタジオにお客さんを入れてそこでギャグやコントをやって、そこのお客さんの笑い声につられてテレビの前の視聴者も笑うという作りになっている。だから、今のお笑い芸人は、目のまえにお客さんがいなくても笑わせる力がないのだ。それと、基本的に一発ギャグの繰り返しの笑いだから、これじゃあ映画にならないよね。

2007年6月14日

バーチャルとリアル - 働きたくなるIT(6)

この連載は、大きな目次がないなかでとりあえず書き出しているので、脈絡のない話が続いているようですがご容赦のほどを。最後にはまとめてみようと思います。主題は、ITという道具をうまく使って知的労働の生産性と質をあげるにはどうしたらいいのかということなので、これだけは忘れないようにします。

さて、いまITを道具といったが、使う道具としてだけ捉えていればいいが、問題は目で見るものがITを通して見ることになることだ。すなわち、PCのディスプレイ、携帯のメール、テレビ画面などを見ながら世界を認識することになる。だから、バーチャルとリアルの世界という問題が生じる。

いまの若い人たちは小さいときからテレビゲームに慣れているので、ゲームで起こっていることがひょっとしたらリアルの世界でも起こると思っていやしないだろうか。最近の凶悪な少年犯罪が起こるたびに言われるが、普通の人間にとっても大なり小なりリアル世界とバーチャル世界の境界がぼやけてきているのは確かだろう。

これを会社における仕事で考えてみると、今はどこの会社にも机の上にひとり1台のPCが置かれ、それに向かって仕事をする風景が当たり前になっている。でも、これってつい最近の形態で、われわれの若いときは机の上は電卓とトレッシングペーパー(青焼きコピーをしなくてはいけないので)だけで、ときどき窓の外の景色を眺めながら、隣の人とおしゃべりをしながら仕事をしたものだ。

それが、個人にPCが配られると一日中PCのディスプレイとにらめっこだ。いったいみんな何をしているのだろうか。以前勤めていたとき、たまにフロー全体をながめることがあるが、全員がびっくりするほど一心不乱にPCを凝視しているのを目にするとある種の滑稽さを覚えることがある。そうなると、PCはホワイトカラーの生産性をあげたかどうか疑問になるが、そんな状態でもそれ以上に効果をもたらしているというのがここでのスタンスです。

さて話を戻すと、結局株のトレーダーの例を引き出すまでもなく、今はマウスのクリックひとつで多額のお金を動かしえるわけで、仕事がゲーム感覚になってしまうのではないだろうか。実際の仕事とゲームの決定的な違いは何かというと、ゲームは失敗してもリセットが効くが仕事はそれが効かないということだ。

PCのディスプレイから多くの情報が手に入り、そこで作業することであらかたの仕事がすんでしまうため、リアルな世界のことをあまり知らないことになる。筆者は以前、新入社員教育でこうしたことに関連して必ず言っていたことがある。“みなさん、山本五十六が真珠湾攻撃をするときに、実際に真珠湾を自分の目で見たかどうか、どちらだと思いますか。実は、何回か実地に足を運んでいるんです。それで、あの作戦を考えていたわけです。だから、あなたたちもたえず現場に足を運んで、そこで何が起こっているか自分の目で確かめることを忘れないでほしい”というようなことを話している。

製造業なら工場、流通業なら店舗といったように、実際にモノを作っている、販売しているところに行くと何かを感じられると思うので是非実行してもらいたいものだ。

2007年6月15日

雨上がり三題

いよいよ1週間遅れの梅雨に入った。しかし、今朝はさわやかに晴れている。雨上がりの朝の富士山がきれいだ。こんなにすっきり見えるのはこの時期にしてはめずらしい。写真はうまく撮れていないが雰囲気だけでも。

庭のあじさいが色づいてきた。あじさいは雨が似合う。晴れた日より雨の日のほうがきれいに見える。

なぜか、「大日本人」の新聞広告。このタイトルとどういう関係があるのかわからないシュールさが松ちゃんぽくっていいでしょ。それにしても、1面全部の広告を打つとは吉本もたいしたものだ。よっぽど客の入りが悪いのかなあ。

まあ、これだけ賛否がはっきり分かれる映画も珍しい。ただ、ちょっと疑問なのは、いまぼくが賛否両論と言ったけどこれはYahooなんかのクチコミからそう言っているが、気になったのはこうした評のなかで、映画館の観客がみなゲラゲラ笑っていたという人と誰も笑わなかったという人がはっきり分かれていたことで、そんなことってあるのかなあと不思議でしょうがない。

むむ何か意図的なクチコミなのでは?それとも普通に松っちゃんのファンだけが笑って、そうでない人はぜんぜん笑えないってことなのだろうか。こりゃ新興宗教だ。映画がこけてどしゃ降りの雨から、新聞広告を打って雨を上がらせようということなのかな。

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2007年6月16日

落とし穴理論

社保庁のことは以前このブログで書いたが、どうも人間の習いで、ひとのしたことを修正するのはあまりしないようだ。しかも黙ってやることは難しい。なにか見返りがあるならやってもいいくらいしか考えないものだ。これを、ぼくは勝手に「落とし穴理論」と呼んでいる。

どういうことかというと、人間には三種類のタイプがあって、落とし穴を掘るヤツ、落とし穴を見つけて気をつけろというだけのヤツ、黙って落とし穴を埋めるヤツの三様の人間である。で、なかなか落とし穴を黙って埋めるヤツがいないのだ。

人間って自分がいいことをしたら、まわりの人に気づいてもらいたいし、ほめてももらいたいという心理が働く。しかし、黙っていたらほめてくれない。黙ってやらなきゃ事務的に対処するだけだから、いいことをしたことにはならない。こんなジレンマがあるので、だいたいのひとは気をつけろというだけで、誰かが穴埋めをしてくれるのを期待するというわけだ。こんな心理が蔓延しているから年金問題が出てくるのだ。

とここまで書いたら、同じようなことを言っている人がいた。内田樹さんで以前も紹介したが、この人の論旨は明快でいつも感心させられる。要約を載せると、

システムをクラッシュさせた責任は「誰に責任があるのだ」と声を荒げる人間たちだけがいて、「それは私の責任です」という人間がひとりもいないようなシステムを構築したこと自体のうちにある。 行楽地で空き缶を捨てようときょろきょろしている観光客がいる。 どこにも空き缶が捨ててないと、しかたなくマイカーに持ち帰る。 一つでも空き缶があると、「やれやれ」とうれしげにそこに並べる。 そういう人間「ばかり」だから、空き缶一つをトリガーにして、あっというまにゴミの山ができあがる。 私たちの社会はそういうふうにできている。 何もないところにゴミを捨てる根性はない。 でも、一つでもゴミが落ちていれば、ほっとして捨てる。 公共の場所にゴミをすてることがシステムを「汚す」ネガティヴな行為であることはわかっている。 けれども、自分より先にそれをした誰かがいた場合には、その誰かに「トラブルの起源」を先送りすることができる。「私が来るより前から『こんなふう』だったんです。私はトラブルの起源ではありません」というエクスキュースが通るとわかると、どんなひどいことでもできる。 それが私たち日本人である。 最初の空き缶をとおりがかりの誰かが拾えば、それでゴミの山の出現は阻止できたのである。 だが、「なんで、オレがどこの誰だかわからないやつの捨てたこきたねえ空き缶を持ち返らなきゃいけないんだよ!」と怒気をあらわにすることが「合理的」であるという判断にほとんどの人が同意するがゆえに、「一個の空き缶」で済んだものがしばしば「ゴミの山」を結果するのである。 社保庁だけでなく、日本的システムは総じてすべてそうである。 いったん事件化したあとになって「誰のミス」であるかを徹底究明することには熱心だが、事件化するより先に「私の責任」でミスを無害化する仕事にはほとんど熱意を示さない。 「誰の責任だ」という言葉を慎み、「私がやっておきます」という言葉を肩肘張らずに口にできるような大人たちをひとりずつ増やす以外に日本を救う方途はないと私は思う。

うーんウチダくんの「空き缶理論」ほうが説得力があるなあ。ぼくも、いま歴代の大臣や社保庁の責任を徹底的に究明するんだとか言っているが、所詮無理だと思う。結局、知らず知らずに体質としてしみついた問題であるから、はっきりこれが病巣ですなんてわかるわけがない。だから、ウチダ君の最後の言葉は重い。


2007年6月17日

平均化ピア・プレッシャーに負けるな

いま、システム開発の方法論を研究していて、その技術的な部分もさることながら、どういう体制でやるのかということに思い巡らせている。要するに開発プロジェクトをどのようなチーム編成、どういうスキルをもったエンジニアを配置するかという問題である。

従来の方法では、とくに大規模プロジェクトだと、非常に多くの人間が階層的に組織され、仕様どおり規律正しく進めていくというやり方が主流である。そして、みんなが仲間に迷惑がかからないようにきちんとやってくれることを前提にプロジェクトは進められる。そうしたやり方だと、結局平均的なスキルにどうしても合わせにかかるから、プロジェクト全体のレベルも平均的なものにしかならない。

もっと飛躍して言うと、日本の社会全体もそういうことで良しといてきた面は否定できないだろう。だから、こういう組織や社会ではとんがることが嫌われることになる。この周りのひとたちが一生懸命やっているから、自分もまじめにやらなくてはいけないという仲間からの圧力を、「ピア・プレッシャー」という。

ピア・プレッシャーのもつ相互監視と相互扶助=「水平管理」のメカニズムは、日本の代表的な企業文化を作っていった。だが、それは家族主義的な居心地のよさを発揮する一方で、互いに監視し合うために、働きすぎたり、ストレスを生んだりするマイナス面もある。

でこのピア・プレッシャーには二種類あると茂木健一郎が言っていて、ひとつは、どちらかと言うと今述べたような「平均値に引きずり下ろそう」というベクトルと、反対に「とんがるような方向に煽る」ベクトルがあるとのこと。それで、最近の傾向は前者に大きく行きすぎていて、それは、メディアの「わかりやすさ」を追求する姿勢の影響が大きいと言っている。

ぼくも、最近同じように感じている。どうもおしなべて平均的なほうへ流れて入るような気がしている。だから、できるやつや真のインテリのひとたちの居心地はそんなにいいものではないような気がする。

そんなことを考えながら、一方で格差社会だなんて言われていることが何やら不思議に思えてくる。世の中のベクトルが平均化に流れていながら、平均的なひとたちがいなくなっているわけで、しかも二極化した上流、下流の両方が平均あるいは普通へのピア・プレッシャーを感じているという妙な構造になっているように思える。

だから、ここでは格差があって当たり前と考え、その中でお互いの価値を認め合う、そしてそれぞれの価値の多様性を認識できる社会を築きべきだと思う。エリートは必要です。コンセプト設計は頭の切れる真のエリートがすべきなのです。

最初のシステム開発についてもスーパークリエ-タの地位を高めて、そうしたいろいろなタイプのとんがったメンバーを中心のチームで開発することを考えている。

2007年6月20日

リフォーム

一昨日、昨日とばあちゃんの家の一角に構えた事務所のリフォームを行なった。もう築後40年経っているので、床板がはがれかけていていつ抜けるかわからない状態だったので床を張り替えた。フローリングというヤツです。そんなことで事務所が使えなくなった。

それと両日とも東京で仕事だったので、この二日はほとんどパソコンに向かうことなく過ごした。そのため、ブログの更新が滞ってしまった。

そんなときは、ブログの文章を紙にでも書いておけばいいのだけど、いきなりキーボードをたたく癖がついたものだから、なかなかそうはいかない。というわけで二日間はブログから解放されたのである。

しかし、リフォームの後の部屋は気持ちがいい。そうだ部屋と一緒に頭の中もリフォームしようかな。

毎日ピクニック

東京に勤めに出ていたときには、毎日通勤とはいえけっこう長い距離を歩く。電車でつり革にぶら下がっているのもいい運動だ。ところが、退職してからめっき歩く距離が減った。週1、2回のプール通いはするものの通勤距離30mでは運動量が激減してしまった。そこで、やっぱり毎日少しでもいいから歩いたほうがいいと思って、どうしようかと考えてみた。

そこで、そうだピクニックに行こうということにした。お弁当をもって海や山にいくのである。ただ、近くで長い距離を歩けるような公園が少なく見つけるのに苦労したが、笛田公園という山の中にある公園と江ノ島のヨットハーバーを探し当てた。下の写真がお決まりの歩くコースです。

いま、天気のよい日は毎日のようにどちらかにいって、青空の下お弁当を拡げ、食べたあと少し休んで、周りを散策するのである。これが快適なのだ。平日だからひとがほとんどいないので、頭の中をぼーっとさせながら歩けて、心身ともにリフレッシュできる。ずっと続けていこうと思う。

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2007年6月21日

知の運動神経 - 働きたくなるIT(7)

ちょっと前に朝日新聞の星浩さんが、「知の運動神経」という言葉を使っていた。ぼくは「仕事の運動神経」あるいは「仕事神経」ということも言っておきたい。運動神経の悪いヤツを「運動オンチ」という。だから、「仕事オンチ」というのもあるような気がする。

なんというか、例えば、ある仕事を命じられとき、普通ならある段取りで手際よくできるようなことでも、余計なことをやったり、肝心なことが抜けてたりとかするひとがいる。いくら言ってもまた同じことを繰り返す。あるいは、報告書を書かせても何を言いたいのかさっぱりわからず、結論も書いていないこともあるといった風に、一生懸命やっているんだけど、どこかしっくりしていないというか、合っていない感じである。そういうのを目の当たりにすると、こいつ仕事オンチじゃないのかとつい思ってしまう。

筆者は、運動神経はあるほうだと思っているが、音痴である。だから、カラオケで唄えと言われるのが嫌いなので、なるべくカラオケのない店に行く。それでもどうしても言われることがあるので、1曲だけ何とか唄える歌を用意してある。まあ。それであらかただいじょうぶなのである。音痴というのは、耳が悪いというか音を聴く能力が弱いからだと思っていて、従って、仕事オンチというのも自分の周りの仕事や会社の事業の状況だとかいったものがどう動いているかを感じ取る力が元来弱いのじゃないかと思う。

で、そうした人たちも生産性があがるような仕掛けってあるのだろうか。

実は、運動神経でいえば、スポーツ選手がみんながみんな運動神経がいいとは限らないし、全部の運動がまるでだめという人は少ない。例えば、キャッチボールもろくにできないのにスキーはすいすい滑るとか、逆上がりができないけどゴーカートを乗り回すとか、意外に得意技があったりする。また、運動によっては、ある型にはまったら、それで十分通用するというものもある。例えば、野球のバッティングなんかそうだと思う。

で結局、この意外な得意技を見つけてやることと型にはめることによって「仕事オンチ」のひとが救えるのじゃないかと考えている。ある意味、仕事というのは“おさまりがいい”というのが大事で、勘違いしている人がときどきいるが、変に特異性を発揮されても困るのであって、“おさまり悪い”ことは個人の生活でやるべきだと思う。「仕事オンチ」のひとも“おさまりよく”しようよねということです。

こうしたことも一種の多様性だと思うが、おそらくこの多様性を見つけて、生かすのはITの力をうまく活用することから達せられるのではないでしょうか。参加型のアーキテクチャ、情報駆動型プロセスなどがこうした手助けをしてくれるような気がする。

2007年6月22日

桑田的生き方

桑田真澄選手がメジャー昇格を果たした。39歳のオールドルーキーの誕生である。桑田のことを悪く言う人もなかにはいるし、ぼくも最初はそんなにいい印象を持ったわけではないが、大リーグ挑戦を宣言してから以降は、むしろ好きになるくらいになった。

やはり野球に対する姿勢や考え方がすばらしく、求道僧に似たところがある。以前肘をケガしたときのリハビリなんてまさにそこまでやらなくてももう辞めたらと思ったものだ。今回のケガでももうあきらめるんじゃないかと思ってみたが、いや桑田は絶対にあきらめないと思い直した。

どうして桑田をここまで挑戦し続けるのだろうか。おそらく、「ぼくは野球が好きだから」という言葉がでてくると思うが、そうじゃないと思う。桑田だったら野球以外のスポーツをやっていたら同じように一流選手になったと思うし、違うスポーツでも同じような姿勢でのぞんでいたと思う。人間ってそういうものでしょう。

この歳になっても挑戦し続けるというのは、自分のやり出したことに対し、極めたいというか、自分の考えていることを試してみたいという欲求を持ち続けていることではないだろうか。だから、それがほぼ満足したものになったら、力を出し切ったと思ったときにやっとやめるのだろう。

この姿勢は、何事にも必要で、その目標とするところが大きいほど時間がかかる。桑田も40歳近くなってやっと目標地点に近づいたわけで、その目標は桑田にとっては大きいはずなので、遅いとは思っていないのじゃないのかなあ。

それにしても、たいしたものだ、プロ選手の鑑になりますねえ。

2007年6月23日

「フェルマーの最終定理」は最高におもしろい

以前に「博士の愛した数式」という映画を観たのと最近銀座のMである高名な数学者のかたとお話をする機会があって、何となく数学に興味を抱くようになっていたところ、「フェルマーの最終定理」(サイモン・シン著 新潮社文庫)が文庫になっていたので早速購入して読んでみた。これがまた無茶苦茶おもしろかった。

皆さんご存知のように、フェルマーの最終定理というのは、「xn+yn=zn この方程式はnが2より大きい場合には整数解をもたない。」というものである。そしてフェルマーは、「私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」ということばを残して死んでしまったのである。それが17世紀のことである。

それから、長い間、天才的数学者がこの証明に挑んだにもかかわらず、ことごとく跳ね返されたが、1994年についにイギリス人の数学者アンドリュー・ワイルズによって証明されたのである。実に3世紀にわたって悩まし続けた超難問が解けたのである。

この本は、ワイルズがそのフェルマーの最終定理を解いていく過程だけではなく、ピュタゴラスから始まる数学の歴史をも眺め回している非常に壮大な著作である。しかしながら、難解なものではなく、ぼくのような人間でもある程度理解しながら読み進むことができる。

いちおうぼくも理科系なので数学をかじったが、数学のもつ純粋さやある種の美しさはなかなかわからない。でも、この本を読むとそのあたりが数学者の姿勢を作者が暖かいまなざしをもってまじめに描くことにより、じわっと実感してくる。ワイルズがやっと証明ができたくだりでは思わず涙がこぼれてきた。

ワイルズは数学の研究では珍しくひとりで、秘密裏に仕事を進めた。従って、その精神力、集中力は並大抵なものではない。それを言い表わしたワイルズの言葉。
 

大事なのは、どれだけ考え抜けるかです。考えをはっきりさせようと紙に書く人もいますが、それは必ずしも必要ありません。とくに、袋小路に入り込んでしまったり、未解決も問題にぶつかったりしたときには、定石になったような考え方は何の役にも立たないのです。新しいアイディアにたどりつくためには、長時間とてつもない集中力で問題に向かわなくてはならない。その問題以外のことを考えてはいけない。ただそれだけを考えるのです。それから集中を解く。すると、ふっとリラックスした瞬間が訪れます。そのとき潜在意識が働いて、新しい洞察が得られるのです。

いま、数学の研究では珍しくひとりでと言ったが、ぼくはあまりよく知らなかったのですが、数学の研究というのはオープンなのですね。自分のやっていることを仲間に披瀝して間違いをチェックしてもらったり、別のアイディアを出してもらうのがあたりまえなのだ。

それで、ふとシステム開発におけるオープンソース開発を思い浮かべてしまった。基本的に同じように思える。なぜだろうか。そのときちょっとこんなことを考えてみた。数学をやっている人って何のためにやっているのだろうか、世の中に役に立っているのだろうか、フェルマーの最終定理を解くと普通のひとたちにとってどんないいことが待っているのだろうか(数学的にはすごいことだとは思うが)、すごい定理を発見したって特許をとれるわけではないなあ、とかそんなことを考えてしまった。

どうもお金儲けのためではないので、名誉ということなのか。目の前の問題を解くことが本能的に好きなのか。だれも証明できないことを証明したときの喜びを求めているのか。
少なくとも、本気で取り組むものを見つけ、それがお金のためではなく、その問題を解くことにのみ生きがいを感じるというのが美しいような気がしている。そのへんの気分についてワイルズは証明したことを発表した最終講演のあとこんなことを言っている。

すばらしい出来事だったには違いないのですが、私の気持ちは複雑でした。七年間というもの、これは私の一部であり、仕事としてはこれがすべてだったのです。私はこの問題に夢中で、この問題を独り占めしているとさえ感じていました。それなのに、私はそれを手放そうとしていた。まるで自分の一部を失うような気分でした。

ワイルズがフェルマーの最終定理を証明するにあたって、実は日本人数学者の何人かが大いに関係しているのです。特に「谷山=志村予想」というのが濃厚に影響していて、言ってみれば、この「谷山=志村予想」を証明することが「フェルマーの最終定理」につながったわけです。日本の数学のレベルが高いことがわかっただけでもうれしかった。
やっぱ数学は崇高な学問ですね、お金をいっぱい稼いだ「数学者の品格」が疑われる藤原正彦さんへ。

この本には他にもいろいろためになることが一杯詰まっているのと、作家の力量だと思うが、非常に読みやすいのでぜひ一読することをお薦めします。

2007年6月24日

BathGas爆発

この間、社保庁のことで落とし穴理論という話をしたが、あのなかで、日本人はミスを事前に無害化することに熱心ではないということを書いた。それをまた指摘しなくてはいけないことが起きた。渋谷の温泉で起きた天然ガスの爆発事故だ。

またぞろ、「責任を徹底的に追求して、二度とこうした事故が起こらないようにします」の大合唱でしょう。
このような対症療法ももちろん大事ですが、事故を事前に無害化するという予防保全の考えかたがより重要になってきます。

化学プラントなどはこの考え方により事故を未然に防いでいるのです。ところが、そう言っても、その予防によってこれだけの事故が防げたという定量的なデータが示せないので、ちゃんと評価できないという、ここに悪魔が潜んでいるのです。予防に手を抜いてもどうせわかりゃしないだろう、事故なんてそう簡単に起こるものじゃないからだいじょうぶだという“さぼり心”が働くのだ。

今回の事故は、それ以前の問題もあって、そもそも温泉から天然ガスが同伴することくらい知らないこと事態が情けないし、以前東京で温泉を掘削中に天然ガスに着火してかなり燃えつづけていた事件もあったのを学習していないこともひどい話だ。多少知っていたとしても、それが爆発事故につながるという予見もなかったのだろう。結局、想像力の欠如なのだろうが、いろんな見地からチェックして、リスク管理をしっかりするのが事業者の責務であることができていない。

それじゃ、こういうことに対してどうすればいいのかについて、社保庁のエントリーでは内田樹の言葉を引用して、「「誰の責任だ」という言葉を慎み、「私がやっておきます」という言葉を肩肘張らずに口にできるような大人たちをひとりずつ増やす以外に日本を救う方途はないと私は思う」と言ったが、それはそれとして、それ以外に何か方策はないのだろうか。

もちろん制度的な対応というのも必要である。特に今回の爆発事故なんて、法的規制のモレでもあるわけなのだが、たとえ規制の網をかぶせても、最初はいいとしてもしばらくすると逆に規制されているから法に則ったことだけやっていればいいやというふうになる。よく事故が起こるのはそこからちょっとはずれたところなので結局法的規制は万全ではないことになる。

そこで、最近ふと考えていることがあって、それは唐突かもしれないが、「ランキング情報」がひょっとしたら効果があるのではないかと思っている。最近とみに様々なランキング情報があふれているが、それをもっといろいろなこと、まあここでは安全だとか安定といった切り口のランキング情報を流すのだ。

例えば、エキスポランドの事故なんていうのも対象になると思う。要するに、専門家に危険度の評価基準みたいなものを作ってもらい、それに照らし合わせて発表しちゃうわけです。そんなことは官庁検査でやっているよと言われるかもしれないが、公開することや評価項目も多様にしておくこと、また、しょっちゅう更新するとかいったことは違っているのだ。乱暴に言うとウソでもいいわけで、うちはここまでやっているのにランクが低いのはおかしいと言ってきてくれたら御の字なのだ。

このアイディアどうかな。

2007年6月25日

仕事が好きですか - 働きたくなるIT(8)

これまでの議論はITについてというより、仕事に対する姿勢や態度といったことに焦点があたっていた。そこで最終的に行き着くところというのは「仕事が好きですか」というところになる。すなわち、何をするにしても、やっていることに工夫をこらしたり、改善したり、自分の思うようにするといった振る舞いは、結局は好きなことに対してしかやらないのだ。

仕事が好きになること、あるいは仕事が楽しくなることと言い換えてもいいが、どういうことなのだろうか。桑田の話を先のエントリーで書いたが、よく、プロ野球の選手が「結局、私は野球が好きなんですね」なんてコメントを言ったりするのを聞くことがありますが、そういうことなんだろうか。この野球選手、別に野球選手でなくてもサッカー選手でもテニスプレーヤーでもいいのだけれど、ほんとうに野球が好きで、サッカーが好きでということなのだろうか。

どうもそうではなくて、あることに関わったらそれに対して極めたいという気持ちが働き、それに真摯に向かい合い、そうしていると対象となっているものに愛着がわき好きになっていくということではないのかと思ってみる。だから、「結局、私は野球が好きなんですね」と言っている野球選手ももしかしてサッカーをやっていたら「結局、私はサッカーが好きなんですね」というのではないでしょうか。だって、いろいろなスポーツをやってそれを比較してこちらがいいということはできないのだから。

これは、仕事でも同じで銀行に入った人が「銀行員が好きなんです」というのと一緒で、これにしてもひょっとしたら役人になっても同じことを言うのでしょう。従って、どんな職業でも職種に関係ない部分における仕事、すなわち、最初は与えられた仕事かもしれませんが、確実に早くこなし、そのうち自分なりの工夫もし、相手に喜ばれるという行為を楽しく思ってやることができるかどうかということで、これができる人はどんな業態や会社でもうまくできるのでしょう。

ということで、仕事が好きであることが大切であるが、それだけで成功するとは限らないのが世の中なのですね。これは、前々回に書いたように仕事はリセットが効かないわけで、また特に会社での仕事ってかなりの部分対人関係で決まるところがあるので、すんなり自分の思い通りにはいかないのです。

だから、近頃“めぐり合わせ”というのがすごく大きなファクターであるような気がしている。いくら優秀なやつでも上司に恵まれなかったばっかりに自分の成果を評価してもらえなかったり、あるいは能力を発揮する場をつくってもらえなかったりとかが起こる。また、それ以外にもたまたまその時期に何かが重なって、不本意なほうの仕事についただとか、そういった“めぐり合わせ”によってずいぶんと違った生き方になる。しかし、これはしかたがないことでそれを嘆いていても始まらないわけで、そのなかで精一杯自分を認めてもらうことに全力を傾注することだと思う。

これからこうした人間関係のことも含めていろいろ考えていこうと思います。

さて、次回からはもう少しITっぽい話にしたいと思います。日常の会社での行動の多くは情報処理です。情報を収集し、それを編集・加工し、発信することになります。このそれぞれのアクションにITがどう使われ、生かされているのかを議論していきたいと思います。

2007年6月26日

数にまつわる話

「フェルマーの最終定理」という本がメチャおもろいと書いたが、その本の中に数にまつわる話がいくつか出てくる。そのなかでとっておきの話を二つほど紹介する。

まず最初は、“ジュウシチネンゼミ”の話だ。このセミは昆虫のなかで最長のライフサイクルをもっている。そのライフサイクルは、まず地中で始まり、幼虫は辛抱強く木の根の樹液を吸いながら、17年間経つと莫大な数のセミの成虫が地表にあらわれるのである。そのあと、2、3週間のうちに交尾し、産卵して死んでいく。

ここで、不思議なのは、なぜこんなに長いライフサイクルなのかということと、ライフサイクルの年数が素数であることなのだ。他にも“ジュウサンネンゼミ”という13年ごとに大発生するセミもいるそうで、これも13という素数の年数になっている。ということは、素数であることが進化論的に意味があるのだろうかということになる。

どうも、長いライフサイクルをもったセミの寄生虫がいて、セミはその年数を避けているのではないかという。例えば、寄生虫のライフサイクルが2年とか3年だとすると、セミのライフサイクルが2や3で割り切れる数だと周期的に同時発生してしまうからだ。ですから、寄生虫との同時発生を防ぐための最良策は、長くて、しかも素数のライフサイクルをもつことなのです。

もし、寄生虫のライフサイクルが2年だとすると、両者は34年ごとにしか顔を合わさないし、それが16年だったら、16×17=272年に一度しか顔を合わさないことになる。だから、逆に寄生虫がセミの戦略に対抗しようとすると、同時発生の頻度を高めるしかないわけで、そうなると1年サイクルか17年サイクルかだ。

しかし、1年サイクルで17年間生き続けるのも容易ではない。だって、最初の16年間は宿主になるセミがいないのだ。一方、17年のライフサイクルをもつのは、16年のライフサイクルに進化しなくてはいけないわけで、進化のある段階で272年間同時発生しなかったことになり、そこで絶滅に追いやられたのだ。

だから、この17という素数は大変意味がある数なのだが、おもしろいのは、残ったセミにとってはこのライフサイクルも無用の長物と化している。どうしてって、寄生虫はもういないのだから。
これって、おもしろい話でしょ。次は確率の話。

確率の問題は時として、真の答えと直感がかけ離れることがある。そうした、確率問題のひとつに、誕生日が同じになる確率を問うものがある。

例えば、サッカー場に選手とレフリーあわせて23人いるとして、この23人のうち、だれか二人の誕生日が同じになる確率はいったいいくらになるでしょうか? おそらくほとんどの人は10%くらいじゃないかと答えるのではないでしょうか。23人に対して誕生日は365通りもあるのだから。ところが、計算すると答えは何と50%を越えるのです。

確率がこれほどまで高くなる理由は、その場にいる人間の数よりも、ペアを作る組み合わせの方が重要になるからで、誕生日を同じ人を捜すときには、一人一人ではなく二人一組で考えなくてはならない。このペアの組み合わせは253通りにもなるのだ。

つまり、1番目の人は他の誰とでもペアが組めるから22組のペアが存在する。次に、2番目の人は残った21人とペアを組めるから22+21通りとなる。こうして順番にみていくと253通りになるというわけだ。だから、確率は50%を越えるのです。うーん、確かにそうですが不思議ですね。

いま、23人でこの確率だから30人にでもなったら急激に上がるから、パーティかなにかでこの問題で賭けをして儲けたらいかがでしょうか。え、数学でお金もうけしたらいけないんでしたっけ。

2007年6月27日

グローバル化できる?

これまでも再三日本のソフトウエア産業がグローバル化できないということを指摘してきた。基本ソフトウエアやパッケージは欧米で作られ、開発は中国、インドにもっていかれるという構図である。このまま手をこまねいていたら、いつか崩壊してしまうかもしれない。そのあたりの危機感がないように思える。

いつだったか「カンブリア宮殿」というテレビ番組で、村上龍が日本のマーケット規模が中途半端であることがそうさせている要因のひとつじゃないかということを言っていた。1億2千万人の消費者が適度にいるため、その消費者だけを相手にしていてもそこそこ食っていけるわけで、ついそのぬるま湯につかって安穏としてしまうのである。これってもうゆで蛙状態ですよね。だから、よけいにそんなところからクリエイティブな仕事なんか絶対でてこない。ますます、ゆで蛙となる。

ところが、最近ちょっとした光明をみつけてワクワクしている。いま。オープンCMSを使った開発を研究していて、そのため、いくつかのCMSツールを調査したり、実際にさわったり、そしてコミュニティの動向をウオッチしたりする機会が増えてきた。そこで見たのは、グローバルということなのだ。

コミュニティは当然英語がメインであり、日本のメンバーの人たちも英語で参加しているわけです。ぼくは英語が苦手なのでなかなか読み解くのがむずかしいのだが、いろいろ見ているとITについてはそんなに難しい英語で会話しているわけではないということと、かれらは最後はプログラムそのものだから、これこそは共通理解されているので、コミュニケーションがとりやすいのだ。そんなわけで、若いITの人たちはあまり意識することなくグローバル対応しているように感じる。

でここからなのだ。そうした芽をつまないように、というか拡げるようにしていかなくてはならない。それには、先頭に立てる人間を生み出すことであり、周りがそれを育てる風土を作ることである。勝負は世界だ。そのとき重要なのは、世界基準で戦うためのしっかりとしたコンセプトメーキング力をつけることにつきる。日本人は地を這う虫の目はわりと得意ではあるが、空を飛ぶ鳥の目もあわせてもつことを期待する。

2007年6月28日

「現場」の意味

「経済再生は「現場」から始まる」(山口義行著 中公新書)を読む。内容は、日本経済再生の兆しが見えてきたが、まだ大企業を中心としたもので、中小企業や地域では苦しんでいて、それを解決するカギが「現場」にあるというもの。いくつかの例が紹介されている。

地方銀行である常陽銀行が不良債権を「処理」するのことなく、不良債権を「減少」させることを行なったもの。すなわち、貸出し先企業の経営改善を銀行がみずから積極的に支援していくというものである。また、群馬県榛名町で起こった町の再生活動がある。榛名湖はワカサギ漁で有名な湖であったが、1997年ころから急にワカサギが釣れなくなってしまう。そのとき市民の有志がたちあがり、炭素繊維の汚水浄化作用を利用して湖の水をきれいにするプロジェクトを成功させたこと。さらに、大阪市の中小企業ネットワークなどの例があげられている。

なかでもすごくおもしろかったのは、三重県の尾鷲総合病院の取り組みで、いまこうした地方の病院では患者の高齢化が進み経営困難に陥っているところが多いのだが、ここでは、NSTというチームで患者の栄養管理を行い、患者の体力や免疫力を高めることで、例えば院内感染が激減したり、そうした変化で経営も安定した例が紹介されている。「現場」の工夫次第でで大きな効果を上げられるという好例である。

確かに、今は地場中小企業をどう活性化するかは重要なテーマであると思う。ぼくも今ITを活用したこうした取り組みを企図しているのだけれど。まだまだ、全体としてのうねり、あるいは組織的な動きにはなっていない。誰かすごい人がいてその人がわが身をかえりみず努力して始めて成り立つところがある。

そうした、硬直感を打ち破るにはどうしたらいいのだろうか。ぼくはいちばん大きな要素は。「情報開示」だと思う。情報をオープンにし、みんなで共有することで連帯感も生まれるし、組織的な動きにつながるような気がする。この本のなかにも、大阪市の例で、中小企業のネットワーク化を先頭にたって推進したある会社の社長は、自分たちが苦労して開発したものを惜しげもなく見せて、それで他の会社から信頼を得たことで、非常にうまく機能するネットワークを構築している。

また、中小企業を支援する「金融アセスメント法」の制定に関わった著者が、従来の官僚主導型金融システムから脱却するには、その条件として、「情報の相対化」と「評価の客観化」が大事だと言っている。この「情報の相対化」というのは、情報公開ということで、金融機関を比較したり、それぞれの特徴を把握するのに役立つために意味ある情報を教えてくださいということなのである。前に、ぼくがランキングを発表しろと言ったのはまさしく「情報の相対化」と「情報の客観化」のことなのだ。

ところで、「現場」という意味はどういうことなのだろうか。逆に「現場」でないところってどこなのだろうか。まあ、常識的には生産現場だとか販売現場だとか、ヒト・モノ・カネ・情報のサービスの授受がある接点のところになると思うが、現場重視に舵を切りすぎると、この本にもこんな記述もあるのですが、「これからのあるべき企業は、「経営者が一市民である企業」です」という、おいおいちょっと振れすぎじゃないのかということになる。世の中、「現場」だけで動いているわけではなく「非現場」もあってこそバランスがとれると思うのですがいかがでしょうか。

それはともかく、これからの日本経済の再生のヒントになる論旨でなかなかよく書けていますのでご一読を。

2007年6月29日

伝統的でないトラディショナル

ぼくは最近“ほぼ自宅通勤”だから着るものも、さすがにパジャマでは仕事をしないが、普段着で過ごしている。だから、ここのところしばらくまともな洋服を買っていない。勤めていた頃は、スーツやワイシャツ、ネクタイ、靴下としょっちゅう買っていた。でどんなものを買っていたかというともう決まりきったものにしていた。

色や形、そして買うところもほぼ決まっていた。なぜって、ひとつにはそのほうが楽だからだ。最新のファッションがどんなものか考えるのも面倒だし、だいいち、最近は流行のサイクルも短いから流行を追っかけたら、むだになってしまうから不経済だ。

スーツはグレーか紺でふたつボタンにセンターベント、ズボンはダブルで折り返しが3.5Cm、ワイシャツは白が基本でブルーが少々のボタンダウン、ネクタイはストライプと決まっていて、もう何十年もこのスタイルでやってきた。

ところが、たまに服を見て回ったりすることもあるのだが、昔はだいたい決まった店にいくと同じものが買えたのだが、最近はどうもしばらく行かないでいると、いつのまにかなくなって違ったものが置いてあったりすることが多くなった。

ぼくのスタイルは、いわゆる「トラディショナル」というもので変わらないからというのが魅力でもあるわけで、「トラディショナル」が時代に流されるとはいったいどういうことなんだと叫んでみる。

2007年6月30日

裁判官と裁判員

2009年5月までに裁判員制度がスタートする。この制度はひとごとと思っていると突然「あなたは裁判員に選ばれました」と言って来られる可能性がある。しかも、ちょっとやそっとでは断れないのだ。仕事が忙しいからだとか、どっかに行く予定があるだとか言っても断る理由にはならない。

対象は殺人事件のような死刑とか無期懲役に該当するような犯罪らしいのだが、そんな裁判に参加したくない。被告が生々しく殺人の様子なんかを語るのを聞くわけでしょ。

まあ、なぜこのような制度を導入したのかよくわからない。「国民のみなさんが刑事裁判に参加することにより,裁判が身近で分かりやすいものとなり,司法に対する国民のみなさんの信頼の向上につながることが期待されています」ということだそうだが、ぼくとしては、司法に対する信頼は低下していたわけではない(警察は信頼低下していたが)のでピンとこない。

裁判のスピードアップも期待されているみたいだが、裁判員が参加することで直接的にスピードアップにつながるとは思えない。裁判員を長く拘束できないから早く終わらせようとするため早くなると言われても、それって迅速じゃなくて拙速といいことじゃないの。裁判員になると質問もできるみたいだから、気の利いたことを言えるように勉強でもしておこうかな。

てなことを考えていたとき、下の息子が「裁判官の爆笑お言葉集」(長嶺超輝著 幻冬舎新書)を読んでいたので、読み終えたところですぐに借りて読んだ。

題名だと裁判官の言った笑えるようなお話が一杯出てくるんかと思っていたが、そうではなくて、けっこうまじめだったり、人情味あふれる言葉だったり、個人的な感情だったりして、看板に偽りありの感じであったが、それなりにおもしろかった。それにしても、裁判官というのはしかめっつらでただ判決文を読むだけだと思ったら、いろいろな意見というか、説諭や助言みたいなことも言うのですね。

お言葉をあまり載せてしまうとネタバレになっってしまうので印象に残ったのをひとつだけ。あの池田小学校の児童殺傷事件の被告宅間守に裁判長言った言葉。「科すべき刑は、死刑以外にありえない」。ところが、本の著者はこれに対して、早く死刑にしてくれと言っていた被告に国家がその望みをかなえてやる形になったようだ。ひょっとしたら、こうした被告のようなタイプにとっては、終身刑こそが自分の罪に正面から向き合わされ、最も恐怖をおぼえる「極刑」だっとは考えられないだろうかと言っていたのがすごく印象的であった。

というのは、この本を読んでいるとき、光市母子殺人事件の公判のニュースが流れてきたからである。弁護人に言わされているとしか思えない被告のいい加減な陳述は何をか言わんやだが、そのことはさておき、この裁判の争いは量刑の判断、すなわち無期懲役か死刑かである。そこで先ほどの話が非常に現実味を帯びたことになる。

このとき被害者側の論理としてはどうなのだろうか。本村さんは、別に死刑にしろと言っているわけではないとしているが、やはり気持ち的には死刑にしろといっているわけです。ところが、逆説的に言うと、被告が反省もしていない、そして被害者とその遺族の思いを理解しないまま死刑になることは望んではいないのではないだろうか。だから、死刑を願うことと死刑にすることが矛盾しているような気がする。

もし自分が本村さんの立場になったらどうなんだろうかと考えてみると、当然犯人をぶっ殺してやると思うはずである。だがそれで清算できるかというとそうではないような気もする。それではいったいどうしたら“カタをつけられる”のだろうか。まずは、被告が自分の犯した罪の重さを本当に分かって、その罪を償う気持ちが自然に出てくるまで、そして遺族がそれを納得するまで社会に戻さないこと、そして反省もしない、しかも再犯のおそれがあるなら死刑というのが救いの道ではないかと思っているが、うーん難しい。

もし、こんな裁判で裁判員に選ばれたらどうしよう。こうした注目の裁判だとメディアも騒ぐし、かなり外乱があるから判断がすごく難しくなる。いやあ何か恐ろしくなりますね。たまたま、選ばれた人がみな今回の弁護人のように死刑廃止論者だったってことは起こらないのかな。


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    • 3 やや物足りなさを感じました
    • 4 大岡裁きも悪くない
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