前回、「アグネス・ラムのいた時代」という本を紹介したが、そのなかで、「ロマンポルノの旗手、藤田敏八監督」という章があった。ぼくは、藤田敏八監督にはすごい思い入れがあったので興味深く読んだ。
若い頃三重県四日市で働いていたが、実は藤田敏八の実家が四日市市にあり、そのとき、以前東スポ映画大賞の招待券をくれたQさんの紹介で2回ほどお目にかかって話をしたことがある。炬燵に一緒に入り酒を呑んでいろいろなことを話したことや、映画会を開いて座談会みたいなことをやったりしたことを今でもよく覚えている。
その藤田敏八と長友健二は仲がよかったらしい。どうも1972年に長友が平凡パンチに川村真樹のヌードを載せたら、それを見た藤田が自分の映画に起用したいと言ったことからつきあいだしたようだ。「八月はエロスの匂い」である。その後、「エロスの誘惑」「エロスは甘き香り」でも川村真樹を起用する。こうした藤田の作品は朝日新聞の映画評で絶賛されたのも今から考えるとすごいことだった。
そのころから日活ロマンポルノは活況を呈する。長友が撮った1974年のカレンダーを飾ったポルノ女優の名が、梢ひとみ、小川節子、田中真理、宮下順子、片桐夕子、潤ますみとくればその当時を知る人は懐かしさで涙が出るでしょう。
それでも当時はポルノ女優のなり手なんかいないわけで、主演女優を探すのに大変苦労したようだ。それがだんだん市民権を得るようになると、皮肉なことに最盛期を迎えると同時に転換期を迎えることになる。日活の元宣伝部長植松康郎の言葉、
「認知度が上がり、ロマンポルノに若くてきれいな女優を集めやすくなればなるほど、内容としては薄くなっていった。ドラマの内容が、若づくりになっていく。世の中の風潮が。ロリコン好みに変わっていったせいもありますが、僕らの側としては、女優の変化はロマンポルノ衰退の理由の一つとなりました」
徒花のようなこのロマンポルノの時代は80年半ばくらいに散っていった。ロマンポルノの話に行ってしまったが、藤田敏八は1955年大学卒業と同時に日活に入社して、1967年に「非行少年 陽の出の叫び」で監督デビューする。その後数々の作品を残し、また俳優としても活躍する。
この長友の本に書いてあった彼にまつわるエピソードを紹介する。1971年の藤田の作品「八月の濡れた砂」で日活はいったん、事実上一般映画の製作を中止、ロマンポルノ路線へと切り替わるが、そのときのことを前出の植松康郎の回想。
「最後の作品、藤田敏八監督「八月の濡れた砂」に、エンドマークが入っていないのは、おれたちはもう一度復活するぞという思いの表れだったんです」