「それでもぼくはやってない」では、「疑わしきは被告人の利益に」なるはずが、無実を証明できないため有罪になってしまったが、その理屈を他のところにあてはめるとどうなるのだろうか。
最近話題の「タミフル」は、服用後の異常行動との因果関係は証明されていないが、疑わしいと思える。タミフルの無実だって証明するのは難しいから、なぜ有罪とならないのだろうか。タミフルに冤罪はあるのか。冤罪がわかったとしてもタミフルの失われた人生を返せとなるのか、ならないのか。あるとすれば、タミフルを使用禁止したおかげでインフルエンザで死ぬひとが増えた場合だ。だから、厚労省も薬害と思われるのはいやだからではなく、薬には副作用があるがそれ以上に効能のほうが勝っているから使わざるを得ないとはっきり言えばいい。そうじゃないとなぜ使用禁止にならないのかという声が大きくなる。
そんなことを考えていたら、九州の光化学スモッグが最近増加してどんよりとした空が多くなってきたという報道があった。その原因はどうも中国らしい。中国大陸の工場や車から排出される汚染ガスが飛んでくるようだ。これも疑わしいという話だが、この場合は中国に光化学スモッグの原因がそちらにないことを証明しろもしできなかったら罰するぞなんて言えないですよね。そうなると、疑わしきは罰せずということになり、結局は疑わしいことが闊歩することになる。
と書いてみて、そうなんだぼくを含めて普通の人々は、こころの奥で疑わしくは罰すべきだと思っていることに気がついた。それが、「それでもぼくはやってない」のように冤罪を生む土壌になっていると言ったら大げさだろうか。