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「それでもボクはやってない」と言う前に

昨日、東京に出掛けたので日比谷のシャンテで評判の周防正行監督作品「それでもボクはやってない」を観る。

映画の話の前にちょっと。シャンテは、その場で切符買っても指定席となる面白いシステムなのだ。買うときに“中央は一杯になってきていますので端でもよろしいですか”とか、“隣が空いていたほうがよろしいでしょうか”とか聞いてくる。このシステムって一見するとよさそうに思えるが、よく考えると、普通に自由に販売するのとどう違うのだろうか。切符売り場の座席表で席を選ぶのと、すぐに劇場に入って席を決めるのと差がないと思うのだが、謎だ。

さて、映画の話だが、趣向を変えて裁判風に展開してみる。
(検事) この映画は、ドキュメンタリーを見せられている気がする
(弁護人)日本の刑事裁判の実態を描くにはそういう形式にならざるを得ない
(検事) 映画としては少し退屈になってしまう
(弁護人)裁判を茶化したり皮肉る必要はなく、オーソドックスにリアルに描くことが大事だ。だからエンタテイメントである必要はない。
(検事) 展開が平坦で説明的なセリフばかりでドラマティックじゃない
(弁護人)確かに、法廷のシーンなどは場面変化も少なく、淡々としていますが、それがかえって恐しさを誘発していると考えます。
(検事) 登場人物も類型的で感情的な起伏みたいなものが出ていない
(弁護人)そんなことはない。加瀬亮のいかにも痴漢に間違わされそうな感じとだんだん憔悴していく演技や、裁判官を演じた小日向文世の意地悪そうな表情などすごいと思います。
(検事) このような裁判あるいは裁判官ばかりだと言っているようで、変に誤解される恐れがある。
(弁護人)日本の刑事裁判のシステムの問題であるとか、無実の被疑者を有罪に仕立て上げる制度的問題であるとかを、分かりやすく解き明かすにはある程度断定的な表現はしかたない。
そのための問題提起映画としては意義があると思う。

(検事)そこは同意する。

まあ、こんな感じですかね。でも、テーマの設定、裁判の描写はすばらしくきちんとしていてさすが周防監督と思わせる。

この映画の肝は、「真実は神のみぞ知るはウソだ。オレだけが真実を知っている」というところだと思う。人間って、平気でうそを言う、意識的でなくてもウソを言う。ウソを言っているうちに事実だと思い込んでしまう。(これは、記憶というものが事実だけを記憶するのではなく、覚えておきたいように脚色して記憶するのと同じではないでしょうか) 無意識のうちに自分の有利になる方へ自分の言質を誘導すると思いませんか。

これは、裁判の証言や警察での尋問に限らず、ごく日常的な局面でも起こり得ます。ぼくにはそこの恐ろしさが一番印象深かった映画であった。ただ映画ってなんなのだろうと再び考えさせられる映画でもあった。

映画が終わったのが午後6時ちょっとすぎで、6時半からの呑み会に東京駅の近くまで行かなくてはいけなかったので急いで有楽町の駅から山手線に乗ろうとしたら、この映画のシーンと同じで満員で乗客を押しながら乗り込むはめになった。しかも、前に若い女性が。さて、ここでとった行動は?。まず後ろ向きになる、すなわち背中から乗り込み、右手にはリュック、左手は挙手した形でドア上部に押し当てた。完璧だ。「それでもボクはやってない」と言わざるを得なくなる前に、この備えが必要だったのだ。と映画を観て再認識。それでも、冤罪は起こりえるのかな?

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2007年02月10日 17:49に投稿されたエントリーのページです。

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