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良くも悪くもキムタクの影が

「武士の一分」は山田洋次監督の藤沢周平ものの3作目で、「盲目剣谺返し」の映画化である。どうもこれが藤沢時代劇の最終作になるらしい。

いずれの作品も下級武士が何かのきっかけで平穏な暮らしが壊され、その敵に立ち向かう話で、山田監督以外の作品の「蝉しぐれ」もそうなんだけど、それでいてみんな剣が立つので最後はやっつけてしまうというパターン。これって、飛躍しちゃうけど高倉健のヤクザ映画に似ているっていえばそうなんだ。あるとき、理不尽なこととかイジメやおどしが降ってきて耐えに耐えるんだけど最後は堪忍袋の緒が切れるってことになる。勧善懲悪ものはいつの世でも受けるんだね。

それで「武士の一分」だけどその最後の立ち上がる大儀というか意地というか、そこが“武士の一分”と言うことだそうだ。いまじゃ何というのかな、“サラリーマンの一分”、“教師の一分”、“お役人の一分”なんて言うのかなあ。え、そんなものはないって、だから今いろいろな問題が起きているってわけか。

主人公の三村新之丞を演じたのが木村拓哉だが、結局この配役が映画の評価に大きく影響したような気がする。単純にキムタクのファンや好ましく思っている人にとっては、名演技であり、非常にいい映画であるが、そうでない人にとっては単に人気者を抜擢しただけじゃんという思いがあるような気がする。だから、山田監督は何故キムタクを起用したかが理解できない。

と言っているぼくは評価していないかというとビミョーです。マイナス要素は、いつもテレビに出ていたりして露出度が高いだけ、固有イメージが頭に残ってしまうので、なかなかそれを振り払えないことです。だから、例えば、お毒見役の侍が並んで座っていると中で華やかに光っちゃうし、釣りをしている子供を茶化すシーンもテレビのバラエティを見ているようで、そこが藤沢周平の世界を演じるにはちと気になってしまう。

藤沢周平は名もない武士が平凡で慎ましやかな生活をしている中で起こるできごとを小説にしているので、むしろ反対に歴史上の英雄を描く司馬遼太郎の小説の映画のほうが似合っているのもしれない。

だからと言ってキムタクはだめだというわけではなく、結構がんばっているのであって、名前で損しているところがあると感じたのです。やっぱ、映画に出るひとはテレビやCMにあまり出てはいけませんね。
そう思うと、逆に全然知らなかった檀れいや最近ちょっと売れ出したがほとんど知られていない笹野高史がすごく良かった。

作品としては、さすが山田洋次だからよくできています。この作品は主に東宝の砧撮影所で撮ったものですが、今はスタッフを集めるのが大変なんだそうですね。昔は撮影所に所属するスタッフがいたわけで、山田洋次は松竹だから今はなき大船撮影所には気心の知れたスタッフが大勢いてそのひとたちと一緒に「男はつらいよ」とか「学校」とかを撮っていたのが、今はばらばらになってしまい、今回でも砧撮影所にもいませんから、寄せ集めて作ったそうで、そうした苦労を考えるとなおさら良くできたと言ってやりたいと思います。

それにしてもああ、SMAPのキムタクの影が。

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2007年01月12日 18:31に投稿されたエントリーのページです。

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