重松清の「ナイフ」は、いじめをテーマにした短編が収められている。この本は平成9年に刊行されたものだから、今から9年前の作品ということになる。今読んでみて、このなかに書かれたことが、現実にいま起きていることと同じなのに驚かされる。面白いことに重松清は、いじめに対して家族を特に父親を前面に出して展開している。もうひとつの当事者である教師の視点はほとんど無視されている。
いまのいじめの問題に関して、学校や教育委員会を”いじめて”いるが、それももちろん問題はあるがやはり家庭というか家族のありようがもっとも重要な点であるということなんだと思う。家族が大きく異常に”ゆれる”ためこどもたちが振り落とされているような気がする。これはいじめられる側もいじめる側も同じで、特にいじめる側の家族の問題(育てられ方の問題)が非常に大きいと思う。
いじめと自殺について、良いことを言っているブロがーがいる。このひとある映画のことで検索していたらひっかかったんですが、内容的にもぼくの好みにあっていたるのでよく見ています。その”www.さとなお.com”という有名なブログから少し長くなるが引用します。
だから、自殺が「世間にオオゴトとして取り上げられ」「相手がこっぴどく怒られ」「涙を流して反省もし」「強烈に後悔もし」しかも「自分が悲劇のヒーローになれる」チャンスとして機能している限り、自殺はなくならない気がする。だってアテツケなんだもん。視野狭いんだもん。まぁ個人的体験から言っているので一概には言えないけど。ということは、「オオゴトとして取り上げられない」「相手は涙を流して反省しない」「死んでも悲劇のヒーローになれない」という方向に自殺のイメージを変えれば、少なくとも自殺は減るかも。もしくは「そんな甘美なもんではなくて、すっっっっげーーーー痛いし、死んだあともキレイじゃない」とか。
いまのマスコミの取り上げ方はこの逆を行っているから当分無理。報道すること自体で自殺を助長している。こういう時こそ報道協定を結べないものか。
ぼくもホントそう思う。ここですこし話はそれるのだけど報道するをおおやけに議論すると読み替えてもいいと思うので、この議論することについて考えてみた。ものごとの現象あるいは意見に対して、議論すべきこと、議論すべきでないでないこと、そもそも議論できないものに分かれるのではないだろうか。
いま、マスコミで格好の議論ネタは、いじめと核武装ではないかと思う。いじめは引用文にも書いてあるとおり、報道すべきことではないのです。だって報道してだれのためになるんでしょうか、いいことはひとつもない、かえって煽るようなことになり逆効果である。この問題はひとえに特定の家庭と教室の問題であって、そこでみんなが知恵をだして解決していくことが重要であって、いじめがあった学校の校長が頭を下げる映像をテレビで流してなんの意味があるのだ。マスコミの勘違いもはなはだしい限りだ。
事実を客観的に報道するのがつとめだなんて言うけど、報道は決して客観的にもできないし、事実を伝えることもできない、所詮マスコミが自ら作った「客観的事実」でしかありえない。だから、意図的に”報道しない”という姿勢も必要であると思う。
議論できない問題としては、核武装論議がある。北朝鮮の核実験以来いま盛んに報道されていて、芸能人まで巻き込んでやかましいが、これに対してこのあいだ朝日新聞の星浩さんの記事が秀逸でこれにつきるのではないでしょうか。高村正彦議員の言っていた意見として紹介したもので、曰く、議論というのは両論あってこそその賛否について意見を戦わすわけであって、核武装について言えば、核武装論者がいてはじめて議論というものが成立すののだが、日本の議員のなかで日本は核武装すべきだというヤツはどこにもいないわけで、そもそも議論なんてできないというものであった。
いま、真剣に議論しなくてはいけないのは、「教育基本法の改正」です。衆院委員会を通ってしまったが、多くの時間をさいて議論しつくしたと自民党は言っているが、そうは思えません。肝心な議論をほったらかしていて、”やらせ発言”なんてことを議論しているんですから全く困ったものだ。このやらせ発言の件だって、ぼくから言わせれば、議論する必要がないと思う。だって、重要なことはやらせ発言の結果どうなったかであって、それがが明らかになっていないのに、そこに行くプロセスの話をどうのこうの言ってっもはじまらないでしょうということです。
このようにマスコミがどうでもいことと非常に重要なこととの峻別ができなくなって来ている。ワイドショーならまだいいと言いかけて、待てよワイドショーの罪も大きいかもしれないと思いつつ、マスコミの姿勢がすごく気になる今日この頃です。