リリーフランキーの「東京タワー」を読む。だいぶ遅くなって読むことにしたのは、書評やネットの書き込みでは、号泣ものの小説というふれ込みであったので何となくその手のものは避けていたが、下の息子が読んで部屋に置いてあったので、自分では買う気はないが家にあれば読んでみるかのノリで手にする。最近涙腺がやたら弱くなったぼくとしてはわーぼろぼろ涙かなあと期待?しつつ読んでみた。結果的にはほとんど泣かなかった。なぜみんな号泣するのだろうか。
読んでいる途中でふと”なんじゃこれは”と考え込んでしまった。あのおー、ストーリーがない、情景描写がない、葛藤がない、ない、ない。いや書いてあるんですよ、家族の物語が、東京タワーの景色が、会話が。でも文章を並べてあるだけ、自分史を書いてあるだけ、格言的コピーを間にはさんであるだけ。だからって批判しているわけではないのです。既成概念でいう小説と違うと言っているわけで、リリーさん本人も小説ではないかもしれないと言っている。おもしろいのは、リリーさんの紹介で「文章家、小説家、イラストレーター、コピーライター、作曲家・・・・」となっていて、最初に書いてあるのが文章家なんですね。
そうなんです、この作品は「文章」ということのようですと勝手に思っています。だからぼくには号泣する本ではなかったわけです。つまり、リリーフランキーというひとが自分の家族や友達のことを「文章」にしただけで、そのエピソードがフツーのひとより劇的であったということなのであって、母親に対する愛情や逆に母親が子どもに向ける愛情というあたりは、ほとんどのひとと変わりがないのではないかと思う。それこそガンで死ぬ母親はいっぱいいて同じシーンが繰り返されているので、感動はしますが、そこで号泣するというのはぼくにはよくわからなかった。
繰り返すが否定しているわけではなく、従来の見方では収まらないことになっているようだ。これは、文学だけの世界ではなく他の学問や芸術の世界でも同じような現象だと思う。ブログに代表されるようにだれもが表現するようになり、また他のジャンルとクロスオーバーできる手段が多く出現したということで、多分”同じレベルで共感”できるものが支持される時代なのではないかと思う。ある意味、「東京タワー」はブログ小説なのかもしれない。