2009年07月02日

社名変更

羽生さんの会社が、「スターロジック」から「マジカジャパン」に社名変更しました。そして、社名だけではなく、業容も変わるようです。

システム開発から上流設計というか要件定義の前のところに集中するようです。ですから、マジカが中心になるので社名もそうしたようです。ジャパンと付けたのが心意気を感じますよね。

この変化は、わかるような気がします。羽生さんから直接聞いたわけではないので当たっていないかもしれませんが、ビジネス的な問題と技術的な問題の両面から、今までのやり方の限界を感じていたと思います。

ビジネス的なことで言うと、先ごろ「ギョイゾー!」を出していますがそのことに関してです。「ギョイゾー!」というのはシステム開発の効率化を目指したフレームワークですが、ぼくなんかはすごく認めているのですが、世間はまだなのかもしれません。おそらく、こうした開発の効率化という価値を経済性の観点からちゃんと評価できていないのではないでしょうか。

簡単に言えば、誰がそこにお金を出してくれるかということになります。羽生さんのところは、直接ユーザのところに行って開発するというスタイルですから、お客さん自身が、システム開発を安く仕上げられるということを実感して、それで採用しますと言ってくれなくてはいけないわけです。

その場合、フレームワークそのものがこんなつくりになっていて、こんな技術を使っていますと言っても、そこには価値を見出してくれないわけで、結果としいていいものができたのかという評価しかない。

ところがこれからは次の技術的な問題とも絡んできますが、このいいものであるかどうかは、いかに上流の要求定義が正しくされていたかにかかってきます。そこがきちんとできていないなかで開発をしても、早くできたところでもともとの要求とのギャップがあったら何もならないという結果になってしまいます。

そこで、技術な問題なのですが、ここで言う技術はITではなく、いかに顧客の抱える問題を抽出し、それをどう解決するかを定義して、共有するかという技術のことです。ここなくして、どんないい開発ツールや技法を持ってきても、“必要のないものを正しく早く作ってしまう”ことになります。

たぶん、羽生さんはこのことをまた原点に戻ってしっかりやろうじゃないかと言っているのだと思います。ここのところはぼくも何回も言っているように、ビジネスとIT、事業とITの同期のためには、要求定義技術とシステム開発技術が途切れない一貫性を保つことが重要になります。

とうことで、ぼくも両方とも大事だと思っていて、めざすところは上流の要求定義すなわちビジネスとしてやりたいことを定義するとそれが実装されるということで、それを一緒に考えながらその場でできあがりイメージを見せてあげるというやり方を志向したいと思っている。

ですから、羽生さんにはぜひ「マジカ」で定義するとそのまま「ギョイゾー!」がその業務を動かしてくれるという技法を確立してほしいと願っている。それができると、ユーザが自分の仕事を早くITを駆使して実現し、改善できることの価値を理解してくれるのではないでしょうか。

2009年07月01日

オーバーシュート

古代中国の陰陽思想ではないが、物事は陰と陽すなわち対立した二面性があり、それぞれがバランスして秩序が保たれる。それが片方に大きくずれるとおかしなことになる。

なぜこんなことを言い出したのかというと、日本人は、ある対立した議論が巻き起こるとすぐにどちらか一方にどっと流れてしまうような気がするからである。

メディアのあり方も問題なのだが、個々人で深く考えることを放棄したかのように一方の論に流れる。それだけならいいが、オーバーシュートしてより過激になったりするのである。

ぼくがまだ化学会社にいた1991年に一橋大学の伊丹敬之教授が「日本の化学産業 なぜ世界に立ち遅れたのか」という本を書いたが、一般には知られなかったが、化学業界ではかなりセンセーションを巻き起こした。

内容がどうのということより、その題名からくるインパクトで、業界の人たちみんなが、ああもう自分たちの産業は終わったと思ってしまったのである。まさに、オーバーシュートしてしまった。

ごく最近の話題でも、地方分権が喧しく主張されていて、国民がいっせいにそちらにオーバーシュートしてしまいそうだが、確かに地方へ権限を委譲することは大事なのであるが、それだけすればいいというものではなく、中央集権とのバランスのなかで考えていかなくてはいけない。

もっと言えば、国家のあり方がきちんと議論された上で、そうした国家を機能させるために地方の権限はどこまで、財源はどこまでということにすべきであろう。メディアもすぐに話題性がある知事がわめいているから便乗しているが、そうした根源的な議論を忘れないようにしてほしい。

この中央集権か地方分権化という問題は今に限ったことではなく古代からのイシューである。以前このブログでも紹介した「越境の古代史」(田中史生著 ちくま新書)にも、7世紀ころ九州各地の首長が独自に大陸からの渡来人を受け入れ、王権力が及ばなくなると、それを契機に中華的・中央集権的な国家を樹立したと記してある。王朝名「日本」、王号「天皇」の誕生である。

こうして古来からこの問題は国家の構造として重要な問題で、ここでもでてきたように外交や教育、最近では環境といった問題は中央集権的にやるべきものである。

ですから、今度の選挙では、オーバーシュートすることなくバランスよく議論をしてもらいたいと思うのである。
 

2009年06月30日

要件定義の定義

悲喜子さんのブログで「要件定義に関するモヤモヤまとめ」というエントリーがありました。そのモヤモヤが、「要件定義は業務知識がないとできない?」というのと、「お客様自身は、本当に必要なものを気づけない?」です。このモヤモヤはよく分かるし、いろいろな議論があると思います。

ただ、「要件定義」(要求定義でもいいのだが)といった場合、それが何を意味しているのかをはっきりさせておかなければいけない。「要件」とは文字通り“必要な条件”のことだが、では“誰が必要としている”ことなのか、あるいは“どうしたいから条件を決めなくてはいけないのか”ということです。

ここの定義でぜんぜん変わってしまいます。すなわち、ユーザ側のもつ要件なのか、システム側の要件なのかです。それによって、条件も違ったものになります。

例えば、ユーザ側の要件であれば、ビジネス上あるいは業務遂行上でこんなことをしたい、あんなことができたらというのが要件になります。それは、ITを使わなくてもいいわけであって、むしろITを使わないほうがよかったりする場合もあります。

一方で、システム側の要件というのは、システム(IT)にとって必要なことであるから、システムの載せられるかどうか、システムが持っている機能に合っているかどうかとなります。すなわち、システム化要件という切り口になるわけです。

わかりやすいのはパッケージを使う場合を考えたらいいと思います。パッケージの持つ機能に合わせられるかというのが要件になるわけです。だから、要件定義をフィットギャップだと思っている人もいます。

こうしてみると、どちらも自分の都合のいいように定義しているわけでこれを共通定義にもっていかなくてはいけないと思います。そのときの軸足はやはりユーザ側であると考えています。根本的にビジネスあってのITだからです。ビジネスあるいは業務の要件をそのままITに落とすことができればいいのです。

こうしたとき、悲喜子さんの問いかけが問題になるわけで、お客さんだけで要件定義ができるのかということと、できないならシステムサイドで定義するにも業務知識がないからできないということになります。

それでこの問題は両者とも共通的に言えるのですが、まずお客さんだけで要件定義ができるようにすべきで、先進ユーザはほっておいても自分たちでモデル化できるが、そうではない会社がいっぱいあって、そこには、「何を決めるか」ではなく、「決めてほしいこと」をシステム側が整理してインタビューすればいいと思うのです。

どういうことかというと、ビジネスや業務の構造、オペレーションのし方、管理のポイントなどはかなり標準的なものであると考えています。すなわちパターン化できるわけです。そのパターンを当てはめてその“中身の空白”を埋めるようにするのです。

ここのところが重要で、今言ったことは業務知識がなくてもできるはずです。では業務知識が要るのはどこなのでしょうか。それは、その空白の内容なのです。一番分かりやすいのは「ルール」です。ある意思決定をするのにどういう基準で行うのか、何を制約としてみるのかといったことです。ここは、会社や業種固有の者があり、外部では窺い知ることはできないかもしれません。

しかし、どういうルールで、どういう基準で決め手いるのですかということは聞くことができます。ですから、どういう決め事をどういう順番で流す(これを業務プロセスという)のかを明らかしに、その決め事の“決め方を”一緒に定義すればいいのです。

ですから、別の言い方をしますと、競争優位の源はルールにあり、業務プロセスにはあまりないのではないでしょうか。この競争優位の源、差別化の要因はユーザ自身が自らの手で定義しなくてはいけません。それを導いてやるのがシステム側の役割です。

従って、モヤモヤの答えは、要件をビジネス上の要件とすれば、要件定義でのシステム側の詳しい業務知識はなくても、意思決定のルールを引き出せる程度の知識があればだいじょうぶだし、お客さんが何をしたいかは、空白の箱を埋めていくような形で引き出せばいいのです。もしそれが出てこないようならそのプロジェクトは成立しないのであって、無理やり進めてはいけないのである。
 

2009年06月29日

街場の小経済学その6

いまの政府の経済対策が効果を発揮しているのかよく分からないが、少なくとも将来に悪影響を及ぼすことは間違いないように思う。

前にも書いたように今回の日本の経済危機は、外需依存でやっと支えられていたのが、外需先である米国のつまずきで一挙になくなってしまったからに他ならない。そうなると、もともと弱い内需では、この危機を乗り越える力はない。だからというわけで、無理やりその需給ギャップを埋めるべく内需振興のために14兆円だかいくらかを拠出したのである。

しかし、よく考えてみると、2つのおかしなことがある。ひとつは、あわてて本来ならやらないでいいようなことをやっているわけで、いままでやる必要がないということで予算化できないものもこの際だからやってしまおうというのである。

しかも、国営まんが喫茶と揶揄されるようにまだまだハコモノにお金をつけているのである。やらなくてもいいことをやってどんな効果があるというのだ。

もう一つは、エコ家電だエコカーだとか言って、一気に買い替えを促すキャンペーンをやっている。地デジが何でエコなのかわからないようなこともまかりとおっている。このキャンペーンはいつまで続くか分からないが、いいですか、これが一巡したらそのあとどうなるのでしょうか。

もうしばらくは自動車も家電も買わなくなりますよね。そのときはどうするのでしょうか。景気が回復して輸出がどんと増えているとでも思っているのでしょうか。

よーくみていくと、この経済対策というのは、特定の産業の製品に対する過剰消費を煽っているだけなのです。もうこれ以上そんなにほしくないのにものを買えと言っている。スーパーではやっている不用品を下取りしてくれるやつだって、そのまま使えるものまで買い換えるのである。モノはあふれ飽和しているのにさらに買えと促している。


結局、内需だけで食っていこうとすると「過剰の経済」でやっていかざるを得ないのだが、そんなことはありえない。過剰はすぐに限界が来て後は先細るだけだから、北朝鮮になってもいいというならいいが、そうではなかったら、グローバルのなかで生き抜いていかなくてはならない。

そう思うと、昨日も書いたが、“コト”をつくれない日本の将来に暗澹たる気持ちを抱くのはぼくだけだろうか。

2009年06月28日

ものつくり敗戦

わが国ではまだ、「ものつくり」立国を主張する人がいるが、そのときの“もの”が従来のような“ハコ”、すなわちハードをさしている場合が多い。本当にそうなのだろうかという疑問を抱いていたので、その疑問に答えてくれそうだったのでこの「ものつくり敗戦」(木村英紀著 日経プレミアシリーズ)を読む。

わかりやすいように目次を示すことにする。

序章  日本型ものつくりの限界
第1章 先端技術を生み出した2つの技術革命
第2章 太平洋戦争もうひとつの敗因
第3章 システム思考が根付かない戦後日本
第4章 しのびよる「ものつくり敗戦」
終章  「匠の呪縛」からの脱却―コトつくりへ

こうして書くとこの本の文脈がすぐに分かると思います。すなわち、大きな流れでいうと、ある時期強いと言われた日本のものつくりも第二、第三の科学革命を経て変化する波に乗り切れないでいる。

いまでも象徴的なのは、ハードウエアからソフトウエアの時代になってきているのにソフトウエアの技術をもっていないのである。このことは、ぼくが今いる世界であるITもまったく同じで、ソフトウエアの技術はほぼ欧米からのものに依存している。

ここで出てきた第二の科学革命というのは、その前に第一というのは、ガリレオ、ニュートンらによる近代科学の確立であるが、そのあとにおとずれた大量生産、大量消費生んだ科学と技術の結びつきである。

そして、第三の科学革命は、これまでの自然科学とはちがって人工物を対象とする科学の登場である。そして、第三の科学革命の申し子が「システム」なのである。

こうした変化に対して、日本のシステム技術あるいはシステム思考力は欠如していたために、太平洋戦争における敗戦もここに負うところも多かったのだ。

では、戦後にそうしたことが改められたのかというと、そのままずっと以前の労働集約型モノつくりに固執してきたのである。もうこうした労働集約型技術は成立しないのだ。機械からシステムへの移行が第三の科学革命なのに、機械を道具のように使うという逆の方向に目がいっているのである。

なぜそうなったかは、かなり難しい問題で著者も数学を教えなくなったこととか論理的な思考訓練がなされていないとか言っているが、それだけではないような気がする。

たしかに、著者が指摘するように日本は「理論」「システム」「ソフトウエア」が弱いが、そこをどう底上げしていくのかみんなでよく考えていく必要がある。

この本は、そうした問題の所在を明確にしてくれて、大切な問題提起をしてくれていると思う。良書である。皆さんもぜひ読んでください。
 

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    • 3 理論科学者がみた科学史と日本人論
    • 5 やはり教育が重要である
    • 5 コトつくりが出来なければ日本は没落するらしい
    • 5 「ものつくり」信仰への一石
    • 5 「理論」「システム」「ソフトウエア」が大切
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2009年06月27日

おっぱいバレー

銀座パトスで、“おっぱいバレー、シニア1枚”というのが恥ずかしくて下を向いて入場券を買う。そうしたら、売り場の女の子が大きな声で“はい、おっぱいバレー、シニア1枚です”と大きな声で言う。こうして、そそくさと入場して、その「おっぱいバレー」を観る。

正直面白かった。タイトルとはちと違うがまじめな映画なのである。単純だといえばそうなんだが、思わず涙をこぼしてしまった。

教育とは、先生と生徒とはといったベタで根源的な問いに答えているのである。物語は、北九州のある中学校に綾瀬はるか演じる女教師が赴任してくる。そこで、男子バレー部の顧問に就くのだが、このバレー部は練習もしないし、部員も5人しかいないというダメ男子の集まりでなのである。

そして、中学生の男の子なら誰しも夢見る“おっぱい願望”で頭の中がいっぱいなのである。そんな、中学生に対して大会で1勝したら先生のおっぱいを見せてあげると約束してしまうのである。さあ大変、それから彼らは目の色を変えて練習に励むというお決まりのストーリー。さて、その結末は?

この設定は、誰しも興味をそそりますよね。そして、その間に教師として悩む姿が自分の中学生時代とダブって映し出されて、生徒とともに成長していくのである。

そんな不純な動機で生徒を扇動するものではないと思うかもしれないが、鰯の頭も信心からではないが、やる気が出るきっかけなんてものは何でもよくてモチベーションがあがればいいのかもしれない。それが、中学男子は“おっぱい”なのだ。

思い起こせば、ぼくらの中学生時代も似たようなもので、道程イコール童貞という妄想ばかりで、経済性と聞いただけでええ“性”だといってにたりとしていた。そして、在日の友達の家は、いつもお母さんが働きに行って留守なので、昼間なのに雨戸を閉めて、二人で「映画の友」を開いておっぱいを拝んでいたのである。それが、何のモチベーションになったかは忘れたが。

この原作は実話にもとづいているらしいが、時代設定が昭和54年で場所も北九州であるから、確かにありそうな話である。それで考えるに今の都会でこんな物語が成立するのかと気になる。昔から、先生は出来損ないの子が可愛いものなのだ。ひょっとしたら、現代の先生は頭のいい子が可愛いのではないだろうか。

まあ、綾瀬はるかの映画のようであるが、ぼくはちとこの女優さんの能天気さがひっかかる。この映画でも最初に赴任したときはまだ未熟な教師という演技はそのものずばりみたいなのだが、だんだん成長してそれなりのプロになるといった感じが出ていないのだ。ずっと未熟な教師で終わっている。他の作品でもおしなべてそういう演技なのである。可愛さだけでというのもそのうち通用しなくなるのでは。

2009年06月26日

ビジネスの言葉で考える

さて、これから「再びビジネスとITを語ろう」というテーマで書いていきます。まずは、ビジネスの言葉で考えることの大切さをみていきましょう。

昨日もBPMという言い方をやめようと言いましたが、システムの言葉だとどうしてもビジネスの実相から離れてしまうように思います。ERPを入れること、CRMを入れること、Sales Forceを使うことといったところが目的化してしまうからです。

その原因は、ユーザ側もシステム側も両方に責任があると思います。ユーザ側では、自分たちで自らの業務プロセスをデザインできないでいることです。もちろん、一部の先進ユーザはできていますが、大部分は業務のデザインができていないのです。

目の前の局部的な業務は自分たちの方言で説明できるのですが、特に業務全体、あるいは会社の事業執行における位置づけなどといったところのデザイン力が弱いように思えます。俯瞰力がないという言い方かもしれませんが、要は全体を見渡せる力がないように思うのです。

従って、システム側に事例を示してもらうとか、パッケージの機能から説明してもらうとかしないと自分たちの業務を整理できないのです。

一方、システム側はすぐシステム機能の話をします。どの機能を使おうかというアプローチになります。業務の構造とか組織の機能とかいった観点の深堀ができないというか、しようとしないことがあります。

それは実際にその業務の経験がないからということもあるのですが、その固有性や特殊性に目がいってしまい、無理だと思ってしまうのです。

ところが、別の角度からすなわち共通性とか、標準性といった見方で見ていくと、基本的な骨格はパターン化でき標準化できることがわかります。

ということで、現状では双方が自分たちだけで通用する言葉で語っているためにお互いを理解できないという齟齬が生じているのではないでしょうか。

そのために、ビジネスの要求としてビジネスの言葉で提示した与件がシステムの実装になったときにシステム側の都合のいいように歪曲されてしまうということが起きているような気がします。

いまこれだけ技術が進化し、実現機能も多種多様化していることを考えてみると、ビジネスの言葉で表現した仕様がそのまま実装されていくというのは、できない話ではないと思うのです。

そのためには、ビジネス側はみんながわかるような平易で簡潔なデザインをする必要があります。ここでいうデザインとは簡単にいえば、個人の仕事および業務プロセスのオペレーションスタイルを作るということです。

質の高い仕事を迅速にこなすためのスタイルをデザインし表現できることが大切です。それは、楽しく仕事ができるにはどうしたらいいのかに対する答えになるように思うのですがいかがでしょうか。
 

2009年06月25日

再びビジネスとITを語ろう

BPMという観点で語っているが、やめようかと思う。なぜかと云うと、それだと何かはやりもののことをしゃべっているようで、本質から外れるからである。

だから、業務システムをどうやって作っていくかということから考えいこうと思う。多分実はそこが大事で皆そう思っているが、新しい技術やサービスは出てくると、どうしてもそこに引っ張られて、それがビジネス的にどうなのかという風に考えない。新しい物がいいものだと錯覚する。IT一つでビジネスなんてそう簡単に変わるわけがない。

業務システムって本質的には何も変わっていない。しかし、業務システムが“本質的にどういうものなのか”ということを議論していないことや、そこのフィロソフィーがない中でITの適用を議論するから、変なところに行ってしまう。

あくまでビジネスありき、ユーザありきです。だって、ビジネスやユーザに貢献できないシステムを作って何になるのですかということです。こういうことを言うとすぐにビジネスの経験がないからとか、ビジネスをやっている人がちゃんと仕様をかいてくれなければできないよという声が聞こえてきそうだが、そうだろうか。そんなことを考えてクリエイティブなことができた人がいただろうか。

ということで、これまで書いてきたことが中心となるが、もう一度本質的な立ち位置に戻って、ITというものが、実際のビジネスあるいは個人の仕事にどう貢献できるかどうかを考えていこうと思う。実は、ブログで書くということは、書いたら終わりではなくて、しつこく同じことを書くことも大事なような気がするのだ。

ということで、これから繰り返しになるかもしれないが、新たに読者になった人もいるし、もう一回確認したい人もいると勝手に思って、しつこく経営・事業とITのことを語っていこうと思う。

2009年06月24日

トウキョウソナタ

昨年のカンヌ国際映画祭で「ある視点」部門の審査員賞を受賞した黒沢清監督の「トウキョウソナタ」を観る。この作品では、ばらばらとなった家族がやり直しができるかといったテーマで、日本のどこにでもありそうな家庭を描いている。

そうした風景が海外でも通じるのだとちょっぴり意外であった。しかし、よく考えてみると、家族の崩壊と再生は世界中の共通のテーマなのかもしれない。

家族は夫婦と大学生と小学生の男の子二人の4人家族が舞台である。親父はある企業の総務課長なのだが、ある日、総務の仕事を中国にアウトソーシングすることになって会社を辞める。

再就職しようにも、求人先の面接であなたはわが社にきて何ができるのですかと問われ、まわりとあわせるのがうまいとか、カラオケですと答えて、これでは再就職もおぼつかない。しかし、失業したことを家族に内緒にしているのである。

同じように失業中の高校時代の同級生が登場するが、ウソの電話で自作自演の演技をする。このエピソードはこんなご時世だから非常にリアルで身につまされる。

だから家に帰ってもギクシャクというかしらけた雰囲気で各人が勝手に振舞っているのである。この家庭の有様もぼくのうちも同じ家族構成なので多少似通ったところがあるが、唯一わが家はお互いに隠しごとだけはしないというのが救いでもある。え、そう思っているのはぼくだけ?

家族というものの崩壊というのは、親たちの“こんなはずではなかった感”と子供たちの“いかげん親のエゴはやめてよね感”の葛藤で、親たちはやり直せないかと悶えるのである。

夫婦役が香川照之と小泉今日子で、この二人はいまや引っ張りだこなのだそうだ。今回もぴったりで、香川照之のリストラされてもがき苦しむ表情、小泉今日子の思いっきりの開き直りの表情がなんとも印象的であった。

ともあれ、黒沢監督の光と風の使い方がすばらしい演出もみごたえがあり、堪能できる作品に仕上がっている。
 

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    • 4 戯曲が映像になったかのような
    • 5 とてもクールなコメディ映画
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    • 5 素晴らしい作品
    • 5 希望の朝
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2009年06月23日

少しは理系の頭で

こう見えても僕は理系出身なので、つい合理的な思考というか、理屈はどうなっているのだろうかという頭で考える。以前にも「情緒から論理へ」と「浅い論理的思考」で書いたことの延長の話ですが、新聞やテレビの話題に理系の人がちゃんとチェックしているのかと思わざるをえないことに出会う。

ここに二つの例がある。ひとつは、いささか古くなったが経済産業省が発表した「対象のエアコンや冷蔵庫、テレビは10年前に比べ省エネが約40%進んでおり、二酸化炭素(CO2)の排出量を年約400万トン削減。」というニュースである。

これを読んで、なんとも単純な計算でびっくりした人もいたと思う。まず、みんな10年前の製品の買い替えなのか、容量は変わらないのか、新たな製品の製造や流通のときに出たCO2はカウントしているのか、といった疑問がすぐに出てくる。マクロで考えると売り上げが伸びて雇用を創出できたらいくら省電力の製品を作ってもCO2は増えます。

もうひとつは、電気自動車です。これも単純にガソリン車から電気自動車に変えるとCO2が減るというのもよく考えてみる必要があります。電気を作るのに火力発電だとたっぷりとCO2を出すわけで、電気自体で排出しなくても、発電所で排出しているのです。

乱暴なことを言うと価格に反映されていて、エネルギー単位あたりの価格が高ければそれだけCO2の排出量も多いのです。分かりやすいのは、電気ストーブと石油ストーブを比較することでしょう。灯油のほうがかなり安いですよね。ですから、同じエネルギーを出そうとすると電気ストーブの方がCO2をたくさん出しているのです。

ただこの場合の増分の電気を火力発電という前提を変えると、すなわち原子力発電や水力発電だと話が変わります。これらはわずかしかCO2を排出しませんから、この発電所からできた電気を使えばCO2は出ません。

ですから、正確に言えば、原子力発電でできた電気を使う電気自動車は温室効果ガスは出さないのです。それを、原子力発電所の新規建設なしで電気自動車を走らすと環境を悪くするのである。環境推進派の人たちは原子力発電を推進しなくてはいけないのだ。

目先のことだけではなく、全体のサイクルを見るとか、深く突き詰めて考えるとかの態度が必要な気がする。このあたりはまだまだ情緒的な言論がまかりとおっているようだ。
 

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