2010年03月12日

しあわせの隠れ場所

この作品で第82回アカデミー賞主演女優賞をサンドラ・ブロックが受賞した。「しあわせの隠れ場所」である。サンドラ・ブロックといえば、「スピード」の印象しかないのだが、そういえば初受賞である。

作品は、実話に基づいたもので、ホームレス同然だった黒人少年を助け、プロフットボール選手にまで育てた家庭とその黒人少年の物語である。サンドラ・ブロックはその家庭の母親役を演じて、その優しさ、明るさ、強さなどを見事に表現した。

この黒人少年こそ、全米で誰でも知っているスター選手マイケル・オア―である。といってもぼくは知らなかったけど。フットボール派でもなく、ラグビー派でもなく、サッカー派だから。しかし、映画はこのフットボール選手の出世物語のようであるが、実はそうではなく、彼の後見人となった家族の物語であると思う。

もちろんその家族の中でもサンドラ・ブロックの母親が主役なのだが、ぼくはむしろその夫と二人の子供のほうに興味を持った。この家族は、いくつものレストランチェーンを所有する金持ちで、大邸宅に暮らしている。そんなところに黒人でしかも戻る家もないような少年を迎え入れたときにどう反応するかである。

最初はどうしても偽善的な臭いがするわけで、特権意識的な感覚で接しているうちに徐々に本当の“家族愛”に目覚めていく。その過程で、妻の気まぐれ的な行動ともとれることに対して、ティム・マッグロウ(このひとカントリーミュージックのスーパースターなんですね)演じる夫が実に寛容で包容力を発揮するのである。

また、リリー・コリンズ演じるその黒人少年と同級生となる娘は、学校での変な目線をはねかえすこの母親にしてこの娘ありといった勝気な女の子なのである。男の子は、おしゃまで可愛く、それをジェイ・ヘッドが見事に演じている。すごい子役である。

ということで、もう完璧な家族すぎて、かえって違和感を覚えてしまうが、アメリカの田舎の倫理観のある裕福な家庭というのも実際にあるのかなあと思える。家族というものを深く考えさせられるいい作品であった。

2010年03月11日

業務システムの再定義-まとめ(11)

Whatを効率的に構築するためのHow(技法・作法)を考える-その1

さて、だいぶ寄り道をしましたが、今回からはHowの話になります。これまでは、Whatを主体に議論してきましたが、そのWhatをどのようにして作っていったらいいのかいうことです。このHowはWhatによって大きく違ってきますので、初めにきちんとWhatを決めておいたわけです。

Howから入っていくと、似て非なるものや同じものを繰り返して作ったりすることになります。あるいは、人によって作り方も変わることにもなります。従来型のシステム開発は逆にこうしたやり方をベースにビジネスモデルができていたのです。すなわち、人を抱え、その人たちに仕事を与え、その工数で売り上げるというモデルですから、再利用性を高めたり、標準化して開発生産性を上げるインセンティブは乏しいわけです。

話をもとに戻しましょう。これまでのWhatの議論で導かれたものは、パターン化できるものはパターン化して、できないものは、その部分を謂わばブラックボックス化するという考え方です。マクロフロー部分(アクティビティの流れ、LAPでいうHappy Path)は定型的なのである程度パターンとしてもつことになります。

一方、ミクロフロー(アクティビティの中身、Ontologicalなふるまい)では、人間系の要素が入り込むので定型化できないので、情報共有の場というあいまいさを許容したものにし、そのインターフェースをきちんと定義して取り合うことにしています。

ということで、アクティビティの粒度とプロパティを定義しておけば、業務システムは、そのアクティビティの置き方(構成や順序)とその機能とUIを作っていけばいいことになります。

もちろんこれだけの簡単なことではありません。アクティビティの機能といっても様々ですから、それをどうやって作っていくかも問題になります。ただし、このときでも要件に対していちいちコードを書くのではなく、コンポーネントという考え方をとることが重要です。

アクティビティもコンポーネントの一種で、ビジネス機能コンポーネントと呼べるものになります。それ以外にも、システム機能コンポーネントがあります。例えば、バリデーション、検索、印刷、アカウント管理、メール送信とかいったものがそれです。

そう言うとおわかりだと思いますが、こうしたコンポーネントは一度作ったら使い回しができそうだ、あるいはどこからか持ってくればいいといったことが思いつくことでしょう。ですから、究極的にはレゴ細工のように組み立てていけばいいのです。

結局、以前に提示した4つの道具を使ってどういう業務システムを作るのかというのとその道具をどうやって作るかになります。

さて、前置きが長くなりましたが、次回からそのあたりの具体的なHowのことを議論していきます。

2010年03月10日

ハッカー

ハッカーというと、サイバー攻撃をする人みたいに思う人もいるかもしれないが、そういう人はクラッカーと言って区別する。そうではなくて、スーパープログラマーのことである。ギークと言うこともある。

先日、そんな人のすごさを目の当たりにした。いま、「Kailas」のブラッシュアップで牧大輔さんというハッカーと一緒に仕事を始めた。牧さんは、Perl技術の普及を行うJPA(Japan Perl Association)という団体の代表理事をつとめ、またendeworksという自分の会社を経営している人でまだ若いのにしっかりしています。

それで、このあいだうちの社長と一緒に渋谷の牧さんの会社にお邪魔して、現状のKailasのコードを見てもらったので、そのレビューと今後の進め方みたいなことで打ち合わせを行ったのだが、びっくり仰天した。

何が驚いたかと言うと、こちらの仕様とか要望を口でしゃべっていると、すぐそのまま擬似コードを書いてしまうのだ。それも単にそのまま書いているのではなく、設計から構成から全部即座に頭の中でやってしまっているのである。ぼくは、これにはただただ茫然とするだけであった。

どうみても、口でしゃべるよりコードでしゃべる方が早いし正確のようなのである。とんでもないことを見てしまったようで、帰りに社長と飯を食いながら、知らず知らずにすごいすごいを連発していた。このすごさは、並みのプログラマーが10人かかれば勝てるなんて次元ではない。何人かかっても届かないのだ。だって、できるものが違うから比較できないのだ。

これを見ていると以前から言っているように、コアなコンポーネントはこうしたスーパーギークにさくさくっと作ってもらい、それを使ってシステムを組み上げるのが最も効率的で質の高いものができると確信した。

社長が話していたが、若いプログラマーはこういう人をみたらきっとみな憧れるだろうと思う。そうなんですね、無条件にかっこいいから、こういう人をロールモデルにして、自分を磨いたらいいのではないだろうか。これはこの世界だけではなくどんな世界でも通用することなのだが。

ちなみに、4月に「カジュアルPaerl」のイベントとして「Perl初心者向け勉強会」で牧さんがライブコーディングをするそうですから、ぼくが感動したことを味わえますよ。
 

2010年03月09日

Kailasの基礎理論-その5

Jan DietzのEnterprize Ontology

さて、最後のEnterprize Ontologyについてです。これについては最近聞いたもので後付けの理論です。しかしながら、共鳴部分が多いので勝手に基礎理論であると言っているのです。もちろん、全部が同意できるかというとそうでもないところもあるが、体系化、モデル化してあるので分かりやすということは言えます。

DEMO理論のエッセンスをみていきましょう。まずは、企業活動についてオントロジカルな側面を重要視していることです。ではそうではない部分は何かというと、データ転記のような単純処理であるデータロジカル、計算や加工といった意味付与を伴う処理であるインフォロジカルな活動です。

従来の業務システムは、このデータロジカルとインフォロジカルを主体とした「情報処理システム」であったのです。ところが実際の企業活動は、そうしたものだけではなく、オントロジカルなものが重要であるわけです。

では、そのオントロジカルとは一体何のことなのでしょうか。Ontologyを辞書で引くと、存在論とか本体論という風になっています。よくわかりませんので、コンピューターの世界の話にします。ここでは「知識を共有するために、物事を体系的に分類したり、物事の間の関係性を記述する」ことを意味するとなっています。言い換えれば、「異なる語彙間の関係性を定義する」、もしくは「人間が理解している物事の関係性をコンピューターにも理解できるように表現する」ことだそうです。

それでもよくわからないところがありますが、人間のやることは表層的に現れるもの以外に深層にある文脈的なものがあって、そうしたものはこれまでのコンピューターでははじかれていたのをコンピューターに乗せようという動きです。その概念的なモデルとしてLAPにもとづく会話モデルがあるわけです。

さて、つぎにDEMOにおけるいくつかのモデルについて見ていきます。まずは階層化という概念があります。体系というのは簡単に言うと縦横の関係を整理した構造のことですので、この階層化という概念は重要です。

ここでは、プロセス-活動-行為(活動+意図)になります。例をあげて言うと、「請求から支払い」があると、その全体がプロセスになります。そして「支払い」が活動ということになり、「支払、要求」や「支払、約束」などの行為があるということになります。

そして、DEMOでは5つのモデルが提示されています。

 ■相互作用モデル:活動(行為の連鎖)、アクター、活動の結果の関係
 ■相互束縛モデル:活動、行為者、外部情報ソースの関係
 ■プロセスモデル:行為、アクター、活動間の関係
 ■行為モデル  :個々の活動の内容
 ■データモデル :オブジェクト、属性、データ型

初めの相互作用モデルと相互束縛モデルは合わせて構成モデルと呼ぶことができます。これらは分子レベル構成要素としてのモデルで、原子レベル構成要素としてプロセスモデルの中身があります。

そして、これらの関係を分かりやすく図示したのが前にも提示した次の図です。(ステートモデルはデータモデルと読み変えてください)いかがですか、これを見て従来の”情報処理システム”ではなく、人が業務を遂行(意思決定)するための活動をちゃんと記述して、そのように動く仕組みと仕掛けが必要になると思いませんか。

ただ、何となく難しそうな理論になっていますが、そんなに難しいことなのでしょうか。人間の行動って理屈ではないわけで、それを理論立ててもなかなかうまくいかないような気がします。それよりももっと簡単に考えて、人間が合理的なアクションを起こせるようITでお手伝いしますくらいでいいのではないでしょうか。

ontology.bmp

  

2010年03月08日

インビクタス/負けざる者たち

この映画は、1994年に南アフリカ共和国の大統領に就いたネルソン・マンデラと同国のラグビー代表チームキャプテンのフランソワ・ピナールとの1995年に自国開催されたワールドカップへ向けての交流を描いたものである。

監督がクリント・イーストウッド、マンデラ役がモーガン・フリーマン、ピナール役がマット・デイモンという布陣。3者の持ち味を出した秀作に仕上がった。何と言ってもマンデラにそっくりなフリーマンの演技が光る。実際にマンデラから主演を熱望されたようだ。

このストーリーは実際にあった話なので迫力がある。主題は、アパルトヘイトに反対したため、27年間も投獄されていたマンデラが出所してすぐに初の黒人大統領になったときの彼の振る舞いにある。それは当然、獄につながれた復讐を予想されるが、彼は復讐ではなく「赦し」を選択する。

ここがすごいところで、昨日書いた「人間の器量」という意味で大きな器量をもっていると言える。自分の内部になかろうはずのない怨念を捨て、膚の色や言葉の違いを乗り越えて国民が一つになることを希求したのである。

こうした、シンボルとしてラグビーのワールドカップを活かしたのである。スポーツイベントは、ラグビーもそうだが、サッカーにしてもオリンピックにしても国威発揚の場になっているが、この南アフリカのことは、政治的な色彩が濃いのだが、混乱あるいは過渡期であったがゆえに非常に効果的であったのだ。

さて、クリント・イーストウッドである。このところ、老体にムチ打って「チェンジリング」、「グラン・トリノ」。そしてこの「インビクタス/負けざる者たち」と立て続けにいい作品を送り出している。映画を知り尽くした監督という感じがする。ただただ感服する。

ただ、ちょっと言わせてもらうと、時間の制約があったかどうか知らないが、すこしばかり雑なところが見受けられたのだ。むだなシーンがあったり、最後に試合に勝つところまでの盛り上がり方が不足していたように思う。

そんなことを言っても、作品全体はすばらしく、アカデミー賞の主演男優賞候補にもなっているモーガン・フリーマンがはまり役であるということもあり、ぜひ観てほしい映画であった。
  

2010年03月07日

人間の器量

最近の政官業学のどれをとっても小粒な人間ばかりになっているとぼくも思っていたら、それを嘆く本が出た。「人間の器量」(福田和也著 新潮選書)がそれだ。人間の評価を器の大きさでみようというものだ。

近頃では、人間を測るのに、偏差値とか、学歴とか、資格とか、業績で見ることが多い。しかし、それも重要だがそれだけではない。そこにもちだされたのが器量ということで著者はこれについて次のように言っている。

器量とは、一つの地位とか、能力とか、資質を指しているわけではありません。 これが難しい。 とてつもなく有能であっても、それだけで器量があるとはいえない。 もっと全人格的な魅力、迫力、実力があってはじめて器量があると認められる。 器が大きいと認められるわけです。 しかも器というくらいですから、その内容は変幻自在なのですね。 水も入れば酒も入る。油だって毒だって注げるわけです。 善い人とか、悪い人とか言うような単純な区別はつけられない。 水だと思っていたら、いつの間にか、酒になっているかもしれない。 善悪、良否の敷居をこえてしまうような人間観、その物差しとして器がある。
これを別な言葉で言うと、高い低いという見方ではなく、水平的な広がりをもって評価しようというのである。そして、なぜに今の日本人はこんなに小粒になってしまったのかと著者は嘆くのである。

ということは、以前の日本人にはそういった大きな器量をもった人がいたということになる。そういう先達として、明治、大正・昭和戦前、戦後から今日までの3つの時代での器量人十傑をあげているので、それを見ると著者のいう器量人とはどんな人であるかが分かる。

 【明治】
 ①西郷隆盛 ②伊藤博文 ③勝海舟 ④大久保利通 ⑤横井小楠 ⑥渋沢栄一 ⑦山縣有朋 ⑧桂太郎 ⑨大隈重信 ⑩徳富蘇峰
 【大正・昭和戦前】
 ①原敬 ②高橋是清 ③菊池寛 ④松下幸之助 ⑤今村均 ⑥松永安左衛門 ⑦鈴木貫太郎 ⑧賀屋興宣 ⑨石原莞爾 ⑩小林一三
 【戦後から今日まで】
 ①岸信介 ②田中角栄 ③小林秀雄 ④小泉信三 ⑤山本周五郎 ⑥田島道治 ⑦本田宗一郎 ⑧吉田茂 ⑨宮本常一 ⑩石橋湛山

うーん、何となくわかるような気がしますね。清濁合わせて包みこむような大きさが感じられます。だから、中には、いまの世の中だとすぐにマスコミや世間に叩かれてすぐにつぶされてしまうかもしれないような人が入っています。器量人を育てるには器量の大きい国家・社会がいるのかもしれません。

この器量というといま並べた偉人にしかないかというとそうではなく、普通の人にももちろんそれなりの器量があった方がいい。では、なぜそれが必要なのかということに対して、著者はこんなことを言っている。究極的にはこのことだとぼくも思う。

死だけは、平等に、誰にでも到来するのです。 死んで動かなくなればすべて終わり。 その終わりにむかって、その道程の長短はあれど誰もが歩いている。であるとすれば、その道程を出来るだけ充実させるように励み、試み、考えるしかありません。動けなくなるその時を、死を、見苦しくなく、なるべく思い残すことなく、迎えるために。 そのために、器量を育てる、大きくする事が必要なのです。
  
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2010年03月06日

対立と排除

以前、最近の若者は空気を読むようになってきたという話をした。ケータイを通して新しい村社会を形成し、そこで村八分にならないように、空気を読む術を身につけたのだという。そのためには、自分とは違ったキャラも演じるらしい。

そこに働く心理は何なのだろうか。人間関係がぎくしゃくするのがいやだから、極力争わないようにふるまうのだろうか。それは、対立というコンフリクトを嫌うということだろうが、どうもそういうことではないような気がする。

ぼくらの世代だと、この対立というのが異空間に向かっての接し方であったと思う。セクト間の争い、新旧の戦い、イデオロギー論争など、そうした対立的関係性が強かったが、それはそれで意外と仲間意識ようなものも維持されていて、村八分的な思いは少なかった。

いまの若者はこうした対立的な空気も嫌っているだろうが、むしろ“排除”されるのが恐いことが大きいのではないだろうか。ぼく自身の経験から言っても、けんかするのはどうってことがない場合が多いが、いちばん堪えられないのは排除されることのように思う。

あなたの言っていることは私とは違うと言われても何でもないが、“あなたは必要ない”と言われた時の衝撃は大きいものがある。これは、この瞬間に関係性の糸がぷつんと切れてしまうのである。この糸を切らないように空気を読みながら、排除されないようなキャラを演じ続けているのではないだろうか。

あの秋葉原の通り魔殺人の犯人もおまえは必要ないと排除されたことで疎外感をぶつけてしまったのかもしれない。いじめもこの排除の陰湿さによるのだろう。格差社会と言われるなかで、その格差を生んでいるのが「排除の論理」でないこと祈るのである。

格差がまだ対立的な概念のもとにあるのだら救いがあるように思う。もっと言えば、そうした格差があるからチャレンジができると言えないこともないのである。差をのり越えていこうという精神は大事な変革のエネルギーになる。

ところが、それが排除の概念のもとにあると、そこを打破するのは並大抵のことではない。あなたは必要ない人間だとなったとき、新たなまともなエネルギーが生まれてはこないだろう。そこは、閉じこもるか、暴発するかになってしまう。

だからぼくは、ずっと「あなたは必要ない」という言葉の暴力は絶対しまいと誓っているのである。

2010年03月05日

のんちゃんのり弁

「いつか読書する日」の緒方明監督の作品「のんちゃんのり弁」を観る。主演は、小西真奈美で、子持ちの30歳前半の主婦がだらしない夫と別れて弁当屋を始めるまでを演じる。

題名からもそれほどシリアスさは感じないし、軽い映画かなと思っていたら、いやいやなかなか面白かった。大上段にふりかぶるわけでもなく、ごく日常的な風景の中で、しかし、なにげなく世相の問題もあぶりだすのである。

主人公の主婦は、ある日作家志望だという夫に離婚届けを置いて家を出て行ってしまう。どうにもグータラな亭主に愛想をつかしたのである。幼稚園の娘を連れて、下町の実家に戻るのだが、母親はそんな娘を甘やかすわけではないので、とりあえず働かなくてはいけない。

ところが、32歳の出戻り主婦がそう簡単に就職口がみつかるはずがなく、しかたなしに水商売にも手を染めるが、すぐに辞めてしまう。家を飛び出したはいいが、女手ひとつで育てていく大変さを実感するのである。甘いといえば甘いのだが、おおかたの人も同じように気楽に考えていて、いざその境遇にさらされるとその厳しさが分かるのではないだろうか。

そんな彼女のまわりに同級生の写真屋の息子が登場して、いいところまで行くがその男はやがて去って行ってしまう。(緒方明は「いつか読書する日」もそうだが、同級生同士の恋が好きだなあ)そして、さらにしつこくつきまとう元夫が絡んで展開する。この前の旦那とのけんかのシーンはすさまじく迫力がある。

で結局、その辺の周囲の温かい助けなどもあり、幼稚園児の娘に作った弁当が好評であったことにはたと気づいて弁当屋をはじめることになる。こうして書いていくと、どうということがない物語のようだが、何といっても小西真奈美演じる主人公が、明るくのびのびしているのが好感できる。

ぼくはこういうフツーの情景とフツーの男女がいて、ちょっと非日常的な事態になったときに、意外としっかりとしてしまう的なストーリーはわりと好きで、この作品はそんな感じに仕上がっている。
   

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2010年03月04日

福島正則

自分の名前がどうやって付けられたかはずっと気になっていたが、なかなか親に面と向かって聞く機会がなくてそのままになっていた。そんなわけで、この歳になって改めて聞くのも照れくさかったのだが、先日ばあちゃんに問うてみた。

そうしたら、「どうだったかなあ、福島正則からかもしれない。もう忘れたよ」というつれない返事が返ってきた。もう少し、真剣に子どもの名前を付けてくれよなあと思ったが、そういえば自分の子供の名前をどうやって付けたかと言われると、確固たる理由を述べることができないので、しょうがないかと納得する。

中学生の頃、国語の先生に君の名前は昔のえらい武将と同じだねと言われたのを覚えていて、そんなこともあって、福島正則について何となく親近感をもっていた。とはいえ、その人がどんな人だったのかは、断片的にしか知っていなかった。

そこで、そのものずばりの「福島正則」(福尾猛市郎、藤本篤著 中公新書)を手にする。歴史学の師弟である二人の先生が書いた本で、福尾教授が残した遺稿を弟子である藤本氏が補遺したという。だから、史料を丹念に調べてその足跡を追った構成になっている。

だからということかもしれないが、はっきり言って面白くない。研究書としてならかくありなんと言えるが、新書で書くなら、もう少し人間的な側面に光をあてて表現してほしかった。事象的な事実の羅列ではなく、生身の人間としての生きざまのことである。

福島正則は、安土桃山時代から江戸初期にかけて活躍した武将で、小さい時から豊臣秀吉に仕え、後に広島藩主になった。この人物については諸説あるが、よくいわれるのは、不器用で武骨な武士というのと、同じようではあるが、一方で粗暴で残酷だったという説もある。まあ、旧主の恩顧を忘れず、あまり権謀を弄さない一途な性格だったようだ。

この時代というのは、関ヶ原の戦いもそうだが、東につくのか西につくのかといったように多くの大名は変節したり、背反したりした中では、異色だったようだ。だからこそ、いまの時代になっても評価されるのかもしれない。

歴史は繰り返すというか、人間の生きざまは古今東西変わらないものかもしれない。ぼくの親が、福島正則のいいところである誠実さと一途さを願って名前を与えたとしたら、はたしてぼくは親の期待に応える子どもになったのだろうか。
  

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2010年03月03日

Kailasの基礎理論-その4

Terry WinogradのLAP

このLAPと次のEnterprise Ontologyについては、このブログの記事でも書いたように、最近知った理論であって、ですから後付けもいいところです。しかし、これまでやってきたことと同じようなことを理論的に究明していた人がいたことに驚いたのです。

Kailasの発想はITを意識しないなかで業務の実相をそのままシステムに乗せたいところからきています。ですから、人間系の仕組みに注目するわけで、LAPやEnterprise Ontologyで言っている「ひとのつながりにも目配りするビジネスモデリング」と合通ずるのです。

さて、そのLAPですが、LAPとはLanguage/Action Perspectiveのことで、タンフォード大学のWinograd教授が唱えたものです。Winograd教授はもともと人工知能の研究で有名な先生でしたが、Fernardo Floresという人と出会ってから、このLAPにのめりこんだとのこと。

ただし、いまはそこから離れて、Human-Computer Interactionの方に行っているそうです。おそらく、LAPのようなことを研究していくと、ユーザインターフェースに行きつくような気もする。このへんはまた別途考えてみたいと思います。

前置きが長くなったが、所詮にわか勉強なので深いところが分からないが、LAPについては専修大学ネットワーク情報学部小林隆教授が詳しく説明してくれている。その肝のところは、新しい認知科学のアプローチであって、そこでは「認識を人間と環境との適合(カップリング)と考えよう」というところである。外部に適用するために行動することで、そうした行動をすることで認識が高まるというわけである。

そして、人間は言語を通じてカップリングする生き物で、うまく行くと(Happy Path)定型的な会話パターンとなる。ところが、そううまく行くことばかりではなく会話が破綻する(Breakdown)場合もあって、そこでは厳密な単語を使った話合いを行うのだが、そうしたことをできるだけ回避するように会話パターンを設計することが必要になる。

結局、「人間生活の基礎は、行為の調整であり、調整は言語によって行われ、言語は要求と約束にもとづく」ということになる。こうしたことを表現する最も分かりやすい図を下に掲げます。

LAP.bmp

この図を見ていると、Kailasでいう業務プロセスのパターン化と似ていることがわかると思います。Kailasでは依頼-依頼受付-単位意思決定(データ確定)-作業-報告・登録としていますが、これがHappy Pathで、Breakdownになると、(KailasはBreakdownに限らず)そこは関係者間のコミュニケーション(言語)によってその行為あるいはデータを確定していくことになります。

この考え方の根本は、「“人間を代行するコンピュータ”から“人間の道具としてのコンピュータ”へ方向転換する」ことにあります。」 これもかねてから、人間主体の業務システムを標榜していることにも通じることでもあります。
  

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